
おはようございます。
二十b 師は問われた―「スブーティよ、どう思うか。如来は特徴をそなえたものと見るべきであろうか。」
スブーティは答えた―「師よ、そうではありません。如来は特徴をそなえたものであるとみなしてはならないのです。それはなぜかというと、師よ、『特徴をそなえていると如来が説かれたことは、実はそなえていないということだ』と如来が仰せられたからです。それだからこそ<特徴をそなえている>と言われるのです。」
二十b 師は問われた―「スブーティよ、どう思うか。如来は特徴をそなえたものと見るべきであろうか。」
スブーティは答えた―「師よ、そうではありません。如来は特徴をそなえたものであるとみなしてはならないのです。それはなぜかというと、師よ、『特徴をそなえていると如来が説かれたことは、実はそなえていないということだ』と如来が仰せられたからです。それだからこそ<特徴をそなえている>と言われるのです。」
(中村元 紀野一義 訳 岩波文庫)
頌52 法身の完成が、(付随的な身体的特徴である80の)随好(の完成、すなわち"物質的な身の完備")であるとは言われない。また(主要な身体的特徴である32の)相を具備することでもない。そう考えられるわけは、(法身は)無身だからである。
頌53 (しかし、相の具備と、随好の完備との)この両者が如来にないわけではない。それらは、法身を離れてはありえないからである。(経には"完備"と"具備"と言って)そなえるという語が再度説かれているが、この両者は、以上のようにして、無なのであり、同時にまた有としての性質あるものである。
頌53 (しかし、相の具備と、随好の完備との)この両者が如来にないわけではない。それらは、法身を離れてはありえないからである。(経には"完備"と"具備"と言って)そなえるという語が再度説かれているが、この両者は、以上のようにして、無なのであり、同時にまた有としての性質あるものである。
(無著造 世親釈 長尾雅人訳注 中公文庫)