パイプの香り

昔のことを思い出しながら、こんな人生もあったのだ、ということを書いてみたい。じじの「自分史」ブログです。

昔、昔、或る所に・・・/その二十一

2006-04-22 21:25:31 | 自分史
 昭和27(1952)年三月、 札幌商業高校を優等生で卒業すると、それからは『家業従事』というやつで、南16条西5の現在のテニスコートの西隣りにあった自宅から南2東2の店舗まで毎日通勤することになった。
 店は朝八時から夜九時まで開けていたので、交替で泊まり込んだ。で、父は日曜に休み、私と薫姉は土曜とか金曜を休日にし、私と姉と次弟の芳男が二人ずつ交替で泊まった。
給料は8000円で、休みの日には映画(殆ど洋画。『七人の侍』などの話題作以外は…)に行ったり、音楽会に行ったり、デッサン会に行ったりと、わりかし自由に過ごした。
デッサン会ではヌードモデル(もちろん女性)を木炭で描き、食パンを消しゴム替わりにして使った。

 その当時は、戦時中に北海道に疎開してきて、まだ東京に帰らなかった画家などがいて、その顔ぶれはそうそうたるものであった。渡辺伊八郎、早川重章、八木保次などなど…。それから護国神社の北側の豪邸に梁川剛ーの表札があったが、本人を見たことは一度も無かった。それに地元の若手たち、芹田英治、小野州一、高橋由明、田村宏などの偉才、多才がひしめいていた。

 薫姉は静修高校で美術部の部長をしていたから、続けて制作をしたいと言う事で、二人で金を出し合って、油彩の道具を買った。絵の具、筆、パレット、解き油、キャンバス。それらを入れる箱。そして三脚。二人の休みはダブらないから、交互に使えるわけだ。
で、全道展(全北海道美術協会)に出品したら、何と入選したのら。10号位の静物だった。

 只単に静物をあるがままに描いているのもつまらないので、段々とデフォルメしていって、最初の形がなくなってしまって、線とか、面とか、色彩の割合とか、或いは立体的な感じ、明度で画面を再構成することに熱中した。
全道展には何回か入選したが、他の公募展にもと色気を出して、新道展(新北海道美術協会)の創立展に出品したら、なんとこれが新人賞で入選。が、創立会員の中に気に入らないのがいたので、それっきり、これっきり。何と言っても道展、全道展につぐ三つ目の公募展だから、会員の質も薄まっていって、これと言う歯応えのある会員が少なかった。で、東京の春陽会やモダンアート展に作品を送ると、これがおもしろいように入選するのだ。

 だが、そんなに遊んでばかりいた訳では無く、仕事もちゃんとした。いわゆるお得意様回りというやつで、免許を取ったばかりのスクーターに乗って出掛けた。お得意先は北海道馬具工業、杉野商店、福山醸造、山登運輸、などなど…。
だが、最初、高校を出て直ぐの頃は最初の挨拶が旨くすんなりとはいかなかった。大阪のように、毎度多きにと大声で言えば良いとはいかず、なにしろ、ええとこのボンボンだったさかい、口の中でもごもごいうのが関の山で、馬具工業の山本専務には父親に似ない不肖の子だなとまでいわれた。

 ま、それも最初のうちだけで、慣れるとなんとかなるものだった。
福山醸造の庶務課に目のばっちりした瓜ざね顔の吉野さんという女性がいて、謄写版の注文をくれるときに、何と言うメーカーのにしましょうというと、彼女は「ミメオグラフィ…を」といった。が、それは謄写版の英語名で、それをいうと、真っ赤になって、うつむいてしまった。とても可愛いらしかったれす。


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