ポルトガルの空の下で

ポルトガルの町や生活を写真とともに綴ります。また、日本恋しさに、子ども恋しさに思い出もエッセイに綴っています。

杉本町純情:アルハンブラの思い出

2017-11-08 19:27:32 | 思い出のエッセイ
2017年11月8日 

今日は思い出話です。

思い出話をすると、「そんな時代にわたしも生まれたかったなぁ。」と、我が娘が羨む、1960年代後半、わたしの19から20歳にかけての、今日は話である。

その昔、大阪は杉本町、大阪市立大学の近辺に「津国ビル」と呼ばれる大きな下宿ビルがあった。コの字型の二棟に分かれている下宿ビルは、三階建てで200部屋ほどがあった。個室は三畳、それに小さな押入れがついているだけだ。机を入れたらベッドは入らない、ベッドを入れたら机は入らないのである。一階には大きな食堂があり、まかない付き、トイレは共同で、風呂はなし。よってみな近所の銭湯へ出かける。

さて、下宿人だが、これが200人くらいの中に女性はわたしも含め、たったの5、6人。残りは全部男性である。下宿人たちの職業は様々で、夜間高校生、大学生、各種学校生、予備校生、若い高校教師、写真家、サラリーマン、そしてわたしのような、今で言うフリーター(そう言えば、わたしなどフリーターのハシリかも知れないw)といった具合の集まりであった。
わずかの衣類と借り物である寝具を引っさげて、わたしはとあるきっかけでその下宿屋に紛れ込んだのである。

上述の職業からわかるように、津国ビルは若人の花盛り。多少年齢がいったとしてもせいぜい30歳を少し超えるである。年配の管理人夫婦がいて、玄関口を入って左側に事務所があり、電話は呼び出しだ。電話が入ると校内放送ならず、下宿内放送で、「○○号室のspacesisさん、電話です。事務所までお出でください。」と呼び出しされる。話の内容は、管理人には筒抜けである。まかないは朝6時から9時までの朝食と、夕方6時から9時までの夕食の2食である。

これだけ若者が集まっていると、外での交友よりその下宿屋内での友だちづきあいが多くなり、わたしはよく大阪市大や私立の学生たち、イラストレーターのタマゴ、タイプ学校の学生たちの仲間に入っては、毎晩のように一部屋に集り、明け方まで人生論にふけこむこと、日常茶飯事であった。そして、朝一番、6時の朝食めがけてわたし達はドドッと食堂になだれ込むのであった。

朝食にはまだ早い6時前、この時間になると眠気はすっかり吹っ飛んでしまうものだが、しかし、話もだいたいおさまってひとまず解散、各々の部屋に引きあげようとなったある朝、玄関口の板場に座り、靴紐の結びをほどいている若者に出会った。

「おや、朝帰りですか?」と無遠慮に尋ねたわたしに、「いや、今一仕事終えてきたとこです」。
どこか幼さを残すがしっかりしたような印象を受けたその若者は、聞いてみると新聞配達をしながら下宿生活をしている夜間高校生であった。わたしと同じ棟に住むのであるが、そのときわたしは初めて彼と顔を合わしたのであった。I君、16歳、両親をとうに亡くしていた。

早朝に玄関先で言葉を交わしたこの時がきっかけとなり、お互いの時間が空いている暇を見ては、色々な話ををしたり本を貸しあったりする付き合いが始まった。わたしたちが会う場所は、日中は洗濯ものだらけでも、夜はあまり人が行かない屋上である。

そこからは少し離れて杉本町の操車場が見えた。今と違って一晩中開いているコンビニやファーストフード店などなかった時代だ。下宿屋ビルの屋上から見下ろす夜の町はしんとして、街灯も理不尽なこの世界から若者をかばおうとでもするかのように、そこそこに明るいものであった。
わたしは時々思うのだが、今の街の灯りは煌々とし過ぎて夜昼の区別がつかない。安全性のためとはいえ、実に優しさがない。

I君と下宿屋の屋上で話すことの理由は、ひとつに、狭い部屋は若い男女2人きりというのはどうも具合がよくない。それと、わたしがつるんでいた予備校生や大学生のグループに彼は入りたがらなかったのである。

I君はギターを弾く少年であった。夜更けの誰もいない屋上で、聴衆者はわたし一人の話の合間に開かれるミニコンサート。ギターを一度でも手がけた人なら誰でも知っているであろう、ギター名曲、ソルの「月光」「アストリアス」そして、タルレガの「アルハンブラの思い出」。

夜のしじまを縫って奏でるギターは、16歳のI君の内面がちょこっと見えるようで、わたしは切なく思ったものである。

I君との交友は長くは続かなかった。かれとはお互いに読んだ本の交換もしていたのだが、ある日、わたしが彼から手にした本には「紅岩」という題が書かれてあった。中国の文化大革命を背景に当時の中国の若い人たちを主人公にした物語であった。

わたしはどこか本能で、「紅岩」の持つ思想とは、相容れない自分を知っていた。わたしは行動も考えも他から縛られるのは、全くもってごめんだと思う人間なのだ。 I君の本にある思想は、「民衆の自由を勝ち取る」とは謳うものの、19のわたしではあったが、それが謳いあげていることとは真逆で、個人の自由を、思想を否応なくむしりとるよう見えた思想だった。相容れない思想の相違は、それ以上付き合いを深めるには障害だった。

まだ世の中を見ていない16歳の少年を、その思想にかりたてた環境がわたしには残酷に思えたものである。

後年、白いギターを手に入れたわたしは、あの頃のI君を思い、彼がよく弾いていたギター曲3曲の楽譜を探し出し、独学で挑戦してみた。わたしが一応弾けたのは「月光」だけである。

「アルハンブラの思い出」の曲を耳にすると、そのトレモロにどうにも歯がたたなくて弾くのを諦めたのと同時に、身寄りの少なかった16歳の少年の心中を思いやって、わたしは切なくなってしまうのだ。

屋上で別れてから50年近い月日が流れてしまった。I君、君はあれからどんな人生を歩んだのだろうか。

三度笠でござんす

2017-11-07 09:40:56 | 思い出のエッセイ
2017年11月7日 

ずいぶん以前のことではある。

所沢の妹からのメール内容に思わず懐かしくなり、すっかり「股旅気分」(笑)

「股旅CD」手にいれた。覚えてる?
 
♪「春は世に出る草木もあるに アホウ烏の泣き別れ~」

大川橋蔵主演映画「旅笠道中」で、三波春夫が歌っていたものだ。そして、歌詞の1番から3番までそらんじておる自分^^ 妹によると二人で観にいった映画だ、とありまする^^いったいいつ頃のことであろうか。

そう思い、映画の上映時期を調べて見ると、なんとわたしは10歳、妹は8歳ではないか。
わたしは近頃、我が妹の記憶力の良さに、舌を巻くのである。二つ年上のわたしがちっとも覚えていないことまで彼女はしっかり記憶していることが多い。おそろしや、逃げも隠れもできません(笑)

誤って弟分の源次郎を手にかけてしまった草間の半次郎。伊那でその源次郎を待つ盲目の母親(浪花千枝子)に、妹に頼まれて息子を装う。盲目と言えど母親は、やがてそれが息子でないことに気づくのだが・・・

懐かしくてその歌が聞きたくなり、Youtubeで検索すると、出てくるのは同じ「旅笠道中」でもショウジ・タロウや氷川きよしの「夜が冷たい 心がさむい~」ばかり。わたしは俄然、三波春夫の「旅笠」が好きである。

若い頃から、あちらこちらと落ち着きなく彷徨して、母にはずいぶん心配をかけたわたしだ。
3番目の最後の箇所、「伊那の伊那節 聞きたいときは 捨てておいでよ三度笠」の辺りに来ると、なぜかジンとくる。ポ国に嫁いでくるときに、亡き我が母が言った、「どうしてもダメだったら、わたしの目が黒いうちに帰ってくるんだよ」の言葉と重なってしまうのだ。
                             
我らが母はハイカラで洋画好きだった。同時に時代劇をも好み、わたしと妹は一緒に映画館に連れられてかなりたくさんの東映任侠映画を見せられた。特にわたしの記憶に残っているのは、長谷川一夫の「雪の渡り鳥」である。
                                           
♪「かっぱからげて三度笠 どこをねぐらの渡り鳥
愚痴じゃなけれどこの俺にゃ 帰る瀬もない伊豆の下田の灯が恋し」
                                                   

-wikiより-

伊豆の下田の渡世人、鯉名の銀平の秘めたる恋を絡めた、ご存知股旅映画。雪の降りしきる中、合羽絡げて三度笠をかぶり、スックと立つカッコよさに、子供のわたしは至極憧れたものである。「鯉名の銀平」と名がすぐ出て来るのは、検索したからではない(笑)

この主題歌は3番まであり、それをわたしは全部そらんじてるのである^^
      
♪「払いのけても降りかかる なにを恨みの雪しぐれ
俺も鯉名の銀平さ 抜くか長ドス 抜けば白刃の血の吹雪」

と、歌詞に名前が出てくるから覚えているのである。

ちなみに「かっぱ」の語源はポルトガル語の「capa」。大学生が今でも着る。16世紀にキリスト教布教に訪日した宣教師たちが羽織っていたもので、南蛮蓑とも呼ばれ、元は高価な布を用いて織田信長、秀吉を始め、上級武士の間で広まり、後に裕福な町人にひろまったようだ。それがいつの間にか渡世人のトレードマークになるとは^^;



ふと思った。昨今の新しいJ-ポップ(Japan pop music)、色々とある。中にはなかなかいい歌詞もあるにはある。しかし、これから30年40年経ち、今のティーンズたちがわたしの歳になったころ、彼らにとってどんなものになるだろうか。
                                                              もう40年以上も昔に覚えたこれらの歌詞は、日本古来の七五調であり、そらんじ易い。藤村も啄木も土井晩翠も、堀口大学の訳詩集「月下の一群」も、それらの作品はなべて、この七五調である。若い時にそらんじたこれら七五調の歌や詩が、時折ふと顔を出して子供の頃や母との思い出にわたしを誘う。過ぎし日に思いを馳せながらつくづく思うのだ。人生って初めから今に至るまで、何から何まで繋がってるんやなぁと。

それでは今日はみなさま、この辺で。
西も東も風まかせ。失礼さんでござんす(笑)

振り返ればヤツがいる

2017-10-18 22:14:10 | 思い出のエッセイ
2017年10月18日 

「先生、ぼくのケンドー、見に来ませんか?」と日本語生徒のD君に誘われたのは何年か前になる。

昔、大阪の堂島で会社勤めをしていた頃、みんなが「ブーヤン」と呼ばれていた同僚Sの剣道稽古を見に行った時の「ヤー!ットゥー!」と強烈な印象が残っている。子供時代に棒っきれを振り回してチャンバラごっこに明け暮れたわたしは、ケンドーの名に惹かれ、夫を引っ張ってポルトの剣道場に行った事がある。

場所はBessaのサッカー場の隣、ボアヴィスタのパビリオン内です。その日は特別の稽古日で、リスボンから日本人の師範が指導に来ていました。



その日の稽古は面も胴もなし。二列に向かい合って並び、一技終わるごとにずらして対面する相手を変えて行きます。稽古場の両側の壁は一面鏡になっています。

これは神道、ひいては武士道につながる「鏡は人間の心の表現であり、心が完全に穏やかで、一点の曇りもないとき、そこに神明の姿をみることができる」を期しているのだろうかと、新渡戸稲造著「武士道」を思い出しました。

「ヤー!ットー!」の掛け声とともに、竹刀がバシンとぶつかる激しい稽古を期待していったのですが、それはありませんでした。みな、真剣に師範の動作を見、話に耳を傾け、動作はいたって静か。

静寂な稽古場に時折響く「ヤー!」の声は、時に自信たっぷり、時に自信なさげで、個人の気合の入れ方がそのまま出ていて、面白い。

ポルトガル女性が二人と、日本女性が一人(時々稽古相手に指導していましたから恐らく先生の代理)が、おりました。

さて、ここから本題です。

近頃ではさっぱり音沙汰がなくなったが、アメリカ、カリフォルニアに住み、中年になってから剣道を始めた友人がこんなことを言っていた。

「防具をつけてからと言うもの、死ぬ思いだ。こてー!と叫んで、しこたま手首を打ってくれる。痛いのなんのって、ほんとに頭にきて、竹刀を捨ててなぐりかかってやりたいぐらいなのだ。華麗どころか喧嘩ごしだ。」

「練習が長いと息が続かない(なんしろ中年だからね。笑)、足が動かない、汗びっしょりで頭痛が始まる。練習始めの早や打ち百篇でもう帰りたくなる。」

一緒に剣道を始めた長男が「お父さん、なんでそんなに苦しんでまで剣道へ行くの?」との問いに、アメリカ人の奥方いわく、「お父さんはね、仏教でいう苦行をしてるのよ!」(爆)

剣道を始めたきっかけはというと、ある日、多少出てきた腹を吸い込み、横文字新聞紙を丸めて子供たちと太刀さばきを競ったところが、おとっつぁん、気が入りすぎ、力任せ。それをまともに面にくらった息子が大声で泣き出し果し合い中止。

「いい年して、何ですか!」とまるで、小学生を叱る先生のごとき威圧と、こんなショウ-もない男となぜ結婚したとでも言いげな奥方の呆れ顔だったのだそうな(笑)

わたしは手紙で彼の剣道の話を読むと、昔、我がモイケル娘と取り合って読んだ「ちばてつや」の漫画、「おれは鉄兵」シリーズを思い出して、おかしくて仕様がなかったものだ。
 

Wikiより

「試合でさ、竹刀構えてしばらくシーンと向き合うだろ?それでよ、突然、デカイ声で、あっ!と言いもって、床に目を向けるのだ。すると、人って面白いぞ、釣られて相手も下をみる。そこを狙っておめーーん!」

おいおい、お前さん、それはだまし討ちじゃんか。することがまるで鉄兵そっくりだ、と言いながら、その光景を想像すると鉄平のハチャメチャな場面が思い出され、おかしいったらない。そ、くだんの彼も、鉄兵のようにチビなのではあった。

「剣道も人生も同じです。小さいとか歳だとか、言い訳はしないことです。数年前の少年部の日本チャンピョンは片腕の少年でした。」(片腕の少年チャンピョンの話は、わたしもどこかで読んだことがある)と自分より10歳以上も若い師範の話を聞き、以後、かれは奥方の毒舌、失笑にもめげずに遣り通すと決めたらしい。

企業家としてアメリカである程度成功したその後の彼の姿を、時折わたしはネットでグループ写真の中に見ることがある。今では剣道から拳法に移ったようだ。自分を棚に上げて言うのもなんだが、相変わらず小柄で髪も口ひげも白くなり、しかし、贅肉が見れらず、どことなしに飄とした感がしないでもない。

おぬし、何かを掴んだかなと思われる。この具合だと真夜中の酔っ払い国際電話ももう入ることはあるまい。やっとヤツからの真夜中の電話から開放され幸いだと思う反面、心のどこかで不意打ちの電話を待っている自分に気づき、少し寂しい気がしないでもない。

真夜中に落ちた奈落の谷

2017-10-17 22:54:19 | 思い出のエッセイ
2017年10月17日 

ポルトガルに住んでかれこれ40年近くになろうとしている。この間、自分がしでかした失敗は自慢にはならないが、両指の数を遥かに超える。今日の話はそのひとつである。

深夜も3時を回ったころ、電話が鳴った。そういうときのわたしはガバと反射的に起き上がる。さっさと電話にでないと、我が家は3箇所に親子電話があったので、そのうちのひとつがFaxにつながってしまい、ピーピーと鳴ってうるさいことしきりである。

真夜中の電話はだれも不吉な思いに襲われるもので、この時間帯に入る電話は、たいがいアメリカからのアイツであった。酔っ払って人恋しくなり、時差もかまわずかけてくるのである。その酔っ払い電話が途絶えて久しい。まさか、ヤツではあるまいの?そう思い応答した。(ヤツとのエピソードは次回にアップします)

「Dr.santosのお宅ですか?」と女性の声。「あのぉ、お宅、水出っ放しになってません?車庫のところに水がずーっと落ちてきてるるのですが・・・」

なんだとて?水が?バスルームを見たら異常なし。台所へ行くと、台所は異常な・・・おろ?なんかすごい音がしとるぞ。ゴーッと音のする先は台所の側のベランダであるよ!えええ!足を踏み入れようとしたら、おーっとっとっと!水浸しだ。

ぐは!ベランダの洗濯場タンクの水道から水が音を立ててゴーゴーと・・・・・床はタイルを敷いているのだが、その床を洗った後、ふき取る必要がないように水を流し出すために床と外壁が接する所にさな穴が開いている。タンクから水が溢れ出てその穴から下の車庫のある庭へと雨が降る如く落ちていたのでございますよ。

お~~い、ダンナ!と夫を起こし。小さな穴から水が落ちきるまでにはかなりの時間がかかりそうです。とりあえずバケツで床に溜まった水をちょぼちょぼと汲みあげること半時間(どんだけ溜まってたのだ?)、仕上げはモップでふき取り。

台所に寝ていたネコタチは「なに?なに?どったの?」とこわごわ覗いていましたが、あんたらね、水が出てるの気づかなかったノン?んもう、役立たず!

夫、「君、ここの水道、使ったの?」
「え~っと、コーヒーを沸かすのに、ここから水を汲んだ。でも栓を閉めたと思うがなぁ。それは12時近くで、その後、エデンの東=映画、を見て、5匹ネコたちを台所に運んで来た時は、こんな水の音、しなかったと思うがなぁ」←いかにも自信なげだ(笑)

変だなぁ。それにあんなふうに 目一杯に水道の栓をひねらないと思うがなぁ。なにかの拍子で、ネコでもやったんだろか・・・さっぱり覚えてないや。起こっちゃったことは、ま、仕方ないか。

「で、君、なんでコーヒーのお湯を沸かすのに、台所の水道からじゃなくて、ここから水を汲むわけ?」と夫が聞く。
「あらん、だって、あなた、台所には蛇口にはフィルターを取り付けられないからって、こっちの方に取り付けたでしょ?だからよ。」
「開いていた栓は、フィルターの方じゃなくて、台所の水道の水と同じのが出る栓だったよ」
「そんなことないわよ、これがフィルターがついてる水道の栓でしょ?」
夫「・・・・・・・・・」沈黙。「フィルターの栓は別にあるよ。ほら、上のこれだ。」
今度はわたしが「チ~~~ン・・・」沈黙。



なに?それじゃ、わたしはここへ引っ越して以来ずっと、そこからのをフィルターの水だと思い込み、やっぱり台所の水道の水とは違うわねと、せっせコーヒー飲んでたと言うのぉ?
「そう言うことになるね」  なんてこった、 どーーーん。奈落の谷に蹴落とされた・・・・
ちゃんと説明してよね!と無理を吐いたあと、己のバカさ加減が可笑しくて真夜中に大声出して笑ったのでありました。あほらし。

炉端焼き

2017-10-11 09:25:47 | 思い出のエッセイ
2017年10月11日

炉端焼きと呼ばれる居酒屋にわたしは限りない愛着がある。そこには数々の懐かしい思い出があるからだ。

特に、大阪は京橋地下街の炉端、京阪沿線宮之阪駅前の炉端では、わたしは常連の部類に入っていたと思う。

流れる音楽が演歌なので、わたしからすればそれが難と言えば難だったのだが、しかし、炉端にジャズやらシャンソンが流れていたら、中華料理店でフランス料理を食するようなものだろう。泣き節の演歌はあまり好みではないが、それが炉端にぴったしなのにはどうにも仕方がない。

外国人の友人ができると、わたしは必ず炉端に案内したものである。当時は値段も手ごろ、肉類が苦手なわたしには、野菜魚類が多いのも嬉しかった。それで、あの頃は恋人だった現夫も時々わたしに引っ張られて何度か行っている。

京橋炉端に、当時ポルトガルからきたばかりの新しい留学生だったマイアさんを夫と二人で案内したときのことである。マイアさん、頑としてナイフとフォークで食べると言ってきかない。炉端のお兄さんが、同じ地下街にある隣の洋食レストランまで走って行って、ナイフとフォークを借りてきたことがあった。「こんなお客初めてだっせ・・」と言いながら(笑)

わたしが勤めていたオフィスの東京本社には、ハーバード大出のボブがいた。本社とはしょっちゅう電話連絡をとっていたのだが、初めてボブと話した時は、ん?とは少し思ったものの、まさかその電話の相手がアメリカ人だったとは聞かされるまで気づかなかった。

その彼が週末を利用して、大阪へ来たときもわたしがバイト歌姫をしていた梅田アサヒ・ビアハウスと炉端に案内した。日本語はハーバード大学在学中に学んだと言い、かなり流暢に、そして語彙力もあったボブとは、炉端で飲みながら食べながら、その日、大いに議論して盛り上がったのである。もちろん日本語でである。

日本びいきのその彼、自分の名前、ロバート・グロンディンを日本名で「炉端 愚論人=ろたば・ぐろんじん」とつけて、印鑑を作るまでに至ったのには、恐らくわたしとの炉端焼きの体験があるに違いない。アサヒ・ビアハウスに彼を案内したときは、ホール中、ヨシさんのアコーディオンに併せポルカを踊り、わたしは引きずりまわされ、見ていた常連達もボブの素晴らしいステップにはすっかり目を回したのだった。ボブについては次の機会に「思い出エッセイ」として再掲したい。

さて、当時は「文化住宅」と呼ばれた、駅から徒歩10分ほどの二間、トイレバス、台所付きの小さな我がアパートは京阪宮之阪にあり、駅を出るとすぐ横にあった炉端焼き。

ここには、木彫家の我が親友、「みちべぇと」よく行ったものだ。みちべぇは女性です^^ わたしが働いたオフィスの後輩なのだが、当時同じ駅のすぐ側に両親姉妹と住んでいるのを偶然知って以来、年の差も忘れて(わたしがグンと上なのだw)意気投合。以来40年以上のつきあいである。

ポルトガルに来た当時、アサヒ・ビアハウスがただただ恋しかったが、今のようにとても手に入らなかった日本食への思いも深く、炉端への思いもまた募るばかりだった。挙句が、「我が息子ジュアン・ボーイが大人になったらいつか炉端へ行き、酒を酌み交わしながら人生論を交わしてみたい」と、それが夢になったのである。

わたしの若い頃は、しつこい酔客や端迷惑な酔客もいたにはいたが、お酒の場とは、人生論を戦わせる場でもあったと思う。 会社や上司の愚痴もあり、しかし、人生の夢を語る場でもあった。 お酒の加減よい力を借りて、本音をさらりと口滑らすことが、ああいう場ではなんだかできたような気がするのだ。 
あれからもう40数年、炉端焼は今ではかつてにように、そこここにあるものではなくなったようだ。今の若い人たちは、いや、若い人達に限らず、日本の現代人は、どういう形で人と人生を語り合うのだろうかと、ちょっと興味を持つ。

みんなまともに面と向かって顔つき合わせて、人生論を戦わせるのだろうか。しらふで語ることも勿論大切だが、人の人生って理屈だけでは語れない部分があるのじゃないかと、わたしは思ったりする。
家族みんな揃って人生論をぶつ、なんてのは、まず想像するに難い。すると、やはり、ちょっとお酒なんかあったら語らいやすいなぁ、なんてね。

若い時にこそ、老若男女一緒になって、こういうことを「ぶってみる」のは、自己啓発、人生勉強になると思うのだけど。それとも、人はもう青臭くて人生論をぶつことなんか、しなくなったのだろうか。

そうそう、我が息子と人生論を戦わすことは夫も混ぜて時にするのだが、炉端焼きで夢はまだ叶っていない。来年の帰国時には都内の炉端焼きを探し、モイケル娘夫婦も入れて是非、行って見たいなと思っている。

どなたか、東京近辺の手ごろな値段でおいしい炉端焼きをご存知だったら、お教え願いたい。