竹田克也 オフィシャルブログ 「王子活動中」

ミュージシャン&総菜屋「やきとり王子」こと竹田克也は、毎日東長崎で活動中!

どうやって「花見」を見るか

2016-04-05 08:57:59 | コラム
僕は結構ひねくれている類なので、多くの人が盛り上がっている事をついつい斜に見てしまう癖があります。

10代の頃、花見時期に1人で哲学堂まで行って、メモ程度に絵を描こうと思った時も、公園内を見回して題材を選んだ結果、ゴミで溢れるゴミ箱を描きました。

多少、そういう事がカッコいいことだと思っていた節はありますが、そういう視点を持つことは相変わらず好きみたいです。

例えば花見なら、公共の場所を場所取りと言ってエリアを勝手に区切って一時期を所有する事を容認する事なんか、若干首をひねるところも無いわけじゃないです。

一方でそういう事を言うのは野暮ったい事だろ、とたしなめる自分も内面には存在していて、常にジレンマの中に身を置いてしまう面倒くさい思考経路になっています。

花見の時くらい、という部分で概ね心を鎮めるし、その位の娯楽を許容する事の大切さもありますからね。

ただそれが毎年繰り返される「点」の事象ということで消費してしまう事に懸念を抱いています。

僕が感じる日本人て、年中行事などで仕切り板を作って過去の繋がりを遮断しようとします。ハレを目指して日常を充実させようという認識より、日常を通じて溜まったオリを吐き出すためのハレに思えます。

もしかしたら民衆を支配するために設けられたものが、実は祭や年中行事なのではと勘ぐりたくなる位「筋」なるものに支配されているように思えてなりません。

そう考えるのは些か飛躍であると思わせてほしいものですが、長年観察してきた結果僕の中ではその説が有力化しつつあります。

ならばどうすれば良いか。

定義し直す事です。花見も神輿も、元々あると思い込んでいるロジックに疑問を持って、新しい言葉をつけていく事です。

いつまでも状況や歴史ぶったものに絡めとられるだけの社会に終止符を打つためにも。


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