春宮の観たい物…幼い頃からの夢だったウィーンの楽友協会でニューイヤーコンサートを観る…という事は、ゲネプロのゲネプロでしたが、ムーティ氏の指揮で、コロナ以前に観てしまいました。歌舞伎も、玉三郎さん以外に観たい方もなし…。毎年、武道館で行われる陸・海・空自衛隊の『音楽祭り』に行きたい…くらいです。春宮は、戦争は嫌ですが、亡父が横須賀育ちだったせいか、父と一緒にTVで、懐メロ番組があると、藤山一郎さんや霧島昇さん等、戦前の音楽学校を出られた方々の歌われる軍歌を聴いていました。藤山一郎さんの歌われる『長崎の鐘』は、今、何方が歌われても及ばない…と思っています。
父は、勤労動員は砲術学校の事務でした。砲術学校の事務室の隣は、故高松宮様の執務室だったそうです。気安く、宮様は、事務室にも、よくいらしていたそうです。『高松宮日記』が出版された時には、砲術学校の部分での間違いを出版社に指摘する手紙を送り、出版社からは、次の版からは訂正するという趣旨の返事を貰っていました。
勤労動員では、主に書類の片づけを担当していたそうで、極秘文書の片づけもしていたので、武蔵・信濃・大和が沈没した事も知っていたそうです。祖父が、海軍工廠勤務でしたので、誰にも言わないように…と言われた…と、言っていました。終戦の前年までは、海軍は、第二種軍装(士官は、白い軍服)を着用しており、帽ふれ…で、見送った軍艦が間もなしに沈没という書類を整理するのは、辛かったそうです。艦長は、友人の父上だったとか…。懐メロを聞きながら、様々な海軍の話を父から聞きました。戦争の悲惨さを承知した上で、海軍のスマートさも話してくれました。春宮も、防衛医大に行きたかったのですが、当時は、女は入れませんでした。春宮夫は、防衛医大なら、どうぞ入校して下さい…と言われたそうですが、帽子をかぶるとハゲるから嫌だ…と、推薦を断ったそうです。ハゲる家系なので…。
春宮夫婦、武道館の自衛隊の『音楽祭り』は、是非、一度、行きたいのですが、抽選だそうです。人気があるそうで、抽選倍率が高いそうです。春宮夫の高校の友人で、防衛大学校に進学し、政府専用機のパイロットまで勤めた方がいますが、そういうルートも使えないそうです。そのように言われると、更に、『音楽祭り』に行きたくなります。毎年、応募するしかありません。ユーチューブで見れますが、やはり、本物が見たいです。『祭り』ですが、このような催しがある裏には、まだまだ、戦地の遺骨収集が残っている事も承知しておりますので、手を合わせ乍らの鑑賞になることでしょう。
懐メロ番組を一緒にTVで見ていた時の父は、思い出と共に見ていた為か、優しかったです。優しい父の思い出が少ないので、春宮は、軍歌・懐メロが好きなのかもしません。