個人旅行

過去の旅行記、趣味全般、その他関心のあること全て。

徳川夢声の思い出

2015-04-03 05:26:35 | 日記

私は夢声にあったことはない。ただ、祖父宛に毎年年賀状を本名でよこしていたことは記憶にある。
最近、三国一朗著の夢声伝を見ていたら祖父の名前が出てきて驚いた。
大正末年の葉山で、シナリオライターの別荘における集合写真に納まっている二人を発見したのだ。
酔っ払うと「夢声の奴は」どうしたこうしたと、みんなに「またおじいちゃんの大ボラが始まった」
と揶揄されていたので、決してウソを言っていたわけではないのが確認されたわけである。
祖父は日活の初期の社員で、海軍を除隊したあと語学力を買われ、洋画の翻訳、字幕の作成などにかかわっていたようだ。
赤坂葵館(日活直営)に夢声が弁士として雇われた大正時代、祖父は6歳下の彼と親しく付き合っていたらしい。
一度、夢声がベロンベロンに酔っ払って、仕事に穴を開けたとき、代役を立派に務めたというのが終生祖父の自慢だった。
自分が訳した映画なのだから内容は全部わかっている。できて当然。
写真では赤坂葵館はデパートみたいな立派な建物だったが、関東大震災で焼失した。今の特許庁の隣り。
その後、祖父は帝都座の支配人や、本社の台本課長、多摩川の撮影所長代理等を歴任し、堀久作と衝突して辞表をたたきつけることとなる。
徳川夢声はトーキー全盛で弁士が大量に失業するなか漫談家に転職して大成功。
マスコミの寵児に成り上がったが、祖父は英語塾の自営でひっそり余生を送った。(葬式に隠し子が名乗りでたのが昔の栄光の名残か)
晩年の夢声は、荻窪に住んでいたが、身辺のお世話をしたのが、ウチの娘の母親だったとは、私も最近まで知らなかった。
最後まで夢声サンには縁がある。(201.9.4記)



最新の画像もっと見る

コメントを投稿