正覚ノ門 徒然帖

正覚者の言葉、日々の雑感。
・金剛般若経・無著頌 R2/1/7〜3/11 7/20〜
・長老偈経 3/14〜7/17

金剛般若経 二十九

2020-09-21 06:08:31 | 日記

おはようございます。

二十九 さらに、また、スブーティよ、実に、もしも、誰かが『如来は去り、あるいは来たり、あるいは住し、あるいは座り、あるいは床に臥す』と、このように説くとすると、その人は、スブーティよ、わたしが語った言葉の意味を理解していないのだ。それはなぜかというと、スブーティよ、如来といわれるものは、どこへも去らないし、どこからも来ないからである。それだからこそ、<如来であり、尊敬さるべき人であり、正しく目ざめた人である>と言われるのだ。
(中村元 紀野一義 訳  岩波文庫)

頌67 彼ら(諸仏)の功徳には、結果としての化身(というはたらき)があって、衆生を導くのである。諸仏は、このようなはたらき(業)をあらゆる場面で(特別の)努力もなく自然に行なっている。
頌68 化身によっては"去る"こと("くる"こと)などがあるが、しかし(法身として)諸仏は永劫に不動なものである。このような(法身の)あり方は、法界においては、同一性としてあるのでもなく、変化するものとしてあるのでもないと考えられるべきである。
(無著造 世親釈 長尾雅人訳注 中公文庫)