竹田克也 オフィシャルブログ 「王子活動中」

ミュージシャン&総菜屋「やきとり王子」こと竹田克也は、毎日東長崎で活動中!

大人ってやつは

2017-01-10 07:38:04 | コラム

成人式では相変わらず社会的地位の高い人間が若者に訓示を垂れているらしい。

ラジオでも有名人パーソナリティが、上からの視点で大人を語る。大体若者を批判しながらその人の同世代は頑張ってきたという論法が主だ。

私がもし大人を論述するなら一言「責任が取れる」という事だ。

「大人としての責任」とか「責任をもたないと」とかいう後ろ向きな意味とは全く違う。

自分の責任で発言も行動も自由に出来る事が「大人」という事だと認識している。

しかし社会を見渡すとどうだろう。責任をどこかに押し付けて生きていないか?

または責任の所在を自分以外に設定し合って曖昧にしていないか。

大人歴の長い人間が、若者の自由を守るために責任を持ってやるよ、と言う事が、どれだけ若者を駆り立てるかわかってる?

若者に対して「責任を持って生きる事の楽しさ」「自由さ」を引き継いでいくという事を、放棄していないか。

自分たちがメンドクササを被る事を放棄して、後人の自由を制限する言説を垂れ流していないか?

こうして私は自分の本名の元ブログや音楽、商売で表現し続ける事が好き。

自分の生き方を諦めず、責任とって自由に生きようとしていることを、誇りに思っているし、かなり気に入っているんだ。

お気に入りの人生は、同時におすすめの人生。

自分たちのそれぞれの環境でやりたいことを存分にやっていく事を、後人に見せて生きたいと心から思っている。


豊島区議会の政務活動費問題について

2017-01-05 19:46:51 | コラム

昨年末に私が代表を務める「としま政務活動費を考える会」が資料閲覧して情報発信をした、河原弘明豊島区議会議員[都民ファーストの会(※当時 自民党区議団)]並びに自民党豊島区議団による政務活動費不正疑惑について、年明けてからもしっかりと検証していくつもりだ。

この案件については各メディアでも取り上げられた。

小池知事支える“7人のサムライ” 河原弘明区議の疑惑実態は[エキサイトニュース]

小池知事はお膝元の疑惑にどう向き合うのか[東洋経済]

この件について少しおさらいする。

河原弘明豊島区議会議員(当時自民党豊島区議団)が役員をつとめる印刷会社「三朋印刷」へ自民党豊島区議団の印刷物を政務活動費で発注していた。

これは豊島区議会が定める政務活動費取り扱い指針に抵触するとされ、高い倫理観を求められる区議会議員という立場上何らかの責任を取ることが求められるというもの。

「としま政務活動費を考える会」で自民党区議団の政務活動費に関する資料の閲覧を求め、過去5年間の資料閲覧した結果、5年間で三朋印刷へ1000万円もの発注の事実が確認された。

さらに自民党区議団の他の区議に関しても、不適切とされる支出が散見された為、それらの真相究明を求めて3本の陳情を提出した。

昨年末提出した当案件に関する陳情が採決となり、真相究明が求められる事となった結果、自民党豊島区議団が「疑念を抱かれる支出については返還する」という事で、靖国神社玉串料などの一部支出については返還がなされた。(地上三本中、1本「採択」、1本「継続」 1本「時間切れ流会」となった)

また自民党を除名処分となった、小池百合子都知事の応援団、所謂「7人の侍」のうち5名の豊島区議会議員は新会派「都民ファーストの会豊島区議団」を結成し、向こう五か月分の政務活動費は返納するという形を取ったと言われ、それである種の幕引きを図ろうとしているようだ。

しかしこれは大元の疑惑に対するアンサーとしては不十分であって、私としては大いに不満が残っている。理由は以下の通り。

  1. 区民が納めた税金(実際は東京都は特別区なので、豊島区の予算は東京都民全体の問題とも言える)を、自身の会社に還流した件についての回答がなされていない。
  2. 自民党区議団、都民ファーストの会の当該区議会議員がこの件に関して各々が一切の言葉を噤んでいる。政治は言葉と言われている以上、疑惑に対して自分自身の言葉で返答しない現状は、政治家としての資質を大いに疑う事と言える。
  3. そもそも河原区議の件については何の回答も得られていない。

政務活動費はあくまでも区民生活の為に必要な経費として認められるものである。当然税金であり自由に使っていいお金ではないことは、一般的な感覚を持っていれば当たり前にわかるはずだ。

政治家という職業を選ぶ人全体の沽券に係わる事であり、現状のような玉虫色的な幕引きはあってはないらない。

◆制度上の問題点も

また現状の政務活動費の取り扱い方にも問題がある。

現在各会派に所属議員一人頭15万円を三か月ごとに三か月分先払いされる。取り扱い指針に従って各会派の裁量で使用する事が可能となる。

言い方を変えれば、各会派で取り扱い指針を解釈してそれぞれのルールによって自由に使う事が可能という事だ。

今回の事件から読み取れるのは、指針にある事を精査するチェック機能としての事務局がまったく機能していないという事だ。

一般企業の領収書の取り扱いは後清算が一般的である事をみても、政務活動費の現状はとても異常であると言えるのではないか。

また情報公開についても、豊島区議会事務局は閲覧請求を提出してから一か月以上我々を待たせた。

同じ東京都の世田谷区ではホームページ上で区議の政務活動費資料を閲覧できる仕組みが出来ている。

世田谷区◆政務活動費収支報告(27年度分)

情報公開の公開時期について問い合わせた際には「黒塗りなどで時間がかかる」と事務局より言われたが、世田谷区の領収書資料を見ると黒塗りになっているところが無い。

通常の商取引をしているという証拠資料なら支出先も含めて公開情報で良いはずだが、豊島区の資料は黒塗りになっている部分がある。

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 この画像は三朋印刷への支出の証拠資料だが、見ての通り印影に黒塗りがある。

先ほどの世田谷区の資料で印影に黒塗りは無かった。

豊島区議会事務局は「個人情報は公開できない」とか「印影が偽造される」などという理由で公開を先延ばしにした経緯があったが、そもそも公的な資料である領収書に黒塗りをする合理性がわかりかねる。

閲覧請求をしたのが衆議院補選の時期と一緒であったことから、黒塗りという手間を加える事で先延ばしにしたのではないか、と勘ぐりたくなる。

いずれにせよ、豊島区議会の体質のようなものが浮かび出たのは間違いない。

世田谷区が進んでいるという見方もあるが、それは逆で世田谷区以外が遅れていて、豊島区は情報公開に関して先を行こうという気概がないという事だ。

ちなみに資料閲覧は無料だが、コピーするとコピー代がかかる。区民が調査の為に資料を手元に置きたいと考えるとそれなりのリスクを負う仕組みになっているのだ。

世田谷区のようにPDFにしてサーバーに置いておけば無料でいつでもアクセス出来る。

またホームページ上で公開する事が前提になっていれば、区議会議員も疑わしい使い方が出来なくなる。

◆野放図な性善説に立つとこうなるのは、ある意味仕方ないのかも

他の会派の人と話した際に知ったのだが、政務活動費の取り扱いについて区議会事務局からの説明会は特に無いそうだ。先ほども書いたが各会派の裁量に任せられている。

「常識の範疇でみれば、このような支出は考えられない」

と某会派の区議は言っていたが、常識というものはそれぞれの裁量によって解釈が変わるものだ。

地域活動で補助金を申請したことがあるのだが、例えば補助金について「公金は慎重に使うべきだ」という人と「使える公金は使うべきだ」と人がいる。どちらもその人にとっての常識であるし、有効に使う意思があるならどちらも間違いとは言えない。

議員が高い倫理観を求められる職業とはいえ、元々の常識観が違えば当然観点は違ってくる。

常識というものがそれだけ揺らぐものであるからこそ、事務局のチェック体制が問われるはずである。この場合においては「性善説に立つ」という事は無責任という事になるのではなか。

◆この問題を取り扱うのは区議会議員の為であり、区民の為である

この問題を追及し続けるのは、当該者を貶める為ではない。

区議会議員が不正を出来ないようにする事で余計な手間をなくし、地域活動に勤しんでもらう為である。

区議会議員になると方々から会費を含む参加を求められる場面が多くなると聞く。今回の調査で各種団体への会費支払いが見受けられた。

政務活動費が税金からの支出であるという事は、私たち一人一人の財布から支払われているという事になる。

それが正しく使われているかどうかを、財布の主である豊島区民がチェックする事がこれから必要な振る舞いなのではないか。

選挙の時や利用したい時だけ区議と関わり、それ以外の時は関心を払わないでいるからこのような問題が生まれたとも言える。

そうは言っても意識を持ち続け時間を割くことは実際は大変骨の折れる事だと思う。

しかし社会というのは元来骨の折れるものである。

せめてこういう事に着手した私たちは情報を収集して発信し続けられるようにしたいと思う。

 

年開けて2017年になったが、引き続き豊島区議会には注目していく所存。

区民が声を上げれば、変える事が出来るという事をより進めていきたいと思う。

 

まずは河原区議ならびに自民党区議団、都民ファーストの会豊島区議団の責任追及を続けたい。

 

どうやって「花見」を見るか

2016-04-05 08:57:59 | コラム
僕は結構ひねくれている類なので、多くの人が盛り上がっている事をついつい斜に見てしまう癖があります。

10代の頃、花見時期に1人で哲学堂まで行って、メモ程度に絵を描こうと思った時も、公園内を見回して題材を選んだ結果、ゴミで溢れるゴミ箱を描きました。

多少、そういう事がカッコいいことだと思っていた節はありますが、そういう視点を持つことは相変わらず好きみたいです。

例えば花見なら、公共の場所を場所取りと言ってエリアを勝手に区切って一時期を所有する事を容認する事なんか、若干首をひねるところも無いわけじゃないです。

一方でそういう事を言うのは野暮ったい事だろ、とたしなめる自分も内面には存在していて、常にジレンマの中に身を置いてしまう面倒くさい思考経路になっています。

花見の時くらい、という部分で概ね心を鎮めるし、その位の娯楽を許容する事の大切さもありますからね。

ただそれが毎年繰り返される「点」の事象ということで消費してしまう事に懸念を抱いています。

僕が感じる日本人て、年中行事などで仕切り板を作って過去の繋がりを遮断しようとします。ハレを目指して日常を充実させようという認識より、日常を通じて溜まったオリを吐き出すためのハレに思えます。

もしかしたら民衆を支配するために設けられたものが、実は祭や年中行事なのではと勘ぐりたくなる位「筋」なるものに支配されているように思えてなりません。

そう考えるのは些か飛躍であると思わせてほしいものですが、長年観察してきた結果僕の中ではその説が有力化しつつあります。

ならばどうすれば良いか。

定義し直す事です。花見も神輿も、元々あると思い込んでいるロジックに疑問を持って、新しい言葉をつけていく事です。

いつまでも状況や歴史ぶったものに絡めとられるだけの社会に終止符を打つためにも。


川崎の少年事件について

2016-02-05 07:13:52 | コラム
批判覚悟で川崎の事件についての所見を書いてみる。

SNSで「少年を死刑にしろ」みたいな言説が溢れてきていて、ちょっともやもやしてる。本当にそれでいいのか?

犯罪と地域社会、教育、家庭、色々な要因があって、ことが起こった時にあらゆるところに紐付けして解釈していく作業をないがしろにしていないだろうか。

そこに向かわせているのは感情が知性とかを抑え込むような社会環境になってきている、という事。

確かに被害者の親の立場になって考えると堪らない怒りが醸成するのはわかる。いや、僕には子がいないから本質的にはわからないのかもしれない。でも理不尽にも殺されたという悲しみと怒りというのは想像に難くない。

でもね、そこにコミットし過ぎるのは実は危険な事だ。だって、「我が子が加害者になるかもしれない可能性」には目をつぶっているから。「我が子に限って」と思うかもしれないが、加害者の親だって「どんなに悪い事してても、まさか殺人をするとは思っていなかった」と思っていると思う。

だから月並みだけど冷静になって、と言うしかない。感情というものは思考を抑制するものでもある。怒り狂ったり、焦ったりすると、正しい判断を見誤る事って普段でも良くある事なのはわかってもらえるはず。

感情に最上級の特権を与えるのをやめる代わりに我々は法を作って法治社会を作った。それはおそらく感情で全てを片付けようとすると、争いが止まらなくなるからではないか。人間という種が合理的に生き残るのに選択した戦略が言葉を使った社会づくりである。そこが動物と人間の大きな違いだと言える。

しかしそれが反転して感情の時代、つまり動物的な事に回帰しているように感じてならない。それが私の杞憂に終わればよいのだが、どうも材料が揃いすぎているようにも思う。

反射的にただ好き嫌いを語るにではなく、その感情の起伏が何に起因しているか、自分自身を観察してみるべきである。私はそう思っている。

エンブレム問題というか、オリンピックについて

2015-09-02 21:10:14 | コラム

オリンピック関連がズタボロだ。

べらぼうに高い新国立競技場の建築問題にエンブレム盗作疑惑問題。

それぞれ対応に追われ、火消しに躍起になっている。

 

私はオリンピック開催にずっと反対していた。

というか私に限らず、多くの人がそんなにオリンピック招致に歓迎的ではなかったように思う。

 

そもそも今回のオリンピックって何をテーマにした大会なのかがかなり不透明だ。

前回1964年の東京オリンピックは戦後の復興を国際社会にアピールするというテーマがあった。

「日本はここまで復興しました。これから世界の一員として肩を並べて行く所存です」というメッセージがあった。

それ故に日本全体での合意の元、しっかりと盛り上げていく事が出来たのではないだろうか。

 

じゃあ、今回はどんなテーマが語られただろうか?

私が感じていたのは「オリンピックで儲けるぞ」という空気感だけだ。

オリンピックを機にして平和主義を訴えるとか、経済戦争へのアンチテーゼとか、高邁な理想でも何でもぶち上げられなかったのだろうか。

哲学も思想も信仰も無い、そこにあるのはただ自国の閉塞をぶちやぶりたいという身勝手な思いだけだ。

アスリートにも他国にもリスペクトが全くない動機である。

 

「でっかいことやってガラガラポンだ」という印象に、国民的議論は明らかに冷めていた。

なのに決まっちゃえば何とかなる、という舐めた姿勢が現在に繋がっているのだろう。

それに、「金儲け」が前提に出ているものだから、2020年に回収すればいいので、決定さえすればいい、という非常に雑な考えで進めてしまった。

根本が雑なら、競技場も、エンブレムも雑な仕上がりになるのは当然である。

選ぶ側に、選ぶための幹となる思想が無いのだから。

 

例えば資本主義的な世界イベントにアンチテーゼを立てるなら、なるべくお金をかけない、多くの人の連携を求める、みんなで作り上げるオリンピック、という具合に設定して、そうならば競技場は現存するものを活用しましょう、国立競技場は補修して使いましょう、アイデアを募りましょう、という道筋もつけられたかもしれない。

無思想が表層化しただけだから、そんなに驚く事ではないかもしれない。

しかし本人たちの資質にも問題あるかと思いつつも、ザハ氏にしても佐野研二郎氏にしても無思想の枝葉として表面化したに過ぎない訳で、ここに問題を押し付けようとしているのが見て取れる。

 

目下誰も責任を取らないと言っている。

そもそも哲学の無い今大会なんて、違約金払ってもやめちゃえば?と思う。

 

その位、僕は冷めているんだ、オリンピックには。