ポルトガルの空の下で

ポルトガルの町や生活を写真とともに綴ります。また、日本恋しさに、子ども恋しさに思い出もエッセイに綴っています。

炉端で愚を論じる人

2018-07-22 12:42:46 | 思い出のエッセイ
2018年7月22日

昨日の拙ブログ記事「炉端」に登場したかつての会社の同僚、日本びいきが嵩じて、日本名「炉端愚論人(ろばた・ぐろんじん)」と言う判子まで作ってしまった、ボブことロバート・グロンディンの話です。

ビアハウスのバイト歌姫時代は同時にわたしの大阪のOL時代でもあり、あの頃を懐かしみながら、「そう言えば、彼はどうしているのだろうか」とわたしはめったにしないことなのですが、ふといたずら心でその人の名を検索して見ました。
「ボブ・グロンディン」、いや、こっちがいいかな?「Robert Grondine」・・・・

日本語英語検索で両方、出てきました。なんと、彼は東京のとある国際的な法律事務所を立ち上げ、私立K大学で教鞭をとり、ワイドショーの討論にも出演して国際経済問題を語っていたとは!

在日米国商工会議所の最高顧問もしていたとありますから日米をまたにかけ、まぁあなた、随分活躍しているのね。と思いきや次の文字に軽いショックを受けました。
弁護士. 2011年10月に逝去。

そんなわけで、今日は遅まきながらボブへの弔い話を。

東京本社、大阪支社と勤務先は違うが、ボブとはかつて同僚同士で休暇を利用してヒッチハイクの初体験も含め共に九州旅行をしたこともある間柄でした。



我が職場は、それなりにアタマにくることもありはしましたが、今にしてみると随分愉快な職場だったと思い出されます。少人数のこともあり、社員同士のチームワークがよく、本社との関係も悪いものではなかった。

パソコンの職場導入がなかった当時のこと、本社との連絡のやりとりでは、電話では埒があかない件は手紙で用件が書かれている連絡事項用紙を他の書類と一緒に専用の封筒に入れるのです。

誰が始めたのか覚えていませんが、その封筒にちょっとしたオモシロメッセージを誰かが書き始め、すると、それに対するレスポンスもユーモアに書き足され、以来、専用封筒がボロボロになり、もう書き込
む隙間もないと言うくらいに表面がおアホなメッセージで真っ黒けになるまで、続けられたのでした。

もちろん、最初はボブやわたしのメッセが中心であったわけですが、それに他の社員も加わり(笑)誰の目にでもつくその封筒、ある日、我らが所長が目に入り、「なんだ、これは、お前たち!」と相成りお叱りを受け(笑)以後、封筒メッセはあえなくボツ^^;


10人くらいの小さな大阪支店の社員旅行にて。左端が所長。赤い人がわたし。

同僚の女性Tとわたしは同い年で、本社支店合わせても、エヘン、最高の事務仕事コンビと言われたのであります。そそっかしいわたしをカバーしたTの苦労やいかばかりかw

社員旅行の鳥取砂丘でのひととき。20代、30代、40代でこれです。逆おしくらまんじゅうw 赤い人がわたしw こんな状態は今ならさしづめセクハラとかでお咎めを受けるかしらw そんなことは思いもせず、みな単純に童心に帰ってw





こんな雰囲気のオフィスです、本社と支社の封筒メッセの愉快なやりとりもあって然るべき(笑) そのうちボブは東京で日本女性Aさんと結婚し、その後二人はニューヨークへ。


法学部大学院で再び学業に取り組み、簡単な近況報告のクリスマスカードが舞い込むこと数年。わたしもビアハウスのバイトで留学目標額に到達し、オフィスを退職してアメリカへ渡り、やがてポルトガルで子育てに夢中になり、いつの間にかボブとは連絡が途絶えてしまったのでした。



1977年渡米直前のオフィス時代最後。

まさか、日本で活躍していたとは夢知らず。
人のことは言えないけれど、ネット上で見るかなり恰幅がよかった写真にはやはり上の若い時の面影が見られます。享年59歳。ボブ、ちょっと早かったのが残念ですよ。しばし、あのオフィス時代に思いを馳せて、あなたの冥福を祈ったのでした。

炉端焼き

2018-07-21 22:26:43 | 思い出のエッセイ
2018年7月21日

炉端焼きと呼ばれる居酒屋にわたしは限りない愛着がある。そこには数々の懐かしい思い出があるからだ。

特に、大阪は京橋地下街の炉端、京阪沿線宮之阪駅前の炉端では、わたしは常連の部類に入っていたと思う。

流れる音楽が演歌なので、わたしからすればそれが難と言えば難だったのだが、しかし、炉端にジャズやらシャンソンが流れていたら、中華料理店でフランス料理を食するようなものだろう。泣き節の演歌はあまり好みではないが、それが炉端にぴったしなのにはどうにも避けようがない。

外国人の友人ができると、わたしは必ず炉端に案内したものである。当時は値段も手ごろ、肉類が苦手なわたしには、野菜魚類が多いのも嬉しかった。それで、あの頃は恋人だった現夫も時々わたしに引っ張られて何度か行っている。

大阪京橋の炉端に、当時ポルトガルからきたばかりの新しい留学生だったマイアさんを夫と二人で案内したときのことである。マイアさん、頑としてナイフとフォークで食べると言ってきかない。炉端のお兄さんが、同じ地下街にある隣の洋食レストランまで走って行って、ナイフとフォークを借りてきたことがあった。「こんなお客初めてだっせ・・」と言いながら(笑)

わたしが勤めていたオフィスの東京本社には、ハーバード大学出のボブがいた。本社とはしょっちゅう電話連絡をとっていたのだが、初めてボブと話した時は、ん?と少し思ったものの、まさかその電話の相手がアメリカ人だったとは聞かされるまで気づかなかった。

その彼が週末を利用して、大阪へ来たときもわたしがバイト歌姫をしていた梅田アサヒ・ビアハウスと炉端に案内した。日本語はハーバード大学在学中に学んだと言い、かなり流暢に、そして語彙力もあったボブとは、炉端で飲みながら食べながら、その日、大いに議論して盛り上がったのである。もちろん日本語でである。

日本びいきのその彼、自分の名前、ロバート・グロンディンを日本名で「炉端 愚論人=ろたば・ぐろんじん」とつけて、印鑑を作るまでに至ったのには、恐らくわたしとの炉端焼きの体験があるに違いない。アサヒ・ビアハウスに彼を案内したときは、ホール中、ヨシさんのアコーディオンに併せポルカを踊り、わたしは引きずりまわされ、見ていた常連達もボブの素晴らしいステップにはすっかり目を回したのだった。ボブについては次の機会に「思い出エッセイ」としてあげたい。

さて、当時は「文化住宅」と呼ばれた、駅から徒歩10分ほどの二間、トイレバス、台所付きの小さな我がアパートは京阪宮之阪にあり、駅を出るとすぐ横にあった炉端焼き。

ここには、木彫家の我が親友、「みちべぇと」よく行ったものだ。みちべぇは女性です^^ わたしが働いたオフィスの後輩なのだが、当時同じ駅のすぐ側に両親姉妹と住んでいるのを偶然知って以来、年の差も忘れて(わたしがグンと上なのだw)意気投合。以来40年以上のつきあいである。

ポルトガルに来た当時、アサヒ・ビアハウスがただただ恋しかったが、今のようにとても手に入らなかった日本食への思いも深く、炉端への思いも募るばかりだった。挙句が、「我が息子ジュアン・ボーイが大人になったらいつか炉端へ行き、酒を酌み交わしながら人生論を交わしてみたい」と、それが夢になったのである。

わたしの若い頃は、しつこい酔客や端迷惑な酔客もいたにはいたが、お酒の場とは、人生論を語る場でもあったと思う。 会社や上司の愚痴もあったが、人生の夢を語る場でもあった。 お酒の加減よい力を借りて、本音をさらりと口滑らすことが、ああいう場ではなんだかできたような気がするのだ。 
あれからもう40数年、炉端焼は今ではかつてにように、そこここにあるものではなくなったようだ。今の若い人たちは、いや、若い人達に限らず、日本の現代人は、どういう形で人と人生を語り合うのだろうかと、ちょっと興味を持つ。

みんなまともに面と向かって顔つき合わせて、人生論を戦わせるのだろうか。しらふで語ることも勿論大切だが、人の人生って理屈だけでは語れない部分があるのじゃないかと、わたしは思ったりする。家族みんな揃って人生論をぶつ、なんてのは、わたしにとってはまず想像するに難い。すると、やはり、ちょっとお酒なんかあったら語らいやすいなぁ、なんてね。

若い時にこそ、老若男女一緒になって、こういうことを「ぶってみる」のは、自己啓発、人生勉強になると思うのだけど。それとも、人はもう青臭くて人生論をぶつことなんか、しなくなったのだろうか。


閻魔ばさま

2018-07-06 22:56:56 | 思い出のエッセイ
2018年7月6日


しばらく前から日本語教室の生徒の一人と一緒に芥川龍之介の「蜘蛛の糸」を朗読している。

生涯でたった一度だけ、道端の蜘蛛を踏みつけようとした殺生を思いとどまった極悪人「カンダタ」が、地獄で苦しみあえいでいる。それを見たお釈迦様が、蜘蛛を助けたことをふと思い出し、地獄から引き上げようと、一筋の蜘蛛の糸を極楽からカンダタの前に垂らす。

カンダタは、その蜘蛛の糸にすがって血の池を這い上がり、上へ上へと上って行く。つと、下を見下ろすと、自分の後に大勢の極悪人どもが必死に蜘蛛糸をつたって大勢が地獄から上ってくるのが見える。

カンダタはこれを見て、己一人でも切れてしまいそうな細い蜘蛛の糸、なんとかしないことには、自分もろとも糸は切れて、再び地獄へ舞い戻ってしまおう、
       
思わず「この蜘蛛の糸は俺のものだ、お前たち、下りろ下りろ。」と、喚いた瞬間、蜘蛛の糸はカンダタの上からプツリと切れて、まっ逆さま、もろともに地獄へと落ちて行く。
       
お釈迦様のせっかくの慈悲も、自分だけ助かろうとするカンダタの浅ましさに、愛想をつかしたわけである。

仏教で言う「地獄」を英語で「hell」と訳してしまうのは、少し違うように思う。生徒と読みながら、わたしは子供の頃の「地獄」への恐怖を思い出していた。

夏の風物詩は、この時期では日本のどこでも催されるであろう、宵の宮祭だ。

故郷弘前では宵宮、「ヨミヤ」と呼んだ。子供の頃は、暑かったら裏の畑の向こうにある浅い小川で泳いだ。少し歩いたところが丁度寺町の裏手に当たり、夕暮れ時には肝試しと言って2人くらいずつ、墓所まで行って帰ってくるのも涼しくなる遊びのひとつだった。夕食を終えた後は、たんぼを渡り小川のあたりで、

「ほ、ほ、ほーたる来い、あっちの水は苦いぞ、こっちの水は甘いぞ」と歌いながらする、いにしえの優雅な遊びも知っていた。
  
子供なりの智恵を使って、自然の中で遊びを見つけていたが、夏のヨミヤはそれとは別に、大人びた世界を垣間見るような興奮を感じたものである。

夏の日は長く、ヨミヤのある日は外がまだ明るいうちから、遠くに祭囃子が聞こえた。子供が夜出歩くなどしない時代だったが、この日は別である。祖母や母と一緒に行った記憶はない。祖母は、桜まつりには蕎麦の屋台を引いたり、夏には氷水を売ったりしていたから、恐らく家族はそれぞれ、ヨミヤでの出店に追われていたのであろう。
       
二つ下の妹とユカタに赤い三尺を締めて、既に日が落ちて暗くなった新町の道を妹と手をつないで誓願寺の夜宮へよく行った。
すると、薄暗闇の向こうから、わたし達を呼び寄せるかのように、
「♪か~すりの女とせ~びろの男~♪」

と、三橋美智也が聞こえてくるのである。
       
田舎の夏休み中のおやつといえば、裏の畑からもぎとったキューリを縦半分に切り、真ん中を溝を作るようにくりぬいて、そこにすこし味噌を入れたのや、塩だけをつけたおにぎりである。おやつ代などもらえることはなかったが、夜宮の日にはわずかばかりだが、出店があるのでもらえるのだ。

金魚すくい、輪投げ、水ヨーヨー、線香花火、水あめ、かき氷。これら全部は回れないが、わたしたちが特に好きだったものに「はっかパイプ」があった。屋台にぶらさがっている動物や人の顔など、いろいろな作りのはっかパイプの中から好きなものを選び、首からぶら下げてはっかをスースー吸うのだ。

しかし、その出店が並ぶところへ行くまでに、どうしても避けて通ることができない、寺門をくぐってすぐ左の格子戸がある一隅があった。そこには、閻魔(えんま)大王と閻魔ばさま(ばさま=おばあさん)がどっしりと腰を据え、通る人々を見据えているのである。
       
閻魔大王はまだしも、クワッと赤い口を開き、着物を片肌脱ぎ、立膝でこちらを睨む閻魔ばさまの像には、恐ろしいものがあった。怖い怖いと思いながらも、ついつい見てしまい、閻魔ばさまと目が合っては、ブルッと体が振るえ、下を見ながらそそくさとそこを去るのである。
       
註:閻魔ばさま=奪衣婆(だつえば)
  三途の川のほとりで、亡者の衣服を奪い取るといわれる。
  奪い取られた衣服は、そこにある衣領樹(えりょうじゅ)と言う
  木の枝に引っ掛けられ、その枝の垂れ下がり具合で生前に
  犯した罪の重さがわかると言われる。

ここにはもうひとつ、目が行ってしまうものがあった。地獄絵図である。恐らくこの時期に寺のお蔵から出されて衆人に見せられるのであろう。
       
「嘘をついたら舌を抜かれる」「悪事をなせば針の山、血の海が三途の川の向こうで待ち構えている」
阿鼻叫喚の地獄絵巻は幼いわたしにとって、何よりの無言の教えであった。
       
古今東西の宗教が多かれ少なかれ、わたしたちにある程度の怖さをもって説教しているのは、人間は、こうしてはいけないと分かっていながら、つい悪行に走ってしまう、なかなかに食えないものだと分かっているからだろう。

嘘をついたことがないとは決して言えないが、人様に迷惑をかけながらも、あまり意地悪い気持を持たずして、(意地悪いのは大きな悪のひとつだとわたしは思うから)、今日まで自分が生きて来れたのは、どこかに幼い頃に見聞きした地獄絵図が刷り込まれているからかも知れない。

知識を振りかざし、堂々たる自信を持って生きている現代人は、もしかしたら、いざと言うときに、随分危ういものを抱えているのではないだろうか。久しく、「蜘蛛の糸」を読んで思ったことである。

南国土佐を後にして

2018-03-31 22:41:13 | 思い出のエッセイ
2018年3月31日


桜の花咲く季節になると、わたしには台所に立ちながらふと口をついて出てくる歌が二つある。
一つは、美空ひばりさんの「柔」だ。

♪「勝つと思うな思えば負けよ 負けてもともと」
「奥に生きてる柔の夢が一生一度を待っている」
「口で言うより手の方が速い馬鹿を相手の時じゃない」
「往くも止まるも座るも臥すも 柔一筋夜が明ける」

この歌には人生の知恵と哲学が凝固されているとわたしには思われる。だから、食事を作りながら小節(こぶし)をきかしてこの歌を唸ると、わたしはとても元気になるのだ。演歌そのものは、わたしはあまり好きではないのだが、これは別である。

「柔」と歌う部分を、心の中で「自分の夢」に置き換えてみると、苦境に立ったときも、起き上がり頭(こうべ)を上げて、また歩き出せる気がするのだ。この歌に、わたしは何度も勇気付けられて今日まで来たように思う。

もうひとつは、「南国土佐を後にして」
「南国土佐を後にして 都へ来てから幾年ぞ」で始まるこの歌は、昭和30年代にペギー葉山が歌って大ヒットした。日中戦争で中国に渡った第236連隊には高知県出身者が多く、この部隊が歌っていた「南国節」をヒントに創られた歌だと聞く。

わたしの古里は桜まつりで有名な弘前である。それが何ゆえ「南国土佐」なのかと言えば、その桜まつりに関連する。

わたしが子供のころ、「桜まつり」等とは呼ばず、「観桜会」と言ったものである。夏のねぶたまつりと並んで、観桜会には、雪国の長い冬を忍んで越した津軽の人々の熱き血潮がほとばしるのだ。弘前公園内は3千本もの桜の花咲き乱れ、出店が立ち並び、木下サーカスやオートバイサーカスが毎年やって来ては、大きなテントを張った。

「親の因果が子にむくい~」と奇怪な呼び込みで、子供心に好奇心と恐怖心を煽った異様な見世物が不気味であった。公園内には演芸場が組み立てられ、津軽三味線やじょんがら節が流れた。

わたしが12、3歳のころ、その年の観桜会でNHk「素人のど自慢大会」の公開番組があり、わたしは生まれて初めて往復葉書なるものを買い、のど自慢大会出場参加に応募したと記憶している。どんな服装で出場したかはもう覚えていない。

しかし、今のようにお出かけ用の服など持っていなかったのだから、想像はつく。きっとあの頃いつもそうであったように、両膝っこぞうの出た黒っぽいズボンであろう。黒は汚れが目立たないのであった。

そして公園の演芸場で歌ったのが「南国土佐を後にして」である。聴衆に混じって見ていた母の話では、「出だしはとてもよかった。これはヒョットすると鐘三つかな」と親ばかにも期待したそうである。

ところがである。上がっていたわたしは後半がいけませんでした。伴奏より先走ってしまったのであります。「土佐の高知の播磨橋で」に入る手前で、鐘がなりますキンコンカン、いえ、二つが鳴りましたです。
恥ずかしさにうつむいて退場するわたし。

後年、客として遊びに通っていた大阪梅田のアサヒビアハウスでスカウトされ、アメリカ留学資金を貯めていたわたしは渡りに船と、バイトで歌うことになったわけだが、ポルトガルで晩御飯を作りながら今でも時たまこの歌を歌う。さぁ、こい!今なら鐘三つもらうぞ!と端迷惑にも、ついつい力を込めて大きな声を張り上げてしまうのであった。



曽根崎署始末記

2018-02-28 13:49:39 | 思い出のエッセイ

2018年2月28日

大阪は曽根崎と聞けば、わたしなどは即、「曽根崎心中」と、「曽根崎警察署」を思い浮かべる。「曽根崎心中」は、近松門左衛門の文楽で知られる。

この世のなごり 夜もなごり。死にに行く身をたとふれば
あだしが原の道の霜 一足づつに消えて行く 夢の夢こそ あわれなれ。
あれ 数うれば暁の 七つの時が六つ鳴りて 残る一つが今生の
鐘の響きの聞きおさめ。寂滅為楽とひびくなり。


大阪商家の手代徳兵衛と遊女おはつの道行(ミチユキ)の場面である。この世で結ばれぬ恋をあの世で成就させようとする二人が、手に手を取って心中へと連れだって行く姿の哀れさは、人形劇と言えども真に迫り、見る者の心を濡らさずにはおかない。

若い時に観た人形浄瑠璃の美しさに目を、心を奪われ、わたしは近松の本を手に取り、「女殺し油の地獄」「心中天の網島」と観に行ったものである。上の道行の部分は今でも間違えずにそらんじられる。しかし、なんでまたこれに「曽根崎警察」?とお思いであろう。これが、まったく面目ないことでして^^;

息子を連れて3年ぶりに初めて帰国したわたしは夫を7ヶ月もポルトガルにほったらかして(^^;)堺のアサヒ・ビアハウスの先輩歌姫、宝木嬢宅に同居し、ビアハウスでも週に何回かバイトで歌っていました。いつ帰るとも分からないわたし達に、とうとうシビレを切らした夫が大阪まで迎えに来、ビアハウスで常連さん仲間たちがわたし達家族3人の送別会を開いてくれた、息子がまもなく2歳になろうかという夏の夜のできごとです。


↑大阪堺の宝木嬢たくの界隈で。後ろに見える自動販売機がいたく気に入ったようで、しょっちゅうここに連れていけとせがまれたものです。ご近所に皆さんもにとても可愛がってもらいました。

ビアハウスのステージも終わり閉店の夜9時半、数人のアサヒ仲間と帰路に着き、ゾロゾロ数人連れ立って梅田地下街を歩いていました。

夫がちょっと用足しに行くと言い、「はいはい、ここで待ってます」とわたし。10時頃の地下街はまだまだ人通りが多く、同行していた宝木嬢とホンの一言二言話をして、ひょいと横をみたら、い、い、いない!息子がおれへんやん!ええええ!慌てて周りを見回したものの、見当たりまへん。え~らいこっちゃです!即座に同行していた仲間と手分けして、地下街のあっちこっち走り回って探したものの、あかん・・・
  
トイレの目の前にはビルの上のオフイス街へと続く数台のエレベータードアがズラリ^^;真っ青になりました。このどれかにヨチヨチと乗っていったとしたら、いったいどうなるのだろう^^;もう泣かんばかりの面持ちです。すぐビルの夜警さんに連絡をし上を下をのとてんやわんや。
  
かれこれ1時間半も探し回りましたが、見つかるものではない。心配と探し回ったのとで皆くたびれ果てたころ、ビルの夜警さんの電話が鳴った。
「おかあさん、ちょっと出ておくんなはれ」と管理人さんに差し出された受話器の向こうから、ウェ~ンウェ~ンと大声で泣いてる息子の声が聞こえた。

「あ、もしもし、こちら曽根崎警察署です。この子ハーフちがうのん?○色のちっちゃなリュックしょって。もうオシッコでビショ濡れやで。」万が一を思い、ビルの夜警さんに頼んで曽根崎警察署に連絡を入れていたのだ。

息子は通りかかった若い数人の男女グループに連れて行かれたのか、あるいはついて行ったか。だとすると、そのグループが地下街から外へ出て置いて行ったとも考えられる。思い出してみると、丁度わたし達とすれ違いざまに、若いグループの「うわ!この子可愛い!」との声を思い出した。息子はまったく人見知りしない子だったのだ。ニコニコとついていったのだろうか。

↑宝木嬢のご近所、今は亡き土居さん宅の前。ここのご家族には本当によくしてもらいました。孫のように可愛がってもらい、居心地がよかったようです。ビアハウスのバイト時は、このお宅に息子を預け、安心して出かけて行ったものです。

わたしたち夫婦と、その日、お宅に泊まることになっていた先輩歌姫、宝木嬢たちと曽根崎署まで急いだ。署内2階で、涙と鼻水とオシッコでグショグショのジョンボーイ(ポルトガルではこう呼ばれていた)を引き取り、曽根崎署でしかとお小言をいただき、始末書を書いたのでありました。
  
いや~、これにはさすがのわたしも参りました。大騒動のその間もその後も夫は冷静で、一言とてわたしを責める言葉を口にしませんでした。この時はまったくもって面目なく、ただただ消え入りそうな思いでした。よくテレビや映画で観られる、あのホンの一瞬、目を離した隙に、ってのが実際自分の身の上におこったのです。以来、外で子供たちから目や手を離すことあるまじ、と心に決めてきたのでした。

このことは息子の記憶にないだろうな。私自身も、弘前の下町にあった祖母の家に母や妹と一緒に住んでいた3歳くらいの頃に、行方不明になり捜索に近所の人たちも狩り出されたと聞かされているが、自分の記憶にはない。

こんなとこ、似なくていいよ、息子、と、自分の不注意を誤魔化してるのだが、事なきを得たことは幸いだ。以後、わたしが子どもたちから目を離さなくなったのは、しつこいほどであります。ほんに肝に銘じた出来事ではありました。