パイプの香り

昔のことを思い出しながら、こんな人生もあったのだ、ということを書いてみたい。じじの「自分史」ブログです。

昔、昔、或る所に・・・/その十

2005-12-29 19:17:00 | 自分史

 その丸井の『ニュース映画館』、入れ替えの度に押すな押すなの大盛況だったから、空いた席に座れれば幸いだが、それには三替わりくらい待たなければ座れない。
 で、いつものように後ろの方に立って席の空くのを待っていたが、何時の間にか、誰かに手を握られているのだ。
心臓をどきどきさせながら、それとなく隣りを伺い見ると、大谷の制服を着た女学生がいた。手を握られたままで上映が終わるまで待って、明るくなって人波に押されながら表へ出て、相手の女学生を追ってみたが、どこかへ消えてしまった。だが、顔はしっかり見ていたので、毎週、同じ場所に立っていたが、それっきりで、遭う事はなかった。
 だが、40年くらい経って、ススキノであの顔を見付ける事ができたのだ。彼女は小さなスナックのママさんになっていた。

 この丸井の『ニュース映画』もそこへ真っ直ぐ行ったのではなく、大通り西一丁目にある北光教会で日曜礼拝に立ち会った後で行ったのだ。教会は白い壁ととんがり屋根があり、二階席から聞こえてくる賛美歌はなんとも言えない厳かな美しさがあって、牧師さんの説教より魅力があった。こっちも負けじとボーイソプラノで頑張ったが、多勢に無勢でとても適わなかった。

 その頃、父・照之助は大丸藤井商店の傍系の藤井実業を経営していて、それは南一条西六丁目の電車通りの南向きの建物にあった。父は官庁や庁舎を回って注文を貰い、納品するという商売だった。社員は男女各1名ずつ。

 私と吉田和夫君は冬休みにアルバイトをした。それは卓上カレンダーを台付きセットと玉だけ(カレンダーだけ)を何十個かダンボール箱に入れてソリに積み、六丁目の会社を出て西に向かい、通りに面している会社に、大きい所も小さい所も代わり番こに入って、注文をきくのだ。
 私は北中の、和夫さんは札商の制帽をかぶっていて、この両校の卒業生はどこかに就職していたから、可愛い?後輩に注文をくれる事務所が多かった。だから、父の目の付け所は正しかったと言えよう。

 それから、忘れられないのは、映画のロケイションがあって、そのエキストラに出演?した事である。映画の題名は『若き日の血は燃えて』といい、大阪四郎と沼田曜一の主演だった。
 ロケの場所は北18条の北大の飛行場で(今は飛行場跡の棒杭のみ)、我々北中の応援団が応援旗やのぼりを押し立てて、応援歌を大声で歌って(喚いて)いるのをロングショットで撮って(だから我々中学生はその他大勢で、我々の前に数人の俳優が立っていてそれらしく見えるというもの)ギャラは一人50円位だったと思う。つまり当時の珈琲代程度か・・・。

 この飛行場には練習用の複葉機が発着したり、グライダーを飛ばしたりした。
このグライダーの飛ばし方だが、グライダーの前方にゴムヒモを何本も撚った物をつけ、後方には長いロープをつけて固定し、10人か20人くらいでそのロープをえんやこらと引っ張り、ゴムヒモが伸び切ったところで固定し、ロープを解き放つ、とグライダーが飛び出すと言う、なんとも原始的な方法だった。それを日曜などに見に行き、人手が足りないときにはロープを引っ張らされたりもしたのだった。

 北中の先生で追加あり・・・島谷先生は体育の教師だが、専門は柔道と相撲。だか
ら、授業の初めには四股を踏んだり、天突き体操をしたり、後はサッカーばかりやっていた。それから直接授業は教わらなかったが、野球部長の飛沢先生は全国的にも有名だった。



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