沢藤南湘

残り少ない人生を小説とエトセトラ

四文屋繫盛記 五

2024-11-28 17:32:48 | 小説
第五話 瞽女(ごぜ)(夏)
 暑い朝だった。
 棒手降りの勇治が店の裏にやってきたのを銀之助が迎えた。
「銀之助さん、うまいもん屋が料理競技会番付に載ってましたよ」と、言って懐から番付表を出して、銀之助に見せた。
「どこですか」
「ここです」
 八百善が真ん中に大きな文字で書かれているのに対して、うまいもん屋は最下段の隅に小さい字で書かれていた。
 銀之助があまり喜んでいない様子を見て、勇治が言った。
「これに載るなんて大したもんですよ」
「これ借りてもいいですか」
「あげます」
 銀之助はさっそくおすみに勇治からもらった番付表を見せた。
「まあ、すごい」と、おすみは感激した様子であった。
暮れ七ツ時。 
うまいもん屋は、多くの客でごった返していた。
 常連の徳衛門長屋の大工の源一が、弟子二人に大声で、自慢話をしていた。
 また、葉煙草刻問屋の番頭の弥助は、店の片隅の行灯近くの席で、いつものように、ちびちびやっていた。
 他には、大声で煙管を加えてしゃべっている鳶職の三人や、数人の町人たちがいた。
 いつの間にか、雨が降り始めていた。
「いらっしゃい」
 お玉の声が、店中に響いた。
 女二人が中に入らずに立っていた。その一人が、お玉に、門付(人家の門前に立って、音曲を奏するなどの芸をし、金品をもらい受けること)してもよいかと、いった。
 手引きをしている女は、雪といい、二十前の娘で、綱で導かれている女は梅、三十路半ばくらいと思われた。
「雪さん、梅さん、お店の中で遠慮しないでやって行ってください」
 お玉に導かれて、二人は店に入り、合羽を脱いだ。雪も梅も、黄八丈の着物を着ていた。雪は、背の大事に包まれていた三味線をおろした。
 店の客たちの目が、二人に注がれた。
 支度が整うと、何人かの客が、拍手をした。
 雪と梅が三味線を弾き始め、梅がいった。
「‘忍寄恋曲者’唄います」
‘ぺペン、ペン、ペペペン’
♪嵯峨や御室の花盛り、浮気な蝶も色かせぐ、廓の者に連れられて、外珍しき嵐山・・♪
唄が終わった。
 拍手が鳴り響いたと同時に、
「おーい、娘、こっち来て飲めや」
 鳶職人から声がかかり、雪は、梅を引きながら席に行った。
 雪が、その職人の一人の前に立った時、悲鳴を上げた。
「やめてください」
「銭出すからよ、少しぐらいいいじゃねえか」
 と組と書かれた半纏を着た男が、また雪の尻を触ろうとした時、
「お前。何、やってんだ」
 隣の席にいた源一が、立ち上がって、怒鳴った。
「なんで、てめえは」
「娘さん、嫌がっているじゃねえか。謝れ」
「うるせえ」
 男は、雪の持っている箱の銭を掴んで源一めがけて、投げはなった。
「こいつ、やったな」
 源一が、掴みかかった。男は、源一の腕を掴んだ。
「おい、大工。外へ出ろ」
 おすみが飛んでやって来た。
「ちょっと、待ちなさいよ。鳶のだんな、ここは、あんたたちの来る店じゃないよ。女の尻を触りたきゃ吉原に行ってきな。とっとと、お帰り」
「このあま、生意気なことをいいやがる。この野郎」
 男は、おすみの胸ぐらを掴んだ。
「お客さん、申し訳ありません。ここは、飯屋なんで、お客さんに迷惑かけられると困りますので、静かにしてもらえませんか」
 銀之助が、割って入った。
「おめえ、店の主か。客をなんだと思っているんだ」
「先ほど、店の者がいいましたように、ここは吉原ではありませんので、うちの客だとは思っておりません」
「おめえ、火消をなめるのか」
 もう一人の鳶がいった。
「皆さん、外で話しましょう」
 銀之助が、三人を外へと促した。
外は、街路にある行燈が、霧雨を照らしていた。
 急に、尻を触った男が、銀之助の胸ぐらを掴んできた。
「お客さん、乱暴はいけねえや」
「うるせえ」
 銀之助は、男の手首を掴み捻り上げた。
「いてえ、畜生」
男が、銀之助の足を払おうとした時、
‘バターン’
 男が仰向けになって倒れた。
それを、他の二人は、驚きのあまりただ茫然と見ていた。
「銀之助さん、いいぞ。銀之助さんにかないっこねえ、とっとと、消え失せろ」
 源一が、叫んだ。
「覚えて いろ 」
 倒れた男が、やっとの思いで言った。
「大丈夫か」
「おいうまいもん屋、また来るぜ」
 兄貴分の男がいった。
 そして、もう一人の男と倒れた男を抱きかかえて、帰って行った。

銀之助と源一は、店の中に戻った。
 おすみが、心配そうに迎えた。
 お玉は、二人に手拭いを渡した。
銀之助は、顔を拭いた。そして、客に頭を下げてからいった。
「皆さん、ご迷惑をおかけしてすみませんでした。これからは、飲み代はただにさせていただきます。遠慮なく飲んで行ってください」
 客たちから、拍手が起こり、また「うまいもん屋、日本一!」と掛け声がかかった。
 銀之助は、深々と頭を下げ、勝手場に戻って行った。 
 おすみとお玉は、震えている雪と梅を源一の近くの席に座らせた。
「もう、心配いりませんよ。ご飯を食べて行ってくださいね」
 おすみがいって、お玉と勝手場に戻った。
「さあ、忙しいわよ」
おすみは、余っている徳利に酒を入れ、お玉は、隠元煮びたしをいくつもの小皿に盛って、客たちの席に次々と運んだ。
勝手場に戻ってきたおすみに銀之助が言った。
「おすみさん、お雪さんたちに蛤の小鍋立てと山吹飯を出したいので、手伝ってもらえませんか」
「はい、じゃあたしは山吹飯をつくりますわ」
 銀之助は先日おすみから教わった蛤の小鍋立てを帳面を見ながら作り始めた。
 蛤、豆腐、油揚げ、千切りにした大根、三寸ほどの昆布そして、うどんを入れた鍋が煮立ったのを銀之助は見計らって、それに少々の三つ葉を入れ、蛤の小鍋立てを作った。
 おすみは、飯に固ゆでして裏ごしした卵の黄身と、せりのみじん切りを載せ、吸い物加減のだしをかけ、手際よく山吹飯を作り終えた。
「お玉さん、お雪さんたちにこれを持って行ってください」と、銀之助は戻ってきたお玉に言った。
 雪たちが食べ終わったのを見計らって、銀之助は雪の所に行った。
「今日は、迷惑を掛けました。これを」といって、二十文を出し箱に入れた。
「食事だけでなく、お金までいただいて、申し訳ありません。ありがとうございます」
 梅がいって、二人は頭を下げた。
 客たちも次々と、
「また来いよ」
「いい声また聞かせてくれ」と、声を掛けながら、銭を箱に入れに来た。
 雪が、もう一曲、お礼に唄わせてもらってもいいかと銀之助にいった。
 銀之助は、頷いた。
 二人は、店の真ん中に立ち、深々と客たちに頭を下げた。
「ご迷惑をおかけしてすみません。歌で、お詫びさせてくださいませ」
 ♪ぺペン・・・・・  
 ♪この世の四季はうつろい易く 冴え返る春の寒さに降る雨も 暮れて何時しか雪となり ひとの気配も途絶えにけり 日は過ぎ 春風誘い 人の心も和みけり  夏の夕べに降る雨は 人を追い立て 光る空  秋の兆しは すすき なびく 野の小道 歩く二人を月が照らす  木枯らしが 木の葉を舞い上げ年の瀬に~ 
♪ペンぺペンペン 
♪およそ千年の鶴は  万歳とうとうたり
♪ペペンペン・♪
 店中に梅の声が朗々と響きわたり、客はうっとりと聞き惚れた。
「お二人さん、遠慮なくいつでも来てくださいな」
 銀之助たちは、雪たちを外に出て見送った。
 それから、四半刻(三十分)ほどで、客たちもすっかり酔って帰って行った。
 片付けを済ましたおすみとお玉に、銀之助は今日の給金といっていつもより多い百文(九十六文を細い縄で通したもので、四文は数える手数料といわれて差し引かれていた)を渡した。
「こんなにもらっていいんですか」
「恐かったでしょう。良くやってくれました。明日もよろしく」
 おすみとお玉は、先ほどの出来事を忘れたかのように、笑顔で帰って行った。
 勝手場の行灯を消して、銀之助はいつものように徳利を持って、二階に上がった。
 やりきれない気持ちが、銀之助の眠気を遠ざけた。

 朝から靄っていた。
 銀之助、お玉は、二八そばを打ち、おすみは、茄子の揚げ出しを作っていた。
 今まで、屋台の連中に気遣って蕎麦とうどんは献立に入れていなかったが、多くの客が昼だけでも食べたいと言っているので、昼だけ蕎麦をお品書きに入れた。
準備ができた四ツ刻(十一時)、
「銀之助さん、いるかい」
 橋本順之助が、裏口から入ってきた。
「橋本様、どうされたんですか。」
「おすみさんから、話を聞いて心配になって来たんだ。今日あたり、鳶たちが仕返しに来るかもしれん。今日は、うまいもん屋の用心棒だ」
「橋本様がいてくれたら、鬼に金棒ね、銀之助さん」
 おすみが、銀之助に向かっていった。
「橋本様、ありがとうございます」
 銀之助が、頭を下げた。
「はい、橋本様。召し上がれ」
 お玉が、花巻蕎麦を橋本の前に置いた。
「浅草海苔か、うまそうだな。いただくか」
「さあ、お店を開きますよ」といって、おすみは、すぐに暖簾を掛けに行った。
 お玉も店に入った。
 すぐに、弥助がいつものように、こんちわといっていつもの席に腰をかけた。
「いらっしゃい」
「お玉さん、今日の献立はなんですか」
「花巻蕎麦と茄子の揚げ出しですよ」
「美味しそうですね」
 お玉は、そんなやり取りもすぐに切り上げ、次々と入ってくる客の注文を取りに行った。
 客が引いた八ツ刻、おすみが暖簾をしまいに外へ出た。
「おい、銀之助はいるかい」
 この間の鳶職人三人と新手の三人が、鳶口を持って立っていた。
 おすみは、慌てて店の中に入って行った。
「銀之助さん、あいつらが来たわ」
「来たか。何人だ」
「六人です。皆、鳶口を持っています。六尺ぐらいの大男もいます」
「事を荒げたくないので、何とか、話で済ませないと」
 銀之助は、橋本に丸棒を取ってくるといって、二階に上がった。
 橋本は、長刀を差した。
 銀之助が戻ってきた。
「銀之助、臆病風に吹かれたか」
外で怒鳴っているのが、聞こえた。
「行くか」
 橋本が、銀之助を促した。
「橋本様、ここは私一人で行きます」
「助太刀させてもらうよ、心配するな」
銀之助に続いて、橋本も外へ出た。
「なんだ、今日はちび浪人の助っ人か」
六尺の大男がいうと、鳶たちは大声で笑った。大男が、橋本の胸ぐらを掴んだ瞬間、
「あっ」と仰向けにひっくりかえっていた。
「いてえ、おめえら、こいつらをやっちめえ」
 鳶たちは、鳶口を構えて、橋本と銀之助を取り囲んだ。
 銀之助が、背の丸棒を掴んだ。
「御用だ、御用だ」
 八丁堀の同心と手先たちが、いつの間にか走り出てきた。。
「皆、おとなしくしろ。鳶口を放せ」
「そこの浪人、刀を置け」
「銀之助さん、これはまいったな」
「橋本様、おとなしくしましょう」
 銀之助は、入口で心配そうに見ていたおすみの傍に丸棒投げた。
「おすみさん、心配しないで。夜、よろしく頼みます」
 銀之助と橋本そして、鳶たちは、縄を掛けら八丁堀に連れていかれた。
七ツ刻(午後四時)、おすみは、銀之助のいないうまいもん屋の暖簾を掛けた。
 弥助が入ってきた。お玉は、いつもの席に案内した。
「お玉さん、どうした」
 弥助は、元気のないお玉に声を掛けた。
 お玉は、銀之助と橋本が、昨日の鳶たちともめていたことで、奉行所に連れて行かれたことを話した。
 弥助は、言葉を失った。
「こんばんわ」
雪が、高障子戸を開けた。
「いらっしゃい。雪さん・・」
おすみは、驚いた。どうぞといった声にいつもの張りはなかったが、すぐに雪たちを入り口近くの席に案内した。
「おすみさん、元気がないみたいですね、どうかしたのですか」
 雪が、心配そうな声でいった。
 おすみは、銀之助たちが八丁堀に連れて行かれた話をした。
「皆様に、ご迷惑をおかけしてしまって」
 梅が申し訳なさそうにいった。
「雪、豊島町の元締めに一肌脱いでもらおう」
 といって、梅は、雪を追い立てるように店を出て行った。
 お玉が、きょとんとした顔で、二人を見送った。
(豊島町からだとちょっと時間がかかるわ)おすみは、今日は無理かもしれないと思った時、客が来た。
「お玉さん、ご案内して」
 我に返ったおすみは、茫然としているお玉に声を掛けた。
 それからというもの、二人は目が回るほど働いた。
 やっと客が帰り、暖簾をはずして、片付けをしていると、高障子戸の向こうから声がした。
「お雪さん?」
 おすみが、小走りに入り口に行き、心張り棒をはずした。
雪と梅と年増の女が立っていた。
「雪さん、どうしたの」
「おすみさん、私たちの師匠を連れてきました」
「松野とよ、と申します。うちの雪と梅が大変お世話になって、そのために御主人とお侍さんが八丁堀に捕まった事とのこと、申し訳ありません」
 松野は、銀之助と橋本順之助の名前をおすみから聞き、雪たちを残し、八丁堀に向かった。
南町奉行所では、半刻ほど銀之助と橋本が同心から詰問され、そして、二人は牢に入れられた。
「銀之助さん、参ったな。いつ出れるかな」
「橋本様、覚悟を決めてゆっくりしましょう。彼らが悪いとわかれば、すぐに出れますよ」
 その頃、とよは、八丁堀に着いて、門番に声をかけていた。
「とよさん、今日は何の御用ですかい」
 仕事柄、とよは、八丁堀でも顔が知られていた。
「与力の石原伸之介様に会いたい」といって、紙につつんだものを手渡した。
門番はそれを懐に入れて、ここで待っているように告げて、屋敷に向かった。
とよは、残った門番にも紙包みを渡した。
 しばらくして、先ほどの門番が戻ってきて、とよを奉行所の中の面談所に案内した。
「とよ、如何した」
 とよは、銀之助たちの諍いについて、詳しく話をした。
「そうか、それでは喧嘩両成敗にはならんな。分かった。おーい、だれか」
 石原は、近習の者を呼んで、担当の同心を次の間に呼んでくるように伝えた。
「とよ、すぐに銀之助たちを釈放するから帰れ」
 とよは、持ってきた菓子折りを石原の前に差し出した。
「おい、起きろ。二人とも出ろ」
 同心の松木仁衛門が怒鳴った。
牢番が、鍵を開けた。
銀之助たちが、奉行所を出たのは、明け六ツ刻であった。
うまいもん屋に戻った時には、東の方には、陽が昇っていた。
裏口の戸を開けて、勝手場に入ると、おすみがいた。
「おすみさん」
 おすみは、驚いた。
「おすみさん、店にずっといたんですか」
「うまいもん屋を贔屓にしてくれる人たちのために、お店を開かないといけませんから」
 おすみは、茄子を切りながら言った。
「今日の献立は」
「茄子の鴫焼きと稲荷です」
「おはようございます」
 お玉が勝手場に来た。
「銀之助さん、いつ戻って来たんですか。よかった」
「おすみさん、お玉さん、ありがとう」
 銀之助は、嬉しかった。
 おすみが言った。
「昨日の雪と梅が、豊島町から松野とよさんという方を連れてきたんです。  そして、とよさんは、すぐに八丁堀に行ったんですよ」
「そうですか。今度お礼に行かなければなりませんね」
「お礼はいりませんと、言ってました。先日のお礼だと」
 銀之助も稲荷を作り始めた。
 四ツ半、浅草寺の鐘が流れた。
「さあ、銀之助さん、開きますよ」
 おすみが、暖簾を掛けに外へ出た。
「御免なすって、銀之助さんはいますか」
 と組の法被を着た老年の男が、渋い声でいった。
「どちら様ですか」
「と組の頭取の伝次郎といいます」
中に入って下さいとおすみは、伝次郎にいい樽に座らせてから、銀之助を呼びに行った。
すぐに、銀之助は、おすみに連れられ、伝次郎の席に来た。
「何か御用で」
「あっしは、この界隈の火消と組の頭、伝次郎と申します。お見知りおきを」
 男は、頭を下げた。
「先日は、うちの者が、皆さんにご迷惑をおかけしたようで、申し訳ねえ。この通りだ許しておくんなせえ」
 伝次郎は、深々と頭を下げた。
 改めて、詫びの席を設けるといって、話もせずに伝次郎は帰って行った。
 三日後、銀之助と橋本たち長屋の連中が、大川端にある料理屋に呼ばれた。
 料理屋の入り口には、伝次郎を先頭として、と組の半纏を着た連中が、銀之助たちを迎えた。
二階にはすでに、とよたちが上座に座っていた。
「おとよさん、先日はありがとうございました」銀之助は、とよに頭を下げた。
 皆が席に着いたのを見て、伝次郎が銀之助たちの前にすり出た。
「この度は、うちの連中が皆様に大変ご迷惑おかけして、申し訳ございませんでした。」
 一斉に、二十人ほどの火消の連中が、一斉に頭を下げた。
「大したおもてなしはできませんが、今日はごゆっくりしていっておくんなさいまし」
芝海老豆腐、鰺のきずし、茄子の鴫焼き、香の物と次々と運ばれてきて、銀之助たちは食べるのに勤しんだ。
しばらくすると、火消の連中が、とよたちや、銀之助たちの前に来て酌をし始めた。
座は入り乱れ、ざわめき盛り上がった。
半時ほど過ぎた時、伝次郎が木遣りを唄うといった。
おすみたちは、拍手をして始まるのを待った。

伝次郎が、どすの利いたかすれ声で、唄った。
♪えーえーえー。えーいーえー。ぎんーのー。かんざーしー。♪
続いて、火消の連中たちが、声を合わせて、
♪えーえー。はーれーわーな。やーっさい。やっさーやっせー。♪
唄い終わった伝次郎が、とよに歌を頼んだ。
 とよは、雪と梅に唄わせてもらいなさいといった。
雪が「縁かいな、をやらせてもらいます」といって、三味線を弾き始め、梅が唄い始めた。
♪夏の涼みは両国の 出船入り船屋形船  上がる流星星下り 玉屋が取り持つ縁かいな
秋の眺めは石山で 出船入り船屋形船  上がる石場の艶姿 月が取り持つ縁かいな~♪  
 伝次郎が、今度は銀之助たちに歌をせがんだ。
「よし、拙者が、かっぽれを唄おう。おすみさん、三味を頼む。
♪かっぽれかっぽれ(ヨーイートナ ヨイヨイ)沖の暗いのに白帆が見ゆる(ヨイトコリャサ)
あれは紀の国(ヤレコノコレワイノサヨイトコリャサ)みかん舟じゃェ(サテみかん舟)みかん舟じゃ
さー見ゆる(ヨイトコリャサ)あれは紀の国ヤレコノコレワイノサ(ヨイトサツサツサ)
みかん舟じゃェ~♪
 一刻ほど過ぎた頃、岡引きの常吉が、同心の松木仁衛門を伴って部屋に入ってきた。
「松木様、これはわざわざお越しいただき、ありがとうございます」
伝次郎が席を立って、二人を迎えた。
とよ達は、二人のために席を譲った。
「悪いのう」と言って、松木が盃を持った。
とよが酌をした。
「とよさん、銀之助や橋本順之助とやらは、良く存じておるのかな。二人とも腕が立つそうだ」
「松木様、銀之助さんがやってるうまいもん屋の料理の味が、評判だとのうわさは聞いておりましたが、今回の雪と梅の件でお二人を知った次第でございます」
「そうか」
「何か」
「いや、なんでもない」
 松木は、盃を空けて、とよに渡した。
おすみは、二人の会話を聞きながら、常吉の盃に酌をしていた。
「おすみさんは、相変わらず綺麗だね」
「親分さんは、冗談がお上手なこと」
 松木の前に、銀之助が酌に行った。
「松木様、この度はお世話になりました」
「とよさんに、よく礼をいっておくがいいぞ」
 銀之助は、多少言葉を交わしてから交わして、常吉の前に移った。
「親分、今後ともよろしくお願いします」
「時々、よって飯を食わして貰うぜ。おめえも一杯やんねえか」
 常吉は、銀之助に酌をした。
 橋本は、長屋の女たちから酌を何回も受け、顔が真っ赤に染まっていた。
中締めを終えた頃合を見計らって、松木、常吉そして、伝次郎たちに別れを告げ、銀之助やとよ達は料理屋を出た。
 川面を伝わって、さわやかな風がほろ酔い気分の銀之助たちを、流れるように通り過ぎた。
 大川橋で、銀之助たちは足を止め、川面に映っている夕陽の上を、とよた達を乗せた屋根船が滑るように上って行くのを見送った。
「もうすぐ、ほおずき市ですね」
 おすみが、銀之助にいった。
「四万六千日のご縁日ですか。時が経つのは早いものです」 
西の空には、夕陽に吸い込まれるように、数羽の雁が飛んで行った。
ほおずき市も終わり、八月を迎えると銀之助、おすみ、勇治夫婦、源一夫婦、銀太そして、お玉の七人が大山詣りに江戸を発った。
赤沢が店番だけでなく、お玉の息子安吉の面倒を見ることも快く受けてくれたので、銀之助たちは安心して大山街道をにぎやかに歩いた。
長津田宿で一泊して、翌日、御師の坊に入った。
御師が出迎えた。
「皆さん、お詣りご苦労様です。一休みしたら、近くの滝で心身を清めてください。それがすんだら、お祓いを受けてから夕餉にします。明日は早いです。八ツ(朝二時)にここを発って阿夫利神社本社にお詣りし、御来光を拝みます。明日は天気が良さそうなのできれいに見えるでしょう」
夕食の豆腐料理に皆、舌鼓を打った。
「やはり、水がおいしいから豆腐がうまいはずだ」
 まだ暗かった。
 銀之助たちは、御師が準備してくれた行衣を着て外に出た。
 ここからの星は、浅草からよりも、一段と輝きが勝っているように銀之助には見えた。
 暗闇の中、御師に続いて銀之助たちは、道端の行燈をたよりにこま参道を登った。
 御師が立ち止まり振り返って、銀之助たちに向かって言った。
「皆さんは初めてのようですから、これから女坂を通って、大山寺経由で阿夫利神社へ行きます」
「なんで男の俺が女坂で行かなきゃならねえのか」と、鳶の源一が不平を漏らした。
「男坂はかなりきつい坂ですし、この坂では大山寺を通りませんが、それでも男坂で行きたい方は、右手の道を登って行ってください」
「分かりました。仕方がないけど女坂で行きますよ」
 銀之助たちは笑った。
 おつたは恥ずかしがっていた。
 大山寺に着き、御師が話始めた。
「大山は、別名あめふり山とも呼ばれ広く親しまれてきました。このあめふりの名は、常に雲や霧が山上に生じ、雨を降らすことから起こったと云われ、古来より雨乞い信仰の中心地としても広く親しまれて参りました。この寺は、奈良の東大寺を開いた良弁僧正が天平勝宝七年(七五五)に開山したと言われています。行基菩薩の高弟である光増和尚は開山良弁僧正を継いで、大山寺二世となり、大山全域を開き、山の中腹に諸堂を建立し、その後、第三世として弘法大師が当山に入り、数々の霊所が開かれました。大師が錫杖を立てると泉が湧いて井戸となり、また自らの爪で一夜にして岩塊に地蔵尊を謹刻して鎮魂となすなど、大山七不思議と称される霊地信仰を確立されました。また、御本尊の不動明王は、参拝する人々に、わけ隔てなく現世の悩み、苦難を助けてくださる仏様ですので、本堂にて一心に願い事を祈ってください。では、ご住職に皆様の安全の祈願をしてもらいますので、本堂にあがってください」
 お経が終わって、銀之助たちは阿夫利神社下社に行った。
 御師が神社の説明を始めた。
「神社は、今から二千二百余年以前の人皇第十代崇神天皇の御代に創建されたと伝えられています。奈良時代以降は神仏習合の霊山として栄え、延喜式にも記される国幣の社となりました。そして、武家の政権始まった後も源頼朝公を始め、徳川家等の代々の将軍は当社を信仰し、そして武運長久を祈りました。これからお祓いを受けます。それが終わったら、拝殿近くに神水が湧き出ていますので、ぜひ飲んでください。これを飲むと殖産および延命長寿にご利益があると言われています」
 お祓いがすむと真っ先に源一が神水を飲みに行った。
「おいしい」柄杓一杯を飲んで源一は、神水を竹筒に注いだ。
 おみねは「ご利益がたくさんあるように」と言って、がぶがぶと飲んだ。
 最後になった銀之助は多少口に含んで、御師の所に戻ろうとすると、
「銀之助さん、もっと飲まなければ長生きできないよ」と、おみねが言ったので、おすみたちが笑った。
「では、これから本社に行きます」と言って、御師は本社へと案内した。
 階段の途中、おみねが前を歩いているおすみに訴えた。
「おすみさん、横腹が痛いよ」
「おみねさん、無理しないでゆっくり登ってください」と言って、おすみはおみねに手を貸した。
 本社に着いた時、ちょうど東の空から陽が昇り始めた。
 静けさの中に拍手が起こった。
 そして、皆手を合わせた。
 長くおすみが手を合わせていたので、銀之助が近づき声を落として聞いた。
「おすみさん、何を祈っているのですか」
「たくさんです」
「そろそろ下山します」と、御師の声がした。
 銀之助たちは、こま参道の土産物店に入った。
「お玉さん、安坊にこのこまをお土産に買ってたらどう」と、おすみがお玉に向かって言った。
「そうね、買っていこう」
 銀之助はおおやま菜漬をたくさん買った。 
「銀之助さん、そんなたくさん買ってどうするの」おすみがそばに来ていった。
「お客さんに、出そうかと思ってね」
 長屋の連中もたくさんの土産を買っていた。
 銀之助たちは、御師の坊で昼食の弁当を食べて、下鶴間宿と溝口二子宿で宿を取って、江戸に戻った。
昼近く、うまいもん屋の障子戸を銀之助が開けて、楽しかったと皆が笑いながら店の中に入った。
 突然、中にいた赤沢が真青な顔で、お玉を見つけて、近づき言った。
「安吉が昨日から帰っていないんだ」
「なんですって」
「赤沢さん、落ち着いて話してくれませんか」
 銀之助の声も上ずっていた。
「分かった。昨日、昼飯を食べた安吉が浅草寺に遊びに行くといったんで、近場だから別に心配することもないので、気を付けて行って来いと。しかし、夜になっても帰ってこないもんだから、浅草寺界隈を探しまわったが見つからなかった。心配で仕方ないから八丁堀に行って、松木さんに頼んで常吉親分に探すのを手伝ってもらっているんだが、まだ見つからない。本当にすまない」
「人さらいにでもあったのかしら」と、おすみが泣きそうな顔で言った。
「そんなばかな」お玉が驚愕に震えた。
「お玉さん、安坊が行きそうなところどこか思い当たりませんか」と、落ち着いてきた銀之助がやさしく言った。
 しばらく、お玉は思案していた。
「お玉さん、どこでもいいから早く言ってよ」と、おつたが言った。
「俺たちも探すから早く言ってくれ」と、勇治がせかした。
「浅草寺界隈を私と勇治さん、源一さん、銀太さんで、後は長屋周辺をおすみさん、おつたさん、おみねさんで探しましょう。店には赤沢さんとお玉さんが残ってください」と、銀之助が皆に向かって言った。
「皆さん、よろしくお願いいたします」と言って、お玉は頭を下げ続けた。
 一刻ほど過ぎて、おすみたちが安吉を連れて店に戻ってきた。
 お玉が、それに気づいた。
「安吉、どこにいたの」お玉が安吉を抱きしめながら言った。
 赤沢もほっとした顔で安吉に言った。
「おまえ、なぜ長屋なんかにいたんだ」
「安坊は浅草寺あたりで遊んでいたんだけど、そこですりが役人に捕まったのを見て、長屋に泥棒が入らないか心配になり、それで、長屋に行って皆が大山から帰ってくるまで番をしていたんですって」と、おすみが安吉の代わりに答えた。
「おまえ、一体いくつになったんだ」
「八歳」
 赤沢が、感心した時、銀之助たちが帰ってきた。
「銀之助さん、長屋で見つかったよ」と、赤沢が真っ先に言った。
 そして、おすみが話を続けた。
 終わると、銀之助は勝手場に行き、酒とおおやま菜漬を皿に盛って運んできた。
「大山詣りの話を聞かせてくれないか」と、赤沢が盃を手にもって言った。
 それから、店の中は笑い声が絶えなかった。
                                  つづく
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四文屋繫盛記 四

2024-11-14 10:33:54 | 小説
第四話 三文役者(春)
浅草寺の桜の蕾がほころんでいた。
うまいもん屋にも花見の客が、訪れるようになった三月の末の暮れ七ツ刻、いつものように、おすみは、外に暖簾をかけた。
 しばらくすると、店の中は客たちの話し声や笑い声で賑やかになった。
 おすみとお玉が、客の注文を聞きにいったり、酒や肴を運んだりして、忙しく動き回った。
 お玉は、五日前、徳衛門長屋の以前おさとが住んでいた家に、安吉という六歳の息子を連れて引っ越してきた。
 その日、おすみは、お玉が挨拶に来たときに、何か仕事がないかと相談を受けたので、おすみは、翌日、銀之助に相談したところ、うまいもん屋でどうかということになって、お玉はここで働くようになったのだ。
 お玉が昼働いている間、長屋の女たちが息子の安吉の面倒を見ていた。
 六ツ刻の鐘の音が聞こえてからしばらくして、役者とわかる派手な姿の男三人が、店に入ってきた。
「いらっしゃい」
 お玉は、明るい声で男たちを空いている席に案内し、注文を聞いた。
勝手場に戻って、お玉は、銀之助に注文の田楽豆腐六本、つい最近お品書きに入れたまぐろきじ焼きそして、利休飯を三人前と伝えてから、徳利で温めた酒を徳利に移した。
「銀之助さん、あのお客さんたち、奥山の芝居小屋にでている歌舞伎役者ですって」
「ほう、見慣れない客だから、最近来た人たちでしょうね」
この時代は、四代目鶴屋南北が多くの作品を創作し、江戸三座を中心に江戸歌舞伎が全盛期であった。
歌舞伎役者は‘河原者‘と区分され身分上差別されていたが、反面各地への通行に便宜を与えられていた。
お玉は、役者たちのところへ、酒と田楽豆腐を運んで行った。
「すぐに、まぐろきじ焼きを持ってきます」
「そんなに、急がなくていいですよ」
 細面で目が切れ長のとした男が、低く響きを持った声でいった。
 その男は三人の中で一番若く、そして、男前にお玉の目に映った。
「利休飯は、まだいいですか」
「まだいいですよ」
 一番年上と思われる男は、いった。
「娘さんは、ここでは長いのですか」
 女形にはうってつけな顔立ちの男が、盃を置いていった。
 娘といわれ、お玉は、顔を赤らめながらつい最近と答えた。
「今、‘りきゅうめし’をやってますので、ぜひ見に来てください。良い席にご案内しますよ」と、一番年上の男がいってから、自分は大阪からやって来た市村座の八之助と名乗って、女形を市之丞、そして若いのを梅の助と紹介した。
 紹介された梅の助が、田楽豆腐を飲み込んで行った。
「名前を教えてください。下足番に伝えておきますから」
「玉、といいます」
「お玉さん、江戸っ子ではないでしょう。越後ですかい」
 お玉は当たっていたので、驚いた。
 男たちは、大阪から来た旅芸人で、全国旅をしているので、しゃべり方でどこの生まれか、大体分かるといった。
 そんなやり取りをお玉が、梅の助としていていると、市之丞が盃をお玉に渡して酒を飲まそうとした。
二度断ったが、お玉も嫌いな方ではないので、一杯だけといって飲んだ。
勝手場に戻ると、それを見ていたおすみがお玉に注意した。
「お玉さん、お客さんから盃を受けたらきりがないから、受けてはいけないといったじゃないの。また、混んでいる時は、お話は手短にして下さいね」
「あの方たちが、何度も勧めるので断れなくって。すみません」
 お玉は、おすみと銀之助に向かって頭を下げた。
 銀之助は、竈にかけた鍋を見ていた。
「お玉さん、まぐろきじ焼き出来上がりです」
「はい」
 お玉は、役者たちのところに持って行った。
 おすみは、他の客に酒を運んで行った。
 戻って来たお玉が、銀之助にいった。
「利休飯三つお願いします」
「はいよ」
 銀之助は手際よく利休飯を作り終え、お玉に持って行かせた。
 おすみは、帰った客の使った徳利や茶碗を持ってきて流しで洗っていた時、銀之助が声をかけた。
「おすみさん、両国の尾上町の回向院前の華屋の‘与兵衛寿司’にいったことありますか」
「話には聞いたことがあるくらいで」
「じゃあ明日行ってみませんか」
「いいですね、華屋与兵衛さんという方が考えた鮨、どんなものか食べてみたいです」
「決まった、明日の午後、店を休みにして与兵衛寿司に行きましょう」

翌日、店を閉めた銀之助とおすみは、浅草橋から屋根船に乗った。
大川の堤は、連なる桜花が屏風に描かれたように青い空と川に映えていた。
その中を船は、すがすがしい風を受けて、大川をゆっくりと下って行った。
「おすみさん、長屋の皆さんを誘って、皆で花見をしませんか」
銀之助は、声をかけた。
「いいですね。長屋の人に声をかけてみます」
「では明後日あたり、昼店を閉めてから大川の堤でどうですか。酒と肴はうまいもん屋が用意しましょう」
「おつたさんとおみねさんに手伝いに来てもらいますね」
二人は両国橋で降りて、しばらく大通りを歩き右角を曲がって裏門から回向院に入った。  
そして、万人塚に向かい手を合わせた。
 華屋は、回向院の表門の斜め前にあった。
入口は二間で、紺地に白抜きで‘寿し’と書かれた大きな暖簾が掛かっており、腰高障子戸が開け放たれていた。
 右側の屋根の下には、‘華屋’と書かれた行燈が据え置かれていた。
寿しの包みを持った町人風の男が出てきた後に、二人は、店に入った。
 もう八ツ半刻になるのに、一尺半ほどの上り座敷には、客でほとんど埋め尽くされていた。
 二人は、奥の片隅の席に案内された。
銀之助は華屋で一番、二番の人気の小鰭(コハダ)・鯵(アジ)を二人前注文した。
 すぐに先ほどの女中が、寿しを桶に載せて運んできた。 
「はやいな」
「早ずし、といわれているようです。大きいですね、握りこぶしくらいあるかしら」
「魚は、酢でよくしめてます」
「お待たせしました」
 女が、浅利汁と生姜を盛った小皿を二人の前に置いた。
「この生姜は何のためにつけているんですか」
銀之助が、女に聞いた。
「薄切りの生姜を甘酢に漬けたものです。 生姜は、ばい菌の繁殖を抑える効果があるんですよ」
 銀之助は、浅利汁を口に含んでいった。
「これは、仙台味噌ですね」
 仙台味噌は、濃厚な旨みと、深い香りを持つ赤褐色の辛口味噌として、江戸では人気があった。
 二人は、しっかりと味を舌に覚え込ませるように、半刻ほどかけて注文したものを食した。
 銀之助は、一分を支払っておすみと店を出た。
「美味しかったけれど、いくらなんでも、一貫、二百五十文とは高いですね」
おすみは、銀之助にいった。
「大工さんの日当が、三百五十文ぐらいですから、みなさん、いつもというわけにはいきませんね」
 二人は、歩いて帰ることにした。
 半刻ほど歩いて、浅草橋を渡った時、
「銀之助さん。あの人、お玉さんじゃない?」
 おすみの顔の方向を銀之助は見た。
「男は、先日店に来た役者の一人じゃないか」
 二人が、近くの小料理屋に入って行ったのを見て、
「お玉さん、なにしてんのかな」とおすみは不審そうに思いながらも、銀之助の後に続いて長屋に向かった。
 銀之助がうまいもん屋に戻ったのは、七ツ半刻頃であった。
 勝手場で一人明日の準備をし終わった後、酒を飲み始めた。
(華屋の寿しは美味かったが、高すぎるな。酢飯に酢でしめた魚とわさびを乗せるだけだ。もっと安くして、うちでもだしてみよう。明日、勇治さんから鰺を買って試して作ってみるか。そうだ、花見の時作って持って行こう)
(しかし、お玉さん、息子をほっぽらかして、一体どういうつもりなんだろう)

 銀之助が目覚めた。
「さかな~、さかな、生きのいいさかな~、さかなはいらんかねえ・・」
勝手場で銀之助は、寝てしまったのだ。
(勇吉さんだ。鰺を買わなければ)
 飛び起きて、勝手場の戸をあけた。
 勇吉は銀之助を待っていた。
「勇吉さん、鰺はあるかい」
「はい、ありますが、珍しいですね。一体どうしたんですか」
「華屋さんというお店を知ってますか」
銀之助は、昨日おすみと行った華屋について一部始終話した。
「それで鰺なんですね。承知いたしました。この桶の魚を全部捌きましょう」
 勇治は勝手場に入って、鰺を三枚におろした。
 半刻ほどかかってすべて終わり、鰺を酢でしめはじめた。
銀之助は、竈で飯を炊いた。
 おすみ、おつた、おみねそして、お玉の四人が荷を抱えて「おはようございます」と言って、勝手場に入ってきた。
「あら、勇治さんじゃないの」と、おすみが驚いて言った。
「あんた、何やってんの」と、おみねも仰天した。
 銀之助は、皆に今まで勇治が寿しを作るのを手伝ってくれたことを説明した。
「もう、銀之助さん、寿し作ってんですか」と、おすみはさらに驚いた。
「みなさん、今日は、花見ですから、花見の弁当を作る組と昼の献立を作る組と手分けしましょう」と、銀之助は笑顔でいった。
銀之助とおつたそして、お玉が昼の客の献立を、おすみ、おみねそしておつたが弁当を作ることになった
 勝手場は賑わって来た。
 銀之助は、重箱を五つ出してきて丁寧に洗い、おすみによろしくと言った。
 おすみは、それぞれの料理手順をおみねとおつたに丁寧に教えた。
一刻半(三時間)ほど過ぎると、客に出す献立と花見の弁当が出来上がった。
最後に、銀之助が鯵寿しを作り終え、重箱に詰めた。
「美味しそう」と、お玉が言った。
 おすみが説明し始めた。
「一の重は、かすてら玉子 鮎色付焼 竹の子旨煮 早わらび ひじき かまぼこ、二の重は、桜鯛 干大根、三の重は、鰺寿し、そして、四の重は小倉野きんとん 甘露梅、椿餅 薄皮餅です」
「おすみさん、すごいな」と、銀之助は目を丸くした。
「この献立は、花見の時の八百善の定番です。思ったより綺麗にできあがったわ」と、おすみが嬉しそうにいった。
昼の客が帰ってから、すぐに、片付けを終えて、銀之助たちは大川端に出かけた。
大川端の桜並木の下では多くの花見客が宴をはっていた。
橋本順之助、おつたの夫の源一、そして簪職人の銀太たちは、浅草橋から三町ほど下った場所の桜の木の下で、すでに酒盛りをしていた。
「皆さん、遅くなりました」
 銀之助たちは敷茣蓙に座り、持ってきた酒を置き、そして風呂敷を解いで重箱を広げた。
「おう、これは御馳走だ」と、源一が、目をまん丸くして言った。
「こんな綺麗な料理、初めてだ」と、顔がすでに赤くなっていた橋本が重箱をのぞき込んで言った。
「皆で、買ってきたものもありますが、大体は皆で作ったんですよ」と、おすみが言ってから料理の説明をした。
 皆、感心しながら聞いていた。
 説明が終わると、銀之助が立ち上がった。
「皆さん、いつもうまいもん屋を御贔屓いただきありがとうございます。今日は、遠慮なく飲んで、食べてください」と言って、銀之助は橋本たちに酌をしてまわった。
 しばらくの間、皆、飲み食いに夢中で静かに時は過ぎた。
 お玉のそばに座った安吉も、我を忘れて食べ続けていた。
「こんなうめえものを食ったのは、初めてだ」と、満足げな源一は盃を飲み干し、煙管に火をつけ一服して言った。
「鰺のむすびみたいのは初めてですが、これはなんていうんですかい」と、銀太は、銀之助に酌をしながら尋ねた。
「これは、早寿しというんです。あっしも初めて作ったんですが、味はどうですか」
「銀之助さん、これは美味い。安かったら皆食べに来るぞ」と、橋本は、‘華屋’の寿しが繁盛していることや値段が高いことを付け加えた。
 男連中は、酒が回ってきたせいもあってか、口数が増えてきた。
「おすみさん、一曲頼みますよ」と、真っ赤になった勇治が、おすみに向かって言った。
「そうだ、おすみさんのいい声も聞かせてくれ」と、橋本も手を叩いて言った。
 おすみは、後ろに置いてあった三味線を手に取り、「では、‘桜尽し’を」と、言ってから歌い始めた。
♪雲井に咲ける山桜~霞の間よりほのかにも、見初めし色の初桜、絶えぬながめは九重の、 
都帰りの花はあれども、馴れし東の江戸桜~
名に奥州の花には誰も、憂き身を焦がす塩釜桜・・・・・・・・・・・・・・・・♪
「おすみさん、相変わらずうまい!」
「日本一」
 皆、声を発しながら手をたたいた。
 お玉だけが、気乗りせずに、ただお付き合いで手を叩いているのにおすみは気づいた。
(お玉さんは、かなり重症だな)
 銀之助も気づいて、お玉の前に席を移した。
「お玉さん、元気がないね。どうかしたんですかい」
 声をかけられたお玉はびっくりして、銀之助の顔を見た。
話は、奥山の芝居に移っていった。
「市村座が興行している‘隅田川花御所染’は、大根役者ばかりだっていう噂だぜ」と源一が、煙管を口から外していった。
「‘隅田川花御所染’って、どんな内容なんですか」
 銀太が、聞いた。
 橋本が、物知り顔で答えた。
「 ‘隅田川花御所染’は、四世鶴屋南北の作だ。清玄法師を女にしたのが特徴で、あらすじは、こうだ。場所は、京。吉田家という家の長男の松若丸が、天下取りの野望を抱き、手始めに大友常陸之助を殺し、自らが常陸之助になりすますことから話が始まる。
 許嫁の入間家の息女、花子姫は松若丸が死んだと思い込み、新清水寺で出家を決意するんだな。そして,清玄尼と名乗る。 そこへ松若丸が扮した常陸之助が現れるんだ。
常陸之助は桜姫の許嫁なのだが、松若丸の姿とうりふたつなので、清玄部尼は色欲に迷い、常陸之助を追って寺を出奔する。その後、病みやつれた清玄尼が養生する鏡ヶ池の妙亀庵に桜姫がやってきて、嫉妬に駆られた清玄尼は妹を殺そうとするのだ。そこへ無頼漢の猿島惣太が現れ、桜姫を助けて逃がすと、かねてから懸想をしていた清玄尼にいい寄るんだが、清玄尼が拒絶するので、惣太は悔し紛れに清玄尼を嬲り殺しにするのだ。 結末は、清玄尼の亡霊が松若丸の姿で現れ、松若丸と桜姫の道行に絡む舞踊で、怨霊の正体を現すと、押戻に撃退されて終わりとなるんだ」
「複雑で、怖い話なんですね」と、銀之助が言った。
「歌舞伎十八番の一つで歌舞伎の華といわれる荒事の押戻、小手、脛当、腹巻、大褞袍を着、三本の大太刀を差し、竹笠と青竹を持って花道から出て、荒れ狂う怨霊や妖怪を舞台へ押し戻すんだが、その役が市村座の役者では迫力がないんだな」と、橋本が渋い顔で言った。
「そういえば、この間、その役者さんたち、お店に来たわね。お玉さん」
「ええ、・・・・・・」
 お玉は、歯切れの悪い返事をした。
 銀之助は、心配そうにお玉の方をそっと覗き見た。
一刻半ほど過ぎ、陽が陰り、川風は冷たさを増して、銀之助たちを取り巻き始めたところで、皆名残惜しそうな顔をしながらも片づけを終えて、宴はお開きになった。

数日後、お玉は、四ツ刻(十時)になっても、来なかった。
「お玉さん、どうしたのかしら」
 銀之助とおすみ二人で、昼の支度を終えて、店を開いた。
「おすみさん、店を閉めたら、長屋に戻ってお玉さんの様子を見てきてくれませんか」
 その日は、客が少なかったので、銀之助は、昼過ぎ店じまいの前に、おすみを長屋に行かせた。
八ツ半刻(十五時)頃、おすみが店に戻ってきた。
「銀之助さん、お玉さん、いつもの通り、安吉ちゃんをおつたさんに預けて出かけたそうよ。てっきりうまいもん屋に働きに行ったと思っていたようよ」
「どこに行ったか、分からないんですか」
 銀之助は困った顔をした。
七ツ刻の鐘が鳴った。
「銀之助さん、今日の献立は、なんにしましょうか」
「昨日花見で作った鰺寿しとこんにゃくみぞれ汁にしました」
「鰺寿し、美味しかったですね。大きさも華屋さんより半分ぐらいで食べやすかったし、うまいもん屋の看板になりますよ。こんにゃくみぞれ汁は、こんにゃくとおろしだいこんに昆布だしで作ればいいですね」と言って、こんにゃくみぞれ汁を作った。
 銀之助が鯵寿しを作り終えるのを見て、おすみは、外に出て暖簾をかけた。
 しばらくして、奥山で芝居や見世物を見てきた帰り客が、店に入ってきた。
 その中に、白木屋の若旦那、庸介がいた。
「若旦那、いらっしゃい。今日は、鰺寿しがありますよ、いかがですか」
「おう。うまいもん屋さんも、いよいよ寿しを出すようになったのかい。じゃ、鰺寿しといつもの田楽豆腐、お酒を二合頼みますよ、おすみさん」
 客が席を埋め尽くして、笑いや怒りの声そして、煙草の煙が店内に充満した。
「お待たせしました。若旦那、鰺寿しです」
「うまそうじゃないか、華屋さんと違って小ぶりだね。そういえば、もう一人の方は」
「今日は、お休みなんです」
「市村座が興行している芝居小屋で、似ている女を見たんですよ。まさかと思ったんですが・・」
 新しい客が二人入って来たので、おすみは、ごゆっくりと庸介に言って、新しい客を席に案内した。
その客の注文を聞いたおすみは勝手場に戻って、銀之助に庸介のいったことを話した。
「お玉さん、一体何があったんでしょうね」
 銀之助は、寿しを握りながら心配そうにいった。
「こんばんは」
「国分屋の番頭さんが来られたわ」
 おすみは、入口に行き、弥助を空いている席に案内した。
 弥助はあの事件以来、仕事帰りに時々うまいもん屋に寄って夕餉を取った。
「今日は、鰺寿しとこんにゃくみぞれ汁ですけれど、いかがですか」
「それといつものをお願いします」
「番頭さん、お待たせしました。みぞれ汁は後で持ってきますから」
 おすみは樽の上に、酒と寿しそして、田楽豆腐を置いた。
「おすみさん、お玉さんはお休みですか」
 おすみは、用事のため、休みといった時、大工の源一が弟子二人を連れて、店に入ってきた。
 空いている席に腰をおろすなりに、注文を取りに来たおすみに言った。
「おすみさん、こいつらにうめえものを食わせてやってくれ。おいらは、田楽豆腐と酒だ。そういえば、この間市村座の連中がこの店に来ていたといってたな。あいつらはひどい奴らだそうで、娘や女たちを騙しては貢がし、挙句の果てにポイだそうだ。大根役者くせに悪党だと、おすみさんも気をつけなよ」
「はいはい、源一さん」
 おすみは、勝手場の銀之助に源一の注文を告げた。
「源一さん、かっこいいところ見せたいんだね。奮発してやりますか」
 銀之助は、寿しを十個握った。
 おすみは、田楽豆腐を作りながら、源一から聞いた市村座の話をした。
「そんなひどい奴らなんですか。ちょっと調べてみた方がいいですね。また、橋本様に相談してみましょう」
「私も、一緒させてください。心配なんです」

店を閉めてから、銀之助は、おすみと源一と一緒に、徳衛門長屋の橋本順之助の家を訪ねた。
一方、お玉は、まだ長屋には帰っておらず、奥山から北にある出会茶屋で市村座の八之助と会っていた。
「これどう。八さんに似合うかしら」
 お玉は、風呂敷から派手な着物を出した。
「お玉さん、こんな高いもの悪いね」
 お玉は、八之助の隣に座りなおして、酌をした。
「お玉さんも、一杯どう」
「一寸だけいただきます」
 八之助が、お玉の懐に手をすべりこませた。
「八さん、まだまだ」
「ゆっくり飲んでから・・・・」
 四半時、二人は戯れた。
「そろそろ、帰らないと」
 お玉が、肌蹴た着物を整えた。
「お玉さん、ちょっとお願いが・・・」
「なんですか」
「実は、今の芝居、赤字なんです。場所代が、払えなくなりそうなんです」
「払えなくなるとどうなるんですか」
「また、旅に出なければなりません。せっかくお玉さんにお会いできたばかりなのに」
「どのくらい必要なんですか」
「十両もあれば、そして、儲かる芝居をやればここにいられます。もう少しで受ける芝居が完成します。何とかお願いできませんか。お玉さんに毎日会いたいんです」
お玉は、十両と聞いて驚いた。
「お玉さん、いいんです。いまの話、なかったことにしてください」と、八之助は寂しそうに言った。

 お玉と八之助が分かれた頃、徳衛門長屋の橋本順之助の家では。
「おう、雁首揃えてどうしたんだ。まあ、中に入れ」と橋本は銀之助たちに言った。
 おすみは、流しに行っていつものように、竈に火をつけ、湯を沸かした。
「銀之助さんだけでなく、源一までもが、一体何があったんだ」
 銀之助が、最近のお玉の行動について、一通り話をした。
 源一が、お玉がぞっこんの市村座の八之助たちの悪い噂を憤って話し始めた。
 しばらくして、おすみが座敷に上がり、源一の近くに茶碗の乗った盆を置き、橋本のそばにあった徳利を取って、茶碗に酒を注いだ。
「さあ、召し上がれ。何とかお玉さん、助けてやってくださいね」
「おすみさん、いつも悪いな。みんな飲んでくれ。お玉さんが騙されているとはなあ、困ったものだ」
「調子に乗って、酒ばかり飲んで、いい方法を考えないと、おすみさんに怒られそうだ」
 と、顔が赤くなった源一が言って、頭を叩いた。
その時、入口の腰高障子戸が開いて、「こんばんわ」といって、源一の女房のおつたが入ってきた。
「みんな、酒の肴、持ってきたよ」
 香の物や、ねぎ味噌、焼き魚が盛りつけられた大皿を皆の真ん中に置いた。
「おう、これはちょうどよかった。おつたさん、申し訳ない」
 橋本が頭を下げた。
「後から、勇治さんたちも来るそうだから、すこし残しておいておくれ」
「これは、皆ここには座れんぞ」
 橋本が、立って酒を飲むしぐさをしたので、皆笑った。
「橋本様、そんなことしてないで、早くいい知恵出しておくんなさいよ」
 おすみは、ちょっと怒っていった。
「すまん」
「橋本様は、おすみさんに頭上がんないんだから」
 おすみは、顔が赤くなったようだったが、行灯から離れた所にいた銀之助は、気づかなかった。
「銀之助さん、何か良い考えはないか」
 銀之助は、盆に茶碗をおいて、
「そうですね、あいつらをお玉さんが知らないうちに、江戸から追い出すことが出来たらいいんですが」
「まだ、あいつらお縄になるほどでもなさそうだし、どうしたらよいもんかな」と、橋本。
「どうです、あいつらの噂をかわら版に書いてもらうなんてことは」と、源一が言った。
「書いてくれるだろうか」と、橋本が煙管を火鉢に叩いた。
「悪いのは三人ですね」
 おすみが口をはさんだ。
 源一が頷いた。
「市村座の役者は、十人ぐらいのようだ」
 橋本は、また煙管に火をつけた。
「どこかの島へ追放させるか」
「そうだ、勇治さんなら、漁師を知っているから来たら相談してみよう」
 銀之助がいった。
「それはいいかもしれん」と、ほっとした様子の橋本が言って、徳利を持って茶碗に酒を注いだ。
「こんばんわ。」
 皆、入口に目を向けた。勇治夫婦が、戸を開けて入ってきた。
「ちょうどいい時に来てくれた。二人とも、早くこっちに座ってくれ」
 おみねは、持ってきた皿に乗せた鮎の塩焼きを皆の前に置いた。
 橋本が、自分の茶碗を飲み干して、勇治に渡して言った。
「まあ、一杯飲め」
 橋本が、勇治の茶碗に酒を注いだ。
 おすみが、おみねの前に湯を置いた
銀之助が、今までの話をかいつまんで勇治に話し始めた。
 勇治は、黙って話を聞き付け、銀之助の話が終わるのを待ってから言った。
「なんとか、やってみましょう」
 一刻ほど談合して、皆、家に戻って行った。

朝から、今にも雨の降りそうな空模様であった。
銀之助は、勝手場で昼の段取りをしていた。
「おはようございます。」
 と、おすみが店に入ってきた。
「銀之助さん、今日の献立はなんにしましょうか」
「勇治さんから鮎を買ってますので、鮎の塩焼きと豆腐汁でどうでしょうか」
「はい、分かりました」
 おすみは、流し台に行って、米をとぎ始めた。
銀之助は、鮎に塩をまぶした。
おすみが、米を入れた釜を竈にかけた時、お玉がおはようございます、といって勝手場に入ってきた。
「昨日は、休んですみませんでした」
「どうしたんですか」
「いや一寸、身体の具合が悪かったものですから」
 いつもの通り、昼の閉店まで三人は働きつめた。
 そして、おすみが暖簾を店の中に入れ、皆、片付けに入った。
片付けを終え、銀之助は、二階に上がり売り上げを勘定していた時、
「玉ですが、銀之助さん、折り入ってお話があるのですが」
 障子戸の向こうからお玉の声がした。
(来たか)
「どうぞ、入って下さい」
 お玉は、障子戸を開けて座った。
「なんでしょうか」
「実はちょっと、お金が必要になったもので・・・・。お給金の前借をしたいのです」
「いくら必要なんですか」
「十両ほどです」
 銀之助は、しばらくの間、腕を組んで考え込んで、
「お玉さん、そう簡単に十両といわれても。一体何に使うんですか」
「申し訳ありません、今はいえません」
(これは早く、八之助を片付けなければ)
「十両は大金なんで、五日ほど待ってください」
 三人は夜の支度を終え、店を開いた。
 昼から降り出した雨が、激しくなっていた。
「銀之助さん、雨がひどくなってきたわね」
 おすみは、勝手場の窓から外を覗いて言った。
「もうお客さん、来ないかもしれませんね」
 銀之助は、もうしばらく店を開けておくと言ったが、六ツ刻になっても客が一人もいなので、銀之助はおすみとお玉に店じまいすることを伝えた。
 お玉を先に帰らせ、銀之助とおすみはこれから来る長屋の人たちの食べ物を作り始めた。
四半刻過ぎた頃、橋本順之助と大工の源一がやって来た。
「皆さん、ご苦労様です」
「銀之助さんが一番ご苦労されてますよ」
 源一が言った。
 しばらくすると、勇治が一人の老人を連れて、裏口から入ってきた。
 店の中に一角に集まっていた銀之助たちのところに行って、勇治が老人を紹介した。
「直助だ。話は勇治から聞いた。何とかやってみるで」
「直助さん、座って下さい」
 銀之助は、直助が座ると、皆を紹介し、計画の理由とその策の段取りを説明した。
 直助は、銀之助の話を聞きながら時々相槌を打っていた。
 呑みこみが早そうに見えた。
銀之助の話が終わると、おすみが酒を運んできた。
 また勝手場に戻って、鯉の味噌煮を四匹乗せた皿を樽の上に置いた。
「荒川で取れた鯉ですよ。勇治さんの差し入れです」

 おすみは、芝居がひける前に、八之助に付文を渡し、今、出会い茶屋で八之助を待った。
 女中にすでに運ばせておいた酒と肴の膳二人分が、置かれていた。
「おすみさん、お待たせ」
 八之助が、襖戸を開けて入ってきた。
「八之助さん、まずは一杯いかがですか」
 おすみは、八之助に盃を持たせて、酌をした。
 八之助は、勢いよく盃を空けて、おすみに渡そうとした。
「八之助さん、あたしお酒だめなんですよ」
 おすみは、八之助の手から徳利を取って、八之助の盃に酌をした。
 八之助はそれを飲み干し、
「おすみさん、少しだけでも」といって、しつこく盃を押し付けてきたが、目をこすりながらちょっと眠たくなってきたので、横になるといった。
「八之助さん、あたしの膝を枕代わりにどうぞ」
 おすみが、膝を寄せた。
「八之助さん、弱いのね。寝てしまったわ」というと、隣の部屋の板戸が開き、銀之助と橋本が顔を出し、部屋に入ってきた。
「おすみさん、よくやった」
 橋本が労った。銀之助も頷き、持っていた手拭いで猿轡を、橋本は、両手を後ろ手にして、縄をかけそして、足も縛った。
 隣の部屋から布団を持ってきて、八之助をぐるぐる巻きにして縛った。
「さあ、銀之助さん、運び出そう」
 おすみは、階段を下りて、人がいないのを確認して、二階に合図を送った。
 銀之助と橋本は、八之助を巻いた布団を一階に担ぎおろし、裏口の外で待たせていた駕籠に乗せた。
「さあ、行ってくれ。酒代はずむぞ」
 橋本が、駕籠かきにいった。
駕籠の両側について、銀之助と橋本は走った。
 大川に架かった筋違橋の船泊に、舟の上で直助が待っていた。
巻布団を二人は、舟に運び込んだ。
「直助、頼むぞ」と、橋本がいった。
「まかしときな」
直助は櫂を動かし、滑るように舟は大川を下り始めた。
半刻ほどたって、舟が揺れ出した。
「直助、大丈夫か」
「湾に出ただ。一刻ほどで島に着くから辛抱しろ」

 佃島に着いた。
 銀之助と橋本が、巻布団を直助が時々使っている苫屋に運び込んだ。
 二人は手際よく布団をほどき、八之助を出して、水を飲むことができるように猿轡を緩め、手首も前に縛りなおした。
 直助が、桶に水を入れて横たわっている八之助のそばに置いた。
「これでしばらくの間、ここからは出れねえだろう。少しは頭を冷やせばいい」
 橋本が、吐き捨てるようにいった。
 銀之助は頷いた。

何事もなかったかのように、明け六ツ刻(六時)、銀之助は目を覚ました。
 裏庭の井戸で顔を洗っていると、勇治がやって来た。
「おはよう、銀之助さん」
 銀之助は、うまく八之助を佃島に運んで行ったことを伝えた。 
「そりゃよかった。これで一安心だね。いい浅利あるけどどうですか」
銀之助は、、浅利を一篭買った。
(昼の献立は浅利丼にしよう)
 勝手場で浅利を剥いていた時に、おすみとお玉がおはようございますといって、入ってきた。
「銀之助さん、今日の昼はなんですか」
 おすみは、銀之助の目をしっかり見た。
「勇治さんから、浅利を買ったんで、浅利丼にします」
 銀之助は、うまく行ったことを目でおすみに合図を送った。
「さあ、お玉さん、今日も美味しい料理を作りましょう」
 おすみは、豆腐汁を作り始めた。
 一方、お玉は元気なく、米を炊く準備に入った。
昼の客は、思っていたよりも多く、九ツ半で浅利丼は売り切れたので、銀之助は、おすみに店を閉めるよう伝えた。
 お玉は、客の使った茶碗を片付けた。
(お玉さんは、八之助のことを忘れられないんだな)
 片付けが終わったのを見計らって、銀之助は、お玉を二階に呼んだ。
「お玉さん、お金の件だが、もうしばらく待ってください」
 お玉は、ただ頭を下げ続けるだけであった。
「さあ、夜の支度にかかりましょうか」
 勝手場では、おすみが田楽豆腐を作っていた。
「おすみさん、お玉さん、献立は、雑炊と雷豆腐にしましょう」
 銀之助は、豆腐を崩し始め、おすみは、大根をおろした。
 お玉は、茶碗に飯を盛り始めた。

 七ツ刻(四時)の捨て鐘が鳴った。
おすみがうまいもん屋の暖簾を掛けに出ると、市村座の市之丞と梅之助が、店の前で待っていた。
「いらっしゃい」
 おすみは、二人に声をかけたが、市之丞と梅之助は、無視して店の中に入って行った。
 二人のところにお玉が行った。
 いつまで経っても、お玉は勝手場に戻って来なかった。
「お玉さんを呼んできます」
 おすみは、銀之助にいった。
 市之丞と話していたお玉の所に行った。
「お玉さん、ちょっと」
「おすみさん、お二人がいうのには、八之助さんが、昨日から帰ってこないんですって」
 市之丞が、割って入った。
「おすみさん、あんた昨日、八之助と会っていないか」
 女形の市之丞が、おすみを上から下まで舐めるように見た。
「いいえ、会ってませんよ。なぜ、私が会わなければならないんですか」
 おすみは、市之丞を睨めつけるようにいった。
「まあ、いいや。酒と田楽豆腐、適当に持ってこいや」
 梅之助が、いった。
 おすみとお玉は勝手場に戻り、酒と田楽豆腐を用意し、お玉が、それを盆に載せて、市之丞たちのところに運んで行った。
「銀之助さん、八之助に会っていたのを、あの二人に感づかれているようです」
「そうですか、気を付けないといけませんね」
 銀之助は、あの二人が今後どのように出てくるか思案した。
(おすみさんをここに泊めたらどうか、いやお玉さんがどう思うか・・・・。そうだ、当分の間、おすみさんの後をつけて行くか。橋本様にもまた、手伝ってもらう)
「おすみさん、当分の間、帰りはおいらが後からついて行くんで、心配しないで。ただ、お玉さんには内緒でね」

銀之助は、店の行灯を消して、勝手場に戻った。
 おすみとお玉は、茶碗を洗っていた。
「お玉さん、安坊が待っているだろうから、早く帰ってやってください」
「銀之助さん、おすみさん、すみません」と、お玉は言って頭を下げた。

 お玉を見送った銀之助は、二階に上がって天袋から丸棒を出して、背に差し下に降りた。
「おすみさん、そろそろ帰りますか」
 銀之助は、提灯に火をつけおすみに渡した。
 おすみは、腰高障子を開け、銀之助に頭を下げ出て行った。
 半町ほど離れると、銀之助はおすみの後を追った。
 三町ほど追いかけたところで、二つの黒い影がおすみの前に立ちはだかったのを銀之助は見て、おすみの所に走った。
「おすみ、八之助兄いのこと知っているんだろう、いわねえと痛い目にあうぞ」
 梅之助が、おすみの胸ぐらを掴んだ。
「何すんのよ」
 当身を受けたおすみは、よろけた。
 それを、梅之助が受けた。
「早くしろ」
 市之丞が、急かした。
「待て」
「銀之助か」
市之丞が組みかかってきた。
 銀之助は、市之丞の胸ぐらを掴んで、背負い投げ飛ばした。
「痛てえ」
 市之丞が背中から落ちた。
 梅之助が、おすみから手を放し、懐から匕首を出した。
「てめえ、覚悟しろ」
 梅之助が、突き進んできた。
 銀之助は、後ずさりしながら、背中に手をまわして、丸棒を引き抜いたと同時に、梅之助の右手首を撃った。
「ギャー」
 梅之助の手からが落ちた。
「この野郎」
 市之丞も匕首を抜いて、後ろから突いてきた。
 銀之助は、身体を沈ませ、振り向きざまに右足の脛を払った。
‘ゴキン’
 市之丞は、気を失って倒れた。
「おすみさん、えっい」
 銀之助は、おすみの両肩を手で支え、膝で背中を押し活を入れた。
 おすみが、目を開いた。
「銀之助さん」
 おすみは、銀之助に抱きついた。
二人は、橋本の家に行った。
 橋本は銀之助の話を聞いて、
「銀之助さんは、強いのう」
「これからどうしたらいいんでしょうか」
 おすみは、元気を取り戻したようで、沢庵漬けと徳利そして茶碗を二人の前に置いた。
「おすみさん、難儀したのう」
 二人の茶碗に酒を注ぐおすみの手が、震えていた。
「さあ、召し上がってくださいな」
 やっと、おすみが口を開いた。
「奴らは、これからどう出てくるかだな」
橋本が、酒を飲み干して、いった。
「二人とも骨を折っていますから、当分の間は舞台に上れますまい」
「銀之助さん、しばらくは様子見だな。当分の間、おつたとおみねに芝居小屋に通って、様子を探ってもらおうか」
 銀之助は頷いき、おすみは、すぐに立ち上がり、腰高障子を開けて外に出て行った。
 しばらくして、おつたとおみねを連れて、戻ってきた。
 二人が座ったのを見計らって、銀之助が、市村座の見に行って市之丞たちの様子を探って来るように頼んだ。
 二人は、喜んでその役目を引き受けた時、
「こんばんわ」
 源一と勇治が、徳利を抱えて入ってきた。
 おつたが、源一に銀之助に頼まれた話をした。
「うちのかかあに、そんな大役が勤まるか」
 源一が、笑いながらいった。
「あんたなんかより、あたしたちの方がどれだけ役に立つか、見てなよ」
 といって、おみねが、勇治の茶碗を取り一気に飲んだ。
三日後の四ツ刻(十時)。
 うまいもん屋では、昼飯の準備に銀之助たちは忙しく働きまわっていた。
「こんにちわ」おつたとおみねが勝手場に入ってきた。
「いらっしゃい。」
 銀之助は笑顔で二人を迎えてから、
「二階で話を聞かせてください」といって、二階に連れて行った。
「銀之助さん、市村座はもう出て行ったようよ」
「そうですか」
「最初はごまかしながら興行していたんですが、市之丞と梅之助の二人が舞台に上がっていないのを客たちが気付いて、客足が減り、収入が得られないため、市村座は、夜逃げ同様に小屋を出て行ったそうです。どこに行ったか分かりませんが、市村座は解散したとのもっぱらの噂です。これで、お玉さん、きっと諦めがつきますね」
浅草寺の鐘が、捨て鐘を打った後、四ツ刻半(十一時)を知らせた。
「おつたさん、おみねさん、ご飯を食べて行ってください」
「わるいわね」と、おつたが言った。
 銀之助たちが二階から降りた時、おすみが暖簾を外にかけて、戻ってきたところ、銀之助は、おすみにおつたたちに飯を食べてもらうことにしたと伝えた。
 おつたとおみねが、樽に腰を下ろした。
 二人の所にいいにおいが漂ってきた。
「お待たせしました」
 お玉が、と鯉の味噌煮を二人に運んできた。
 それぞれの皿に鯉一匹ずつ、豪華に載っていた。
「おいしそう」と、おみねが言った
「お玉さん、板について来たわね」と、おつたがお玉に笑顔を向けた。
「いつも、安吉がお二人にお世話になって、ありがとうございます。ごゆっくりどうぞ」

 八ツ刻(午後二時)の鐘の音を聞いて、二人は帰って行った。
 おすみは、二人を見送って、暖簾をはずした。
銀之助は、店の中を片付け始めた。
おすみは、皿を洗い、玉は、洗い終わった皿を拭いた。
勝手場に戻って来た銀之助は、お玉が皿を棚にしまっているのを見て、
(お玉さんに、市村座のことをいうか)と、銀之助が、覚悟を決めた時、
おすみの声が、聞こえた。
「お玉さん、市村座の役者さんたちが、芝居小屋からいなくなったそうよ」
 おすみが、客から聞いた話をお玉にした。
 お玉の顔色が、変わった。
 銀之助とおすみは、驚いた。
(お玉さんは、八之助がいなくなったことや、市之丞の件は知らないのかしら)
「お玉さん、顔色悪いようですが、どうかしたんですか」と、銀之助が、心配そうに声をかけた。
「今日は、身体の具合が悪いんで、帰っていいですか」
「お玉さん、大丈夫」
「おすみさん、お玉さんを長屋まで送ってもらえませんか」
「大丈夫です。一人で帰れます」
 お玉は、片付けを終わるとそそくさと帰って行った。
 銀之助は、おすみに店番を頼んで、そっと、お玉の後を追いかけた。
 そのすぐ後、入れ違いで橋本順之助が、裏口から入ってきた。
「銀之助さん、居るかい」 
「あら、橋本様」
「おすみさんだけかい」
「ええ、銀之助さんは、今しがた、お玉さんが心配で、後をつけて行きました」
 おすみは、おつたとおみねが来て、市村座が芝居小屋から出て行ったことを知らせに来とことと、その件をお玉に話したところ、顔色を変えて慌ててお玉が帰っていた様子を話した。
「そうか、お玉は、まだ騙されているのに気付かず、奴にのぼせているのか」と、言って橋本は考え込んだ。
「銀之助さんが、帰って来るまで、お待ちになったら」
 芝居小屋の周りに建てられていた市村座の幟は、一本もなかった。 
 お玉は、小屋の中に駆け込んで行った。
 それを見て、銀之助は周りを注意しながら、暗闇の中に入って行った。
 お玉は、桟敷に腰を落とし、呆然としていた。
 闇の中に人が動いた。
 銀之助は、丸棒を掴んで、お玉に近づいた。
 急に声がした。
「お玉」
 梅之助が、左手に匕首を持ってお玉に近づくのを、壁の隙間からの日差しが照らした。
「梅之助さん、何すんだい」
 市之丞が、足を引きずりながら、梅之助の後ろから、中刀を肩にしょって現れた。
「この女、銀之助とぐるだ。梅之助、やっちまえ」
「待て」
「誰だ」
「銀之助か」
 市之丞が、上段に構えて、銀之助に近づいて来て、二間ほど距離が詰まった時、銀之助は、一歩踏み込んだ。
「えいっ」
「わー」
 市之丞が、倒れ気を失った。
 それを見た梅之助が、突進してきた。
 銀之助は、軽くかわし、丸棒を梅之助の背中に叩きつけた。
「ぎゃっ」
 梅之助も気絶した。
 震えているお玉に言った。
「お玉さん、面倒なことになる前に帰ろう」
二人は、芝居小屋を出て、うまいもん屋に向かった。
「早く帰って、おすみさんの手伝いをしなきゃ」
うまいもん屋の近くに来たところで、銀之助は、お玉にいった。
「お玉さん、ちょっとおいら買いものしていくんで、先に帰って下さい」
 銀之助が、店に戻った。
「ただいま」
「お帰りなさい」
 おすみが銀之助を迎えた。
 お玉も気が付き、銀之助に頭を下げた。
 銀之助は、買ってきた大仏餅の包みを開けた。
「おすみさん、お玉さん食べて下さい」
「田中屋さんの大仏餅ね、おいしそう」
 おすみは、ほおばって食べた。
 お玉の頬に涙がながれていた。
「お玉さん、泣くのはもういいんじゃないかしら。早く食べないと、食べちゃうよ」
 おすみが、微笑んだ。
「銀之助さん、おすみさんから聞きました。いろいろ、ありがとうございました」
 お玉は、手拭いで目を拭った。
「さあ、お店を開きますよ」
 おすみは、暖簾を掛けに入り口に向かった。
 お玉は、店の行灯に灯をつけ始めた。
国分屋の弥助が、一番に入ってきた。
「いらっしゃいませ」
 お玉が元気で迎えた。
「お玉さん、お久しぶり」
 弥助はいつもの奥の行灯のそばの席に座った。
 注文を聞いたお玉は、勝手場に戻った。
 おすみに、鮎の塩焼き、大根雑炊の注文を伝え、徳利に酒を注いだ。
「お玉さん、塩焼き、出来上がり」
 銀之助が威勢よくいった。
 おすみは、大根雑炊を作りながら、
「弥助さん、お玉さんのことを心配していましたよ」
 お玉は、手拭いで目をぬぐって、弥助の膳を運んで行った。
「お玉さんと弥助さん、うまくいくといいですね」と、おすみがいいながら、新しく入って来た客を迎えに店に出て行った。
 銀之助は、しばらくしてやって来る橋本たちの酒の肴の準備を始めたところ、おすみが弥助来て、銀之助に話があるから来てくれと言っていると勝手場に戻ってきた。
「なんだろう」
「笑顔だったから悪い話ではなさそうよ」
 銀之助は弥助の前に行った。
「何か御用ですか」
「今年の夏に我々は大山詣りに行く予定でしたが、主人のお母様が先日亡くなったため行けなくなりました。よろしければ銀之助さんたちが代わって大山詣りに行っていただけないかと主人が言ってます。どうでしょうか」
「長屋の連中も誘っていいですか」
「もちろん、銀之助さんのご希望通りどなたと一緒でも構いません」
「きっと、皆喜びます」
「ただ一つお願いがあるのですが」
「なんでしょうか」
「我々の代参ということで、よろしいですか」
「構いません」
「では、に伝えますので、後日、行く人数を教えてください」
 銀之助はさっそくおすみに伝えて、長屋の連中に声をかけてもらうよう頼んだ。
「大山詣りにはいつか行きたいと思っていたんです」おすみは嬉しさが体中からあふれでていた。
 銀之助も、夏が待ち遠しくなった。
コメント
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四文屋繁盛記(三)

2024-11-07 10:09:43 | 小説
第三話 だまされた番頭(早春)
 春になり、浮き浮きした江戸子たちがうまいもん屋に集まって賑やかに話をしている中、片隅で商人らしき男が何かを思い悩みながら一人でちょびちょび酒を飲んでいた。
男は、震える手でたばこ盆に煙管を近づけて火をつけた。
「お待たせしました」といって、おすみがその男の前の樽の上に二合入りの徳利と皿に二本盛った田楽豆腐を置いた。
 男はおすみの顔を見て、うつむいてしまった。
(この人、なにかへんだわ)
「ごゆっくり」といって、おすみは勝手場に戻った。
「銀之助さん、あの人大丈夫かしら。悲壮な顔をしながら、一升も飲んでいるわ」
「嫌なことでもあったのかもしれませんね。そっとしておいてやりましょう」
それから、一刻が過ぎ、客は潮が引くかのように家路にと急いでうまいもん屋を去って行ったが、商人らしき男は、六ツ半になっても、腰を上げようとはしなかった。
「お客さん、そろそろお店を閉めますが何か食べますか、納豆汁はいかがですか」
 おすみが聞いた。
 男は泣きそうな顔をして、おすみをまんじりと見ながら振り絞るような声でいった。
「いいです。もう少しいさせてくれませんか」
「なにかあったんですか」と、いつの間にか、おすみのそばに立っていた銀之助がいった。
「帰れないんです」
「どうしてですか」
(話は、長くなりそうだな)
 銀之助は、おすみにもう帰るように目配せして、近くの樽に腰を下ろした。
 おすみは首を横に小さく振り、勝手場に行って、二人に湯を運んできた。
「遅くまで申し訳ありません」
 男は我にかえり、自分は、神田旅籠町にある葉煙草問屋’国分屋’の番頭、弥助と名乗った。
「お恥ずかしい話なんですが、美人局に引っかかり、脅されたので、お得意様からいただいた煙草の代金すべてを渡してしまったんです。店の主に帰ってなんといえばいいのか」
「そうですか、もっと仔細を話してくれませんかい」
 おすみも頷いた。
 銀之助に促されて、茶碗に口をつけてから、弥助がぽつりぽつりと話し始めた。
弥助は、朝から代金徴収に客先回りをした。予定通り集めることができ、八ツ半頃、最後の一軒、刻み煙草屋‘貞家’に行った。
貞家は、’国分屋’にとって、初めての取引だった。
来訪を告げると、奥からなまめかしい二十代後半らしき女が出てきた。
「国分屋さん、店主がちょっと出かけているので上がって、待っていてくださいな」
 女は、弥助を客間に案内して、部屋を出て行った。
 しばらくすると、先ほどの女が酒を持ってきた。
「もうすぐ帰ってくると思いますが、その間、一杯いかがですか」
 名は、おとせといった。お歯黒をつけていないので、弥助はこの店の女中かと思った。
仕事中だからと散々断ったが、しつこいので、少しぐらいと思い弥助は、盃を口にした。一杯が二杯になり、そのうちに眠気が差してきて、寝入ってしまった。
「おとせ、今帰ったぞ」
 男が、戸を開けて入ってきた。
 弥助は、その声で目を覚ました。裸になっておとせの上に乗っていた。何が何だかわからなかった。
「おめえは誰だ。俺の女に何やってんだ」
弥助は、我に返った。女の着物が肌蹴ていたのに気づいた。
女がわめいた。
「あんた、このすけべ男が急にあたいを倒して襲いかかって来たんだよ」
「おとせさん、おいらは何もやっちゃあいない」
「何、寝ぼけたことをいっているんだ、弥助さんとやら、あんたの家族や国分屋さんにいいつけるぞ」
「あんた、そんな甘いことじゃ、あたいの気が済まないよ。太助親分にいってくるわ」
「ちょっと待て、おとせ。それじゃ、弥助さんとやらが可哀そうだ。ちょっと間が差しただけかもしれねえ、弥助さんどうする」
「酒に何か入れたな。おとせさん、正直にいってくれ」
「いい加減におし。あんた、このこと皆にいいふらすからね」
「弥助さん、じゃあ口止め料、十両で手を打たねえか。そうすれば、あんたは、国分屋の番頭で働き続けられるし、家族とも今まで通り仲良く生活できるんじゃねえか。おとせは気が済まねえかもしれねえが」
「あんた、なにいってんの。このあたいの身にもなってよ」
「うるせえ、弥助さんにもいろいろあるんだ。どうだね、弥助さん、今日は持っている金を全部置いときゃいいぜ。残りは、十日以内に払ってもらえばいい」
 そんなことで、結局、彼らの脅しに負けて、十両の口止め料を払うことになって、まずは、集めたお金、五両を渡してしまった、と弥助が悔しそうに涙ぐんだ。
「そうだったんですかい、きっと眠り薬を酒に入れていたんですね。いない人間が、弥助さんって呼ぶのもおかしいですね。最初から企んでいたんだな」
「あの店は、あたしもよく刻み煙草を買いに行くんですが、そんなことを」
 しばらくの沈黙の間に、’火の用心’の声とともに拍子木の打つ音が障子戸をゆすった。
既に、五ツの鐘も先ほどなっていた。
 三人の心に、冬の夜の静けさが重くのしかかっていた。
「私は、本当に馬鹿だ」
 銀之助は、手燭を取って二階に上がって行った。
 おすみと弥助は話すこともなく、ただ銀之助が戻ってくるのを待っていた。
 銀之助が、戻ってきた。
「弥助さん、これ店に持っていきなさい」
 銀之助が酒樽の上に五両を置いた。
「銀之助さん、見ず知らずの私に・・・・・」
 しばらく嗚咽していた弥助は、二人に深々と頭を下げた。
「後はおいら達に任せてくんなさい」
 銀之助の癖で、何も策があるわけでないのにいい切った。
銀之助を見て、おすみは笑みをこぼした。
「銀之助さん、早いうちに必ず返します」といって、弥助は、五両を大切そうに懐にしまった。
 出口に向かいながらも、銀之助に何度も頭を下げ続けた。
 そして、弥助はうまいもん屋を後にして、暗闇に消え去って行った
 物騒なので銀之助はすぐにおすみを返して、一人で片付けをした。
 銀之助は、弥助のことで床についても、一睡もできず初午の前日の朝を迎えた。
 まだ、店の準備に間があったので、一人浅草寺付近へ散歩に出た。
 どこの店も、初午の準備は終わっているようだった。
木戸の軒下には、武者を描いた大行燈が吊るされ、露地の長屋から表通りの地所の内で家々の戸々に競い合うように、地口画が描かれた田楽燈籠をかかげてあった。(地口というのは、ことわざや成句などに発音の似通った語句を当てて作りかえる言葉の遊び。例えば、(猫に小判)を‘ に御飯’)
裏長屋の入口には、が左右に立てられて、その奥の路地では、太鼓を打ち鳴らしたり、笛を吹いたり、踊ったりして子供らの遊んでいる姿を銀之助は、しばらくの間立ち止まって眺めていた。
 帰りの仲見世通りでは、道の両側にひしきめあった屋台は準備で皆忙しそうに動き回っていた。
(おいらも、早く帰って店の支度をしなきゃ)
 おすみが店で待っていた。
「銀之助さん、今日の献立は干鱈飯とくわいの蒲焼でどうですか」
「くわいの蒲焼って?」
「よくお寺さんで食べられているんですが、精進鰻の蒲焼で、材料は、 豆腐、山芋、くわい、蓮根です。そして、海苔を皮に見立て、鰻のように形作り、一旦 揚げてから、蒲焼のように、たれをつけて焼くのですよ」
「美味しそうですね。おすみさんはその蒲焼を作ってもらえませんか」
「はい」といって、おすみは、くわいの皮を剥き始めた。
銀之助は、米をといで飯を炊き始めた。
弥助のことをあれこれ考えた。
(なんとか、貞家から五両を取り返して、二度と奴らに美人局をやらせないようにしなければ)
その間に手際よく、干鱈を湯で戻して、それを焼き始めた。
 昨夜から考え続けているのだが、頭の中は空回りするだけで名案が浮かばない。
「銀之助さん、眠そうですね。弥助さんのことですか?銀之助さんも人が良すぎますよ」
「おすみさん。貞家のことどう思いますか?」
「ひどい人たちですね。たしか、おとせと貞七という名前でしたっけ」
「確か、そんな名前でしたね。貞家のこと、ちょっと知りたいですが・・・」
「銀之助さんがそんなに気になるのなら、皆に聞いてみます」
「お願いします。善は急げです。今日は、昼の準備が出来たら帰って下さい」
「まあ、銀之助さんたら、しょうがないわね」
「ちょっと待ってください。干鱈飯を食べていってください」
「銀之助さん、一人でお店大丈夫かしら」
 おすみはよそった飯にだしをかけながらいった。
「大丈夫です」
 おすみは飯を食べ終えて、九ツ刻頃(十二時)帰って行った。
それからの銀之助は昼飯を食べにやってきた客の応対にてんてこ舞いであった。。
銀之助は、八ツ刻(二時)に店を閉めた。
しばらくの間一服してから、片付けをした。
そして、間もなく、夜の支度に取り掛かった。
七ツ(四時)前までに、田楽豆腐、煮しめ、豆腐汁の下拵えをして、それから番茶で飯を炊いた。
その出来上がった飯にすまし汁と茗荷そして、もみ海苔をかければ、利休飯の出来上がる。
この利休飯もおすみから教わり、最近、お品書きに追加した。
酒を飲んだ後に食べる利休飯は、最高にうまいと呑み助たちには評判がよかった。
七ツの鐘が鳴ったので、暖簾をかけに銀之助が外に出たところ、おすみがこちらに小走りでやって来た。
「おすみさん、今日はもういいのに」
 息切れぎれのおすみは、長屋の住人に聞いたが誰も貞家のことは知らなかったと伝えた。
「そうですか」
 銀之助は、ため息をついた。
「お客さんだわ」
鳶職人が三人やって来た。
「もうやってる?」
「はい、いらっしゃいませ」
 銀之助とおすみが、一緒に頭を下げた。
 そして、おすみは、三人を席に案内し、注文を聞いてきた。
「田楽豆腐六本、煮しめ三人前、お酒三合でお願いします」とおすみは、銀之助にいってから、徳利に酒を注いだ。
「おすみさん、できました」
 しばらくして、銀之助がいった。
 それから客の出入りは多少あったが、六ツ刻前なのに客足はいつもより早く途絶えた。
「おすみさん、今日はもう帰って下さい。後はあっしがやりますから」
「そうだ。さっきは、橋本様が留守だったんだ。もし、帰っていたら貞家のこと聞いてみます」
「橋本様は、顔が広いから是非お願いします」

 今日は、初午。
朝早く、銀之助は、近くの稲荷に詣でた。
いつの間にか、境内の梅が咲きほころんでいた。
 これから働きに出る人たちが、お参りに来ていた。
(みんな、何をお願いしているのだろうか)
 お参りを済まして、店に戻って、勝手場で準備を始めた。
五ツ刻、おすみと長屋から大工の源一の女房おつたと棒手振の勇治の女房おみねがやって来た。
すぐに、銀之助の指図でおすみたちは、稲荷すし、豆腐汁、田楽豆腐の下ごしらいに大忙しだ。
おすみは、飯に入れる酢の具合を味見しながら、昨日、橋本順之助に貞家と弥助の話をしたと銀之助にいった。
「貞家って、本当に悪党ね」と、おみねが、野菜を切りながら口をはさんだ。
「でも男って、助平だからちょっと艶めかしい女だとすぐに引っかかるんじゃないの。うちの奴だったら、絶対に引っ掛かるね」と、おつたがいったので、皆大笑いした。
 笑いが収まると、おすみが銀之助にいった。
「橋本様がいろいろ調べておくから、今日、店が終わったら、長屋に来てくれないかといってました」
「そうですか、わかりました」
店を開く時になった。
 稲荷の行き帰りの人々が、うまいもん屋に昼食を取ろうと入って来た。
あっという間に、席はうまった。
銀之助たちは、目まぐるしく動き回った。
 そして、一時の休憩をとったのもつかの間、午後の開店の時間になった。
多少人数は減ってきたが、それでも普段より多い客が、店にやって来た。
 すべてが売り切れたので、いつもより半刻ほど早く、銀之助は店を閉めた。
「皆さん、お疲れ様。これ少ないですが受け取って下さい」と言って、銀之助は、’大入り’と書かれた袋を一人ひとりに手渡した。
 女房たちは喜んだ。
「銀之助さん、いつでも手助けに来るから遠慮なくいってね」
 おみねが、嬉しそうにいった。
「申し訳ないが、ちょっと片付けを手伝ってくれませんか。終わったらあっしも、皆さんと長屋に行きますので」

銀之助は、提灯に灯を入れ、皆の先頭に立って、徳衛門長屋に向かった。
後から付いてくるおつたとおみねは、絶え間なく話しては笑っている。
 提灯の灯りを遮るかのように、雪が舞い始めてきた。
「おすみさん、降り始めましたね」
「積もるかもしれませんね」
 火消用に水を入れて積んである樽が、少しずつ真綿に包まれかのように白くなり始めた。
 初午の雑踏も嘘のように、雪のしんしんと降るかすかな音だけが聞こえると錯覚しそうな夜道を、四人は歩いて長屋についた。
銀之助とおすみは、おつたとおみねに別れを告げ、橋本の家の前に立った。
「橋本様、銀之助です。おすみさんと一緒です」
腰高障子戸が開いた。
「おう、雪か。寒いから早く入れ」
 さすが長い浪人生活をおくっているだけに、いや、橋本順之助の性格かもしれない。
座る場所もないほどに散らかっていた。
 おすみは、橋本の家の勝手を知っているようで、竈に火をつけ、棚から徳利を出し、酒を温め始めた。
「おすみさん、いつもわるいな」
 橋本は、照れながらいった。
 銀之助が、弥助の事の顛末を話し終えたとき、おすみが、酒と茶碗を運んできた。。
「銀之助さん、おすみさん。早く飲んで暖まってくれ。」
 橋本が、二人の茶碗に酒を注いだ。
「国分屋の弥助が、美人局に騙されたとな」
「橋本様は、弥助さんを御存知なんですか」
「それがしは、いつも刻み煙草はあの店で買っているんだ。主もよく知っている」
「貞家は、御存知ですか」
「知らんのだ。あの辺は、人の入れ代わりが早いので」
 橋本が続けて言った。
「そいつは手ごわいぞ。奴らの口を割らせるのは、その場を押さえなければならねえからな」
 そして、橋本は昔藩にいた頃の友人がやはり美人局に騙された件の話をし始めた。
その男は脅され続けた挙句に、刃傷沙汰になり、家族を置いて出奔してしまったと。
「奴らは、禿鷹だ。弱みを見せると、骨までしゃぶりついてくる」
「橋本様、その場を押さえましょう」
「銀之助さん、どうするかね」
 しばらく銀之助は、思案していった。
「おいらが、カモになってやってみましょう」
「ちょっと待て、相手はしたたかじゃ。先ほど、源一と銀太に貞家のことについて調べるよう頼んでおいた。それがしも調べてみるので、策はそれから立てることにしよう」
 
今日のうまいもん屋の昼の献立は、揚げ出し大根、みそ漬け豆腐そして菜飯と決まった。
銀之助とおすみはその支度に取り掛かった。
銀之助は竈に火をつけた。
それから、大根の葉を刻み、米と一緒に釜に入れた。それが終わると、味噌に漬け込んだ美濃紙に包まれた水分を抜いた木綿豆腐を取り出し、さいころ状に切って、皿に盛りつけていった。
おすみは、大根の皮をむき、形よく切ってから、それをごま油が煮立った鍋で揚げた。
揚がった大根を器に入れておろししょうゆをかけ、そして、千切りにしたねぎをおいて蓋をした。それをいくつも作っていった。
「これで準備万端だ。おすみさんのおかげで毎日お客が楽しみにやってきます」
「喜んでくれると嬉しいですね」
 昼は、いつもぐらいの客数で終わった。
 二人は休憩をとった。
 そして、いつもの通りに七ツ刻に店を開けた。
開店直後には三々五々と客がやって来たが、しばらくすると客足が途絶えた。
そんな時に、橋本順之助が店に入ってきた。
「いらっしゃい、橋本様」
 おすみが、明るい声で迎え、二階に案内した。
 そして、勝手場に戻って、銀之助に二階に橋本を通したことを伝えた。
銀之助は、おすみに店のことを頼み、手燭に火をつけて、二階に上がった。
「銀之助さん、いろいろ分かったよ」
 橋本が、一服吸いながら続けた。
今日、橋本は薬種問屋に行って来たといった。
「田辺屋の番頭が、時々貞家のおとせが眠り薬を買いにやって来るというんだ」
「橋本様、これで弥助さんが眠り薬を飲まされたこと、間違いありませんね。」
「十中八九まちげぇねえだろうよ。後は、源一と銀太の連絡を待って策を立てよう」
 四半刻(三十分)ほど話をして、橋本順之助は帰って行った。
 それから、二日後。
 四ツ半(十一時)、おすみは暖簾をかけて、店の中に戻るや否や、古着問屋の白木屋の番頭が、高障子戸を開けて入って来た。
「いらっしゃい。お久しぶりですね」おすみがいって、番頭が座るのを待った。
 番頭が奥の樽に腰かけた。
「何にしますか」
「菜飯と豆腐汁を下さい」
 おすみは、勝手場に戻って、注文を銀之助に伝えた。
そして、客が白木屋の番頭であることを聞いて、銀之助は、番頭の吉二郎のところに行った。
ちょっとの間、話をして勝手場に戻った。
「おすみさん、昼の休みに白木屋さんに行ってきますので留守頼みます」
「はい、夜は、お店お休みですね」
「橋本様たちが、七ツ頃に来られますが、おすみさんはどうしますか」
「皆さんのお話、聞かせてください。いいですか」
「もちろん、いいですよ」
 
八ツ半(三時)、銀之助は、何か荷物を持って帰ってきて、おすみに一こと二こと話をして、二階に上がって行った。
しばらくすると、一階からおすみの声がした。
「銀之助さん、橋本様たちが来ましたよ」
「橋本様、源一さんも銀太さんも二階に上がって下さい。銀之助さんが待っています」
橋本たちは、二階に上がった。
 その後から、おすみが火のついた手燭を持ってきて、二つの行灯に灯をつけていった。
「お酒お持ちしましょうか」
「すまん」
橋本は手を挙げた。
おすみは、銀之助の頷くのを見て、下に降りて行った。
「肴を持ってきます」といって、銀之助も階段を下りた。
二人は、間もなく大徳利と田楽豆腐を運んできた。
 行燈の光が、皆の影を揺らした。
「銀之助さん、源一が貞家の絵図面を手に入れてくれた」
 源一は、懐から図面を出し、広げて説明した。
「たぶん、話から、弥助さんが引っ張り込まれた部屋はここだと思います」
「この居間の前に庭があるとは、好都合だ」
 橋本は、扇子で絵図面を指した。
 銀之助は、間取りを頭の中に叩きこんだ。
「銀太、貞家のこと何か分かったか。」
 橋本が、銀太を促した。
「へい、貞家には、用心棒が二人いますぜ。一人は、六尺もあるような大男なんで。もう一人は、橋本様ぐらいです。大男は、 時々道場あらしをやって金を稼いでます。強いようです」
「そうですか」
 銀之助は、腕を組んだ。
「それがしもついて行こう」
 橋本が、盃を口づけた。
 すぐに、おすみが、酌をした。
「おいらも行きますぜ」
 銀太がいった。
「お前たちはやめたほうが良い。それがしと銀之助さんでやる」
 一刻ほどして、おすみと橋本そして銀太は長屋へ帰って行った。

 江戸の空は、雲がなく青く途切れることなく澄みわたっていた。
 初午の日が過ぎ、浅草寺界隈は、静けさを取り戻しつつあった。
「おすみさん、午後からおつたさんとおみねさんが、手伝いに来てくれますので、よろしくお願いします」
「はい。銀之助さん、気を付けてくださいね」
「橋本様も一緒ですから、大丈夫ですよ」
 銀之助は、にんじんを切りながらいった。
おすみは、竈に火をくべた。
「今日は、でどうでしょうか」
「どのように作るのですか」
「大根を切り、桂剥きにし、酒を振って巻きなおします。それを楊枝でとめ、それを釜に入れて蒸します。その間に、合わせ味噌、みりん、酒に胡麻を混ぜて作ったたれを蒸した大根につけます。以上で出来上がりです」
「なるほど、おいしそうですね。よろしく頼みます」
 おすみは、といだ米が入った釜を竈に乗せてから、林巻大根を作り始めた。
銀之助は、切ったにんじんを白味噌で和え、小皿に移して胡麻をかけ、‘にんじんの黒和え’を二十人分作った。
準備が終わり、銀之助たちが賄飯を食べていた時に、おつたとおみねがやって来た。
「お二人さん、いつもすみませんね」
 おすみが、二人に膳を運んできた。
「何いってんの、それより気を付けてね」
おつたがいいながら、おすみは、賄飯を食べた。
「林巻大根、おいしいわね」
 おみねが、いった。
「店、よろしく頼みます」といって、銀之助は二階に上がり、それからしばらくして、銀之助は風呂敷包み背負って、裏口から出て行った。
浅草聖天町を抜ける前に、待乳山聖天宮に詣でた。
大川の水面が、春の色合いを映し始めていた。
 丘を下って、谷中へと出て天王寺近くに来た。
(このあたりかな)
銀之助は、天王寺に寄ってから貞家を探すことにした。
天王寺は、日蓮が鎌倉と安房を往復する際、関小次郎長耀の屋敷に宿泊した事に由来、そして日蓮の弟子の日源が法華曼荼羅を勧請して開山したと立札に書いてあった。
 やっと、貞家を見つけた。水樽の陰に隠れていた橋本順之助を見て、銀之助は、貞家の腰高障子戸に向かった。
 そして、息を整え、やや緊張しながらいった。
「古着屋の白木屋でございます。おかみさん、良い着物がありますので、見ていただけませんか」
「はい、はい」と声がして、障子戸が開いた。
(なんと、艶めかしい女なんだ、弥助さんから聞いた通りの女だ。この女がおとせっていうんだな)
 銀之助は、しばし見惚れていた。
「あんた、初顔だね」
「へい、つい最近この辺りを回り始めた者で、白木屋の長助といいます。お見知り置き下さい」
「挨拶はその辺でいいから、早く着物を見せておくれよ」
 銀之助は上がり框に腰を下ろして、風呂敷包みを床に置き、広げた。
「いかがですか」
「古着とは思えない綺麗なものばかりね」
 おとせは、その中から淡い桃色に紅梅の花が散りばめられた小袖を手にとって、身体に当てた。
「どう、似合うかしら」
「よくお似合いですよ」
 銀之助は、手鏡を取り出し、おとせに向けた。
「これ、いただくわ。お勘定は今日でないとだめかしら」
「いえ、いつでも結構ですよ」
「明日、払うわ。その時、男物を持ってきてくれない」

 八ツ半(三時)に、銀之助は店に戻った。
 おすみたちに留守中の礼をいって二階に上がり、着替えてから下に降りた。
橋本が、来ていた。
「どうであった。」
「明日、男物を持ってきてくれといわれました」
「危ないな」と橋本はいい、明日の策を確認をして帰って行った。
 
 昼の開店前の準備に、昨日と同様、おすみ、おつた、おみねたちと銀之助は、忙しかった。 
 準備が終わったのは、四ツ刻半頃であった。
「では出かけてきます、後はよろしくお願いします」
「銀之助さん、気を付けてね」
おすみたちに、店を任せて銀之助は、貞家に行った。
「長助さん、主がまだ帰ってこないんで、上がって待っていてください」
(きたか)
銀之助は、居間に案内された。
「長助さん、しばらくお待ちくださいね」
 おとせが、部屋を出て行った。
 銀之助は、障子を開け、庭を見た。橋本順之助は、すでに木の陰に隠れていた。
 しばらくして、おとせが、酒と肴を箱膳に乗せて持ってきた。
「長助さん、主が来るまで一杯いかがですか」
銀之助の隣に座って、徳利を持って酌をしようとした。
「まだ仕事中なので、ご勘弁を」
 そんなやり取りを何回かしているうちに、銀之助は、何杯か呑んでしまった。
「おとせさん、眠くなってきたんで、ちょっと横にならせてもらっていいですかい・・・」
「どうぞ、楽にしてください」
銀之助が、横になって鼾をかき始めた時、襖戸が開いた。
貞家の主の貞七が二人の浪人を伴って、入ってきた。
「こいつは、効き目がはえや」
 おとせは、髪を乱し、着物を肌蹴だして仰向けに寝た。
「おい、やっこさんをおとせの上に乗せてくだせえ」
 貞七は、二人に命じた。
 二人は銀之助の着物を肌蹴させてから、六尺ほどの背丈のある大男が脇の下を、背の低い男は、足を持っておとせの身体にうつ伏せに乗せた。
 おとせの色香が漂い、おとせの顔、切れ長の目そして、おちょぼ口が目の前にあった。
(このあたりで、始末をつけるか)
銀之助は、目を見開いた。
「げえぇ」
 おちょぼ口が動き、おとせは震える手で銀之助を押しのけた。
 銀之助は、それを反動として、立ち上がり障子戸を背にした。そして、戸を引き開けた。
「お前たち、いつもこの手で人から金をむしり取っているんだな、許せねえ」
 貞七は、我に返った。
「てめえ、いったい何者だ」
懐から匕首を出した。
「先生、こいつをやっつけてくだせぇ」
 大男の浪人が、抜刀するや否や、上段から銀之助を斬りつけてきた。 
そこを銀之助は、左にかわしながら、庭に飛び降りた。
「銀之助さん、ほれ」
 木陰から出ていた橋本順之助が、丸棒を銀之助めがけて投げた。 
「ありがたい」と、銀之助が丸棒を受け取った。
振りかぶって来た大男が切り下げるのと同時に、銀之助は丸棒で胴を撃った。
「うっ」
大男が倒れると同時に、銀之助の右肩口からは、血が流れた。
一方、橋本はなんなく小柄な浪人を峰で撃って、居間に上がっていた。
銀之助も居間に上がった。
「あんた、早くやっちまいなよ」
 おとせは、匕首を握りしめ、貞七の後ろに退きながらいった。
 貞七が形相を変えて、匕首を振り上げ銀之助に向かってきた。
「ギャー」
 貞七は匕首を畳に落とし、左手で手首を押さえて座り込んでしまった。
 橋本はおとせに近づいた。
「やめて、お金は全部渡すから」
橋本は目にもとまらぬ早さの居合で、おとせの島田髷をあっという間に残ばらにさせた。
「おい、貞七。いままで脅して金を取って来た人間の名前と金額を教えろ」
 銀之助が丸棒を貞七の首にあてた。
「隣の部屋の奥の箪笥だ」
 橋本が、戸襖を開けて、箪笥のそばに行った。
「どこにあるんだ」
「上の戸袋だ」
 橋本が、帳面と金の入った箱を引き出した。
「あまり入ってねえじゃねえか」
「使っちまった」
「どうして返す」
 おとせが、いった。
「あたしの着物を持ってお行き」
「銀之助さん、弥助の五両だけでいいだろう」
 といいながら、橋本は、火鉢の中の火を帳面つけ、庭に放り投げた。
うまいもん屋に銀之助と橋本が戻ったのは、西の空に陽が落ちてしまった暮れの六ツ刻だった。
 裏戸から入って、勝手場に顔を出した。
「お二人とも御無事でよかった」
いち早く二人に気づいたおすみが、嬉しそうにいった。
「ほらごらん、おすみさん。橋本様と銀之助さんならうまくやって来るといったじゃないか」
 おみねが、徳利に酒を入れながらいった。
「橋本様、長屋の連中が来るまで、店で一杯飲んでいてください」
 銀之助にいわれて橋本は、勝手場から店に入って行った。
「いらっしゃいませ」
店からおつたの声が、聞こえてきた。
 しばらくして、勝手場に戻って来たおつたが、弥助が来たことを銀之助に伝えた。
「おつたさん、すまないが、弥助さんを二階に案内してもらえませんか」と、いってから、今度はおすみに向かって、銀之助は、今いる客がいなくなったら、すぐ店を閉めるよう頼んで、風呂敷包みを背負って二階に上がった。
 橋本は、店の樽に腰かけて、田楽豆腐を肴に酒を飲み始めていた。
二階の部屋には、すでに行灯に灯がともっていた。
 弥助が、心配そうな顔つきで座っていた。
 銀之助は、貞家での今日の出来事について、手短に話して、懐から若草色の丹後縮緬のを出して開いた。
「弥助さん、貞家から五両、取り返してきました。もうあいつらは、あんたを脅すことはしないと思いますよ」
 やっと弥助は納得し、畳に頭を擦り付けるほどに頭を下げた。
頭を下げ続けた弥助がいうには、ちょっと前まで、貞家に乗り込んで、おとせ立ちを亡き者にしようか、それとも自害しようか悩み続けていたと打ち明けた。
 また、弥助の母親は、昨年から病で床に臥せっており、母一人を残すことに未練が残っていたともいった。
 思い出したように、弥助は懐から一両を出し、銀之助に差し出した。
「このお金を受け取ってください」
「これは、貞家に渡すつもりで持ってきたものです。受け取っていただかないと気持ちがすみません」
 銀之助は、頑として受け取らなかった。
「銀之助さん、源一さんたちが来ましたよ」
 戸襖の向こうから、おすみの声がした。
銀之助は、この度の件で源一たちの手伝いについて、弥助に話をしてから、ふたりは一階に降りて店へ入った。
「銀之助さん、御無事で何よりです。肩に血のようなものが」
 大工の源一が、心配そうにいった。
「銀之助さん、大丈夫かな。それがしは全く気付かずお恥ずかしい限りだ」
「橋本様、かすり傷です。六尺の大男は、銀太さんがいっていたように、手ごわかったですね。」
「その浪人に勝つなんぞ、銀之助さんは、大したもんだ」
 簪職人の銀太がいった。
 そばで聞いていた弥助は、驚き頭をまた下げた。
「銀之助さん、申し訳ございませんでした」
 銀之助は、皆に弥助を紹介し、弥助に樽に腰かけるよう勧めた。
 弥助は、皆に礼をいって、頭を深々と下げてから腰かけた。
 おすみたちが、酒と肴を次々と運んできた。
「はい、勇治さんからの差し入れのめざしいわしを焼いてきました」
「勇治、味なことをやるじゃないか」
 橋本順之助が、めざしを手に取りながらいった。
「しかし、どうして貞家で酒を飲んでも眠らないで済んだんですか」
 いつの間にか、銀之助の隣に腰かけていたおすみがいった。
「橋本様が、薬種問屋の田辺屋から、眠り薬を飲まされても眠らずに済む薬を、手に入れてきて下さったのを飲んだんですよ」
「あの薬な、田辺屋が唐辛子や黄辛子など辛いものを煎じて作ってくれたんだ」
「だから、噛み潰したとき、涙が止まらなくなったんですね。おとせの顔に涙が垂れたので、おとせの驚きは、尋常ではありませんでしたよ」
 皆、笑ったが、弥助は咽び泣いていた。
しばらくして、
「皆さん、御粥が出来ました」
おすみたちが、盆に乗せて持ってきた。
 真っ先に、橋本が箸を取った。
「こりゃうまい」
「若狭の白がゆです。これも八百膳で覚えたんです。まだ、お品書きに入れてませんけど」
 おすみは嬉しそうに、橋本に向かっていった。
 一刻ほどして、おすみたち女が片付けをするのを待って、橋本たちは、長屋へ帰って行った。
弥助は、外で橋本たちが見えなくなるまで、頭を下げていた。
「銀之助さん、いろいろありがとうございました」
 中に入って改めて頭を下げ、弥助も店を後にした。
 銀之助は、静かになった店の中の行灯を消そうとした時、弥助が座っていた樽の上に袱紗が置いてあるのに気づいた。
(弥助さん、気を使って)
 勝手場に戻り、明日の段取りを終えてから、徳利を片手に二階に上がった。
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四文屋繁盛記 (一、二)

2024-11-02 16:35:55 | 小説
第一話 安永地震(秋)
「なんてひどい有様なんだ」と言いながら、目に涙を浮かべながら男が歩いていた。 
秋が終わりかけていた江戸の朝、焦げ焼けた臭いがあたり一面に漂っていた。
数日前の地震によって引き起こされた火事場跡からによるものであった。
この地震によって、一夜にして多くの府民が命、家屋そして財産を失った。
急場しのぎで設置されたお救い小屋では、握り飯と汁をもらいに老若男女の人々たちが長い列を作っていた。
 その男は廃材置き場に立ち止まった。
 ただ汚れているが決して安物の衣服には見えない着物を着たその男は、
「神も仏も一体何しているんだ」とつぶやいた。
 そして、腰をかがめながら選別しながら木材を集めた。
「こんなもんでいいだろう。作るとするか」と男は、自分で書いた図面を見ながら、集めた木材を切ったり、打ち付けたりして、一日かけて組み上げた。
「やっとできた」と言って、額の汗をぬぐいながら、きりっとしまった顔に安堵の色を浮かべた。
出来上がったのは、担ぎの屋台で、見たからに頑丈そうであった。
「寝る場所を確保するための腰かけを作らねば」と言って、再び木材を組み立て始めた。
 組み合わせて練れるように、四つほど作り終えたのは暮六ツを過ぎていた。
 昼に作った吊るし行灯に火を入れた。
そして、柳行李からを取り出して、筆に墨をつけすらすらと文字を書き始めた。
「一うどん代十六文 一そば代十六文 一しっぽく代二十四文 うまいもん屋、これでよし」といって、書きあげた紙を屋台に張り付けた。
 屋台で一晩過ごして、朝を迎えた。
男はお救い小屋でもらった握り飯を食べ終わると、瀬戸物屋とうどん蕎麦類の卸問屋を探して、材料を都合するだけでなく、今後の取引の継続も頼んだ。
 陽が落ち始めた頃、男は疲れていたが、万事が整った満足感から、明日から頑張るぞと意気込んだ。
は翌日から、男は、昼夜を問わず、屋台を担ぎ蕎麦とうどんを売り歩いたが、町には家を失った人たちがあふれており、蕎麦を食う金も持ち合わせていない者も多く、一向に売り上げははかばかしくはなかった。
それどころか、男は、腹をすかした者たちにただ同然にそばやうどんを食べさせてやった。

三年が過ぎ、将軍は綱吉から家宣に代わっていた。
 男は、担ぎ屋台で稼いだ金を元手で、浅草金竜山門から多少離れた所に’うまいもん屋’という小さな飯屋を構えていた。
 男は、銀之助と名のっていた。
 この浅草界隈では、彼の素性を知る者はだれ一人としていなかったが、昨年の地震の後にそばやうどんを食べさせてもらったことを覚えている者は多かった。
 その人たちが銀之助の店を贔屓にしてくれたので、店は繁盛した。

第二話 舞い込んできた娘(冬)
 今年もあと三日。
 八ツ半(午後三時)、浅草界隈は、新しい年を悔いないように迎えようと、人々があわただしく動き回っていた。
 浅草寺に続く道に沿った店の多くに、門松やお飾りが取り付けられていた。
その中の一軒‘うまいもん屋’と書かれた高障子戸を、荒々しく娘が開けた。
鈴が、鳴った。
「すみません、まだなんですが」
 銀之助は、勝手場から出てきた。
「何か食べ物を・・・・」
髪を乱し、うす汚れた木綿の着物をまとった娘が、入口に立っていた。
 尋常でないと察した銀之助は、娘を店の中に入れた。
「さあ、座んな。今、食べ物を持ってくるから」
勝手場から田楽豆腐を取って来て、娘に渡した。
娘は、皿を抱え込んだ。
「これなら腹にたまるぞ」といって、菜飯を持ってきた。
 娘は、すぐ椀をからにした。
「まだ、食べられるかね」
「いやもうお腹いっぱいだ」と娘はいって、黙りこんだ。
「娘さん、名は」
「おさと」
「歳はいくとかね」
「十六歳だ」
「おさとさんはどこの生まれだい」
「秩父」
娘は、ポツリポツリと話し始めた。
 昨年、秩父では飢饉で餓死者がたくさん出て、字が読めない多くの親たちはだまされて、あたしたち若い娘を女衒に売り渡してしまった。おさとも秩父から出て途中、だまされたことを知り、手引きと女衒が休んでいるときに、逃げ出してやっとの思いでここにたどり着いたと。
(田舎は、大変なことになっているんだな。細かなことは落ち着いてから聞き出すか)
銀之助は、おさとを勝手場に連れて行き、百文を手渡した。
「おさとさん、これで着物を買って、湯屋に行ってきな」
おさとは、何度も頭を下げながら、礼をいって、裏口から出て行った。
いつの間にか、闇が店の周りを覆い始めていた。
銀之助は、行灯に灯を入れた。
最初の客が、障子戸を開けて入ってきた。
「いらっしゃい」
「酒二合、頼む」
「はい」
その客に続き、客が入れ代わり立ち代わりやって来て、応対に銀之助はてんてこ舞いであった。
半刻(一時間)ほどたって、湯屋から戻ったおさとが店を覗いた。
(お客さんが、いっぱい)
そして、勝手場に行った。
「御主人、手伝わせてくれ」
 おさとがいった。
「えっ、あのおさとさんかい」
 先ほどのみすぼらしいおさととは、見違えるような美しい娘に変っているのに銀之助は驚いた。
「ちょっと待ってくれ」と銀之助は二階から襷と前掛けを持ってきて、おさとへ渡した。
 黄の小袖に紺の前掛け、
「おさとさん、似合うね」
 おさとはてれた。
「おさとさん、この銚子、奥の席にいる二人組のところに運んでくれないか」
「うんだ」
 おさとは、てきぱきと銀之助のいうことに従って、こまめに働き回った。
夜五ツ(八時)、客がいなくなったのを確かめ、銀之助は店を閉め、片付けはじめた。
 おさとも銀之助にならって、客の使った銚子や皿を洗い片付けた。
 それが終わると、行灯の灯も近くを残して落とし、二人は長椅子に腰を下ろした。
「おさとさん、これからどうする?」
「御主人、実は・・・・」
「なんだ」
「ええ、ここで働かせてもらえねえか、飯だけ食べさせてもらえばいいんだ」
「おさとさんが、よければいいけど」
「一生懸命やるだ」
「分かった、じゃあ、やってみるか」
「御主人、ありがとう」
「寝るところはどうするか?」
 おさとは、黙った。
「今夜はここへ泊っていけ。明日、住む場所を探してやろう」
「何から何まで、すまねえ」
銀之助は、おさとに留守をに頼み、湯屋に行った。
翌朝。
 銀之助は鍋の昆布のだし汁に、醤油、酒、塩を加え、そして卵を入れ泡がたつまで手際よくかき混ぜ、火の入ったかまどにのせた。
 また、棒手振りから買った蜆を使って、味噌汁を作った。
「さあ、できあがりだ。飯にしよう」と銀之助はおさとに声をかけた。
「おいしい、これ、何というんだ」
「玉子ふわふわというんだ」
銀之助とおさと二人は、玉子ふあふあと豆腐の味噌汁を食してから浅草寺の裏手の自身番に向かった。
 自身番の障子戸を「おはようございます」と挨拶しながら開けると、源治が二人を迎えた。
「銀之助さん、朝早くからどうしたんだね」
「へい、御相談したいことがあるんで」
銀之助は、おさとを紹介し、おさとの住む所がないかと源治に尋ねた。
「そうだな、徳さんの長屋が空いているかもしれん、おーい、徳さん」
 奥から、徳衛門が出てきた。
「おはよう、銀之助さん。どうしたのかね」
 銀之助は、おさとを徳衛門に紹介した。
源治は、徳衛門におさとのことを話した。
「おさとさん、ちょうど一軒空いているんだが、うちの長屋でよかったら、いいよ」
 おさとは、銀之助の顔を見てから、徳衛門に向かって頭を下げた。
「おさとさん、俺もちょっと前までは、徳衛門さんの長屋に世話になっていたんだ。長屋の住人は、いい人ばかりだから安心しな」
 銀之助は、ほっとしたように頷いた。
 銀之助とおさとは、徳衛門に連れられて、長屋に入った。
 家は、こぎれいにされていた。
「おさとさん、今日、明日で、道具をそろえたらいい。あさって、明け五ツ(八時)に店に来てくれ」といって、銀之助は、二百文をおさとに渡そうとした。
「こんなにもらっちゃ」
「昨日の手間賃だ、遠慮はいらねえよ。布団や鍋釜、買いな」
 銀之助は一軒一軒まわって、長屋の住人におさとを紹介し、面倒を見てくれるよう頼んだ。
江戸は、大晦日を迎えた。
朝早くから、「おうぎ、おうぎ」と扇売りが、何度もうまいもん屋の前を通り過ぎて行った。
店の勝手場では、銀之助が、年越し蕎麦を打ち、おさとが切り、粉をつけて一人前ずつ分けていた。
二十人前ぐらい作り終えた。
銀之助は休むもなく、もち米をふかし始めた。
「おさとさん、餅つきはしたことがあるかね」
「ええ、田舎で毎年、名主さんの家でやっただ」
 おさとの目から急に涙が、こぼれ始めた。
 銀之助は、おさとの身の上に同情し、話しかけるのをやめた。
(泣きたいだけ泣かせてやろう)
「御主人、すみません」
 銀之助は、昨日洗った臼と杵を店の外に運んだ。
「おさとさん、ふけたら持ってきてくれ」
「はーい」
銀之助は、杵でつき、おさとはこねた。
最初はぎこちなかったが、すぐに二人の呼吸は合った。
「おさとさんは、こねるのがうまいな」
「御主人はつくのが上手ですので」
「わいわい」と、近所の子供たちが嬉しそうに集まってきた。
「おじさん、やらせてよ」
「よし、やってみな」
 子供たちは腰をふらつかせながら、何とか振り下ろすことができた。
 皆、笑ってみていた。
つきあがった餅を二人で丸め始め、出来上がったものを子供に与えた。
「おさとさん、残った餅は、正月、我々が食べたり、お客に出したりしよう」
 昼になり、店を開くやいなや、途切れることなく、年越しそばを食べに客がやってきた。
「すごい」と、おさとは驚いた。
「これほど来るとは」と、銀之助も蕎麦が足りるか心配になってきた。
銀之助は蕎麦を茹で皿に盛り、それをおさとは、客へ運んだ。
蕎麦だけでなく、酒やつまみの注文もあり、二人とも、ひと息も付かずに働いた。
夜五ツになって、とうとう蕎麦が無くなり、ようやく店を閉めることができた。
「おさとさん、ご苦労様。来年は四日からまたよろしく」
「はい、こちらこそ」
 銀之助はおさとに客商売だからと言って、少しずつ話し方を教えていたので、最近では、姿格好だけでなく話し方も、秩父の田舎から出てきた娘とはだれもが思わず、銀之助の妹と思っていた。
 おさとが帰ると、今までの喧騒とは裏腹に静けさが銀之助をおそった。
銀之助にとって、‘うまいもん屋’で正月を迎えるのは初めてのことであった。
浅草寺で打たれた除夜の鐘を聞きながら、眠りの底におちいった。
そして、銀之助は、一人だけの静かな元日を迎えた。
まだ町は闇の中に包まれていたが、空を見上げると星がいっぱい輝いていた。
「今日は、天下晴れだ。縁起がいいぞ」
さっそく、浅草寺へ明け六ツ(朝六時)に詣でた。
夜が明けていないのに、参道は初詣で身動きが取れないほどの人出であった。
やっとのことで、銀之助は、一すくいの煙を体に浴びせそして、本堂に上がると読経の声が響き渡っていた。
「まかはんにゃはらみったしんぎょうかんじざいぼさつ ぎょうじん ~」
(本年も良い年でありますように)と、手を合わせた。
「銀之助さん、本年もよろしく」
 拝み終わって、帰ろうと振り向いた時、銀之助は檀家総代の与助から言葉をかけられた。
 挨拶を返した銀之助は、ここで働けるのは、与助さんたちのおかげだと礼を言い、そして、店で働いているおさとのことを手短に話した。
「銀之助さん、それは良いことをしおったな。何か困ったことがあったら遠慮なく言ってきなさい」との与助の言葉に礼を言い、寺を辞去した。
あてもなく、銀之助は歩いた。
腹が空いてきたので、近場の蕎麦屋に入った。
「いらっしゃい」と女が声高らかにいった。
 店は初詣の帰りの着飾った人々で繁盛していたgy。
 席に案内された銀之助は女に注文した。
「酒と田楽豆腐と納豆汁をもらおうか」
 酒が飲みながら、田楽豆腐を味わった。
(これは、うちよりちょっと甘みがあるな。うまい)
 蕎麦が運ばれてきて、それを食した。
(なるほど、二八か)銀之助は唸った。
(このぐらいのこしの強さを店で試しに作ってみるか)
 三が日の間、銀之助はあちらこちらの料理屋に行って、食べ比べをした。
 四日、銀之助は、勝手場で昼の準備をそして、おさとは、店前の通りを掃除していた。
「あんた、秩父にいたおさとさんかい。やっと見つけた」
おさとが顔を上げると、顎から耳元までが張りついたような傷を持った男が立っていた。
「どちらの方?」
「あんたの親父に金貸した、丸金の助五郎というもんだ」
「何の用ですか」
「あんた、逃げたんだよな。おかげでこっちに銭が入ってこないんだ。早く女衒のところへ連れていく。それとも、返してくれるか」
「いやだ」
「十両なんだが、一年たったもんだから、三十両になっちまった」
「三十両、そんな!」
「払えなけりゃ、女衒に連れ戻す」 
 おさとの顔色は真っ蒼になっていた。
「おさとさん、どうした」
 銀之助が近づいて来たのを機に、助五郎は着物を端折っておさとから離れて行った。
「おさとさん、あいつは誰だい?」
 おさとは黙った。
「いいたくなけりゃ、言わなくていいよ」
銀之助は、店の中に入って、まずは田楽豆腐を作るために、豆腐をいくつも長方形に切って、それを串に通し始めていた。
(あいつはやくざ者だな。正月から、厄介なことが起こりそうだ)
おさとも勝手場に入って来て、銚子、徳利、茶碗を出し始めた。
(あの助五郎ってやつ、またきっと来るわ。どうしよう)
ガチャアーン
「すみません」
 おさとは、泣きそうな顔をしていった。
「気にしなくていいよ」
おさとは慌てて、割れた茶碗を拾った。
「おさとさん、田楽のたれを作ってもらえないか」
「はい、どうしたらいいんですか」
「その棚にある、味噌、そして、少々水飴、酒、みりんを入れ、弱火でよく混ぜてくれ。
水や、みりんで適当な硬さを、いいやこれからは俺が見るから」
「どうですか、味は?」
「いい味だ。おさとさん、練馬から仕入れてきた大根を切ってくれないか」
昼九ツ、‘うまいもん屋’の今年最初の店開きの時間になった。 
外は、待ちきれずに客たちが寒空の中で列を作って並んでいた。
銀之助とおさとはてんてこ舞いだった。
(だんだんお客が少なって来たわ)とおさとが思った時、 あの男が入ってきた。
 おさとは、逃げるようにして、勝手場に入り、銀之助にあの男が来たことを知らせた。
「おーい、この店は注文を取りに来るのに時間がかかるのか」と、男が怒鳴った。
「へーい、今、行きます」と、銀之助は勝手場で返事をした。
「おさとさん、もう店には出なくていいから。二階に上がってな」
「御主人、すみません」
 銀之助は、男の前に立って言った。
「お待たせしました」
「おせえな。酒二合と田楽豆腐を二本だ」
「へい、ありがとうございます」
 銀之助は、勝手場に行き、手際よく田楽に味噌をつけ、温めた酒を徳利に二合入れた。
「お待たせしました」
「今度は、早えな」
 銀之助が勝手場に戻ろうとした時、男が声をかけてきた。
「ちょっと待ちねえ」
「何か御用で」
「いつもの娘はいねえのか」
「ちょっと出かけてますが、何か」
「いや、なんでもねえ」
(しつこい野郎だ)
「他に何か」
「また呼ぶから、もういいぜ」
 銀之助は、勝手場に戻り、客にふるまう雑煮を作り始めた。
先ほど切っておいた大根、小松菜と里芋を醤油味のすまし汁に入れて煮立たせ、焼いた切り餅六つを入れてた。
六つの椀に、手際よく温まった雑煮を入れ、客たち一人ひとりに運んだ。
「銀之助さん、これ頼んでないよ」
「祝いの雑煮ですから、銭はいりません」
「そうか、ありがたい。御馳走になるか」
 そして、最後にあの男のところに行った。
「雑煮いかがですか、これは祝いの雑煮ですので、銭は戴きません」
「もらおう」
 丸金の助五郎は、盃をおいていった。
 銀之助は、椀を置いた。
「ほう、この雑煮は珍しいな」
「へい、これは家康様が江戸に来られて、譜代の家臣達に贅沢しないよう戒めるために考え出した雑煮でございます。江戸っ子はこの雑煮をよく食べていますが、江戸は、他国の者が多く皆自国の雑煮で正月を祝っているので、地元の江戸の雑煮を知っている方は少ないのです」
「もういい。おまえの名はなんていうんだ」
「銀之助と申します。お見知りおきください」
「ところで、娘はいつ帰ってくるんだ」
「ちょっと、出かけてくるといったんですが」といって、銀之助が立ち尽くしている間に、男は、一気に雑煮を食べ終えて言った。
「待て、いくらだ」
「へい、二十四文で」
「また来るからな」
 三十文おいて、丸金の助五郎は帰って行った。
「おつりは」
「いらねえ」
 助五郎が帰ってから、半刻ほどで客は一人もいなくなったので、銀之助は店を閉めた。
二階からおさとが下りてきて、銀之助の片づけの手伝いを終わった後に、おさとが青ざめた顔で言った。
「御主人、お話があるのですが」
「ここでいいかい」
銀之助は、樽に腰を掛けた。 
おさとは、金貸しの助五郎から聞いた話を怯えながら話した。
「借りた十両が、三十両だと。高利もいいところだ。おさとさんは、おとっつあんが借金していたことを知ってたのかい」
「いいえ、何も聞いてません」
「身寄りはないのかね」
「上州にじいちゃんとばあちゃんがいます。まだ、生きていればですが」
「分かった」
「御主人、ご迷惑かけてすみません」
「今日は、ここへ泊って行った方がいい、明日早く、長屋においらが送って行こう」

翌朝七ツ。
銀之助は、裏口の戸をそっと開け外の様子をうかがった。
まだ暗く、あたりに人の気配はなかった。。
星が、寒空で震えている。
(よし、行くか) 
 銀之助は、階段の途中から、声を出した。
「おさとさん、起きな」
「ウ~、御主人」
「長屋に帰るぞ」
「はい」と言って、おさとが起き上がり着替えた。
銀之助は、階段を下りた。
おさとは、黄の小袖の上に紺の打掛をまとって、裏口に来た。
銀之助も外の闇に埋もれるように、紺下地の縞物小袖にこげ茶の羽織を着ていた。
二人は、前掛けを頭巾代わりに頭にかぶり、そして、銀之助が戸を開けながらいった。
「さあ、行くか」
二人は、店を後にし、浅草寺を抜けたところで、、銀之助は後ろを振り返りつけられていないことを確かめて、提灯に火を入れた。
身体が冷え切った二人は、棟割りの徳衛門長屋に着いた。
銀之助は、浪人の橋本順之助の住んでいる家の腰高障子に向かって、声を掛けた。
「銀之助です。橋本様、おはようございます」
「銀之助さん、こんなに早くどうした」と言いながら、橋本が戸を開けた。
「寒いから早く入んな」
「こんなに早くからすみません」
「一体どうした。まあ、きたない部屋だが、上がって温まってくれ」といって、すぐに敷き布団を三枚にたたみ、隅にどけて、火鉢を真ん中に置いた。
「ちょっと、火を起こしてくるから、待っててくれ」
橋本は、外に出て火をおこし、炭を燃やした。
「またせたな」といって、橋本が燃えた炭を、火鉢に入れた。
銀之助は、土瓶を火鉢の上に置いた。
「さあ、お二人さん、暖まってくれ」
三人は、火鉢に手をかざした。
 橋本順之助、神田にある回転流で有名な畑中道場の師範格の一人であった。 
 背丈は、五尺三寸ぐらいで大きい方ではないが太っており、顔は丸くその中に愛嬌のある鼻が目立っていた。
そのような顔つきのため、強そうな侍には見えなかった。
「橋本様、お願いがあって来たんです。実は、このおさとさんが金貸しから狙われてんです」
 銀之助は、おさとから聞いた話、金貸しの丸金の助五郎の人相などを立て続けに話した。
黙って聞いていた橋本は、銀之助の話が切れたときに訊ねた。
「銀之助さん、それで、それがしにどうしろと」
「はい、橋本様におさとさんの祖父母の住んでいる上州へ、おさとさんを送って行っていただけないかと」
「それはいいが、あの悪徳金貸しに悟られると厄介になりそうだな」
「隣のおすみさんに、身代わりになってもらおうかと思っているんですが」
 銀之助は、簡単に自分の立てた策を二人に話した。
「分かった。やってみるか」と言って、橋本がおすみの家との仕切り壁を叩いた。
「おすみさん、橋本だ。銀之助さんと一緒だ。ちょっと、相談があるんだが、来てもらえんか」
 しばらくすると、障子戸が開いて、うす桃色の小袖を着て、雀鬢に小満島田髷の質素な姿だが面長で切れ目の美人の部類に入るおすみが入って来た。 
「おはようございます。三人そろわれてどうしたんですか」
おすみは、二十代後半で、いまだ独り身で、浅草山谷の料理屋‘八百善’に仲居として働いていた。
「おすみさん、上がって座ってくれ」と、橋本が言った。
「まあ、湯も出さないで、いま、湯を入れますから」と、おすみは土間に行って、土瓶に湯を入れて、茶碗とを盆で運んで来た。
「朝から一体どうしたんです」といいながら、土瓶をとって、茶碗に湯を注いだ。
「こんな早く、申し訳ない。実は銀之助さんからおさとさんのことで頼まれてな。詳しいことは銀之助さん、頼む」
 橋本は、茶碗を手に取った。
「はい」と言って、頭を下げてから、銀之助は、橋本に話したことをおすみに話した。
「ようござんす、やらせてもらいましょう」
 おすみの返事は潔かった。
「ありがとうございます。この企ては危険が伴っておりますので、お二人とも十分注意してください」
「なに、おさとさんや銀之助さんに比べりゃ、大したことはありませんよ」
 おすみは微笑んだ。
「三人とも気を付けられよ」
 橋本は、おすみの顔を見ていった。
「では、先ほどいいましたように、明日決行しますので、よろしくお願いします」
 銀之助とおさとは二人に頭を下げた。
 そして、おさとは、支度のために家に戻るといったので、おすみも手伝うと言い二人は橋本の家を出て行った。
 銀之助は、橋本の家で待つことにした。
「銀之助さん、軽く一杯どうかな」
「いや、これから戻って、店の準備をしなくてはならないので。申し訳ありません」
「では遠慮せずに、それがしは一杯」
 といって、土間に下り、徳利と茶碗そして、八つ頭、牛蒡、干し椎茸、人参の煮しめが入った鍋を持ってきて、鍋を火鉢の上に置いた。
「寒い時は、これに限る」
「橋本様、ちょっと厠に行ってきます」
 銀之助は、障子戸を開け、まだ誰もいない井戸端を通り抜けて、厠に行った。
 用を足し終わって出た時、鳶職人の源一の家から女房のおつたが出てきた。
「銀之助さん、こんな朝早くから一体どうしたのよ」
「おはよう、おつたさん」
 銀之助は困った。
 おさとが、世話になっただけでなく、銀之助もこの長屋に住んでいた時にはいろいろ面倒を見てくれた世話付きのおつただが、おしゃべりで、徳衛門長屋の瓦版ともいわれていた。
(正直にいってしまおう)
「実は、おさとさんのことで、橋本様とおすみさんにお願いに来たんだ」
 そういって、銀之助は、かいつまんでおつたに話をした。
「そうだったの、あたしに何んかできることあったら、遠慮なくいってよ」といって、おつたは井戸の水を桶に入れて家に戻って行った。
 間もなく、おつたが出てきて、おさとの家に入った。
「おさとちゃん」
「あら、おばさん」
「おさとちゃん、出て行くんだってね。元気でね。これ持ってて」と言って、おつたは、簪を渡した。
「おばさん、こんな大事なものをいいの」
「いいんだよ。もうあたしのような年増じゃ挿すことはないんだ。挿してみなよ」
 おさとは目を潤ませて、髪に挿した。
「おさとちゃん、似合うよ」
「おばさん、ありがとう」
 おつたは、家に戻って行った。
「そうか、おつたさんにいってしまったのか」
 銀之助から話を聞いた橋本が、諦め顔でいった。
 しばらくして、おつたがお櫃を持って入って来た。
「みんな、まだご飯食べていないんだろう」
「橋本様、酒ばかり飲んでいないで、早くみんなの茶碗お出し」
「橋本様は、この後大事なお仕事があります、私が取ってきます」と、ちょっと前におさとの家から戻っていたおすみが言って、腰を上げた。
おさとが行李を背負って入って来た。
「おさとちゃん、大荷物になったね」と、おつたが言った。
 銀之助とおさとは、飯と香の物そして、煮しめの朝餉を食して、店に戻った。
五ツ、銀之助は暖簾をかけ、いつものように‘うまいもん屋’の朝が始まった。
「おさとさん、茶飯と玉子ふわふわそして、いつもの田楽豆腐を作るよ」
「はい」
「茶飯の作り方なんだが」
「あたし、知ってます。米にほうじ茶を加えて炊き上げればいいんでしょ」
「そうだ。頼む」
 しばらくして、おさとは玉子ふわふわについて聞いてきた。
「これは、知らんだろうね。まずだし汁を煮立てて、そこにかき混ぜた卵を落としてから蓋をするんだ。そうするとすぐに卵がふわっと盛り上がってくるんだ。それで出来上がりだ、簡単だろう」
「はい」
「おさとさんのおじいさんとおばあさんに作ってやると、きっと喜ぶよ。だし汁の作り方は、あそこの引き出しの帳面に書いてある。字は読めるかい」
「多少」といって、引き出しの帳面をじっと眺めていた。
昼時になった。
「おさとさん、これが最後だ。九ツ半頃に橋本様たちが店に来る。あいつも来るだろうから、いつものように振る舞っておくれ」
「はい、御主人。大変お世話になりました」
「何か困ったことがあったら、いつでも来なよ」
 銀之助は、壁に茶飯、玉子ふわふわそして、田楽豆腐の札をかけた。
昨日までと違って、家族連れは少なく、職人姿や前掛けをかけた商人たちが、昼餉を取りに、入れ替わり入ってきた。
入って来た客に対して、おさとは力を振り絞って、大きな声で迎えそして、注文を取った。
半刻ほどして客足が途絶えた時、銀之助は出入り口の障子戸を開けて外をうかがった。
道角に人影を見た。
(あいつだ。ここを見張っているな) 
「おさとさん、二階に上がっていな」
 銀之助は、勝手場に戻って来たおさとに声を掛けた。
 おさとが、二階に上がった直後、助五郎が、手下を連れて店に入って来た。
「いらっしゃい」
「おい、娘が来るまでここで待たせてもらうぜ。酒二合と、田楽豆腐四本だ」
 注文を受けた銀之助は、勝手場に戻った。
しばらくして、、紫の御高祖頭巾(方形の布に耳掛けのひも輪をつけたずきん)で顔を覆った女が入って来た。
「いらっしゃいませ」
(これは都合がいいや)
 銀之助は、勝手場を出て女を迎えた
「何にしますか」
「茶飯と玉子ふわふわをお願いします」
「はい」
 続いて、二人とも編笠をかぶった侍風の男と女が入ってきた。
女は、荷を背負っていた。
「いらっしゃいませ」
 勝手場に戻ろうとした銀之助が声を掛けた。
席に座るや、編笠をかぶった女は、厠はどこかと銀之助を手招きして尋ねた。
銀之助から聞くや否や荷もおろさずに、奥の階段から二階に上がった。 
編笠を外したのは、おすみだった。
「おさとちゃん、早く着替えるのよ」
 二人は、着物を脱ぎ相手の着物に着替えた。
おさとは編笠をかぶる前に、おすみに両手を合わせた。
「いろいろありがとうございました」
「いいのよ、お互い様じゃない。困ったことがあったら、また来てね。早く、橋本様のところに行って」
おさとは、奥の助五郎を見ずに侍の所に行った。
助五郎は、田楽豆腐をつまみに酒を飲んでいた。
侍が、おさとに声をかけた。
「おたか、ここには鰻はないんだとよ。他の店に行こう」
「お客さん、すみません。またお越しください」
 (橋本様、よろしく頼みます)銀之助は、二人に頭を下げた。
 二人は、うまいもん屋を出て行った。
 その後、料理を食べ終わった御高祖頭巾の女も、銀之助に声をかけてから厠へと向かった。
 しばらくして戻ってくると、勘定を置いていくと言って、店を出て行った。
 奥にいた助五郎は、ずっと二人を見ていた。
銀之助は、助五郎を一瞥して勝手場に戻った。
 勝手場では、着替えをしたおすみが茶碗を洗っていた。
「すまねえな、おすみさん」
「いいんですよ。お互い様じゃないですか。奥にいるのが悪徳金貸しですか」
「ええ、丸金の助五郎って奴です」
「顔付が、いかにも悪党って感じですね。おさとさんも生きた心地しなかったでしょうね」
「そうなんだ。いつも怯えていましたよ」
「橋本様、いつごろ戻ってくるんでしょうね」
「そうですね、何もなければ、四日後くらいでしょうか」
「おーい、誰かいねえのか」
 助五郎のどなり声が、勝手場まで響いた。
「あの人だわ、私が行ってきます」
おすみは、いやな顔していった。
「気を付けてください」
 銀之助は、心配そうだった。
「はーい。いま行きます」
 おすみが、大声で返事をした。
「何か御用ですか」
 おすみは、笑顔を浮かべて助五郎にいった。
「あの娘はどうした?」
「あの娘って、どなたのことですか」
「ここで働いていたおさとだよ」
「すみません、来たばっかりで」
「役に立たねえ女だ。主を呼んで来い」
「はい、ちょっとお待ちください」
 おすみは、勝手場で椀や皿を片付けていた銀之助に助五郎が呼んでいることを伝えた。
「そうか、気づかなかったようだな」といって、助五郎のところに赴いた。
「お客様、何か御用で」
「おい、娘はどうしたんだ」
「へい、この間もいいましたように、まだ帰ってこないんです」
「嘘も休み休みつけ、昨日、長屋からお前と娘が、この店に戻ってきたのをこいつが見たんだ」
 手下が頷くと、首すじに入れ墨が、見えた。
(見られていたか)
「あれは、おさとさんじゃありません」
「とぼけやがって。もしかして、先ほど紫の御高祖頭巾の女か。えー、どうなんだ」
 助五郎は、そばにいた手下に顎を杓った。
 手下は、着物を端折って店を走り出て行った。
 助五郎は立ち上がり、銀之助の襟元を掴んだ。
「お客さん、店の中でこんなことは困ります」
「じゃ、娘がどこへ行ったのか教えろ」
「知りませんよ」
「いわなきゃ、痛い目に合わせてやる。外へ出ろ」と襟元を掴んだまま、銀之助を店の外に引きずり出した。
 銀之助は、出された時に障子戸を閉めた。 
おすみは、勝手場から出てきて店にいる客になんでもないから気にしないでくれといって、障子戸を三寸ほど開けて外を覗いた。
 銀之助は、障子戸閉めるやいなや、襟元を掴んでいた助五郎の両手首を握って、外側に捻った。
「いてえ~」
 その隙を狙って、銀之助は助五郎の足を払った。
その瞬間、助五郎はドスーンという音を立てて、地べたに尻もちをついた。
「この野郎、やったな」
 助五郎は、立ち上がろうとしたが、腰を打ったせいで起き上がれない。
「お客さん、おさとさんにいったい何の用なんですか」
「うるせえ、あいつの親父が借金を残して死んだんで、おさとに肩代わりしてもらうんだ。分かったか」
「そうだったんですか。その証文は、あるんですか」
「そりゃ、あるに決まってらあ」
「見せてもらえませんか」
「そんな大事なもん、見せるわけにはいかねえ。覚えてろ」
 助五郎は、何とか立ち上がり、足を引きずりながら去って行った。
銀之助は何もなかったかのように、店に入り、覗いていたおすみと一緒に、客に笑みを絶やさずに頭を下げながら、勝手場に戻った。
客たちは、驚きを隠さずに銀之助を見ていた。
「銀之助さん、大丈夫。強いのね」
「ええ、あいつが弱いのです」
「でも、いつか、仕返しに来るかもしれないわ」
「すぐに来るでしょうね。おさとさんが、遠くに逃げてしまわないうちにと思って」
「おすみさん、大丈夫ですか」
「ええ、八百膳でもこんなことがたまにありましたので、慣れてはいませんが大丈夫です」
「そうですか、じゃ、今日はもういいですから、今、賄の飯を作りますんで、食べて帰って下さい」
 銀之助は、残り物とありあわせの物で昼餉を作った。
 今日から、うまいもん屋は夜も店を開く予定であったので、銀之助も急いで食べた。
「銀之助さん、いつもこんなに多くのお客が来たら、一人じゃ大変じゃありませんか。また、夜もやるなんて」
「客がおいしいといって食べているのを見るのが好きなもんで、大変なんて思ったことがありません。でも、もっと店を大きくしたいので、おさとさんが来てくれた時は助かったんですが。おすみさん、だれかいい娘さん御存じありませんかい」
しばらく考えていたおすみが、箸をおいた。
「娘じゃなければだめなんですか」
「いえ、そんなことはありませんが、だれかいい人いますか」
「あたしじゃだめですか」
「おすみさんが?とんでもねえ。あの有名な八百膳の仲居頭をやっているおすみさんが、こんなちんけな店を手伝ってくれるなんて。いいんですかい、あまり給金も出せませんよ」
「もう八百膳のように大尽相手の商売は嫌になっちゃたんです。銀之助さんのような気持ちを持った商売をしたいんです」
「そうですか、それは有り難い」
「ところで、銀之助さん。今日の夜の献立は?」
「味噌漬け豆腐と田楽豆腐、そして飯は茶飯で考えているんですが」
「そうね、味噌と豆腐ばかりね。味噌漬け豆腐をやめて、煮しめにしたらどうですか」
「椎茸、人参は有るんだが、八つ頭と牛蒡があまり無いな」
「あたし、買ってきます。ついでに、八百膳に寄ってきます」
 おすみは、銀之助から銭を預かって、店を出た。
(助五郎たちはきっとくる)
銀之助は、二階の押入れから丸棒を取り出し、正眼の構えから素振りを数回繰り返した。
‘ビュー’‘ビューン’‘ビューン~’
(よし、まだまだ鈍っていねえな)
 この丸棒、径は一寸程(三センチ)、長さが二尺半(約七十五センチ)で芯には、鉄材のようなものが埋め込まれており、刀に打ち込まれても切断されることがないように、銀之助が手作りしたものであった。
また、鍔は、使用する時、簡単にすぐに取りつけることができる。
暮れ七ツ頃(四時)、おすみが戻ってきたので、すぐに煮しめを二人で作り始めた。
「準備ができましたね」と、おすみはいってから、
「あたしは暖簾をかけて、掛行灯に火を入れてきます」
銀之助は、店の中の五つの置行灯に灯をともした。
行燈の灯りは、冬の暗さに暖かさを醸し出した。
早くも客が入ってきた。
「いらっしゃい」
「あれ、おすみさん。どうしたんだ」
おすみが最初に迎えた客は、おすみと同じ徳衛門長屋の住人で、魚の棒手振りを職としている勇治だった。
 勇治は朝早くから日本橋の河岸で仕入れた魚を桶に入れそれを天秤棒で担いで、毎朝、町内を売り歩いている。
「ここで働かせてもらっているのよ。勇治さん、何にしますか」
勇治は、酒二合と田楽豆腐を三本頼んだ。 
おすみは勝手場に戻って、銀之助に田楽豆腐を頼み、酒二合を手際良く、徳利に入れた。
「銀之助さん、勇治さんが来てくれたわ。ねえ、うまいもん屋でも魚料理を一つぐらい献立に入れたらどうかしら。勇治さんから買えばいいし」
「おいら、魚料理知らないんだ」
「あたし、多少は知ってるわ」
 銀之助は考えておくといって、田楽豆腐を入れた皿をおすみに渡した。
(あれから、奴はとうとう来なかったな)
 客がいなくなった時期を見計らって、銀之助はいつもより早く店を閉めた。
翌日の朝五ツ(八時)。
「おはようございます」
 おすみが元気な声を出して、うまいもん屋に入ってきた。
「おはようございます」
銀之助は、勝手場にいた。
「銀之助さん、今日の昼の献立は何ですか?」
「、田楽豆腐、飯物は、ねぎ飯にしようかと思うんだが。おすみさん、ねぎ飯知ってますか」
「ええ、ねぎ飯はよく八百膳で賄い食で食べたわ。銀之助さん、あたし作っていいかしら」
「頼みます」
「それから、また豆腐だけになっているのが」と、おすみが申しわかなさそうに言った。
「本当だ、つい簡単なものになってしまうんだな」
「田楽豆腐は注文が一番多いから、定番にしたらどう」
「そうだな、それがいい。もう一品は何がいいかな」
「玉子ふわふわにしましょうよ」
 銀之助が嬉しそうに頷いた。
 おすみは、飯を炊く準備にかかるとともに、だし汁を作りだした。
 銀之助は、焼き豆腐を短冊状に切り、串に通して、下準備は終わった。
 おすみは深谷のねぎを半寸ほどに切り刻んで、先ほど作っただし汁を米の入った釜に入れて、炊き始めていた。
「さすが、おすみさんは手際がいい」
「八百膳で見よう見まねで、覚えたんですよ。本業は仲居ででしたけど。銀之助さんは、以前うどんとそばを売っていたそうですけど、どうして今はお品書きに入れないんですか」
「担ぎ屋台から仕事を奪うことになるので、年越蕎麦以外ははやめているんです」
「そうでしたか」
 四ツ半になった。
 おすみが暖簾を架けに外へ出たその時、助五郎が六尺もあろうかという背の高い侍を連れて、うまいもん屋から三間(五メートル強)ほど離れたところに立ってこちらを見ていた。
 それに気づいたおすみを見て、助五郎が走り寄ってきて怒鳴った。
「どけ、奴はいるか」といって、助五郎はおすみを横に押しのけた。
「なにすんのよ」
 二人はおすみを無視して、店に入り怒鳴った。
「銀之助、いるか」
 勝手場にいた銀之助は、傍に置いておいた丸棒を背の帯に挿し込んで入口に行った。
(丸金の用心棒か、でかい男だ。注意してかからんと)
「助五郎さん、証文を持ってきてくれたんですか」
「何馬鹿なこといっているんだ。先生、こいつを痛い目に合わせておくんなさい」
 六尺(一メートル八十センチぐらい)ほどの侍が、助五郎の前に出た。
「拙者、赤沢惣右衛門と申す。無外流を少々たしなんでおる。おさとやらの行方をいえば、痛い目に合わずに済むんだがどうだ。いわんか」
「昨日もそこにいる助五郎さんにいったんですが、あっしはなにも知らないんです」
「嘘つけ、どこにかくしたんだ。早くいわんと痛い目にあっても知らねえぜ」
 助五郎が、横から口を出した。
「しつこいお方だ、知らないといったら知らないんだ」
「しゃらくせえ、先生やっちまってください」
 赤沢惣右衛門は、銀之助をうながし、外に出た。
 銀之助は赤沢から殺気を感じ、背中の丸棒を帯から抜き取った。
「それはなんだ、それで拙者に勝てると思っているのか!」
赤沢は、そういったまま、いつまでたっても抜かない。
(奴は、抜き打ちか、一発でおいらを仕留めるつもりだな。ちょっと仕掛けてみるか)
 銀之助は上段に構えてから、赤沢の方へ、足を摺り寄せ一気に振り下ろした。
その瞬間、赤沢は左足を一歩下げ、銀之助の一撃を避けながら抜刀し、銀之助の頭上に振りかかった。
銀之助の丸棒が、赤沢の胴を先に打った。
‘ドスーン’
 赤沢は、腹を押さえてつんのめった。
「この野郎!」
 助五郎は、懐からを抜きだし、銀之助に飛びかかった。
 銀之助は、とっさに地面に倒れ込み、一回転して体勢を立て直した。
 さらに助五郎が、匕首を銀之助に突き刺そうとした時、銀之助の丸棒が匕首を持っている手首を撃った。
‘ボギ’
「ぎゃー」
 助五郎の手首から匕首が落ち、手首から下がだらりと下がった。
 銀之助は、近づいて助五郎に声をかけた。
「おい」
「おねげえだ、助けてくれ」
「証文、見せてくれねえか」
「俺は、持ってねえ」
「誰が、持ってるんだ」
「俺、俺の親父だ」
「親父さんのところへ連れて行け。二人とも、逃げるとどうなるか分かっているだろうな」
 助五郎は、手をだらんと赤沢は、腹を抑えながら前のめりに、日本橋へ向かって歩き始めた。
銀之助は、傍に来ていたおすみに店を頼んで助五郎の後に続いた。
「お気をつけて」
 おすみの心配そうな声が寒風に消された。
大川端近くに出ると、銀之助たちの歩みを阻むよう、風が強まり、雪が舞い始めた。
(早く始末をして帰らないと、帰りは難儀するかもしれんな)
「もっと早く歩け」
「旦那、赤沢さんが重くてこれが精いっぱいだ。手も痛えし」
一刻ほどかかって、神田川に架かっている浅草橋を渡った。
風は止み、ほんのりと川辺は、雪が積もっていた。
銀之助は、気が張り詰めていたせいか、いっこうに寒さは感じなかった。
数町ほどで丸金の店に三人は着いた。立派な門構えであった。
(ここか、悪徳金貸しの店は)
助五郎は、玄関の戸を開けた。
「おやじ、あいつが来たぞ」
土間を蹴って、逃げるように廊下を走って行った。
 助五郎と入れ替わりに、三人の用心棒が出てきた。
「お前が銀之助か」
 古株とみられる侍がいった時、傍に座り込んでいた赤沢惣右衛門に気づいた。
「赤沢、どうした」
 腹を押さえながら、うめくようにいった。
「こいつにやられた。手ごわいから気をつけろ」
「みんな、こいつをやっちめえ」
「おいら、助五郎さんの親父さんに話があって来ただけなんだ。無駄な殺生は、無しにしないか」
 一番若い侍が柄に手をかけ、抜刀した。
「うるせえ」
 銀之助は、後ずさりで外に出、後ろの帯に挿した丸棒を取った。
「なんだ、俺たちと棒でやるつもりか、馬鹿にしやがって」
 抜刀した侍は、上段に構え間合いを詰めてきた。
 銀之助は、中段の構えを取った。侍は、止まった、次第に呼吸の乱れが銀之助にも聞こえてきた。
 呼吸の音が止まったと思いきや、相手は、真向に銀之助の頭に打ちこんできた。
 銀之助も合せて、真向に打ち込んで、相手の剣を打ちはじいた。
‘バチ~ン’
音が消えた瞬間、銀之助の丸棒が相手の肩を撃っていた。
「一刀流、切落しか、小癪な」
 次の相手が、肩を撃たれた侍の脇から、正眼の構えで間を詰めてきた。
(こいつは、できる。隙がない)
銀之助も相手も、身動きせずにいたが、二人とも寒さにもかかわらずに汗をかき始めていた。
雪がやんだ。
声がした。
「青山、もうやめろ。俺は、もう悪党たちの片棒を担ぐのはやんなった。ここを出て行く」
 青山と声をかけられた侍は、一瞬耳を疑ったようで銀之助と対峙していることを忘れ、古株の方へと視線を送った。
もうその時、古株の侍は、丸金の家の門に向かっていて、銀之助たちに背をむけていた。
「銀之助さんとやら、もうやめよう。助五郎の親父は、廊下の突き当たりの部屋にいるはずだ。気をつけてな」
 青山は、うずくまっている赤沢に肩を貸して、古株を追って門から消えた。 
銀之助は、突き当りの部屋の戸を開けた。
 座っていた助五郎と親父が、驚きのあまり顔が凍ったようになった。
「あんたが、銀之助さんか。俺がこいつの親父だ」
 落ち着きを取り戻すかのように、助五郎の親父がいった。
「へい、中へ入らせていただきます」
 丸棒を左において二人の前に座った。
親父が、懐から何やら紙を取りだし、銀之助の前に投げた。
「お前さんの欲しがっていた証文だ。さっさと持って消え失せろ!」
 銀之助は、手に取っておさとの父親に貸した金の証文かどうか確かめて、懐にしまった。
「これで始末をつけさせてもらいますぜ。二度とおさとさんには手を出さないでください」
 と、銀之助は胴巻きから十二両を出し、親父の前に置いて、帰ろうとしたとき、
「まちねえ」
 銀之助が振り返った。
「銀之助とやら、ありがとよ」 

銀之助が店に戻った時には、昼八ツ(一時)を過ぎていた。 
一人も客はおらず片隅に一人ぽつんと腰かけていたおすみが、銀之助に気づくや急に笑顔になって銀之助に抱き着いてきた。
「銀之助さん、無事でよかった」
 銀之助はどうしていいかわからずおすみのなすがままにした。
 しばらくして、顔を赤くしたおすみは我に返り、恥ずかしそうに銀之助から手をほどいた。
 三日後、夕暮れ時。
 浅草の空が、朱の色に染まるには、まだちょっと早い時間、茜色の雲が箒で掃いたように浮かんでいた。
 銀之助とおすみは開店前の準備に忙しかった。
 障子戸が開いた。
「お客さん、まだ・・・・。橋本様、お疲れ様」
「おすみさん、ここで働くようになったのかな」
 おすみは、橋本順之助の手を取り勝手場に連れて行った。
「銀之助さん、橋本様が帰って来たよ」
 銀之助は、前掛けで手を拭き橋本を笑顔で迎えた。
「橋本様、ご苦労様でした」
「おさとさん、無事、上州の前橋の家まで送って来たぞ」
「ありがとうございました」
「ここを出て、半刻(一時間)ぐらいかな、後をつけてきた丸金の手先をちょっと痛い目に合わせたぐらいで、あとは順調な旅だった。じいさんとばあさんは、おさとさんに会えて大喜びだったよ。お前さんたちにもよろしくって」
「橋本様、背の物は」
 おすみが気付いた。
「おう、これはおさとさんのばあさんからの土産だ」
 橋本は、野菜の入った篭を下ろした。
「銀之助さん、好きなものを取ってくれ」
「橋本様、よろしかったら、長屋のみんなに分けてやってもいいですか」
「そうか、分かった」
 銀之助は、おさとの父親の証文を取り返したことを手短に橋本に話し終えると、おすみに声を掛けた。
「おすみさん、そろそろ店を開きましょうか」
「はい、暖簾をかけてきます」
「橋本様、ゆっくり一杯やって行ってください」
 銀之助は、行灯に火を入れながらいった。
「それはありがたい」
そして、銀之助とおすみは勝手場に入って、橋本のために酒と田楽豆腐を急いで作った。
それが終わると、
「おすみさん、朝、練馬の大根が手に入ったから今日の昼は大根飯でいきましょうか」
「いいですね」
「橋本様にも食べてもらいます」
 銀之助は大根のどろをおとしてから洗って、さいの目に切り、クチナシの汁で煮しめた。
 そして、大根をすりおろした大根の汁を米に入れて炊く準備をした。
「銀之助さん、そろそろお品書きの種類を増やしませんか」
「そうですね、おすみさんという強い見方ができましたから、増やしましょう。どんな料理がいいですか」
「ご飯類は今までのも入れて、菜飯、茶飯、大根飯と若狭白がゆで、豆腐類は霰豆腐、みそ漬け豆腐、魚類は四季にあったものを入れたらどうでしょうか」
「そんなに増やして大丈夫かな」
「そうですね、少しずつ増やしたほうがいいかもしれませんね」
お品書き
田楽豆腐      四文
菜飯        十六文
玉子ふわふわ    八文
                                                      つづく
コメント
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