ポルトガルの空の下で

ポルトガルの町や生活を写真とともに綴ります。また、日本恋しさに、子ども恋しさに思い出もエッセイに綴っています。

カズオ・イシグロとわたしのボランティア活動

2017-10-08 09:56:49 | 日本語教室
2017年10月8日 

夫が運転する車中で「カズオ・イシグロが今年のノーベル文学賞受賞」のニュースが流れました。

「英国人と言ってるけどカズオ・イシグロって日本人の名前じゃない?」と夫が聞く。
そそ、日本人だったけど家族と英国に移って後に英国人の国籍を取得した作家よ。作品に映画化されたものがあるし、わたしは彼の短編「Family Supper」を読んだ事がある。日本人というよりむしろ英国人かな、と夫が知らなさそうなので、実は少しばかり自慢っぽく説明したのでした。

カズオ・イシグロという日系英国人作家をちょっとしたいきさつで知ったのはかれこれ10年以上も前のことです。

この区域の高校で先生をしている我がフラットの前に住む女性が、「英語を教える同僚がいて、教科書でフグという毒魚を食べる短編を授業でしたのだが、日本文化に生徒が興味を示している。誰か日本人を知らないかと聞かれた。ユーコさん、してもらえない?」と申し出があったのでした。

してもらえないかというのは、つまり日本文化紹介の授業です。それが2004年だったと思います。その時に参考にもらった教科書のコピーがKazuo Ishiguroの短編「Family Supper(邦題は夕餉)」でした。

作家の名前は初耳でした。話が来たときは、日本文学の英訳したものを授業で使っているのか、あまり褒めたものではないじゃないか、などと鵜吞みにしたのですが、調べてみると、この作家は幼児期に家族と渡英した帰化人とあるのです。

その作品がポルトガルの高校の英語教科書に載るなんて、名誉なことだなぁと感心し、結果、わたしは胸ドキドキの思いで、ポルトガルの高校生相手に初めて教室で英語で授業をすることになったのでした。

その後、更に2度に渡り同高校で毎年「Family Supper」の単元がやってくる毎に、ボランティア授業をしてきました。

これがわたしの日本文化紹介ボランティア活動の出発になったと言えます。そのような訳でわたしのボランティア活動とカズオ・イシグロは切り離せないものなのです。

彼の作品で映画化された「The Remains of the Day(邦題:日の名残り)」は、アンソニー・ホプキンス主演の旧英国の卿に仕える頑固なまでプロフェッショナルな黄昏時期に達した執事の人生を描いた秀作です。原作者の感性は日本人ではなくイギリス人そのものだと思いました。

下記、3度目のボランティア授業の様子を過去日記から引き出します。

2008年2月12日(火) 日本文化紹介ボランティア

行って参りました、高校でのボランティア授業。
夕べ午前2時まで下準備。それでも終わりきれず今日の午前中ギリギリまでタイプを打ったり、展示する物を引っ張り出したり。下が持っていったもの一式です。


左に丸めてある大きなポスターは我が同窓生が送ってくれた弘前公園の桜まつりの写真。その他、言葉で伝えるよりも目で見た方が分かりやすいものの大きな写真コピーも。

もちろん、夕べから今日の午前中ギリギリまでタイプした授業のための英文トラの巻き5枚もしっかりと^^
これを見て棒読みするわけではないのですってば^^;こうしてタイピングすることで話したいことがだいたい頭に入るのであります。



我が家から車で10分ほどのところのErmesindeという区域にあるリセウです。写真は校門を入った正面にある校舎の一部で、そこから校内に入りました。

「2年前に入った校舎と違うな?」と思いながら、ここでフランス語とポルトガル語を教えている友人から依頼してきたポルトガル人の英語の先生を紹介され、授業をしてもらう場所ですと、彼女に案内されたところが・・・↓ここ・・・



うげ!オ、オーディトリウムじゃないの!

そんな話は聞いていなかったぞぉ~。それにプロジェクターはあるが、わたしの好きな黒板がないではないか!簡単な漢字も三つ四つほど覚えてもらおうと準備してきたのに@@
家を出るときに自分の黒板を持っていこうかな?と一瞬その考えが頭をかすったのだが、やっぱり我が勘は正しかった^^;と、しつこく黒板にこだわるspacesisではある(その訳はこちら。笑)

ああだらこうだら言ったところで仕方がない。授業開始時間までの15分ほどの間に、持ってきた小物を並べ、弘前公園や京都の庭園、紅葉のポスターを壁に貼る。


小物は雰囲気を作るためにこんな風に並べて出来上がり。

「生徒さん、入りますよ。」と声がかかり、ゾロゾロ入ってきた生徒の数は70人ほど。後で聞いた話が3クラス合同だったそうで。これも予期してませんでした。てっきり2年前同様、普通の教室で20人ほどの授業だと思い込んでいたのです。

授業の内容は
1.日本の重要な行事。
2.日本が大きな技術発展を遂げた理由は?
3.日本文化と日本社会について。
4.日本社会が閉鎖的な理由
5.日本の物価
6.伝統的スポーツ、気候
7.フグについて。(授業の課題がイシグロ・カズオの短編「Family Supper」。この物語にフグが出て来る)等等。

ちなみにこちらは英語の授業は英語で行われますから、わたしも英語でとの依頼。しかし、今回資料作成でタイピングしてみて、スペルの訂正表示がい~っぱいでした。話すときはスペルを気にしないでいられるものの、これはいかん・・・

言葉は生き物。使わないと日々こぼれ落ちて行くことを実感。息子の日本語のこと、あまり言えません・・・

お喋りすること1時間ちょっと、終了後は花束と有名店のチョコレートを頂いて来ました。そして、前回J-ポップを紹介しようとチャゲアスの歌、「On your Mark」CDを持っていったつもりが、間違って別のを持っていき、ガーーンでしたので、今回は確認してラジカセごと持って行ったのですが、寝不足がためか、CDをかけること自体しっかり忘れておったのでした^^;

ポルトの高校生にJ-ポップを聴かせられるのはいつのことやら・・・

とまぁ、相変わらずトホホなわたしでありましたが、カズオ・イシグロ氏、ノーベル文学賞受賞、おめでとうございます。そして、小さなことですが、イシグロ氏の作品がきっかけで貴重な体験を得ることができた幸運に感謝するものであります。

峰の嵐か松風か たずぬる人の琴の音か

2017-10-04 09:45:00 | 日記
2017年10月4日

本日はバチカン旅行の話から話題を変えまして。

無性に美しい日本語が恋しくなることがある。そんな時に手にする本が長谷川櫂氏の「一度は使ってみたい季節の言葉」だ。わたしはこの本を一挙には読まず、その時その時に応じて開いたページをゆっくり読む形を取っています。



まだまだ夏だとわたしたちが思っている頃に秋はゆっくりと準備をしており、実はもう始まっているのです。

初秋の装いをなすような空色を仰いで後、その本を開いて思わず目を惹かれた「秋の声」の項。平家物語の高倉天皇と琴の上手で美しい小督(こごう)の悲話が取り上げれらている。以下、ざっと要約してみます。

平家全盛の平安朝末期、時の高倉天皇は美貌と琴の誉れ高い小督という女房を深く慈しんいた。しかし、天皇が小督に溺れる事に怒る中宮の父である平清盛を恐れ、小督は宮中から姿をくらませる。天皇の嘆きは深く、密かに腹心の源仲国に捜索を命じる。

折りしも仲秋の名月の頃、月が白々と照る中、嵯峨野のあたりを訪ね回る仲国は、小督が応えることを期待し得意の笛を吹いた。すると、あたりからかすかに「想夫恋(そうぶれん=男性を慕う女性の恋情を歌う曲)」の調べが響いてくる。


(Wikiより)

以下、平家物語からの抜粋です。

亀山のあたりたかく松の一むらのある方に、かすかに琴ぞきこえける。峯の嵐か松風か、たづぬる人の琴の音か、おぼつかなくは思へども、駒をはやめて行くほどに おぼつかなくは 思へども 駒を早めて行くほどに片折戸をしたる内に琴をぞ弾きすまされたる。控えて これを 聞きかれば少しもまがふべうもなき小督殿の爪音なり。

さて、本日のトピックはこれなのです。ここで我が目は「ちょと待てぃ!」と相成ったのであります。わたしにとってはこの「峰の嵐か松風か、たづぬる人の琴の音か」というのは、子供の頃から、恐らくは歴史好き、歌好きだった母を通して覚えたであろう、「酒は呑め呑め 呑むならば 日本一(ひのもといち)のこの槍を 呑み取るほどに呑むならば これぞ真の黒田武士」に続く「黒田節の歌」なのであります。これはいったいいかなる事か?

そこで調べてみたところ、「峯の嵐か松風かたづぬる人の琴の音か」は平家物語で最初に語られ、謡曲「小督」に登場し、やがて「黒田節」の2番目にとなったと言う。文言は後半が「駒をひかえて 聞く程に 爪音(つまおと)しるき 想夫恋(そうぶれん)」と変わりはしているが意味はほぼ同じかと思われます。

言って見れば、子供の頃からそれと知らずして平家物語の「小督の琴」の文言を歌っていたということで、一冊の本から手繰った今回の発見は少し刺激的でした。

最後に高倉天皇と小督のその後はどうなったかご存知の方もおられようが、記しておきたい。

小督は清盛を恐れて宮中に帰るのをしぶるが、「想夫恋」の曲で彼女の真意を悟っていた仲国に押し切られこっそりと天皇の元に帰ってきた。2人はひっそりと逢瀬を重ねるが、清盛におもねる者から秘密が漏れて、小督は京都清閑寺に出家させられてしまい、高倉天皇もほどなく21歳の若さで世を去る。

平家物語のもう一つの哀話である。

バチカン市国:サン・ペドロ大聖堂「ピエタ」像

2017-10-02 16:16:19 | 旅行
2017年10月2日 

ピエタ(Pietà)とは、十字架から下ろされたキリストの亡骸を膝に抱く聖母マリア像の彫刻や絵のことを言いま
す。

ミケランジェロの彫刻のなかでもダビデ象同様つとに有名なので、宗教に興味のない人も一度は本などでみたことがあるのではないでしょうか。

わたし自身は信者ではありませんが、旧約聖書や神秘主義思想には歴史的な面で、多少興味を寄せて独学してきました。このピエタ像を始め、システィナ礼拝堂の天井画など、これらの作品がバチカンの権力に生涯目一杯反抗したと思われるミケランジェロが制作したという点で、一度はこの目で見てみたいと願ってきました。

今日はミケランジェロの名声を確立したとされるサン・ペドロ大聖堂内のピエタ像についてです。

写真が曇っているように見えるのは防弾ガラスで保護されているからです。1972年に精神に異常をきたした男が鉄槌でマリア像に襲い掛かり叩き壊すという事件が起こり、修復作業後、現在のように防弾ガラスで保護されるようになりました。

さて、これはわたしが楽しみながら読んだ本の受け売りですが、ミケランジェロは友人のラグロラ枢機卿からピエタのテーマで作品以来を受けます。1年以上も心血を注ぎ精魂をこめて制作に漕ぎつけた素晴らしいピエタ像でしたが、当時はどんな芸術家も作品に作家の署名は許されませんでした。

ピエタ像のお披露目の日、サン・ピエトロ大聖堂の柱の陰に隠れて群衆や評論家たしの称賛の声を耳にしますが、そのうちこの素晴らしい作品はフィレンツェ以外からやってきた者の作品に違いないという声も聞きます。

ミケランジェロは、当時既に衰退していたフィレンツェのメディチ家ロレンツォの保護の下、その邸宅で一流の教師、哲学者、画家、科学者たちに彼の神秘主義思想を形づくった教育を受けてきたのです。この声を聞いてカットなり、その夜大聖堂に侵入し、自分の傑作によじのぼり、マリアの胸にかかる飾り帯の上に「ミケランジェロ・ブオナローティ、これを政策す」と大急ぎで刻み込みました。

侵入者は見つかるとすぐスイス衛兵に首をはねられるのですから、びくびくしながら慌てて銘を彫り付けたミケランジェロ、何箇所かつづりを間違ったり、脱字があって無理やり文字を突っ込んだりしたようで、これには大いに笑わされました。

結局、署名が発見され、ミケランジェロは教皇に頭をさげることになったのだそうです。88年の生涯で彼の名が記されているのはこの作品だけです。

もうひとつ、このピエタ像に秘められた秘密があります。
聖母像を見たらわかるのですが、顔が若すぎます。ミケランジェロはこれについて、「無原罪の聖母は歳をとらないのだ」との説明をしたとか。しかし、これは聖母であると同時に、ミケランジェロがメディチ家で学んだ旧約聖書の「創世記」に登場する、信心深く美しいアブラハムの妻サラをも表しているとの推測があります。

となれば、世界一有名なキリスト教の重大なテーマを持つ「ピエタ像」にはユダヤ教の秘密が隠されているということになり、ミケランジェロよ、してやったり、ではあります。

ということで、本日はこれにて。
次回は同じくサン・ペドロ大聖堂の内部についてです。

バチカン市国:広場

2017-10-01 12:39:19 | 旅行
2017年10月1日 

2年前にバルセロナを訪れた際、肝心の入場したかったところ、サグラダ・ファミリアやガウディ公園その他の主だったところは、前もってネット予約をしないと入れないと言う悔しい経験をしたので、ローマ旅行の今回は、バチカンのシスティナ礼拝堂とコロセウムは是非と思い、ネット予約をして現地で入場券を受け取るということをしました。

今日はシスティナ礼拝堂入場前に訪れたバチカン広場の紹介です。

バチカン市国は世界で一番小さい国ですが、カトリックの聖地です。毎水曜日はミサと法王の謁見の日で、たくさんの信者が広場を埋め尽くします。わたしたちが行ったのはその水曜日でした。

広場入場の際にはセキュリティチェックがありました。空港と同じで荷物とボディーチェックです。


写真正面の建物がサン・ペドロ大聖堂です。
広場の中央には世界中から謁見にやってくる信者たちの座る椅子が並べられており、この日は環境客は広場の周囲に巡らされた柵内に入ることはできません。教皇フランシスコの説教が良く見聞きできるように、大きなテレビ画面が数箇所に設置されています。
 
すると望遠鏡を覗いていた夫が、「Papa(ポルトガル語で法王のこと)が、真ん中に座っているのが見えるよ」
と言うのです。カメラをズームアップしてなんとか見ることができました。


この後、静かにこの場を出て、システィナ礼拝堂へ向かったのですが、それは後日書くとして。


これが有名なバチカン市国と教皇を護衛するスイス衛兵です。青、赤、オレンジ、黄色の縞の16世紀ルネサンス時代のひときわ目立つ制服を身にまとっています。現存する国軍では創設時期が最古の軍だそうです。

採用基準を調べてみました。
・カトリックのスイス市民
・年齢は19歳から30歳まで
・身長は1.74メートル以上
・中等学校または相当する職業訓練校と、スイス軍の基礎訓練課程を修了
・スポーツ能力と人品が良好であること
・伍長と兵は独身であること

2006年現在で計110名の兵、3個グループ の構成だそうです。
モットーは「勇敢にして敬虔に」。ヨーロッパの傭兵の中でも無類の強さで知られていたスイス傭兵がバチカンに採用されたのは16世紀のことです。1527年5月6日のローマ略奪の際には189人のスイス衛兵のうち147人が勇敢に戦い戦死しています。
ローマ略奪とは1527年5月、神聖ローマ皇帝兼スペイン王カール5世の軍勢がイタリアに侵攻し、教皇領のローマで殺戮、破壊、強奪、強姦などを行った事件のことです。

ダヴィンチ・コードの著者ダン・ブラウンの主人公ラングドン教授がバチカン、ローマで活躍する「天使と悪魔」を読まなかったら、わたしはこのスイス衛兵隊の存在を知らなかったかもしれません。

そして、「ダヴィンチ・コード」を手にしていなかったら、テンプル騎士団とポルトガル歴史の関係に気づき、拙ブログ左欄のカテゴリにある「spacesis、謎を追う」も始まらなかったでしょう。本で知るだけでなく、実際に自分の目で確認できる距離にあるということは、大いに勉強の刺激になります。

今回のローマ旅行では、自分の目で見て見たいと思うものが、いくつかあり、それでヨッコラショと腰を上げたのでした。それらを一つずつ取り上げて行きたいと思います。

次回はサン・ペドロ大聖堂の中です。