ポルトガルの空の下で

ポルトガルの町や生活を写真とともに綴ります。また、日本恋しさに、子ども恋しさに思い出もエッセイに綴っています。

真夜中に落ちた奈落の谷

2017-10-17 22:54:19 | 思い出のエッセイ
2017年10月17日 

ポルトガルに住んでかれこれ40年近くになろうとしている。この間、自分がしでかした失敗は自慢にはならないが、両指の数を遥かに超える。今日の話はそのひとつである。

深夜も3時を回ったころ、電話が鳴った。そういうときのわたしはガバと反射的に起き上がる。さっさと電話にでないと、我が家は3箇所に親子電話があったので、そのうちのひとつがFaxにつながってしまい、ピーピーと鳴ってうるさいことしきりである。

真夜中の電話はだれも不吉な思いに襲われるもので、この時間帯に入る電話は、たいがいアメリカからのアイツであった。酔っ払って人恋しくなり、時差もかまわずかけてくるのである。その酔っ払い電話が途絶えて久しい。まさか、ヤツではあるまいの?そう思い応答した。(ヤツとのエピソードは次回にアップします)

「Dr.santosのお宅ですか?」と女性の声。「あのぉ、お宅、水出っ放しになってません?車庫のところに水がずーっと落ちてきてるるのですが・・・」

なんだとて?水が?バスルームを見たら異常なし。台所へ行くと、台所は異常な・・・おろ?なんかすごい音がしとるぞ。ゴーッと音のする先は台所の側のベランダであるよ!えええ!足を踏み入れようとしたら、おーっとっとっと!水浸しだ。

ぐは!ベランダの洗濯場タンクの水道から水が音を立ててゴーゴーと・・・・・床はタイルを敷いているのだが、その床を洗った後、ふき取る必要がないように水を流し出すために床と外壁が接する所にさな穴が開いている。タンクから水が溢れ出てその穴から下の車庫のある庭へと雨が降る如く落ちていたのでございますよ。

お~~い、ダンナ!と夫を起こし。小さな穴から水が落ちきるまでにはかなりの時間がかかりそうです。とりあえずバケツで床に溜まった水をちょぼちょぼと汲みあげること半時間(どんだけ溜まってたのだ?)、仕上げはモップでふき取り。

台所に寝ていたネコタチは「なに?なに?どったの?」とこわごわ覗いていましたが、あんたらね、水が出てるの気づかなかったノン?んもう、役立たず!

夫、「君、ここの水道、使ったの?」
「え~っと、コーヒーを沸かすのに、ここから水を汲んだ。でも栓を閉めたと思うがなぁ。それは12時近くで、その後、エデンの東=映画、を見て、5匹ネコたちを台所に運んで来た時は、こんな水の音、しなかったと思うがなぁ」←いかにも自信なげだ(笑)

変だなぁ。それにあんなふうに 目一杯に水道の栓をひねらないと思うがなぁ。なにかの拍子で、ネコでもやったんだろか・・・さっぱり覚えてないや。起こっちゃったことは、ま、仕方ないか。

「で、君、なんでコーヒーのお湯を沸かすのに、台所の水道からじゃなくて、ここから水を汲むわけ?」と夫が聞く。
「あらん、だって、あなた、台所には蛇口にはフィルターを取り付けられないからって、こっちの方に取り付けたでしょ?だからよ。」
「開いていた栓は、フィルターの方じゃなくて、台所の水道の水と同じのが出る栓だったよ」
「そんなことないわよ、これがフィルターがついてる水道の栓でしょ?」
夫「・・・・・・・・・」沈黙。「フィルターの栓は別にあるよ。ほら、上のこれだ。」
今度はわたしが「チ~~~ン・・・」沈黙。



なに?それじゃ、わたしはここへ引っ越して以来ずっと、そこからのをフィルターの水だと思い込み、やっぱり台所の水道の水とは違うわねと、せっせコーヒー飲んでたと言うのぉ?
「そう言うことになるね」  なんてこった、 どーーーん。奈落の谷に蹴落とされた・・・・
ちゃんと説明してよね!と無理を吐いたあと、己のバカさ加減が可笑しくて真夜中に大声出して笑ったのでありました。あほらし。

あの頃、ビアハウス:知床旅情番外編

2017-10-16 18:41:47 | 日記
2017年10月16日 

長年の友人知人には既知のことなのですが、1970年代の大阪時代はアメリカ留学の資金調達のため、梅田新道にあった「アサヒビアハウス」でわたしはパート歌姫をしていました。
その懐かしいよき時代については「あの頃、ビアハウス」と題して、当時のビアハウスに通いつめていた個性豊かな常連たちについて綴っています。

わたしの古巣「梅新アサヒビアハウス」は今では建て替えられたビルの同じ場所に「アサヒスーパードライ梅田」と名を変え、ビアソングが聴ける店として、往時の名残を少しだけとどめています。

が、目をつぶると浮かんでくる我が梅新アサヒビアハウスは、古い大理石の柱と手当てが行き届きピカッと光った年期の入った木製のテーブルと椅子、春秋常連たちで賑わうホール、アコーディオンとリズムボックスの小さなステージ、歌姫が歌うオペレッタ、ビアソング、その合間を縫ってカンツォーネやオペラのアリアを歌う常連たちの姿で溢れていました。

あれは、あの時代は幻想だったのか?と40年もたった今、ふと自分に問うてみたりします。ポルトガルでの日々は歳をとるごとに忙しくなっているような近頃のわたしですが、梅新アサヒビアハウスをひと度思い出すと諸々の思い出に一気に襲われ、しばしわたしを離すことがありません。

昨日のことです。フェイスブックでつながっている知人が投稿したYahooニュースに、え!と驚かされました。
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20171015-00000030-mai-spo
<訃報>葉室三千子さん97歳=マスターズ水泳世界記録保持、とありました。

ご主人の葉室鉄夫先生とともにアサヒビアハウスの常連の一人で、皆して葉室ママと呼んでいたのでお名前が「三千子」さんだったなど知りませんでした。ご主人の葉室先生2005年にお亡くなりになっており、その後の葉室ママは「マスターズ大会(60歳以上を対象としたスポーツ大会)」で活躍なさっており、2014年には100メートル平泳ぎ95~99歳の部で世界記録を果たされたとのこと。このニュースを目にするまでわたしは全く知りませんでした。

葉室ママにはアサヒビアハウスで時々声をかけていただきましたが、親しいお付き合いはないのですが、ビアハウスでは、むしろご主人の葉室先生とよく歌をデュエットした思い出が大きいです。

今日は葉室ママを偲んで、直接の思い出ではありませんが葉室先生との思い出を再掲したいと思います。以下。

「あの頃、ビアハウス:知床旅情」

「知床旅情」は「琵琶湖周航の歌」とともに、わたしがアサヒビアハウスでよく歌った歌である。この歌はわたしの青春の彷徨の歌でもある。

数十年たった今でも「知床旅情」を歌うとき、心は19の歳の彷徨時代にもどるのだ。

♪知床の岬に はまなすの咲く頃
  思い出しておくれ 俺たちのことを
  飲んで騒いで 丘にのぼれば~

アサヒビアハウスでは「知床旅情」はベルリンオリンピック水泳競技ゴールドメダリストで常連の葉室鉄夫氏が披露する歌で、わたしも一緒にステージにあげられ、よく氏とデュエットをしたものだ。「♪君を今宵こそ抱きしめんと~」のところで、氏はそっとわたしの肩を引き寄せるだが、まことに紳士的な方であった。


だきしめんと~で、こういう具合に↑笑

加藤登紀子さんが歌って大ヒットした歌だが、実はこの歌、ヒットする以前にわたしは森繁久彌の歌として知っていた、好きな歌だった。

大学進学を諦めきれずグズグズしていたわたしは就職の機会も取り逃がし、お金もないのに高校卒業後上京したり帰郷したりの繰り返しだった。親の心配をよそにフーテンの寅さんの如くウロウロしていたのです。この親の心配はその後を経ても後を絶たず、イギリス、アメリカ、果てはポルトガルくんだりまで流れ着くこととなってしまったわけではありますが。

spacesis19の歳の9月、親に告げることもなく青森港から連絡船に乗り函館を抜けて汽車で札幌に辿り着いたのはもう夜であった。この時わたしは札幌の豊平川のほとりで生まれて初めて野宿とやらを経験するのでした^^;  

川のほとりに腰を下ろし、一晩中水の流れに聞き入って夜を過ごしたのです。 芭蕉の「奥の細道」のようだ、なんてとても気取っておられまへんよ。内地ではまだ残暑ある9月も、北海道では冬支度に入る月だということを、このとき知ったのである。 とにかく寒かったです・・・・

札幌には一月ほどいました。その間、行きずりの親切な人たちと知り合いになり、すすき野界隈の歌声喫茶に入ったりして知ったのが「知床旅情」と「白い思い出」だったと思う。後年、加藤登紀子さんが歌いヒットしたのを耳にしたときは、「ほぇ?」と思ったものである。

ちなみに、この歌は「地の涯に生きるもの」という知床を舞台にした森繁久弥主演の映画撮影のときに、彼によって作られ北海道から広まった歌だと聞く。

やはり、であります。「地の涯に生きるもの」は遠い昔、子供のころに学校の映画教室で見たのだが忘れられない映画です。春が来て再び猟師たちが知床を訪れるまでの長い冬の間、たった独り、番屋で猫たちと暮らす森繁演ずる老人が、流氷に乗って流されて行こうとする猫を救おうと、足を踏み外し氷の間から海に落ち、誰にも知られず命を落とす。忘れることができないラストシーンであった。

♪知床の岬に はまなすの咲く頃
思い出しておくれ おれたちの彷徨を・・・

わたしが19の頃は、知床はまだ人跡未踏のさい果ての地ではありました。

葉室先生については、2005年の日記に書いてあります。

2005年10月31日(月曜日)(1)

今朝はネットで小泉第3次内閣の記事を読み終え、何気なく下段へ目をやりますと、スポーツ欄で、知っている方の名前を見かけ、思わず「え!」と声を出てしまいました。

「ベルリン五輪の金メダリスト・葉室鉄夫さん死去」とありました。この年、女子競技では前畑秀子も(ラジオアナウンサーの「前畑がんばれ前畑がんばれ!」の声援があまりにも有名です)メダルをとったのです。

葉室先生は、我が青春のビアハウス時代のお仲間でした。昨年(2004年)の帰国時に、当時の仲間が集まってくれましたが、その時にはお目にかかれませんでした。でも、数年前に、ビアハウスの歌姫先輩、堺の宝嬢宅におじゃましたときには、随分久しぶりに電話でお話しすることができました。

温厚で笑顔が絶えない葉室先生でした。「あの頃ビア・ハウス:知床旅情」に少し登場していただいてますが、この歌は、先生がいらっしゃるときは、(しょっちゅういらしてましたがw)必ず歌われました。

「君を今宵こそ 抱きしめんと~」で、そぉっとわたしの肩を引き寄せるのです。いえね、これは、わたしだけではなくて、わたしが歌えないときは、先輩歌姫の宝嬢がこの役を仰せ使うわけでして^^。 要はステージでのサービスなのです。

奥様ともよくいらっしゃいました。

左から、ドイツ民族衣装を身に付けた我が先輩歌姫「宝木嬢」、葉室先生夫妻。

毎年ビアハウスで行われた「オクトーバー・フェスト」(ドイツのビア祭)では、普段の伴奏はヨシさんのアコーディオンだけなのが、この日はドイツの民族衣装をつけた楽団が入り、ドイツ領事、その他のドイツ人が入ったりと、まさに、ドイツ形式そのままのお祭になるのですが、このとき、乾杯の音頭をとるのは決まって葉室先生です。


1970年代、旧梅新アサヒビアハウスでの定例オクトーバーフェスト

何年か前に「文芸春秋」で偶然先生が書かれた記事を読んだことがありますが、ベルリン五輪で間近にヒットラーに会ったと言うことに触れておられました。

今朝は早速、宝嬢宅へ電話を入れてみましたが、返答がありません。恐らく彼女は、先生のご自宅の方へ行っているのでしょう。今年はアサヒ・ビアハウス黄金時代の店長だった塩さんに続き、葉室先生も、あちらのお仲間になられました。

知っている仲間が一人また一人と、地上から姿を消して行くのは、寂しいことではありますが、歌とビールをこよなく愛したみなさんです、きっと天上の星となり、彼岸の向こうで再会を祝って、「Ein Prosit ein Prosit der Gemutlichkeit!」(ドイツ語、乾杯!の意味)と杯をあげていることでしょう。


フェイスブックでつながっている件の知人とは、「また一人アサヒビアハウスの常連スターが逝かれましたね。
今頃、葉室ママを迎えてさぞかし天上のビアハウスは賑わっていることでしょう」と話したのでした。

あの頃の常連さんたち4分の3は天界で毎晩「Ein Prosit」と杯をあげているのが目に浮かぶようです。
葉室ママ、そしてみなさん、またあちらでお目にかかりましょう。

BOIN

2017-10-15 09:05:28 | 家族の話
2017年10月15日

現在は東京の大学、数箇所で英語講師をしている我が東京息子がリスボンに住んでいた頃の話をば。以下。
夏休みを返上して、丸一ヶ月9時から6時までTEFL(テフル=Teaching English as a Foreign Lauguage=外国人に英語を教える教授法)コースをとり、めでたく英語教師免除をとった息子が、リスボンのとある語学学校で英語の特別個人教授をしていたときのこと。

生徒は日本からやってきている30代の女性だそうで、教本には書かれていない教授法のコツのようなものがあるので、そのツボを押さえておくと、授業はいいものになると思い、補習校での20数年間と日本語講師のこれまでの経験があるわたし、息子にあれやこれやメッセで話しながらアドバイスしていた。

ある日、彼が再び日本語を勉強するきっかけに或いはなるかもしれないと思い、外国人のための日本語教本英語版をコピーして息子に送った。この教本は、英語を教えるのにも意外と役立つと思ったのである。

本日も、授業はうまく運んだか(一回のレッスンが3時間ぶっ通しである)とメッセで聞くと、その日はずいんぶんうまく行ったとのこと。送った日本語教本が英語授業に役立ってるらしい。

「ねね。BOINってどういう意味になる?」と息子が聞く。
(ネットでの会話は今でこそ息子とは日本語だが、当時のメッセ会話はすべてローマ字だ)
「ボ、ボイン?^^;」・・・・
「そ、そりゃあんた、maminha(マミーニャ=オッパイ)の大きいのを言うのだよ。」と、俗語も知っておいたほうがいいと思うので一応ちゃんと説明をつける。
「"ボインちゃん"なんて言ったりして使うのだ」とわたし。(←残念ながらわたしではないw)
と、せんでもええのに、余計な例まで上げて^^;

息子「じゃ、HAN-BOINって?・・・・ママ、それじゃ、意味が通らないよ。
   第一、これは日本語言語の言葉だぁ~!」
母 「うげ!@@@@か、勘ぐりすぎた!」
息子よ、先にそれを言ってくれぃ。

ボイン 母音 拇印と色々あって、ローマ字でBOINっつったって分からんぞ、と自分の早とちりを棚に上げて(笑)
息子の言うのは「母音、半母音」だったのでした(汗)

いやぁ、日本語も色々ですわ。
ん?あんたが早とちりなだけだって? は、はい、さようでござんす。

炉端焼き

2017-10-11 09:25:47 | 思い出のエッセイ
2017年10月11日

炉端焼きと呼ばれる居酒屋にわたしは限りない愛着がある。そこには数々の懐かしい思い出があるからだ。

特に、大阪は京橋地下街の炉端、京阪沿線宮之阪駅前の炉端では、わたしは常連の部類に入っていたと思う。

流れる音楽が演歌なので、わたしからすればそれが難と言えば難だったのだが、しかし、炉端にジャズやらシャンソンが流れていたら、中華料理店でフランス料理を食するようなものだろう。泣き節の演歌はあまり好みではないが、それが炉端にぴったしなのにはどうにも仕方がない。

外国人の友人ができると、わたしは必ず炉端に案内したものである。当時は値段も手ごろ、肉類が苦手なわたしには、野菜魚類が多いのも嬉しかった。それで、あの頃は恋人だった現夫も時々わたしに引っ張られて何度か行っている。

京橋炉端に、当時ポルトガルからきたばかりの新しい留学生だったマイアさんを夫と二人で案内したときのことである。マイアさん、頑としてナイフとフォークで食べると言ってきかない。炉端のお兄さんが、同じ地下街にある隣の洋食レストランまで走って行って、ナイフとフォークを借りてきたことがあった。「こんなお客初めてだっせ・・」と言いながら(笑)

わたしが勤めていたオフィスの東京本社には、ハーバード大出のボブがいた。本社とはしょっちゅう電話連絡をとっていたのだが、初めてボブと話した時は、ん?とは少し思ったものの、まさかその電話の相手がアメリカ人だったとは聞かされるまで気づかなかった。

その彼が週末を利用して、大阪へ来たときもわたしがバイト歌姫をしていた梅田アサヒ・ビアハウスと炉端に案内した。日本語はハーバード大学在学中に学んだと言い、かなり流暢に、そして語彙力もあったボブとは、炉端で飲みながら食べながら、その日、大いに議論して盛り上がったのである。もちろん日本語でである。

日本びいきのその彼、自分の名前、ロバート・グロンディンを日本名で「炉端 愚論人=ろたば・ぐろんじん」とつけて、印鑑を作るまでに至ったのには、恐らくわたしとの炉端焼きの体験があるに違いない。アサヒ・ビアハウスに彼を案内したときは、ホール中、ヨシさんのアコーディオンに併せポルカを踊り、わたしは引きずりまわされ、見ていた常連達もボブの素晴らしいステップにはすっかり目を回したのだった。ボブについては次の機会に「思い出エッセイ」として再掲したい。

さて、当時は「文化住宅」と呼ばれた、駅から徒歩10分ほどの二間、トイレバス、台所付きの小さな我がアパートは京阪宮之阪にあり、駅を出るとすぐ横にあった炉端焼き。

ここには、木彫家の我が親友、「みちべぇと」よく行ったものだ。みちべぇは女性です^^ わたしが働いたオフィスの後輩なのだが、当時同じ駅のすぐ側に両親姉妹と住んでいるのを偶然知って以来、年の差も忘れて(わたしがグンと上なのだw)意気投合。以来40年以上のつきあいである。

ポルトガルに来た当時、アサヒ・ビアハウスがただただ恋しかったが、今のようにとても手に入らなかった日本食への思いも深く、炉端への思いもまた募るばかりだった。挙句が、「我が息子ジュアン・ボーイが大人になったらいつか炉端へ行き、酒を酌み交わしながら人生論を交わしてみたい」と、それが夢になったのである。

わたしの若い頃は、しつこい酔客や端迷惑な酔客もいたにはいたが、お酒の場とは、人生論を戦わせる場でもあったと思う。 会社や上司の愚痴もあり、しかし、人生の夢を語る場でもあった。 お酒の加減よい力を借りて、本音をさらりと口滑らすことが、ああいう場ではなんだかできたような気がするのだ。 
あれからもう40数年、炉端焼は今ではかつてにように、そこここにあるものではなくなったようだ。今の若い人たちは、いや、若い人達に限らず、日本の現代人は、どういう形で人と人生を語り合うのだろうかと、ちょっと興味を持つ。

みんなまともに面と向かって顔つき合わせて、人生論を戦わせるのだろうか。しらふで語ることも勿論大切だが、人の人生って理屈だけでは語れない部分があるのじゃないかと、わたしは思ったりする。
家族みんな揃って人生論をぶつ、なんてのは、まず想像するに難い。すると、やはり、ちょっとお酒なんかあったら語らいやすいなぁ、なんてね。

若い時にこそ、老若男女一緒になって、こういうことを「ぶってみる」のは、自己啓発、人生勉強になると思うのだけど。それとも、人はもう青臭くて人生論をぶつことなんか、しなくなったのだろうか。

そうそう、我が息子と人生論を戦わすことは夫も混ぜて時にするのだが、炉端焼きで夢はまだ叶っていない。来年の帰国時には都内の炉端焼きを探し、モイケル娘夫婦も入れて是非、行って見たいなと思っている。

どなたか、東京近辺の手ごろな値段でおいしい炉端焼きをご存知だったら、お教え願いたい。

バチカン市国:サン・ペドロ大聖堂「聖なる扉」

2017-10-09 09:06:49 | 旅行
2017年10月9日

バチカン、大聖堂の続きです。

「Porta santa (Porta=扉、ドア、santa=聖なるの意)」と呼ばれ、ポルトガル語と同じです。

サン・ペドロ大聖堂内には5つの扉がありますが、その中でもっとも重要なのがこの「Porta santa」です。一般的には25年ごとに開かれるこの扉を通って参拝すると、犯した罪が許されると言われています。扉に彫られてある絵は受胎告知に始まるキリストの生涯でしょうか。

扉の上には、サン・ペドロが持つシンボルである「天国への鍵」が見られます。


聖なる扉が開かれる儀式は、新約聖書ヨハネ10・9に見られる「わたしは門である。だれでもわたしを通って入る者は救われる」、また、ルカ11・9「求めよ、さらば与えられよう。叩けよ、さらば扉は開かれるであろう」をシンボル化したものだと推測されています。

下は椅子に座るサン・ペドロ像。


この像の前には警備員が立っており、長い間立ち止まって見る事はできません。なぜなら、写真で見るように、この像の足に触れたり、接吻したりしてご利益を願う人が大勢並んでいるからです。そのせいで、サン・ペドロ像の足は磨り減っています。

東京の亀戸天神の神牛坐像もそうです。ご利益を願って訪問者が撫でていくもので、テカテカになっています。宗教の違いはあれ、東西南北、考えることすることは似ています。

さて、大聖堂の一番奥、「ペドロの司教座」には、ペドロが使ったと言われる木製の椅子が玉座にはめ込まれています。ベルニーニの作品です。ロレンツォ・ベルニーニはダン・ブラウンファンならその名が登場する「天使と悪魔」で知っているでしょう。


そして、その前にはこれもベルニーニの手による4本のねじれた柱のが天蓋を支える「教皇の祭壇」があり、その真下の地下にはサン・ペドロの墓があると言われます。
 

天蓋の上がミケランジェロが設計したドームです。

Wikiより。うっかりドームの写真を撮り忘れ^^;

ルネサンスとバロックの巨匠、カトリック教会に遮二無二したくもない仕事(システィナ礼拝堂のフラスコ絵など)命令され、様々な暗号で反抗し続けたミケランジェロと表面上の装いで教会から愛されたロレンツォ・ベルニーニ。この二人の作品を上下同時に鑑賞できるこの贅沢さ。

ローマ、バチカン市国はその長い歴史の息吹が21世紀の現代でも感じられ、大いに興味がそそられる街です。