ポルトガルの空の下で

ポルトガルの町や生活を写真とともに綴ります。また、日本恋しさに、子ども恋しさに思い出もエッセイに綴っています。

エレファント 群盲象を評する

2018-09-04 16:34:33 | 日本のこと
2018年9月4日 エレファント

「群盲象を評する」という諺がある。

盲人たちが一頭の象に触り、それぞれが象とはいったいどんな動物かと語ることを言う。英語では、It´s the elephant in your living room.となる。

足に触る者、耳に触る者、鼻に触る者と、触る箇所によって色々に言い、全体像が見えない。同じものを論ずるにしても、その印象も評価も人によって違い、一部分だけを取り上げただけでは、全体は見えないぞ、ということを言っているのである。

随分前の話になるが、日本人の怒りを買ったマッカーサー発言の「日本人は精神年齢12歳」の真意は侮蔑ではないと、前バンクーバー総領事多賀敏行さんという方が書いてあった。

この方は国立国会図書館へ出向き、その言葉が書かれてある箇所の前後10数ページを読み、日本人を侮辱したというニュアンスで引用されているこの証言が、どのような文脈で飛び出したのかを調べたのである。

証言録を読んだ氏は、「マッカーサー本人は、主観的に日本を守ろうとして、日本を軽蔑するつもりがなかったのは、文脈から明らかである」との結論に達したそうだ。

こういう話を聞くと、先だっての「生む機械」発言や、杉田水脈議員の「LGBTは生産性がない」発言を始めとし、諸々の、ああ言ったこう言った類の報道にも同様に言えるのではないかと思った。

大臣の例え話をわたしは肯定しているのではない。わたしたちの日常にも、言葉の揚げ足をとられ、その部分だけが一人歩きして、いつの間にかとんでもない誤解をされてしまっていることが、気づかないままあるのではないかと思ったのである。

日本だけに限らないが、近頃の報道をみていると、人が言った事の一部を取り上げて節度なく騒ぎ立てる、つまり、揚げ足をとるとは報道関係者として余りにも品がないではないかと、わたしは少々うんざりしているのだ。自分の発言に責任を負うべきは当然だ思うのだが、それをスッポリ忘れていませんか、てんです。

わたしたちは、こういうエレファント的な判断を毎日のようにしているのかも知れない。瞬時に視覚に入ったもの、耳に入ったものを通して、浅はかな自己判断をしているのかも知れない。

故意に言葉尻をとらえて人を批判、攻撃する節が多いことにも眉をひそめるにいたる。全体像を見せずに、こっそり悪意を吹き込んで言葉尻だけ垂れ流されたらたまらんだろうなぁと、そういう批判にさらされた人を気の毒に思ったりするのである。

こうなってくると、報道のエレファント的吹込みにとらわれないで全体像を見るように、わたしたちも賢くならなければならないと思っている。

また、発言するときに、安易な言葉を使って人の気を引くような物事の例え方には気を払うべきだろう。あっという間に発言が拡散されてしまうツィッターのようなSNSなどは危険性を含んでいるものだ。

娘が高校時代に好んで読んでいたマンガ本があるのだが、たまたま開いたその本の、とあるページにドキリとして、象に触る群盲の一人のように、いとも簡単に物事を判断、評することを控え、全体像を見ないといかんなぁ、と思った次第である。


小泉吉宏氏の「シッタカブッタ」より。

ママの桃の木

2018-09-03 16:55:01 | ポルトガルよもやま話
2018年9月3日 

借家住まいだった頃の、古い我が家の小さな庭の一本の桃の木の話です。ほったらかしで手をかけたことがありません。

それでも一年おきに甘い見事な桃の実を提供してくれました。最高で80個ほどの実を収穫したことがあります。自分の庭でもぎとった果物を食卓に運ぶのは格別な幸せがあります。

ところが、この桃の木、実は私たちの家族は誰も植えた覚えがないのであります。庭の真ん中に、ある日、ひょろりひょろりと伸びている植物を見つけて、始めは「抜いちゃおうか。」と思ったのですが、庭師のおじいさんがやって来る日が近かったものでそのままにしておきましたら、おじいさん、抜かないで行ったんですね。庭師のおじさんが抜かないというのは何かの木であろうと、のんきなものです、そのままにして様子をみることにしました。
   
それから丁度に3年目!見上げるような一人前の木になり、ある早春の朝、二階の我が家の窓から木の先々に薄ぼんやりと見えたもの、

「あれ?なにやらピンクの花が咲いてるぞ?」と発見。
「時節柄からして、桃の花?」と、あいなったのであります。何しろ床にゴミが落ちていてもかなり大きなのでない限り、見えないほどド近眼のわたしです。
   
さぁて、台所のドアから庭に続く外階段を下りていくと、案の定、まぁ、ほんとに桃の花でありました。桃の実そのものは食べても、桃の花なども、最期に見たのがいつであったかを思い出せないくらい長い間目にしていません。小枝を少し折っては家の中に飾り、子供たちと多いに喜んで観賞したのでした。

その年の夏は、気づかないうちにいつのまにか面白いほどたくさんの見事な実がなり、子供たちと木に登りワイワイもぎとったのでした。ひとつひとつ枝から手で摘むその感覚ときたら、それはもう、童心に帰ったような嬉しい気持ちと満足感がありました。我が家にあるカゴも箱もいっぱいで、80個以上も摘んだのです。
 
とても食べきれず、生ものですから長期保存はできないので、階下のマリアおばさんにもおすそ分け。
で、「本当言うと、植えた覚えがないんですよ。」と言いましたら、おばさんいわく、「あら、じゃ私が食べた後に窓から捨てた桃の種の一つがついたんじゃなぁい?」
「え?・・・・・・」   

あらま、道理で。
わたしたちの借家は3階建てで3家族がそれぞれの階を借りていました。庭の敷地も低い石垣で三つに区切られ、それぞれが使っていたのですが、車庫つきのわたしたちの庭はそのなかで一番大きい庭でした。

引越しする前からカーラがたくさん植えられてあり、それにわたしが大好きなバラと紫陽花をたくさん加えて、季節になるときれに咲いていました。が、りんごの芯やらタバコの吸い殻やらが、庭を掃除しても後から後から落ちているのです。
   
ははん、これは階下のおじさんだな・・・ひょっとして灰皿の吸殻を窓から全部庭に捨てているのかも。自分の庭がうちのすぐ横にあるんだから、なぁんでそこに捨てないのかね。自分のところはこれでもか!というくらいきれいにしといて、ゴミ、ガラクタ類はみな、外よそ様のところへ押しやって、って輩が結構こちらにはいるのでありまして・・・・

家の入り口を掃除するも、ゴミを箒で通りへ掃きだすのが、当時はこちらの普通のやり方ではありました。チリさらいひとつで内へ持ち込んでゴミ袋に入れればいいのにと、何度も思ったことですが(笑)
   
でもまぁ、こうしてマリアおばさんが食った桃の種を窓から我が家に放り投げたお陰で今まで持ったことのない桃の木の所有者になった訳だし、今回のところは帳消しにしとこう!と相成ったのでした。

2年続けて桃の木は、立派な実をわたしたちにくれました。我がモイケル娘などは、木登りをし、車庫の屋根づたいに裏にあるだだっ広いジョアキンおじさんのCampo(カンポ=畑)の大きな大きな木にまでたどり着き、際どい遊びを楽しんだものです。

そうそう、我が家の子猫がその木のてっぺんに上ってしまい、それにはホトホト手も焼いた。一晩木の上で過ごし、翌日、モイケル娘が木の枝ギリギリのところまでのぼって、ようやっと胸に抱きしめることができたのでした。

3年目にも入ると、以前ほどの実をつけなくなりました。何しろまったく手をかけなかったものですからね。すると、我が家のお掃除のベルミーラおばさん、

「ドナ・ユーコ、これはお仕置きをしないと!」
お、お仕置き?木にですか?
   
「そうです。木の根元に大きな石を置くのです。んまぁ(笑)しかし、その大きな石をどこから手にいれまする?ろくすっぽ世話をしないのですから、毎年たくさんの実をもらおうとすること自体厚かましいと言うもの。結局、お仕置きはなし。

もう昔になりました。ママこと、わたしくの桃の木にまつわる話でした。