奥浜名湖の歴史をちょっと考えて見た

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初生衣神社(2)ー御衣祭

2023-01-20 21:22:14 | 郷土史
天長十年(826)編纂『令義解』、貞観十年(868)ころ編纂とされる『令集解』など養老令の注釈書に、孟夏(陰暦四月)・季秋(陰暦九月)「神衣祭」が記載されています。前者に「謂伊勢神宮祭也。此神服部等、斎戒潔清、以参河赤引神調糸、織ーー作神衣、。又麻績連等、積麻以織敷和衣、以供神明、故曰神衣。」(後者ほぼ同じ)とあり、三河の赤引糸を用い神服部が神衣を織り、神に供えるという形が古くからあったことがわかります。奉祭対象は皇大神宮(内宮)と内宮別宮荒祭宮で、外宮は対象ではありません。それぞれ和妙(絹織物)と荒妙(麻織物)供進します。奉織は神服織機殿および神麻続機殿で行われます。
竹内雅之「神衣奉献の意義」ではこの記事を注釈とし、『日本書紀』持統六年(692)閏五月丁未(十三日)条「伊勢大神奏天皇曰、免伊勢国今年調役。然応輸其二神郡赤引糸参拾伍斤」から、「もともと両神郡(注筆者ー渡会・多気郡)からのみ献上」したのです。『令義解』編纂時の九世紀初めころまでには「参河赤引糸」が使用されるようになったと考えられまがす。
 その後神事違例の記事も十一世紀中には散見されるようになり、嘉応二年(1170)八月二十七日「左弁官下伊勢大宮司」に神服織殿神部等が同機殿および麻績機殿印について述べています。そこで「縦雖中絶、任式条以三河国神調赤引御糸、可彼奉織神御衣由所言上也」とし、さらに神服織機殿神部等解に奉織の由緒を祖先に遡って述べ、「以三河赤引糸奉織之由、寛治両度之宣旨、又以明白也」と十一世紀末ころの宣旨を証拠文書とすることから、このころ以降中絶の危機があったと考えられます。鎌倉時代初期ころまでの記事を十三世紀初期編纂『神宮雑例集』に神服麻続両機殿が記載されています。「建久三年(1192)皇大神宮年中行事」は、のち藤波氏経(1402~1487)が加筆しているので、引き続き神事は行われていたでしょう。
 その後、「氏経卿引付」所載享徳二年(1453)正月廿六日付で大内人正六位上荒木田神主行久が、内宮一禰宜荒木田経見の書状に「依御機殿荒廃、奉織御衣事不可叶」とあり、また「惣官旧記」に「(応仁)乱後、神事等悉退転間」とあるように、神衣神事そのものも十五世紀中頃以降中絶してしまったのです。(宝徳三年<1451>中絶の記録あり)
 その後豊臣秀吉の時代に両機殿は再建されます。そして、神御衣祭が元禄十二年(1699)に復活しますが、もはや服部・麻続部は形式的で、異姓の村の者、禰宜。祝部が代行し、織女など伝統的奉織者も存在していないのです。辞典によると、享保三年(1718)津藩主藤堂高敏が両機殿修理したりしています。奉織も戦国時代中絶し、やっと再興なったのは大正三年(1914)です。
 
『三河国八名郡誌』は明治十八年(1885)同郡大野村鈴木伝右衛門家にて生糸を制作し、初生衣神社神服部氏、俗に神目代また神目太夫家にて和妙に織り豊橋安久美神明宮神主により神宮に奉献したという記事を載せています。これも中断し、前掲「神衣奉献の意義」は、その安久美神明宮から神宮への奉献は昭和二十四年、初生衣神社から安久美神明宮への奉納は昭和四十三年に復興したといいます。そのほか、「オンゾ」祭について愛知県稲武町において廃絶したが過去存在した記事、渥美郡伊良湖神社でも「神衣祭」の存在と、その伊勢神宮での祭日には織機に上らず把針もしない習俗を引いています。こうした習俗は伊勢神宮門前町でも同日行われます。
 
<参考文献>
竹内雅之 「神衣奉献の意義」 『明治聖徳記念学会紀要[復刊第52号」』平成27年11月(デジタル版によった)
鈴木宇良安編『八名郡誌』大正十五年、昭和三十一年鈴木重安改訂 国書刊行会復刻版

初生衣神社(1 )のⅰー創建と御衣祭、浜松市北区三ヶ日町

2023-01-16 21:31:08 | 郷土史
浜松市北区三ヶ日町岡本にある神社である初生衣神社は祭神天棚ばた姫命です。
 高橋祐吉著『浜名史論』が述べるように、当社伝承の由来は「殆ど不信のもので恐く室町末期から江戸期に於いて」偽作されたものです。しかし「本社の社歴はこの疑問の記録文書に記載せられてあるより以上にその創始年代は古くその由緒は深嚴なるものがあると考えられる」と続けて述べているように、土地にまつわる歴史は確かに古いのですが、初生衣神社としての歴史は結構新しいものと考えられます。
 この神社社殿のすぐ側の字楠木遺跡から奈良時代の寺院瓦や同時代の祭祀具である土馬などが出土しています。鎌倉時代にはこの神社の真北に大福寺が創建されたように、確かに古い由緒のある土地ですが、この神社とは直接関係ありません。平安時代の十世紀康保四年(967)施行の「延喜式」記載の英多神社はこの地にあったと考えられ、その後十一世紀後半には開発領主大中臣氏の入部があり、おそらくここに居を構えたと思われます。この子孫が神戸司を代々受け継ぐようになるので、この岡本の屋敷が最初の政所でした。この地の神明宮がいつ頃勧請されたかはわかりませんが、御厨御園成立の十一世紀後半以後でしょう。

 さて初生衣神社と御衣祭はその歴史に深く関わっているのでそれを見ていきましょう。

明治時代に書かれた「初生衣神社取調明細書案」によると「往古は斎宮と稱したりしが后初生衣神社と云ふ」とありますが、これは『日本書紀』垂仁天皇二五年三月条に倭姫が伊勢国に天照大神を鎮めるために五十鈴の川上に斎宮を興つという伝説によっています。倭姫命が天照大神の鎮座地を求め巡行する中に「浜名」が出てきてその国の国造が土地を寄進したという話に因んでいるのです。しかし、延暦両儀式帳には「遠江国」巡行は未記載で、平安後期延久元年(1069)までの記事を載せる『大神宮諸雑事記』が文献上の初見となり、鎌倉時代の『倭姫命世記』に引き継がれます。斎宮とは天皇の皇女のうちから選ばれた斎王が伊勢に下向して神宮につかえるための御所のことです。おそらく、平安時代中後期に倭姫命巡行を拡張したのであり、したがって斎王の巡行もないのに斎宮が存在するわけがありません。斎宮を祀るブームはむしろ近世になってからです。つまりのちの付会の説に基づき比較的新しい時代に入って祀られたのでしょう。そして神仏習合の影響により「斎宮堂」と称したのです。
 高橋氏のいう古文書の偽作については、たとえば永禄元年(1558)八月付牧野右馬允成定の寄進状に「岡本村ノ内五町八反」寄附とあり、その対象が伊勢内宮初生衣領並びに「羽槌社・英多社・磐長社」の三神とされています。このとき牧野成定は三河国宝飯郡牛久保城主であり、今川義元の命で五カ年の年限で吉良氏の西尾城守将でした。それゆえ、おそらく偽文書だと推測されますが、先の三神は同地岡本八幡宮境内社でもあります。ところが、「明和八年(1771)岡本村指出銘細帳」には記載されていません。この神社には元和四年(1618)十一月再建棟札があのでさらに創始は遡るでしょうが、先の三祭神は明治以降地区に独立して祀ってあったのを合祀したのでしょう。英多社の勧請はおそらく近世に入ってからでしょう。磐長社の磐長姫は大山積神の娘で不老長寿の神として信仰され、妹の木花之佐久夜姫とともに浅間神社によく祀られています。羽槌社は天羽槌雄神を祀り、文布(あや)または倭文布(しどり)ともいう織物の神、機織の神として信仰され天岩戸伝説に関わる神です。したがって、磐長社は別の場所に祀られていたのですが、三社のなかでは最も古く、のちには初生衣神社に関係するような神でしょう。

またほかに古来初生衣神社は服部殿とも呼ばれ、その創始が平安時代に遡るという説があります。
『朝野群載』承暦四年(1080)六月十日神祇官謹奏において、尾奈御厨を収公する際、国司源基清が浜名本神戸田を刈り加えたため、神戸等が穢れ、本・新神戸および同宮御領服織殿を清祓したといいます。こう見ると、いかにもこの同宮御領「服織殿」が三ヶ日の地にあったかのように錯覚しがちです。しかし、この「服織殿」は現在の初生衣神社のことではありません。
 第一に問題は「本神戸田」の刈加えで、神宮はこれを神宮の神に対する罪であり、よって神罰は神戸全体に及ぶと考えたのです。『神鳳抄』に調として織御衣・生絹各一疋(疋は反物の単位)などが御綿とともに納められているので、布帛を織っていたでしょうが、「服織殿」ではなかったでしょう。「服織殿」は服織氏が神御衣を織る伊勢国の八尋殿(鎮守が神服織機殿神社)を指します。『朝野群載』康和五年(1130)六月十日条にも「坐伊勢国太神宮御領」「(服イ)部殿」があり、神宮にとっての「服織殿」はこれを指します。
 近世初生衣神社神主家は「神目代」を名乗り、倭姫巡行時国造貢進の浜名神戸以来代々「神目代」を勤めたといいます。ただ承元三年(1209)以前は不明だが、その年以来三代にして「神服部ヲ大中臣ニ継是ヨリ當代迄三十一代相成候」(明治三年神目代貢神社取調明細書上帳写)とあります。承元三年は大中臣時定の大福寺寄進状の年です。時定の先祖は伊勢神宮大宮司に発する大中臣氏の家系で、服部氏ではありません。神氏は浜名神戸司大江氏(姓は大中臣)の庶流と推測され文献上の初見は正応三年(1290)三月の「神助近」です。この子孫がのち「神目代」を名乗るのは事実です。しかし、この地の旧家縣氏も大中臣時定(系図上は時晴)後裔とする系図があるように、時定が資料が残るこの地の名誉の人物であり、子孫が不明なため近世になって先祖に仮託しやすかったのでしょう。ほとんど信じることはできません。


浜名氏ー浜松市北区三ヶ日町

2023-01-14 07:12:44 | 郷土史
浜名氏は中世浜名神戸(浜松市北区三ヶ日町)を苗字の地とする氏族です。
 この地に住み着いた年代は不明ですが、おそらく十一世紀後半に浜名神戸司が伊勢神宮により任命されたときに、その神戸支配のために現地に赴任した人々です。神戸司はときの神宮の最高位にいた大中臣氏の一族が任命されました。その大中臣氏の配下には内宮・外宮の祢宜の子息・親族や下級祠官・神人層などがいましたが、そうした家の子郎党らを連れて浜名神戸にやってきたと考えられます。姓は大中臣・荒木田・渡会のほか源・平などさまざまです。
 やがてかれらのうちに実力を蓄えて「預所」として伊勢神宮から任命されるものがでてきました。その後継が浜名氏です。もともと武力をもって神戸支配の実務を請け負っていたので、鎌倉時代には将軍源頼朝に臣従し、預所兼御家人となりました。御家人としては在鎌倉が多くなり、一族の者を代官に任命しました。
 鎌倉時代後半には、得宗被官人となりましたが、南北朝の動乱期にはいち早く足利氏に臣従し、功成った一族の何人かは関東に所領を得ました。浜名宗家は最初足利義詮の近習でしたので、義詮が鎌倉から京に移るとそれに従いましたが、一族中には鎌倉に残った者もいました。京の浜名氏は将軍近習でしたが、のち将軍の直属軍である奉公衆五番に編成されます。同時に幕府直轄地を宛がわれます。また同時代には浜名神戸地頭となり、京都のほかに自らも支配のため現地に屋敷を構え、代官に一族大屋氏を派遣しています。浜名宗家は戦国時代には今川氏被官となり、天文年間までその支配が確認できますが、今川氏真の時代には庶子家大屋氏が浜名氏を名乗り、佐久城を拠点に浜名を支配します。
 大屋氏は浜名氏一族でしたが、浜名神戸地頭代官となり、浜名支配を通じて成長していき、佐久城を築き東部地域を納めます。のち奉公衆二番に編成されるようになり、宗家が衰退した後には浜名の後藤氏領と一部を除き全体の支配者となります。大屋氏はその正嫡が浜名氏養子となり、浜名苗字を名乗るようになります。そして、徳川家康の遠州侵攻後日比沢後藤氏と共に家康に属すことを拒否し終に城を捨て逃走することになりました。

 浜名氏は有名な歌の家系で、とくに室町時代には連歌の当時有名な歌の上手の三人に挙げられています。また、浜名氏が歌人で武将の源頼政の裔とする説が定番となっていますが、これは戦国時代後期に「鵺」退治の伝説と「鵺代」という地名をリンクさせて生まれた説で、「贄代」が「鵺代」に変ってから生まれた説にすぎません。

橘逸勢伝説ー浜松市北区三ヶ日町

2023-01-05 18:35:33 | 郷土史
承和九年(842)天皇の皇位争いに敗れ、謀反の罪を着せられ伊豆に流罪となった従五位下・但馬権守橘逸勢は、八月途中遠江国板築駅において病死しました。かれに隠れるように付き添っていた娘はそれを知り、出家し尼妙沖(妙長)となり、その地に草庵を作り菩提を弔っていました。しかし、やがて許され嘉祥三年(850)京に改葬され、正五位下を追贈され、尼妙長(妙沖)は仁寿三年(853)遠江国に剰田七町を与えられます。さらにのちに逸勢は文徳天皇より従四位下に叙されます。斉衡元年(854)怨霊として御霊会の対象となります。(以上日本文徳天皇実録・続日本後紀)
 その妙沖の草案があった場所が三ヶ日町本坂の橘逸勢神社であり、板築駅がその1キロ弱東の日比沢だといいます。まず妙沖草庵については、逸勢遺骨改葬のおりその場所に銅鏡を埋めたという言い伝えと、その銅鏡が文化四年(1807)本坂庄屋竹平氏が発見したことによります。銅鏡云々が史実かどうかはわかりませんが、その後盗難にあい見つけ出されたものは古墳時代前期の銅鏡といいます。遣唐使であった逸勢、あるいはその娘妙沖が唐鏡でなく古墳時代前期の銅鏡を持っていたというのも解せません。三ヶ日町には逸勢埋葬の地はもうひとつあり、寛政風土記伝には只木の公家塚を比定地とします。これは地元の郷土史家高橋佑佶氏が否定していますが、それ自体は正しいのですが、ただし彼のいう南北朝期の石塔ではなく室町期十五世紀以降のものです。
 また、板築駅を頂上に板築神社のある板月山から、その麓日比沢に比定しますが、この板築神社はおそらく近世のもので、山の名前もそのころつけられたのでしょう。(証明はできます)現板築駅比定地の上の段丘端に「古道」の小字名がありますが、遺跡の存在から奈良・平安時代の本坂道古道は本坂八幡宮前を通り、北に降りて渓流を渡り、段丘沿いに東上したと考えられます。小字「古道」はその一部です。段丘は最上段が古墳分布地その下が住居地、最下段は日比沢川が現在より北の段丘よりを流れていて古代には安定していなかったでしょう。それに、江戸時代の本坂道が古代のものとは断定できません。峠の遺跡分布からは現峠より南の頭浅間神社に奈良・平安時代の痕跡(遺物)があり、ここから谷沿いに下ったのが古道とも考えられます。
 いずれにしても現橘逸勢神社の根拠は薄弱で、「大正末期ころひっそりと立っていた逸勢父子の遺跡」、つまり推定銅鏡出土地(三ヶ日町史上巻)から顕彰のため建立されたのです。
 『日本文徳天皇実録』には「逆旅」に終わる、つまりはたご(旅館)で死んだとあります。橘逸勢の遺跡はもうひとつ袋井市山梨があります。これは罪人が宿泊するのは駅家(郡衙)であることから、山名郡衙所在地の比定地であること、伝承が残ることから想定されたもので、これも根拠が不確かです。したがってこれに関する論争は答えの出ないまま続いていくでしょう。

ちなみに「板築」を「ほほづき」と読んだ例は寡聞にして知らない。普通「潮つき」で潮の干潮に影響を受けるような湿地に近い場所を指します。三ヶ日町の候補としては現釣か岡本・三ヶ日でしょう。