沢藤南湘

残り少ない人生を小説とエトセトラ

四文屋繫盛記 七の二(最終)

2024-12-25 17:40:03 | 小説
七の二(最終)
 新発田藩家老の山形玉衛門の屋敷では、山形玉衛門と側用人の相葉七右衛門に、助三郎が橋本を取り逃がしたことを報告していた。
「助三郎、何が何でも若を新発田領に入らせてはならんぞ。もし入らせたならば、お前の首が飛ぶと思え。分かったな」
「必ず、若を仕留めます」
 助三郎は、頭を下げ部屋を出て行った。
「ご家老、大丈夫であろうか」
相葉七右衛門が、心配顔でいった。
山形と相葉は、側室お高様の子の一太郎君を跡継ぎに推挙していた。
「相葉様、他にも手を打っておりますので、ご心配無用でございます」
「ご家老様、轟様がお見えになっています」
「通せ」
「目付の轟か?」相葉がいった。
「はい、良い知らせかもしれませぬ」
 轟が、入って来て高田宿での仔細を話し、取り逃がしたことを詫びた。
「お前もか。何をやっているんだ」
 山形が、怒鳴り散らした。
「まあまあ、落ち着け。轟、若は今どこにいるのか」
「長岡藩に向かっているのではないかと」
「若だけか?」
「若入れて、三人です」
「たった三人相手で手こずってるのか。家老が怒鳴るのも当たり前だ」
「・・・・」
「追っ手を増やせ」
 相葉が、家老に向かっていった。
「相葉様、承知しました」
山形は、轟に向かって、腕の立つ者を集めて、さっさと追えと命じた。
「承知いたしました」
「下がれ」
「ご家老、あの若が帰ってくると面倒なことになるが、彼らで大丈夫であろうか」
「相葉様、他にも手を打っておきましたので、ご心配ご無用でございます」
「そうか」
 相葉は、盃を空けた。
 すぐに、山形は、相葉の盃に酒をついだ。

雲間から陽が差してきた。
 銀之助たちは、陽を方位に、北東に向かって深雪を歩き続けた。
 夕闇が迫ると、かまくらを造り、体を休め、老婆からもらってきた干し芋を食べた。
「結構、美味いな」
 橋本が、笑いながら言った。
「腹が減っているとなんでもうまいものだ」
 赤沢が答えた。
「橋本様、長岡まであとどのくらいかかるのでしょうか」
 銀之助が、手に息を吹き、こすりながら聞いた。
「そうだな、この調子なら遅くとも明後日の昼ごろには着くだろうよ」
「まだまだ、油断はできませんね」
「少し、寝るとしようか」
 橋本がいった。
 銀之助は、蝋燭の火を消した。
 静けさの闇が、銀之助たち三人を覆った。
 朝を迎えた。
「相変わらず寒いな」
赤沢の白い息と言葉が一緒に出た。
三人が一刻ほど歩いて、峠に差し掛かるときであった。
「わー」と声を上げて、右手の崖から転がるように、手に竹槍や刀を持った数人の山賊が、下ってきて、三人を取り囲んだ。
「金を出せば、命まで取らねえ」
首領らしき男が、刀を抜いていった。
「おぬし等、山賊か」
橋本が、鯉口を切った。
「うるせい。こいつらをやっちめえ」
銀之助は、背から丸棒を抜いた。
橋本と赤沢も大刀を抜いた。
あっという間に、山賊六人は雪の中に転げまわった。
「お前ら、二度と悪いことをするでないぞ。今度会った時はこんなもんでは済まないからな」
赤沢が、親分とみられる男の顔に刃を当てた。
「手間がかかったな」
 橋本が、歩き始めた。
「硝煙のにおいが?伏せろ」
 橋本が、怒鳴った。
‘ドーン’
 木々に積もった雪が、ガサッと落ちてきた。
「鉄砲だ、気を付けろ」
 橋本は、振り返っていった。
「あそこにいるぞ」
 赤沢は、すぐに崖の上で鉄砲を構えている人間を指差すや否や、銀之助の手から棒手裏剣が放たれた。
「ギャー」
「左にもいるぞ、伏せろ!」
 また橋本は、怒鳴った。
‘ドーン’
 銀之助は、崖に近づきながら、手裏剣を放った。
 敵が、転げ落ちてきた。
「橋本様、早く逃げてください」
「逃げろ!あとは銀之助さんとで、奴らを迎え討つ」
「分かった、頼む」
 赤沢が、手裏剣が腿に刺さっていた敵から鉄砲を奪い取り、言った。
「どこの者だ、あと何人いる」
「・・・」
「これでもか」
 手を取り、思いっきり捩じりあげた。
‘ボキ’
 男は、気を失った。
「赤沢さん、橋本様を追いかけましょう」
 橋本は、時々振り返った。
(銀之助さんたち、大丈夫だろうか)
 しばらくすると、雪の中から雪でつぶされそうな家が目に入った。
(人は住んでいないだろ。一休みして彼らを待つか)
 橋本が、戸を引いた。また、力を込め引いたが、開かない。
(誰か住んでるのか)
「誰かいるのか?」
 戸を叩いた。
「怪しいものではない、しばし休ませて下さらんか」
‘ガタ、ガタ’
 戸が五寸ほど開き、若い娘の顔が見えた。
「怪しいものではない」
 橋本が、手に握った路銀を見せた。
 戸が開けられた。「どうぞ」と黄に染まった麻の着物を着た娘が答えた。
「しばらくの間、後から二人の男が来るのでそれまで待たせてくれないか」
「どうぞ、ごゆっくりしていってください」
 橋本は、蓑と笠を脱いで炉辺に腰を下ろし、火に手をかざした。
「温かい」
「体の中も温まって下さいな。どうぞ」
娘が、炉辺に腰を下ろした橋本に白湯を出した。
「かたじけない」
 橋本は、茶碗を手に取り白湯を飲んだ。
「後の方は、どうされたのですか」
 娘の声が、遠くから聞こえるようになった。
(眠り薬か・・)
 奥から、男二人が出てきた。
「でかしたぞ、お菊」
「轟さま、この方、如何しましょうか?」
「後から二人がきっと来る。その時、三人を殺ってしまおう」
 轟が言った。
「そうだ、三人が仲違いをしたように見せかけるんだ」
「それは名案です。我々の仕業だと分かりませんね」
 男が、いった。
 三人は、橋本の口に猿轡をそして、後ろ手にして縛り、最後に足を縛った。
「若を奥に運んでおこう」
「菊は、ここであの二人を待て」
雪がちらつき風も吹き始めた。
銀之助と赤沢は、背を丸め歩き続けた。
赤沢が、振り返っていった。
「銀之助さん、敵は追って来ないようだな」
「赤沢さん、しばらくは注意しましょう」
「しかし、寒い」
 赤沢が、吐く息に手を当てた。
 半刻(一時間)ほど歩いた。
 あばら家へ足跡が続いているのを見つけた。
「銀之助さん、あの家にいるかもしれん」
 銀之助が、戸を叩いた。
 菊が、戸を三寸ほど開けて顔を出した。
「どなた様ですか?」
「こちらにお武家が、来ませんでしたか?」
「いえ。来てませんけど、何かご用ですか」
「足跡があったものですから」
「それ、あたしのものよ」 
菊が戸を閉めようとした。
「ちょっと待ってください。怪しいものではありません、少し休まして下さい」
 銀之助が叫んだ。
 戸が開いた。
「有り難い」
 銀之助はすかさず、娘に路銀を掴ませた。
「何もないけど」
「少し休ませてくれればいいんだ」
 赤沢に続いて、銀之助も家の中に入った。
「どうぞ、囲炉裏で暖まって下さい」
 菊は、燗した酒を入れた徳利と椀をを二人の間に置いた。
「有り難い、早速いただこうか」
 赤沢は、一気に飲み干した。
 銀之助も口に近づけた。
(うむ?)
「銀之助さん、眠たくなってきた・・・」
 銀之助も「私も・・」といって、横になった。
 赤沢は、鼾をかき始めた。
隣から戸を開け、轟が男を伴って入って来た。
「菊、よくやったな」
「おい」
 轟が、男に合図をした。
 男が、頷きいて、銀之助に向かった。
 半間ほど近づいた時、銀之助の丸棒が男の腹に当たった。
「ぎゃっ」
叫び声とともにその男は、後ろにひっくり返った。
銀之助は、立ち上がった。
轟と菊が、赤沢を縛り始めていたところであった。
「なぜ・・」
 二人は、一瞬茫然としたがすぐに立ち上がり構えようかとした瞬間、
銀之助の丸棒の先が、轟の喉元にぴたりと合わせられた。
「橋本様は、どこだ」  
「こやつ」
 轟は、抜刀した。
 菊と呼ばれた女は、木綿の着物を脱ぎ棄てて黒装束を身にまとっていた。
「轟さま」
「菊、油断するでない」
女は、懐から小刀を抜くや否や、銀之助に躍り掛かった。
‘カチーン’
 女の手から小刀が、飛んだ。
 女は、とんぼ返りし、手に十字手裏剣を持ちかまえた。
(くのいちか)
 銀之助は、懐から取り出した棒手裏剣を放った。
 女の手首に刺さったと同時に、女の腹に丸棒が食い込んだ。
「げえっ」
 男が、横から打ち込んできた。
 銀之助は、太刀を避けながら男の股間に蹴りを入れた。
「ぎゃ~」
 間髪をいれずに銀之助は、当身を加えた。
‘がたん’
 轟は、中段の構えをして銀之助に向き合った。
 銀之助も中段に構えた。
「おぬし達はいったい何者だ」
「お前らが邪魔なだけだ」
 轟が、上段に上げるや否や銀之助の頭に振り落とした。
 銀之助は右にかわすと同時に、轟の胴を打った。
‘ばったん’轟は板の間に俯せになって倒れた。
 銀之助は、隣の部屋に入って、橋本を見つけた。
「橋本様、はしもとさま」
「うっむ」
「銀之助さん・・・。なぜここに」
「敵に捕まっていたんですよ」
「そうだ、飲んだら急に眠くなったんだ。薬か」
「赤沢さんも、やられました」
「赤沢さんはどこに?」
「あそこで、まだ寝入っています」
「銀之助さん、良く見破ったな」
「以前のあの美人局の事件のおかげで、白湯の匂いがおかしいのに気づいたんです」
「そうか、あれが役に立つとはな」
「赤沢さんを起こします」
 銀之助は赤沢に活を入れた。
「おっ」
 赤沢は、目を覚ました。
 それを見計らって、銀之助は、二人に向かっていった。
「はやく、やつらを縛ってしまいましょう」
 轟たち三人を縛って、隣の部屋に運び込んだ。
「銀之助さん、奴らを訊問してみよう」
「そうですね、奴らが一体誰の回し者か、調べておいた方がいいですね」
 まず男を炉辺に連れ込んで、尋問した。
「お前たちは、どこの者だ」
 赤沢が、いううや否や脇差を抜いて男の頬にあてた。
「おい、冗談じゃないぞ。早くいわないと俺にも考えがある」
 赤沢が、男の髷を切り落とした。
 男が、わなわな震えながら新発田藩家老の山形玉衛門から頼まれたのだといった。
「やはりそうだったのか」
 橋本が、頷いた。
 三人の素性がわかり、銀之助たちはこれからどうするかを半刻ほど話した。
「今日はここで休んで、明日の朝、発ちましょうか」
「そうしよう、明日の夕には、三国峠の麓の永井宿に着けばよい」
 橋本が、頷いていった。

「それにしても腹が減ったな」
 赤沢が出ている腹をさすっていった。
「ちょっと待ってください」
 麦が鍋にあり、干し大根が梁から吊るされていた。
 銀之助は、竈に火を入れ、鍋に麦を入れ、甕から水を汲んで鍋に足した。
 そして、大根を取り、小口から切り、別の鍋で煮えた湯に入れて戻した。
 絞って、吹き上がった麦飯に入れて炊き上げ、碗によそった。空いた鍋で、みそ味のかけ汁を作って、よそった麦飯の上からかけた。
「お待たせしました」
 銀之助は、橋本と赤沢の前に椀を置き、残った大根飯の入った鍋を自在鉤に掛けた。
「うまいのう」橋本がふうふうしながらいった。
「さすが銀之助さん、うまい」
 三人は、あっという間に鍋を空にした。
「明日は、未だ麦があるので、また炊きます。轟たちのため、多少は残しますが」
「そうだな、彼らも悪いがもっと悪い奴がいるからな」
 赤沢が、頷いていった。
「銀之助さん、そろそろ寝たらいい」
 橋本が言った。
「でも・・」
「某と赤沢さんは今までよく寝ていたから、轟たちを見張っている」
 赤沢の顔が赤くなった。
 銀之助は、深い眠りに入った。

 朝を迎えた。
「橋本様、赤沢さん。おかげさまでよく眠ることができました」
 銀之助は二人に礼をいってから、麦飯と大根汁を作った。。
一刻ほどで、朝餉を取り、三人は、支度を終えた。
 鍋に麦飯を残し、囲炉裏に掛けた。
 橋本が、縛られている轟に近づき、轟の耳元でささやき、背を叩いた。
「腹もいっぱいになったから、そろそろ出発しよう」
 橋本が、先頭になって、歩いた。

 三国街道を歩き続け、永井宿に入った。
 旅籠に入った三人は、すぐに交代で湯につかった。
 山菜の鍋で麦飯を食べた。
「体が温まりますね」
 銀之助がいった。
「米を食べたいな」赤沢が、食べ終わってから言った。
「贅沢を申すでない」橋本が、白湯の入った湯呑を置いたい言った。
「そうですよ、お百姓は麦だけでなく、粟やひえも食べているんです」
銀之助が赤沢に向かっていった。
女中が布団をひきに部屋に入って来た。
「食事、お口にあったべか」
「美味しかったぞ」
 橋本が答えた。
「それは良かった、江戸から来た人だから心配でよ」
「客は、某たちのほかにいるか」
 赤沢が女にいった。
「もう一組いるだ、お武家さん二人だ」
「そうですか、どちらに」
 銀之助が、聞いた。
「一階の部屋だ。寒いから、三枚かけておくよ」
女は、三人の布団をひき終えて、ごゆっくりといって、部屋を出て行った。

「気を付けんといかんな。それにしても寒いな」
 赤沢が火鉢に手をかざした。
「ここは、雪国だ。寒いのは当たり前だ。一階に武士が二人か」
 橋本が心配顔でいった。
「私が、起きてます。お二人とも早く寝てください」
「悪いな」
赤沢は、布団に入った。
 橋本が煙管に煙草を詰めながら言った。
「明日は、三国峠を越えて、宿までだ。
 それから、二居宿、三俣宿、湯沢宿、関宿、塩沢宿、六日町宿、五日町宿、浦佐宿、堀之内宿、川口宿、妙見宿、六日市宿とまだまだ長旅が続くぞ」
「銀之助さん、八ツ刻になったら交代しよう」
 赤沢が、布団から顔を出していった。
「では頼む」
橋本が、掛け布団を引っ掛けて柱にもたれている銀之助に言った。
 銀之助は、行灯の火を消した。

 朝を迎えた。 女中たちが、朝餉を運んできた。
「お客さんたちは、三国峠を越えなさるのか」
「今日は、峠を越えて浅貝宿まで行きたいんだ」
「峠越えは大変だべ、マタギを頼んだらどうだ」
「橋本様、どうしますか?」銀之助がいった。
「頼もうか」
「はいよ、マタギの倉蔵さんに頼んでみるから半刻ほど待ってくれ」
 三人は、横になった。
 半刻ほど経って、女が部屋に入って来た。
「お客さん、倉蔵さんが行ってくれるって」
「それはよかった」
「倉蔵さん、外で待っているだ」
「分かった、では参ろうか」
 橋本が、立ち上がった。
「お女中、二人のお武家さんはもう出かけたんですか」と、銀之助が聞いた。
「いや、まだだよ。何か」
「なんでもありませんよ」
 三人は、蓑を着、笠をかぶって雪道に出た。
 荷を背負い、肩に鉄砲を担いだ男が待っていた。
「倉蔵さんだ」
 女が、銀之助たちに向かっていった。
「倉蔵だ」
「今日中に三国峠を越えて、浅貝宿まで行きたいんだが」
 橋本がいった。
「それは無理だ。峠の途中の山小屋までが精いっぱいだ」
「分かった」
「宿から握り飯もらったか」
「はい、もらいました」
 銀之助が答えた。
 歩き始めてから、半刻ほどで休みを取った。
 風に揺られて木々に積もった雪が落ち、静けさを破った。
「これから急になる。しっかりついてくるだ。熊が出るかもしれんから、気を付けてくれ」
 倉蔵の後を橋本、赤沢そして銀之助がついて行った。
 二刻ほど歩くと小屋に着いた。
「今日は、ここに泊まるだ」
 三人は、ほっとした。
 蓑を脱ぎ、笠を取って部屋に上がった。
 囲炉裏の周りに四人は座った。
「早く火をつけるだ。早く」
 倉蔵が、いった。
 銀之助が、火打石を出して何回も打った。
「だめだ、濡れている」
「俺のを使って、竈に火を入れてくれ」
 銀之助は、土間に降りた。
「倉蔵さん、ここには何か食べられるものはないんですか?」
「左の桶に漬物が入っている」
「米か麦はありますか」
「稗なら右の櫃に入っている」
 銀之助は、釜に稗と水を入れて竈に掛けた。
「倉蔵さん、何とかならんか。囲炉裏に火をつけてくれんか」
 赤沢がいった。
 囲炉裏に火をつけ、火種を持って、行燈に火を入れた。
 銀之助が、椀に稗を盛って三人の前に置いた。
「おめえ、稗の炊き方うめうぇな」
「倉蔵さん。銀之助さんは、浅草で飯屋をやっているんだ」
「うまいはずだ」
‘ガン、ガン’
外で音がした。
 橋本が、刀を掴み、立ち上がった。
「何の音だ」赤沢が、小さい声でいって鯉口を切った。
 銀之助も、丸棒を握り片膝の姿勢を取って構えた。
「熊だ。ほっとけ」
「熊か」
 橋本は、また箸を持った。
「熊か。敵よりも怖いかもしれん」
 赤沢が、刀を離さずに笑いながらいった。
「熊は、冬眠しているんでは?」
 銀之助が、椀を取りながらいった。
「こんなところ、人が出てくるわけねえ。あんたがた、怯えているね。何か後ろめたいところがあんたがたあるんじゃねえか?」
「いや、そんなことはない」
 橋本が答えた。
 また音がした。倉蔵が首をかしげながらいった。
「ちょっと見てくるだ」
 倉蔵が、土間に下りて板戸に開いた穴を覗いてから、振り向いて、言った。
「侍が二人、戸を壊そうとしてるだ」
「倉蔵さん、早くこっちへ来い」
 橋本が言った。
 銀之助が丸棒を持って、土間に飛び降りた。
 赤沢も続き、戸の脇で構えた。
‘ダッターン’扉がぶち破られ一人の侍が抜刀して、小屋に入った。
「やあ」銀之助が肩を打った。
「あっ」侍が土間に倒れた。
 もう一人の侍が、銀之助の方へ長刀をそして、赤沢に向かって、脇差を向けながら小屋の中へ入った。
(二刀流か。すきがない)銀之助は、中段に構えた。
 赤沢は、上段に構えていた。
「やつはできるぞ。気を付けろ」
 橋本が、怒鳴った。
‘ガチーン’
 侍は、銀之助の丸棒を打って、脇差で、胴を払おうとした。
「危ない」赤沢は、侍に向かって打ち下ろした。
‘カチン’
 侍は、長刀で受けた。
「こいつ」赤沢は、背を外に向き変え、外に二歩三歩と外に足を運んだ。
 侍は、赤沢の正面に回った
 銀之助が、土間にうずくまった。
「銀之助さん、大丈夫か」橋本が、、土間に降りようとするのを倉蔵がとめた。
「どけ」
倉蔵は、橋本にいい、侍の背に向かって火縄に火がついた鉄砲を構えた。
「撃つな!」
 橋本が、倉蔵の鉄砲を掴んで上に挙げた。
‘ドーン’
 侍が、向き直り倉蔵に向かおうとした。
「あっ」
 侍が、倒れていた男につまずくと同時に、銀之助が、渾身の力を込めて侍の右膝を丸棒で打った。
 侍が、つんのめりそうになった。
「うっ」
赤沢の峰に反された長刀が、侍の背に打ち込まれた。
「大丈夫か」
 橋本が、銀之助の顔を覗き込んでいった。
「銀之助さん、しっかりしろ」赤沢が、肩を抱いた。
「大丈夫です」
 橋本は、銀之助の脇腹に血が滲んでいるのに気付いた。
「腹を斬られたのか、痛くないか」
「大したことはありません。かすり傷です。早く二人を縛らないと」
「分かった。喋るな、体にさわるぞ」
 倉蔵が、縄を持ってきた。
 赤沢と倉蔵は、二人を縛り上げた。
 ほっとして框に座ろうとした倉蔵を、橋本が声をかけた。
「酒はないか」
「ちょっと待ててくだせえ」
 倉蔵がどぶろくを入れた椀を橋本の前に置いた。
「銀之助さん、沁みるがちょっとの我慢だ」
 橋本は、どぶろくを口に含んで、寝かせた銀之助の腹に吹き付けた。
「少し寝たほうがいい」
 銀之助は、目を閉じた。
「銀之助さん、明日歩けるかな?」
 赤沢が、心配そうに橋本にいった。
「雪道を歩くのは無理だろう」
「お侍さん、そりに乗せるだ。もう下りだ」
 倉蔵のい葉に、橋本が頷いた。
「そうか、それがいい」
 頷いた赤沢は、、土間の柱に縛り付けた二人を見た。
「橋本さん、彼奴らはどうする?何者かちょっと痛めつけて吐かせようか」
 赤沢がいうや、土間に降りようとした。
「ちょっと待ってくれ。どうせ新発田藩の者だろうから某が聞きだしてみよう」
 橋本は、土間に下りて二人の前に立った。
「おぬしたち、某を溝口順之助と知って襲ったのか?」
 二人は黙っていた。
「誰に頼まれた?家老の山形か、側用人の相葉か、それとも目付の轟か」
 二人は下を向いた。
「いいたくなければいわんでいい。今、新発田藩はどういう状況になっているかお前たち知っているのか」
 二人に橋本は、顔を近づけた。
「私腹を肥やしている奴らはいい、藩がつぶれても、自分の金はある。汚ねえ奴らだ。おぬしたちは、藩がつぶれてもいいのか。藩の騒動が、幕府に知れたら元もこうもないぞ。幕府の隠密がもう城下に入っているかもしれん」
二人は、俯いていたままであった。
「早く、騒動を片づけなければならん。お前たちを殺すことはせん。明日、逃がしてやるが、もう二度と俺を付け狙うな」

夜が明けた。青空からの光が雪坂道を照らし始めていた。
既に土間の柱に縛り付けられていた二人は、いなかった。
 橋本が、隣に寝ている銀之助に声をかけた。
「傷はどうだ」
「おかげさまで、痛みは取れました。もう大丈夫です」
「無理はするな。まだ新発田まで長い」
「飯ができたぞ」 倉蔵の声がした。
「銀之助さん、肩を貸そうか」赤沢が心配そうにいった。
「大丈夫です」
 銀之助は、丸棒を支えにして立ち上がり囲炉裏端まで歩いて行き、座った。
 倉蔵が、囲炉裏に掛けた鍋から皆の椀に雑炊をよそった。
「温かくてうまい」
 橋本が唸った。
 あっという間に鍋は空になった。
「ご馳走さま」銀之助が倉蔵に向かって言った。
そして、橋本に聞いた。
「あの侍たちは、やはり新発田藩のご家来ですか」
「二刀流は、佐藤泰助と名のった。奴は、新発田藩でもかなりの使い手のようだ。銀之助さんだからこの程度の傷で済んだんだが、某だったら、もうこの世にはいないかもしれん。敵にすると手ごわい相手になるだろう。もう一人は、丹羽惣助といっていたな」
「橋本さん、どうして、逃がしたんだ」赤沢が口を挟んだ。
「奴はまだ若い。藩にとって役に立つ人材だ」
「そろそろ行くだ」倉蔵の声が外からした。
 銀之助が、丸棒をたよりに立ち上がった。
 板戸が開いた。
 倉蔵が、そりを用意していた。
「今日ぐらいは大事を取った方がいい。そりに乗ってくれ」橋本と赤沢が銀之助の両腕を取った。
 銀之助はあきらめ顔でそりに乗った。
「では行くだ」
 倉蔵が、銀之助の乗ったそりに付けた縄を引いて歩き始めた。
 二ツ刻ほど歩いて、峠を下り終えた。
 そして三人は、峠に戻る倉蔵と別れた。
 赤沢がそりを引いた。
 四半刻で浅貝宿に着き、旅籠に入った。
「赤沢さん、疲れたろう。先に風呂に入ってくれ」
 橋本が言った。
「銀之助さんは、どうする」
「橋本さん、次に入ってください」
 銀之助が風呂から戻って来たときには、すでに膳が用意されていた。
「まだ油断はできんので、酒は断った。越後の酒はうまいんだがやむおえん」
 橋本が、残念そうに言った。
 膳には、焼いた塩鮭、香の物そして、けんちん汁がそれぞれの器に盛られていた。
 女が、椀に飯をよそった。
「新潟の米は、さすがだ」赤沢が唸った。
 銀之助が、飯を口にした。
「米の艶といい、ふっくら感そして香りがまたいいですね。おかずは何でもあいます」
「けんちん汁もうまい。この香の物は何んだ」赤沢が、聞いた。
「野沢菜だ。冬に備えて漬けていたものだ」橋本が答えた。
 銀之助が野沢菜を口に入れた。
「さすが、雪国。漬物は天下一品です」
「そうだ、越後の冬は長いで、保存食が多いのだ」
 橋本が、憂鬱そうにいった。
「この塩鮭もうまい」
「これらはなかなか江戸では食べられませんよ、赤沢さん」
 銀之助がいった。
 橋本が苦笑いをした。
「銀之助さん、越後はなんたって、米と酒だ」
「橋本様、飲みたいのでしょう」
 橋本は、笑った。
 三人とも飯のおかわりを三回も頼んだ。
「おかわりは、もういいのかい。遠慮はいらないよ」
 皆もういいといったのを聞いて、女は、手際よく片付けをし、三人の布団を敷いて部屋を出て行った。
「越後の女は、よく働くな」赤沢が感心していった。
「行灯、消しますか」銀之助がいった。
「何が起こるかわからんから点けておいてくれ」
 橋本が答えた。
 銀之助は、寝付かれなかった。
(なぜ、斬られたんだ。油断からか?いや、未だ、二刀流相手では、勝てないということか)
 銀之助は、実は中西派一刀流の免許皆伝の持ち主で、今まで誰にも負けたことがなかっただけに、自信を失いかけていた。

三人は、何事もなく二居宿、三俣宿を過ぎ、湯沢宿で宿を取った。
框に腰を掛けて、女たち三人に銀之助たちは足をゆすいでもらった。
「お客さんたち、江戸から来なさったか」
「分かるか」赤沢が答えた。
「喋りでわかるだ」
 橋本が部屋に入って、言った。
「湯沢は、温泉がいい、湯治に来るものが多いんだ。ゆっくり湯に浸かって来てくれ。某は、荷物番をしている」
「橋本さん、お先に入らせてもらいます」
 赤沢と銀之助は、手拭いを持って風呂に行った。
 四半刻過ぎて、銀之助たちは戻った。
 某も入って来ようといって、橋本は、部屋を出て行った。
 長い廊下を過ぎると、温泉場があった。その前座っている女が、橋本に向かっていった。
「お背中流しましょうか」
「頼む」
着物を脱ぎ、裸になった。
柘榴口から行燈の光が湯気を照らしているほの暗い風呂場に入った。
「まずは湯に浸かって下さいな」
「誰もいないようだな」といって、湯の中に浸かった。
 佐藤や丹羽はどうしただろうか?新発田に戻って行ったか)橋本は、あれやこれやと思いを巡らしていると・・。
「お客さん、もういい加減に出なよ」
 女の声がした。
 橋本はふと我にかえった。
 洗い場で、女に背を流された。
「お客さん、これからどう?」
「疲れているからすぐ寝る」
橋本は、女にいくらか渡して、部屋に戻った。
 その晩も交代で起きて、注意を怠らなかった。
何もなく、朝を迎えた。
昨晩の雪はやんでいたが、どんよりとした空が三人の心を重くしていた。
 朝餉を終えると、橋本が、立ち上がった。
「銀之助さん、具合はどうだ」
「おかげさまで、すかっり良くなりました」
「では、出発しよう」
 三人は身支度を終え、六ツ刻半に宿を発った。

関宿、、塩沢宿、六日町宿、五日町宿、浦佐宿、堀之内宿、川口宿、妙見宿、そして六日市宿を過ぎて、長岡藩十一万五千石の城下に入った。
長岡藩主は九代目ので、昨年七月より、江戸幕府の老中を勤めている大物であった。
 橋本たちは、長岡藩家老の稲垣平助の屋敷を訪ねた。
「頼もう」
 橋本は、出てきた門番に取次を頼んだ。
「おう、新発田の若様、どうされました?」
 年老いているが貫禄のある侍が、迎えに出てきて、橋本順之助と銀之助たちを、屋敷の中に案内した。
 年老いた侍は、永易次郎座衛門といった。
 永易は、三人を客間に通した。
「常在戦場か」
 橋本が、壁に掛けられた額の四文字を声に出した。
「貴藩に高野泰助殿という御方がいらっしゃるとか」
橋本がいった。
「様ですか。いらっしゃいますが、何か」
「江戸でも高名なお方と噂されているので、一度お会いしたいと思っていたのだが」
「そうですか。よろしければ、今お呼びしましょう」
「忝い」
 永易は、部屋を出て行った。
「高野様とは、そんなに偉い方なのか」
 赤沢が橋本の顔を見ていった。
「老中の松平定信公が、当藩主の忠精様に泰助は君子だ。彼を厚遇すべきだと、高野殿は、謹厳実直で、学問を好み、兵学に通じ古典に精通した儒学者だ。忠精さまに仕え、節約と勤勉の風を長岡藩に定着させた立役者だ」
「初代藩主牧野忠成は‘常在戦場’といって、常に気を引き締めさせて藩を統治してきたと聞いています」
「銀之助さん、良く知っているな」
「いや、橋本様。店のお客から聞いた話です」
 銀之助は、頭をかいた。
 永易が、高野を連れてきた。
「高野泰助でござる。某に何か」
「溝口順之助と申します。訳けあって橋本と名のっております」
 橋本が、赤沢と銀之助を紹介し、高野に藩の統治についてご教授願いたいと高野に頭を下げた。
「拙者でよろしければ」と言ってから、、訥々と藩民の安定のために、藩主の修身治国の心得について熱弁をふるった。
「橋本殿、これを貴殿に差し上げよう」
 高野が一冊の本を橋本の前に置いた。
‘粒々辛苦録’と書かれていた。
「忝い」
「お役にたてば何よりでござる」
 高野は後があるのでと言って、部屋を出て行った。
 翌日、長岡藩の侍が、橋本達を新発田藩との国境まで見送りに来た。
「世話になりました。では、ここで失礼いたす」
 橋本は、見送りの侍に頭を下げた。 
 赤沢が先頭になり、橋本を挟んで銀之助が最後を歩いた。四半刻ほど歩くと、二人の侍が、赤沢の前に現れた。
 二刀流の使い手の佐藤泰助と丹羽惣助であった。
「貴様たちは、この間の・・」赤沢が鯉口を切った。
佐藤が手を振って制止し、丹羽は、橋本の斜め横に膝まづいた。
「轟様の命で、若様をお迎えに参りました。我らは心を入れ変えております。もう既に側用人の相葉様は、幽閉いたしております。あとは筆頭家老の山形様と側室のお高様そして一太郎君の処分です。若様、次席家老 中之口様のお屋敷にご案内いたします。皆様、どうぞ駕籠にお乗りください」
 駕籠が三丁、三人の前におろされた。
 半刻後、橋本たち三人は、中之口の屋敷に入った。
 白髪の初老の中之口が、涙を流して出迎えた。
「若様、よく御無事で」
「挨拶はよい。中之口、藩はどうなっているのだ。仔細を聞かせてくれ」
「はい、承知いたしました」
中之口は、銀之助と赤沢に、部屋でゆっくりするようにいって、佐藤泰助に
部屋に案内するよう命じた。
「お二人には申し訳ないが、わたくしも若様と談合がありますのでここで失礼いたす」 
銀之助と赤沢は、部屋に入った。
「銀之助さん、あのような立派な駕籠に乗ったのは初めてだ」
「さすが、藩主の息子様への対応は違いますね。それにしても広い部屋ですね」
「新発田藩二番家老の屋敷のわりに、造作は大したことはないな」
「藩の財政事情を思い、清貧の生活を送っているのでしょう」
しばらくして、女中が白湯を運んで来て、その後すぐに、十代後半に見える侍が部屋に入ってきた。
「この度は、若様をお守りしていただいたそうで、ありがとう存じます」
 三人は、簡単に挨拶をすませた。
 若い侍は、小西一郎太と名乗り、新発田藩の歴史と内情を話しはじめた。
「溝口家は、美濃国が発生の地で、その後尾張の溝口郷に移った時に、今の溝口を名のったようです。そして、信長、丹羽長秀、秀吉に仕え、六万石を与えられ、この地に来たそうです。つい最近では、八代の直養(なおやす)様は、道学堂という藩校を創られ、身分、男女問わず入校しています。他の藩と比較しても、藩民の読み書きや計算能力は劣ることはないと思います」
一郎太は、ひと息ついてまた話しはじめた。
「道学堂では、朱子学を学ばせました。直養様は、朱子学以外は禁じ、徹底的な封建体制の維持を図ろうとしたのですが、多くの反発を買ってしまいました。当藩は大量の年貢米を堂島に出荷しています。直養様が窮しているときに、筆頭家老は、悪徳米商人と手を組んで、貴重な年貢米で私腹を肥やせて贅沢三昧をしています。私は、彼らを許せません。あなたがた様のおかげで、側用人の轟様たちは、我々に組するようになりましたが、まだ、山形様とお高さまは、一太郎君を藩主にすべく暗躍をしておりまする。早く、御世継問題を解決しなければ、藩の存亡にかかわります」
 四半刻、一郎太の話は続いた。
「幕府はもう目を付けているのか」
 赤沢が唸った。
「赤沢様、橋本様をお守りしなければ」
 銀之助が、赤沢を見た。
「我々も若様の警護は怠りませんが、赤沢殿、銀之助殿。若様をよろしく頼みます」
 一郎太は、深々太両手をついて頭を下げ、何か不自由なことが有ればだれにでも声をかけてくれといって、退出した。
「銀之助さん、幕府の隠密が秘かにこの藩の情勢を探っているとなると厄介だな」
「そうですね、隠密の正体を早く暴かないと大変なことになります」
 何か用方法はないかと、銀之助と赤沢は、頭を絞った。

 二人は、風呂に入り、女中が持ってきた着物に着替えていた。
 旅の疲れが出たせいか、赤沢は、火鉢にあたりながらうとうとしていた。
 銀之助は、煙草を吸いながら隠密対策を考えていた。
 七ツ半刻、一郎太が夕餉の支度ができたので、部屋に案内するといって来た。
 客間に入ると既に溝口葵の紋の付いた浅黄の小袖に袴のいでたちの橋本順之助いや、溝口順之助が、下座に座っていた。
 部屋の四隅に置かれた行燈は、旅籠とは格段に違い部屋全体を明るくしていた。
「お二人、そこに座ってくれ。新発田藩の大事な客人じゃ」
 二人を床の間を背に座らせると順之助が、手を叩いた。
「赤沢さん、銀之助さん、世話になった。今晩は遠慮なく飲んで食べてくれ」
 女たちが、膳を運んできた。
 鮭けんちん巻、しめじのしらあえ、(現在のがんもどき)、かきあえなますが美しい漆器に盛られていた。
 銀之助は立派な器に目を見張った。
(器は料理を引き立てる、まさに最高ののもてなしだ)
 赤沢の背筋が伸びた。
酒も運ばれた。
女たちは、、三人に酌をして、部屋を出て行った。
「何とか無事についてよかった。一時はどうなるかと心配だった」
 順之助が、盃を飲み干していった。
 赤沢は、鮭けんちん巻を口に入れた。
「うまい。いい味だ」
「ここでは、鮭けんちん巻と呼んでいる田舎料理だ。赤沢さんに気に入ってもらってよかった」
「かきあえなますも美味しいです。橋本様、いや溝口様、これからが大変ですね。我々も微力ながらお手伝いをさせていただきます。何なりとおいいつけ下さい」
「銀之助さん、今まで通りの橋本で結構だ。気を使わんでくれ。早速だが、酔う前に、二人に頼みがある」
 順之助は、盃を置いて話し始めた。 
 その依頼とは、佐藤泰助と丹羽惣助の両名と一緒に幕府の隠密を探し出して捕縛してほしいと、疑わしい人物を数人小声で挙げた。
「溝口様、承知いたしました」
 銀之助が、言った。
「幕府が相手か、それは面白い」
 赤沢は声を落として笑いながら言った。
「佐藤と丹羽の両名が、その男たちに探りを入れ、その方たちに丹羽に逐次報告するように命じておいた。藩の存亡がかかっている、よろしく頼む」
 順之助は、二人に頭を下げた。
 そして、女中を呼んで、温かい酒を持ってくるよう命じた。
「さあ、旅の疲れを取るために飲もうではないか。遠慮せずに食べてくれ」
 半刻ほど過ぎた。
「若様、失礼いたします」
 佐藤と丹羽が襖戸を開けて、部屋に入って来た。
 順之助は、佐藤に隠密の動向について、説明をさせた。
 隠密は、現在本丸の普請にかこつけ、左官職人に成りすまして毎日城内に出入りしており、佐藤の手下に四六時中見張らせているとのことであった。また、轟の手下のくノ一菊にも場外で探りを入れさせており、その状況も説明した。
 銀之助と赤沢は、さらに佐藤たちに隠密の動向について問うた。
「赤沢さんと銀之助さんとの連絡を密にして、一日も早く、対処してくれ。くれぐれも気を付けてな」
 女が、酒を運んできた。
「お二人に酌をしてさしあげろ」順之助は、佐藤と丹羽にいった。
「この度は、手傷を負わせて申し訳ございませんでした」
 佐藤は、銀之助に酌をしながら詫びた。
 銀之助は、佐藤に二刀流について、いろいろ尋ねた。
 障子戸の向こうから、若様と声がかかった。
「一郎太か、すぐ行く」
「某、しばし退席するが、赤沢さん、銀之助さん、ゆっくり飲んでいてくれ。佐藤と丹羽、お二人に失礼がないよう頼むぞ」
順之助は、家老の山形と側室お高の対応に追われた。
目付の轟の働きによって、家老の取り巻き連中は日が経つにつれて、山形やお高から離れて行った。
山形は、順之助に刺客を何度も放ったが、すでに多勢に無勢で相手にならなかった。
順之助の山形包囲網作戦により、一か月後、家老の山形玉衛門は切腹し、側室のお高が一太郎を伴って、自害した。賄賂を贈っていた米問屋の川崎屋は、新発田藩領地から追放となった。
 銀之助たちも隠密を追いこんでいた。
 夜、五ツ半刻(午後九時)、雪がやみ、順之助と居候している二番家老の屋敷は静まりかえっていた。
 銀之助と赤沢は、深い眠りに入っていた。
「赤沢様、銀之助さま」廊下で女の声がした。
 銀之助は、丸棒を掴んでいった。
「菊殿か」
「はい。今、城下の旅籠で、幕府の隠密たちが談合しています。至急佐藤様がお二人に来ていただきたいとのことです」
「承知した」
 赤沢も目を覚まし、長刀を掴んで立ち上がった。
「相手は、何人だ」
「五人のようです」
「銀之助さん、一人も残さず召し捕えよう」
二人は、腹に縄を巻き、蓑を着、笠をかぶり、提灯を持った菊の後について屋敷を出た。
目的の旅籠の前に来ると脇道に佐藤、丹羽の二人が、銀之助たちを手招きした。
旅籠の前の外行燈の光が、静けさを醸し出している。
「どうしたものか」
 赤沢が、佐藤にいった。
「奴らは、二階のあそこで談合しています」
 佐藤が、明かりが漏れている雨戸を指差した。
「外に面しているところは、他には」
 銀之助が、囁いた。
「あそこだけです。某と丹羽が中に入って敵を襲撃します。赤沢殿と銀之助さんは、あの雨戸の前で逃げ出る敵を待ち受けてもらえませんか。裏に梯子を用意してあります。菊は、中の階段の下にいてくれ。宿の主人には、いつでも立ち入ることを伝えてあるので、入り口は開いています。入ってその旨をいえば、騒がずに対応してくれるはずです」佐藤の声が震えていた。
 皆、頷いた。
 佐藤は、銀之助たちを裏に連れて行き、屋根に梯子を掛けた。
「では、佐藤殿、丹羽殿。気を付けてな」と言って、赤沢と銀之助は、梯子を上って行って行き、雨戸の際に座った。
 佐藤たちが手を上げて、宿に入った。
‘ガタガタ、ドスーン’
「静かにしろ」
「何者だ」
雨戸から明かりが消えるや否や、雨戸が打ち破られて、商人姿の男が匕首を持って飛び出してきた。
銀之助の丸棒が、男の脛を打った。
「痛!」と叫んで前のめりになった時、、赤沢が男の背に峰打ちを入れた。
 男は俯せに倒れ気を失った。
すぐに二人目が飛び出してきたが、倒れている男に足を取られ、よろけた。
銀之助が、それを見過ごさずに男の足を払った。
「ぎゃっ」赤沢は、肩を打った。
 銀之助と赤沢は、二人を縛って、部屋を覗いたその時、
「動くな、動くと撃つぞ」
 銀之助と赤沢に二人の男が短銃を向けた。
 もう一人は、佐藤と丹羽に対峙していた。
 佐藤たちの動きが止まっている。
「動いてみろ、お前らの命はねえぞ」
‘バーン’
 男の手首に十字手裏剣が刺さった。
「早く」菊の声がした。
 銀之助と赤沢は、二人の男をそして、佐藤も男の腹に峰を打ち込んでいた。
「菊、助かったぞ」丹羽が、刀を鞘に納めながらいった。
 銀之助と赤沢も菊に向かって、頭を下げた。

享和二年(一八〇二)十一月、新発田藩十代藩主は、四歳のが相続した。 
順之助は、父親の時と同じように、直諒の後見人を親族であった三河吉田藩主松平信明に依頼した。
 銀之助と赤沢は、夕餉を取っていた。
「赤沢さん、揺れていませんか」
「地震だ、外へ出よう」赤沢は、障子を開けて庭に飛び出した。
 しばらくして、揺れは収まった。
「ちょっと大きかったな」
「火の手は上がっていないようですね」
 しばらくして、一郎太が二人の安否をうかがいにやって来た。
「大丈夫ですか?」
「おぬしたちも怪我はなかったか」
 赤沢が、庭で答えた。
「寒いから上がって下さい」
 銀之助と赤沢は、縁に腰かけ足袋を脱いで部屋に上がった。
 数日後、この地震で、佐渡ではかなりの被害が出たことを銀之助たちは知った。
「赤沢さん、溝口様のお手伝いもこれまでで、あまり長居は迷惑になります。江戸へ帰りませんか」
「某も、江戸が恋しくなってきたところだ。おすみさんたちも心配しているだろう、銀之助さんの事を」
 赤沢は、煙管を火鉢の角でたたいた。
「赤沢さん、何をいっているんですか。長屋の皆が、赤沢さんの事も心配しているでしょう」
 降る雪が、行灯の明かりに障子に照らしだされていた。
「しかし、この雪では、帰るのも大変ですね」
 銀之助は複雑な気持ちになった。
 七ツ刻、順之助が屋敷に帰ってきた。
「若様、銀之助さんたちが、お話があるとのことですが」
 一郎太が、順之助が着替えているところにやって来て、伝えた。
「そうか、すぐに行く」
「溝口様、お勤めご苦労様でした」
 銀之助は頭を下げた。
「堅苦しいことは抜きにしようといっていたはずだが。二人とも改まってなんだ」
「江戸が恋しくなってきたものですから、そろそろお暇しようかと」
「それはまた、急なこと。二人にはだいぶ迷惑をかけた。いつ発つかな」
「明後日にでもと思っています」
「そうか、江戸の正月には間に合うな。おすみさんたちも待っているだろう。長屋の連中も、懐かしいな」
 順之助は、一時思いにふけった。
「溝口殿。江戸に来た時は、銀之助さんの店に寄って下さい」
「江戸に行くのを楽しみにしている」
「是非」
 銀之助が、笑顔でいった。
「二人とも、今日はゆっくり飲もう」
「はい」
 順之助が、手を叩いて女を呼び、酒の支度をするように命じた。
 女たちは、膳と酒を運んできた。
「大したものはないが、ゆっくりやってくれ」
 銀之助は椀から里芋やこんにゃくを食べると、順之助に向かっていった。
「これは、‘のっぺ’ですか。美味しい」
「さすが銀之助さん、その通りだ」
 赤沢も、のっぺに箸を付けた。
「これはうまい」
 三人は、酒を飲みながら別れを惜しんで、明け方まで、江戸での話に花を咲かせた。

 朝が来た。
 雪はやみ、陽が万遍なくあらゆるものを照らしていた。
 順之助たちに見送られて、銀之助と赤沢、佐藤泰助と丹羽惣助そして、四人の中間たちは、新発田街道を西へと歩き始めた。
 銀之助たちが見えなくなるまで、順之助が見送っていた。
 昼前ごろに、銀之助たちは小春日和の江戸に入り、うまいもん屋の暖簾をくぐった。
「ただいま」と、銀之助が大声を出した。
「おかえりなさい」おすみが銀之助の声を聞いて勝手場から飛び出てきた。

                    

(おわり)
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四文屋繫盛記 七の一

2024-12-16 17:44:57 | 小説
第七話 別離(冬)
 浅草寺の五重塔に木枯らしが、巻き付くように吹き始め、町民たちは冬支度に急がされていた。
 勇治が早朝銀之助に魚を売りに来た時、またしても料理競技会番付表を持ってきた。
「銀之助さん、うまいもん屋が下から二段目に上がってますよ。大したもんだ」
「そうですか。きっとおすみさんは喜ぶでしょう」
 勇治からもらった番付表を銀之助はさっそくおすみに見せた。
「お品書きも増えたことだし、この際勝手場にもう一人誰か雇いませんか」
 おすみは嬉しそうに言った。
「そうですね、店も軌道に乗ってきたのでそうしましょう。おすみさん、心当たりありませんか」
「分かりました。ちょっとあたってみます」 
 午後の開店から四半刻後、店に身のこなしが商人っぽくない行商姿の男が入ってきた。
 店の中を鋭い目つきで見まわし、お玉が席を案内する前に、勝手に国分屋の番頭弥助の席の近くに腰を下ろした。
 男は、酒二合、田楽豆腐二本、、牡蠣飯そして、納豆汁をお玉に注文した。
 お玉が勝手場に戻ろうとしたとき、ちょっと待ってと言って、いろいろお玉に聞いてきた。
 やむを得ず、しばらくの間、話し相手をした。
 蕎麦の弥助が興味深そうに二人の会話を聞いていた。
 勝手場に戻ったお玉は、銀之助に注文を伝えて、不安そうに言った。
「銀之助さん、弥助さんの隣に腰かけている行商姿のお客さんが、どうも、橋本様のことをいろいろ聞いてきました。一体なんなんでしょうか。理由を聞いてもいわないんです。気味悪いわ」
 銀之助は、勝手場を出て、男を見た。
 男は、弥助と笑いながら話をしていた。
(ただの町人ではないな。橋本様に伝えておこう)
 男が、飯を食べ終わって、お玉に金を払い外に出ようとした時であった。
 店に入って来た足軽の中刀に、男の太ももがすれ違いざま、触れた。
「おい、ちょっと待て」
 足軽は、男に怒鳴って、行商人の背負っている行李の縁を掴んで引き戻した。
「何をなさるんで」
「てめえ、俺様の刀に触れて何ていい草だ。土下座して謝れ」
 男は、外に出て、土下座をした。
「どうかご勘弁を」
「この野郎、それで済むと思っているのか」
 足軽が、男の上げた顔を足蹴りしようとした。
(危ない!)
入口から顔を出し、二人の成り行きを見ていた銀之助がつぶやいた瞬間、足軽は、道に引っくり返っていた。
 集まった野次馬たちがざわめいた。
「やりあがったな」
 足軽は、立ち上がると抜刀した。
 銀之助が、割って入った。
「ちょっと待って下さい、店の前で人情だ沙汰は勘弁してください。八丁堀を呼びにやりますぜ。お侍さん」
 銀之助は、足軽にいってから野次馬たちに手を振った。
「今日のところは、勘弁してやらあ」
 足軽は、そそくさと店前から離れて行った。
「ありがとうございました」
 男は、銀之助に頭を下げて、帰って行った。
銀之助は客がいなくなるのを見計らって店を閉め、おすみとお玉と長屋に行った。
銀之助は行商人姿の男の話を一刻も早く橋本順之助に伝えたかった。
夕暮れ時の長屋から笑い声やどなり声が騒がしく聞こえてきた。
安吉をおつたの家へ迎えに行くと言ったのでお玉とは別れた。
橋本の家の腰高障子戸に、行燈の灯りが揺らめいていた。
銀之助が、障子越しから橋本を呼んだ。
障子戸が、開いた。
「おう、銀之助さんか。久しぶりだな、おすみさんも、早く入んな」
 橋本は、笑顔で二人を迎えた。
 銀之助は、提灯の火を消して、おすみの後に続いて中に入った。
「突然で申し訳ありません、ちょっとお知らせたいことがあるんで」
 銀之助は、持ってきた大徳利をおいて言った。
「有り難い、まずは一杯、行こうではないか」
 おすみが茶碗を三つ盆に載せて持ってきた。
「橋本様、ちょっとお燗してきますから」
「おすみさん、いつもすまん」 橋本は、煙管に煙草を詰めた。
 銀之助は、店に来た行商人について話し始めた。 
 次第に、橋本は、憂鬱な面持ちに変って来た。
「橋本様、どうなさったの」
 おすみが、徳利から茶碗に酒を注ぎ終わってから聞いた。
「いや、なんでもない。さあ、飲もう」
(やはり、何かあるようだな。橋本様と行商の男の訛りがそっくりだ)銀之助は、茶椀に口をつけた。
 それから、橋本はただ黙って酒を飲むだけであった。 
 五ツ刻の鐘が、腰高障子を震わせた。
 銀之助たちは、橋本に気を使い、家を辞去した。
翌日の昼も、男は店に来た。
「おすみさんとお玉さん、あの男から橋本様について聞かれても、一切知らぬ存ぜずを通して下さい。橋本様に迷惑をかけてはいけません」
 夕暮れは、あっという間に通り過ぎ、浅草の町を闇が覆った。
 おすみが暖簾を掛けるとしばらくして、いつものように、弥助が、こんばんわと入って来て、いつもの奥の席に腰を下ろした。
 お玉が、弥助注文を聞き終わって、勝手場に戻ろうとすると、あの男が、店にまた入って来た。
弥助の隣の席に座ったので、戻って、お玉は、その男の注文を聞いた。
「いらっしゃいませ。何にしますか」
「酒二合と田楽豆腐三本、焼きしょうが、豆腐汁あと、牡蠣飯を」
 お玉は勝手場に戻った。
「銀之助さん、また来ましたよ」
 お玉は、注文を伝えて言った。
「一体何が、目的なんでしょうか」
 男の目は鋭く、薄暗い店の中を見回していた。
 お玉は、弥助の前に田楽豆腐と徳利を置いた。
「お姉さん、まだですか」
 男が、催促してきた。
「すいません、ちょっと待ってください」
 お玉は、勝手場に早足で戻った。
 店は、混み始めてきた。 
 おすみが、入って来る客たちを捌いていた。
 男が、弥助に
「いっぱいどうですか」と、酌をした。
「銀之助さん、弥助さんがあの男と話をしているわ」
 銀之助は、勝手場から顔を出し、行灯の傍で弥助と男が顔を近づけて話をしていた。
(まずいな)
 銀之助は、心配になってきた。
「弥助さんは、どんな仕事をしていらっしゃるのですか。いや、失礼しました。私は、助三郎という者で、しがない薬の行商人です」
「私は、神田旅籠町にある国分屋という葉煙草刻問屋に奉公しています」
 弥助は、煙管に煙草を詰め、火をつけうまそうに吸って、
「よかったら、どうぞ」と助五郎の前に刻み煙草の入った箱を置いた。
 助三郎も、煙管を出し煙草を詰めた。
「助三郎さんは、どちらから来られたのですか」
「越中から来ました。弥助さんは江戸っ子のようですね。よくこの店には来られるのですか」
「はい、浅草方面に仕事があるときは、必ず寄るんですよ。うまいもん屋さんは、安いだけでなく美味しいし、また毎日献立が変わるので、この店に来るのが楽しみなんです」
 実は、弥助には、もう一つお玉に会うのが楽しみであったのだが。
 お玉が、牡蠣飯を運んできて、二人の前にそれぞれの丼を置いた。
「美味しい、牡蠣の炊き上げ御飯と大根おろしそして、柚子の組み合わせがなんともいえませんね」
 助三郎は、味わいながら食べた。
食べ終わると、弥助に聞いた。
「このお店の主はどなたですか」
「銀之助さんといって、料理が大好きで、また情の深い人です。また、おすみさんという方がいて、この方は、江戸ではもっとも有名な料理屋の八百膳というお店で働いていたのをやめて、ここで料理を作っています。美味しいわけですよ」
 弥助は、うまいもん屋の自慢をした。
 助三郎は、八百膳を知っていると言った。
「我々奉公の身では、一生いけませんや」
 弥助は、酒を飲み干した。
 六ツ刻の鐘が、腰高障子戸を震わせた。
「助三郎さん、私はこれで失礼します」と言って、お玉のところに行って金を払い、店を出て行った。
 お玉に美味しかったといって、助三郎もあとに続いて帰って行った。
 相も変わらず、助三郎は毎日のようにうまいもん屋に来て、弥助がいようといまいと、弥助の定席の隣に座った。
 弥助が、早く来たときにお玉が、助三郎に橋本様のことをいってはいけないと伝えた。

 数日後、弥助が昼飯を食べに店に入ってきた。
 助三郎はすでに来て、一杯やっていた。
 弥助は、助三郎に挨拶してから、お玉に花巻蕎麦を注文した。
「弥助さん、蕎麦ができる前に一杯いかがですか」
 弥助は頷いて、
「お玉さん、酒一合追加してください」
 弥助は、仕事が一段落したので、店に帰るだけであった。
お玉は、気を利かして、蕎麦を遅らせ、酒を持ってきた。
二人は酌み交わした。
「昼から飲む酒はいいですね」
 助三郎は、弥助に酌をしながら言った。
 四半時ぐらいお玉は、出入りの客で忙しかったが、それも落ち着いたところ、弥助を見ると、弥助が酒に手を付けなくなっていた。
「弥助さん、蕎麦持って来ましょうか」というと、弥助がはいと頷いたので、お玉は、勝手場に戻り銀之助に花巻蕎麦を頼んだ。
 おすみは、食器を洗っていた。
「お玉さん出来上がり」
「はい」といって、花巻蕎麦を弥助のところに運んで行った。
「美味しそうですね。花巻蕎麦っていうんですか。お玉さん、私にも花巻蕎麦下さい」
 助三郎が頼んだ。
「助三郎さん、花巻というのは、もみ海苔を散らしたかけそばの雅称です。この名の由来は、材料の浅草海苔が磯の花に例えられていたことからきています。浅草海苔の磯の香りとそばの風味、あぶった海苔が汁に渾然一体となって溶け込んだ何ともいえないんです。江戸では、粋な食べ物の一つです」弥助が食べながら説明した。
 食べ終わると、弥助は助三郎に挨拶をしてお玉のところに行って、一こと二ことしゃべってから金を払い、帰って行った。
「銀之助さん、大変ですよ。弥助さんが、あの男に、橋本様の家を教えてしまったようです」
「それはまずいな。皆さん、後をお願いします。橋本様に連絡してきます」
 銀之助は、二階から丸棒を背に差し、そして勝手口から出て行った。
 橋本順之助は、留守だった。
(橋本様、すみませんが勝手に入らせてもらいます)
 銀之助は、家中に入って待つことにした。
 なかなか、橋本は帰ってこなかった。
 六ツ刻の鐘が、遠くに聞こえた。
(遅いな) 
暗くなったので、行灯に灯を入れた。
 四半刻が、過ぎた。
 外で、夜の冷たい空気を切る人の動きを銀之助の耳が捉え、緊張が走った。
(二人か)
 行灯の灯を消し、土間に下りて、水瓶の傍に佇んで柄杓を掴んだ。
 障子戸が、わずかに音もなく開き、黒装束が半歩土間に踏み込んだ時、銀之助は、柄杓の水を相手めがけて放つや否や、丸棒で相手の腹を突いた。
「ぎゃー」
外へ倒れたかと思ったところ、後ろにいた黒装束が、それを受けながら、銀之助に棒手裏剣を投げた。
 腕をかすめた。
(危ない)
 相手は、手裏剣をまた手にしていた。
「ああ酔っぱらった」
(橋本様だ)
「橋本様、銀之助です」中から銀之助は大声を出した。周りを見回し、恐る恐る外へ出た。
 橋本は、驚いた。
(いつもの銀之助さんの声と違う)
橋本は、鯉口を切った。
提灯を右手で持って、家に近づいた。
「おう、銀之助さんじゃないか。どうした」
 橋本と銀之助は、家の中に入った。
 銀之助は、先ほど、ここで、黒装束に襲われたことを話した。
「某が、狙われているということか」
 障子戸の手前で、人が止まった音が聞こえた。
 銀之助と橋本は緊張した。
「橋本様、銀之助さん~、いらっしゃいますか」
おすみの声がした。
「おすみさんか、中へ入れ」
 おすみに続いて、助三郎が入ってきた。
 銀之助は二人を見て驚いた。
「若、やっと見つけました」
「助三郎ではないか。どうした」
 おすみと、助三郎が、銀之助と橋本の前に座った。
助三郎が、橋本の顔を見ながら話し始めた。
「若様、御殿様がお亡くなりました」
「父上が、亡くなったと。いつだ」
「十日前です。体中発疹ができ、あっという間の御最後でした」
 橋本は、天井を仰いだ。
(橋本様が、若様?)おすみはまだ何が何だか分からなかった。
 助三郎は、話をつづけた。
「ご家老の山形玉衛門様が、側室のお高様の子の一太郎君を跡継ぎに推挙されました。山形様は、抜け荷で私腹を肥やしているとのうわさが絶えません。また、一太郎君は、山形様の血が混じっているという輩もおります。一太郎君が後を継いだら、山形様のやりたい放題になってしまい、そのうちに幕府に目をつけられ、御家御取り潰しになってしまうでしょう。兄上様は、相変わらず寝たきりで、思わしくありません。藩の若い者たちが、若を藩主にと切望しています」
 助三郎は、おすみの入れた白湯を飲み干して、さらに続けた。
「それに対し、山形様は、若の正義感の強さに危機感を持って、刺殺人を次々とは放って若を亡き者にしようとしています」
橋本は、藩を離れて五年、家老の山形や側室のお高がどんな人間なのか知る由もなかった。
 銀之助が口をはさんだ。
「助三郎さん、もう既にその手が江戸に入っています。先ほど、黒装束の格好をした人間が、この家を襲ってきました」
「そうなんだ。銀之助さんが、俺を待っている間、危ない目に合った」
「若様が、居ないときでしたか」
(あの二人を撃退するなんて、銀之助って、一体何者なんだ)
 助三郎は、銀之助の顔を見た。
「助三郎さん、どうしましたか」
 銀之助が怪訝そうにいった。
「いや、銀之助さんにまでご迷惑をおかけしてしまって、申し訳ございません」
「助三郎、お前はこれからどうするんだ」
「この近くに宿を取っているので、時々若様のところに来て、これからのことを相談させていただきます」
夜、五ツ刻の鐘が聞こえてきた。
 助三郎はその鐘を聞いて、橋本たちに別れを告げ帰って行った。
 おすみもしばらくして、自分の家に戻って行った。
 銀之助は、橋本のところに泊まることにした。
 行灯の光が、明るくなってきた。
「銀之助さん、一杯やるか」
 橋本が、土間を下りて、徳利と碗そして香の物を持ってきた。
 銀之助が、徳利を持って、碗に酒を注いだ。
「橋本様、これからどうされますか」
 椀の酒を飲み干して、
「う~む。俺が狙われているなんて・・・」
 腕組みをした。
「橋本様は、助三郎さんのことよくご存じで」
「昔から、橋本の屋敷に助三郎の親父さんが、奉公しておったな。その息子が、助三郎で子供の時は、利発だった。そして、大人になるにつれてだんだん出世志向が強くなってきたようだ。下僕の親父さんを見ているから、自分はそうなりたくないと思っていたんじゃないか。出世のためなら、何をするかわからんと俺の友人がいっていたのを思い出したよ」
 橋本は、また碗に酒を注いだ。
「藩に戻られますか」
「俺には、政事は向いていない。しかし、悪事を企んでいる人間は許せん」
 銀之助も、自分の碗に酒を注いで、
「橋本様。いい難いのですが、助三郎さんには気を付けた方が良いかもしれません」
「なんでまた」
「ただ私の勘なんですが」
「分かった、注意しよう」
 夜も更け二人は、横になって寝入った時、
「火事だ、火事だ。みんな起きろ」
 外で叫び声がした。 
 大声に銀之助と橋本は目を覚ました。
「橋本様」
 銀之助は、丸棒を取った。
「銀之助さん、気をつけろ」
 橋本も、腰に小刀を差し手に大刀を持って立ち上がった。。
「橋本様、お気をつけて」
「行くぞ」
橋本が腰高障子を蹴った。
続いて銀之助も、外へ出た。
 長屋の連中が、すでに井戸水をくみ上げて桶に入れそして、火に向かって撒いていたが、北風に巻き上げられるよう火の手は広がっていた。
 厠から、お玉の家にあっという間に延焼した。
 お玉は、呆然と火の手を見ていた。
「お玉さん、早く逃げないと。」
 銀之助は、お玉と安吉の手をひいて火から離れた。
 半鐘が、火を煽るように鳴り続けていた。
「橋本様、銀之助さん。あたしの家もう危ないわ」
おすみが泣きそうに言って来た。
「おすみさん、早く家財道具を出さないと」
銀之助が言い、橋本とおすみたちと一緒に家に入り、おすみの荷を持って、表店の前の道に出た。
既に長屋の連中は、着の身着のままでここに逃げ出していた。
「おすみさん、ここで待っていてください。橋本様の荷も出さないと」と言って、銀之助と橋本が長屋に向かおうとした時、
「橋本様、火付ですよ。黒装束の人影を見たんです」
 簪職人の銀太が来て言った。
「銀太、分かった。お前は、家の荷物を持って、早く逃げるんだ。銀之助さん、行くぞ」
「はい」
 橋本の家に入って、銀之助は、多少の家財道具を、橋本順之助は鎧兜を持って家から出た。
 その時、‘シュッ―’という音を銀之助が効いた瞬間、棒手裏剣が柱に刺さった。
「忍びか」
「橋本様、気を付けてください!」
 銀之助は、腰をかがめ、背から丸棒を抜いた。
 橋本も、抜刀して背をかがめながら外に出た。
シュッ、シュッー
次々と手裏剣が放たれ、橋本と銀之助の近くをかすめた。
「あそこだ」と、橋本は屋根の上を指さした。
 向かいの家の屋根に、黒装束たちが走っていた。
「えっい」
橋本は、小刀を抜き黒装束目がけなげ放った。
「ぎゃー」小刀が足に刺さった黒装束が屋根から転げ落ちた。
 次々と黒装束が回転して飛び降りてきて、橋本と銀之助に上段から太刀を振り下げた。
‘カチーン’
橋本は、敵の太刀を払った。
「貴様ら、何者だ」
「この!」
 銀之助は、丸棒で太刀を受けるや否や、片足で敵の腹をけった。
「ぐあ」
 敵が、よろめいた。
 橋本は、中段に構えながら、銀之助にすり寄って行った。
「銀之助さん、油断するな」
「はい」
 その時、よろめいた黒装束が、銀之助の胴を払おうとした。
‘カチン’
 橋本の刀が、敵の刀を折った。
「どいた、どいた」
 町火消たちが、威勢をつけてやって来た。
 すでに、黒装束は消えていた。
「逃げたか。銀之助さん、大丈夫か」
「橋本様は」
「大丈夫だ。手ごわい相手だな」
 岡引きの常吉と同心の松木仁右衛門がやってきた。
 松木が、火消に指示を出した。
「さあ、ぶっこわすせ」
「おう」
 纏を持った男が、梯子を上って屋根の上に立った。 
 次々と、火消たちは屋根に上がって、長屋を壊し始めた。
「銀之助さん、なんでここに」
 常吉は、銀之助に気付いて、不思議そうにいった。
 銀之助は、誰かが火付をしたようだといった。
「誰が、こんなおんぼろ長屋に火付をするんだ」
 松木がいった。
「おいらは見たんだ、黒装束が厠に火をつけているところを」
 いつの間にか、そばに来ていた銀太が、興奮して言った。
「分かった。常吉、火が消えたら調べるぞ」
一刻ほどで、長屋は、跡形もなくなった。 
半鐘の音も、おさまった。
「おまえさん」
 おつたが、泣きながら源一の袖を握った。
「泣くんじゃねえ。みっともねえ」
 大工道具を大事そうに足元に置いている源一が言った。
 棒手振の勇治、女房おみね、お玉、そして、おすみたちが、集まっていた。
 女たちは、多少の着物と茶碗類を持って茫然としていた。
「よかったら、店に来てください」
 銀之助が、皆に声を掛けた。
夜、四ツ。 
徳衛門長屋の連中九人は、うまいもん屋に入った。
銀之助は、すぐに店の真ん中にある行灯に火を入れた。
「銀之助さん、お世話になります」
と、おすみは言って、他の行灯に火を入れるのを手伝った。
「わりいな、銀之助さん」
源一も、頭を下げた。
「冬空の下で寝ないですんだよ。有り難いことだ」
おみねが、涙を浮かべて言った。
「困ったときは、お互い様です。遠慮しないで、いつまでもここにいてください」
「本当に助かります」
お玉が、安吉の頭を手で下げさせた。
「おすみさんたち女の方は、二階で寝て下さい。我々男は、店で寝ますから」
おすみたち女は、二階に上がって行った。
銀之助は、男たちに酒をふるまった。
寒風が、高障子戸を揺すっていた。
明け六ツ。
徳衛門長屋の連中は、銀之助に挨拶して、長屋に戻って行った。
銀之助は勝手場に入って、豆腐屋が来るのを待った。
 豆腐屋の声を聞いて、銀之助は勝手口を出て、呼び止めた。
「豆腐屋さん、豆腐と油揚げをそれぞれ四十おくれ」
「へい、いつもありがとうござんす。」
(今日からは、長屋の連中の飯も作らないと。)
 銀之助は、頭に手拭いを巻き、前掛けをかけて、米をとぎ始めた。
 一刻半後(三時間)、おすみたち女は、焼け跡から、使える物を持って帰ってきた。
 二階にそれを置いて、勝手場に昼飯の献立、田楽豆腐、豆腐汁、豆腐飯を銀之助と一緒に作り始めた。
「おつたさん、旦那たちは」
「仕事に行きましたよ」
「そうですか、では皆で、美味しい飯を作りましょう」
 銀之助がだれかれと関係なしにいった。
「橋本様は、どこに行きましたか」
「そういえば、途中で別れたきりです」
 おすみが答えてから、店の暖簾を掛けに行った。
 御救小屋の炊き出しに満足しない人々たちが、うまいもん屋に殺到した。
 銀之助たちはてんてこ舞い、それでも、おつたとおみねが手伝ってくれているので、助かった。
 いつもより早く、飯類が無くなった。
「店を閉めましょうか、おすみさん」
「はい」
おすみは、外へ出て、暖簾を丁寧に折りたたんだ。
「あたしたちは、上でゆっくりさせていただきます」
 お玉が、銀之助にいって、女たちは、二階に上がって行った。
 一人店に出て、銀之助は、煙管に火をつけた。
美味しそうに吸ってから、煙を口から疲れも一緒に出した。
いつの間に、銀之助は眠りに落ちていた。
 二階から、足音ともに、皆が降りてきた。
 おすみが声をかけた。
「銀之助さん、献立はなんにしますか」
 銀之助は、目を覚ました。
「もう時間ですか。いなりと納豆汁にしましょうか。水戸から、先日納豆を送ってもらいましたんで」
 銀之助が、竈に火をつけ、油揚げを醤油とみりんそして、酒を入れた鍋に油揚げを次々と入れた。
 おすみは、味噌を溶かし、納豆汁の支度を、お玉は、いつものように、田楽豆腐を作り始めた。
 橋本が戻ってきて、銀之助を誘って、二階に上がって行った。
「橋本様のあんな真剣な顔、初めて見たわ」
 おすみが、驚きを隠せずに言った。
「あの件かしら」
 お玉が、引き取った。
「お侍さんも大変ね」
 おつたが、いった。
 しばらくして、橋本が出て行った。
 続いて四半刻後、銀之助も
「おすみさん、ちょっと出かけてきますから、後よろしく頼みます」
 といって、勝手口から出て行った。
 店を開けると、すぐに弥助が入ってきた。
 それをお玉が迎え、いつもの席に案内した。
 勇治が帰ってきて、弥助のそばに腰を下ろした。
「勇治さん、今度の火事は大変でしたね」
「本当にまいりました。でも銀之助さんのおかげで助かりました」
 おみねが、勇治の前にいなりと納豆汁を置いた。
「ありがとよ」
「あんた、早く食べて。二階に上がってよ」
「はい、はい」
 弥助は、笑いながら盃を飲み干した。
 銀太と源一と帰ってきた。
 おすみとおつたが、二人にいなりを持ってきた。
 捨て鐘の後に、六ツ刻の鐘が、木枯らしに流れて聞こえてきた。
「いらっしゃい」
 お玉が、助三郎を迎え、勇治の座っていた席に案内した。
「助三郎さん、どうしたんですかい。元気有りませんね」
 弥助が、心配そうにいった。
「はい、寒くて、持病が出ましたもんで」
 助三郎は、熱っぽい顔をしていた。
「お玉さん、今日の献立はなんですか」
「いなりと納豆汁です。助三郎さん、大丈夫ですか」
「では,それとお酒下さい。若様はいますか」
「まだ、帰って来ていないようですよ」
「なにか」
「いや、若が心配なものですから」
 半刻(一時間)ほどで、助三郎は帰って行った。
 入れ替わりに、銀之助が戻って来た。
「おすみさん、皆さん、遅くなりました」
「橋本様は?」
 おすみが聞いた。
「途中で別れたんですが、まだ帰っていませんか」
「さっき、助三郎さんが、来て心配していました。」
 お玉がいった。
「もう帰ったんですか」
「はい」
「いらっしやいませ」
おつたの声がした。
 猿天狗の面をつけて、黒羽織に袴姿、そして腰に両刀を差し、
「わいわい天王、騒ぐのがお好き・・・」と言いながら男が店に入ってきた。
 続いて、
「せきぞろ せきぞろ めでたい、めでたい・・・」
三人組が、暖簾を分けて入ってきた。
 注文を聞いてきたおつたが、戻って来ていった。
「銀之助さん、今日は、大道芸人のお客が多いですね」
「珍しいですね」
おすみが、いなりを作る手を止め、銀之助にいった。
 銀之助は店の中を覗いた。
(彼らは、ただの芸人ではなさそうだ)
「おすみさん、お客さんに挨拶してきます」
 銀之助は、注文の酒と田楽豆腐を持って勝手場を出た。
 わいわい天王の所に行って、
「いらっしゃいませ。主の銀之助と申します」
 これはあいさつ代わりと言って、樽の上に酒と田楽を置いた。
「銀之助さんというんですかい。よろしく」
「今後とも、御贔屓下さい。ごゆっくりどうぞ」
 銀之助は、ゆっくり頭を下げながら面を取った相手の顔を脳裏に焼き付けた。
 続いて、銀之助は、節季たちの所にも顔を出した。
「いらっしゃいませ。主の銀之助と申します。料理はいかがですか」
(太鼓のバチが、やけに太い)
「田楽豆腐、美味いぞ」
「それはそれは、お気に召していただきありがとうございます」
 頭を下げ、節季たちの足元を見た。
 行灯の暗さでも、足元の鉄網でできた脚絆は光っていた。
(彼らも、橋本様を狙っているのだろうか。そうであれば、手ごわそうな相手だ)
 勝手場に戻ると、橋本が飯を食べていた。
「橋本様、店に四人の怪しい客がいます」
「どんな奴だ?」
「大道芸人の格好をしています」
「そうか」
「赤沢さんが来たら、二階に通ししてください」
 おさとの件以後、銀之助を慕って時々うまいもん屋に来るようになった赤沢惣右衛門に銀之助が助成を頼んだのだ。
 銀之助は、おすみに店を任せて、橋本を二階に連れて行った。
 しばらくして、赤沢が勝手口から入って来た。
「銀之助さんはいるか」
「あら、めずらしい。二階でお待ちですよ」
 閉店後まもなく、銀之助と赤沢が一階に降りてきた。
「銀之助さん、では、また明日」
「赤沢さん、ちょっと待って」
 おすみは、折りたたまれた小田原提灯火を入れ赤沢に渡した。
 朝早く、おすみたちに見送られ、橋本は、うまいもん屋を出た。
銀之助も続いた。
「お二人ともお気を付けて」
 お玉は、心配そうに二人を見送った。
一ツ刻(二時間)ほどで、、二人は日本橋に入った。
まだ、陽も上がらないのに旅に出かける人々で、ごった返していた。
うっすら東の空が赤みを帯びてきたころ、二人は中山道に入っていた。
銀之助と橋本は、前を歩いていた旅人を次々と抜いて行った。
どこからともなく、昼八ツ半刻(三時)の鐘が聞こえてきた。
「寒いな。銀之助さん、ちょっと早いが、天気が悪くなってきたのでここで宿を取ろうか」
橋本が、空を見ながら言った。
は、賑わっていた。 
「お侍さん、お兄さん。安くしておくから泊まって行っておくれ」
飯盛旅籠の女たちが、銀之助たちの袖をしつこく引くのを振り切って、やっと平旅籠に入ったのは、九つ近かった。
「お侍さんたち、相部屋になるでいいかね」
 銀之助は、橋本の頷くのを見て答えた。
「いいですよ」
 二人は、部屋に案内された。
「お客さん、お二人と一緒になりますのでよろしくお願いします」
 女中が、先客に声をかけた。
「よろしく願います」
 銀之助は、一人煙草を吹かしている老人に挨拶をした。
 橋本も軽く頭を下げた。
「奈良橋作衛門と申します。こちらこそよろしく願います」
銀之助と橋本も名のった。
「では、儂は風呂に入らせてもらうで」といって、老人は部屋を出て行った。
 銀之助がそっと障子戸を開け外をうかがった。
「橋本様、つけられていないようですね」
「まだ分からんぞ、気をつけねば」
 そして、二人は、風呂に入り、夕餉を取って、床に就いた。

天候に恵まれ、熊谷、倉賀野そして坂本と宿取って、江戸を発って、五日目に追分に着き、銀之助と橋本は、旅籠に入った。
一刻後、赤沢が銀之助たちの部屋に入ってきた。
「赤沢さん、どうですか」
「敵か味方かわからんが、どうも二組が、そちたちの後をつけているようだ」
「そうか、明日から北国街道に入るから、特に気をつけねば」
「新発田までは、どのくらいかかるんでしょうか」
「この天気では、あと五日ぐらいはかかりそうだな」
「では、儂は前の旅籠に泊まることにするので、これで失礼する」
「赤沢さん、明日もよろしくお願いします」
「赤沢殿、よろしく頼む」
 雪の北国街道を、蓑をまとった銀之助と橋本は歩き続けていた。
一刻ほど経って、
「銀之助さん、茶屋があったら休もうか」
「こんな雪深いところに茶屋なんてありますかね」
「いや、民家でもいいから休ませてもらおう。寒くてたまらん」
 と橋本がいった時、
「銀之助さん、後ろに敵だ!」
 後ろから大声が響いた。
 二人は、後ろに振り向き、腰を低めた。
 黒装束三人が、雪道を銀之助たちを襲って来た。
 銀之助の横の雪に、手裏剣が刺さった。
「橋本様、逃げて下さい。後は、私たちに任せて下さい」
「気をつけろ」
 銀之助の五間前に、黒装束の一人が小刀を上段に構えて走ってきた。
 一間ほど前で、倒れた。
 赤沢が、長刀を抜いて後二人の後を追いかけてきた。
銀之助は、刺さっていた手裏剣を取り、顔をめがけて投げた。
「ぎゃあ」
 赤沢の投げた黒い球が、バーンと爆発し煙が舞った。
吹雪が、煙をさらった。
「銀之助さん、大丈夫か」
「赤沢さん、助かりました」
「橋本殿を追っかけよう」
二人は、すぐに橋本に追いついた。
「申し訳ない、危ない目に合わせてしまって」
「橋本様、まだまだこれからです」
「そうだ、銀之助さんがいう通りこれからも気を付けないと」
 赤沢が、袖で鼻を拭いた。
「もうしばらくすると、だ。今日は、そこで泊まろう」
 橋本の言葉が、吹雪に流された。
 三人は、海野宿の旅籠‘啄木鳥’に泊まった。
「橋本様、海野宿は結構栄えていますね」
 銀之助が、火鉢に手をかざしながら言った。
「確か、この宿は、六町(約六五〇メートル)にわたり街並みが続いており、本陣一軒と脇本陣二軒が設けられている。佐渡の金の江戸までの輸送、善光寺までの参拝客や、北陸諸大名の参勤交代などで利用されているんだ」
「お客さん、良くご存じで」
 女中が、飯をよそりながらいった。
「お女中、明日はどこに泊まったらよいであろう」
 橋本が言った。
「そうだな、善光寺までがんばったらどうだね、天気はよさそうだし」
その朝、街道を覆う雪は、陽の光を受け眩しいほど光り輝いていた。
旅籠で善光寺詣用の衣装に変え、三人は旅立った。
昼近くに、善光寺宿に着いた。
「大きいお寺ですね」
 銀之助は、門を見上げた。
「銀之助さん、この寺の門は古えより、‘四門四額’と称して、東門を‘定額山善光寺’、南門を‘南命山無量寿寺’、北門を‘北空山雲上寺’、西門を‘不捨山浄土寺’と称するんだ」
 銀之助たちは、東門をくぐった。
「旅の方々、よう来なすった」
 僧が、雪の上に立って、銀之助たちを迎えた。
 僧は、銀之助たちがどこから来たのかも聞かず、説明し始めた。
「本堂の中の‘瑠璃壇’と呼ばれる部屋に、初めての朝鮮渡来の秘仏の本尊・一光三尊阿弥陀如来像が厨子に入れられて安置と伝えられています。その本尊は善光寺式阿弥陀三尊の元となった阿弥陀三尊像で、その姿は寺の住職ですら目にすることはできないのです。 瑠璃壇の前には金色の幕がかかっていて、朝事とよばれる朝の勤行や、正午に行なわれる法要などの限られた時間のみ幕が上がり、金色に彩られた瑠璃壇の中を部分的に拝むことができます。よろしければお詣りして行ってください」
「申し訳ない、先を急いでいるので、ここでお詣りして失礼する」
 橋本は、本堂に向かって、頭を下げた。
「旅の御無事を祈っております」
 僧が合掌した。
 何事もなく、新町宿・牟礼宿・古間宿・柏原宿・野尻宿・関川宿・上原宿・田切宿・二俣宿・関山宿・松崎宿・二本木宿・荒井宿を経て、三人は高田宿に入った。
 三人は、はずれの旅籠に入った。
「いらっしゃい」
女中たちが迎え、たらいに湯を入れ三人の足元に置いた。 
足を洗った後、三人は、部屋に案内され、すぐに交代で風呂に入った。
 最後の銀之助が戻って来たときには、夕食の準備が整えられていた。
「お待たせしました」
 銀之助は、甘海老、越前蟹等、海の幸が盛られた箱膳の前に座った。
「美味しそうですね」
「悪いが、酒はもうしばらく控えてくれ。では、食べよう」
「橋本様、めずらしいことを」
 銀之助が、笑いをこらえて言った。
「銀之助さん、いつ敵が来るかわからんからな」
 橋本、赤沢は刀をいつでも持てるよう左脇に置いていた。
 銀之助もいつもの丸棒をそばに置いている。
 しばらくして、橋本が箸をおいていった。
「明日は、奥州街道を東へ行き、長岡藩を目指す」
「長岡藩ですか」
 銀之助が、聞き返した。
「そうだ、長岡藩の知り合いを訪ねて、新発田の情報を得ようと思う」
「なるほど」
赤沢は頷いた。
「明日も早いぞ」
 橋本はいった。
 そして、三人は床に入り寝入ってから半刻ほど。
「宿改めである」
 階下で声がした。
「銀之助さん、赤沢さん。起きろ」
 橋本が、二人をゆすぶった。
 二人も一階での声に目を覚ました。
 すぐに銀之助は、階段のところまで行って、様子をうかがってきた。
「上がってきます」
「橋本殿、銀之助さん。某に任せろ。早く、屋根を伝わって逃げろ」
 赤沢はいった。
「赤沢さん」
「某はどこで果てようとも、悲しんでくれる奴はいない。早く行くんだ」
 廊下で声がした。
「お客様、宿改めでございます」
 旅籠の番頭が、障子を開けた。
 十手を振りかざした同心と岡引き一人が、入って来た。
「一人か?連れはどうした」
「拙者、一人だ。連れなどいない」
「本当に一人ですかい」
「番頭、本当か?」
「・・・・」
 赤沢は、同心の目を睨んでいった。
「何があったんだ」
「おぬしには関係ない」
「こんな夜中に起こされて、何がかんけえねえだ」
「おぬしの名は」
「人の名を聞く前に、自分の名を名乗るもんだ」
 赤沢は、時を稼いだ。
「生意気な」
 赤沢が、刀を寄せた。
 同心も身構えた。
 同心は殺気を感じた。
 岡引きは、ひるんだ。
「浪人さん、どこに行くんだ」
 赤沢が立ちあがった。
「越後だ」
「偽りを申したら承知せんぞ」
 同心は、身構えを解くことなく部屋を出て行った。
「あいつはただの同心ではないな。君子危うきに近寄らずだ」
 行灯の火を消し、障子を開けた。
「逃げるか」
 雪の積もった屋根に飛び降り、銀之助たちの足跡を追った。
 雪はやみ、風もおさまっていた。
 雪明りをたよった。
 赤沢は、四半刻ほどで銀之助たちを見つけることができた。
「おい」
 銀之助が、構え振り向いた。
「俺だ」
「赤沢さん」
「何とか・・」
 ピー~ ピー
呼び笛が鳴った。
「裏に回ろう」
 二人は頷いた。
 そして、足を取られながら雪の積もった屋根を上った。
 裏には、あの同心と岡引きがいた。
「あいつには気を付けた方がいい」
 赤沢が、手短に話した。
 そして、屋根から飛び降り、同心たちを取り囲んだ。
「貴様・・」同心は、赤沢の当て身にがっくりと膝をついた。
「がっ」銀之助は、岡引きの腹に丸棒を打ち込んだ。
「橋本様、これを着て」銀之助は同心の蓑と笠を取って渡した。
「赤沢さん、あれを」
「俺は笠だけでいい。銀之助さんは蓑を付けろ」
 三人は、道を急いだ。
「大丈夫か」赤沢が、遅れはじめた銀之助にいった。
「銀之助さん、俺のカンジキを貸そうか」橋本が、振り返った。
「大丈夫です」
「俺は、雪には慣れている」橋本は、雪の上に座り込んでカンジキをはずし、銀之助に渡した。
 銀之助は礼をいって、カンジキを履いた。
「どうだ、楽だろう」といって、橋本は、ゆっくりと歩き始めた。
 流れてきた雲に星が隠れ始めた。
 三人は、疲れが出てきた。
 赤沢が、座り込んでしまった。
「赤沢さん、大丈夫ですか」銀之助が心配そうにいった。
「俺は、今までこんな雪の中を歩いたことがないんだ。疲れたぞ」
「あそこに家があるぞ」橋本が言った。
薄明かりが漏れている農家が、見えた。
「あの家で休ませてもらいましょう」銀之助が、いった。
 戸を叩いた。
「ごめんください、旅の者ですが」
「だれだ」
「道に迷ったのです」
「ちょっとお待ってや」
 戸が少し開いた。
 三人の姿を見て、老爺は一瞬たじろいだが、三人の低頭に安心したのか、「何か用かね」と聞いた。
「朝早くからすみません。道に迷ってしまいました」
「どこへ行くんだ?」
「長岡へ行きたいのですが」
「長岡か」
「おやじさん、これでちょっと休ませてもらえませんか」銀之助が、路銀を手渡した。
「あそこの納屋を使え」
 といって、戸を閉めてしまった。
「男三人、野盗と間違えられても仕方ないな」
 橋本が、納屋に向かった。
 三人は、納屋に積んであった藁の中に身を沈めて眠り込んだ。
「旅の人」  
納戸の戸が開いた。
「・・・」銀之助は、丸棒を掴んだ。
「おう、じいさんか」
 赤沢も、太刀を掴んでいた。
「寒い」橋本が、いった。
「助かりました」銀之助は立ち上がり、男に頭を下げた。
「大したものはないが、朝飯でも食べていかないか」
 と老婆は母屋に三人を案内した。
 自在鉤につるされた鍋からよいにおいが、囲炉裏端に座った三人に空腹をしらしめた。
 老女が、椀に鍋の雑炊をよそって、銀之助たちに渡した。 
「うまい」
 赤沢が、すぐに空になった椀を老婆に渡した。
 三人は、すっかり満足した。
 橋本が、煙管に煙草をつめ、火をつけた。
 鼻から煙を吐きながら、長岡までの道のりを聞いた。
「さてと行くか」
 橋本が、立ち上がった。
「ここにある蓑、笠、カンジキ、使っていいぞ」
 と、老爺が言った。
 雪が、激しく降り始めていた。
                       つづく
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四文屋繫盛記 六

2024-12-10 10:08:52 | 小説
第六話 孝行娘(秋)

 浅草寺境内を、秋風が通り過ぎていた。
 四ツ半刻(十一時)頃、おすみが、店から出て、いつものように暖簾を掛けた。
 しばらくすると、尼の姿をした女が、落ち着かない仕草をしながら入ってきた。
「いらっしゃい」
 お玉は、入口で出迎え、席に案内をした。
 注文を聞きながら、お玉は、尼の顔を何気なく見た。
「おすみさん、あの尼さん、本当の尼さんじゃないみたい。ちょっとおかしいんですよ」
「お玉さん、その前に、注文はなんですかい」
 銀之助が、口をはさんだ。
「菜飯ととろろ汁、お願いします」
 といって、おすみのほうに向かって、舌を出した。
 お玉は、尼のところに膳を運んで行った。
 それから、入って来る客という客は、尼姿に一瞥して席に着いた。
 四半刻ほどたって、尼は、食べ終わり、お玉に金を払おうとした時、岡引きの常吉と同心の松木仁右衛門が、慌ただしく店に入って来た。
二人は、客たちの顔を見回した。
松木にいましたぜといって、常吉は、尼のところにやって来た。
「おい、はま、ちょっと番屋まで、顔を貸してくんな」
 常吉は、十手で肩を叩きながらいった。
「あたしが何をしたというんだね」
「今、おまえが払ったその銭、稼いだ相手は、盗人なんだ。話を聞かせてくれねえか」と、 松木が言った。
「お玉さん、悪いがこの銭、ひとまず証拠としてもらっていくぜ」
 常吉は、銭を巾着に入れ、観念したはまを店から連れ出した。
 お玉は、何が何だかわからず、ただ茫然と常吉たちを見送った。
 店にいた数人の客は、何事もなかったかのように飯を食べ終えて、うまいもん屋を出て行った。
 おすみは、暖簾を店の中に入れ、腰高障子を閉めた。
「銀之助さん、一体なんで、はまさんが連れていかれたんですか」
 お玉が、聞いた。
 おすみも知りたそうな顔をして、茶碗を洗っていた。
「はまさんでしたっけ。彼女は、本当の尼でなく、恐らく、いわゆる比丘尼と呼ばれる尼の格好をした売春婦なんでしょう。たまたま昨日の相手が、盗人だったんでしょうね」
「比丘尼っていうんですか」
「比丘尼とは、本当は、尼僧の階級をいうらしいのですが、ちょっと前では、地獄絵図のようなものを持ち歩いて、悲しい声で物語をし、金銭を得ていた尼姿の女を比丘尼といっていました。それが最近では、尼僧の格好をした坊主頭の遊女のことをいうようです。そういえば、赤穂浪士の大石内蔵助は、討ち入りの迫った頃、赤阪伝馬町にいる比丘尼に通っていたという噂があったそうですが、本当かどうか」
「男って、いやらしいですね、銀之助さん」
 おすみが口をはさんだ。
「そろそろ、仕度をしましょうか。献立は、いつもの田楽豆腐、ちょっと早いですが風呂吹き大根そして、ねぎ飯にしましょう」と言って、銀之助は、苦笑いしながら比丘尼の話を打ち切った。
浅草寺からの七ツ時(四時)の晩鐘が鳴り響いた。
 おすみが、暖簾を掛けに店の外へ出ると、はまが立っていた。
「はまさん、店の開くまで、待っていてくれたんですか。さあ、中に入って下さいな」
 はまは、おすみに背を押されて中に入った。
「実は、先ほどのお食事代なんですけど・・・・」
「そこに座って待っていてください。今、銀之助さんを呼んできますから」
 銀之助が心配そうに腰をおろして言った。
「はまさん、わざわざ店の開くのを待っていて下さったんで」
「先ほどのお食事代なんですけど・・。お金が、盗人の物だといわれ、すべてお上に没収されてしまいました。すみませんが、後日払いに来ますので、今日は勘弁してください」
 はまは、頭を下げた。
「お金は、いいですよ。何かわけがあるようで、良かったら話してくれませんか」
 はまは、しばらく俯いていたが、決心したかのようにしゃべり始めたが。
「あたしは、紺屋町の仁兵衛長屋に、両親三人で暮らしてます」
 はまは、それきり黙ってしまった。
「はまさん、話したくなけりゃ、話さなくてもいいのよ」
 おすみが、心配そうにいうと、はまは、とうとうこらえきれずに泣き出した。
銀之助のしぐさを読み取り、おすみは、勝手場に行った。
しばらくの間、銀之助は黙ってはまのそばにいた。
「はまさん、ここではなんだから、勝手場に行きましょうか」
 銀之助が、勝手場に連れて樽に座らせた。
おすみが、風呂吹き大根とねぎ飯を膳に載せて、はまの前に置いた。
「はまさん、これ食べて行ってくださいな」
 三人連れの客が入って来て、お玉が席に案内し、勝手場に戻ってきて注文を伝えた。
「銀之助さん、田楽豆腐六本、風呂吹き大根三つ、お酒三合です」
 銀之助とおすみが、注文の品を膳に載せ、お玉が客に運んで行った。
「おすみさん、風呂吹き大根とねぎ飯二人前を、おはまさんに持たせてください」
「はい」
 それを聞いたはまは、箸を止め二人に頭を下げた。
 はまが食べ終わると、銀之助は、あまり遅くなると物騒だからといって、提灯に火をつけて持たせた。
 はまは、裏口で見送る銀之助たちに、振り返っては何度も頭を下げていた。

 朝、真っ青な空だった。
「おはようございます」
 お玉が、息子の安吉を連れて勝手場に入ってきた。
「おはよう、安坊、珍しいな」
「今日は、寺子屋が休みなんで、手伝いに来させました」
 安吉は、お玉のいう通りに茶碗を並べていた。
 銀之助とお玉は、昼の献立を作った。
四ツ時(十時)の鐘が鳴ってしばらくすると、おすみが息を切らせて、勝手場に入ってきた。
「間に合った」
「おすみさん、今日は、休んでもよかったのに」
銀之助は、笑顔で迎えた。
「あれ、安吉じゃないの。あんたも手伝ってくれてんの」
といってから、はまの住んでいる猿屋谷町、仁兵衛長屋の噂を銀之助に話した。
「はまさんの父親は、髪結職人で、数年前に、父親と同業だった万之助という男を婿にしたようです。その後、父親は病に倒れ、万之助は、酒、博打そして女におぼれたようです。はまさんは、それからも万之助に尽くしたようですが、お金が無くなると荒れて、暴力をふるうようになり、長屋の人たちは、はまさんの家から聞こえてくる怒号には居た堪れなくなったといっていました。名主から、万之助に説教してもらうも全くいうことを聞かなかったようです。はまさんも、もうついて行けないと決め、別れたんですが、父親だけでなく、母親までもが、病気がちで縫い物などの賃仕事では、薬が買えなくなったので、止む終えず、手っ取り早く稼げる比丘尼になったんですって。はまさん、毎朝浅草寺に日参して、お百度を踏んでいると、長屋の人たちは孝行娘と褒めていました。そんなはまさんを慮って、長屋や近所の人たちが婿養子の話を持って行くのらしいですが、両親の心にかなわぬようなことがあるとかえって、不幸になるからといって断っているようです」
銀之助とお玉は、おすみの話を、仕事の手を止めて聞き入っていた。

 それから数日後の重陽の節句の日、銀之助はいつもより早く目を覚ました。
(今日は、忙しいぞ)と、身支度をしながら、気合を入れた。
勇治が来る前に、銀之助は浅草寺に向かった。
仁王門をくぐると、道の両脇で、職人たちが、鉢に入った菊を並べ始めていた。
白、黄、淡い桃色と色とりどりの豪華絢爛な菊であった。
手水で手を清め、本堂でで手を合わせた。
 まだ時間があったので、念仏堂そして、龍谷稲荷に近づいた時、女が、二礼二拍一礼をして、手を合わせたまま身動きせずに稲荷の前で拝んでいた。
 しばらくの間、銀之助は女を見つめていた。
(やはり、はまさんか)
 銀之助は、音を立てず、二拍し頭を下げて、その場を後にした。
 店に戻ると、勝手場にはおすみとお玉そして、安吉が働いていた。
流しでは、包丁を持って、魚を捌いている男がいた。
「勇治さん、どうしたんですか」
「裏口でいつものように声を掛けたら、誰も出て来ねえので、通り過ぎようとした時、おすみさんたちが来たんです。今日は、重陽の節句なんで忙しくなるから早く来たんですって。それじゃ、おいらも適当な魚を捌いて行こうってなったわけで」
「それは・・。皆さん、ありがとう」
「銀之助さん、今日は生きのいい秋刀魚が手に入ったので、鮨ねた用に捌きましたよ」
「あたしは、酢飯を作ってます」
 お玉とは、団扇で煽ぎながらいった。
「あとは、焼き生姜と若菜汁にしました」
 おすみが、笑顔でいった。
 おすみが、うまいもん屋の暖簾を外に掛けた。
半刻ほどして、手拭いをかぶって、はまが息を切らして、店に入ってきた。
「はまさん、どうしたんですか」
 お玉が、心配そうにいった。
「助けて」
 客たちが一斉に、はまの方に顔を向けた。
「この女、逃げやがって」
 みみずばれの傷を頬に持った男が、店の中に入ってきた。
 客たちは、ざわめきそして息をのんだ。
「この男です、昨日のお金・・・」
「何いってやがる」
 はまの手を掴んで、店の外に連れ出そうとした時、
「お客さん、ちょっと待ってください」
 銀之助は、はまを掴んでいた男の手首を取り捻った。
「いてえ、てめえなにしやがる」
「お客さんに迷惑を掛けますので、外で話しましょう」
(こいつか、盗人は)
「うるせえ、痛い目に合わないうちに、この尼を渡した方がいいんじゃねえか」
 銀之助のつかんだ手を振り切った男は、肩で風を切って外へ出た。
 銀之助が、外へ出ると、いきなり男は匕首を振りかざして、かかってきた。
「何をするんですか」
 銀之助は、左に体をかわした。
「この野郎」
 男が体制を整えて、また向かって来たところ、銀之助の左足が、男の急所を足で蹴り上げた。
「いてえ」
 男は前にうずくまった。
銀之助は、おすみに縄を持ってこさせ、男を縛り、四半刻後に来た同心の松木と岡引きの常吉に引き渡した。
松木は、はまに奉行所で話を聞かせてくれと言った。
「銀之助、この度の事、奉行に伝えておく」と、松木が礼を言った。
「銀之助さん、お手柄でしたね」
 おすみは、嬉しそうだった。
「はまさんのお手柄ですよ。お奉行所も、はまさんにお礼をいわなければなりませんね」
「はまさんも、ほっとしたんじゃない」
 お玉が、豆腐を串に通しながら、いった。
「明々後日は、お月見ですね。長屋の人たちも入れて、お月見やりましょうか」
「銀之助さん、はまさんたちも呼びましょうよ」
 おすみがいった。
「お母さんとお父さん、病気でしょ」
「駕籠で来れば大丈夫よ、はまさんに確かめてみるわ」
 おすみは、明日でも長屋にいって聞いてみるといった。
「場所は、大川端の舟宿を借りましょうか」
 銀之助は、干したを焼きながらいった。
「そうだわ、常吉親分がやっている舟宿にしましょうよ。きっと安くしてくれるわ」
 おすみが、笑いながらいった。
常吉は、瞽女の事件後、うまいもん屋に時々、客として来るようになった。
銀之助が常吉にはまたちと月見をやるので、部屋を貸して欲しいと頼んだところ、二つ返事で一番良い部屋を貸そうと承知してくれた。

月見の日、銀之助は昼で店を閉めた。
「さあ、作りましょう。おすみさん、酢だこ、ゆで卵との天麩羅をお願いいたします。お玉さん、団子をおつたさん、煮ものをお願いします」
 今回、おすみの進言により、初めて鯔の天麩羅を献立に入れた。 
 銀之助は、剥いた栗を米に入れて、火をつけた竈に乗せた。
 出来上がった料理を提重に盛り合わせが終わって、大川端にある舟宿‘千鳥’に行った。  
 大川沿いを銀之助たちが話しながら歩いていると、長屋の連中に追いつかれ、橋本が、おすみに声をかけた。
「今日は豪華そうだな」
「橋本様、皆腕をふるって作りましたから。良いお月見ができますよ、乞うご期待を」
 川辺の店々には、行燈に灯がともされ始めた。
 千鳥に着くと、常吉の女房たつが銀之助たちを迎えた。
「いらっしゃいませ。もうはまさんたちはお着きですよ」
 はまと両親、そして迎えに行った職人の銀太が、すすきや果物が供えられた置き台をはさむように座っていた。
はまと両親が、銀之助たちに頭を下げた。
「この度は、娘のはまがいろいろ世話になっただけでなく、俺たちを月見に呼んでいただき、ありがとうございます」
 父親の民助が、また頭を下げた。
 しばらくして、おすみ、お玉や長屋の女連中が作ってきた料理を膳に載せて運んできた。
 はまたちは、思わず、
「美味しそう」といった。
 そして、千鳥の女たちが、酒を運んできた。橋本が、徳利を取って、民助の前に行き、酌をした。
「とっつあん、飲みな」
 はまは、銀之助の前に行って酌をした。
「この度は、いろいろお世話になりありがとうございました」
「これからも、おとっつあんとおかっさんを大事にな。何かあったらいつでもうまいもん屋に来てくれ」
 開け広げた障子からの大川と月がはっきりとはまの潤んだ目に入った。
 宴が盛りになって来た時、常吉が同心の松木仁衛門を連れて入ってきた。
 銀之助、はまたちは驚いた。
「皆の者、宴の席を邪魔して申し訳ない。実はお奉行様からはまの親孝行に対して、ご褒美が出たので持って参った」
 松木は、はまの前に座って、紫の包みを差し出した。 
 はまと両親は体がこわばって、頭を下げ続けていた。
「はまさん、遠慮なくもらっとおけ」
 橋本が横から口をはさんだ。
「そうよ、もらっておきなよ」と、おつたが言った。
 はまは、涙が止まらなかった。
 月は川面を照らし、川端の草むらでは鈴虫が鳴き始めていた。
                                  つづく
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