ポルトガルの空の下で

ポルトガルの町や生活を写真とともに綴ります。また、日本恋しさに、子ども恋しさに思い出もエッセイに綴っています。

恩腸上野動物園?

2017-09-13 07:54:25 | 思い出のエッセイ
2017年9月13日 

メールで用件を済ます現代では、簡潔で短い文章が好まれると思います。

が、正式なものとなると、どこの国にも改まったメールや手紙の書き方には形式があります。若い頃は私信ならいざ知らず、わたしは一般社会に通用する形式的な手紙の書き始めも分からず、会社勤めをしているうちに事務職の一環として学ぶようになりました。
「拝啓、謹啓、前略」「敬具、拝具、草々」と始めと終わりは使われる言葉は決まってきます。

日本語を教えていて気づいたのですが、わたしたち日本人は「前略」で始まる場合は別として、手紙の書き始めは、必ずと言っていいほど、時候の挨拶から始まります。

「朝晩めっきり涼しくなりましたが、みなさま、いかがお過ごしでしょうか」とか、「春爛漫、桜の花が満開の今日このごろ」とかです。わたしなどは、「本日は心も吸い込まれてしまいそうな真っ青な秋空のポルトです」などと書き始めたりします。

夫を始め外国人の友人に宛てて書いた英文の手紙でも、日本語と同じように時候の挨拶から常に書いてきたのですが、どうもわたしの知ってる外国ではそのような手紙の始め方をしないようで、「とても詩的な手紙ですね」とまで言われたことがあります。

日本の書店を覗いて気づくのですが、京都、奈良を始め、自然をテーマにした写真集のなんと多いことでしょう。

日本人の伝統文化、生活文化は、ひも解けば全て自然とのつながりに帰っていくと思います。手紙の書き始めにまで、外国人をして詩的と言わせしめる わたしたち日本人の自然を愛でる心は古(いにしえ)から今に至るまで、受け継がれて来たと思われます。詩に自然を詠み崇める文化をわたしは美しいと思っています。

さて、我がモイケル娘が東京の大学に2年いたわけですが、その時に授業の一環で、上野動物園にインタビューをするということありました。お願いの手紙を書くということだったので、もしかしたら、「上野動物園」と
言うのは、通称で正式名がありはしないか?
「見知らぬところへの宛先は、できるだけ正確に正式に書くのが礼儀であるぞ。」とモイケル娘に言いもって検索しましたら、案の定、でましたぞ!

「へぇ~。調べてみるもんだね。オンチョウ上野動物園てのが正式名だってよ?」と、スカイプで娘に名前を示し、

母 「やはり、大学生がお願いにあがる手紙だ。きっちりとオンチョウ上野動物園と宛名書くべし。受け取る側も、  お!てなもんで、ちゃんと読んでもらえるかもね^^」

娘 「おっかさん、あの・・・チョウってね、肉付き(月)に易じゃなくて、貝に易になってるじょ・・・」
母 「うん、だからチョウじゃ」(←なにも聞いてない母w)
娘 「でも・・・おっかさんは、恩腸上野動物園と書いてるよ。貝に易の賜だってば^^;」
母 「んん?え?え?・・・・腸じゃない?賜?・・・・」
娘 「できるだけ正式に、って・・・おっかさんを信じてそのまま恩腸上野動物園御中なんて書かされるとこだった。
ま、それも、誤字のお笑いで目立つことは目立つんだが」

ご~~ん。つまり、「恩賜=おんし上野動物園」が正式名なのだそうです。みなさんはご存知でしたか?いえ、わたしの勘違いは別にして上野動物園の正式名のことです。わたしはその時初めて知り、漢字を見間違ったのを娘に訂正されたものでシッカと覚えましたです^^

それにしても、相も変わらずそそっかしいわたくしではありました(笑)娘がわたしより比較的しっかりしてるからよかったものの、下手するとこの日記にまで「恩腸上野動物園が正式名だ」と書くとこやった^^;
くわばらくわばら。

極限状態

2017-09-11 07:45:32 | 思い出のエッセイ
2017年9月11日

2001年の今日、テレビに映し出される倒壊する世界貿易センタービルの画像を見た時は呆然とし、次に胸のドキドキがなかなか治まりませんでした。

あのような極限状態になったら自分はどんな行動を取るだろうかと当時は幾度も考えたものです。生きている間には色々なことがあるのですが、戦後生まれのわたしは極限状態というものを経験していません。

親が貧しかったので、3合の米を買いに行かされたりして、その日の食うのに困ったことはあるが、それは極限状態とは言えない。20歳の頃は、失恋して仕事を放ってしまい、一週間ほども外出できなくなり、小さなアパートに閉じこもって飲まず食わずの日々もあったが、それもまた極限状態とは言わない。

強いて「わたしの極限状態は?」と言うならば、一度だけ心臓が止まるかと思うほど緊迫したことがあります。今日はその話です。

アメリカから無一文で日本に帰った1978年、しばらくは親友のご両親の家に「いらっしゃい」と招待され居候していたが、いい年をして、いつまでも甘えるわけには行かない。

渡米前に住んでいたアパートの家主さん、安養寺氏と言ったが、検事から裁判長にのし上がった人でトウの昔に定年退職いた。当時は80歳ほどでその人が家が二間空いているから「おいで」と言ってくれ、安い部屋代でそこへ間借りに移った。大阪は枚方である。

80歳とは言え自分で自家用車を運転して、週末は熱海の別荘へ出かけるほどのカクシャクさ。自宅も○○庵と名前がついていた。

奥さんはというと医者で、医院と同棟にある家にほとんどいて、氏の○○庵にはお手伝いさんが週に何回か来て家事をして行くのであった。

アサヒビアハウスでバイト歌姫カムバックしてわたしは再び歌っていたのだが、そんなある夜、留学していたアリゾナ時代に同じ下宿にいた若い日本人の友人トミオ君の友達ジョン君、22歳がひょっこりそのアサヒに姿を現し、これには驚いた。彼に会ったのはたったの一度である。

「今日、日本に着いた。そのうちトミオの東北の家に行くんだが、しばらく大阪にいたい。泊めてくれないか?」との言うのだ。

自分のアパート暮なら、「いいよ」で気安く宿を提供するのだが、間借りとなるとそうも行かない。ちょうどその日、ビアハウスの同じテーブルにいたオフィス時代のかつての同僚(「アリゾナの空は青かった」に登場するザワちゃんです。彼もわたしの後、すぐ大阪へ帰ってきたのでした^^)に、頼んで見たが、「明日からならいい。だが、今日はだめ。」とのこと。

アメリカの若い人は金はあまりもたないし、できるだけ使わないで旅行をする。さぁて、困った・・・しかし運よくその日は金曜日で週末、安養寺氏は熱海の別荘に出かけていた。

仕方ない、おじいさん、ほんとうに申し訳ないけど、これも国際親善よ。わたしの部屋の続き間になって空いてる一間、今晩だけ貸して!とまぁ、ジョン君は一晩だけ○○庵に泊まることになったのである。

ジョン君は生まれて初めての和室、布団にグ~スカ寝入り、わたしもそろそろ寝ようかと思った11時も過ぎた頃、表でス~ッと車の止まる音がした・・・
「まさか!」 こういう時のわたしの勘はするどい。窓から覗いて見ると、屋根越しに、「あちゃ~、安養寺氏、ご帰宅ではないか!さぁ、大変!えらいこっちゃ!

咄嗟にわたしは階段を下りて玄関口にまっしぐら!(部屋は二階であった)反射的にこういう行動がとれたのに、後日、われながら大いに感心したのであるが(笑)

つまり、その・・・玄関にまっしぐらというのは、ジョン君のヨレヨレの男物の靴が一足、置いてあるからである。
それをひっ抱えて再び二階へあがり、隣室で寝ているジョン君を揺り起こし、「Mr.安養寺´s back!(安養寺さん、帰ってきた!)いい?朝まで物音立てるなや!」心臓のバクバクがずっと止まらずその夜は眠れるわけもない絶体絶命状態であった。

翌早朝、わたしはジョン君の靴とバッグを自分の部屋の窓から庭へ投げ落とし、ついでにジョン君をも屋根からそうやって落としたい気持ちに駆られたが、これはできなかった^^;

よってジョン君は、抜き足差し足忍び足・・・ギィ~ギィ~ときしる階段音立てて、可哀相に異国の早朝の見知らぬ町へと姿を消してもらったのでした・・・^^;

わたしはその後、頭から布団を被って落ち着こうとするも、心臓バクバク。その日は安養寺氏と顔を合わせるのが怖くてそそくさと外出したのである。

安養寺氏は気づいていたとわたしは思っています。お年寄りって早朝に目が覚めますしわずかな音でも気づくものです。トイレが下にありましたから、わたしが降りたと最初は思っても、一向に上って来ないのは不思議でしょう?しかし、氏は何も言いませんでした。うん、立派な元裁判長さんでした^^

極限状態が今ではこんなズッコケ話で済むのは幸せなことだと思います。

牛のばふん

2017-09-06 20:42:01 | 思い出のエッセイ
2017年9月5日

今日は思い出の坂道をちょいと上ってみます。

高校時代、学校へはバス通学か徒歩だった。徒歩だと我が埴生の家からは40分近くかかる距離である。
うっそうとした樹木を両脇に歩き、そして、新校舎が建築されるまでの向こう一年間、一時しのぎとして、それまで使用されていなかった古びた中学校を仮校舎とした我が母校であった。



学校近くまで来ると、今度は周囲が林檎畑になるその道をわたしは随分楽しんだものだ。

時間がなくてバス代がある日はバスで、時間があるとき、または、時間がなくてもバス代がないときは、例え遅刻になるのが分かったとしても40分徒歩登校だ(笑) 定期券を買うまとまったお金を親が持たない時である。

さて、その高校に入学してすぐのことだった。その日は当時中学生だった妹と家を出て、バス停に向かって歩いていた。と、妹が突然、足元の少し先の地面を指差し、
「あ、牛の馬糞(ばふん)だ!」
「イヤだねぇ。気をつけようっと」と、そこを避けてバス停にたどり着き妹の学校とは逆方向へと登校した。

高校生活初日の第一時間目の授業である。ぬぬ。「漢文」とはこれまで見たこともなし。今では中3の国語教科書で漢文のさわりが出るが、当時は中3カリキュラムにはなかったと思う。教室に入ってきたのは、四角いいかつい顔をした中年の男の先生であった。この先生は教頭でもあったのだ。

授業がなんだかよく分からぬ・・・ 少し眠気が差して来始めたころ、どういう拍子でか、今朝方の妹の言った言葉が唐突に頭の浮かんだ。
「牛の馬糞・・・・待てよ、おかしいじゃないか。牛の馬糞てことはないぞ。牛だったら牛糞だぞ。辻褄が合わんではないか。」「あっはははは。妹ったら頭良さそなカッコして、牛の馬糞だってよ~」と、頭の中で言い出したのがウンの尽き!(これまた、ウンでした

わたしはすっかり可笑しくなり、この言葉が頭から離れなくkなったのである。
初めは一人胸の中でクスクス笑っていたのが、その内「クックックックック」と笑いが口をついて出てきそうになり、それをこらえるのに席に座ったまま、少しうずくまるような格好で小腹を抱えた。
しかし、一向に「牛の馬糞」は頭を去らない。

去らないどころか、笑いをこらえきれなくなって、とうとうわたしは漢文の授業中に「ワーッハッハッハッハッ!」
と大笑いしてしまったのである。

驚いたのはクラスの皆。一斉にこちらを振り向き、漢文の先生に至っては、恐ろしい形相で睨みつける・・・
ショッパナからこんなことをしでかした女生徒は、以後、漢文の先生にすっかり目をつけられてしまったのであった。

今では日本に帰国した際、笑い話として妹との間によく上る話題の一つになりました。

後の弘前高校に入った我が妹が先生の娘さんと友人だったとの話しも聞き、また、2004年の帰国時に39年ぶりに出席した弘前の同窓会でお会いした時、先生は、車椅子に座っておられました。

時々この「牛の馬糞」で授業中に大笑いしたあの日のことを台所で思い出したりすると、あれやこれやとあの頃のことがしきりに思い出され、可笑しくていつもに輪をかけボケ~ッとしてしまい、切ったトマトに岩塩ならず砂糖をふりかけていたのも食卓で食べるまで気づかなかいことになるのである。 そして、これまた本日は「ふふん」と閉じるわたしでありますれば。

本日もお付き合いくださり、ありがとうございます。