浜松市北区井伊谷所在の八幡宮は龍潭寺と渭伊神社との関係を抜きに語ることはできません。
渭伊神社の由緒を記す案内板は『井伊谷村誌』を引き八幡宮の現在地への移遷が江戸時代の享保年間(1716~36)あるいは南北朝期と言います。後者は全く根拠のない憶説で、前者は間違ってはいますが史料の読み違いによるものです。
辰巳和弘氏は平凡社版『日本の地名 静岡県』における「渭伊神社」の項の説明が誤りであって、事実は逆であると断言されました。簡単に説明しておくとこの項には、現龍潭寺の地にあった井伊氏の氏神である「八幡宮」が、享禄のころもともと現在地に鎮座していた「渭伊神社」の地に移遷してきて、同じ地に両社が祀られたため、のちに混同されて「渭伊八幡宮」と呼ばれるようになったというものです。これに引用されたのは、幕末明治に生きた山本金木の「井伊八幡宮御遷座記・龍潭寺建立記」で、それには「十二代将軍足利義晴代の享禄(1528~32)、天文初メ(1532)ころ八幡宮を殿村(現神宮寺)の薬師山に遷座成シ奉りぬ」と書き、さらにこれに関する頭注で「渭伊神社ハ此時遷座にアラズ。往古ヨリ今ノ社地ナルベシ」とし、確かに現在地に鎮座する「渭伊神社」の地に八幡宮が移ったと書いてあります。これを踏まえたうえで、遷座した八幡宮が「延喜年代已前に此井伊谷に勧請」されたと説明しますが、これは前後の文脈から明らかに遷座地にもともとあった式内渭伊神社のことを指していることは明らかです。神道家である金木が間違えるはずはないのです。
この文の後註によれば、山本金木は文政九年(1826)雄踏宇布見の金山彦神社神主賀茂日向の長男として生まれ、十五歳で渭伊神社(八幡宮)神主家を相続しました。ただ父親はもともと井伊谷山本家が生家であり、渭伊神社三代前の筑前代に神道統率の大元京都吉田家から遠江国神祇示諭方に任じられ、豊前・大隅(金木)と歴代務めました。山本家そのものは以前から神宮寺村に住み、寛政年間(1789~1801)には既に渭伊八幡宮神主を務めるなど地元の旧家です。このことはあとに書くことと関係するので覚えておいてください。また渭伊神社と八幡宮に関しては井伊谷には中井家古文書群があり、古くは元和元年(1615)から貞享元年(1684)までの『中井家日記』から、幕末に古文書・古伝承の類をまとめた『礎石伝』など多数残っています。中井家は井伊氏庶流で初代田中直家は南北朝時代の人です。以下元禄十六年(1703)没の中井直閭まで十六代、以降も連綿と代を重ねて現在に至っています。さらに以上の二つの家系は神道家であり、延喜式神名帳に関しても当然知っており、両氏が「八幡宮」と言う場合、渭伊神社と八幡宮の二重の意味を持っています。
享録・天文初め説については、『井伊氏・龍潭寺関連年表』(龍潭寺出版)が「龍潭寺文書」「平井家文書」を引いて、龍潭寺開山黙宗和尚招聘によりその前身龍泰寺造営が成ったのは天文元年(享禄五年)で、その前年享禄四年に八幡宮を殿村(神宮寺村)に移したとします。しかし同『年表』は明応年中(1492~1501)三ヶ日凌苔庵文叔瑞郁を井伊直平が自浄院に招き、そこに黙宗が参じたと書いていますが、文叔和尚は凌苔庵には来ていませんし、(このブログ「凌苔庵」参照)天文元年に龍泰寺開創というのも疑問です。というのも、『開山黙宗大和尚行実』によれば、師文叔が天文三年(1534)妙心寺に出世(奉勅)し、その後同年信州松源寺帰山にしたのに従い、翌年文叔逝去により遠州に戻り、佐久間浦川村(浜松市天竜区)に東福寺を開き、郷里奥山正法寺(方広寺末)に戻りました。そこで井伊直盛の請を受け自浄院に移り,のち万松山龍泰寺を建てて黙宗和尚を開山としたとあり、そうであれば龍泰寺造建と八幡宮移建がリンクするとすれば、享禄・天文初年説は成立しないことになります。
また中井家文書の中には、八幡宮が八幡山と呼ばれていた現龍潭寺境内の地にあって、所伝に永正年中(1504~21)薬師山(現渭伊神社)遷宮について書かれてはいますが、渭伊神社がもともと現在地にあったかどうかについては触れていません。このことは井伊谷の古い家系では確かな記録は残っていなかったのですが、口伝として中井・山本家に伝わっており、両家の記憶の中に十六世紀前半に現龍潭寺の地にあった「八幡宮」が神宮寺村の現渭伊神社の地に移ったことが残っていたのだと思います。
もうひとつよく知られた古文書には江戸時代中期の龍潭寺住職祖山和尚著『井伊家伝記』があります。祖山和尚自身は正徳元年(1714)「八幡宮只今の所へ引移候」とし、これが「神宮寺八幡宮」と書いているので、ことの成否は考える余地はありますが、少なくとも享保説は成立しません。たぶん享保十五庚戌(1730)正月井伊直惟の江戸屋敷の居間に八幡宮勧請、あるいは正徳四年(1718)松山(龍潭寺)八幡宮を初めて建立し八月十五日遷宮とあり、享保元年二年前ですので、どちらかの事実の取り違えではないかと思います。
ただ「渭伊神社」というとき考えておかなければならないのは、本当にこの名称が古代以来持続的に実在の神社として使用されていたかどうかです。その存在が江戸時代には不明で、論社であるわけですから中世に遡ればこの名の神社は存在せず、壊退したか、あるいは別の名称であった可能性は十分あります。ここでは便宜上「渭伊神社」と呼んでいます。
確実な資料としては、まず間接的ですが「遠州渋川古跡事」記載「阿弥陀如来伝記」(東光禅院伝)から述べていきます。この阿弥陀如来は井伊氏祖共資の時代に、細江湖中で夜間光を放っていたのを拾いあげたものと伝えます。そして井伊八幡宮社中に安置されていたのを、応永年中(1394~1428)「井伊匠作藤原直秀」霊夢を感じ、渋川に一宇を建てて勧請したといいます。この話を証明するかのように、その八幡宮棟札に「応永三十一年(1414)霜月十三日 奉修造八幡宮 本地阿弥陀如来 藤原直貞法井道賢」とあり、さらに同所万福寺の応永三丙子年(1396)三月八日紀年銘棟札に「大檀那井伊之匠作藤原直秀」、応永三十二乙巳年(1425)紀年銘棟札に「大檀那井伊之次郎直貞法名宗有之孫修理亮直秀法名法井之子息五郎直幸同於寿丸」とあり、少なくともこの八幡宮が応永以前に勧請されたのは間違いありません。ただこの話の共資の時代云々というのは後世付け加えられたものでしょう。ということで、井伊八幡宮の勧請が南北朝・鎌倉時代に遡る可能性が高いと考えられます。ここに井伊共資代にすでに八幡宮があったかのように書かれていますが、これは応永年代以前、勧請の年が不明だけれども、はるか昔であるよと語るための手段にすぎません。ここで重要なのは、八幡宮の本地が阿弥陀如来とされていることです。
一般的に言って、天応元年(781)朝廷より「八幡大菩薩」号を贈られて以来、中近世を通じてこの呼称が用いられています。阿弥陀如来を本地とする文献上の初見は、大江匡房が天永二年(1111)に完成させた『続本朝往生伝』です。往生者の多くが天台系、特に横川の関係者です。この著書により諸国八幡宮において念仏信仰が盛んになりました。また八幡太郎源義家祖父源頼信が石清水八幡宮を源氏の氏神としました。義家父源頼義が鎌倉の平直方の娘婿となり、所領を譲られたとき、石清水八幡宮を鎌倉に勧請しました。そののち源頼朝が鎌倉に幕府を開き、その由比郷にあった先の八幡宮を小林郷に移し「鶴岡八幡新宮若宮」としたのですが、建久二年(1192)社殿が焼失したのを機に、改めて石清水八幡大菩薩を勧請したのが現在の地です。朝廷の権威を背負い、所領・武門の守護神であり、寺院の仏法守護の鎮守であったこの神を、鎌倉御家人たちが自らの所領の氏神・鎮守として勧請し全国に広まっていったのです。
井伊氏も鎌倉御家人でしたので、おそらくこの時代に井伊八幡宮は勧請されたのでしょう。
八幡宮は中世、産神信仰と習合します。脇田晴子氏は神功皇后伝説が、蒙古襲来以来『八幡愚童訓』などにより、国粋主義的風潮のなかで注目され、応神天皇出産伝説にしたがい産神としても脚光を浴び、「各在地にある名もない産神が、神功皇后という皇室祖先神と習合するという現象が顕著になってくる」と述べています。『八幡愚童訓』は文永・弘安の役に関する叙述があり、したがってその成立はそれ以後となります。十四世紀初頭石清水八幡宮社僧により書かれたとも、室町時代吉田兼倶が書いたともいわれています。
さらに、八幡本地が阿弥陀如来ということで、念仏および死者供養の聖が住んでいた可能性もあります。死者供養の仏が地蔵で、その地蔵は、渡浩一によれば、日本固有の童子観念や童子神信仰と習合した結果、子どもの姿で化現することもある菩薩です。また子どもは「霊託の媒介者とするシャーマニズム的観念は日本に古来根強い」とし、それゆえ、「他界と現世の両義的存在」であり、地蔵もそうです。この地蔵を本尊とする地蔵寺が、八幡宮の「御手洗の井」を管掌するのは、「井」もまた、この世とあの世を結ぶものだからです。つまり産神信仰と阿弥陀信仰による浄土への希求により、産神である八幡宮の井から、すなわち他界から子を、地蔵が現世に湧出させたのです。その祭りは「産粥神事」といわれますが、もともと「管粥神事」という稲の豊作・不作を占うもので、修験的色彩の濃い神事です。方広寺以前はこの地域は修験色の強い仏教が主力でした。
ついでに言うと、井伊八幡神は境界神で、この地はムラの出口であり、それゆえ他界の入り口にあたり、もしかしたら中世後期には、子どもの亡霊の彷徨う賽の河原であったかもしれません。
『井伊氏伝記』ですが、この本はかなり誤った箇所が多く、信用できない部分も多々あります。
例えば「八幡宮」が延喜式に載っているという場合、これは「渭伊神社」のことではなくそのものを指しています。また醍醐帝の時代に全国六十四州の神々を京都吉田神社に祀ったとしますが、これは室町時代に唯一神道を創出した吉田兼倶が作った大元社のことで、延喜式とは無関係です。つまり祖山和尚は神祇にはあまり明るくなかったということです。
さて「井伊谷八幡宮」はおそらく鎌倉時代、井伊氏が御家人となったころに勧請され、その後「八幡宮」の性格から「井伊共保出誕」伝承が創作されました。この八幡宮勧請のころにはすでに「渭伊神社」は所在不明となっていて、ただその本地薬師如来の名のみ残り、それゆえ鎌倉時代にも祭祀が行われていたのです。つまりこれが現正八幡宮の地であり、渭伊神社の地であったのです。いつのころか天伯神という流行神がその地に祀られましたが、この神は磐座に天下ったというイメージだったのでしょう。すなわち「渭伊神社」という名称はなかったのですが、その遺跡は存在し続けたのです。これがおそらく江戸時代に入って「神名帳」の重視により「渭伊神社」として復活したのです。したがって、たとえ享禄年間に現龍潭寺の地から移遷されたとしても、薬師山あるいは天白神社の地に移されたのであって、「渭伊神社」ではなかったのです。
ただ言っておかなければならないのは龍潭寺移建のために、渭伊神社の地に勧請されていた八幡宮を殿村の現在地に移したという、八幡宮が龍潭寺の場所にあったという説です。八幡宮に十一世紀の共保の伝承が付属するのは、そもそも八幡宮以前にこの地に有力な神が存在しなかったからです。しかも「御手洗の井」は天皇・貴人にかかわる「御井」でなく「御手洗」にすぎず、あるいは周辺の田を潤すための井料が寄進されたのも戦国時代のことです。この「井」がそうした井伊氏祖先伝承に関わってくるのは比較的新しい時代だといえるでしょう。長い年月にわたる豊富な祭祀遺物を出した遺跡とわずかに奈良時代の陶馬が採集された遺跡のどちらが神祭りの場であるかは明白です。
参考文献:『湖の雄 井伊氏』辰巳和弘・小和田哲男・ 鈴木和紀 著 公益法人 静岡県文化財団 二〇一四年
「出雲風土記について」『風土記と万葉集』所収 吉川弘文館
渭伊神社の由緒を記す案内板は『井伊谷村誌』を引き八幡宮の現在地への移遷が江戸時代の享保年間(1716~36)あるいは南北朝期と言います。後者は全く根拠のない憶説で、前者は間違ってはいますが史料の読み違いによるものです。
辰巳和弘氏は平凡社版『日本の地名 静岡県』における「渭伊神社」の項の説明が誤りであって、事実は逆であると断言されました。簡単に説明しておくとこの項には、現龍潭寺の地にあった井伊氏の氏神である「八幡宮」が、享禄のころもともと現在地に鎮座していた「渭伊神社」の地に移遷してきて、同じ地に両社が祀られたため、のちに混同されて「渭伊八幡宮」と呼ばれるようになったというものです。これに引用されたのは、幕末明治に生きた山本金木の「井伊八幡宮御遷座記・龍潭寺建立記」で、それには「十二代将軍足利義晴代の享禄(1528~32)、天文初メ(1532)ころ八幡宮を殿村(現神宮寺)の薬師山に遷座成シ奉りぬ」と書き、さらにこれに関する頭注で「渭伊神社ハ此時遷座にアラズ。往古ヨリ今ノ社地ナルベシ」とし、確かに現在地に鎮座する「渭伊神社」の地に八幡宮が移ったと書いてあります。これを踏まえたうえで、遷座した八幡宮が「延喜年代已前に此井伊谷に勧請」されたと説明しますが、これは前後の文脈から明らかに遷座地にもともとあった式内渭伊神社のことを指していることは明らかです。神道家である金木が間違えるはずはないのです。
この文の後註によれば、山本金木は文政九年(1826)雄踏宇布見の金山彦神社神主賀茂日向の長男として生まれ、十五歳で渭伊神社(八幡宮)神主家を相続しました。ただ父親はもともと井伊谷山本家が生家であり、渭伊神社三代前の筑前代に神道統率の大元京都吉田家から遠江国神祇示諭方に任じられ、豊前・大隅(金木)と歴代務めました。山本家そのものは以前から神宮寺村に住み、寛政年間(1789~1801)には既に渭伊八幡宮神主を務めるなど地元の旧家です。このことはあとに書くことと関係するので覚えておいてください。また渭伊神社と八幡宮に関しては井伊谷には中井家古文書群があり、古くは元和元年(1615)から貞享元年(1684)までの『中井家日記』から、幕末に古文書・古伝承の類をまとめた『礎石伝』など多数残っています。中井家は井伊氏庶流で初代田中直家は南北朝時代の人です。以下元禄十六年(1703)没の中井直閭まで十六代、以降も連綿と代を重ねて現在に至っています。さらに以上の二つの家系は神道家であり、延喜式神名帳に関しても当然知っており、両氏が「八幡宮」と言う場合、渭伊神社と八幡宮の二重の意味を持っています。
享録・天文初め説については、『井伊氏・龍潭寺関連年表』(龍潭寺出版)が「龍潭寺文書」「平井家文書」を引いて、龍潭寺開山黙宗和尚招聘によりその前身龍泰寺造営が成ったのは天文元年(享禄五年)で、その前年享禄四年に八幡宮を殿村(神宮寺村)に移したとします。しかし同『年表』は明応年中(1492~1501)三ヶ日凌苔庵文叔瑞郁を井伊直平が自浄院に招き、そこに黙宗が参じたと書いていますが、文叔和尚は凌苔庵には来ていませんし、(このブログ「凌苔庵」参照)天文元年に龍泰寺開創というのも疑問です。というのも、『開山黙宗大和尚行実』によれば、師文叔が天文三年(1534)妙心寺に出世(奉勅)し、その後同年信州松源寺帰山にしたのに従い、翌年文叔逝去により遠州に戻り、佐久間浦川村(浜松市天竜区)に東福寺を開き、郷里奥山正法寺(方広寺末)に戻りました。そこで井伊直盛の請を受け自浄院に移り,のち万松山龍泰寺を建てて黙宗和尚を開山としたとあり、そうであれば龍泰寺造建と八幡宮移建がリンクするとすれば、享禄・天文初年説は成立しないことになります。
また中井家文書の中には、八幡宮が八幡山と呼ばれていた現龍潭寺境内の地にあって、所伝に永正年中(1504~21)薬師山(現渭伊神社)遷宮について書かれてはいますが、渭伊神社がもともと現在地にあったかどうかについては触れていません。このことは井伊谷の古い家系では確かな記録は残っていなかったのですが、口伝として中井・山本家に伝わっており、両家の記憶の中に十六世紀前半に現龍潭寺の地にあった「八幡宮」が神宮寺村の現渭伊神社の地に移ったことが残っていたのだと思います。
もうひとつよく知られた古文書には江戸時代中期の龍潭寺住職祖山和尚著『井伊家伝記』があります。祖山和尚自身は正徳元年(1714)「八幡宮只今の所へ引移候」とし、これが「神宮寺八幡宮」と書いているので、ことの成否は考える余地はありますが、少なくとも享保説は成立しません。たぶん享保十五庚戌(1730)正月井伊直惟の江戸屋敷の居間に八幡宮勧請、あるいは正徳四年(1718)松山(龍潭寺)八幡宮を初めて建立し八月十五日遷宮とあり、享保元年二年前ですので、どちらかの事実の取り違えではないかと思います。
ただ「渭伊神社」というとき考えておかなければならないのは、本当にこの名称が古代以来持続的に実在の神社として使用されていたかどうかです。その存在が江戸時代には不明で、論社であるわけですから中世に遡ればこの名の神社は存在せず、壊退したか、あるいは別の名称であった可能性は十分あります。ここでは便宜上「渭伊神社」と呼んでいます。
確実な資料としては、まず間接的ですが「遠州渋川古跡事」記載「阿弥陀如来伝記」(東光禅院伝)から述べていきます。この阿弥陀如来は井伊氏祖共資の時代に、細江湖中で夜間光を放っていたのを拾いあげたものと伝えます。そして井伊八幡宮社中に安置されていたのを、応永年中(1394~1428)「井伊匠作藤原直秀」霊夢を感じ、渋川に一宇を建てて勧請したといいます。この話を証明するかのように、その八幡宮棟札に「応永三十一年(1414)霜月十三日 奉修造八幡宮 本地阿弥陀如来 藤原直貞法井道賢」とあり、さらに同所万福寺の応永三丙子年(1396)三月八日紀年銘棟札に「大檀那井伊之匠作藤原直秀」、応永三十二乙巳年(1425)紀年銘棟札に「大檀那井伊之次郎直貞法名宗有之孫修理亮直秀法名法井之子息五郎直幸同於寿丸」とあり、少なくともこの八幡宮が応永以前に勧請されたのは間違いありません。ただこの話の共資の時代云々というのは後世付け加えられたものでしょう。ということで、井伊八幡宮の勧請が南北朝・鎌倉時代に遡る可能性が高いと考えられます。ここに井伊共資代にすでに八幡宮があったかのように書かれていますが、これは応永年代以前、勧請の年が不明だけれども、はるか昔であるよと語るための手段にすぎません。ここで重要なのは、八幡宮の本地が阿弥陀如来とされていることです。
一般的に言って、天応元年(781)朝廷より「八幡大菩薩」号を贈られて以来、中近世を通じてこの呼称が用いられています。阿弥陀如来を本地とする文献上の初見は、大江匡房が天永二年(1111)に完成させた『続本朝往生伝』です。往生者の多くが天台系、特に横川の関係者です。この著書により諸国八幡宮において念仏信仰が盛んになりました。また八幡太郎源義家祖父源頼信が石清水八幡宮を源氏の氏神としました。義家父源頼義が鎌倉の平直方の娘婿となり、所領を譲られたとき、石清水八幡宮を鎌倉に勧請しました。そののち源頼朝が鎌倉に幕府を開き、その由比郷にあった先の八幡宮を小林郷に移し「鶴岡八幡新宮若宮」としたのですが、建久二年(1192)社殿が焼失したのを機に、改めて石清水八幡大菩薩を勧請したのが現在の地です。朝廷の権威を背負い、所領・武門の守護神であり、寺院の仏法守護の鎮守であったこの神を、鎌倉御家人たちが自らの所領の氏神・鎮守として勧請し全国に広まっていったのです。
井伊氏も鎌倉御家人でしたので、おそらくこの時代に井伊八幡宮は勧請されたのでしょう。
八幡宮は中世、産神信仰と習合します。脇田晴子氏は神功皇后伝説が、蒙古襲来以来『八幡愚童訓』などにより、国粋主義的風潮のなかで注目され、応神天皇出産伝説にしたがい産神としても脚光を浴び、「各在地にある名もない産神が、神功皇后という皇室祖先神と習合するという現象が顕著になってくる」と述べています。『八幡愚童訓』は文永・弘安の役に関する叙述があり、したがってその成立はそれ以後となります。十四世紀初頭石清水八幡宮社僧により書かれたとも、室町時代吉田兼倶が書いたともいわれています。
さらに、八幡本地が阿弥陀如来ということで、念仏および死者供養の聖が住んでいた可能性もあります。死者供養の仏が地蔵で、その地蔵は、渡浩一によれば、日本固有の童子観念や童子神信仰と習合した結果、子どもの姿で化現することもある菩薩です。また子どもは「霊託の媒介者とするシャーマニズム的観念は日本に古来根強い」とし、それゆえ、「他界と現世の両義的存在」であり、地蔵もそうです。この地蔵を本尊とする地蔵寺が、八幡宮の「御手洗の井」を管掌するのは、「井」もまた、この世とあの世を結ぶものだからです。つまり産神信仰と阿弥陀信仰による浄土への希求により、産神である八幡宮の井から、すなわち他界から子を、地蔵が現世に湧出させたのです。その祭りは「産粥神事」といわれますが、もともと「管粥神事」という稲の豊作・不作を占うもので、修験的色彩の濃い神事です。方広寺以前はこの地域は修験色の強い仏教が主力でした。
ついでに言うと、井伊八幡神は境界神で、この地はムラの出口であり、それゆえ他界の入り口にあたり、もしかしたら中世後期には、子どもの亡霊の彷徨う賽の河原であったかもしれません。
『井伊氏伝記』ですが、この本はかなり誤った箇所が多く、信用できない部分も多々あります。
例えば「八幡宮」が延喜式に載っているという場合、これは「渭伊神社」のことではなくそのものを指しています。また醍醐帝の時代に全国六十四州の神々を京都吉田神社に祀ったとしますが、これは室町時代に唯一神道を創出した吉田兼倶が作った大元社のことで、延喜式とは無関係です。つまり祖山和尚は神祇にはあまり明るくなかったということです。
さて「井伊谷八幡宮」はおそらく鎌倉時代、井伊氏が御家人となったころに勧請され、その後「八幡宮」の性格から「井伊共保出誕」伝承が創作されました。この八幡宮勧請のころにはすでに「渭伊神社」は所在不明となっていて、ただその本地薬師如来の名のみ残り、それゆえ鎌倉時代にも祭祀が行われていたのです。つまりこれが現正八幡宮の地であり、渭伊神社の地であったのです。いつのころか天伯神という流行神がその地に祀られましたが、この神は磐座に天下ったというイメージだったのでしょう。すなわち「渭伊神社」という名称はなかったのですが、その遺跡は存在し続けたのです。これがおそらく江戸時代に入って「神名帳」の重視により「渭伊神社」として復活したのです。したがって、たとえ享禄年間に現龍潭寺の地から移遷されたとしても、薬師山あるいは天白神社の地に移されたのであって、「渭伊神社」ではなかったのです。
ただ言っておかなければならないのは龍潭寺移建のために、渭伊神社の地に勧請されていた八幡宮を殿村の現在地に移したという、八幡宮が龍潭寺の場所にあったという説です。八幡宮に十一世紀の共保の伝承が付属するのは、そもそも八幡宮以前にこの地に有力な神が存在しなかったからです。しかも「御手洗の井」は天皇・貴人にかかわる「御井」でなく「御手洗」にすぎず、あるいは周辺の田を潤すための井料が寄進されたのも戦国時代のことです。この「井」がそうした井伊氏祖先伝承に関わってくるのは比較的新しい時代だといえるでしょう。長い年月にわたる豊富な祭祀遺物を出した遺跡とわずかに奈良時代の陶馬が採集された遺跡のどちらが神祭りの場であるかは明白です。
参考文献:『湖の雄 井伊氏』辰巳和弘・小和田哲男・ 鈴木和紀 著 公益法人 静岡県文化財団 二〇一四年
「出雲風土記について」『風土記と万葉集』所収 吉川弘文館
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