産まれてから四回目の未年を迎える訳だけど、幼少時に比べると「光陰矢の如し」が実感を持って感じるようになってきた。
新年あけてもう一か月過ぎちゃうもん(涙)
町にいると、「○○さんが倒れた」とか「亡くなった」とか、そういったニュースを聞くことも多い。
その度に己の身に置き換えてみるのだけど、僕に残された時間というのがどのくらいなのか、というのは神のみぞ知る事であって、もしかしたら何かの拍子にコロっと人生を終える事だって考えられる。
こういう想像は昔からよくしていた。幼少時はただただ死が怖かった。でも不思議なもので30代も後半に差し掛かると、死への恐怖は無い訳ではないが、それよりも生きている今充実しているかが大切に感じるようになってきた。
残り時間はわからない。それなら今こうして生きているうちに、やりたい事や、こうして思いをつづるとか、心が動く活動に参加したくてしょうがない。
いつだって僕は妄想をしてきた。
これはイメージの話。
大人という区分に自動的に入れられて何年経つかわからないけど、年を追うごとに「イメージの話」が軽視されていくのを感じる。
自由に想像力の翼を広げるにも許可がいるようになる。
「翼を広げるなとは言わないが、人の邪魔にならないように許可とってね」と。
そして今ある現実が全てのようにふるまい、己が送ってきた人生の統計に当てはめて人が広げようとする翼をバサッと折ろうとする。
悲しいかな、無邪気な心で。
でも僕たちの生活の中にあるものは、自然減少以外全て人の想像力からうまれた、つまりイメージから始まったものだという事を忘れているんだよね。
誰かが「冷やせたら食べ物をもっと保存できるのに」と思ったから冷蔵庫があり、「遠くの人と連絡とれたらいいな」て思ったから電話がある。
誰かが「絶対人間は飛べる」とイメージしたから、今や日常として飛行機は空を飛んでいる。
お金の話や、条件の話、環境の話。やたら「現実」という言葉を連呼する人はイメージの話をするとアレルギー反応を起こす。
そもそも現実は「実が現れる」と書く。
過去に撒いた種の現れと捉えると、未来の現実を作るのは正に今の種撒きなんだ。
僕たちには羽根は無い。でも想像力というのは素晴らしいんだ。飛行機に乗らなくたって空を飛べる。空から街を見下ろしたり、それこそ自分自身を眺める事だって想像力の中で出来る。この想像力といいう人間の能力は本当に凄いんだ。
だからもっとイメージの話をしよう。
「こうしたい」と思う事は口に出して話そう。
そう話すことが恥ずかしい事ではないんだ、と言える社会にしよう。
「そんな事言っている暇あったら仕事(勉強)しろ」とか言わないで、ちゃんと耳を傾けてみよう。
そこにどんなヒントがあるかわからないんだから。イメージを軽視するって事は宝を捨てるようなことだよ。
所詮生まれて死ぬまでの宿借りなら、その家を楽しいものにしよう。
それが出来るのも、また人間なんだからね。