2018年8月24日
これまでに何度か訪問したボルサ宮(Palácio da Bolsa)ですが、2014年から2015年に渡り、入り口に面した「ナショナル・パテオ(Pátio das Nações)」の壁画修復が始められたところ、一つの紋章の下から別の紋章が現れ、それが「日本の紋章」だとのニュースが流れました。
ニュースのその年1月に、わたしは雑誌記事取材のためにボルサ宮を訪れたのですが、「日本の紋章」が現れたのはその後の3月のようで、残念ながらその時は知らなかったわけです。
それがこの度、精密なレプリカが公開されたというので記事を読んでみると、なんと日本の紋章とは「葵の紋」のこと。
Wikiより
ポルトガル人の手によるものゆえ、デザインが多少違うような気がしますが、この紋章がなぜポルトの旧証券取引所のボルサ宮にあるのかという謎にぶつかります。
ボルサ宮の詳細については既に書いてありますので、後記で案内しますが、1842年に施工、完成まで70年近くを要しています。皇室の紋章である十六菊花紋でなく、葵の紋章があるということは、徳川時代にポルトと何らかの関わりがあったことになります。
ボルサ宮は完成まで70年を費やしたのですから、その間の歴史を調べてみました。
実はボルサ宮の葵の紋章ですが、昨日のクリスタル宮殿公園とかかわりがあったのです。
1851年の第一回ロンドン万博へ出かけたポルトのブルジョアたちや旧証券取引所関係者たちが、会場として建設されたクリスタル宮殿の素晴らしさ圧倒され、ポルトにも是非とそれを模倣して建設し、1865年にはそこでポルト国際博覧会が開催されました。
その際、欧米諸国に加え日本も参加しているのを知り、へぇ~と思ったのですが、クリスタル宮殿に目が行っていたもので、日本の参加については調べることもせずそのままになっていました。
1865年といえば、大政奉還がなされ徳川幕府の時代が終わる2年前です。ペリーの黒船来航により日本が開国して後の1860年に日本ポルトガル間では日葡和親条約と日葡修好通商条約が結ばれ、215年ぶりに通商が再開されています。
ボルサ宮のナショナル・パテオの上部にの壁に描かれてあるのは、当時、ポルトと深い関わりがあった国々の紋章だといわれ、件のポルト国際博覧会には、1962年に幕府が初めて欧州へ送った文久遣欧使節団が訪れたようです。
さすればこの使節団は福澤諭吉も含む38名となっていますから、大規模な使節団として、羽織、袴、まげを結った一行の姿は人々の記憶に残ったことでしょう。これで、とりあえずボルサ宮にある徳川家葵の紋の謎は一通り解けたと言えます。
それにしても、奇遇が重なり面白い謎解きができたものです。そして、今から150年ほど昔に自分が住むポルトに福澤諭吉達に日本の大使節団がしばし足を停めていたと思うと、静かな感慨が湧いてくるのであります。いやぁ、これだから歴史は面白い!
本日もお付き合いくださり、ありがとうございます。お時間あらば、ランキングクリックをしていただけると嬉しいです。
下記、ボルサ宮関連の過去拙ブログ記事です。クリックしてどぞ。
・「ボルサ宮1」
・「ボルサ宮2」
・「ボルサ宮:エッフェルの部屋」
・「ボルサ宮:アラブの間」
・「長崎ポルト姉妹都市30周年記念・ポルトぶらぶら歩き」
これまでに何度か訪問したボルサ宮(Palácio da Bolsa)ですが、2014年から2015年に渡り、入り口に面した「ナショナル・パテオ(Pátio das Nações)」の壁画修復が始められたところ、一つの紋章の下から別の紋章が現れ、それが「日本の紋章」だとのニュースが流れました。
ニュースのその年1月に、わたしは雑誌記事取材のためにボルサ宮を訪れたのですが、「日本の紋章」が現れたのはその後の3月のようで、残念ながらその時は知らなかったわけです。
それがこの度、精密なレプリカが公開されたというので記事を読んでみると、なんと日本の紋章とは「葵の紋」のこと。
Wikiより
ポルトガル人の手によるものゆえ、デザインが多少違うような気がしますが、この紋章がなぜポルトの旧証券取引所のボルサ宮にあるのかという謎にぶつかります。
ボルサ宮の詳細については既に書いてありますので、後記で案内しますが、1842年に施工、完成まで70年近くを要しています。皇室の紋章である十六菊花紋でなく、葵の紋章があるということは、徳川時代にポルトと何らかの関わりがあったことになります。
ボルサ宮は完成まで70年を費やしたのですから、その間の歴史を調べてみました。
実はボルサ宮の葵の紋章ですが、昨日のクリスタル宮殿公園とかかわりがあったのです。
1851年の第一回ロンドン万博へ出かけたポルトのブルジョアたちや旧証券取引所関係者たちが、会場として建設されたクリスタル宮殿の素晴らしさ圧倒され、ポルトにも是非とそれを模倣して建設し、1865年にはそこでポルト国際博覧会が開催されました。
その際、欧米諸国に加え日本も参加しているのを知り、へぇ~と思ったのですが、クリスタル宮殿に目が行っていたもので、日本の参加については調べることもせずそのままになっていました。
1865年といえば、大政奉還がなされ徳川幕府の時代が終わる2年前です。ペリーの黒船来航により日本が開国して後の1860年に日本ポルトガル間では日葡和親条約と日葡修好通商条約が結ばれ、215年ぶりに通商が再開されています。
ボルサ宮のナショナル・パテオの上部にの壁に描かれてあるのは、当時、ポルトと深い関わりがあった国々の紋章だといわれ、件のポルト国際博覧会には、1962年に幕府が初めて欧州へ送った文久遣欧使節団が訪れたようです。
さすればこの使節団は福澤諭吉も含む38名となっていますから、大規模な使節団として、羽織、袴、まげを結った一行の姿は人々の記憶に残ったことでしょう。これで、とりあえずボルサ宮にある徳川家葵の紋の謎は一通り解けたと言えます。
それにしても、奇遇が重なり面白い謎解きができたものです。そして、今から150年ほど昔に自分が住むポルトに福澤諭吉達に日本の大使節団がしばし足を停めていたと思うと、静かな感慨が湧いてくるのであります。いやぁ、これだから歴史は面白い!
本日もお付き合いくださり、ありがとうございます。お時間あらば、ランキングクリックをしていただけると嬉しいです。
下記、ボルサ宮関連の過去拙ブログ記事です。クリックしてどぞ。
・「ボルサ宮1」
・「ボルサ宮2」
・「ボルサ宮:エッフェルの部屋」
・「ボルサ宮:アラブの間」
・「長崎ポルト姉妹都市30周年記念・ポルトぶらぶら歩き」