ポルトガルの空の下で

ポルトガルの町や生活を写真とともに綴ります。また、日本恋しさに、子ども恋しさに思い出もエッセイに綴っています。

鬼さんこちら、手の鳴るほうへ

2018-02-26 18:32:35 | 思い出のエッセイ
2018年2月16日 


酒癖の悪い父のていたらくを見ては思ったものである。
「自分は飲む人になるまい。酒を飲む人を生涯の相手には絶対選ぶまい。」と。

しかし、大概の人間は、年月を経てコロッと考えが変わったりするものだ。わたしもその例にもれず、二十歳ころから飲み始めたお酒歴は恥ずかしいながら、ちょっと自慢できるかもしれない。

日本酒、ひれ酒から始まって、ストレートウイスキー、カクテル、アブサン、ブランディ、カルヴァドス、シュタインヘイガーシュナップス、そして最後に辿りついたのが、生ビールだ。

シュタインヘイガーシュナップスはドイツの焼酎とでも言えばいいのだろうか、男性的なお酒である。わたしがバイトの歌姫として歌っていたアサヒ・ビアハウスで時々味わったのだ。これはビールの合間に飲むのであって、凍らんばかりに冷えて氷霜で真っ白になった陶器のボトルから、ぐい飲み盃くらいの大きさの小さなグラスに注いで一気に飲む。

胃が「クァー!」と熱くなるくらいに強い!それもそのはず、アルコール度数は40度なのだから^^;

カルヴァドスは我が日記でしつこく何度も出てくる思い出の酒である。フランスのブランデー、りんご酒で、「Pomme d‘Eve、イヴの林檎」と言われる。

レマルクの書いた本、「凱旋門」に度々出てくるお酒の名前だ。「凱旋門」は、ドイツの強制収容所から脱走してフランスに不法入国し、その練達の腕を見込まれ、闇の手術を請け負って不安な生活を送っている医師ラヴィックと、失意に生きる端役の女優ジョアンを中心に、第二次世界大戦中のパリを描いた物語である。

この本を読んでカルヴァドスというお酒があるのを初めて知った。そして、一度は口にしてみたいと望んだものの、それが国内では不可能と分かり、ある日、仕事でパリへ寄ると言う勤め先の本社の上司に、無理矢理頼み込んで、買って来てもらったのが始まりであった。

その後、海外に出る機会があるたびに、上司は土産にと、持ってきてくれたものだ。この上司は、当時社員として初めてイギリス語学留学のためにと、一ヶ月の休暇を申し出たわたしに、その許可が出されるようにと、アドヴァイスをくれた人でもある。

カルヴァドスは甘酸っぱい林檎の強い香りとともに、わたしには苦い恋の味もしたお酒である。

わたしが幾つの時なのだろう。覚えていないのだが、小学校にあがった頃ではないかと思う。当時、父は岩手の競馬場で走っていた頃で、母とわたしと妹の母子3人は弘前の下町にある祖母の家にたくさんの叔父叔母、その家族たちと同居していた。裕福とは言えないまでも、その日その日の食うことだけはなんとか困らないで生きれた頃だった。

4月の終わりから5月初めにかけての、弘前の「観桜会」今で言う「さくら祭り」の頃である。祖母はその頃、観桜会の期間だけ、公園内で蕎麦屋の屋台を出しており、母を含めた家の他の大人たちも、それぞれに仕事をもっていて外へ出ていた。

その日は何故か、わたしの従兄弟にあたる他の子供達が家におらず、わたしと妹だけだった。

ふと水が飲みたくなったのだが、当時の田舎にはまだ水道というものが通っていなかった。台所の水場には長い取っ手を上下に動かして水を汲みあげるポンプがあった。まだ小さいわたしと妹の力では水を汲み上げることができなかったのであろうか、わたしたちは家の中のどこかに水はないかと、探し回ったのである。

と、「あった、あった!」机の上の高い棚の上に、瓶に入ったきれいな水を見つけたのだ。妹と二人、机の上に椅子まで乗せてやっと手が届き、一息にグーッと飲み干したその水・・・・その後のことをわたしは全く記憶していないのである。

結論を言えば、水と思って飲み干した瓶の中身は、実は日本酒だったのだ。外へ出て、自分と同じ年頃の近所の子供達を追い回し、「鬼さんこちら、手の鳴る方へ!」と囃し立てられ、フラフラ千鳥足でふらついていたわたしを見つけ、自分の家に運び込んで医者を呼んだのは、はす向かいの畳屋のおばあちゃんだそうだ。

わたしは「急性アルコール中毒症」で危うく命を落とすとこだったのだ。かすかに記憶にあるのは、明るい日差しを浴びた縁側のある広い畳の部屋で、自分が布団の上に寝かされて、冷たい手ぬぐいを額に当ててくれている畳屋のおばあちゃんが、ぼんやり見えたことだけである。後はなにも覚えていない。

後年、時計屋をしていた人のいい叔父が、保証人として判子を押した相手が夜逃げしてしまい、その負債のため祖母は下町の家を売り払わなければならなくなり、わたしたち大家族は以後ちりぢりになったのだが、少し大きくなってから時々下町を訪れると、わたしは決まって畳屋のおばあちゃんや近所の人たちから言われたものである。「あの時の酔っ払ったゆーこちゃんがねぇ~」

「自分は酒飲みにはなるまい」とは大きく出たものだ。何のことはない、6、7歳にして既にわたしは酒飲みの洗礼済みであった。

1964年夏・江東区の夕日

2018-02-14 23:43:22 | 思い出のエッセイ
2018年2月14日 


画像はWikipediaから。


映画「Always 三丁目の夕日」の続編として「Always 三丁目の夕日´64」は、東京タワーも既に完成し、その年の10月には東京オリンピックが開催された年を背景にしています。日本中がそのスポーツ祭典に熱狂した年でもあります。東京オリンピックは「オリンピック景気」と言う経済景気を日本社会に吹き込み、日本の新しい技術が発展する土台にもなりました。

その東京オリンピックが開催された1964年は、わたしにとって忘れられない年でもあります。以下。


「1964年夏・江東区の夕日」

現在の住居のフラットからすぐ目と鼻の先にわたし達一家の旧住まいがある。当時でも既に築70年はたっていたであろう。あちこちにガタが来ていて、雨季の冬には壁に結露があらわれ、娘が赤ん坊の
ころは毎朝起きてはすぐその結露を拭き取るのが日課であった。

冬は隙間風が入り我が家を訪れる日本人客はみな寒い寒いと、ストーブの前から動くものではなかった。しかし、家の裏にあたる、台所からの眺めは格別であった。

当時の我が家は借家で、「Moradia=モラディア」とポルトガルで呼ばれる3階建ての一番上。勝手口からは庭に通ずる屋根のない石段が続いており、その庭の後ろは、だだっ広いジョアキンおじさんの畑である。

そして畑の向こうはフットボール場だ。試合のあるときなどは、勝手口の階段の踊り場に椅子を持ち出して観戦できるのである。夏の宵には吹奏楽団のコンサートも家にいながらにして聴く事ができた。
  
その家での16年間、春には一面まっ黄色になるジョアキンおじさんの菜の花畑の世界に心和み、秋に夜にはとうもろこし畑のザワザワと歌う音を楽しみ、そして真冬の夜半には、小型の天体望遠鏡を持ち出して月面のクレーターやかろうじてキャッチできる木星の衛生に見入ったものだ。
  
夜空の観察に文明の利器の街灯や高層マンションの明かりなどはジャマになるだけで、この明かりがなかったら星の観察もどんなにかいいだろうと思った。

しかし、それにも増して素晴らしかったのは夕暮れ時だ。言葉を失うほどの一瞬の一日の終わりの美を自然が目の前に描いてくれるのである。勝手口から見える向こうの林と、そのまた向こうに見える町に、大きな真っ赤な夕日が膨らみ、ゆがみながら沈んでいく様に、しばしわたしは夕げの支度を忘れ見入ってしまったものだ。

やがて群青色の空が少しずつ天空の端から暗くなり、天上に明るい星がポツリポツリと灯ってくる情景は、もはや、わたしの稚拙な文章力ではとても表現しきれない。それを見る特等席は、実は勝手口よりもその隣にある息子の部屋の窓なのであった。
  
幾度もそうやって、わたしは夕暮れ時の贈り物を天からいただいていたのである。どんな写真でもどんな絵画でも見ることのできない、空間をキャンバスにした素晴らしい絵画の一瞬であった。

わたしには、忘れ得ぬもうひとつの夕日がある。

高校3年の夏休み前、親に先立つものがないのは分かっていても進学を諦めきれず、就職の話に乗ろうとしないわたしの様子を見かねた英語教師がなんとか取り付けてくれた話に、朝日新聞奨学生夏季体験があった。

この制度の何と言っても魅力だったのは、大学入学金を貸与してくれることである。4年間新聞専売店に住み込みし、朝夕刊を配達しながら大学に通うことができる。その間は少額ではあるが、月々給与も出るし、朝食夕食もついているのだ。女子の奨学生体験は初めてだったと記憶している。

高校3年の夏、往復の旅費も支給され、初めてわたしは東京へのぼった。東京の江東区、当時はゼロ地帯(海抜ゼロメートル)と言われた、とある下町の新聞専売店だ。

その専売店にはすでに数人の夜間大学生や昼間大学に通う者、また中学卒業後、住み込んで働いている者など、男子が数名いた。

二階の一つ部屋に男子はみな雑魚寝である。隣にあるもう一部屋には、賄を切り回していた溌剌な25,6歳の、おそらく専売店の親戚であろうと思われる女性がひとり、専用としていた。そこに一緒に寝起きすることになったのである。

新聞専売店の朝は早い。4時起きである。ちらしを新聞の間に挟みこむのも仕事だ。そうしてそれが終わったあと、配達に出る。夏の早朝の仕事は、むしろ快かった。

なにしろ初体験のしかも女子である、部数はかなり少なくしてくれたはずだ。いったい何部ほど担いだのか、今では覚えていない。狭い路地奥の家に配達する際には、毎回イヌに吠えられ、怖くてけつまづきそうになって走り抜け、両脇の塀に腕を打って擦り傷を何度こしらえたことであろう。それでも、大学に行けるという大きな可能性の前に、くじけるものではなかった。
 
しかし、仕事の内容は配達だけではなかったのである。集金、これはなんとかなる。拡張、つまり勧誘です、これが、わたしにはどうにもできなかったのでした。
  
「こちらさんが新聞を取ってくれることによって、わたしは大学に行くことができます。どうかお願いします」という「苦学生」を売り物にするのだ。教えてもらったこの売りが、わたしはできなかったのであります。

確かに自分は苦学生と呼ばれることになるのだろうけれども、それを売り物にすることは、わたしの中で小さなプライドが立ちはだかり、その売りをすることを許さなかったのである。

日中、頑として、勧誘先の玄関に入ろうとしないわたしを見て、中卒後そこで働いていてわたしの指導員をしていたHは、自分が入り一件取って来た。
「ほら、とってきた。とらないとお前の成績はあがらないぞ。成績があがらないと、金だってちゃんともらえないのだ。お前がとったことにするから、いいな。」

助け船をだしてもらいながら、情けなさとやりきれない思いとで、自分自身がつぶれてしまいそうな午後だった。

その日の夕刊配達を終えると、江東区の空は真っ赤に染まった夕焼けであった。おかしなもので、それまで気にもならなかったのに、、その日は、自分と行き交う同年代の若者達が目に眩しく、肩に担ぐべく夕刊新聞は配達し終えたと言うのに、何かがズシリと重くのしかかり、不意にこみ上げてくるやり場のない哀しみをわたしは噛み砕くことができなかった。

赤銅色の、焼き尽くせない孤独を湛えた江東区の夕日。わたしはその時進学を断念したのだった。


47年後の再会:You are my sunshine

2018-01-24 22:26:15 | 思い出のエッセイ
2018年1月24日

今日も古い話にお付き合いください。


 弘前でこんな懐かしい昔の映画看板を見た。

4月中旬から一ヶ月ほど日本に滞在した2013年のことである。ちょうど桜の季節で、故郷弘前の桜を観ようと妹に誘われて彼ら夫婦と一緒に東北自動車道路を行きは8時間、帰路は9時間をかけて往復してきた。

故郷の桜を最後に目にしたのはわたしが20歳ころのことで、以来ずっとその季節になると見事な弘前公園のさくらを恋うことはあっても訪れる機会がないままに、47年の歳月が過ぎていた。


若かりし日の裕ちゃん

公園一杯がさくらで埋まる光景を胸にいだき訪れた4月も中旬過ぎの弘前は、思ったよりもグンと寒く、わたしが滞在した3日間ではついぞ固い蕾が開くことはなかった。47年ぶりに見に行ったと言うのにつれないヤツめ、と悔しがりながらも、これは「もう一度来ないとわたしの優雅華麗な姿は、そう容易に見せてはやらぬぞ」と言っているのだろうと思い直した。

桜をみることができなかったのは残念だったが、4月に一時帰国するとのブログ記事を目にした高校時代の同窓生の一人が、「ソデが帰ってくるみたいだぞ」とニュースを広めてくれ、嬉しいことに急遽、歓迎会をという段になったようだ。音頭を取ってくれたのは我が友を中心の女子たちだ。

その友がメールで言う。「サプライズがあるよ」。会場は何かのときに必ず同窓生が集まるという行きつけのスナック「あすなろ」だ。同窓生の一人が経営している。


小雨が降ったり止んだりのその日の夕方、わたしはポルトガルから持ってきたワインのVinho Verde「Alvalinho」を手に二人の同窓生と連れ立ってスナック「あすなろ」へ足を向けた。嬉しいことに恩師もおいでになり、一人二人と知った顔が集まっておしゃべり飲み会は始まった。「あすなろ」は完全に貸切状態になっていた。

恩師や同窓生たちとは卒業後初めてわたしが出席した2004年の一期会同窓会で39年ぶりに再会している。

やがて少し遅れて「あすなろ」のドアを開けて入ってきた男子(こう呼びたいw)が近づくなりわたしに「俺を覚えてる?」。一瞬名前が出てこなかったが、あ!とすぐに思い出した。

「次回ソデが来るときは是非連絡してくれ」と言っていたので声をかけたのだと友が言う。ふむふむ、これがサプライズだったのか^^高校卒業以来の再会だ。

小○君とは色々懐かしい思い出がある。よく青臭い議論を闘わしたし、わたしは彼から当時の恋人の相談を受けたりして彼の家を訪ねることもあった。結局恋人は他に嫁ぎ彼と結ばれることはなかったのだが。

校内の文化祭では二人が中心になり喉自慢なる出し物を作ってみた。彼はトランペットができたので、わたしはウクレレ、ビブラフォーンを担当しそれにギターを加えての即席バンドを結成し、今からすればなんとも不可思議なバンドではあった。このバンド結成とプログラムを進める上で二人の意見が合わず大いにやりあったことを覚えている。

飲みながら食べながら、「二人で歌ったのを覚えてるか?」と彼が言う。「お前が歌詞を教えてくれてYou are my sunshineを歌ったんだぜ」それを今でも覚えてる、歌えるぞ」 騒がしいおしゃべりの中、二人でその歌をハモってみた。

♪You are my sunshine, my only sunshine
You make me happy when skies are blue

学生時代の音楽ではいつもそうであったように、わたしはそのときも低音部を歌った。歓迎会で市会議員の顔を捨てた小○君と47年ぶりにハミングするYou are my sunshineはお互い声の張りもすっかりなくなったが懐かしい学生時代に我らを帰らせた一瞬ではあった。

10人ほども集まってくれた歓迎会がそろそろ興に入ろうかと言うころに、再び「あすなろ」のドアがスーッと開き雨傘をたたんで入ってきた御仁がいた。その瞬間、「あっ!」と声にこそ出さなかったが内心はまさにそれであり、わたしは目を見張った。それは、高校卒業しなに、「5年後にこの喫茶店ひまわりで逢おう」と約束をした、あのK君だった。(こちらのエピソード「探し物は何ですか?」に登場しています)


弘前はステキなカフェが多い

痩せもせず太りもせず昔とたがわぬ姿のK君が「こんばんは」とメンバーの中に入ってきた。これが友の言っていたサプライズだったのだ。

しかし、どうして彼ら同級生たち、知ってるのだ?我ら、周囲に気づかれないよう密かに付き合っていたつもりであった。付き合うといってもせいぜい当時は学校で禁じられていた喫茶店でお茶を飲んだり、手紙の交換をしたりくらいである。


弘前

北海道の大学に進学したK君と片や進学を諦めて東京から大阪へ移動したわたしだが、卒業を前にして、少し言い合いをした。やがて音信不通になり、自ずとそれぞれの道を歩むことに相成り、以後一度も人生で交差することはなかった。

それで、彼ら、どうして知ってるのだ?なのである。「なに言ってるの。知らぬは本人ばかりなり。みんな周囲は知ってたさ」と同級生たちが言う。よくある話ではないか。

お久しぶり。とお互いに挨拶。
なんじゃいな、この挨拶は(笑) もう少し気の利いた挨拶の仕方はなかったものかと後で思ったのだが、懐かしい思いとは裏腹に、歓迎会に集まったメンバーたちの中にいては、ついつい遠慮も出てしまい、47年ぶりの再会だと言うのに、小○君との様にワイワイとは行かず、なんというぎこちなさ。却ってサプライズを用意してくれた友には「悪かったかな」などといわれる始末であった。

友よ、悪くはなかったよ。嬉しかったです。ただ気持ちの準備ができていなかった・・・^^;だからこそサプライズなんだけどね。それにズルイよ。K君はわたしの歓迎会と知ってきたのではないかいな?と愚痴るも後の祭り。

後日、この日のことを振り返ってみると、自分のウブさがちょっとおかしかった。「やぁやぁ、お久しぶり!お元気?」くらいにK君に言ってやっても良かったのだ。

その後、会合では、小難しい文章をよく書いていた、理解するのが難しかったぞとK君を含め男子数人の酒の肴にされたわたしだが、群れの中に簡単に入らなかった高校時代のわたしを、今こうして同窓生の一員として迎えてくれる彼らに心から感謝したのであった。

同窓会というのは面白い。忘れかけていた、もしくは忘れてしまっていた遠い昔のエピソードが、同窓生の口からポロリポロリとこぼれる。

「お前が家出をするっていうから、俺と○○と二人で夜インスタントラーメンの差し入れにお前んちへ行ったのを覚えてるか?」と突然、同窓生の一人。

うげ!そんなことあったっけ?家出はしたが、差し入れのラーメンはさっぱり覚えていない。わたしの記憶もいい加減なものである。

別れ際、「もうこれで、死ぬまで会えないかもしれないね」と小○君。おいおい、それはなしで行きましょう。また、来ます。また会います。そして、「お元気で」と47年ぶりに再会したK君とは握手して歓迎会を後にした。

これが5年前の出来事だ。
今年、2018年の5月には昨年秋にはもう妹夫婦と行く弘前のホテルの予約を入れており訪れることになっている。5年ぶりに同窓生たちに再会できるのが実は待ち遠しいくてたまらないのである。

人生のカラクリは縦横に絡んで、今は我が人生を豊かなものにしてくれている。

「Nothing gold can stay.(若き日の黄金の輝きは永遠に続かない)」とは、アメリカの詩人、ロバート・フロストの詩の一節なのですが、若い頃の瑞々しい輝きは失われても、いぶし銀が輝くように生きようではないか。

では、また。


人生はカラクリに満ちている(2)

2018-01-23 10:26:09 | 思い出のエッセイ
18年1月23日 

この後、わたしたちは時々電話でお互いの近況を語ってきたのだが、この9月、わたしが帰国した折に40年ぶりに再会することができた。みなさま、40年ですよ、40年!10年ひと昔で、20年がふた昔、
そのふた昔が二回繰り返す月日の流れですぞ。

ところがですね、このわたしのすることと来たら、まったくもって情けない。いやもう、毎度のことではあるが、我ながら今回はがっくりコウベも双肩に陥没、入る穴を探す気力も失うほどの大失敗をしでかしてきたのでありました。

会う約束の当日、「ああ一体、彼女はどんな風に変わってるだろうか」と胸膨らませて、西船橋で電車を乗り継ぎ、子供たちのアパートからかなり近いところに住んでいる彼女の家の駅へ向かった、電車を下りた、待ち合わせ場所の改札口へゆっくり足を運んだ。

改札口には・・・・誰もいない・・・・ひとっこ一人いない・・・・ふむ、ちょっと遅れてくるな?と合点し、ドキドキしながら改札口の内側でしばらく待った。が・・あれ?現れんぞ^^;

そこで当時は日本で使えるケータイを持ってないわたし、赤電話でまずは彼女のケータイへダイヤルを回すが、応答なし。次には自宅へ電話をしたが、ウンもスンもない。 おい!と少し胸騒ぎがした。もしかしたら、電話番号を間違って控えたのかもしれない。

会社で仕事をしているモイケル娘のケータイへ確認の電話を入れたのだが、こっちもウンもスンもない。何度電話しても出ない!(後で娘が帰宅して分かったことだが、この日に限ってモイケル娘、ケータイを家に忘れていったんだと~!出るわけがございんせんわい)

何度も何度も我が友モリのケータイに電話を入れ、やっと出た彼女に
「今、あなたの家の駅にいる」と言うと、
「え、駅ってどのえきぃ~?」
「だから、ほら、○○○駅よ」
「あ、あぁた・・・」
@@@@@@!!!

待ち合わせ場所はそこじゃなくて船橋駅じゃとーーー!

頭で鐘が鳴ります、ギンゴンゴ~~ン。もう慌てました!足がもつれるほどに走って来た道を電車で逆戻り!あぁあぁあぁ、これだもんなぁ、わたしって^^;これが40年ぶりの再会に起こることか!

ようやく我が友に40年ぶりに再会したのは約束の時間を過ぎること一時間とは、なんちゅう情けなさ。

行き交う人の多い船橋駅で、それでもわたしたちはすぐにお互いを見つけることができた。
わたしの中の彼女のイメージは、「背の高い大柄のモリ」だったのが、その記憶を訂正しなければならなかったのでした。

「あなたがアメリカへ渡ったと風の噂を聞き、カリフォルニアへ旅行に行った時もこの広いアメリカのどこかに、あなたがいるんだと思ったものよ。ホントにずっと探してた。こうして再び会えたなんて夢みたいだ」

声も話し方の癖も中学時代の名残があり、わたしたちはお互いの過ぎ越しを交歓しながら40年という時空をまるで取り戻しでもするかのように、ひたすらおしゃべりしたのでした。


あれから40年も経ってしまったのが嘘のように、あの頃の親友同士時代に戻れたわたしたちでした。もう行方がわからない、なんてことはないよね。こうして、お互いが無事今日まで生きてこれたことに、そして再び会えたことに、心から感謝して。

うん、人生は凄いカラクリに満ちているなぁ。

今日は普段にも増しての長い記事、最後までお付き合いいただきありがとうございました。みなさんにも、こんな素晴らしい人生のカラクリが分かるような出来事が訪れますように^^

思い出のバスに乗って

2018-01-16 17:28:04 | 思い出のエッセイ
2018年1月16日

今日は子どもの頃の思い出話です。


「オリャー!」 
「ッとー!」
「え~い、ちょ、ちょこざいな小僧め。名を、名をなのれ!。」
「赤胴、鈴之助だ!」←元気な若い声

ここから主題曲始まるw 
        
♪剣をとっては日本一の 夢は大きな少年剣士
 親はいないが元気な笑顔
 弱いものには味方する  
 お!がんばれ強いぞ 
 僕らの仲間 赤胴鈴之助

これ、ご存知でしょうかw 
幼い頃を弘前の下町で過ごしたわたしは、何を隠そう、近所のガキ大将だったのでした。学校がひけて家へ帰り、することはと言えば、宿題などほとんどなかった当時だ、よって、夕方まで子供達は外で遊びほうけることができたのです。

テレビは当然なかったですから、もっぱら自然を相手の、ちっともお金のかからない遊びばかりでした。その最たるものが、チャンバラごっこ。チャンバラっつったって、木刀とか竹刀とかそんな上等なものを持つんじゃなくて、ちょっと長めの棒っきれをとって振り回すんです。近所でわたしを打ち負かす子はおらんかったです、ハイw

ところがですね、これがあぁた、学校へ行きますと押し黙った貝ですわ。ひと学期に一度も発言がなかったとか、一度も挙手がなかった、とかそういうことが、通信簿に書かれてきますねん。言うなれば、究極の内弁慶ですな。ま、これはさておいて。

冒頭に掲げた節、これは当時のNHKラジオドラマ、「赤胴鈴之助」の毎回のプロローグなのです^^
毎夕方6時から15分間(だったと思うが^^;)、子供達は各家庭のラジオの前に集まって、時には手に汗握りながら、時には主人公と情を同じくして悔しさを噛みしめながら、ラジオから流れてくる朗読に耳を傾ける。

こうして聴いたラジオドラマは今でもわたしの心に残っています。この「赤胴鈴之助」のみならず、「紅孔雀」「黄金孔雀城」「オテナの塔」「ああ、無情」そして、これまた大好きだった「怪人二十面相」。
わっはっはっは。これじゃぁ、すっかりおん歳がバレちまいますが、なんのなんの。

怪人二十面相にいたっては、ドラマを真似て、ご近所の手下どもを集めては「下町少年探偵団」なるものまで結成したのでありました。

子供の世界とは言え、犬猫同様、それぞれ子供グループの遊ぶ縄張りがあるのでして、その縄張りを侵す危険までして探検した「下町少年探偵団」!これはスリル満点の遊びでした。

視覚に訴える現代の映像は、たしかにわたしたちをあたかもその場にいるかのような錯覚を与えます。教育現場、家庭などでも視覚教育が取り上げられてからもうかなりの年数を経ました。

しかし、テレビのなかったわたしの幼い頃、子供達は視覚に頼らずラジオで朗読を聴き、自分の想像を拡げていったように思う。それは、テレビをひねれば、電源を入れれば映像が入ってくる、と言うような受動的なものではなく、自らが想像で創りだす、能動的なものでした。

映像のなかった時代の方が、はるかに想像力、かつ創造力を拡げることができたような気がしてしまうのは、不思議なことです。

思い出のバスに乗って
黄色い帽子の子が走ってくる
人差し指の 向こうの坂道

わたしは、時折、こうして遥かなる過ぎ去った日の時間に思いを馳せ、思い出のバスにヒョイと乗ってみます。坂道の向こうには、祖母が、父母が、大所帯で一緒に住んだおじおばが、従兄弟たちが、そして、下町少年探偵団がニコッと笑っているのが見える気がするのです。