沢藤南湘

残り少ない人生を小説とエトセトラ

四文屋繁盛記(三)

2024-11-07 10:09:43 | 小説
第三話 だまされた番頭(早春)
 春になり、浮き浮きした江戸子たちがうまいもん屋に集まって賑やかに話をしている中、片隅で商人らしき男が何かを思い悩みながら一人でちょびちょび酒を飲んでいた。
男は、震える手でたばこ盆に煙管を近づけて火をつけた。
「お待たせしました」といって、おすみがその男の前の樽の上に二合入りの徳利と皿に二本盛った田楽豆腐を置いた。
 男はおすみの顔を見て、うつむいてしまった。
(この人、なにかへんだわ)
「ごゆっくり」といって、おすみは勝手場に戻った。
「銀之助さん、あの人大丈夫かしら。悲壮な顔をしながら、一升も飲んでいるわ」
「嫌なことでもあったのかもしれませんね。そっとしておいてやりましょう」
それから、一刻が過ぎ、客は潮が引くかのように家路にと急いでうまいもん屋を去って行ったが、商人らしき男は、六ツ半になっても、腰を上げようとはしなかった。
「お客さん、そろそろお店を閉めますが何か食べますか、納豆汁はいかがですか」
 おすみが聞いた。
 男は泣きそうな顔をして、おすみをまんじりと見ながら振り絞るような声でいった。
「いいです。もう少しいさせてくれませんか」
「なにかあったんですか」と、いつの間にか、おすみのそばに立っていた銀之助がいった。
「帰れないんです」
「どうしてですか」
(話は、長くなりそうだな)
 銀之助は、おすみにもう帰るように目配せして、近くの樽に腰を下ろした。
 おすみは首を横に小さく振り、勝手場に行って、二人に湯を運んできた。
「遅くまで申し訳ありません」
 男は我にかえり、自分は、神田旅籠町にある葉煙草問屋’国分屋’の番頭、弥助と名乗った。
「お恥ずかしい話なんですが、美人局に引っかかり、脅されたので、お得意様からいただいた煙草の代金すべてを渡してしまったんです。店の主に帰ってなんといえばいいのか」
「そうですか、もっと仔細を話してくれませんかい」
 おすみも頷いた。
 銀之助に促されて、茶碗に口をつけてから、弥助がぽつりぽつりと話し始めた。
弥助は、朝から代金徴収に客先回りをした。予定通り集めることができ、八ツ半頃、最後の一軒、刻み煙草屋‘貞家’に行った。
貞家は、’国分屋’にとって、初めての取引だった。
来訪を告げると、奥からなまめかしい二十代後半らしき女が出てきた。
「国分屋さん、店主がちょっと出かけているので上がって、待っていてくださいな」
 女は、弥助を客間に案内して、部屋を出て行った。
 しばらくすると、先ほどの女が酒を持ってきた。
「もうすぐ帰ってくると思いますが、その間、一杯いかがですか」
 名は、おとせといった。お歯黒をつけていないので、弥助はこの店の女中かと思った。
仕事中だからと散々断ったが、しつこいので、少しぐらいと思い弥助は、盃を口にした。一杯が二杯になり、そのうちに眠気が差してきて、寝入ってしまった。
「おとせ、今帰ったぞ」
 男が、戸を開けて入ってきた。
 弥助は、その声で目を覚ました。裸になっておとせの上に乗っていた。何が何だかわからなかった。
「おめえは誰だ。俺の女に何やってんだ」
弥助は、我に返った。女の着物が肌蹴ていたのに気づいた。
女がわめいた。
「あんた、このすけべ男が急にあたいを倒して襲いかかって来たんだよ」
「おとせさん、おいらは何もやっちゃあいない」
「何、寝ぼけたことをいっているんだ、弥助さんとやら、あんたの家族や国分屋さんにいいつけるぞ」
「あんた、そんな甘いことじゃ、あたいの気が済まないよ。太助親分にいってくるわ」
「ちょっと待て、おとせ。それじゃ、弥助さんとやらが可哀そうだ。ちょっと間が差しただけかもしれねえ、弥助さんどうする」
「酒に何か入れたな。おとせさん、正直にいってくれ」
「いい加減におし。あんた、このこと皆にいいふらすからね」
「弥助さん、じゃあ口止め料、十両で手を打たねえか。そうすれば、あんたは、国分屋の番頭で働き続けられるし、家族とも今まで通り仲良く生活できるんじゃねえか。おとせは気が済まねえかもしれねえが」
「あんた、なにいってんの。このあたいの身にもなってよ」
「うるせえ、弥助さんにもいろいろあるんだ。どうだね、弥助さん、今日は持っている金を全部置いときゃいいぜ。残りは、十日以内に払ってもらえばいい」
 そんなことで、結局、彼らの脅しに負けて、十両の口止め料を払うことになって、まずは、集めたお金、五両を渡してしまった、と弥助が悔しそうに涙ぐんだ。
「そうだったんですかい、きっと眠り薬を酒に入れていたんですね。いない人間が、弥助さんって呼ぶのもおかしいですね。最初から企んでいたんだな」
「あの店は、あたしもよく刻み煙草を買いに行くんですが、そんなことを」
 しばらくの沈黙の間に、’火の用心’の声とともに拍子木の打つ音が障子戸をゆすった。
既に、五ツの鐘も先ほどなっていた。
 三人の心に、冬の夜の静けさが重くのしかかっていた。
「私は、本当に馬鹿だ」
 銀之助は、手燭を取って二階に上がって行った。
 おすみと弥助は話すこともなく、ただ銀之助が戻ってくるのを待っていた。
 銀之助が、戻ってきた。
「弥助さん、これ店に持っていきなさい」
 銀之助が酒樽の上に五両を置いた。
「銀之助さん、見ず知らずの私に・・・・・」
 しばらく嗚咽していた弥助は、二人に深々と頭を下げた。
「後はおいら達に任せてくんなさい」
 銀之助の癖で、何も策があるわけでないのにいい切った。
銀之助を見て、おすみは笑みをこぼした。
「銀之助さん、早いうちに必ず返します」といって、弥助は、五両を大切そうに懐にしまった。
 出口に向かいながらも、銀之助に何度も頭を下げ続けた。
 そして、弥助はうまいもん屋を後にして、暗闇に消え去って行った
 物騒なので銀之助はすぐにおすみを返して、一人で片付けをした。
 銀之助は、弥助のことで床についても、一睡もできず初午の前日の朝を迎えた。
 まだ、店の準備に間があったので、一人浅草寺付近へ散歩に出た。
 どこの店も、初午の準備は終わっているようだった。
木戸の軒下には、武者を描いた大行燈が吊るされ、露地の長屋から表通りの地所の内で家々の戸々に競い合うように、地口画が描かれた田楽燈籠をかかげてあった。(地口というのは、ことわざや成句などに発音の似通った語句を当てて作りかえる言葉の遊び。例えば、(猫に小判)を‘ に御飯’)
裏長屋の入口には、が左右に立てられて、その奥の路地では、太鼓を打ち鳴らしたり、笛を吹いたり、踊ったりして子供らの遊んでいる姿を銀之助は、しばらくの間立ち止まって眺めていた。
 帰りの仲見世通りでは、道の両側にひしきめあった屋台は準備で皆忙しそうに動き回っていた。
(おいらも、早く帰って店の支度をしなきゃ)
 おすみが店で待っていた。
「銀之助さん、今日の献立は干鱈飯とくわいの蒲焼でどうですか」
「くわいの蒲焼って?」
「よくお寺さんで食べられているんですが、精進鰻の蒲焼で、材料は、 豆腐、山芋、くわい、蓮根です。そして、海苔を皮に見立て、鰻のように形作り、一旦 揚げてから、蒲焼のように、たれをつけて焼くのですよ」
「美味しそうですね。おすみさんはその蒲焼を作ってもらえませんか」
「はい」といって、おすみは、くわいの皮を剥き始めた。
銀之助は、米をといで飯を炊き始めた。
弥助のことをあれこれ考えた。
(なんとか、貞家から五両を取り返して、二度と奴らに美人局をやらせないようにしなければ)
その間に手際よく、干鱈を湯で戻して、それを焼き始めた。
 昨夜から考え続けているのだが、頭の中は空回りするだけで名案が浮かばない。
「銀之助さん、眠そうですね。弥助さんのことですか?銀之助さんも人が良すぎますよ」
「おすみさん。貞家のことどう思いますか?」
「ひどい人たちですね。たしか、おとせと貞七という名前でしたっけ」
「確か、そんな名前でしたね。貞家のこと、ちょっと知りたいですが・・・」
「銀之助さんがそんなに気になるのなら、皆に聞いてみます」
「お願いします。善は急げです。今日は、昼の準備が出来たら帰って下さい」
「まあ、銀之助さんたら、しょうがないわね」
「ちょっと待ってください。干鱈飯を食べていってください」
「銀之助さん、一人でお店大丈夫かしら」
 おすみはよそった飯にだしをかけながらいった。
「大丈夫です」
 おすみは飯を食べ終えて、九ツ刻頃(十二時)帰って行った。
それからの銀之助は昼飯を食べにやってきた客の応対にてんてこ舞いであった。。
銀之助は、八ツ刻(二時)に店を閉めた。
しばらくの間一服してから、片付けをした。
そして、間もなく、夜の支度に取り掛かった。
七ツ(四時)前までに、田楽豆腐、煮しめ、豆腐汁の下拵えをして、それから番茶で飯を炊いた。
その出来上がった飯にすまし汁と茗荷そして、もみ海苔をかければ、利休飯の出来上がる。
この利休飯もおすみから教わり、最近、お品書きに追加した。
酒を飲んだ後に食べる利休飯は、最高にうまいと呑み助たちには評判がよかった。
七ツの鐘が鳴ったので、暖簾をかけに銀之助が外に出たところ、おすみがこちらに小走りでやって来た。
「おすみさん、今日はもういいのに」
 息切れぎれのおすみは、長屋の住人に聞いたが誰も貞家のことは知らなかったと伝えた。
「そうですか」
 銀之助は、ため息をついた。
「お客さんだわ」
鳶職人が三人やって来た。
「もうやってる?」
「はい、いらっしゃいませ」
 銀之助とおすみが、一緒に頭を下げた。
 そして、おすみは、三人を席に案内し、注文を聞いてきた。
「田楽豆腐六本、煮しめ三人前、お酒三合でお願いします」とおすみは、銀之助にいってから、徳利に酒を注いだ。
「おすみさん、できました」
 しばらくして、銀之助がいった。
 それから客の出入りは多少あったが、六ツ刻前なのに客足はいつもより早く途絶えた。
「おすみさん、今日はもう帰って下さい。後はあっしがやりますから」
「そうだ。さっきは、橋本様が留守だったんだ。もし、帰っていたら貞家のこと聞いてみます」
「橋本様は、顔が広いから是非お願いします」

 今日は、初午。
朝早く、銀之助は、近くの稲荷に詣でた。
いつの間にか、境内の梅が咲きほころんでいた。
 これから働きに出る人たちが、お参りに来ていた。
(みんな、何をお願いしているのだろうか)
 お参りを済まして、店に戻って、勝手場で準備を始めた。
五ツ刻、おすみと長屋から大工の源一の女房おつたと棒手振の勇治の女房おみねがやって来た。
すぐに、銀之助の指図でおすみたちは、稲荷すし、豆腐汁、田楽豆腐の下ごしらいに大忙しだ。
おすみは、飯に入れる酢の具合を味見しながら、昨日、橋本順之助に貞家と弥助の話をしたと銀之助にいった。
「貞家って、本当に悪党ね」と、おみねが、野菜を切りながら口をはさんだ。
「でも男って、助平だからちょっと艶めかしい女だとすぐに引っかかるんじゃないの。うちの奴だったら、絶対に引っ掛かるね」と、おつたがいったので、皆大笑いした。
 笑いが収まると、おすみが銀之助にいった。
「橋本様がいろいろ調べておくから、今日、店が終わったら、長屋に来てくれないかといってました」
「そうですか、わかりました」
店を開く時になった。
 稲荷の行き帰りの人々が、うまいもん屋に昼食を取ろうと入って来た。
あっという間に、席はうまった。
銀之助たちは、目まぐるしく動き回った。
 そして、一時の休憩をとったのもつかの間、午後の開店の時間になった。
多少人数は減ってきたが、それでも普段より多い客が、店にやって来た。
 すべてが売り切れたので、いつもより半刻ほど早く、銀之助は店を閉めた。
「皆さん、お疲れ様。これ少ないですが受け取って下さい」と言って、銀之助は、’大入り’と書かれた袋を一人ひとりに手渡した。
 女房たちは喜んだ。
「銀之助さん、いつでも手助けに来るから遠慮なくいってね」
 おみねが、嬉しそうにいった。
「申し訳ないが、ちょっと片付けを手伝ってくれませんか。終わったらあっしも、皆さんと長屋に行きますので」

銀之助は、提灯に灯を入れ、皆の先頭に立って、徳衛門長屋に向かった。
後から付いてくるおつたとおみねは、絶え間なく話しては笑っている。
 提灯の灯りを遮るかのように、雪が舞い始めてきた。
「おすみさん、降り始めましたね」
「積もるかもしれませんね」
 火消用に水を入れて積んである樽が、少しずつ真綿に包まれかのように白くなり始めた。
 初午の雑踏も嘘のように、雪のしんしんと降るかすかな音だけが聞こえると錯覚しそうな夜道を、四人は歩いて長屋についた。
銀之助とおすみは、おつたとおみねに別れを告げ、橋本の家の前に立った。
「橋本様、銀之助です。おすみさんと一緒です」
腰高障子戸が開いた。
「おう、雪か。寒いから早く入れ」
 さすが長い浪人生活をおくっているだけに、いや、橋本順之助の性格かもしれない。
座る場所もないほどに散らかっていた。
 おすみは、橋本の家の勝手を知っているようで、竈に火をつけ、棚から徳利を出し、酒を温め始めた。
「おすみさん、いつもわるいな」
 橋本は、照れながらいった。
 銀之助が、弥助の事の顛末を話し終えたとき、おすみが、酒と茶碗を運んできた。。
「銀之助さん、おすみさん。早く飲んで暖まってくれ。」
 橋本が、二人の茶碗に酒を注いだ。
「国分屋の弥助が、美人局に騙されたとな」
「橋本様は、弥助さんを御存知なんですか」
「それがしは、いつも刻み煙草はあの店で買っているんだ。主もよく知っている」
「貞家は、御存知ですか」
「知らんのだ。あの辺は、人の入れ代わりが早いので」
 橋本が続けて言った。
「そいつは手ごわいぞ。奴らの口を割らせるのは、その場を押さえなければならねえからな」
 そして、橋本は昔藩にいた頃の友人がやはり美人局に騙された件の話をし始めた。
その男は脅され続けた挙句に、刃傷沙汰になり、家族を置いて出奔してしまったと。
「奴らは、禿鷹だ。弱みを見せると、骨までしゃぶりついてくる」
「橋本様、その場を押さえましょう」
「銀之助さん、どうするかね」
 しばらく銀之助は、思案していった。
「おいらが、カモになってやってみましょう」
「ちょっと待て、相手はしたたかじゃ。先ほど、源一と銀太に貞家のことについて調べるよう頼んでおいた。それがしも調べてみるので、策はそれから立てることにしよう」
 
今日のうまいもん屋の昼の献立は、揚げ出し大根、みそ漬け豆腐そして菜飯と決まった。
銀之助とおすみはその支度に取り掛かった。
銀之助は竈に火をつけた。
それから、大根の葉を刻み、米と一緒に釜に入れた。それが終わると、味噌に漬け込んだ美濃紙に包まれた水分を抜いた木綿豆腐を取り出し、さいころ状に切って、皿に盛りつけていった。
おすみは、大根の皮をむき、形よく切ってから、それをごま油が煮立った鍋で揚げた。
揚がった大根を器に入れておろししょうゆをかけ、そして、千切りにしたねぎをおいて蓋をした。それをいくつも作っていった。
「これで準備万端だ。おすみさんのおかげで毎日お客が楽しみにやってきます」
「喜んでくれると嬉しいですね」
 昼は、いつもぐらいの客数で終わった。
 二人は休憩をとった。
 そして、いつもの通りに七ツ刻に店を開けた。
開店直後には三々五々と客がやって来たが、しばらくすると客足が途絶えた。
そんな時に、橋本順之助が店に入ってきた。
「いらっしゃい、橋本様」
 おすみが、明るい声で迎え、二階に案内した。
 そして、勝手場に戻って、銀之助に二階に橋本を通したことを伝えた。
銀之助は、おすみに店のことを頼み、手燭に火をつけて、二階に上がった。
「銀之助さん、いろいろ分かったよ」
 橋本が、一服吸いながら続けた。
今日、橋本は薬種問屋に行って来たといった。
「田辺屋の番頭が、時々貞家のおとせが眠り薬を買いにやって来るというんだ」
「橋本様、これで弥助さんが眠り薬を飲まされたこと、間違いありませんね。」
「十中八九まちげぇねえだろうよ。後は、源一と銀太の連絡を待って策を立てよう」
 四半刻(三十分)ほど話をして、橋本順之助は帰って行った。
 それから、二日後。
 四ツ半(十一時)、おすみは暖簾をかけて、店の中に戻るや否や、古着問屋の白木屋の番頭が、高障子戸を開けて入って来た。
「いらっしゃい。お久しぶりですね」おすみがいって、番頭が座るのを待った。
 番頭が奥の樽に腰かけた。
「何にしますか」
「菜飯と豆腐汁を下さい」
 おすみは、勝手場に戻って、注文を銀之助に伝えた。
そして、客が白木屋の番頭であることを聞いて、銀之助は、番頭の吉二郎のところに行った。
ちょっとの間、話をして勝手場に戻った。
「おすみさん、昼の休みに白木屋さんに行ってきますので留守頼みます」
「はい、夜は、お店お休みですね」
「橋本様たちが、七ツ頃に来られますが、おすみさんはどうしますか」
「皆さんのお話、聞かせてください。いいですか」
「もちろん、いいですよ」
 
八ツ半(三時)、銀之助は、何か荷物を持って帰ってきて、おすみに一こと二こと話をして、二階に上がって行った。
しばらくすると、一階からおすみの声がした。
「銀之助さん、橋本様たちが来ましたよ」
「橋本様、源一さんも銀太さんも二階に上がって下さい。銀之助さんが待っています」
橋本たちは、二階に上がった。
 その後から、おすみが火のついた手燭を持ってきて、二つの行灯に灯をつけていった。
「お酒お持ちしましょうか」
「すまん」
橋本は手を挙げた。
おすみは、銀之助の頷くのを見て、下に降りて行った。
「肴を持ってきます」といって、銀之助も階段を下りた。
二人は、間もなく大徳利と田楽豆腐を運んできた。
 行燈の光が、皆の影を揺らした。
「銀之助さん、源一が貞家の絵図面を手に入れてくれた」
 源一は、懐から図面を出し、広げて説明した。
「たぶん、話から、弥助さんが引っ張り込まれた部屋はここだと思います」
「この居間の前に庭があるとは、好都合だ」
 橋本は、扇子で絵図面を指した。
 銀之助は、間取りを頭の中に叩きこんだ。
「銀太、貞家のこと何か分かったか。」
 橋本が、銀太を促した。
「へい、貞家には、用心棒が二人いますぜ。一人は、六尺もあるような大男なんで。もう一人は、橋本様ぐらいです。大男は、 時々道場あらしをやって金を稼いでます。強いようです」
「そうですか」
 銀之助は、腕を組んだ。
「それがしもついて行こう」
 橋本が、盃を口づけた。
 すぐに、おすみが、酌をした。
「おいらも行きますぜ」
 銀太がいった。
「お前たちはやめたほうが良い。それがしと銀之助さんでやる」
 一刻ほどして、おすみと橋本そして銀太は長屋へ帰って行った。

 江戸の空は、雲がなく青く途切れることなく澄みわたっていた。
 初午の日が過ぎ、浅草寺界隈は、静けさを取り戻しつつあった。
「おすみさん、午後からおつたさんとおみねさんが、手伝いに来てくれますので、よろしくお願いします」
「はい。銀之助さん、気を付けてくださいね」
「橋本様も一緒ですから、大丈夫ですよ」
 銀之助は、にんじんを切りながらいった。
おすみは、竈に火をくべた。
「今日は、でどうでしょうか」
「どのように作るのですか」
「大根を切り、桂剥きにし、酒を振って巻きなおします。それを楊枝でとめ、それを釜に入れて蒸します。その間に、合わせ味噌、みりん、酒に胡麻を混ぜて作ったたれを蒸した大根につけます。以上で出来上がりです」
「なるほど、おいしそうですね。よろしく頼みます」
 おすみは、といだ米が入った釜を竈に乗せてから、林巻大根を作り始めた。
銀之助は、切ったにんじんを白味噌で和え、小皿に移して胡麻をかけ、‘にんじんの黒和え’を二十人分作った。
準備が終わり、銀之助たちが賄飯を食べていた時に、おつたとおみねがやって来た。
「お二人さん、いつもすみませんね」
 おすみが、二人に膳を運んできた。
「何いってんの、それより気を付けてね」
おつたがいいながら、おすみは、賄飯を食べた。
「林巻大根、おいしいわね」
 おみねが、いった。
「店、よろしく頼みます」といって、銀之助は二階に上がり、それからしばらくして、銀之助は風呂敷包み背負って、裏口から出て行った。
浅草聖天町を抜ける前に、待乳山聖天宮に詣でた。
大川の水面が、春の色合いを映し始めていた。
 丘を下って、谷中へと出て天王寺近くに来た。
(このあたりかな)
銀之助は、天王寺に寄ってから貞家を探すことにした。
天王寺は、日蓮が鎌倉と安房を往復する際、関小次郎長耀の屋敷に宿泊した事に由来、そして日蓮の弟子の日源が法華曼荼羅を勧請して開山したと立札に書いてあった。
 やっと、貞家を見つけた。水樽の陰に隠れていた橋本順之助を見て、銀之助は、貞家の腰高障子戸に向かった。
 そして、息を整え、やや緊張しながらいった。
「古着屋の白木屋でございます。おかみさん、良い着物がありますので、見ていただけませんか」
「はい、はい」と声がして、障子戸が開いた。
(なんと、艶めかしい女なんだ、弥助さんから聞いた通りの女だ。この女がおとせっていうんだな)
 銀之助は、しばし見惚れていた。
「あんた、初顔だね」
「へい、つい最近この辺りを回り始めた者で、白木屋の長助といいます。お見知り置き下さい」
「挨拶はその辺でいいから、早く着物を見せておくれよ」
 銀之助は上がり框に腰を下ろして、風呂敷包みを床に置き、広げた。
「いかがですか」
「古着とは思えない綺麗なものばかりね」
 おとせは、その中から淡い桃色に紅梅の花が散りばめられた小袖を手にとって、身体に当てた。
「どう、似合うかしら」
「よくお似合いですよ」
 銀之助は、手鏡を取り出し、おとせに向けた。
「これ、いただくわ。お勘定は今日でないとだめかしら」
「いえ、いつでも結構ですよ」
「明日、払うわ。その時、男物を持ってきてくれない」

 八ツ半(三時)に、銀之助は店に戻った。
 おすみたちに留守中の礼をいって二階に上がり、着替えてから下に降りた。
橋本が、来ていた。
「どうであった。」
「明日、男物を持ってきてくれといわれました」
「危ないな」と橋本はいい、明日の策を確認をして帰って行った。
 
 昼の開店前の準備に、昨日と同様、おすみ、おつた、おみねたちと銀之助は、忙しかった。 
 準備が終わったのは、四ツ刻半頃であった。
「では出かけてきます、後はよろしくお願いします」
「銀之助さん、気を付けてね」
おすみたちに、店を任せて銀之助は、貞家に行った。
「長助さん、主がまだ帰ってこないんで、上がって待っていてください」
(きたか)
銀之助は、居間に案内された。
「長助さん、しばらくお待ちくださいね」
 おとせが、部屋を出て行った。
 銀之助は、障子を開け、庭を見た。橋本順之助は、すでに木の陰に隠れていた。
 しばらくして、おとせが、酒と肴を箱膳に乗せて持ってきた。
「長助さん、主が来るまで一杯いかがですか」
銀之助の隣に座って、徳利を持って酌をしようとした。
「まだ仕事中なので、ご勘弁を」
 そんなやり取りを何回かしているうちに、銀之助は、何杯か呑んでしまった。
「おとせさん、眠くなってきたんで、ちょっと横にならせてもらっていいですかい・・・」
「どうぞ、楽にしてください」
銀之助が、横になって鼾をかき始めた時、襖戸が開いた。
貞家の主の貞七が二人の浪人を伴って、入ってきた。
「こいつは、効き目がはえや」
 おとせは、髪を乱し、着物を肌蹴だして仰向けに寝た。
「おい、やっこさんをおとせの上に乗せてくだせえ」
 貞七は、二人に命じた。
 二人は銀之助の着物を肌蹴させてから、六尺ほどの背丈のある大男が脇の下を、背の低い男は、足を持っておとせの身体にうつ伏せに乗せた。
 おとせの色香が漂い、おとせの顔、切れ長の目そして、おちょぼ口が目の前にあった。
(このあたりで、始末をつけるか)
銀之助は、目を見開いた。
「げえぇ」
 おちょぼ口が動き、おとせは震える手で銀之助を押しのけた。
 銀之助は、それを反動として、立ち上がり障子戸を背にした。そして、戸を引き開けた。
「お前たち、いつもこの手で人から金をむしり取っているんだな、許せねえ」
 貞七は、我に返った。
「てめえ、いったい何者だ」
懐から匕首を出した。
「先生、こいつをやっつけてくだせぇ」
 大男の浪人が、抜刀するや否や、上段から銀之助を斬りつけてきた。 
そこを銀之助は、左にかわしながら、庭に飛び降りた。
「銀之助さん、ほれ」
 木陰から出ていた橋本順之助が、丸棒を銀之助めがけて投げた。 
「ありがたい」と、銀之助が丸棒を受け取った。
振りかぶって来た大男が切り下げるのと同時に、銀之助は丸棒で胴を撃った。
「うっ」
大男が倒れると同時に、銀之助の右肩口からは、血が流れた。
一方、橋本はなんなく小柄な浪人を峰で撃って、居間に上がっていた。
銀之助も居間に上がった。
「あんた、早くやっちまいなよ」
 おとせは、匕首を握りしめ、貞七の後ろに退きながらいった。
 貞七が形相を変えて、匕首を振り上げ銀之助に向かってきた。
「ギャー」
 貞七は匕首を畳に落とし、左手で手首を押さえて座り込んでしまった。
 橋本はおとせに近づいた。
「やめて、お金は全部渡すから」
橋本は目にもとまらぬ早さの居合で、おとせの島田髷をあっという間に残ばらにさせた。
「おい、貞七。いままで脅して金を取って来た人間の名前と金額を教えろ」
 銀之助が丸棒を貞七の首にあてた。
「隣の部屋の奥の箪笥だ」
 橋本が、戸襖を開けて、箪笥のそばに行った。
「どこにあるんだ」
「上の戸袋だ」
 橋本が、帳面と金の入った箱を引き出した。
「あまり入ってねえじゃねえか」
「使っちまった」
「どうして返す」
 おとせが、いった。
「あたしの着物を持ってお行き」
「銀之助さん、弥助の五両だけでいいだろう」
 といいながら、橋本は、火鉢の中の火を帳面つけ、庭に放り投げた。
うまいもん屋に銀之助と橋本が戻ったのは、西の空に陽が落ちてしまった暮れの六ツ刻だった。
 裏戸から入って、勝手場に顔を出した。
「お二人とも御無事でよかった」
いち早く二人に気づいたおすみが、嬉しそうにいった。
「ほらごらん、おすみさん。橋本様と銀之助さんならうまくやって来るといったじゃないか」
 おみねが、徳利に酒を入れながらいった。
「橋本様、長屋の連中が来るまで、店で一杯飲んでいてください」
 銀之助にいわれて橋本は、勝手場から店に入って行った。
「いらっしゃいませ」
店からおつたの声が、聞こえてきた。
 しばらくして、勝手場に戻って来たおつたが、弥助が来たことを銀之助に伝えた。
「おつたさん、すまないが、弥助さんを二階に案内してもらえませんか」と、いってから、今度はおすみに向かって、銀之助は、今いる客がいなくなったら、すぐ店を閉めるよう頼んで、風呂敷包みを背負って二階に上がった。
 橋本は、店の樽に腰かけて、田楽豆腐を肴に酒を飲み始めていた。
二階の部屋には、すでに行灯に灯がともっていた。
 弥助が、心配そうな顔つきで座っていた。
 銀之助は、貞家での今日の出来事について、手短に話して、懐から若草色の丹後縮緬のを出して開いた。
「弥助さん、貞家から五両、取り返してきました。もうあいつらは、あんたを脅すことはしないと思いますよ」
 やっと弥助は納得し、畳に頭を擦り付けるほどに頭を下げた。
頭を下げ続けた弥助がいうには、ちょっと前まで、貞家に乗り込んで、おとせ立ちを亡き者にしようか、それとも自害しようか悩み続けていたと打ち明けた。
 また、弥助の母親は、昨年から病で床に臥せっており、母一人を残すことに未練が残っていたともいった。
 思い出したように、弥助は懐から一両を出し、銀之助に差し出した。
「このお金を受け取ってください」
「これは、貞家に渡すつもりで持ってきたものです。受け取っていただかないと気持ちがすみません」
 銀之助は、頑として受け取らなかった。
「銀之助さん、源一さんたちが来ましたよ」
 戸襖の向こうから、おすみの声がした。
銀之助は、この度の件で源一たちの手伝いについて、弥助に話をしてから、ふたりは一階に降りて店へ入った。
「銀之助さん、御無事で何よりです。肩に血のようなものが」
 大工の源一が、心配そうにいった。
「銀之助さん、大丈夫かな。それがしは全く気付かずお恥ずかしい限りだ」
「橋本様、かすり傷です。六尺の大男は、銀太さんがいっていたように、手ごわかったですね。」
「その浪人に勝つなんぞ、銀之助さんは、大したもんだ」
 簪職人の銀太がいった。
 そばで聞いていた弥助は、驚き頭をまた下げた。
「銀之助さん、申し訳ございませんでした」
 銀之助は、皆に弥助を紹介し、弥助に樽に腰かけるよう勧めた。
 弥助は、皆に礼をいって、頭を深々と下げてから腰かけた。
 おすみたちが、酒と肴を次々と運んできた。
「はい、勇治さんからの差し入れのめざしいわしを焼いてきました」
「勇治、味なことをやるじゃないか」
 橋本順之助が、めざしを手に取りながらいった。
「しかし、どうして貞家で酒を飲んでも眠らないで済んだんですか」
 いつの間にか、銀之助の隣に腰かけていたおすみがいった。
「橋本様が、薬種問屋の田辺屋から、眠り薬を飲まされても眠らずに済む薬を、手に入れてきて下さったのを飲んだんですよ」
「あの薬な、田辺屋が唐辛子や黄辛子など辛いものを煎じて作ってくれたんだ」
「だから、噛み潰したとき、涙が止まらなくなったんですね。おとせの顔に涙が垂れたので、おとせの驚きは、尋常ではありませんでしたよ」
 皆、笑ったが、弥助は咽び泣いていた。
しばらくして、
「皆さん、御粥が出来ました」
おすみたちが、盆に乗せて持ってきた。
 真っ先に、橋本が箸を取った。
「こりゃうまい」
「若狭の白がゆです。これも八百膳で覚えたんです。まだ、お品書きに入れてませんけど」
 おすみは嬉しそうに、橋本に向かっていった。
 一刻ほどして、おすみたち女が片付けをするのを待って、橋本たちは、長屋へ帰って行った。
弥助は、外で橋本たちが見えなくなるまで、頭を下げていた。
「銀之助さん、いろいろありがとうございました」
 中に入って改めて頭を下げ、弥助も店を後にした。
 銀之助は、静かになった店の中の行灯を消そうとした時、弥助が座っていた樽の上に袱紗が置いてあるのに気づいた。
(弥助さん、気を使って)
 勝手場に戻り、明日の段取りを終えてから、徳利を片手に二階に上がった。
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四文屋繁盛記 (一、二)

2024-11-02 16:35:55 | 小説
第一話 安永地震(秋)
「なんてひどい有様なんだ」と言いながら、目に涙を浮かべながら男が歩いていた。 
秋が終わりかけていた江戸の朝、焦げ焼けた臭いがあたり一面に漂っていた。
数日前の地震によって引き起こされた火事場跡からによるものであった。
この地震によって、一夜にして多くの府民が命、家屋そして財産を失った。
急場しのぎで設置されたお救い小屋では、握り飯と汁をもらいに老若男女の人々たちが長い列を作っていた。
 その男は廃材置き場に立ち止まった。
 ただ汚れているが決して安物の衣服には見えない着物を着たその男は、
「神も仏も一体何しているんだ」とつぶやいた。
 そして、腰をかがめながら選別しながら木材を集めた。
「こんなもんでいいだろう。作るとするか」と男は、自分で書いた図面を見ながら、集めた木材を切ったり、打ち付けたりして、一日かけて組み上げた。
「やっとできた」と言って、額の汗をぬぐいながら、きりっとしまった顔に安堵の色を浮かべた。
出来上がったのは、担ぎの屋台で、見たからに頑丈そうであった。
「寝る場所を確保するための腰かけを作らねば」と言って、再び木材を組み立て始めた。
 組み合わせて練れるように、四つほど作り終えたのは暮六ツを過ぎていた。
 昼に作った吊るし行灯に火を入れた。
そして、柳行李からを取り出して、筆に墨をつけすらすらと文字を書き始めた。
「一うどん代十六文 一そば代十六文 一しっぽく代二十四文 うまいもん屋、これでよし」といって、書きあげた紙を屋台に張り付けた。
 屋台で一晩過ごして、朝を迎えた。
男はお救い小屋でもらった握り飯を食べ終わると、瀬戸物屋とうどん蕎麦類の卸問屋を探して、材料を都合するだけでなく、今後の取引の継続も頼んだ。
 陽が落ち始めた頃、男は疲れていたが、万事が整った満足感から、明日から頑張るぞと意気込んだ。
は翌日から、男は、昼夜を問わず、屋台を担ぎ蕎麦とうどんを売り歩いたが、町には家を失った人たちがあふれており、蕎麦を食う金も持ち合わせていない者も多く、一向に売り上げははかばかしくはなかった。
それどころか、男は、腹をすかした者たちにただ同然にそばやうどんを食べさせてやった。

三年が過ぎ、将軍は綱吉から家宣に代わっていた。
 男は、担ぎ屋台で稼いだ金を元手で、浅草金竜山門から多少離れた所に’うまいもん屋’という小さな飯屋を構えていた。
 男は、銀之助と名のっていた。
 この浅草界隈では、彼の素性を知る者はだれ一人としていなかったが、昨年の地震の後にそばやうどんを食べさせてもらったことを覚えている者は多かった。
 その人たちが銀之助の店を贔屓にしてくれたので、店は繁盛した。

第二話 舞い込んできた娘(冬)
 今年もあと三日。
 八ツ半(午後三時)、浅草界隈は、新しい年を悔いないように迎えようと、人々があわただしく動き回っていた。
 浅草寺に続く道に沿った店の多くに、門松やお飾りが取り付けられていた。
その中の一軒‘うまいもん屋’と書かれた高障子戸を、荒々しく娘が開けた。
鈴が、鳴った。
「すみません、まだなんですが」
 銀之助は、勝手場から出てきた。
「何か食べ物を・・・・」
髪を乱し、うす汚れた木綿の着物をまとった娘が、入口に立っていた。
 尋常でないと察した銀之助は、娘を店の中に入れた。
「さあ、座んな。今、食べ物を持ってくるから」
勝手場から田楽豆腐を取って来て、娘に渡した。
娘は、皿を抱え込んだ。
「これなら腹にたまるぞ」といって、菜飯を持ってきた。
 娘は、すぐ椀をからにした。
「まだ、食べられるかね」
「いやもうお腹いっぱいだ」と娘はいって、黙りこんだ。
「娘さん、名は」
「おさと」
「歳はいくとかね」
「十六歳だ」
「おさとさんはどこの生まれだい」
「秩父」
娘は、ポツリポツリと話し始めた。
 昨年、秩父では飢饉で餓死者がたくさん出て、字が読めない多くの親たちはだまされて、あたしたち若い娘を女衒に売り渡してしまった。おさとも秩父から出て途中、だまされたことを知り、手引きと女衒が休んでいるときに、逃げ出してやっとの思いでここにたどり着いたと。
(田舎は、大変なことになっているんだな。細かなことは落ち着いてから聞き出すか)
銀之助は、おさとを勝手場に連れて行き、百文を手渡した。
「おさとさん、これで着物を買って、湯屋に行ってきな」
おさとは、何度も頭を下げながら、礼をいって、裏口から出て行った。
いつの間にか、闇が店の周りを覆い始めていた。
銀之助は、行灯に灯を入れた。
最初の客が、障子戸を開けて入ってきた。
「いらっしゃい」
「酒二合、頼む」
「はい」
その客に続き、客が入れ代わり立ち代わりやって来て、応対に銀之助はてんてこ舞いであった。
半刻(一時間)ほどたって、湯屋から戻ったおさとが店を覗いた。
(お客さんが、いっぱい)
そして、勝手場に行った。
「御主人、手伝わせてくれ」
 おさとがいった。
「えっ、あのおさとさんかい」
 先ほどのみすぼらしいおさととは、見違えるような美しい娘に変っているのに銀之助は驚いた。
「ちょっと待ってくれ」と銀之助は二階から襷と前掛けを持ってきて、おさとへ渡した。
 黄の小袖に紺の前掛け、
「おさとさん、似合うね」
 おさとはてれた。
「おさとさん、この銚子、奥の席にいる二人組のところに運んでくれないか」
「うんだ」
 おさとは、てきぱきと銀之助のいうことに従って、こまめに働き回った。
夜五ツ(八時)、客がいなくなったのを確かめ、銀之助は店を閉め、片付けはじめた。
 おさとも銀之助にならって、客の使った銚子や皿を洗い片付けた。
 それが終わると、行灯の灯も近くを残して落とし、二人は長椅子に腰を下ろした。
「おさとさん、これからどうする?」
「御主人、実は・・・・」
「なんだ」
「ええ、ここで働かせてもらえねえか、飯だけ食べさせてもらえばいいんだ」
「おさとさんが、よければいいけど」
「一生懸命やるだ」
「分かった、じゃあ、やってみるか」
「御主人、ありがとう」
「寝るところはどうするか?」
 おさとは、黙った。
「今夜はここへ泊っていけ。明日、住む場所を探してやろう」
「何から何まで、すまねえ」
銀之助は、おさとに留守をに頼み、湯屋に行った。
翌朝。
 銀之助は鍋の昆布のだし汁に、醤油、酒、塩を加え、そして卵を入れ泡がたつまで手際よくかき混ぜ、火の入ったかまどにのせた。
 また、棒手振りから買った蜆を使って、味噌汁を作った。
「さあ、できあがりだ。飯にしよう」と銀之助はおさとに声をかけた。
「おいしい、これ、何というんだ」
「玉子ふわふわというんだ」
銀之助とおさと二人は、玉子ふあふあと豆腐の味噌汁を食してから浅草寺の裏手の自身番に向かった。
 自身番の障子戸を「おはようございます」と挨拶しながら開けると、源治が二人を迎えた。
「銀之助さん、朝早くからどうしたんだね」
「へい、御相談したいことがあるんで」
銀之助は、おさとを紹介し、おさとの住む所がないかと源治に尋ねた。
「そうだな、徳さんの長屋が空いているかもしれん、おーい、徳さん」
 奥から、徳衛門が出てきた。
「おはよう、銀之助さん。どうしたのかね」
 銀之助は、おさとを徳衛門に紹介した。
源治は、徳衛門におさとのことを話した。
「おさとさん、ちょうど一軒空いているんだが、うちの長屋でよかったら、いいよ」
 おさとは、銀之助の顔を見てから、徳衛門に向かって頭を下げた。
「おさとさん、俺もちょっと前までは、徳衛門さんの長屋に世話になっていたんだ。長屋の住人は、いい人ばかりだから安心しな」
 銀之助は、ほっとしたように頷いた。
 銀之助とおさとは、徳衛門に連れられて、長屋に入った。
 家は、こぎれいにされていた。
「おさとさん、今日、明日で、道具をそろえたらいい。あさって、明け五ツ(八時)に店に来てくれ」といって、銀之助は、二百文をおさとに渡そうとした。
「こんなにもらっちゃ」
「昨日の手間賃だ、遠慮はいらねえよ。布団や鍋釜、買いな」
 銀之助は一軒一軒まわって、長屋の住人におさとを紹介し、面倒を見てくれるよう頼んだ。
江戸は、大晦日を迎えた。
朝早くから、「おうぎ、おうぎ」と扇売りが、何度もうまいもん屋の前を通り過ぎて行った。
店の勝手場では、銀之助が、年越し蕎麦を打ち、おさとが切り、粉をつけて一人前ずつ分けていた。
二十人前ぐらい作り終えた。
銀之助は休むもなく、もち米をふかし始めた。
「おさとさん、餅つきはしたことがあるかね」
「ええ、田舎で毎年、名主さんの家でやっただ」
 おさとの目から急に涙が、こぼれ始めた。
 銀之助は、おさとの身の上に同情し、話しかけるのをやめた。
(泣きたいだけ泣かせてやろう)
「御主人、すみません」
 銀之助は、昨日洗った臼と杵を店の外に運んだ。
「おさとさん、ふけたら持ってきてくれ」
「はーい」
銀之助は、杵でつき、おさとはこねた。
最初はぎこちなかったが、すぐに二人の呼吸は合った。
「おさとさんは、こねるのがうまいな」
「御主人はつくのが上手ですので」
「わいわい」と、近所の子供たちが嬉しそうに集まってきた。
「おじさん、やらせてよ」
「よし、やってみな」
 子供たちは腰をふらつかせながら、何とか振り下ろすことができた。
 皆、笑ってみていた。
つきあがった餅を二人で丸め始め、出来上がったものを子供に与えた。
「おさとさん、残った餅は、正月、我々が食べたり、お客に出したりしよう」
 昼になり、店を開くやいなや、途切れることなく、年越しそばを食べに客がやってきた。
「すごい」と、おさとは驚いた。
「これほど来るとは」と、銀之助も蕎麦が足りるか心配になってきた。
銀之助は蕎麦を茹で皿に盛り、それをおさとは、客へ運んだ。
蕎麦だけでなく、酒やつまみの注文もあり、二人とも、ひと息も付かずに働いた。
夜五ツになって、とうとう蕎麦が無くなり、ようやく店を閉めることができた。
「おさとさん、ご苦労様。来年は四日からまたよろしく」
「はい、こちらこそ」
 銀之助はおさとに客商売だからと言って、少しずつ話し方を教えていたので、最近では、姿格好だけでなく話し方も、秩父の田舎から出てきた娘とはだれもが思わず、銀之助の妹と思っていた。
 おさとが帰ると、今までの喧騒とは裏腹に静けさが銀之助をおそった。
銀之助にとって、‘うまいもん屋’で正月を迎えるのは初めてのことであった。
浅草寺で打たれた除夜の鐘を聞きながら、眠りの底におちいった。
そして、銀之助は、一人だけの静かな元日を迎えた。
まだ町は闇の中に包まれていたが、空を見上げると星がいっぱい輝いていた。
「今日は、天下晴れだ。縁起がいいぞ」
さっそく、浅草寺へ明け六ツ(朝六時)に詣でた。
夜が明けていないのに、参道は初詣で身動きが取れないほどの人出であった。
やっとのことで、銀之助は、一すくいの煙を体に浴びせそして、本堂に上がると読経の声が響き渡っていた。
「まかはんにゃはらみったしんぎょうかんじざいぼさつ ぎょうじん ~」
(本年も良い年でありますように)と、手を合わせた。
「銀之助さん、本年もよろしく」
 拝み終わって、帰ろうと振り向いた時、銀之助は檀家総代の与助から言葉をかけられた。
 挨拶を返した銀之助は、ここで働けるのは、与助さんたちのおかげだと礼を言い、そして、店で働いているおさとのことを手短に話した。
「銀之助さん、それは良いことをしおったな。何か困ったことがあったら遠慮なく言ってきなさい」との与助の言葉に礼を言い、寺を辞去した。
あてもなく、銀之助は歩いた。
腹が空いてきたので、近場の蕎麦屋に入った。
「いらっしゃい」と女が声高らかにいった。
 店は初詣の帰りの着飾った人々で繁盛していたgy。
 席に案内された銀之助は女に注文した。
「酒と田楽豆腐と納豆汁をもらおうか」
 酒が飲みながら、田楽豆腐を味わった。
(これは、うちよりちょっと甘みがあるな。うまい)
 蕎麦が運ばれてきて、それを食した。
(なるほど、二八か)銀之助は唸った。
(このぐらいのこしの強さを店で試しに作ってみるか)
 三が日の間、銀之助はあちらこちらの料理屋に行って、食べ比べをした。
 四日、銀之助は、勝手場で昼の準備をそして、おさとは、店前の通りを掃除していた。
「あんた、秩父にいたおさとさんかい。やっと見つけた」
おさとが顔を上げると、顎から耳元までが張りついたような傷を持った男が立っていた。
「どちらの方?」
「あんたの親父に金貸した、丸金の助五郎というもんだ」
「何の用ですか」
「あんた、逃げたんだよな。おかげでこっちに銭が入ってこないんだ。早く女衒のところへ連れていく。それとも、返してくれるか」
「いやだ」
「十両なんだが、一年たったもんだから、三十両になっちまった」
「三十両、そんな!」
「払えなけりゃ、女衒に連れ戻す」 
 おさとの顔色は真っ蒼になっていた。
「おさとさん、どうした」
 銀之助が近づいて来たのを機に、助五郎は着物を端折っておさとから離れて行った。
「おさとさん、あいつは誰だい?」
 おさとは黙った。
「いいたくなけりゃ、言わなくていいよ」
銀之助は、店の中に入って、まずは田楽豆腐を作るために、豆腐をいくつも長方形に切って、それを串に通し始めていた。
(あいつはやくざ者だな。正月から、厄介なことが起こりそうだ)
おさとも勝手場に入って来て、銚子、徳利、茶碗を出し始めた。
(あの助五郎ってやつ、またきっと来るわ。どうしよう)
ガチャアーン
「すみません」
 おさとは、泣きそうな顔をしていった。
「気にしなくていいよ」
おさとは慌てて、割れた茶碗を拾った。
「おさとさん、田楽のたれを作ってもらえないか」
「はい、どうしたらいいんですか」
「その棚にある、味噌、そして、少々水飴、酒、みりんを入れ、弱火でよく混ぜてくれ。
水や、みりんで適当な硬さを、いいやこれからは俺が見るから」
「どうですか、味は?」
「いい味だ。おさとさん、練馬から仕入れてきた大根を切ってくれないか」
昼九ツ、‘うまいもん屋’の今年最初の店開きの時間になった。 
外は、待ちきれずに客たちが寒空の中で列を作って並んでいた。
銀之助とおさとはてんてこ舞いだった。
(だんだんお客が少なって来たわ)とおさとが思った時、 あの男が入ってきた。
 おさとは、逃げるようにして、勝手場に入り、銀之助にあの男が来たことを知らせた。
「おーい、この店は注文を取りに来るのに時間がかかるのか」と、男が怒鳴った。
「へーい、今、行きます」と、銀之助は勝手場で返事をした。
「おさとさん、もう店には出なくていいから。二階に上がってな」
「御主人、すみません」
 銀之助は、男の前に立って言った。
「お待たせしました」
「おせえな。酒二合と田楽豆腐を二本だ」
「へい、ありがとうございます」
 銀之助は、勝手場に行き、手際よく田楽に味噌をつけ、温めた酒を徳利に二合入れた。
「お待たせしました」
「今度は、早えな」
 銀之助が勝手場に戻ろうとした時、男が声をかけてきた。
「ちょっと待ちねえ」
「何か御用で」
「いつもの娘はいねえのか」
「ちょっと出かけてますが、何か」
「いや、なんでもねえ」
(しつこい野郎だ)
「他に何か」
「また呼ぶから、もういいぜ」
 銀之助は、勝手場に戻り、客にふるまう雑煮を作り始めた。
先ほど切っておいた大根、小松菜と里芋を醤油味のすまし汁に入れて煮立たせ、焼いた切り餅六つを入れてた。
六つの椀に、手際よく温まった雑煮を入れ、客たち一人ひとりに運んだ。
「銀之助さん、これ頼んでないよ」
「祝いの雑煮ですから、銭はいりません」
「そうか、ありがたい。御馳走になるか」
 そして、最後にあの男のところに行った。
「雑煮いかがですか、これは祝いの雑煮ですので、銭は戴きません」
「もらおう」
 丸金の助五郎は、盃をおいていった。
 銀之助は、椀を置いた。
「ほう、この雑煮は珍しいな」
「へい、これは家康様が江戸に来られて、譜代の家臣達に贅沢しないよう戒めるために考え出した雑煮でございます。江戸っ子はこの雑煮をよく食べていますが、江戸は、他国の者が多く皆自国の雑煮で正月を祝っているので、地元の江戸の雑煮を知っている方は少ないのです」
「もういい。おまえの名はなんていうんだ」
「銀之助と申します。お見知りおきください」
「ところで、娘はいつ帰ってくるんだ」
「ちょっと、出かけてくるといったんですが」といって、銀之助が立ち尽くしている間に、男は、一気に雑煮を食べ終えて言った。
「待て、いくらだ」
「へい、二十四文で」
「また来るからな」
 三十文おいて、丸金の助五郎は帰って行った。
「おつりは」
「いらねえ」
 助五郎が帰ってから、半刻ほどで客は一人もいなくなったので、銀之助は店を閉めた。
二階からおさとが下りてきて、銀之助の片づけの手伝いを終わった後に、おさとが青ざめた顔で言った。
「御主人、お話があるのですが」
「ここでいいかい」
銀之助は、樽に腰を掛けた。 
おさとは、金貸しの助五郎から聞いた話を怯えながら話した。
「借りた十両が、三十両だと。高利もいいところだ。おさとさんは、おとっつあんが借金していたことを知ってたのかい」
「いいえ、何も聞いてません」
「身寄りはないのかね」
「上州にじいちゃんとばあちゃんがいます。まだ、生きていればですが」
「分かった」
「御主人、ご迷惑かけてすみません」
「今日は、ここへ泊って行った方がいい、明日早く、長屋においらが送って行こう」

翌朝七ツ。
銀之助は、裏口の戸をそっと開け外の様子をうかがった。
まだ暗く、あたりに人の気配はなかった。。
星が、寒空で震えている。
(よし、行くか) 
 銀之助は、階段の途中から、声を出した。
「おさとさん、起きな」
「ウ~、御主人」
「長屋に帰るぞ」
「はい」と言って、おさとが起き上がり着替えた。
銀之助は、階段を下りた。
おさとは、黄の小袖の上に紺の打掛をまとって、裏口に来た。
銀之助も外の闇に埋もれるように、紺下地の縞物小袖にこげ茶の羽織を着ていた。
二人は、前掛けを頭巾代わりに頭にかぶり、そして、銀之助が戸を開けながらいった。
「さあ、行くか」
二人は、店を後にし、浅草寺を抜けたところで、、銀之助は後ろを振り返りつけられていないことを確かめて、提灯に火を入れた。
身体が冷え切った二人は、棟割りの徳衛門長屋に着いた。
銀之助は、浪人の橋本順之助の住んでいる家の腰高障子に向かって、声を掛けた。
「銀之助です。橋本様、おはようございます」
「銀之助さん、こんなに早くどうした」と言いながら、橋本が戸を開けた。
「寒いから早く入んな」
「こんなに早くからすみません」
「一体どうした。まあ、きたない部屋だが、上がって温まってくれ」といって、すぐに敷き布団を三枚にたたみ、隅にどけて、火鉢を真ん中に置いた。
「ちょっと、火を起こしてくるから、待っててくれ」
橋本は、外に出て火をおこし、炭を燃やした。
「またせたな」といって、橋本が燃えた炭を、火鉢に入れた。
銀之助は、土瓶を火鉢の上に置いた。
「さあ、お二人さん、暖まってくれ」
三人は、火鉢に手をかざした。
 橋本順之助、神田にある回転流で有名な畑中道場の師範格の一人であった。 
 背丈は、五尺三寸ぐらいで大きい方ではないが太っており、顔は丸くその中に愛嬌のある鼻が目立っていた。
そのような顔つきのため、強そうな侍には見えなかった。
「橋本様、お願いがあって来たんです。実は、このおさとさんが金貸しから狙われてんです」
 銀之助は、おさとから聞いた話、金貸しの丸金の助五郎の人相などを立て続けに話した。
黙って聞いていた橋本は、銀之助の話が切れたときに訊ねた。
「銀之助さん、それで、それがしにどうしろと」
「はい、橋本様におさとさんの祖父母の住んでいる上州へ、おさとさんを送って行っていただけないかと」
「それはいいが、あの悪徳金貸しに悟られると厄介になりそうだな」
「隣のおすみさんに、身代わりになってもらおうかと思っているんですが」
 銀之助は、簡単に自分の立てた策を二人に話した。
「分かった。やってみるか」と言って、橋本がおすみの家との仕切り壁を叩いた。
「おすみさん、橋本だ。銀之助さんと一緒だ。ちょっと、相談があるんだが、来てもらえんか」
 しばらくすると、障子戸が開いて、うす桃色の小袖を着て、雀鬢に小満島田髷の質素な姿だが面長で切れ目の美人の部類に入るおすみが入って来た。 
「おはようございます。三人そろわれてどうしたんですか」
おすみは、二十代後半で、いまだ独り身で、浅草山谷の料理屋‘八百善’に仲居として働いていた。
「おすみさん、上がって座ってくれ」と、橋本が言った。
「まあ、湯も出さないで、いま、湯を入れますから」と、おすみは土間に行って、土瓶に湯を入れて、茶碗とを盆で運んで来た。
「朝から一体どうしたんです」といいながら、土瓶をとって、茶碗に湯を注いだ。
「こんな早く、申し訳ない。実は銀之助さんからおさとさんのことで頼まれてな。詳しいことは銀之助さん、頼む」
 橋本は、茶碗を手に取った。
「はい」と言って、頭を下げてから、銀之助は、橋本に話したことをおすみに話した。
「ようござんす、やらせてもらいましょう」
 おすみの返事は潔かった。
「ありがとうございます。この企ては危険が伴っておりますので、お二人とも十分注意してください」
「なに、おさとさんや銀之助さんに比べりゃ、大したことはありませんよ」
 おすみは微笑んだ。
「三人とも気を付けられよ」
 橋本は、おすみの顔を見ていった。
「では、先ほどいいましたように、明日決行しますので、よろしくお願いします」
 銀之助とおさとは二人に頭を下げた。
 そして、おさとは、支度のために家に戻るといったので、おすみも手伝うと言い二人は橋本の家を出て行った。
 銀之助は、橋本の家で待つことにした。
「銀之助さん、軽く一杯どうかな」
「いや、これから戻って、店の準備をしなくてはならないので。申し訳ありません」
「では遠慮せずに、それがしは一杯」
 といって、土間に下り、徳利と茶碗そして、八つ頭、牛蒡、干し椎茸、人参の煮しめが入った鍋を持ってきて、鍋を火鉢の上に置いた。
「寒い時は、これに限る」
「橋本様、ちょっと厠に行ってきます」
 銀之助は、障子戸を開け、まだ誰もいない井戸端を通り抜けて、厠に行った。
 用を足し終わって出た時、鳶職人の源一の家から女房のおつたが出てきた。
「銀之助さん、こんな朝早くから一体どうしたのよ」
「おはよう、おつたさん」
 銀之助は困った。
 おさとが、世話になっただけでなく、銀之助もこの長屋に住んでいた時にはいろいろ面倒を見てくれた世話付きのおつただが、おしゃべりで、徳衛門長屋の瓦版ともいわれていた。
(正直にいってしまおう)
「実は、おさとさんのことで、橋本様とおすみさんにお願いに来たんだ」
 そういって、銀之助は、かいつまんでおつたに話をした。
「そうだったの、あたしに何んかできることあったら、遠慮なくいってよ」といって、おつたは井戸の水を桶に入れて家に戻って行った。
 間もなく、おつたが出てきて、おさとの家に入った。
「おさとちゃん」
「あら、おばさん」
「おさとちゃん、出て行くんだってね。元気でね。これ持ってて」と言って、おつたは、簪を渡した。
「おばさん、こんな大事なものをいいの」
「いいんだよ。もうあたしのような年増じゃ挿すことはないんだ。挿してみなよ」
 おさとは目を潤ませて、髪に挿した。
「おさとちゃん、似合うよ」
「おばさん、ありがとう」
 おつたは、家に戻って行った。
「そうか、おつたさんにいってしまったのか」
 銀之助から話を聞いた橋本が、諦め顔でいった。
 しばらくして、おつたがお櫃を持って入って来た。
「みんな、まだご飯食べていないんだろう」
「橋本様、酒ばかり飲んでいないで、早くみんなの茶碗お出し」
「橋本様は、この後大事なお仕事があります、私が取ってきます」と、ちょっと前におさとの家から戻っていたおすみが言って、腰を上げた。
おさとが行李を背負って入って来た。
「おさとちゃん、大荷物になったね」と、おつたが言った。
 銀之助とおさとは、飯と香の物そして、煮しめの朝餉を食して、店に戻った。
五ツ、銀之助は暖簾をかけ、いつものように‘うまいもん屋’の朝が始まった。
「おさとさん、茶飯と玉子ふわふわそして、いつもの田楽豆腐を作るよ」
「はい」
「茶飯の作り方なんだが」
「あたし、知ってます。米にほうじ茶を加えて炊き上げればいいんでしょ」
「そうだ。頼む」
 しばらくして、おさとは玉子ふわふわについて聞いてきた。
「これは、知らんだろうね。まずだし汁を煮立てて、そこにかき混ぜた卵を落としてから蓋をするんだ。そうするとすぐに卵がふわっと盛り上がってくるんだ。それで出来上がりだ、簡単だろう」
「はい」
「おさとさんのおじいさんとおばあさんに作ってやると、きっと喜ぶよ。だし汁の作り方は、あそこの引き出しの帳面に書いてある。字は読めるかい」
「多少」といって、引き出しの帳面をじっと眺めていた。
昼時になった。
「おさとさん、これが最後だ。九ツ半頃に橋本様たちが店に来る。あいつも来るだろうから、いつものように振る舞っておくれ」
「はい、御主人。大変お世話になりました」
「何か困ったことがあったら、いつでも来なよ」
 銀之助は、壁に茶飯、玉子ふわふわそして、田楽豆腐の札をかけた。
昨日までと違って、家族連れは少なく、職人姿や前掛けをかけた商人たちが、昼餉を取りに、入れ替わり入ってきた。
入って来た客に対して、おさとは力を振り絞って、大きな声で迎えそして、注文を取った。
半刻ほどして客足が途絶えた時、銀之助は出入り口の障子戸を開けて外をうかがった。
道角に人影を見た。
(あいつだ。ここを見張っているな) 
「おさとさん、二階に上がっていな」
 銀之助は、勝手場に戻って来たおさとに声を掛けた。
 おさとが、二階に上がった直後、助五郎が、手下を連れて店に入って来た。
「いらっしゃい」
「おい、娘が来るまでここで待たせてもらうぜ。酒二合と、田楽豆腐四本だ」
 注文を受けた銀之助は、勝手場に戻った。
しばらくして、、紫の御高祖頭巾(方形の布に耳掛けのひも輪をつけたずきん)で顔を覆った女が入って来た。
「いらっしゃいませ」
(これは都合がいいや)
 銀之助は、勝手場を出て女を迎えた
「何にしますか」
「茶飯と玉子ふわふわをお願いします」
「はい」
 続いて、二人とも編笠をかぶった侍風の男と女が入ってきた。
女は、荷を背負っていた。
「いらっしゃいませ」
 勝手場に戻ろうとした銀之助が声を掛けた。
席に座るや、編笠をかぶった女は、厠はどこかと銀之助を手招きして尋ねた。
銀之助から聞くや否や荷もおろさずに、奥の階段から二階に上がった。 
編笠を外したのは、おすみだった。
「おさとちゃん、早く着替えるのよ」
 二人は、着物を脱ぎ相手の着物に着替えた。
おさとは編笠をかぶる前に、おすみに両手を合わせた。
「いろいろありがとうございました」
「いいのよ、お互い様じゃない。困ったことがあったら、また来てね。早く、橋本様のところに行って」
おさとは、奥の助五郎を見ずに侍の所に行った。
助五郎は、田楽豆腐をつまみに酒を飲んでいた。
侍が、おさとに声をかけた。
「おたか、ここには鰻はないんだとよ。他の店に行こう」
「お客さん、すみません。またお越しください」
 (橋本様、よろしく頼みます)銀之助は、二人に頭を下げた。
 二人は、うまいもん屋を出て行った。
 その後、料理を食べ終わった御高祖頭巾の女も、銀之助に声をかけてから厠へと向かった。
 しばらくして戻ってくると、勘定を置いていくと言って、店を出て行った。
 奥にいた助五郎は、ずっと二人を見ていた。
銀之助は、助五郎を一瞥して勝手場に戻った。
 勝手場では、着替えをしたおすみが茶碗を洗っていた。
「すまねえな、おすみさん」
「いいんですよ。お互い様じゃないですか。奥にいるのが悪徳金貸しですか」
「ええ、丸金の助五郎って奴です」
「顔付が、いかにも悪党って感じですね。おさとさんも生きた心地しなかったでしょうね」
「そうなんだ。いつも怯えていましたよ」
「橋本様、いつごろ戻ってくるんでしょうね」
「そうですね、何もなければ、四日後くらいでしょうか」
「おーい、誰かいねえのか」
 助五郎のどなり声が、勝手場まで響いた。
「あの人だわ、私が行ってきます」
おすみは、いやな顔していった。
「気を付けてください」
 銀之助は、心配そうだった。
「はーい。いま行きます」
 おすみが、大声で返事をした。
「何か御用ですか」
 おすみは、笑顔を浮かべて助五郎にいった。
「あの娘はどうした?」
「あの娘って、どなたのことですか」
「ここで働いていたおさとだよ」
「すみません、来たばっかりで」
「役に立たねえ女だ。主を呼んで来い」
「はい、ちょっとお待ちください」
 おすみは、勝手場で椀や皿を片付けていた銀之助に助五郎が呼んでいることを伝えた。
「そうか、気づかなかったようだな」といって、助五郎のところに赴いた。
「お客様、何か御用で」
「おい、娘はどうしたんだ」
「へい、この間もいいましたように、まだ帰ってこないんです」
「嘘も休み休みつけ、昨日、長屋からお前と娘が、この店に戻ってきたのをこいつが見たんだ」
 手下が頷くと、首すじに入れ墨が、見えた。
(見られていたか)
「あれは、おさとさんじゃありません」
「とぼけやがって。もしかして、先ほど紫の御高祖頭巾の女か。えー、どうなんだ」
 助五郎は、そばにいた手下に顎を杓った。
 手下は、着物を端折って店を走り出て行った。
 助五郎は立ち上がり、銀之助の襟元を掴んだ。
「お客さん、店の中でこんなことは困ります」
「じゃ、娘がどこへ行ったのか教えろ」
「知りませんよ」
「いわなきゃ、痛い目に合わせてやる。外へ出ろ」と襟元を掴んだまま、銀之助を店の外に引きずり出した。
 銀之助は、出された時に障子戸を閉めた。 
おすみは、勝手場から出てきて店にいる客になんでもないから気にしないでくれといって、障子戸を三寸ほど開けて外を覗いた。
 銀之助は、障子戸閉めるやいなや、襟元を掴んでいた助五郎の両手首を握って、外側に捻った。
「いてえ~」
 その隙を狙って、銀之助は助五郎の足を払った。
その瞬間、助五郎はドスーンという音を立てて、地べたに尻もちをついた。
「この野郎、やったな」
 助五郎は、立ち上がろうとしたが、腰を打ったせいで起き上がれない。
「お客さん、おさとさんにいったい何の用なんですか」
「うるせえ、あいつの親父が借金を残して死んだんで、おさとに肩代わりしてもらうんだ。分かったか」
「そうだったんですか。その証文は、あるんですか」
「そりゃ、あるに決まってらあ」
「見せてもらえませんか」
「そんな大事なもん、見せるわけにはいかねえ。覚えてろ」
 助五郎は、何とか立ち上がり、足を引きずりながら去って行った。
銀之助は何もなかったかのように、店に入り、覗いていたおすみと一緒に、客に笑みを絶やさずに頭を下げながら、勝手場に戻った。
客たちは、驚きを隠さずに銀之助を見ていた。
「銀之助さん、大丈夫。強いのね」
「ええ、あいつが弱いのです」
「でも、いつか、仕返しに来るかもしれないわ」
「すぐに来るでしょうね。おさとさんが、遠くに逃げてしまわないうちにと思って」
「おすみさん、大丈夫ですか」
「ええ、八百膳でもこんなことがたまにありましたので、慣れてはいませんが大丈夫です」
「そうですか、じゃ、今日はもういいですから、今、賄の飯を作りますんで、食べて帰って下さい」
 銀之助は、残り物とありあわせの物で昼餉を作った。
 今日から、うまいもん屋は夜も店を開く予定であったので、銀之助も急いで食べた。
「銀之助さん、いつもこんなに多くのお客が来たら、一人じゃ大変じゃありませんか。また、夜もやるなんて」
「客がおいしいといって食べているのを見るのが好きなもんで、大変なんて思ったことがありません。でも、もっと店を大きくしたいので、おさとさんが来てくれた時は助かったんですが。おすみさん、だれかいい娘さん御存じありませんかい」
しばらく考えていたおすみが、箸をおいた。
「娘じゃなければだめなんですか」
「いえ、そんなことはありませんが、だれかいい人いますか」
「あたしじゃだめですか」
「おすみさんが?とんでもねえ。あの有名な八百膳の仲居頭をやっているおすみさんが、こんなちんけな店を手伝ってくれるなんて。いいんですかい、あまり給金も出せませんよ」
「もう八百膳のように大尽相手の商売は嫌になっちゃたんです。銀之助さんのような気持ちを持った商売をしたいんです」
「そうですか、それは有り難い」
「ところで、銀之助さん。今日の夜の献立は?」
「味噌漬け豆腐と田楽豆腐、そして飯は茶飯で考えているんですが」
「そうね、味噌と豆腐ばかりね。味噌漬け豆腐をやめて、煮しめにしたらどうですか」
「椎茸、人参は有るんだが、八つ頭と牛蒡があまり無いな」
「あたし、買ってきます。ついでに、八百膳に寄ってきます」
 おすみは、銀之助から銭を預かって、店を出た。
(助五郎たちはきっとくる)
銀之助は、二階の押入れから丸棒を取り出し、正眼の構えから素振りを数回繰り返した。
‘ビュー’‘ビューン’‘ビューン~’
(よし、まだまだ鈍っていねえな)
 この丸棒、径は一寸程(三センチ)、長さが二尺半(約七十五センチ)で芯には、鉄材のようなものが埋め込まれており、刀に打ち込まれても切断されることがないように、銀之助が手作りしたものであった。
また、鍔は、使用する時、簡単にすぐに取りつけることができる。
暮れ七ツ頃(四時)、おすみが戻ってきたので、すぐに煮しめを二人で作り始めた。
「準備ができましたね」と、おすみはいってから、
「あたしは暖簾をかけて、掛行灯に火を入れてきます」
銀之助は、店の中の五つの置行灯に灯をともした。
行燈の灯りは、冬の暗さに暖かさを醸し出した。
早くも客が入ってきた。
「いらっしゃい」
「あれ、おすみさん。どうしたんだ」
おすみが最初に迎えた客は、おすみと同じ徳衛門長屋の住人で、魚の棒手振りを職としている勇治だった。
 勇治は朝早くから日本橋の河岸で仕入れた魚を桶に入れそれを天秤棒で担いで、毎朝、町内を売り歩いている。
「ここで働かせてもらっているのよ。勇治さん、何にしますか」
勇治は、酒二合と田楽豆腐を三本頼んだ。 
おすみは勝手場に戻って、銀之助に田楽豆腐を頼み、酒二合を手際良く、徳利に入れた。
「銀之助さん、勇治さんが来てくれたわ。ねえ、うまいもん屋でも魚料理を一つぐらい献立に入れたらどうかしら。勇治さんから買えばいいし」
「おいら、魚料理知らないんだ」
「あたし、多少は知ってるわ」
 銀之助は考えておくといって、田楽豆腐を入れた皿をおすみに渡した。
(あれから、奴はとうとう来なかったな)
 客がいなくなった時期を見計らって、銀之助はいつもより早く店を閉めた。
翌日の朝五ツ(八時)。
「おはようございます」
 おすみが元気な声を出して、うまいもん屋に入ってきた。
「おはようございます」
銀之助は、勝手場にいた。
「銀之助さん、今日の昼の献立は何ですか?」
「、田楽豆腐、飯物は、ねぎ飯にしようかと思うんだが。おすみさん、ねぎ飯知ってますか」
「ええ、ねぎ飯はよく八百膳で賄い食で食べたわ。銀之助さん、あたし作っていいかしら」
「頼みます」
「それから、また豆腐だけになっているのが」と、おすみが申しわかなさそうに言った。
「本当だ、つい簡単なものになってしまうんだな」
「田楽豆腐は注文が一番多いから、定番にしたらどう」
「そうだな、それがいい。もう一品は何がいいかな」
「玉子ふわふわにしましょうよ」
 銀之助が嬉しそうに頷いた。
 おすみは、飯を炊く準備にかかるとともに、だし汁を作りだした。
 銀之助は、焼き豆腐を短冊状に切り、串に通して、下準備は終わった。
 おすみは深谷のねぎを半寸ほどに切り刻んで、先ほど作っただし汁を米の入った釜に入れて、炊き始めていた。
「さすが、おすみさんは手際がいい」
「八百膳で見よう見まねで、覚えたんですよ。本業は仲居ででしたけど。銀之助さんは、以前うどんとそばを売っていたそうですけど、どうして今はお品書きに入れないんですか」
「担ぎ屋台から仕事を奪うことになるので、年越蕎麦以外ははやめているんです」
「そうでしたか」
 四ツ半になった。
 おすみが暖簾を架けに外へ出たその時、助五郎が六尺もあろうかという背の高い侍を連れて、うまいもん屋から三間(五メートル強)ほど離れたところに立ってこちらを見ていた。
 それに気づいたおすみを見て、助五郎が走り寄ってきて怒鳴った。
「どけ、奴はいるか」といって、助五郎はおすみを横に押しのけた。
「なにすんのよ」
 二人はおすみを無視して、店に入り怒鳴った。
「銀之助、いるか」
 勝手場にいた銀之助は、傍に置いておいた丸棒を背の帯に挿し込んで入口に行った。
(丸金の用心棒か、でかい男だ。注意してかからんと)
「助五郎さん、証文を持ってきてくれたんですか」
「何馬鹿なこといっているんだ。先生、こいつを痛い目に合わせておくんなさい」
 六尺(一メートル八十センチぐらい)ほどの侍が、助五郎の前に出た。
「拙者、赤沢惣右衛門と申す。無外流を少々たしなんでおる。おさとやらの行方をいえば、痛い目に合わずに済むんだがどうだ。いわんか」
「昨日もそこにいる助五郎さんにいったんですが、あっしはなにも知らないんです」
「嘘つけ、どこにかくしたんだ。早くいわんと痛い目にあっても知らねえぜ」
 助五郎が、横から口を出した。
「しつこいお方だ、知らないといったら知らないんだ」
「しゃらくせえ、先生やっちまってください」
 赤沢惣右衛門は、銀之助をうながし、外に出た。
 銀之助は赤沢から殺気を感じ、背中の丸棒を帯から抜き取った。
「それはなんだ、それで拙者に勝てると思っているのか!」
赤沢は、そういったまま、いつまでたっても抜かない。
(奴は、抜き打ちか、一発でおいらを仕留めるつもりだな。ちょっと仕掛けてみるか)
 銀之助は上段に構えてから、赤沢の方へ、足を摺り寄せ一気に振り下ろした。
その瞬間、赤沢は左足を一歩下げ、銀之助の一撃を避けながら抜刀し、銀之助の頭上に振りかかった。
銀之助の丸棒が、赤沢の胴を先に打った。
‘ドスーン’
 赤沢は、腹を押さえてつんのめった。
「この野郎!」
 助五郎は、懐からを抜きだし、銀之助に飛びかかった。
 銀之助は、とっさに地面に倒れ込み、一回転して体勢を立て直した。
 さらに助五郎が、匕首を銀之助に突き刺そうとした時、銀之助の丸棒が匕首を持っている手首を撃った。
‘ボギ’
「ぎゃー」
 助五郎の手首から匕首が落ち、手首から下がだらりと下がった。
 銀之助は、近づいて助五郎に声をかけた。
「おい」
「おねげえだ、助けてくれ」
「証文、見せてくれねえか」
「俺は、持ってねえ」
「誰が、持ってるんだ」
「俺、俺の親父だ」
「親父さんのところへ連れて行け。二人とも、逃げるとどうなるか分かっているだろうな」
 助五郎は、手をだらんと赤沢は、腹を抑えながら前のめりに、日本橋へ向かって歩き始めた。
銀之助は、傍に来ていたおすみに店を頼んで助五郎の後に続いた。
「お気をつけて」
 おすみの心配そうな声が寒風に消された。
大川端近くに出ると、銀之助たちの歩みを阻むよう、風が強まり、雪が舞い始めた。
(早く始末をして帰らないと、帰りは難儀するかもしれんな)
「もっと早く歩け」
「旦那、赤沢さんが重くてこれが精いっぱいだ。手も痛えし」
一刻ほどかかって、神田川に架かっている浅草橋を渡った。
風は止み、ほんのりと川辺は、雪が積もっていた。
銀之助は、気が張り詰めていたせいか、いっこうに寒さは感じなかった。
数町ほどで丸金の店に三人は着いた。立派な門構えであった。
(ここか、悪徳金貸しの店は)
助五郎は、玄関の戸を開けた。
「おやじ、あいつが来たぞ」
土間を蹴って、逃げるように廊下を走って行った。
 助五郎と入れ替わりに、三人の用心棒が出てきた。
「お前が銀之助か」
 古株とみられる侍がいった時、傍に座り込んでいた赤沢惣右衛門に気づいた。
「赤沢、どうした」
 腹を押さえながら、うめくようにいった。
「こいつにやられた。手ごわいから気をつけろ」
「みんな、こいつをやっちめえ」
「おいら、助五郎さんの親父さんに話があって来ただけなんだ。無駄な殺生は、無しにしないか」
 一番若い侍が柄に手をかけ、抜刀した。
「うるせえ」
 銀之助は、後ずさりで外に出、後ろの帯に挿した丸棒を取った。
「なんだ、俺たちと棒でやるつもりか、馬鹿にしやがって」
 抜刀した侍は、上段に構え間合いを詰めてきた。
 銀之助は、中段の構えを取った。侍は、止まった、次第に呼吸の乱れが銀之助にも聞こえてきた。
 呼吸の音が止まったと思いきや、相手は、真向に銀之助の頭に打ちこんできた。
 銀之助も合せて、真向に打ち込んで、相手の剣を打ちはじいた。
‘バチ~ン’
音が消えた瞬間、銀之助の丸棒が相手の肩を撃っていた。
「一刀流、切落しか、小癪な」
 次の相手が、肩を撃たれた侍の脇から、正眼の構えで間を詰めてきた。
(こいつは、できる。隙がない)
銀之助も相手も、身動きせずにいたが、二人とも寒さにもかかわらずに汗をかき始めていた。
雪がやんだ。
声がした。
「青山、もうやめろ。俺は、もう悪党たちの片棒を担ぐのはやんなった。ここを出て行く」
 青山と声をかけられた侍は、一瞬耳を疑ったようで銀之助と対峙していることを忘れ、古株の方へと視線を送った。
もうその時、古株の侍は、丸金の家の門に向かっていて、銀之助たちに背をむけていた。
「銀之助さんとやら、もうやめよう。助五郎の親父は、廊下の突き当たりの部屋にいるはずだ。気をつけてな」
 青山は、うずくまっている赤沢に肩を貸して、古株を追って門から消えた。 
銀之助は、突き当りの部屋の戸を開けた。
 座っていた助五郎と親父が、驚きのあまり顔が凍ったようになった。
「あんたが、銀之助さんか。俺がこいつの親父だ」
 落ち着きを取り戻すかのように、助五郎の親父がいった。
「へい、中へ入らせていただきます」
 丸棒を左において二人の前に座った。
親父が、懐から何やら紙を取りだし、銀之助の前に投げた。
「お前さんの欲しがっていた証文だ。さっさと持って消え失せろ!」
 銀之助は、手に取っておさとの父親に貸した金の証文かどうか確かめて、懐にしまった。
「これで始末をつけさせてもらいますぜ。二度とおさとさんには手を出さないでください」
 と、銀之助は胴巻きから十二両を出し、親父の前に置いて、帰ろうとしたとき、
「まちねえ」
 銀之助が振り返った。
「銀之助とやら、ありがとよ」 

銀之助が店に戻った時には、昼八ツ(一時)を過ぎていた。 
一人も客はおらず片隅に一人ぽつんと腰かけていたおすみが、銀之助に気づくや急に笑顔になって銀之助に抱き着いてきた。
「銀之助さん、無事でよかった」
 銀之助はどうしていいかわからずおすみのなすがままにした。
 しばらくして、顔を赤くしたおすみは我に返り、恥ずかしそうに銀之助から手をほどいた。
 三日後、夕暮れ時。
 浅草の空が、朱の色に染まるには、まだちょっと早い時間、茜色の雲が箒で掃いたように浮かんでいた。
 銀之助とおすみは開店前の準備に忙しかった。
 障子戸が開いた。
「お客さん、まだ・・・・。橋本様、お疲れ様」
「おすみさん、ここで働くようになったのかな」
 おすみは、橋本順之助の手を取り勝手場に連れて行った。
「銀之助さん、橋本様が帰って来たよ」
 銀之助は、前掛けで手を拭き橋本を笑顔で迎えた。
「橋本様、ご苦労様でした」
「おさとさん、無事、上州の前橋の家まで送って来たぞ」
「ありがとうございました」
「ここを出て、半刻(一時間)ぐらいかな、後をつけてきた丸金の手先をちょっと痛い目に合わせたぐらいで、あとは順調な旅だった。じいさんとばあさんは、おさとさんに会えて大喜びだったよ。お前さんたちにもよろしくって」
「橋本様、背の物は」
 おすみが気付いた。
「おう、これはおさとさんのばあさんからの土産だ」
 橋本は、野菜の入った篭を下ろした。
「銀之助さん、好きなものを取ってくれ」
「橋本様、よろしかったら、長屋のみんなに分けてやってもいいですか」
「そうか、分かった」
 銀之助は、おさとの父親の証文を取り返したことを手短に橋本に話し終えると、おすみに声を掛けた。
「おすみさん、そろそろ店を開きましょうか」
「はい、暖簾をかけてきます」
「橋本様、ゆっくり一杯やって行ってください」
 銀之助は、行灯に火を入れながらいった。
「それはありがたい」
そして、銀之助とおすみは勝手場に入って、橋本のために酒と田楽豆腐を急いで作った。
それが終わると、
「おすみさん、朝、練馬の大根が手に入ったから今日の昼は大根飯でいきましょうか」
「いいですね」
「橋本様にも食べてもらいます」
 銀之助は大根のどろをおとしてから洗って、さいの目に切り、クチナシの汁で煮しめた。
 そして、大根をすりおろした大根の汁を米に入れて炊く準備をした。
「銀之助さん、そろそろお品書きの種類を増やしませんか」
「そうですね、おすみさんという強い見方ができましたから、増やしましょう。どんな料理がいいですか」
「ご飯類は今までのも入れて、菜飯、茶飯、大根飯と若狭白がゆで、豆腐類は霰豆腐、みそ漬け豆腐、魚類は四季にあったものを入れたらどうでしょうか」
「そんなに増やして大丈夫かな」
「そうですね、少しずつ増やしたほうがいいかもしれませんね」
お品書き
田楽豆腐      四文
菜飯        十六文
玉子ふわふわ    八文
                                                      つづく
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凋落の時

2024-09-16 15:54:13 | 小説
 保元の乱の結果、中央政界からは二頭政治のうち上皇が消え去り、後白河の下で天皇親政時代が久方ぶりに到来した。
 順調に物事が進んでいた時、賀茂祭の場で事件が起こった。
 それは春爛漫の保元二年四月であった。
 賀茂祭使の行列を見物していた関白の藤原忠通の桟敷の前を、右近衛権中将(うこんのえごんのちゅうじょう)に抜擢されたばかりの藤原信頼が、牛車に乗ったまま横切ろうとした時。
「無礼者。関白様の御前を下車せずに通り過ぎるとは何事だ」
 忠通の家来がとがめた。
「ここは天下の往来、どこが悪い」
 信頼の家来が怒鳴った。
 その応酬間もなく、忠通の家来と信頼の一行と乱闘が始まった。
「やっちまえ」
「小癪な。関白の家来なんかに負けるな」
 忠通の家来は、勢いで車に向かっていった。
「無礼者」
 信頼は慌てて車から降りて退散した。
 車は打ち壊された。
 信頼の家来たちも逃げる信頼の後を追った。
「これで信頼も思い知ったであろう」
 忠通は笑いをこらえていた。
 その後、信頼がこの乱闘事件を後白河に訴えた。
「ミカド。ご存じと思いますが、賀茂祭の場での乱闘事件、天下の公道を通ろうとした時、関白の従者が突然襲ってきたのです。私はやめるよう忠告したのですが、聞き入れてくれませんでした。車まで壊され命からがらで逃げ帰ったのです。そのようなことが許されていいのでしょうか」
「そのようなことだったのか。あとは朕に任せろ」
 それを知った忠通は、乱闘を引き起こした忠通の従者の身柄を後白河に差し出した。
「この者が信頼殿の家来に難癖をつけたのです」
「お前のせいなのに家来に責任転嫁するとは何事か。さっさとこの者を連れて帰れ」
 後白河は激怒し、後日忠通に謹慎処分を命じた。
「こちらから天皇へ恭順態度を示したのに、私を謹慎処分にするとはひどすぎる」
 それに対して、後白河より異常なほど寵愛を受けた信頼は、その後、蔵人頭・左近衛権中将に任ぜられ従四位上から正四位下、翌年一月に正四位上・皇后宮権亮を経て従三位より二月に正三位・参議になり公卿に列せられた。
 その後、権中納言に任ぜられ、検非違使別当と右衛門督を兼ねた。
 翌年の保元三年。
 中継ぎとして皇位についていた後白河は、得子の推す守仁親王に譲位した。
 二条天皇の誕生である。
「このまま一線から身を引くなどできぬ。朕は、上皇におさまり、院政をひくことにする。その準備をせよ」
 後白河が近習に命じ、直ちに院政を始めた。
 摂政関白は、藤原忠通に代わって、藤原基実が任命された。
 藤原信頼は、院庁の一切を統轄する最高責任者である院別当に任じられたのを筆頭として、多くの近臣たちは、高い地位に取り立てられるようになり、後白河の権威を背景に、政治及び経済に大きな力を持つようになった。
 この二頭政治は、保元時代同様に新しい勢力争いを招いた。
 藤原信西を中心とする後白河院政派、藤原経宗と藤原惟方を中心とする二条天皇派そして、源義朝と平清盛を中心とする武士集団の三勢力だが、それぞれの派閥の中でも対立があり事態はかなり複雑だったが、その中で特に、藤原信西と藤原信頼との対立は酷かった。
「我は誰が何と言おうと、後白河院は我を一番信頼しているはずだ。また、周りの人間は我を追従しているではないか。我に敵対するものは許さん。最近、信頼殿が我に対して、悪口を振りまいているようだが、どのようなことを言っているのか、詳細を調べるのだ」
 信西は、近臣の者に命じた。

 信頼は、後白河に願い出ていた。
「近衛大将に某を任じていただけませんか」
(出世して、信西を貶めなければ某がやられてしまう)
 信頼は危機感を持って、臨んだ。
「信頼さま、もうしばらくお待ちになったほうがよろしいかと」
 そばに控えていた信西が、信頼を諭した。
 後白河はうなづいた。
 信頼は顔を真っ赤にして、後白河に再び願った。
「信頼どの。院もそういわれているのだ。あきらめなされ」
(信西め、覚えていろ)
(信頼は完全に敵に回った。直ぐに失脚させてやる)

「信西は敵対者を徹底的に糾弾するという性格から、我も標的になる。早く、先手を打たなければならぬ」
 信頼は、近臣に打ち明けた。
「との。信西を討った後を考え、多くのお味方をつけておっかなければなりません」
「わかった。信西に反感を持っている者たちを味方につけよう。誰がいる?」」
「二条天皇派の藤原経宗さまや藤原惟方さま、また源義朝どのかと」
「義朝は先日の乱で自他ともに認める戦功第一の士でありながら、信西はさして実績のない清盛を上位につけたことを恨んでいるだけでなく、信西に取り込もうと信西の息子を義朝の娘の婿にと願い出たところ、相手にされずあっけなく断れたこと。そして信西の息子を清盛の娘婿にしたことにさらに激怒しています。うかがい知れないほど義朝は信西を憎んでいよう」
 信頼の顔に確信の色がうかがえた。
 数日後。
 信頼の屋敷で、藤原経宗、藤原惟方、そして源義朝たちが密談をした。
「平清盛たちが近々熊野詣に行くらしい、その出かけている間を狙って、信西を誅伐したらいかがなものか」
 義朝が、信頼の挨拶が終わるのを待ちかねていたように大声をだした。
「義朝どの。気持ちはわかるが、声が大きすぎる」
 経宗が諭した。
「申し訳ない」
「では、手筈を決めよう。某と義朝どのは上皇の御所と三条殿を襲って、信西を捕らえる。経宗どのと惟方どのは、清盛が帰ってくるところを六波羅前で迎え撃ってもらう」
 信頼は三人の顔を窺うと、皆頷き計画を了承した。

 平治元年(一一五九)十二月四日。
「清盛どのが息子の重盛たちを率いて熊野詣に出立しました」
 信頼に連絡が入ったその五日後の夜。
「義朝どの、経宗どの、惟方どのへ手筈通り、出陣するよう伝えよ」
 信頼は近習に命じるや否や、鎧兜を身に着けた。
「出陣じゃ」
 集まった家来に檄を飛ばした。
 信頼は義朝と合流して、後白河上皇の御所を襲った。
「信西どのが、見つかりっません」
 信西がいないという報告が次々と信頼に入ってきた。
「三条殿に行くぞ」
 信頼は義朝に告げた。
 三条殿も信西はいなかった。
「上皇さまと上西門院さま(後白河の妹)をとりあえず内裏にお移しして、殿中をくまなく探せ」
 信頼は焦った。
 信西はそれでも見つからなかった。
 それどころか、信西一家の誰ひとり捕らえていなかった。
 夜明けが迫ってきた。
「信西の館に行って、火を放て」
 やけくそになった信頼は、信西がいないことを知っていたにもかかわらず、家来に命じた。
 
 一方、信西はすでに信頼たちの変を察知して、京の南の綴喜郡(つづきぐん)の山中にある田原まで逃れていた。
 近臣と家族入れて十人満たなかった。
「ここらあたりに、土室を作ってしばらく身を潜めよう」
 信西は近臣に土室を作るよう命じた。
 土室ができると、信西は真っ先に入り込んだ。
「これでしばらくはゆっくり休むことができる」

 近臣が京の待ちに生活に必要なものを買い求めに土室を離れ、町に入ろうとした時。
「ちょっと待て。そこのおまえだ」
 検非違使の源光保が、近臣の歩を止めた。
「何の用だ」
「おまえは信西の家来だな」
「ちがう」
「この者を連行しろ。そこでゆっくり聞いてやる」
 捕まった信西の近臣は休みなく吊し上げられ、鞭打ちの拷問を受けた。
「信西の居場所を言え。言えば楽にしてやる」
「わかった。信西さまは田原に土室を作ってそこに隠れている」
 源光保は、信西の居場所を信頼に伝えた。
「よくやった。光保、人を集めよ。すぐに信西をひっ捕らえに田原に急ぐぞ」
 夜だった。

「使いの者はまだ帰らぬか」
 信西は胸騒ぎを覚えた。
「久しぶりに街に出たので、飲み食いでもしているのでしょう。朝には帰ってくると思います」

 信頼たちが田原に着いたのは、陽が昇り始めた時だった。
「あそこに土室があります。警護がふたりいます」
 多勢に無勢、警護は難なく捕らえられ、光保の家来が、信西やその家族を土室から引きずり出した。
「信西。もう逃げられんぞ」
 信西たち数人をたて並びに座らせた。
 信頼が合図すると、家来が刀を抜いて次々と首を刎ねていった。
 そして、鴨川の河川敷に晒した。
「これで、天下は某のものとなった。誰にも気を遣わずに政ができる」
 京を支配した藤原信頼は、有頂天になっていた。
「まずは除目を行ない、某を近衛大将になり、義朝を播磨守、その息子の頼朝を右兵衛佐(うひょうえのすけ)に任ぜよう」
 源氏一門の郎党、同志の公家たちに官位を与えた。

 変の翌日。
 使者が報告に走ってきた。
「なに、信頼どのが信西を討伐しようと挙兵したと」
 紀伊国切部の宿で、信頼たちの挙兵を知った清盛は、急ぎ京に戻ろうとしたが。
「この状況で、京に入るには心もとない」
 軍備が乏しい清盛は悩んだ。
「誰かおらぬか」
 近臣が清盛の前にひざまずいた。
「在地の湯浅宗重どのと熊野の湛快さまのところに行って、恩賞を出すので、我らが京へ入るのをご助力いただくよう頼んで来い」
 近臣が立ち上がった時。
「ちょっと待て」
 清盛は重盛の方に向き直って、
「おまえも行け」
 重盛は承知しましたと言って、近臣と部屋を小走りで後にした。
 一日も置かずに、湯浅宗重と湛快の兵が加わって、清盛は大軍を率いて六波羅へと進軍した。
 六波羅で清盛を待ち受けていた藤原経宗と藤原惟方は。物見の報告に愕然とした。
「清盛はそのような大軍を率いて、こちらに向かっているのか」
「我らに勝ち目はございません」
「惟方どの、どういたそう」
「某が清盛に会ってまいろう。馬を用意しろ」
 経宗が用意された馬に乗った。
 
 二時間ほどで戻ってきた経宗は、惟方に委細を話した。
「清盛どのは、信頼どのに臣従を誓うと仰せになった。また我らに恩賞まで下さるといわれた。清盛どのを討つことをやめて、清盛どのが六波羅に入るのを見守ることにするので、承知下され」
 藤原経宗と藤原惟方は。清盛に通じてしまった。
 清盛は表向きは信頼に臣従しているふりをしながら、経宗と惟方と連絡を取って天皇二条の救出を画策した。
「内裏は、源義朝が警護している。かなり厳重だ」
 惟方は、清盛に真正面から助け出すのは難しいといった。
「うまく助け出す方法はないだろうか」
 清盛がいった。
「清盛どの。天皇には申し訳ないが、女中に化けてもらったらどうであろう」
 惟方が口を開いた。
「それは妙案じゃ」
「某が天皇に直接策を伝えます」
 惟方が自信ありげにいった。
 十二月二十五日の夜がきた。
 二条は女官の姿に変身して、御車に乗って門を抜けようとした。
「ちょっと待て。その車の中をあらためさせてもらう」
 警護の武士が、御車の扉を開けた。
「女か。通れ」
 御車がしばらく行くと、数人の武士たちが出てきて、御車の周りを固めた。
 そして、御車は六波羅の清盛の屋敷内に入った。
 清盛たちは二条を丁重に迎えた。
「ミカド。ご安心して、ここでごゆっくりしてください。我々は直ぐに、信頼たちを退治して見せます」
 清盛は重盛に向かっていった。
「重盛。これで御旗の下に戦うことができるようになった。戦の準備をせよ」
 翌二十六日。
 清盛の軍勢は、藤原信頼と源義朝の追討の宣旨によって出動した。
「敵は大内裏にあり。急げ」
 清盛が、檄を飛ばした。
「年号は平治、所は平安城、我らは平氏、と三拍子そろっている。勝利はまさしくわれらがものぞ」
 馬上の総大将の重盛が叫ぶと、続いて三千騎が雄たけびを上げ、戦団は内裏の門をめがけて馬に鞭を入れながら走った。

「信頼さまと義朝さまの追悼の宣旨を受けて、清盛が戦の準備にかかったそうです」
 物見が信頼と義朝に報告した。
「義朝どの。どういたそうか」
「受けて立つしかありません」
「僧ならば、早く策をたてねばならぬ」
「その前に、総大将を決めなければなりません」
「義朝どのにお願いできないか」
「いや。総大将は信頼さまでなければなりません」
 信頼方は、紫宸殿の前後の庭に二千騎を配置して、陽明門、待賢門、郁芳門を開け放って、清盛軍が来るのを待ち受けるという策に出た。
 兵が庭に集まった。
 近臣が、信頼の馬を引いてきた。
 信頼が馬に乗りかけた時。
「あぶない」
 あちらこちらから、叫び声が発せられた。
 総大将の経験のない信頼は、戦の前という極度の緊張から、乗りかけた馬から落ちた。
 集まった兵士たちは、戦意を失った。
「わあー」
 土埃を上げながら、重盛先頭に五百騎が、待賢門めがけて突進してきた。
 待賢門の守りに着いた信頼は何を思ったのか、戦わずして「退却」と叫んだ。
 重盛の軍勢は、難なく門内に入った。

 物見が義朝に知らせた。
「なに。待賢門から敵が入ったと。信頼どのはどうされた」
「戦わずに、退却されたそうです」
「なんだって、信頼の腰抜けめが」
「どうされますか」
 近臣が不安げに聞いた。
「義平をよんでこい」
 義平がやってきた。
「義平。信頼どのが退却してしまったため、待賢門から重盛が入ってきた。直ぐに重盛を追い散らせ」
 承知したといって、源義平は十七騎を率いて、五百騎の平重盛に向かって行った。
 二軍は対峙した。
「この手の大将は何者ぞ。かく申すは清和天皇の後胤、佐馬頭源義朝の嫡男、鎌倉の悪源太義平というものだ。十五の歳、武蔵大蔵のいくさ大将として、叔父帯刀先生義賢を討って以来、一度も不覚を取らずに、歳重ねて十九歳、いざ見参せん」
 義平は名のり上げるや否や、十七騎ともに重盛の大軍の真っ只中に突入した。
 義平が狙うのは、重盛ただ一人。
 重盛を追って、「組もう、組もう」と叫び続けたが、重盛は逃げまわりとうとう待賢門の外へ退却した。
 重盛は清盛に戦況を報告した。
「重盛。相手は猪突猛進の坂東武者だ。源氏の軍をせめては退き、退いては攻めながら、内裏からおびき出し、敵が出たとたん、もう一軍が横合いから内裏に飛び込んで、門扉を閉じて身動きできぬようにするのだ。きっと罠に引っかかるはずだ」
 重盛はこの策を実行に移した。
「まんまと我らの策にはまったわい。突撃、突撃」
 源氏の軍は、平氏の本拠である六波羅を攻めんと、義平を先手として進撃した。
「六波羅を火の海にしてやる。皆の者、続け」
 六波羅の守りは堅かった。
 義平は善戦していた。
「源頼政どのはまだ来ないのか。何をやっているんだ」
 義平は怒鳴り散らした。
 頼政は三百騎を従えたまま、どちらが勝つか形勢を見極めていた。
 次第に義平勢が敗色濃厚になると、最後まで一兵も動かすことはなかった。
 頼政の援軍がなかったことによって、源氏の軍は総崩れになった。
 乱の首謀者の藤原信頼は、あろうことかこの戦いの途中に姿をくらましていた。
 源氏一門の源義朝は、義平、朝長そして頼朝たち子どもを引き連れて、わずか八騎で東国を目指した。
 途中の東山道の宿駅の青墓の宿で、義平は北陸に下って兵を募るため義朝に別れを告げた。
「義平。元気でな」
「父上。お達者で」
 朝長は深手を負って、とうとう歩けなくなった。
「父上。もう私はだめです。足手まといになりますので、自害します。介錯をお願いします」
 朝長は脇差の刀を抜いて、腹にあてた。
「すまん朝長」
 義朝は涙ながら長刀を振り落とした。
「ぎゃ」
 朝長は地に伏せた。
 義朝は泣きながら朝長の首を落として、近くの林に埋めて、石を積んで手を合わせた。
 すすり泣きが静かな林の中に響いた。
 再び一行は歩き出したが、幼い頼朝は後れを取った。
「そこの小僧。義朝の子の頼朝ではないか」
 頼朝は慌てて逃げたが、容易に、平氏の兵に捕らえられてしまった。
 頼朝が付いてこないことを心配しながら、義朝は尾張国に入った。
 そして、以前、源氏に従っていた長田忠致(おさだただむね)を頼った。
「よく私を頼ってくれました。まず、風呂に入って旅の垢を落として下され」
 忠致は義朝を快く迎えた。 
「かたじけない」
 義朝が、風呂に入ってほっとした時、扉があいた。
 忠致が槍を義朝に向けた。
「義朝どの。おぬしの首を頂戴いたす」
「裏切り者」
 義朝が最期の言葉を発した。
 
 義朝の妻の常盤御前は、今若、乙若、牛若の三人の息子を連れて逃げたが、逃げきれないと知って、清盛のもとに自首した。

 平清盛はこの一戦によって、源氏を凋落させたばかりか、その武力を背景に政界を牛耳ることになった。
 二十数年後、常盤御前の子供たちを生かしたことによって、平氏は源氏に滅ぼされることになる。

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藁細工の馬

2024-07-14 17:03:42 | 小説
 都立S高校三年の浅野浩之は、夏休みに入った日から、学校に通った。 五階の自分の教室に入り、窓側に席を移した。 数人が、鉛筆を走らせていた。
(早くから勉強しているとは負けてはいられないな)
 特に仲のいい片倉哲夫が、日本史の参考書にラインを引いていた。
「おはよう」浩之が、声を落として、言った。 片倉は、ちょっと遅いなというような目で応えた。
 浩之は、片倉の右隣に机と椅子を運んだ。
 八月に入った。 浩之が、いつもの席で、T大学の昨年の数学の問題を解き終わった時に、ちょうど十二時のチャイムが鳴った。 浩之は、母親が作ってくれた弁当を広げた。
 周りの連中も、席を立って食事に出かけたり、浩之と同じように弁当を食べ始めていた。
 浩之は、いつもと同じ十五分で、弁当をかばんにしまった。
「気分転換に図書室に行ってみるか」と独り言を言って、一階にある図書室に向かった。
 夏休みでも図書室は開いていた。 人気は、感じられなかった。
 浩之は、松本清張全集のひとつを手に取って、近くの椅子に腰かけて、ページをめくっていると奥から椅子を引く音が耳に入った。
 浩之は、本から目を離して、音のした方に目をやった。 そこには、いつの間に図書室に入ってきた女子生徒が、本を読み始めていた。
 浩之は、再び本に目を戻した。
 それからというもの、浩之は、松本清張の推理小説に熱中し、毎昼の時間に図書室に入った。
 女子生徒は、いつも浩之の後に来た。
 夏休みもあと数日を残すある日、いつもの通り、浩之が清張の本を元の場所に戻そうと席を立った時、偶然彼女と顔を合わせた。 浩之は、顔が赤くなったのを悟られないよう彼女に向かって軽く頭を下げ、図書室を出た。
 席に戻ると、
「浅野、最近楽しそうだな。何があったんだ」片倉哲夫が、羨ましそうに言った。
「別になんでもないよ」
「そういえば、昼めしを終えるとしばらくいなくなるが、どこに行っているんだ」
「図書室に行っている。最近、松本清張の推理小説にはまっているんだ」
 夏休みが終わる前に、彼女が、三年一組で名前は、中山牧子だと浩之は知った。
 夏休みが終わって、学校では普通の授業が始まった。 牧子に好意を抱いた浅野浩之は、毎日が充実していた。
 浩之は、図書室には、夏休み中は昼休み中だけであったが、始業式を過ぎると毎日、授業前の朝の時間にも行くようになった。
 松本清張の全集もだいぶ読んだが、中山牧子とは、一度も口を聞いてはいない。
 ある朝、浩之は、図書室で、波の塔を読み終わった。 牧子が、先に図書室を出て行ったの見て、彼女が先ほど読んでいた本を棚に戻したところに行った。
 棚の中の一冊が、つい先ほど戻されたかのように、きちんと納められていた。
「ヘミングウェイの老人と海か」 浩之は、ますます牧子に魅かれるようになった。

 夏休み明けの試験結果、百番以内の生徒名とその点数が書かれたものが、廊下の壁に貼りだされた。
「浅野、お前七十五番だ」と、先に来て見ていた中学の同級だった富樫順一が、浩之に言った。「富樫は、お前は、何番だ」「俺は、四十一番だ」
 浩之は、一番から百番までざっと見渡して、クラスに戻った。
 
 秋の文化祭を迎えた。 浅野浩之は、部活動は何もやっていなかったので、ただ文化祭当日いろいろ展示や発表を見るだけだったが、オーケストラ部に所属している彼女の演奏を聞くのが一番の目的だった。 彼女、中山牧子は、バイオリン演奏者であった。
 演奏会場の講堂は、すでに八分がた席が埋まっていた。 浩之は、前の席が空いているのを見つけ、そこに腰をおろして、開園を待った。
 緞帳が、開いた。 周りから拍手が起こった。
 浩之の目が、一列目の右側に座っている牧子に注がれた。(格好が、いいな)
 司会が、最後の曲、ドヴォルザークの交響曲第九番「新世界より」を紹介して、演奏が始まった。
 そして、無事演奏が終わり、満場からの拍手喝采が起こった。 浩之も手が痛くなるほど拍手を続けた。 講堂を出たところで、片倉哲夫に出くわした。
「浅野、お前も聞いていたのか。クラッシックには全く興味がないと思っていたよ」片倉が、驚いていた。
「最近、興味を持つようになったんだ」
「どういう風の吹き回しだ?」
「そういえば、浅野。お前、誰かを好きになったと富樫がいっていたけど、一体誰なんだ?」
「内緒だ」
「水臭いな」
 放送が、流れた。
「文化祭実行委員会から連絡します。四時から校庭で、文化祭の最後の催しであるフォークダンスの集いを開催しますので、皆さん、ふるって参加ください」
「浅野、どうする?」
「片倉、お前は?」
「俺は、帰るよ」
「俺、少し見ていく」
 校舎から出たすぐ道の下のグランドに生徒が集まり始めていた。
「浅野、帰らないのか」振り向くと富樫順一がいた。
「ちょっと見ていく」
「頑張れよ、じゃあな」と言って、富樫は、片手をあげて帰って行った。
 浩之は、中山牧子を探した。
「あそこだ」
 彼女は、まだ踊りの輪に入っていなかった。 意を決して階段を下りて、彼女のそばに行きフォークダンスを誘った。
 オクラホマミキサー、マイムマイムそして、ジェンカを何回か繰り返し、私たちは踊った。
 踊りが終わった時には、浅野浩之は、中山牧子と二人並んでいた。
 実行委員会の委員長が、マイクを持って登壇した。
「皆さん、楽しんでいただけましたか。いよいよ最後になりました。この三曲を歌って今年の文化祭を終わりにします。では、最初に♪今日の日はさようなら から歌いましょう」
 混声合唱クラブの連中が、壇の前に整列した。 その前にタクトを持った男子生徒が立った。
 二番まで皆で歌った。
「では、次に、今回の文化祭が最後になります三年生へ、♪高校三年生 を歌いましょう」
 浩之は、牧子の声を耳にしながら歌った。 そして、最後に効果を斉唱して、文化祭は終えた。 ふたりにとっての最後の文化祭も、終わった。
 皆、帰るのが名残惜しいようで、それぞれ話に花が咲いているようだった。
 文化祭が終わっての帰り道、デートを約束していた二人は、深大寺あたりを歩いていた。
「どうして、ここを選んだの?」
「松本清張の波の塔に深大寺界隈が出てくるんだ」
「そういえば、浅野君は、清張に凝っているといってたわね」
「そう。小説では、ここら辺りで、登場人物の女性が、万葉集の一句を綺麗な声で歌うんだ」
「どんな歌なの?」
「赤駒を 山野に放し捕りかにて 多摩の横山 歩ゆかやらむ って」
「なぜ、その女性がこの歌を歌ったの?」
「中山さん、それなんだ、ここに来る前にその女性が、茶店で小さな藁細工の馬を買い、その時にこの歌の由来をお店のおばさんが教えたようだが、その理由については、書かれていなかった気がする」
「そうなの、浅野君はこの歌の意味は分かるの?」
「調べたよ。防人に出発する夫に、せめて馬に乗って行ってもらいたいが、大事な馬は放し飼い中だし、あまりにも急な召集だから捕らえている間もない。もう、二度と会えないかも知れないのにあの多摩の横山を越えて、難波までの遠い苦労の路を歩いて行かせてしまう。もう二度と会えないかもしれないのに こんな内容だったかな」
 ふたりとも、しんみりしてしまった。

 中山牧子は、推薦でK大学文学部に入学した。 浅野浩之は、T大学工学部を受験したが、不合格で浪人となり、S予備校に通うことになった。 その間、物理の点数が上がらないため、文系に変更した。
 翌年、なんとかT大学法学部に合格した。 浩之は、牧子を大学祭に誘ったが、都合がつかないと断れてしまった。
 それからの浩之は、大学四年で司法試験に合格し、そして、卒業後に司法修習生を一年四か月を終え、検察官の道を歩んだ。
 検察官は,検事総長,次長検事,検事長,検事及び副検事に区分されるが、浩之は、副検事そして、××地方検察庁の検事正になった。
 その間、三十歳で、結婚したが、この組織、転勤が多く、また、捜査、公判および裁判の執行と忙しく帰宅も深夜に及び、まともな夫婦生活を送ることができずに、たった三年で破綻した。
 浩之は、それから、独身生活を続け、一昨年、六十歳で検察庁を定年退職した。
 
 友人の弁護士事務所に来てくれないかと懇願されたが、弁護士が嫌で検察官の道を選んだ浩之は、それを断った。
 時たま、寂しさを紛らわせるために、淡い高校三年の思い出に浸りながら酒を飲んだ。
 暇に任せて、ネットサーフィンをしていると、SNSで大人世代が趣味や仲間を探すためのコミュニティサイトとのうたい文句のD倶楽部を知り、その中の一つのSKコミュニティに参加した。
 一年ほど過ぎたころ、コミュニティの掲示板に、深大寺の散策参加者の募集があり、浩之は、すぐ参加申請した。
 浩之は、集合場所の京王線調布駅中央口の改札口に、集合時間の十時の三十分前に着いた。
 コミュの管理人の猫大好きさんが、改札口から数メートル離れたところにいた。
「おはようございます」
「おはようございます。そよ風さん、早いですね」
 D倶楽部は、ハンドルネームで呼び合うように定められており、浩之はそよ風と名のっていた。
 定刻の五分前になり、残すは、晴ちゃんという初参加の女性一人となった。
 常連の浩之は、すべて顔見知りで、皆といろいろ話しながら待った。
 改札口から出てきた女性が、恐るおそる我々に近づいた。
「SKコミュニティですか」
「はい、晴ちゃんですか」
「ええ、そうです。よろしくお願いいたします」
 その声を聞いた浩之は、話をやめて晴ちゃんのほうを見やった。
(まさか・・)
「皆さん、揃いましたので、バス乗り場に行きます。自己紹介は、深大寺で行います」
 猫大好きさんが、歩き始めた。
 浩之は、晴ちゃんに近づいて、
「そよ風です」と名のった。
「えっ、もしかして浅野君?」
「はい、中山さん、四十年ぶりです」浩之は、声を落として答え、またと言って中山牧子から離れた。
「赤駒を 山野に放し捕りかにて 多摩の横山 歩ゆかやらむ」と牧子が、口の中で歌い、仲間の後を追った。

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北条氏を倒した男

2024-06-03 10:49:53 | 小説
源頼朝が鎌倉に幕府を創設してから百三十年が過ぎて、武士の頂点に立った幕府の第十四代執権北条高時は、政は一切家来に任せて、自分は毎日酒宴を張り、また闘犬に興じていた。
 北条氏以外の御家人に比べれば圧倒的に優遇されていた足利氏では、十五歳になった足利又太郎が従五位下に叙し治部大輔に任ぜられ、その日に元服をし、得宗北条高時の偏諱を賜り足利高氏と名乗り、二十五歳で高氏は周囲の勧めにより北条一族の名門赤橋氏から登子を正室に迎え、一年後に第一子義詮が生まれた。
 高氏二十七歳の年、再び後醍醐は討幕を計画したが、側近吉田定房の密告により発覚し身辺に危険が迫ったため急遽京都脱出を決断、三種の神器を持って挙兵した。
 乱は結局失敗に終わり、倒幕計画に関わった貴族や僧侶が多数逮捕され、死刑及び配流などの厳罰に処された。天皇後醍醐も廃位され、代わって持明院統の光厳天皇が践祚した。後醍醐は隠岐島に配流された。
 隠岐に流されてから二年後の、後醍醐は名和長年ら名和一族を頼って隠岐島から脱出に成功し、伯耆船上山で再び挙兵した。
 高氏28歳、鎌倉では。
「兄上、高時様が、後醍醐天皇たち討幕勢力を鎮圧するよう命が下りましたが、父上の喪が明けておりませんし、兄上のお体の具合もよくないので、今回はお断りしたらいかがですか?」
 弟の足利直義が、高氏に進言した。
「そうだな。高時様にお願いしてみるか」
 高氏は、高時に面会し懇願したが、受けいられなかった。
「では、妻と子供たちの同行をお許しください」
「それも認めぬ。妻子は鎌倉に留めておけ。後のことは、総大将の名越高家に従え」
(登子と子は人質か。高時様は俺のことに疑心暗鬼を抱いているな)
 屋敷に戻った高氏は、直義を呼んだ
「高時様に拒否された。それどころか妻と子たちを鎌倉において行くように命じられたぞ」
「なんというひどいことを。兄上どうされますか?」
「直義、ここだけの話だが、京に入ったら、俺は反旗を翻して後醍醐天皇について、北条を倒そうと思っている」
「ご決心されましたか!兄上、いよいよ我々足利の天下を築くのですね」
 直義は高揚した。
「そうだ。全国の武士を統括する征夷大将軍になるのだ」
「兄上は、北条氏がなれなかった征夷大将軍にきっとなれます。私も力の及ぶ限り兄上に尽くします」
 高氏は京都への途中の三河国八つ橋に来たところで、幕府に謀反を起こすことを長老の吉良貞義の腹心たちに打ち明けた。
「高氏様、御決心されましたか。我ら一同、地の果てまでついて行きますぞ」
「この地には足利一族やその関係のものが多くいますので、我々に従うよう命じたらいかがでしょう」
「そうしよう。いろいろ苦難はあると思うがよろしく頼む」
 策通りに、高氏は総大将の名越高家に進言した。
「名越様に危険が及ばぬように、我々は先に京に入って敵の情勢を探っておきます」
「分かった。よろしく頼む」
 その後、京に着いた高氏は、海老名六郎季行を密かに船上山へ密書を持たせた。
「吉報じゃ。高氏から北条を討ちたいとの密書が届いたぞ」 
 喜んだ後醍醐は、北条追討の綸旨をすぐに高氏に送り返すことを家来に命じた。
「千種忠顕と赤松円心に伝えよ。足利高氏は我らの味方になった。決して高氏には手出しをせずに、幕府の総大将の名越高家を攻めよ」
 そうとは知らずに、名越高家を総大将とする北条軍は、京の南に布陣する後醍醐の軍の諸将に向けて軍を進めた。
 高氏らは上洛し、名越高家が山代で赤松円心に討ち取られたことを知り、船上山と京都を繋ぐ山陰道の要衝であり、また千種忠顕軍が展開していた丹波国の篠村八幡宮で討幕の兵を挙げた。
「俺が天下を収めるのはもうすぐだ。九州の豪族を今から味方につけたほうが良いな」
「その通りです。さすが、兄上は先へ先へと手を打たれる」
 高氏は諸国に多数の軍勢催促状を発し、播磨国の赤松円心、近江国の佐々木道誉らの反幕府勢力を糾合して入洛し、六波羅探題を滅亡させた。
 関東では、上野国の御家人である新田義貞を中心とした叛乱が起こり、鎌倉を制圧して幕府を滅亡に追い込んだ。
 この軍勢には、鎌倉からの脱出に成功した千寿王も参加していた。
 一方で、高氏の庶長子の竹若丸は伯父に連れ出され、鎌倉を出たが、脱出に失敗して途中で北条の手の者に捕まり殺害された。
「なに、竹若丸が殺されたと」
 高氏の目から止めどもなく涙が流れた。
「竹若丸、成仏してくれ。憎き北条、今に見ておれ」
 
 帰京した後醍醐は、
「今の例は昔の新義なり、朕が新儀は未来の先例たるべし」と宣言し、建武の新政を開始した。
 まず、自らの退位と光厳天皇の即位を否定し、光厳朝で行われた人事をすべて無効にするとともに、幕府・摂関を廃した。両統迭立を廃止して皇統を大覚寺統に一統した。実子で元弘の乱に最初期から参戦した護良親王を征夷大将軍とした。
「高氏、戦功第一の褒美として、朕の諱尊治からの偏諱尊氏の名を与える。今から足利尊氏と名のれ。また、合わせて、鎮守府将軍と参議に任ずる」
(なぜ武士のこの俺を征夷大将軍にしないのだ)
 また、後醍醐は、記録所、恩賞方、雑訴決断所、武者所(新田義貞を頭人に任命)、窪所などの重要機関を再興もしくは新設した。
 武者所の筆頭には新田義貞が任命されたことに対しても、尊氏は不満を抱いた。
「兄上、天皇より鎌倉へ行くよう命じられました」
 直義が尊氏に報告した。
「それはよかったな。鎌倉は何といっても頼朝さまが幕府を開いてから北条一族が長い間幕府として政務をとってきたところだ。しっかり守って来い。そういえば、東北・北関東は北畠親房の子の顕家に決まったそうだ。油断するな」
1334年1月23日、後醍醐は、実子の恒良親王を皇太子に立てた。
「なぜ討幕に貢献した私が皇太子に選ばれなかったのか」
 不満を抱いた護良親王は、やけくそのなって洛中で暴れまわった。
 護良は征夷大将軍としての器ではなかったため、戦乱の間に率いていた武士たちは彼に味方する者はおらず、皆、離れて行った。
「護良親王が帝位を狙って、近々謀反を起こすらしい。そうなったら、町が火の海になるぞ」
「そりゃ大変だ。逃げる準備をしなきゃ」
 京の雀たちが騒がしくなった。
「帝、護良親王が帝位を奪い取らんと、諸国へ令旨を成して兵を集めています。謀反でございます。早いところなんとかせねばなりません」
 尊氏は、後醍醐にその令旨を見せた。
「なに、護良親王がそんな大それたことを考えているのか。尊氏、今度の清涼殿での詩の会で護良親王を捕縛しろ」
 詩の会の日、それとは知らず、護良親王は侍十数人という身軽さで参内した。
「ここで待っていろ」
 護良親王は、ひとり玄関を上がって広間に向かった。
「護良親王、謀反の罪で逮捕します」
 尊氏の家来に囲まれた。
「何事だ。無礼者」
「天皇のご命令です」
「なんだと」
 逮捕された護良親王は、足利直義に預けられ、鎌倉に送られ土牢の中に投獄された。
「もはやこれまでか」
 親王は、死を覚悟した。

尊氏30歳の時、信濃で蜂起した北条高時の遺児の北条時行は、鎌倉に迫って来た。
「護良親王が時行に旗印として奉じられることになってはまずい。義博、親王の首をはねろ」
 直義は淵辺義博に命じた。
 京の尊氏のもとに鎌倉が時行によって占領され、直義が敗走したとの報が入った。
「直義は、無事か?」
「無事、三河にいるそうです」
「早く助太刀に参らねば」
 尊氏は、即座に後醍醐に掛け合った。
「天皇、時行への追討と征夷大将軍及び諸国総追補使の官職を私にお与えください」
 後醍醐の頭脳はめまぐるしく回転した。
「そなたを征東大将軍に任ずる」
 そして、後日、後醍醐が、成良親王を征夷大将軍に任じたことを尊氏は知った。
「またか。戦も知らず武家でもないのに天皇は何を考えているのだ。俺の何を恐れているんだ」
 尊氏は京を出発して数日後、三河矢作で直義と合流した。
「兄上、申し訳ありません」
「まずは、無事でよかった。これから鎌倉を奪回するぞ」
 尊氏の軍勢は、各合戦で北条軍を破り鎌倉に入った。
 尊氏が、自ら諸将に恩賞として所領宛を行ったところ、天皇の勅使がやって来て、後醍醐の意向を伝えた。
「尊氏に勲功賞として、従二位を与えるが、軍兵の恩賞については綸旨によるべきである。早々に帰京すべし」
 尊氏は、直義に言った。
「天皇のご意向だ。俺はすぐに京へ戻るぞ」
「ちょっと待ってください兄上、京へ戻られてはいけません。北条が滅亡して、天下が統一されたのは兄上の功績です。ところが、京に兄上がいた時は、公家や新田義貞が度々陰謀を企てて兄上を陥れようとしました。これまでは運に恵まれて大事に至りませんでしたが、今回は大敵を逃れて鎌倉にいるのですから、京へお戻りになってはいけません」
 尊氏は、直義の意見を取り入れて鎌倉にとどまることにした。
 更に、直義が進言した。
「兄上、新田義貞を討伐するために一族を馳せ参じるよう軍勢催促状をしたためていただけませんか?」
「直義、急ぐな。俺から帝に新田義貞討伐を請う奏上を送るからその返事が来るまで待つんだ」
 尊氏31歳。
 しかし、後醍醐は尊氏討伐を決めており、その名に従って、新田義貞軍が京を発っていた。また、
「足利尊氏、同直義以下の輩、反逆の企てあり、誅伐のため鎌倉に発向すべし」という軍勢催促状が天皇方諸将へ発していた。
「なんだと、帝が俺を討てと。そんな馬鹿なはずはない」
 尊氏は仰天した。
「兄上、新田義貞はすでに京を出発したそうです。我々も早く出陣しなければなりません」
 直義が緊張した面持ちで進言した。
「分かった。高師泰を大将として新田を迎え撃たせよ。ただ三河の川よりは西へ進軍してはならぬ」
 尊氏は念を押した。
「俺は、帝の恩を忘れることはできない。だから帝に敵対するなどできない。直義、おまえに政務を譲るから好きにやるがよい」
 続けて尊氏が言った。
「兄上はどうされるのですか?」
「俺は、帝に敵意の無いことを表すために、浄光明寺に引きこもる」
 直義は単独で出陣したが、各地で新田軍に惨敗した。
「これを兄上に渡してくれ」
 直義の負け戦を知った尊氏は、帝に叛くことは本意ではないと苦悩した。
 直義の家来が書状を持ってきた。
 それには、直義が作った新田義貞を誅伐せよとの偽りの綸旨が入っていた。
「これは真実か?」
「分かりません」
「どうでもよい、直義を助けに行くぞ。出陣だ!」
 尊氏は半信半疑の思いであったが、直義に危険が迫っているのを見過ごすことができずに出陣した。
 尊氏は、箱根で新田軍を撃破して、一気に京を目指した。
「兄上、ありがとうございました」
「直義、この勢いで、京に攻め上る」
 足利軍は京を占領した。が、後醍醐が京を脱出して比叡山に逃れたことを知った尊氏の気持ちは浮かなかった。
「やはり、直義に一杯食わされたか。三種の神器はないし、光厳上皇の行方も未だ分からない」
 翌年、尊氏追撃のため、奥州の北畠顕家が京に攻め込んできた。
「やっと、顕家が来てくれたか」
 後醍醐は喜んだ。
「帝は先見の明がおありになります。奥州の顕家を鎮守府将軍に任じ、足利の背後から攻めさせる作戦が、ズバリと的中いたしました」
「これからじゃ」
 両軍激突した結果、北畠顕家の軍勢に押されて、尊氏たちは丹波へ退却した。
 尊氏は軍議を開いた。
「忌憚のない意見を聞かせてくれ」
 尊氏がいつもの通り、落ち着いた態度で言った。
「明日にでも再び京へ攻め込みましょう」
「いや、ここは一旦退いて、過日功をなすのも武略の道です」
 意見が二つに分かれた。
「皆の意見は分かった。一旦、九州へと退散してまた機を見て京を目指すことにする」
 尊氏軍は、室津に到着した。
 再び、軍議が行われた。
「追撃してくる帝方阻止のため、山陽道及び四国での諸将の配置を決める」
 と言って、
「足利一門の石橋氏を備前、今川氏を備後、桃井氏を安芸、大島氏を周防、そして細川氏を四国に配する」と尊氏は具体的に配置を決めた。
「直義、密使を光厳上皇のもとに送って、新田義貞誅伐の院宣を出すように策を立てろ」
 そして、尊氏は西へと向かった。
「兄上、とうとう賢俊の働きで、光厳上皇の新田義貞を誅伐せよとの院宣がくだりました」
「本当か、直義、偽りではないな」
「真実です。これで我々は朝敵ではなくなりました」
 そして、尊氏は多々良が浜の干潟で九州最大の天皇方勢力の菊池軍と決戦に臨んだ。
「兄上、圧倒的に敵方のほうが兵が多いです」
「何を心配している。この勝負に勝たねば二度と京には戻れないのだ。戦は数ではない、頭で勝負するのだ。勝つための策を重臣たちを集め考えよ」
 戦術と士気そして運も味方して、尊氏軍が勝利すると、尊氏に加勢する兵は一気に増加し、瞬く間に九州を制圧してしまった。
 尊氏は流れが変わったのを巧みにとらえ、一息入れるのもそこそこに、博多から京に東上を開始した。
「早く京の桜を見たいものだ。俺は海から行くが、お前は陸路を行け」
 尊氏が直義に向かって言った。
 尊氏は伊予の河野氏たち水軍の味方を得て、多くの軍船を集めて海上を進み、直義は山陽道を東上しながら多くの味方を集めていた。
 後醍醐は軍議を開いた。
「正成、策はあるか」
「はい、わが軍は足利軍に比べますと兵力が劣りますので、正面から戦わずに、まず足利軍を京に易々と入れて、敵方を安心させたところ、四方から京にいる足利軍を攻め立てれば勝利間違いございません」
「楠殿、それは危険です。楠軍の強さは足利軍に引けを取らないではありませんか。ここは京に入れずに敵を迎え撃った方がよい」
 公家の一人が言った。
 他の公卿たちもその意見に賛同した。
 (兵力も乏しくろくな武将もいないのに、平場で勝てるわけがない。兵法など知らぬ馬鹿公卿どもが)
 正成の意見は取り入れられずに、敵を迎え撃てという勅命になった。
 この間、新田義貞は赤松氏の居城白旗城への攻撃に手間取っていたため、尊氏軍は兵庫でやすやすと楠正成を倒し、光厳上皇と豊仁親王を擁して京に向かった。

「楠正成殿が自害いたしました」
「なに、正成が自害だと?!」
 敗走してきた新田義貞の報告に後醍醐は愕然とした。
「帝、足利勢はすぐそこまで攻め入ってきています。一刻も早く比叡山へお逃げください。私たちがお守りします」
 桜の花も散り、梅雨に入ると直義軍は、比叡山を攻めて、後醍醐の側近の千種忠顕を討ち取り、続いて、京の市街戦では名和長年も討ち取った。
 尊氏は、豊仁親王を光明天皇に立てた。
 家来が後醍醐に尊氏からの書状を渡した。
「なに、尊氏が両統迭立と私へ京に戻れと。一体何様だと思っているのだ」
 持明院統と大覚寺統の両統が交互に天皇を立てることを尊氏は条件としてきた。
 この二つの申し入れに、後醍醐は怒り狂った。が、兵力に劣っていることを知っている後醍醐は、申し入れをのんだ。
 将来のために、子の懐良を九州へ、恒良と尊良に義貞をつけて北国に落とすのが精一杯の抵抗で、他には手の打ちようがなかった。
 後醍醐は京に連れ戻され、やむなく光明に三種の神器を渡した。
「兄上、とうとう我々の思い通りになりましたね」
「やっとな」
「後醍醐様はどういたしましょうか」
 尊氏はしばらく考えてから、投げやりに言った。
「花山院に幽閉しろ」
 尊氏は三十二歳になっていた。
 尊氏は、幕府開創にあたっての施政の基本十七条を定めた’建武式目条々’を家来からの答申という形をとって制定した。
「兄上、第一項の幕府の所在地ですが、鎌倉にしますか?」
「鎌倉に置けば、京では後醍醐がいつ勢いを盛り返すか心配でならない。鎌倉に移ることは、京を明け渡すことになり、せっかく戦で獲得したものの大半を放棄するになるのだ。そのようなことはできぬ。よって、京に幕府を置くことにする。直義、おまえは政務を行え。俺は御家人たちを束ねることに専念する」
 新しい幕府は京に置くことに決めた。
「兄上、政を行う場所や建物はいかがいたしましょうか?」
「高師直に検討させよう。それまでは我々の屋敷で行うしかないな」
 武家の棟梁として尊氏は、執事高師直の補佐のもと御家人武士の統率にあたり、政務は直義に任せた。直義は、そのもとに鎌倉以来の裁判を担当した家筋の人たちを登用した。
 尊氏は土御門東洞院、直義は錦小路堀川の屋敷で政務を行った。
 尊氏は直義および高師直たち重臣を集めて、軍議を開いた。
「北陸の新田勢は、金ヶ崎城にこもって、着々と兵を集めているそうです。やはり天皇が吉野に脱出されたことが、義貞をその気にさせているのでしょうな」
 と直義が言うと、尊氏は睨みつけて言い返した。
「帝はこの京にいらっしゃる。吉野にいる方は、天皇を退いた方。太上天皇と呼べ」
「申し訳ありません。以後注意しますが、新田は叩いておかねばなりません。それから、奥州の北畠顕家に対しては充分備えておく必要があります」
 発言力のある高師直が、口を開いた。
「北畠に対しては、奥州の足利一族に蜂起させ、上京を遅らせるように命令しておきます。金ヶ崎城の新田軍に対しては、すでに私の弟の師泰が攻め入っております。新田勢の士気は上がっているようですが、兵糧攻めでそのうち降伏いたしましょう。ご心配は無用でございます」
 直義は、顔をそむけた。
 師直の思惑とおり、北畠を足止めさせることはできたが、金ヶ崎城にいる新田勢には手こずっていた。
 兵糧攻めを始めて、二ヶ月が過ぎていた。
 新田義顕は、父の義貞に進言した。
「父上、城内の飢餓は極限に達しています。お願いですから、城を抜け出してください」
「何を考えてる。おまえは俺のいや新田の後継だ。おまえが生き延びるのだ」
「いいえ、私が生き延びても、兵を集めて足利を倒すことはできません。新田義貞の名前
でこそ豪族たちも集まってくるのです。私は天皇からお預かりした皇子たちをお守りしなければなりません。父上、城を抜け出し、軍を立て直して一刻も早く我々を助けに来てください」
「分かった。俺が戻るまで生き抜くんだ」
 義貞が城を抜け出したのを知った高師泰は、叫んだ。
「今だ、かかれ。敵の大将は逃げたぞ」
 戦う力も尽きていた義顕、皇子の尊良親王は自害し、恒良親王は囚われの身となった。
「師泰、よくやった」
 尊氏は高師直からの報告を受け喜んだ。
 そして、尊氏が新しい幕府を作り始めて一年が過ぎ、十二月も押し詰まっていた時。
 息を切りながら家来が、尊氏に報告に来た。
「殿、北畠顕家が六十万の軍勢を持って鎌倉を占拠したとのことです」
「なに!」
 尊氏は気が動転した。
「義詮は、一体何をしていたんだ」
「鎌倉を脱出して、軍を立て直して北畠勢を追撃しようと準備しているようです」
「追撃だと?」
「北畠軍は、鎌倉を発って、京に向かっているそうです」
「ばかもん、なぜそれを早く言わんか。殿、一大事でございます。北畠を迎え撃たねばなりませんぞ」
 高師直が怒鳴った。
「分かった。出陣じゃ」
 尊氏は、一万の兵を何とかまとめて、東方へ向かった。
 北畠軍が美濃の国青野ヶ原に到着した時、足利義詮が追撃した。
「鎌倉での敗北を取り返すぞ。かかれ」
 数に劣る八万の義詮軍は、六十万の北畠軍に完全敗北した。
 その知らせを受けた尊氏は、美濃の国と近江の国の境に流れている黒血川の近江側のほとりで北畠軍を待った。
 北畠顕家は、兵を休ませてから戦わずして、後醍醐のいる奈良へと南下して行った。
「顕家が逃げたぞ」
 尊氏はすぐさま北畠軍を攻め立てた。
 総崩れになった中、顕家は弟の顕信に言った。
「おまえは、ここから離れ、義良親王と吉野へ逃げろ」
「兄上はどうなさるのですか?」
「八幡山の城にたてこもる。義良親王は次に天皇につかれる大切なお方だ。命かけても守るのだ」
 それを知った高師直は、八幡山を包囲して北畠顕家が出てくるのを吉野への街道入り口天王寺で待った。
 それを知らずに、顕家が包囲網を破って、天王寺付近に来た時、師直軍に取り囲まれるも敵を斬り倒し続けたが、多勢に無勢で壮絶な死を遂げた。
 顕家、二十一歳の生涯だった。
「さすが師直、よくやった」
 尊氏は、北畠顕家の死の知らせを膝を打って喜んだ。
「残るは憎き新田義貞!」
 その頃、義貞は三万軍を率いて、足利一族斯波高経が籠る足羽城を包囲していた。
「高経の兵は、三百余りだ。一気に落として京に上るぞ!」
 義貞は意気込んだ。
「兄上、早まってはいけません。敵が少ないからと言って侮ってはいけません。精鋭の兵が揃っています」
「何を臆病なことを。こっちは三万だぞ。俺が先頭になって敵陣に乗り込んでやる」
 義貞は五十騎を伴って城へ向かった。
 それに足利軍が気付いた。
「おい、あれは新田軍だ。討ち取れ!」
 足利軍は一斉に矢を放った。
「殿をお守りしろ」
 新田軍の兵士たちは義貞を守るため囲んだ。
「殿、雑兵は相手にせずに、ここは退却いたしましょう」
「退却だと、馬鹿なことを言うな。自分のために家来が死んでいるというのに。行くぞ、やあ」
 義貞は馬の腹を蹴って、足利軍に突撃して行ったが、雨の降るごとく矢が義貞の身体にあたり、とうとう持ちこたえられずに落馬した。
「これまでか」
 義貞は、小刀を抜いてのどを突き刺した。
 暑い日だった。
 尊氏は、光明から征夷大将軍に任じられた。
「兄上、念願の天下取りを果たしましたこと、おめでとうございます」
「直義、これからもよろしく頼む」
「後醍醐天皇はいかがいたしましょうか」
「ほっとけば、また我々を討とうとするであろう。捕らえて、二度と俺たちに刃向かえないようにするのだ」
 直義は、尊氏の命によって、後醍醐を捕らえようと厳しい探索を行った。
 一方、後醍醐の陣地では、公家たちが浮足立っていた。
「お上、早く逃げなけれなりませぬ」
「なぜ逃げなければならぬ。光明に渡した神器は偽物だ。従って、光明は偽帝である。本物の神器を持つ我こそが真の天皇である。早く足利一門に対抗する武家たちを集めて反撃せよ」
「そうは言われても、足利直義がお上を捕らえようと必死になっております。一時も早くこの場を去らなければ」
「分かった。吉野へ行こう」
「吉野ですか?」
「そうだ。吉野だ。吉野は金峰山の修験道の本拠地として独立した世界で、地形的にも要害の地である。そこで立て直すのだ」
 後醍醐は、直義の厳しい探索から逃れて吉野に潜入した。
 一方、北畠顕家の死を知った後醍醐は、鎮守府将軍に顕家の弟の顕信を任命した。
「顕信、我が分身として義良と宗良の両皇子を伴って、陸奥で再起を計るのだ。そして、即刻、尊氏を討て」
(後は、満良を土佐に派遣すれば、九州の懐良とで西は盤石になる)
 顕信は、父の親房と両皇子を伴って、伊勢大湊から海路で東に向かった。
 遠州灘辺りに来た時、波あらく三艘の船が大揺れし、それぞれ方向が定まらずに流された。
「父上」
「顕信」
 顕信と義良はなんとか伊勢に戻ることができたが、宗良は遠江に、親房は常陸に漂着した。
 将軍を認めない後醍醐は、分身を通じて武士を直接掌握しようとしたが、成果を挙げることなく病に倒れた。
 床に臥せった後醍醐が、義良を呼んだ。
「義良、わしはそう長くはない。おまえを皇太子に任ずるので、わしが万が一の時は、後をまかせる」
 数か月後、後醍醐の容態が急変した。
「帝、お気をしっかり」
 後醍醐が義良に近くに来るよう手招きした。
 義良が後醍醐の手を握った。
「義良、おまえに譲位するので、後は頼む」
 後醍醐が、皆に聞こえるように声を振り絞って言った。
 そして、数か月後、五十二歳の後醍醐崩御、十二歳の後村上の誕生した。
 一方、常陸に漂着した北畠親房は、南朝方に属していた小田治久の小田城に入っていた。
「帝が亡くなられたそうです」
 治久が声を落として言った。
「なんですって。帝が・・」
 親房は、床に目を落とした。
「治久殿、しばらくの間、私をここに置いていただけないか?」
「それは願ったりでございます。いつまでも遠慮なくお過ごしください」
 親房は関東の武士を集めて組織化して、京の足利を攻め滅ぼすことを企てていた。
 数年後、小田城は、上杉に代わって関東管領になった高師冬に攻撃された。
 親房は関城へ逃れ二年間抵抗してそして、大宝城へと移った。
 この間、親房は、南朝が正統の天皇であることを論証した神皇正統記を書き上げていた。
 そして、親房は親しい白川を本拠とする結城親朝に決起を促したが、打算的な親朝は師冬が本領安堵を持って誘ってきたのに応じた。
 そして、親房の敵にまわった。
「親朝め、裏切ったな」
 親房の命運はつき果て、伊勢から吉野へと命からがら逃げた。
 一方、尊氏と直義は後醍醐が怨霊として、跳梁跋扈することを恐れて、天龍寺の造営を発願した。
 尊氏は軍議を開いた。
「北畠親房も吉野へ逃げ込んだか。残るは河内の楠正行と九州の懐良親王ぐらいか」
「殿、私にその二人はお任せください」
 高師直が尊氏に言った。
(また出しゃばったことをする)
 尊氏の弟の直義が、舌打ちをした。
「直義様、何か気にくわないことでもありますかな」
 師直が、直義を睨んだ。
「二人ともいい加減にしろ」
 尊氏が割って入った。
「楠正行は師直に任せる」
 師直は、尊氏に向かって頭を下げた。
 高師直は河内四条畷で楠正行を戦死させ、その勢いで吉野に向かった。
 そして、吉野に入るとすぐに後村上の仮の宮を取り囲んだ。
「皆の者、松明に火をつけよ」
 師直は松明に火がついたのを見て、
「この宮をすべて焼き払え、焼き払え」
 一瞬、兵士は驚きざわめいた。
「何をやっておる、早く投げ込め」
「おお」
 数多くの松明が投げ込まれて、あっという間に宮は燃え尽きてしまった。
 後村上は、紀伊境の賀名生に逃れて行った。
 師直は京に戻り、早々に尊氏たちに戦果を報告した。
「紀伊へ逃れたか、師直でかしたぞ」
 尊氏は満足だった。が直義は、終始仏頂面であった。
 師直は直義を意識していた。
(相も変らず直義は俺のなすことに腹を立てているようだな。困ったお人だ)
 師直は戦闘の功績として、配下武将に恩賞として土地を暫定的に分け与えた。しかし、その土地が他人の領土だったため、持ち主は幕府に訴え出たが、直義の裁断に反して、師直の尊氏へ進言することにより、返却されない場合が多かった。師直による多くの武士を参加させるための土地預け置きと直義の法による公平な統治は矛盾が生じて、師直と直義の対立は激化していった。
 直義の執事上杉重能と畠山直宗は、直義の帰依する僧の妙吉を使って、尊氏に訴えた。「尊氏さま、高師直殿と師泰殿は国を乱しご政道を誤らす者たちでございます。執事の職を取り上げてください」
 尊氏は、考えておくという返事をした。
 後日、このことが師直の耳に入り、師泰に伝えた。
「兄上、先手を打って直義さまや上杉重能、畠山直宗を一日も早く排除しなければ我々に危害が及びます」
 いよいよ直義と師直との対決が表面化し、京市中は騒然たる空気に包まれた。
 師直が手勢を率いて、直義の屋敷に向かったのだ。
「直義さま、師直殿が軍勢を率いてこちらに向かっているようです」
「なに、師直が私を討ち取ろうと」
「間違いありません、こちらには今備えがありませんので、早くお逃げになってください」
「分かった。兄上の所に行こう」
 師直は、直義が逃げ込んだ尊氏の屋敷を取り囲んだ。
 そして、尊氏に要望した。
「師直、これは一体何事だ。無礼であろう」
「尊氏さま、幕府思ってのことで、このような行動に出たことをお許しください。今の幕府の混乱は、直義さまの執事の上杉重能殿と畠山直宗殿の政務の仕方によるものです。混乱を鎮めるために二人を幕閣から外してください。また、直義さまを出家させるようお願いします」
 尊氏は師直の覚悟を肌でも感じ取った。
(師直の要求を拒否すれば俺の命も危ないかもしれぬ。この際、直義を出家させて、その代わりに息子の義詮を政務を行わせるか。俺の後継だと皆に認知させるには良い機会になるな)
「師直、分かった。悪いようにはせぬから今日は引き下がれ」
 翌日、尊氏は上杉重能と畠山直宗を越前に配流し、直義から政務担当をはずし出家させた。が、事態は収まるどころかこれをきっかけとして、やがて尊氏と直義の対立にまでエスカレートしていくのだった。
「殿、直義さまが長門探題の直冬さまを呼び戻そうとしています。すでに、直冬さまは軍を率いて長門を出発した模様です」
「なんだと、すぐに直冬を打ち払うのだ」
 尊氏は討伐軍をおくって、直冬軍を西へと敗走させた。
 尊氏44歳。
 それと並行して、尊氏は鎌倉にいた二十歳になっていた実子の義詮を京に呼び戻し、代わりにその弟の基氏を下した。
 この機会に義詮を政務を担当させようとの尊氏の目論見が実現した。
 しかし、翌年に入ると事態が急展開した。
 西へと敗走していた直冬が反乱を起こしたとの知らせが入った。
「直冬め。今度は徹底的に打ちのめしてやる」
 尊氏がその討伐の準備を進めている中で、家来が報告に来た。
「殿、直義さまが、南朝方と連絡を取り挙兵をしたそうです」
「ほっておけ。直冬討伐に出陣じゃ」
 尊氏が備前に進んだ時には、直義の軍勢は大兵力となって一挙に京に入って、義詮の軍を破った。
 義詮は、西走して播磨にいた尊氏と合流した。
「義詮、無事だったか」
「父上、直義軍が追ってきてます」
「兵力はどのくらいだ」
「大軍です」
「殿、烏合の衆です。叩き潰して見せましょう!」
 高師直が、自信をもって言った。
 しかし、直義の大軍は簡単に尊氏軍を破り、猛勇をほこってきた高師直と師泰の兄弟にも手傷を負わせた。
「使者を出せ」
 尊氏は形勢が不利となると、高師直と師泰を出家させるという条件で直義側に和平の申し入れをしたためた書状を使者に持たせた。
「兄上はいつもこうだ。承知したと伝えてくれ」
 直義は、使者に言った。
 和平が成立して、尊氏の一行が摂津まで引き上げてきた時、上杉と畠山の軍勢が立ちはだかった。
「尊氏殿、我々は師直と師泰に用がある。手出しは無用」
 上杉憲顕が言った。
 尊氏46歳。
 そして、その軍勢は師直と師泰そして高の一族郎党に襲い掛かり、一瞬のうちに皆殺しにした。
「重能殿、敵を取りましたぞ」
 尊氏たちは、ただ見ているだけだった。
「兄上、政務は私が以前と同様行いますので、一切口出しせずに願います」
「好きなようにしろ」
 直義は、再び政務及び人事の主導権を握り、義詮は形ばかりの存在となった。
 更に直義は、南朝に帰服したと思いこませて、この機会に北朝と和平交渉させようとした。
 南朝からの使いとして、楠正行の弟正儀が京に来た。
「直義殿、折角の申し出お断り申す。我々は南朝が正統だと今も思っております」
「楠殿、いつまでも建前を通す気か」
「はい」
「分かった。どうなるか覚悟をしておくんだな」
 直義は荒々しく席を立った。

 義詮が、尊氏に直義の件を報告した。
「直義が、南朝と通じているとは」
 尊氏は不愉快だった。
「父上、直義さまは私を無視して政務を独断で行っています。早く何とかしないと父上の権威も失墜します」
 数日後。
 夏の暑いさなか、尊氏は直義の訪問を受けた。
「兄上、義詮殿が私とは意見が合わないというので、私は政務の職を辞退した方がよいと思います」
「そう言わずに、義詮とうまくやってもらえないか」
「それは難しいです」
 一か月後、朝から蝉がやかましく鳴いていた。
「父上、直義さまが京を出発してどうやら北陸に向かったようです。我々が完全に京を制圧しているから危険を感じたのでしょうか?」
「なに、俺はそのようなことは聞いてはおらん。危険を感じただと、そんなことはありえない。義詮、よく考えろ。北陸には直義を支持する勢力が多いのだ。越前で力を張っている斯波高経、越中守護の桃井直常、丹波守護の山名時氏そして、上杉一族が越後に根をおろしているので、その方面で兵力を結集して京に攻め上ってくるのであろう」
「なぜ、直義さまは北陸からの支持が得られるのですか?」
「直義は以前鎌倉にいて、東国に勢力を扶植していた関係からも北陸や越後そして関東地域を自分の最も有力な勢力基盤だと思っているに違いない。それは間違いないだろう」
 秋風が吹き始めた。
「直義が北陸を後にして、京に向かったようだ。義詮、直義を成敗してこい」
 出陣した義詮の軍勢は、近江で直義を迎え撃った。
「義詮さま、直義軍が我々との戦いを避けて、東に向かい始めました。諜報によるとどうも鎌倉に行くようだと」
「なに、我々はすぐ京へ戻って父上の命を仰ぐ」
 義詮の報告を聞いて、尊氏は目を閉じた。
(全国支配は、京だけの一元的な中央による権力だけでは不可能だ。鎌倉があっての幕府の安定が保たれるのだ。その鎌倉が、直義によって抑えられたら幕府の権力が失われることになる。なんとか直義を征伐しなければならぬ)
「義詮、俺は直義を成敗しに直ちに出陣する。京と畿内の守りはお前に託する」
 そう這いながらも、北朝の光明天皇、光厳上皇や叡山の僧たちは直義を支持していたのが心配の種だった。
「義詮、南朝に帰服を申し入れするぞ。その見返りに直義追討の綸旨を後村上天皇からもらい受ける」
「承知いたしました」
(父上は、弟の直義さまを本気で成敗するつもりか、むごいことだ)
 尊氏は直義追討の綸旨を携えて、東国へと出陣した。
 47歳の尊氏は、下野の武士や武蔵の群小の武士たちを味方に加わえ、直義をじりじりと追い詰め、翌年の正月に屈服させた。
 そして、鎌倉に入って尊氏は、直義を呼んだ。
「直義、今までおまえがしたことは水に流そう。仲直りの宴だ」
 酒と馳走が運ばれてきた。
「手酌で行こう」
 尊氏は盃に酒を注ぎ、飲み干した。
 直義も酒を注いだ盃を口に運んだ。
 しばらくすると、直義が七転八倒し始めた。
「兄上、毒を盛ったな」
 直義の最期の言葉となった。
 こうした状況に紛れて、南朝方が動いた。
「義詮さま、後村上天皇が賀名生を出陣して、男山に進んでいます」
「なんだと、我々との講和協定を破るとは許せぬ」
「先鋒は誰だ?」
「楠正儀の軍勢のようです」
「出陣の準備をせよ」
 義詮は焦った。
 翌日、楠正儀らの先鋒隊は義詮軍を破って、京に潜入した。
「義詮さま、ここは一旦京を出ましょう」
「兄上に申し訳が立たない」
「そのようなことを言っている場合ではございません。再起を目指せばいいのです」
 敗軍の将になった義詮は、京に再び攻め上ろうと、細川、土岐、そして佐々木などの周辺の守護連中を味方にすべく走り回った。
「義詮さま、これらの守護国については我々の味方に付くことは価値があると知らしめるために、武家方地頭の設置されている公家領の年貢をその年は半分差し押さえ、軍勢の兵糧にあててよいとし、残りの半分は今まで通り公家側に渡すようにと命じられてはいかがでしょうか」
 側近の知恵者が、義詮に進言した。
「それは良いが、北朝方に相談せずに行ってよいものか?」
「幕府が決めたと言えばよいこと。それに従わせれば、幕府の権威はさらに高まるでしょう」
 そして、桜が咲き始めた頃。
「後村上天皇がおられる男山を攻めるぞ。いざ、出陣じゃ」
 義詮の覚悟は、兵士全員に伝わっていた。
 細川、土岐、そして佐々木などの軍勢の働きは目覚ましく、一か月ほどで、男山を攻め落とし、負けを悟った後村上は賀名生へ逃げ帰った。
 そして、義詮は、堂々と京に戻り、尊氏の帰京を待った。
 尊氏が帰って来た。
「父上、お疲れさまでした」
「義詮、良く京を守ってくれた」
 尊氏は、満面笑みを浮かべた。
(これで義詮はれっきとした俺の後継者になったな)
 その後、南朝方でタカ派の指導者だった北畠親房が死去し、大勢は尊氏と義詮に有利に展開していった。
 尊氏53歳。
 怒涛の世を駈け抜けた足利尊氏は、最期まで気が休まることなく生涯に幕を閉じてしまった。 
                                     了
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