『浜名郡誌』によれば、現在の寺の名「龍泉寺」は慶長十九年(1614)徳川家康の命により改名したといいます。それ以前は洞巌山雲岩寺と号していたのです。明徳二年(1391)豊後国薦福寺(泉福寺)開山無著和尚の嫡子洞巌和尚が後ろの山に入り、石上に安座し、同四年近里の道俗協力して殿堂を建て、のち山を洞巌、寺を雲岩と称したのに始まったと伝えます。
雲岩寺所在の赤佐は無文師の開いた方広寺の開基奥山氏の祖赤佐氏の本拠で、所領をのちに奥山氏が継いでいます。そうすると、雲岩寺開創には二つの要因が考えられます。直接的には九州探題今川了俊あるいは養子仲秋の招請、もう一つは間接的ですが無文師の影響ということになります。寺 伝では如仲・無範等がその門に倚るといいます。如仲天誾は森町大洞院開山で、曹洞宗大本山総持寺の住持を二度勤めています。遠州入りが応永年間(1394~1428)で両者峨山紹碩の法孫にあたるので関係はあるでしょうが、このとき如仲はすでに師梅山聞本の印可を受けているので悟後の修養のためだったのでしょうか、確認はできません。
開山洞巌玄艦は豊後国泉福寺無着妙融に嗣法しました。泉福寺は永和元年(1375)田原氏能・南溟殊鵬母無伝仁公を開基として、豊後国国東郡に開いた寺です。無著妙融は日向国大慈寺剛中玄柔(臨済宗東福寺五十四世)によって得度し、のち紀伊興国寺孤峰覚明に参じます。孤峰覚明は臨済宗の僧ですが、曹洞宗能登永光寺峨山紹碩の信奉者で、南朝専一の人でした。帰郷のおり、曹洞宗本山総持寺無外円照に謁えて以来これに従い、ついに印信を得て無外の開いた皇徳寺を譲られます。肥前玉林寺・医王寺・豊後永泉寺・美作太平寺・筑前大聖寺等を開き開山初祖となります。明徳四年(1393)泉福寺に示寂します。寿六十一(六十とも)。遺骨は泉福・玉林二寺に分かったといいます。嗣法の者は洞巌玄艦を含め十六人、それぞれ両寺を一年ごとに輪住します。諸伝からは洞巌禅師は無著禅師三番目の弟子になると思います。
洞巌禅師の伝は詳細には伝わっていません。また洞巌禅師の遠州入りの年も定かではありません。『遠江国風土記伝』は明徳四年(1393)といいます。一方『弘化系譜伝』は師無著妙融が至徳元年(1384)秋鑰尼信濃守季高室無礙本了大姉が開基となり、佐賀県春日山に開創された太陽山玉林寺に招かれ開山初祖となりそこに住し、明徳三年(1392)九月下旬泉福寺に帰ったその間のこととします。玉林寺開創は『日域洞上諸祖伝』ほかでも「至徳の初め」とあります。無著妙融逝去が明徳四年八月十二日、それ以前に「洞巌玄鑒侍者」が遠州に赴くのを送るという偈頌を作っているので、これ以前のことであることは間違いのない話です。また泉福寺・玉林寺は一年ごとの輪番制で、洞巌玄鑑は応永元年(1394)秋に泉福寺住持を勤めています。応永十六年(1409)七月六日寂と伝えます。
嗣法の弟子は直伝玄賢・実庵融参二人のみ、あるいは大勢門慶三人とも、明江洪巌を加えて四人とも伝えます。ただ大勢門慶は玉応融堅の弟子です。いずれも法孫は存在しないといいます。また愛知県『豊田市史』は同市妙晶寺を開いた無染融了も洞巌禅師の法嗣の一人とします。
直伝賢と実庵参二人を両哲といい、直伝賢のみが遠州に残り二俣(浜松市浜北区)に栄林寺を開きます。また両者ともに僧伝が伝わっています。直伝賢は「重續日域洞上諸祖伝」第三に「栄林寺直伝賢禅師傳」、実庵参は「日域洞上聯燈録」巻第五「日州福聚寺実庵融参禅師」です。
それによると、直伝玄賢は勢州の人、由良興国寺で得度し、のち無著禅師が豊後泉福寺にて教化するを聞いて弟子となりました。しかし禅師が亡くなったため、その法嗣である洞巌禅師を雲岩寺に訪ね弟子となり、やがて印可を受けます。そして二俣村の静寂の地に庵(栄林寺)を構え、世間との交わりを絶ったと伝えます。ただ例外として親交のあったものは大洞院如仲と無範二人のみでした。応永二十年(1413)九月二十四日寂、寿九十八歳でした。
実庵参は日向の人、皇徳寺無著禅師によって得度し、諸国偏参のおり、洞巌禅師に会い弟子となりついにその法を継ぎました。応永年間(1394~1428)国に帰り福聚寺を創建しました。永享三年(1431)十一月十日寂。
(以上簡単にまとめましたが、詳しくは所載資料を参照してください)
「参考引用文献」
『浜名郡誌』
『佐賀県史料集成 古文書編』第五巻
『佐賀郡誌』
「日域洞上諸祖伝」(『大日本仏教全書』110)
「重續日域洞上諸祖伝(同上)蔵山良機編 享保二年(1717)成立
「日本洞上聯灯録」(同上)秀如編 寛保二年(1742)成立
雲岩寺所在の赤佐は無文師の開いた方広寺の開基奥山氏の祖赤佐氏の本拠で、所領をのちに奥山氏が継いでいます。そうすると、雲岩寺開創には二つの要因が考えられます。直接的には九州探題今川了俊あるいは養子仲秋の招請、もう一つは間接的ですが無文師の影響ということになります。寺 伝では如仲・無範等がその門に倚るといいます。如仲天誾は森町大洞院開山で、曹洞宗大本山総持寺の住持を二度勤めています。遠州入りが応永年間(1394~1428)で両者峨山紹碩の法孫にあたるので関係はあるでしょうが、このとき如仲はすでに師梅山聞本の印可を受けているので悟後の修養のためだったのでしょうか、確認はできません。
開山洞巌玄艦は豊後国泉福寺無着妙融に嗣法しました。泉福寺は永和元年(1375)田原氏能・南溟殊鵬母無伝仁公を開基として、豊後国国東郡に開いた寺です。無著妙融は日向国大慈寺剛中玄柔(臨済宗東福寺五十四世)によって得度し、のち紀伊興国寺孤峰覚明に参じます。孤峰覚明は臨済宗の僧ですが、曹洞宗能登永光寺峨山紹碩の信奉者で、南朝専一の人でした。帰郷のおり、曹洞宗本山総持寺無外円照に謁えて以来これに従い、ついに印信を得て無外の開いた皇徳寺を譲られます。肥前玉林寺・医王寺・豊後永泉寺・美作太平寺・筑前大聖寺等を開き開山初祖となります。明徳四年(1393)泉福寺に示寂します。寿六十一(六十とも)。遺骨は泉福・玉林二寺に分かったといいます。嗣法の者は洞巌玄艦を含め十六人、それぞれ両寺を一年ごとに輪住します。諸伝からは洞巌禅師は無著禅師三番目の弟子になると思います。
洞巌禅師の伝は詳細には伝わっていません。また洞巌禅師の遠州入りの年も定かではありません。『遠江国風土記伝』は明徳四年(1393)といいます。一方『弘化系譜伝』は師無著妙融が至徳元年(1384)秋鑰尼信濃守季高室無礙本了大姉が開基となり、佐賀県春日山に開創された太陽山玉林寺に招かれ開山初祖となりそこに住し、明徳三年(1392)九月下旬泉福寺に帰ったその間のこととします。玉林寺開創は『日域洞上諸祖伝』ほかでも「至徳の初め」とあります。無著妙融逝去が明徳四年八月十二日、それ以前に「洞巌玄鑒侍者」が遠州に赴くのを送るという偈頌を作っているので、これ以前のことであることは間違いのない話です。また泉福寺・玉林寺は一年ごとの輪番制で、洞巌玄鑑は応永元年(1394)秋に泉福寺住持を勤めています。応永十六年(1409)七月六日寂と伝えます。
嗣法の弟子は直伝玄賢・実庵融参二人のみ、あるいは大勢門慶三人とも、明江洪巌を加えて四人とも伝えます。ただ大勢門慶は玉応融堅の弟子です。いずれも法孫は存在しないといいます。また愛知県『豊田市史』は同市妙晶寺を開いた無染融了も洞巌禅師の法嗣の一人とします。
直伝賢と実庵参二人を両哲といい、直伝賢のみが遠州に残り二俣(浜松市浜北区)に栄林寺を開きます。また両者ともに僧伝が伝わっています。直伝賢は「重續日域洞上諸祖伝」第三に「栄林寺直伝賢禅師傳」、実庵参は「日域洞上聯燈録」巻第五「日州福聚寺実庵融参禅師」です。
それによると、直伝玄賢は勢州の人、由良興国寺で得度し、のち無著禅師が豊後泉福寺にて教化するを聞いて弟子となりました。しかし禅師が亡くなったため、その法嗣である洞巌禅師を雲岩寺に訪ね弟子となり、やがて印可を受けます。そして二俣村の静寂の地に庵(栄林寺)を構え、世間との交わりを絶ったと伝えます。ただ例外として親交のあったものは大洞院如仲と無範二人のみでした。応永二十年(1413)九月二十四日寂、寿九十八歳でした。
実庵参は日向の人、皇徳寺無著禅師によって得度し、諸国偏参のおり、洞巌禅師に会い弟子となりついにその法を継ぎました。応永年間(1394~1428)国に帰り福聚寺を創建しました。永享三年(1431)十一月十日寂。
(以上簡単にまとめましたが、詳しくは所載資料を参照してください)
「参考引用文献」
『浜名郡誌』
『佐賀県史料集成 古文書編』第五巻
『佐賀郡誌』
「日域洞上諸祖伝」(『大日本仏教全書』110)
「重續日域洞上諸祖伝(同上)蔵山良機編 享保二年(1717)成立
「日本洞上聯灯録」(同上)秀如編 寛保二年(1742)成立