第七話 別離(冬)
浅草寺の五重塔に木枯らしが、巻き付くように吹き始め、町民たちは冬支度に急がされていた。
勇治が早朝銀之助に魚を売りに来た時、またしても料理競技会番付表を持ってきた。
「銀之助さん、うまいもん屋が下から二段目に上がってますよ。大したもんだ」
「そうですか。きっとおすみさんは喜ぶでしょう」
勇治からもらった番付表を銀之助はさっそくおすみに見せた。
「お品書きも増えたことだし、この際勝手場にもう一人誰か雇いませんか」
おすみは嬉しそうに言った。
「そうですね、店も軌道に乗ってきたのでそうしましょう。おすみさん、心当たりありませんか」
「分かりました。ちょっとあたってみます」
午後の開店から四半刻後、店に身のこなしが商人っぽくない行商姿の男が入ってきた。
店の中を鋭い目つきで見まわし、お玉が席を案内する前に、勝手に国分屋の番頭弥助の席の近くに腰を下ろした。
男は、酒二合、田楽豆腐二本、、牡蠣飯そして、納豆汁をお玉に注文した。
お玉が勝手場に戻ろうとしたとき、ちょっと待ってと言って、いろいろお玉に聞いてきた。
やむを得ず、しばらくの間、話し相手をした。
蕎麦の弥助が興味深そうに二人の会話を聞いていた。
勝手場に戻ったお玉は、銀之助に注文を伝えて、不安そうに言った。
「銀之助さん、弥助さんの隣に腰かけている行商姿のお客さんが、どうも、橋本様のことをいろいろ聞いてきました。一体なんなんでしょうか。理由を聞いてもいわないんです。気味悪いわ」
銀之助は、勝手場を出て、男を見た。
男は、弥助と笑いながら話をしていた。
(ただの町人ではないな。橋本様に伝えておこう)
男が、飯を食べ終わって、お玉に金を払い外に出ようとした時であった。
店に入って来た足軽の中刀に、男の太ももがすれ違いざま、触れた。
「おい、ちょっと待て」
足軽は、男に怒鳴って、行商人の背負っている行李の縁を掴んで引き戻した。
「何をなさるんで」
「てめえ、俺様の刀に触れて何ていい草だ。土下座して謝れ」
男は、外に出て、土下座をした。
「どうかご勘弁を」
「この野郎、それで済むと思っているのか」
足軽が、男の上げた顔を足蹴りしようとした。
(危ない!)
入口から顔を出し、二人の成り行きを見ていた銀之助がつぶやいた瞬間、足軽は、道に引っくり返っていた。
集まった野次馬たちがざわめいた。
「やりあがったな」
足軽は、立ち上がると抜刀した。
銀之助が、割って入った。
「ちょっと待って下さい、店の前で人情だ沙汰は勘弁してください。八丁堀を呼びにやりますぜ。お侍さん」
銀之助は、足軽にいってから野次馬たちに手を振った。
「今日のところは、勘弁してやらあ」
足軽は、そそくさと店前から離れて行った。
「ありがとうございました」
男は、銀之助に頭を下げて、帰って行った。
銀之助は客がいなくなるのを見計らって店を閉め、おすみとお玉と長屋に行った。
銀之助は行商人姿の男の話を一刻も早く橋本順之助に伝えたかった。
夕暮れ時の長屋から笑い声やどなり声が騒がしく聞こえてきた。
安吉をおつたの家へ迎えに行くと言ったのでお玉とは別れた。
橋本の家の腰高障子戸に、行燈の灯りが揺らめいていた。
銀之助が、障子越しから橋本を呼んだ。
障子戸が、開いた。
「おう、銀之助さんか。久しぶりだな、おすみさんも、早く入んな」
橋本は、笑顔で二人を迎えた。
銀之助は、提灯の火を消して、おすみの後に続いて中に入った。
「突然で申し訳ありません、ちょっとお知らせたいことがあるんで」
銀之助は、持ってきた大徳利をおいて言った。
「有り難い、まずは一杯、行こうではないか」
おすみが茶碗を三つ盆に載せて持ってきた。
「橋本様、ちょっとお燗してきますから」
「おすみさん、いつもすまん」 橋本は、煙管に煙草を詰めた。
銀之助は、店に来た行商人について話し始めた。
次第に、橋本は、憂鬱な面持ちに変って来た。
「橋本様、どうなさったの」
おすみが、徳利から茶碗に酒を注ぎ終わってから聞いた。
「いや、なんでもない。さあ、飲もう」
(やはり、何かあるようだな。橋本様と行商の男の訛りがそっくりだ)銀之助は、茶椀に口をつけた。
それから、橋本はただ黙って酒を飲むだけであった。
五ツ刻の鐘が、腰高障子を震わせた。
銀之助たちは、橋本に気を使い、家を辞去した。
翌日の昼も、男は店に来た。
「おすみさんとお玉さん、あの男から橋本様について聞かれても、一切知らぬ存ぜずを通して下さい。橋本様に迷惑をかけてはいけません」
夕暮れは、あっという間に通り過ぎ、浅草の町を闇が覆った。
おすみが暖簾を掛けるとしばらくして、いつものように、弥助が、こんばんわと入って来て、いつもの奥の席に腰を下ろした。
お玉が、弥助注文を聞き終わって、勝手場に戻ろうとすると、あの男が、店にまた入って来た。
弥助の隣の席に座ったので、戻って、お玉は、その男の注文を聞いた。
「いらっしゃいませ。何にしますか」
「酒二合と田楽豆腐三本、焼きしょうが、豆腐汁あと、牡蠣飯を」
お玉は勝手場に戻った。
「銀之助さん、また来ましたよ」
お玉は、注文を伝えて言った。
「一体何が、目的なんでしょうか」
男の目は鋭く、薄暗い店の中を見回していた。
お玉は、弥助の前に田楽豆腐と徳利を置いた。
「お姉さん、まだですか」
男が、催促してきた。
「すいません、ちょっと待ってください」
お玉は、勝手場に早足で戻った。
店は、混み始めてきた。
おすみが、入って来る客たちを捌いていた。
男が、弥助に
「いっぱいどうですか」と、酌をした。
「銀之助さん、弥助さんがあの男と話をしているわ」
銀之助は、勝手場から顔を出し、行灯の傍で弥助と男が顔を近づけて話をしていた。
(まずいな)
銀之助は、心配になってきた。
「弥助さんは、どんな仕事をしていらっしゃるのですか。いや、失礼しました。私は、助三郎という者で、しがない薬の行商人です」
「私は、神田旅籠町にある国分屋という葉煙草刻問屋に奉公しています」
弥助は、煙管に煙草を詰め、火をつけうまそうに吸って、
「よかったら、どうぞ」と助五郎の前に刻み煙草の入った箱を置いた。
助三郎も、煙管を出し煙草を詰めた。
「助三郎さんは、どちらから来られたのですか」
「越中から来ました。弥助さんは江戸っ子のようですね。よくこの店には来られるのですか」
「はい、浅草方面に仕事があるときは、必ず寄るんですよ。うまいもん屋さんは、安いだけでなく美味しいし、また毎日献立が変わるので、この店に来るのが楽しみなんです」
実は、弥助には、もう一つお玉に会うのが楽しみであったのだが。
お玉が、牡蠣飯を運んできて、二人の前にそれぞれの丼を置いた。
「美味しい、牡蠣の炊き上げ御飯と大根おろしそして、柚子の組み合わせがなんともいえませんね」
助三郎は、味わいながら食べた。
食べ終わると、弥助に聞いた。
「このお店の主はどなたですか」
「銀之助さんといって、料理が大好きで、また情の深い人です。また、おすみさんという方がいて、この方は、江戸ではもっとも有名な料理屋の八百膳というお店で働いていたのをやめて、ここで料理を作っています。美味しいわけですよ」
弥助は、うまいもん屋の自慢をした。
助三郎は、八百膳を知っていると言った。
「我々奉公の身では、一生いけませんや」
弥助は、酒を飲み干した。
六ツ刻の鐘が、腰高障子戸を震わせた。
「助三郎さん、私はこれで失礼します」と言って、お玉のところに行って金を払い、店を出て行った。
お玉に美味しかったといって、助三郎もあとに続いて帰って行った。
相も変わらず、助三郎は毎日のようにうまいもん屋に来て、弥助がいようといまいと、弥助の定席の隣に座った。
弥助が、早く来たときにお玉が、助三郎に橋本様のことをいってはいけないと伝えた。
数日後、弥助が昼飯を食べに店に入ってきた。
助三郎はすでに来て、一杯やっていた。
弥助は、助三郎に挨拶してから、お玉に花巻蕎麦を注文した。
「弥助さん、蕎麦ができる前に一杯いかがですか」
弥助は頷いて、
「お玉さん、酒一合追加してください」
弥助は、仕事が一段落したので、店に帰るだけであった。
お玉は、気を利かして、蕎麦を遅らせ、酒を持ってきた。
二人は酌み交わした。
「昼から飲む酒はいいですね」
助三郎は、弥助に酌をしながら言った。
四半時ぐらいお玉は、出入りの客で忙しかったが、それも落ち着いたところ、弥助を見ると、弥助が酒に手を付けなくなっていた。
「弥助さん、蕎麦持って来ましょうか」というと、弥助がはいと頷いたので、お玉は、勝手場に戻り銀之助に花巻蕎麦を頼んだ。
おすみは、食器を洗っていた。
「お玉さん出来上がり」
「はい」といって、花巻蕎麦を弥助のところに運んで行った。
「美味しそうですね。花巻蕎麦っていうんですか。お玉さん、私にも花巻蕎麦下さい」
助三郎が頼んだ。
「助三郎さん、花巻というのは、もみ海苔を散らしたかけそばの雅称です。この名の由来は、材料の浅草海苔が磯の花に例えられていたことからきています。浅草海苔の磯の香りとそばの風味、あぶった海苔が汁に渾然一体となって溶け込んだ何ともいえないんです。江戸では、粋な食べ物の一つです」弥助が食べながら説明した。
食べ終わると、弥助は助三郎に挨拶をしてお玉のところに行って、一こと二ことしゃべってから金を払い、帰って行った。
「銀之助さん、大変ですよ。弥助さんが、あの男に、橋本様の家を教えてしまったようです」
「それはまずいな。皆さん、後をお願いします。橋本様に連絡してきます」
銀之助は、二階から丸棒を背に差し、そして勝手口から出て行った。
橋本順之助は、留守だった。
(橋本様、すみませんが勝手に入らせてもらいます)
銀之助は、家中に入って待つことにした。
なかなか、橋本は帰ってこなかった。
六ツ刻の鐘が、遠くに聞こえた。
(遅いな)
暗くなったので、行灯に灯を入れた。
四半刻が、過ぎた。
外で、夜の冷たい空気を切る人の動きを銀之助の耳が捉え、緊張が走った。
(二人か)
行灯の灯を消し、土間に下りて、水瓶の傍に佇んで柄杓を掴んだ。
障子戸が、わずかに音もなく開き、黒装束が半歩土間に踏み込んだ時、銀之助は、柄杓の水を相手めがけて放つや否や、丸棒で相手の腹を突いた。
「ぎゃー」
外へ倒れたかと思ったところ、後ろにいた黒装束が、それを受けながら、銀之助に棒手裏剣を投げた。
腕をかすめた。
(危ない)
相手は、手裏剣をまた手にしていた。
「ああ酔っぱらった」
(橋本様だ)
「橋本様、銀之助です」中から銀之助は大声を出した。周りを見回し、恐る恐る外へ出た。
橋本は、驚いた。
(いつもの銀之助さんの声と違う)
橋本は、鯉口を切った。
提灯を右手で持って、家に近づいた。
「おう、銀之助さんじゃないか。どうした」
橋本と銀之助は、家の中に入った。
銀之助は、先ほど、ここで、黒装束に襲われたことを話した。
「某が、狙われているということか」
障子戸の手前で、人が止まった音が聞こえた。
銀之助と橋本は緊張した。
「橋本様、銀之助さん~、いらっしゃいますか」
おすみの声がした。
「おすみさんか、中へ入れ」
おすみに続いて、助三郎が入ってきた。
銀之助は二人を見て驚いた。
「若、やっと見つけました」
「助三郎ではないか。どうした」
おすみと、助三郎が、銀之助と橋本の前に座った。
助三郎が、橋本の顔を見ながら話し始めた。
「若様、御殿様がお亡くなりました」
「父上が、亡くなったと。いつだ」
「十日前です。体中発疹ができ、あっという間の御最後でした」
橋本は、天井を仰いだ。
(橋本様が、若様?)おすみはまだ何が何だか分からなかった。
助三郎は、話をつづけた。
「ご家老の山形玉衛門様が、側室のお高様の子の一太郎君を跡継ぎに推挙されました。山形様は、抜け荷で私腹を肥やしているとのうわさが絶えません。また、一太郎君は、山形様の血が混じっているという輩もおります。一太郎君が後を継いだら、山形様のやりたい放題になってしまい、そのうちに幕府に目をつけられ、御家御取り潰しになってしまうでしょう。兄上様は、相変わらず寝たきりで、思わしくありません。藩の若い者たちが、若を藩主にと切望しています」
助三郎は、おすみの入れた白湯を飲み干して、さらに続けた。
「それに対し、山形様は、若の正義感の強さに危機感を持って、刺殺人を次々とは放って若を亡き者にしようとしています」
橋本は、藩を離れて五年、家老の山形や側室のお高がどんな人間なのか知る由もなかった。
銀之助が口をはさんだ。
「助三郎さん、もう既にその手が江戸に入っています。先ほど、黒装束の格好をした人間が、この家を襲ってきました」
「そうなんだ。銀之助さんが、俺を待っている間、危ない目に合った」
「若様が、居ないときでしたか」
(あの二人を撃退するなんて、銀之助って、一体何者なんだ)
助三郎は、銀之助の顔を見た。
「助三郎さん、どうしましたか」
銀之助が怪訝そうにいった。
「いや、銀之助さんにまでご迷惑をおかけしてしまって、申し訳ございません」
「助三郎、お前はこれからどうするんだ」
「この近くに宿を取っているので、時々若様のところに来て、これからのことを相談させていただきます」
夜、五ツ刻の鐘が聞こえてきた。
助三郎はその鐘を聞いて、橋本たちに別れを告げ帰って行った。
おすみもしばらくして、自分の家に戻って行った。
銀之助は、橋本のところに泊まることにした。
行灯の光が、明るくなってきた。
「銀之助さん、一杯やるか」
橋本が、土間を下りて、徳利と碗そして香の物を持ってきた。
銀之助が、徳利を持って、碗に酒を注いだ。
「橋本様、これからどうされますか」
椀の酒を飲み干して、
「う~む。俺が狙われているなんて・・・」
腕組みをした。
「橋本様は、助三郎さんのことよくご存じで」
「昔から、橋本の屋敷に助三郎の親父さんが、奉公しておったな。その息子が、助三郎で子供の時は、利発だった。そして、大人になるにつれてだんだん出世志向が強くなってきたようだ。下僕の親父さんを見ているから、自分はそうなりたくないと思っていたんじゃないか。出世のためなら、何をするかわからんと俺の友人がいっていたのを思い出したよ」
橋本は、また碗に酒を注いだ。
「藩に戻られますか」
「俺には、政事は向いていない。しかし、悪事を企んでいる人間は許せん」
銀之助も、自分の碗に酒を注いで、
「橋本様。いい難いのですが、助三郎さんには気を付けた方が良いかもしれません」
「なんでまた」
「ただ私の勘なんですが」
「分かった、注意しよう」
夜も更け二人は、横になって寝入った時、
「火事だ、火事だ。みんな起きろ」
外で叫び声がした。
大声に銀之助と橋本は目を覚ました。
「橋本様」
銀之助は、丸棒を取った。
「銀之助さん、気をつけろ」
橋本も、腰に小刀を差し手に大刀を持って立ち上がった。。
「橋本様、お気をつけて」
「行くぞ」
橋本が腰高障子を蹴った。
続いて銀之助も、外へ出た。
長屋の連中が、すでに井戸水をくみ上げて桶に入れそして、火に向かって撒いていたが、北風に巻き上げられるよう火の手は広がっていた。
厠から、お玉の家にあっという間に延焼した。
お玉は、呆然と火の手を見ていた。
「お玉さん、早く逃げないと。」
銀之助は、お玉と安吉の手をひいて火から離れた。
半鐘が、火を煽るように鳴り続けていた。
「橋本様、銀之助さん。あたしの家もう危ないわ」
おすみが泣きそうに言って来た。
「おすみさん、早く家財道具を出さないと」
銀之助が言い、橋本とおすみたちと一緒に家に入り、おすみの荷を持って、表店の前の道に出た。
既に長屋の連中は、着の身着のままでここに逃げ出していた。
「おすみさん、ここで待っていてください。橋本様の荷も出さないと」と言って、銀之助と橋本が長屋に向かおうとした時、
「橋本様、火付ですよ。黒装束の人影を見たんです」
簪職人の銀太が来て言った。
「銀太、分かった。お前は、家の荷物を持って、早く逃げるんだ。銀之助さん、行くぞ」
「はい」
橋本の家に入って、銀之助は、多少の家財道具を、橋本順之助は鎧兜を持って家から出た。
その時、‘シュッ―’という音を銀之助が効いた瞬間、棒手裏剣が柱に刺さった。
「忍びか」
「橋本様、気を付けてください!」
銀之助は、腰をかがめ、背から丸棒を抜いた。
橋本も、抜刀して背をかがめながら外に出た。
シュッ、シュッー
次々と手裏剣が放たれ、橋本と銀之助の近くをかすめた。
「あそこだ」と、橋本は屋根の上を指さした。
向かいの家の屋根に、黒装束たちが走っていた。
「えっい」
橋本は、小刀を抜き黒装束目がけなげ放った。
「ぎゃー」小刀が足に刺さった黒装束が屋根から転げ落ちた。
次々と黒装束が回転して飛び降りてきて、橋本と銀之助に上段から太刀を振り下げた。
‘カチーン’
橋本は、敵の太刀を払った。
「貴様ら、何者だ」
「この!」
銀之助は、丸棒で太刀を受けるや否や、片足で敵の腹をけった。
「ぐあ」
敵が、よろめいた。
橋本は、中段に構えながら、銀之助にすり寄って行った。
「銀之助さん、油断するな」
「はい」
その時、よろめいた黒装束が、銀之助の胴を払おうとした。
‘カチン’
橋本の刀が、敵の刀を折った。
「どいた、どいた」
町火消たちが、威勢をつけてやって来た。
すでに、黒装束は消えていた。
「逃げたか。銀之助さん、大丈夫か」
「橋本様は」
「大丈夫だ。手ごわい相手だな」
岡引きの常吉と同心の松木仁右衛門がやってきた。
松木が、火消に指示を出した。
「さあ、ぶっこわすせ」
「おう」
纏を持った男が、梯子を上って屋根の上に立った。
次々と、火消たちは屋根に上がって、長屋を壊し始めた。
「銀之助さん、なんでここに」
常吉は、銀之助に気付いて、不思議そうにいった。
銀之助は、誰かが火付をしたようだといった。
「誰が、こんなおんぼろ長屋に火付をするんだ」
松木がいった。
「おいらは見たんだ、黒装束が厠に火をつけているところを」
いつの間にか、そばに来ていた銀太が、興奮して言った。
「分かった。常吉、火が消えたら調べるぞ」
一刻ほどで、長屋は、跡形もなくなった。
半鐘の音も、おさまった。
「おまえさん」
おつたが、泣きながら源一の袖を握った。
「泣くんじゃねえ。みっともねえ」
大工道具を大事そうに足元に置いている源一が言った。
棒手振の勇治、女房おみね、お玉、そして、おすみたちが、集まっていた。
女たちは、多少の着物と茶碗類を持って茫然としていた。
「よかったら、店に来てください」
銀之助が、皆に声を掛けた。
夜、四ツ。
徳衛門長屋の連中九人は、うまいもん屋に入った。
銀之助は、すぐに店の真ん中にある行灯に火を入れた。
「銀之助さん、お世話になります」
と、おすみは言って、他の行灯に火を入れるのを手伝った。
「わりいな、銀之助さん」
源一も、頭を下げた。
「冬空の下で寝ないですんだよ。有り難いことだ」
おみねが、涙を浮かべて言った。
「困ったときは、お互い様です。遠慮しないで、いつまでもここにいてください」
「本当に助かります」
お玉が、安吉の頭を手で下げさせた。
「おすみさんたち女の方は、二階で寝て下さい。我々男は、店で寝ますから」
おすみたち女は、二階に上がって行った。
銀之助は、男たちに酒をふるまった。
寒風が、高障子戸を揺すっていた。
明け六ツ。
徳衛門長屋の連中は、銀之助に挨拶して、長屋に戻って行った。
銀之助は勝手場に入って、豆腐屋が来るのを待った。
豆腐屋の声を聞いて、銀之助は勝手口を出て、呼び止めた。
「豆腐屋さん、豆腐と油揚げをそれぞれ四十おくれ」
「へい、いつもありがとうござんす。」
(今日からは、長屋の連中の飯も作らないと。)
銀之助は、頭に手拭いを巻き、前掛けをかけて、米をとぎ始めた。
一刻半後(三時間)、おすみたち女は、焼け跡から、使える物を持って帰ってきた。
二階にそれを置いて、勝手場に昼飯の献立、田楽豆腐、豆腐汁、豆腐飯を銀之助と一緒に作り始めた。
「おつたさん、旦那たちは」
「仕事に行きましたよ」
「そうですか、では皆で、美味しい飯を作りましょう」
銀之助がだれかれと関係なしにいった。
「橋本様は、どこに行きましたか」
「そういえば、途中で別れたきりです」
おすみが答えてから、店の暖簾を掛けに行った。
御救小屋の炊き出しに満足しない人々たちが、うまいもん屋に殺到した。
銀之助たちはてんてこ舞い、それでも、おつたとおみねが手伝ってくれているので、助かった。
いつもより早く、飯類が無くなった。
「店を閉めましょうか、おすみさん」
「はい」
おすみは、外へ出て、暖簾を丁寧に折りたたんだ。
「あたしたちは、上でゆっくりさせていただきます」
お玉が、銀之助にいって、女たちは、二階に上がって行った。
一人店に出て、銀之助は、煙管に火をつけた。
美味しそうに吸ってから、煙を口から疲れも一緒に出した。
いつの間に、銀之助は眠りに落ちていた。
二階から、足音ともに、皆が降りてきた。
おすみが声をかけた。
「銀之助さん、献立はなんにしますか」
銀之助は、目を覚ました。
「もう時間ですか。いなりと納豆汁にしましょうか。水戸から、先日納豆を送ってもらいましたんで」
銀之助が、竈に火をつけ、油揚げを醤油とみりんそして、酒を入れた鍋に油揚げを次々と入れた。
おすみは、味噌を溶かし、納豆汁の支度を、お玉は、いつものように、田楽豆腐を作り始めた。
橋本が戻ってきて、銀之助を誘って、二階に上がって行った。
「橋本様のあんな真剣な顔、初めて見たわ」
おすみが、驚きを隠せずに言った。
「あの件かしら」
お玉が、引き取った。
「お侍さんも大変ね」
おつたが、いった。
しばらくして、橋本が出て行った。
続いて四半刻後、銀之助も
「おすみさん、ちょっと出かけてきますから、後よろしく頼みます」
といって、勝手口から出て行った。
店を開けると、すぐに弥助が入ってきた。
それをお玉が迎え、いつもの席に案内した。
勇治が帰ってきて、弥助のそばに腰を下ろした。
「勇治さん、今度の火事は大変でしたね」
「本当にまいりました。でも銀之助さんのおかげで助かりました」
おみねが、勇治の前にいなりと納豆汁を置いた。
「ありがとよ」
「あんた、早く食べて。二階に上がってよ」
「はい、はい」
弥助は、笑いながら盃を飲み干した。
銀太と源一と帰ってきた。
おすみとおつたが、二人にいなりを持ってきた。
捨て鐘の後に、六ツ刻の鐘が、木枯らしに流れて聞こえてきた。
「いらっしゃい」
お玉が、助三郎を迎え、勇治の座っていた席に案内した。
「助三郎さん、どうしたんですかい。元気有りませんね」
弥助が、心配そうにいった。
「はい、寒くて、持病が出ましたもんで」
助三郎は、熱っぽい顔をしていた。
「お玉さん、今日の献立はなんですか」
「いなりと納豆汁です。助三郎さん、大丈夫ですか」
「では,それとお酒下さい。若様はいますか」
「まだ、帰って来ていないようですよ」
「なにか」
「いや、若が心配なものですから」
半刻(一時間)ほどで、助三郎は帰って行った。
入れ替わりに、銀之助が戻って来た。
「おすみさん、皆さん、遅くなりました」
「橋本様は?」
おすみが聞いた。
「途中で別れたんですが、まだ帰っていませんか」
「さっき、助三郎さんが、来て心配していました。」
お玉がいった。
「もう帰ったんですか」
「はい」
「いらっしやいませ」
おつたの声がした。
猿天狗の面をつけて、黒羽織に袴姿、そして腰に両刀を差し、
「わいわい天王、騒ぐのがお好き・・・」と言いながら男が店に入ってきた。
続いて、
「せきぞろ せきぞろ めでたい、めでたい・・・」
三人組が、暖簾を分けて入ってきた。
注文を聞いてきたおつたが、戻って来ていった。
「銀之助さん、今日は、大道芸人のお客が多いですね」
「珍しいですね」
おすみが、いなりを作る手を止め、銀之助にいった。
銀之助は店の中を覗いた。
(彼らは、ただの芸人ではなさそうだ)
「おすみさん、お客さんに挨拶してきます」
銀之助は、注文の酒と田楽豆腐を持って勝手場を出た。
わいわい天王の所に行って、
「いらっしゃいませ。主の銀之助と申します」
これはあいさつ代わりと言って、樽の上に酒と田楽を置いた。
「銀之助さんというんですかい。よろしく」
「今後とも、御贔屓下さい。ごゆっくりどうぞ」
銀之助は、ゆっくり頭を下げながら面を取った相手の顔を脳裏に焼き付けた。
続いて、銀之助は、節季たちの所にも顔を出した。
「いらっしゃいませ。主の銀之助と申します。料理はいかがですか」
(太鼓のバチが、やけに太い)
「田楽豆腐、美味いぞ」
「それはそれは、お気に召していただきありがとうございます」
頭を下げ、節季たちの足元を見た。
行灯の暗さでも、足元の鉄網でできた脚絆は光っていた。
(彼らも、橋本様を狙っているのだろうか。そうであれば、手ごわそうな相手だ)
勝手場に戻ると、橋本が飯を食べていた。
「橋本様、店に四人の怪しい客がいます」
「どんな奴だ?」
「大道芸人の格好をしています」
「そうか」
「赤沢さんが来たら、二階に通ししてください」
おさとの件以後、銀之助を慕って時々うまいもん屋に来るようになった赤沢惣右衛門に銀之助が助成を頼んだのだ。
銀之助は、おすみに店を任せて、橋本を二階に連れて行った。
しばらくして、赤沢が勝手口から入って来た。
「銀之助さんはいるか」
「あら、めずらしい。二階でお待ちですよ」
閉店後まもなく、銀之助と赤沢が一階に降りてきた。
「銀之助さん、では、また明日」
「赤沢さん、ちょっと待って」
おすみは、折りたたまれた小田原提灯火を入れ赤沢に渡した。
朝早く、おすみたちに見送られ、橋本は、うまいもん屋を出た。
銀之助も続いた。
「お二人ともお気を付けて」
お玉は、心配そうに二人を見送った。
一ツ刻(二時間)ほどで、、二人は日本橋に入った。
まだ、陽も上がらないのに旅に出かける人々で、ごった返していた。
うっすら東の空が赤みを帯びてきたころ、二人は中山道に入っていた。
銀之助と橋本は、前を歩いていた旅人を次々と抜いて行った。
どこからともなく、昼八ツ半刻(三時)の鐘が聞こえてきた。
「寒いな。銀之助さん、ちょっと早いが、天気が悪くなってきたのでここで宿を取ろうか」
橋本が、空を見ながら言った。
は、賑わっていた。
「お侍さん、お兄さん。安くしておくから泊まって行っておくれ」
飯盛旅籠の女たちが、銀之助たちの袖をしつこく引くのを振り切って、やっと平旅籠に入ったのは、九つ近かった。
「お侍さんたち、相部屋になるでいいかね」
銀之助は、橋本の頷くのを見て答えた。
「いいですよ」
二人は、部屋に案内された。
「お客さん、お二人と一緒になりますのでよろしくお願いします」
女中が、先客に声をかけた。
「よろしく願います」
銀之助は、一人煙草を吹かしている老人に挨拶をした。
橋本も軽く頭を下げた。
「奈良橋作衛門と申します。こちらこそよろしく願います」
銀之助と橋本も名のった。
「では、儂は風呂に入らせてもらうで」といって、老人は部屋を出て行った。
銀之助がそっと障子戸を開け外をうかがった。
「橋本様、つけられていないようですね」
「まだ分からんぞ、気をつけねば」
そして、二人は、風呂に入り、夕餉を取って、床に就いた。
天候に恵まれ、熊谷、倉賀野そして坂本と宿取って、江戸を発って、五日目に追分に着き、銀之助と橋本は、旅籠に入った。
一刻後、赤沢が銀之助たちの部屋に入ってきた。
「赤沢さん、どうですか」
「敵か味方かわからんが、どうも二組が、そちたちの後をつけているようだ」
「そうか、明日から北国街道に入るから、特に気をつけねば」
「新発田までは、どのくらいかかるんでしょうか」
「この天気では、あと五日ぐらいはかかりそうだな」
「では、儂は前の旅籠に泊まることにするので、これで失礼する」
「赤沢さん、明日もよろしくお願いします」
「赤沢殿、よろしく頼む」
雪の北国街道を、蓑をまとった銀之助と橋本は歩き続けていた。
一刻ほど経って、
「銀之助さん、茶屋があったら休もうか」
「こんな雪深いところに茶屋なんてありますかね」
「いや、民家でもいいから休ませてもらおう。寒くてたまらん」
と橋本がいった時、
「銀之助さん、後ろに敵だ!」
後ろから大声が響いた。
二人は、後ろに振り向き、腰を低めた。
黒装束三人が、雪道を銀之助たちを襲って来た。
銀之助の横の雪に、手裏剣が刺さった。
「橋本様、逃げて下さい。後は、私たちに任せて下さい」
「気をつけろ」
銀之助の五間前に、黒装束の一人が小刀を上段に構えて走ってきた。
一間ほど前で、倒れた。
赤沢が、長刀を抜いて後二人の後を追いかけてきた。
銀之助は、刺さっていた手裏剣を取り、顔をめがけて投げた。
「ぎゃあ」
赤沢の投げた黒い球が、バーンと爆発し煙が舞った。
吹雪が、煙をさらった。
「銀之助さん、大丈夫か」
「赤沢さん、助かりました」
「橋本殿を追っかけよう」
二人は、すぐに橋本に追いついた。
「申し訳ない、危ない目に合わせてしまって」
「橋本様、まだまだこれからです」
「そうだ、銀之助さんがいう通りこれからも気を付けないと」
赤沢が、袖で鼻を拭いた。
「もうしばらくすると、だ。今日は、そこで泊まろう」
橋本の言葉が、吹雪に流された。
三人は、海野宿の旅籠‘啄木鳥’に泊まった。
「橋本様、海野宿は結構栄えていますね」
銀之助が、火鉢に手をかざしながら言った。
「確か、この宿は、六町(約六五〇メートル)にわたり街並みが続いており、本陣一軒と脇本陣二軒が設けられている。佐渡の金の江戸までの輸送、善光寺までの参拝客や、北陸諸大名の参勤交代などで利用されているんだ」
「お客さん、良くご存じで」
女中が、飯をよそりながらいった。
「お女中、明日はどこに泊まったらよいであろう」
橋本が言った。
「そうだな、善光寺までがんばったらどうだね、天気はよさそうだし」
その朝、街道を覆う雪は、陽の光を受け眩しいほど光り輝いていた。
旅籠で善光寺詣用の衣装に変え、三人は旅立った。
昼近くに、善光寺宿に着いた。
「大きいお寺ですね」
銀之助は、門を見上げた。
「銀之助さん、この寺の門は古えより、‘四門四額’と称して、東門を‘定額山善光寺’、南門を‘南命山無量寿寺’、北門を‘北空山雲上寺’、西門を‘不捨山浄土寺’と称するんだ」
銀之助たちは、東門をくぐった。
「旅の方々、よう来なすった」
僧が、雪の上に立って、銀之助たちを迎えた。
僧は、銀之助たちがどこから来たのかも聞かず、説明し始めた。
「本堂の中の‘瑠璃壇’と呼ばれる部屋に、初めての朝鮮渡来の秘仏の本尊・一光三尊阿弥陀如来像が厨子に入れられて安置と伝えられています。その本尊は善光寺式阿弥陀三尊の元となった阿弥陀三尊像で、その姿は寺の住職ですら目にすることはできないのです。 瑠璃壇の前には金色の幕がかかっていて、朝事とよばれる朝の勤行や、正午に行なわれる法要などの限られた時間のみ幕が上がり、金色に彩られた瑠璃壇の中を部分的に拝むことができます。よろしければお詣りして行ってください」
「申し訳ない、先を急いでいるので、ここでお詣りして失礼する」
橋本は、本堂に向かって、頭を下げた。
「旅の御無事を祈っております」
僧が合掌した。
何事もなく、新町宿・牟礼宿・古間宿・柏原宿・野尻宿・関川宿・上原宿・田切宿・二俣宿・関山宿・松崎宿・二本木宿・荒井宿を経て、三人は高田宿に入った。
三人は、はずれの旅籠に入った。
「いらっしゃい」
女中たちが迎え、たらいに湯を入れ三人の足元に置いた。
足を洗った後、三人は、部屋に案内され、すぐに交代で風呂に入った。
最後の銀之助が戻って来たときには、夕食の準備が整えられていた。
「お待たせしました」
銀之助は、甘海老、越前蟹等、海の幸が盛られた箱膳の前に座った。
「美味しそうですね」
「悪いが、酒はもうしばらく控えてくれ。では、食べよう」
「橋本様、めずらしいことを」
銀之助が、笑いをこらえて言った。
「銀之助さん、いつ敵が来るかわからんからな」
橋本、赤沢は刀をいつでも持てるよう左脇に置いていた。
銀之助もいつもの丸棒をそばに置いている。
しばらくして、橋本が箸をおいていった。
「明日は、奥州街道を東へ行き、長岡藩を目指す」
「長岡藩ですか」
銀之助が、聞き返した。
「そうだ、長岡藩の知り合いを訪ねて、新発田の情報を得ようと思う」
「なるほど」
赤沢は頷いた。
「明日も早いぞ」
橋本はいった。
そして、三人は床に入り寝入ってから半刻ほど。
「宿改めである」
階下で声がした。
「銀之助さん、赤沢さん。起きろ」
橋本が、二人をゆすぶった。
二人も一階での声に目を覚ました。
すぐに銀之助は、階段のところまで行って、様子をうかがってきた。
「上がってきます」
「橋本殿、銀之助さん。某に任せろ。早く、屋根を伝わって逃げろ」
赤沢はいった。
「赤沢さん」
「某はどこで果てようとも、悲しんでくれる奴はいない。早く行くんだ」
廊下で声がした。
「お客様、宿改めでございます」
旅籠の番頭が、障子を開けた。
十手を振りかざした同心と岡引き一人が、入って来た。
「一人か?連れはどうした」
「拙者、一人だ。連れなどいない」
「本当に一人ですかい」
「番頭、本当か?」
「・・・・」
赤沢は、同心の目を睨んでいった。
「何があったんだ」
「おぬしには関係ない」
「こんな夜中に起こされて、何がかんけえねえだ」
「おぬしの名は」
「人の名を聞く前に、自分の名を名乗るもんだ」
赤沢は、時を稼いだ。
「生意気な」
赤沢が、刀を寄せた。
同心も身構えた。
同心は殺気を感じた。
岡引きは、ひるんだ。
「浪人さん、どこに行くんだ」
赤沢が立ちあがった。
「越後だ」
「偽りを申したら承知せんぞ」
同心は、身構えを解くことなく部屋を出て行った。
「あいつはただの同心ではないな。君子危うきに近寄らずだ」
行灯の火を消し、障子を開けた。
「逃げるか」
雪の積もった屋根に飛び降り、銀之助たちの足跡を追った。
雪はやみ、風もおさまっていた。
雪明りをたよった。
赤沢は、四半刻ほどで銀之助たちを見つけることができた。
「おい」
銀之助が、構え振り向いた。
「俺だ」
「赤沢さん」
「何とか・・」
ピー~ ピー
呼び笛が鳴った。
「裏に回ろう」
二人は頷いた。
そして、足を取られながら雪の積もった屋根を上った。
裏には、あの同心と岡引きがいた。
「あいつには気を付けた方がいい」
赤沢が、手短に話した。
そして、屋根から飛び降り、同心たちを取り囲んだ。
「貴様・・」同心は、赤沢の当て身にがっくりと膝をついた。
「がっ」銀之助は、岡引きの腹に丸棒を打ち込んだ。
「橋本様、これを着て」銀之助は同心の蓑と笠を取って渡した。
「赤沢さん、あれを」
「俺は笠だけでいい。銀之助さんは蓑を付けろ」
三人は、道を急いだ。
「大丈夫か」赤沢が、遅れはじめた銀之助にいった。
「銀之助さん、俺のカンジキを貸そうか」橋本が、振り返った。
「大丈夫です」
「俺は、雪には慣れている」橋本は、雪の上に座り込んでカンジキをはずし、銀之助に渡した。
銀之助は礼をいって、カンジキを履いた。
「どうだ、楽だろう」といって、橋本は、ゆっくりと歩き始めた。
流れてきた雲に星が隠れ始めた。
三人は、疲れが出てきた。
赤沢が、座り込んでしまった。
「赤沢さん、大丈夫ですか」銀之助が心配そうにいった。
「俺は、今までこんな雪の中を歩いたことがないんだ。疲れたぞ」
「あそこに家があるぞ」橋本が言った。
薄明かりが漏れている農家が、見えた。
「あの家で休ませてもらいましょう」銀之助が、いった。
戸を叩いた。
「ごめんください、旅の者ですが」
「だれだ」
「道に迷ったのです」
「ちょっとお待ってや」
戸が少し開いた。
三人の姿を見て、老爺は一瞬たじろいだが、三人の低頭に安心したのか、「何か用かね」と聞いた。
「朝早くからすみません。道に迷ってしまいました」
「どこへ行くんだ?」
「長岡へ行きたいのですが」
「長岡か」
「おやじさん、これでちょっと休ませてもらえませんか」銀之助が、路銀を手渡した。
「あそこの納屋を使え」
といって、戸を閉めてしまった。
「男三人、野盗と間違えられても仕方ないな」
橋本が、納屋に向かった。
三人は、納屋に積んであった藁の中に身を沈めて眠り込んだ。
「旅の人」
納戸の戸が開いた。
「・・・」銀之助は、丸棒を掴んだ。
「おう、じいさんか」
赤沢も、太刀を掴んでいた。
「寒い」橋本が、いった。
「助かりました」銀之助は立ち上がり、男に頭を下げた。
「大したものはないが、朝飯でも食べていかないか」
と老婆は母屋に三人を案内した。
自在鉤につるされた鍋からよいにおいが、囲炉裏端に座った三人に空腹をしらしめた。
老女が、椀に鍋の雑炊をよそって、銀之助たちに渡した。
「うまい」
赤沢が、すぐに空になった椀を老婆に渡した。
三人は、すっかり満足した。
橋本が、煙管に煙草をつめ、火をつけた。
鼻から煙を吐きながら、長岡までの道のりを聞いた。
「さてと行くか」
橋本が、立ち上がった。
「ここにある蓑、笠、カンジキ、使っていいぞ」
と、老爺が言った。
雪が、激しく降り始めていた。
つづく
浅草寺の五重塔に木枯らしが、巻き付くように吹き始め、町民たちは冬支度に急がされていた。
勇治が早朝銀之助に魚を売りに来た時、またしても料理競技会番付表を持ってきた。
「銀之助さん、うまいもん屋が下から二段目に上がってますよ。大したもんだ」
「そうですか。きっとおすみさんは喜ぶでしょう」
勇治からもらった番付表を銀之助はさっそくおすみに見せた。
「お品書きも増えたことだし、この際勝手場にもう一人誰か雇いませんか」
おすみは嬉しそうに言った。
「そうですね、店も軌道に乗ってきたのでそうしましょう。おすみさん、心当たりありませんか」
「分かりました。ちょっとあたってみます」
午後の開店から四半刻後、店に身のこなしが商人っぽくない行商姿の男が入ってきた。
店の中を鋭い目つきで見まわし、お玉が席を案内する前に、勝手に国分屋の番頭弥助の席の近くに腰を下ろした。
男は、酒二合、田楽豆腐二本、、牡蠣飯そして、納豆汁をお玉に注文した。
お玉が勝手場に戻ろうとしたとき、ちょっと待ってと言って、いろいろお玉に聞いてきた。
やむを得ず、しばらくの間、話し相手をした。
蕎麦の弥助が興味深そうに二人の会話を聞いていた。
勝手場に戻ったお玉は、銀之助に注文を伝えて、不安そうに言った。
「銀之助さん、弥助さんの隣に腰かけている行商姿のお客さんが、どうも、橋本様のことをいろいろ聞いてきました。一体なんなんでしょうか。理由を聞いてもいわないんです。気味悪いわ」
銀之助は、勝手場を出て、男を見た。
男は、弥助と笑いながら話をしていた。
(ただの町人ではないな。橋本様に伝えておこう)
男が、飯を食べ終わって、お玉に金を払い外に出ようとした時であった。
店に入って来た足軽の中刀に、男の太ももがすれ違いざま、触れた。
「おい、ちょっと待て」
足軽は、男に怒鳴って、行商人の背負っている行李の縁を掴んで引き戻した。
「何をなさるんで」
「てめえ、俺様の刀に触れて何ていい草だ。土下座して謝れ」
男は、外に出て、土下座をした。
「どうかご勘弁を」
「この野郎、それで済むと思っているのか」
足軽が、男の上げた顔を足蹴りしようとした。
(危ない!)
入口から顔を出し、二人の成り行きを見ていた銀之助がつぶやいた瞬間、足軽は、道に引っくり返っていた。
集まった野次馬たちがざわめいた。
「やりあがったな」
足軽は、立ち上がると抜刀した。
銀之助が、割って入った。
「ちょっと待って下さい、店の前で人情だ沙汰は勘弁してください。八丁堀を呼びにやりますぜ。お侍さん」
銀之助は、足軽にいってから野次馬たちに手を振った。
「今日のところは、勘弁してやらあ」
足軽は、そそくさと店前から離れて行った。
「ありがとうございました」
男は、銀之助に頭を下げて、帰って行った。
銀之助は客がいなくなるのを見計らって店を閉め、おすみとお玉と長屋に行った。
銀之助は行商人姿の男の話を一刻も早く橋本順之助に伝えたかった。
夕暮れ時の長屋から笑い声やどなり声が騒がしく聞こえてきた。
安吉をおつたの家へ迎えに行くと言ったのでお玉とは別れた。
橋本の家の腰高障子戸に、行燈の灯りが揺らめいていた。
銀之助が、障子越しから橋本を呼んだ。
障子戸が、開いた。
「おう、銀之助さんか。久しぶりだな、おすみさんも、早く入んな」
橋本は、笑顔で二人を迎えた。
銀之助は、提灯の火を消して、おすみの後に続いて中に入った。
「突然で申し訳ありません、ちょっとお知らせたいことがあるんで」
銀之助は、持ってきた大徳利をおいて言った。
「有り難い、まずは一杯、行こうではないか」
おすみが茶碗を三つ盆に載せて持ってきた。
「橋本様、ちょっとお燗してきますから」
「おすみさん、いつもすまん」 橋本は、煙管に煙草を詰めた。
銀之助は、店に来た行商人について話し始めた。
次第に、橋本は、憂鬱な面持ちに変って来た。
「橋本様、どうなさったの」
おすみが、徳利から茶碗に酒を注ぎ終わってから聞いた。
「いや、なんでもない。さあ、飲もう」
(やはり、何かあるようだな。橋本様と行商の男の訛りがそっくりだ)銀之助は、茶椀に口をつけた。
それから、橋本はただ黙って酒を飲むだけであった。
五ツ刻の鐘が、腰高障子を震わせた。
銀之助たちは、橋本に気を使い、家を辞去した。
翌日の昼も、男は店に来た。
「おすみさんとお玉さん、あの男から橋本様について聞かれても、一切知らぬ存ぜずを通して下さい。橋本様に迷惑をかけてはいけません」
夕暮れは、あっという間に通り過ぎ、浅草の町を闇が覆った。
おすみが暖簾を掛けるとしばらくして、いつものように、弥助が、こんばんわと入って来て、いつもの奥の席に腰を下ろした。
お玉が、弥助注文を聞き終わって、勝手場に戻ろうとすると、あの男が、店にまた入って来た。
弥助の隣の席に座ったので、戻って、お玉は、その男の注文を聞いた。
「いらっしゃいませ。何にしますか」
「酒二合と田楽豆腐三本、焼きしょうが、豆腐汁あと、牡蠣飯を」
お玉は勝手場に戻った。
「銀之助さん、また来ましたよ」
お玉は、注文を伝えて言った。
「一体何が、目的なんでしょうか」
男の目は鋭く、薄暗い店の中を見回していた。
お玉は、弥助の前に田楽豆腐と徳利を置いた。
「お姉さん、まだですか」
男が、催促してきた。
「すいません、ちょっと待ってください」
お玉は、勝手場に早足で戻った。
店は、混み始めてきた。
おすみが、入って来る客たちを捌いていた。
男が、弥助に
「いっぱいどうですか」と、酌をした。
「銀之助さん、弥助さんがあの男と話をしているわ」
銀之助は、勝手場から顔を出し、行灯の傍で弥助と男が顔を近づけて話をしていた。
(まずいな)
銀之助は、心配になってきた。
「弥助さんは、どんな仕事をしていらっしゃるのですか。いや、失礼しました。私は、助三郎という者で、しがない薬の行商人です」
「私は、神田旅籠町にある国分屋という葉煙草刻問屋に奉公しています」
弥助は、煙管に煙草を詰め、火をつけうまそうに吸って、
「よかったら、どうぞ」と助五郎の前に刻み煙草の入った箱を置いた。
助三郎も、煙管を出し煙草を詰めた。
「助三郎さんは、どちらから来られたのですか」
「越中から来ました。弥助さんは江戸っ子のようですね。よくこの店には来られるのですか」
「はい、浅草方面に仕事があるときは、必ず寄るんですよ。うまいもん屋さんは、安いだけでなく美味しいし、また毎日献立が変わるので、この店に来るのが楽しみなんです」
実は、弥助には、もう一つお玉に会うのが楽しみであったのだが。
お玉が、牡蠣飯を運んできて、二人の前にそれぞれの丼を置いた。
「美味しい、牡蠣の炊き上げ御飯と大根おろしそして、柚子の組み合わせがなんともいえませんね」
助三郎は、味わいながら食べた。
食べ終わると、弥助に聞いた。
「このお店の主はどなたですか」
「銀之助さんといって、料理が大好きで、また情の深い人です。また、おすみさんという方がいて、この方は、江戸ではもっとも有名な料理屋の八百膳というお店で働いていたのをやめて、ここで料理を作っています。美味しいわけですよ」
弥助は、うまいもん屋の自慢をした。
助三郎は、八百膳を知っていると言った。
「我々奉公の身では、一生いけませんや」
弥助は、酒を飲み干した。
六ツ刻の鐘が、腰高障子戸を震わせた。
「助三郎さん、私はこれで失礼します」と言って、お玉のところに行って金を払い、店を出て行った。
お玉に美味しかったといって、助三郎もあとに続いて帰って行った。
相も変わらず、助三郎は毎日のようにうまいもん屋に来て、弥助がいようといまいと、弥助の定席の隣に座った。
弥助が、早く来たときにお玉が、助三郎に橋本様のことをいってはいけないと伝えた。
数日後、弥助が昼飯を食べに店に入ってきた。
助三郎はすでに来て、一杯やっていた。
弥助は、助三郎に挨拶してから、お玉に花巻蕎麦を注文した。
「弥助さん、蕎麦ができる前に一杯いかがですか」
弥助は頷いて、
「お玉さん、酒一合追加してください」
弥助は、仕事が一段落したので、店に帰るだけであった。
お玉は、気を利かして、蕎麦を遅らせ、酒を持ってきた。
二人は酌み交わした。
「昼から飲む酒はいいですね」
助三郎は、弥助に酌をしながら言った。
四半時ぐらいお玉は、出入りの客で忙しかったが、それも落ち着いたところ、弥助を見ると、弥助が酒に手を付けなくなっていた。
「弥助さん、蕎麦持って来ましょうか」というと、弥助がはいと頷いたので、お玉は、勝手場に戻り銀之助に花巻蕎麦を頼んだ。
おすみは、食器を洗っていた。
「お玉さん出来上がり」
「はい」といって、花巻蕎麦を弥助のところに運んで行った。
「美味しそうですね。花巻蕎麦っていうんですか。お玉さん、私にも花巻蕎麦下さい」
助三郎が頼んだ。
「助三郎さん、花巻というのは、もみ海苔を散らしたかけそばの雅称です。この名の由来は、材料の浅草海苔が磯の花に例えられていたことからきています。浅草海苔の磯の香りとそばの風味、あぶった海苔が汁に渾然一体となって溶け込んだ何ともいえないんです。江戸では、粋な食べ物の一つです」弥助が食べながら説明した。
食べ終わると、弥助は助三郎に挨拶をしてお玉のところに行って、一こと二ことしゃべってから金を払い、帰って行った。
「銀之助さん、大変ですよ。弥助さんが、あの男に、橋本様の家を教えてしまったようです」
「それはまずいな。皆さん、後をお願いします。橋本様に連絡してきます」
銀之助は、二階から丸棒を背に差し、そして勝手口から出て行った。
橋本順之助は、留守だった。
(橋本様、すみませんが勝手に入らせてもらいます)
銀之助は、家中に入って待つことにした。
なかなか、橋本は帰ってこなかった。
六ツ刻の鐘が、遠くに聞こえた。
(遅いな)
暗くなったので、行灯に灯を入れた。
四半刻が、過ぎた。
外で、夜の冷たい空気を切る人の動きを銀之助の耳が捉え、緊張が走った。
(二人か)
行灯の灯を消し、土間に下りて、水瓶の傍に佇んで柄杓を掴んだ。
障子戸が、わずかに音もなく開き、黒装束が半歩土間に踏み込んだ時、銀之助は、柄杓の水を相手めがけて放つや否や、丸棒で相手の腹を突いた。
「ぎゃー」
外へ倒れたかと思ったところ、後ろにいた黒装束が、それを受けながら、銀之助に棒手裏剣を投げた。
腕をかすめた。
(危ない)
相手は、手裏剣をまた手にしていた。
「ああ酔っぱらった」
(橋本様だ)
「橋本様、銀之助です」中から銀之助は大声を出した。周りを見回し、恐る恐る外へ出た。
橋本は、驚いた。
(いつもの銀之助さんの声と違う)
橋本は、鯉口を切った。
提灯を右手で持って、家に近づいた。
「おう、銀之助さんじゃないか。どうした」
橋本と銀之助は、家の中に入った。
銀之助は、先ほど、ここで、黒装束に襲われたことを話した。
「某が、狙われているということか」
障子戸の手前で、人が止まった音が聞こえた。
銀之助と橋本は緊張した。
「橋本様、銀之助さん~、いらっしゃいますか」
おすみの声がした。
「おすみさんか、中へ入れ」
おすみに続いて、助三郎が入ってきた。
銀之助は二人を見て驚いた。
「若、やっと見つけました」
「助三郎ではないか。どうした」
おすみと、助三郎が、銀之助と橋本の前に座った。
助三郎が、橋本の顔を見ながら話し始めた。
「若様、御殿様がお亡くなりました」
「父上が、亡くなったと。いつだ」
「十日前です。体中発疹ができ、あっという間の御最後でした」
橋本は、天井を仰いだ。
(橋本様が、若様?)おすみはまだ何が何だか分からなかった。
助三郎は、話をつづけた。
「ご家老の山形玉衛門様が、側室のお高様の子の一太郎君を跡継ぎに推挙されました。山形様は、抜け荷で私腹を肥やしているとのうわさが絶えません。また、一太郎君は、山形様の血が混じっているという輩もおります。一太郎君が後を継いだら、山形様のやりたい放題になってしまい、そのうちに幕府に目をつけられ、御家御取り潰しになってしまうでしょう。兄上様は、相変わらず寝たきりで、思わしくありません。藩の若い者たちが、若を藩主にと切望しています」
助三郎は、おすみの入れた白湯を飲み干して、さらに続けた。
「それに対し、山形様は、若の正義感の強さに危機感を持って、刺殺人を次々とは放って若を亡き者にしようとしています」
橋本は、藩を離れて五年、家老の山形や側室のお高がどんな人間なのか知る由もなかった。
銀之助が口をはさんだ。
「助三郎さん、もう既にその手が江戸に入っています。先ほど、黒装束の格好をした人間が、この家を襲ってきました」
「そうなんだ。銀之助さんが、俺を待っている間、危ない目に合った」
「若様が、居ないときでしたか」
(あの二人を撃退するなんて、銀之助って、一体何者なんだ)
助三郎は、銀之助の顔を見た。
「助三郎さん、どうしましたか」
銀之助が怪訝そうにいった。
「いや、銀之助さんにまでご迷惑をおかけしてしまって、申し訳ございません」
「助三郎、お前はこれからどうするんだ」
「この近くに宿を取っているので、時々若様のところに来て、これからのことを相談させていただきます」
夜、五ツ刻の鐘が聞こえてきた。
助三郎はその鐘を聞いて、橋本たちに別れを告げ帰って行った。
おすみもしばらくして、自分の家に戻って行った。
銀之助は、橋本のところに泊まることにした。
行灯の光が、明るくなってきた。
「銀之助さん、一杯やるか」
橋本が、土間を下りて、徳利と碗そして香の物を持ってきた。
銀之助が、徳利を持って、碗に酒を注いだ。
「橋本様、これからどうされますか」
椀の酒を飲み干して、
「う~む。俺が狙われているなんて・・・」
腕組みをした。
「橋本様は、助三郎さんのことよくご存じで」
「昔から、橋本の屋敷に助三郎の親父さんが、奉公しておったな。その息子が、助三郎で子供の時は、利発だった。そして、大人になるにつれてだんだん出世志向が強くなってきたようだ。下僕の親父さんを見ているから、自分はそうなりたくないと思っていたんじゃないか。出世のためなら、何をするかわからんと俺の友人がいっていたのを思い出したよ」
橋本は、また碗に酒を注いだ。
「藩に戻られますか」
「俺には、政事は向いていない。しかし、悪事を企んでいる人間は許せん」
銀之助も、自分の碗に酒を注いで、
「橋本様。いい難いのですが、助三郎さんには気を付けた方が良いかもしれません」
「なんでまた」
「ただ私の勘なんですが」
「分かった、注意しよう」
夜も更け二人は、横になって寝入った時、
「火事だ、火事だ。みんな起きろ」
外で叫び声がした。
大声に銀之助と橋本は目を覚ました。
「橋本様」
銀之助は、丸棒を取った。
「銀之助さん、気をつけろ」
橋本も、腰に小刀を差し手に大刀を持って立ち上がった。。
「橋本様、お気をつけて」
「行くぞ」
橋本が腰高障子を蹴った。
続いて銀之助も、外へ出た。
長屋の連中が、すでに井戸水をくみ上げて桶に入れそして、火に向かって撒いていたが、北風に巻き上げられるよう火の手は広がっていた。
厠から、お玉の家にあっという間に延焼した。
お玉は、呆然と火の手を見ていた。
「お玉さん、早く逃げないと。」
銀之助は、お玉と安吉の手をひいて火から離れた。
半鐘が、火を煽るように鳴り続けていた。
「橋本様、銀之助さん。あたしの家もう危ないわ」
おすみが泣きそうに言って来た。
「おすみさん、早く家財道具を出さないと」
銀之助が言い、橋本とおすみたちと一緒に家に入り、おすみの荷を持って、表店の前の道に出た。
既に長屋の連中は、着の身着のままでここに逃げ出していた。
「おすみさん、ここで待っていてください。橋本様の荷も出さないと」と言って、銀之助と橋本が長屋に向かおうとした時、
「橋本様、火付ですよ。黒装束の人影を見たんです」
簪職人の銀太が来て言った。
「銀太、分かった。お前は、家の荷物を持って、早く逃げるんだ。銀之助さん、行くぞ」
「はい」
橋本の家に入って、銀之助は、多少の家財道具を、橋本順之助は鎧兜を持って家から出た。
その時、‘シュッ―’という音を銀之助が効いた瞬間、棒手裏剣が柱に刺さった。
「忍びか」
「橋本様、気を付けてください!」
銀之助は、腰をかがめ、背から丸棒を抜いた。
橋本も、抜刀して背をかがめながら外に出た。
シュッ、シュッー
次々と手裏剣が放たれ、橋本と銀之助の近くをかすめた。
「あそこだ」と、橋本は屋根の上を指さした。
向かいの家の屋根に、黒装束たちが走っていた。
「えっい」
橋本は、小刀を抜き黒装束目がけなげ放った。
「ぎゃー」小刀が足に刺さった黒装束が屋根から転げ落ちた。
次々と黒装束が回転して飛び降りてきて、橋本と銀之助に上段から太刀を振り下げた。
‘カチーン’
橋本は、敵の太刀を払った。
「貴様ら、何者だ」
「この!」
銀之助は、丸棒で太刀を受けるや否や、片足で敵の腹をけった。
「ぐあ」
敵が、よろめいた。
橋本は、中段に構えながら、銀之助にすり寄って行った。
「銀之助さん、油断するな」
「はい」
その時、よろめいた黒装束が、銀之助の胴を払おうとした。
‘カチン’
橋本の刀が、敵の刀を折った。
「どいた、どいた」
町火消たちが、威勢をつけてやって来た。
すでに、黒装束は消えていた。
「逃げたか。銀之助さん、大丈夫か」
「橋本様は」
「大丈夫だ。手ごわい相手だな」
岡引きの常吉と同心の松木仁右衛門がやってきた。
松木が、火消に指示を出した。
「さあ、ぶっこわすせ」
「おう」
纏を持った男が、梯子を上って屋根の上に立った。
次々と、火消たちは屋根に上がって、長屋を壊し始めた。
「銀之助さん、なんでここに」
常吉は、銀之助に気付いて、不思議そうにいった。
銀之助は、誰かが火付をしたようだといった。
「誰が、こんなおんぼろ長屋に火付をするんだ」
松木がいった。
「おいらは見たんだ、黒装束が厠に火をつけているところを」
いつの間にか、そばに来ていた銀太が、興奮して言った。
「分かった。常吉、火が消えたら調べるぞ」
一刻ほどで、長屋は、跡形もなくなった。
半鐘の音も、おさまった。
「おまえさん」
おつたが、泣きながら源一の袖を握った。
「泣くんじゃねえ。みっともねえ」
大工道具を大事そうに足元に置いている源一が言った。
棒手振の勇治、女房おみね、お玉、そして、おすみたちが、集まっていた。
女たちは、多少の着物と茶碗類を持って茫然としていた。
「よかったら、店に来てください」
銀之助が、皆に声を掛けた。
夜、四ツ。
徳衛門長屋の連中九人は、うまいもん屋に入った。
銀之助は、すぐに店の真ん中にある行灯に火を入れた。
「銀之助さん、お世話になります」
と、おすみは言って、他の行灯に火を入れるのを手伝った。
「わりいな、銀之助さん」
源一も、頭を下げた。
「冬空の下で寝ないですんだよ。有り難いことだ」
おみねが、涙を浮かべて言った。
「困ったときは、お互い様です。遠慮しないで、いつまでもここにいてください」
「本当に助かります」
お玉が、安吉の頭を手で下げさせた。
「おすみさんたち女の方は、二階で寝て下さい。我々男は、店で寝ますから」
おすみたち女は、二階に上がって行った。
銀之助は、男たちに酒をふるまった。
寒風が、高障子戸を揺すっていた。
明け六ツ。
徳衛門長屋の連中は、銀之助に挨拶して、長屋に戻って行った。
銀之助は勝手場に入って、豆腐屋が来るのを待った。
豆腐屋の声を聞いて、銀之助は勝手口を出て、呼び止めた。
「豆腐屋さん、豆腐と油揚げをそれぞれ四十おくれ」
「へい、いつもありがとうござんす。」
(今日からは、長屋の連中の飯も作らないと。)
銀之助は、頭に手拭いを巻き、前掛けをかけて、米をとぎ始めた。
一刻半後(三時間)、おすみたち女は、焼け跡から、使える物を持って帰ってきた。
二階にそれを置いて、勝手場に昼飯の献立、田楽豆腐、豆腐汁、豆腐飯を銀之助と一緒に作り始めた。
「おつたさん、旦那たちは」
「仕事に行きましたよ」
「そうですか、では皆で、美味しい飯を作りましょう」
銀之助がだれかれと関係なしにいった。
「橋本様は、どこに行きましたか」
「そういえば、途中で別れたきりです」
おすみが答えてから、店の暖簾を掛けに行った。
御救小屋の炊き出しに満足しない人々たちが、うまいもん屋に殺到した。
銀之助たちはてんてこ舞い、それでも、おつたとおみねが手伝ってくれているので、助かった。
いつもより早く、飯類が無くなった。
「店を閉めましょうか、おすみさん」
「はい」
おすみは、外へ出て、暖簾を丁寧に折りたたんだ。
「あたしたちは、上でゆっくりさせていただきます」
お玉が、銀之助にいって、女たちは、二階に上がって行った。
一人店に出て、銀之助は、煙管に火をつけた。
美味しそうに吸ってから、煙を口から疲れも一緒に出した。
いつの間に、銀之助は眠りに落ちていた。
二階から、足音ともに、皆が降りてきた。
おすみが声をかけた。
「銀之助さん、献立はなんにしますか」
銀之助は、目を覚ました。
「もう時間ですか。いなりと納豆汁にしましょうか。水戸から、先日納豆を送ってもらいましたんで」
銀之助が、竈に火をつけ、油揚げを醤油とみりんそして、酒を入れた鍋に油揚げを次々と入れた。
おすみは、味噌を溶かし、納豆汁の支度を、お玉は、いつものように、田楽豆腐を作り始めた。
橋本が戻ってきて、銀之助を誘って、二階に上がって行った。
「橋本様のあんな真剣な顔、初めて見たわ」
おすみが、驚きを隠せずに言った。
「あの件かしら」
お玉が、引き取った。
「お侍さんも大変ね」
おつたが、いった。
しばらくして、橋本が出て行った。
続いて四半刻後、銀之助も
「おすみさん、ちょっと出かけてきますから、後よろしく頼みます」
といって、勝手口から出て行った。
店を開けると、すぐに弥助が入ってきた。
それをお玉が迎え、いつもの席に案内した。
勇治が帰ってきて、弥助のそばに腰を下ろした。
「勇治さん、今度の火事は大変でしたね」
「本当にまいりました。でも銀之助さんのおかげで助かりました」
おみねが、勇治の前にいなりと納豆汁を置いた。
「ありがとよ」
「あんた、早く食べて。二階に上がってよ」
「はい、はい」
弥助は、笑いながら盃を飲み干した。
銀太と源一と帰ってきた。
おすみとおつたが、二人にいなりを持ってきた。
捨て鐘の後に、六ツ刻の鐘が、木枯らしに流れて聞こえてきた。
「いらっしゃい」
お玉が、助三郎を迎え、勇治の座っていた席に案内した。
「助三郎さん、どうしたんですかい。元気有りませんね」
弥助が、心配そうにいった。
「はい、寒くて、持病が出ましたもんで」
助三郎は、熱っぽい顔をしていた。
「お玉さん、今日の献立はなんですか」
「いなりと納豆汁です。助三郎さん、大丈夫ですか」
「では,それとお酒下さい。若様はいますか」
「まだ、帰って来ていないようですよ」
「なにか」
「いや、若が心配なものですから」
半刻(一時間)ほどで、助三郎は帰って行った。
入れ替わりに、銀之助が戻って来た。
「おすみさん、皆さん、遅くなりました」
「橋本様は?」
おすみが聞いた。
「途中で別れたんですが、まだ帰っていませんか」
「さっき、助三郎さんが、来て心配していました。」
お玉がいった。
「もう帰ったんですか」
「はい」
「いらっしやいませ」
おつたの声がした。
猿天狗の面をつけて、黒羽織に袴姿、そして腰に両刀を差し、
「わいわい天王、騒ぐのがお好き・・・」と言いながら男が店に入ってきた。
続いて、
「せきぞろ せきぞろ めでたい、めでたい・・・」
三人組が、暖簾を分けて入ってきた。
注文を聞いてきたおつたが、戻って来ていった。
「銀之助さん、今日は、大道芸人のお客が多いですね」
「珍しいですね」
おすみが、いなりを作る手を止め、銀之助にいった。
銀之助は店の中を覗いた。
(彼らは、ただの芸人ではなさそうだ)
「おすみさん、お客さんに挨拶してきます」
銀之助は、注文の酒と田楽豆腐を持って勝手場を出た。
わいわい天王の所に行って、
「いらっしゃいませ。主の銀之助と申します」
これはあいさつ代わりと言って、樽の上に酒と田楽を置いた。
「銀之助さんというんですかい。よろしく」
「今後とも、御贔屓下さい。ごゆっくりどうぞ」
銀之助は、ゆっくり頭を下げながら面を取った相手の顔を脳裏に焼き付けた。
続いて、銀之助は、節季たちの所にも顔を出した。
「いらっしゃいませ。主の銀之助と申します。料理はいかがですか」
(太鼓のバチが、やけに太い)
「田楽豆腐、美味いぞ」
「それはそれは、お気に召していただきありがとうございます」
頭を下げ、節季たちの足元を見た。
行灯の暗さでも、足元の鉄網でできた脚絆は光っていた。
(彼らも、橋本様を狙っているのだろうか。そうであれば、手ごわそうな相手だ)
勝手場に戻ると、橋本が飯を食べていた。
「橋本様、店に四人の怪しい客がいます」
「どんな奴だ?」
「大道芸人の格好をしています」
「そうか」
「赤沢さんが来たら、二階に通ししてください」
おさとの件以後、銀之助を慕って時々うまいもん屋に来るようになった赤沢惣右衛門に銀之助が助成を頼んだのだ。
銀之助は、おすみに店を任せて、橋本を二階に連れて行った。
しばらくして、赤沢が勝手口から入って来た。
「銀之助さんはいるか」
「あら、めずらしい。二階でお待ちですよ」
閉店後まもなく、銀之助と赤沢が一階に降りてきた。
「銀之助さん、では、また明日」
「赤沢さん、ちょっと待って」
おすみは、折りたたまれた小田原提灯火を入れ赤沢に渡した。
朝早く、おすみたちに見送られ、橋本は、うまいもん屋を出た。
銀之助も続いた。
「お二人ともお気を付けて」
お玉は、心配そうに二人を見送った。
一ツ刻(二時間)ほどで、、二人は日本橋に入った。
まだ、陽も上がらないのに旅に出かける人々で、ごった返していた。
うっすら東の空が赤みを帯びてきたころ、二人は中山道に入っていた。
銀之助と橋本は、前を歩いていた旅人を次々と抜いて行った。
どこからともなく、昼八ツ半刻(三時)の鐘が聞こえてきた。
「寒いな。銀之助さん、ちょっと早いが、天気が悪くなってきたのでここで宿を取ろうか」
橋本が、空を見ながら言った。
は、賑わっていた。
「お侍さん、お兄さん。安くしておくから泊まって行っておくれ」
飯盛旅籠の女たちが、銀之助たちの袖をしつこく引くのを振り切って、やっと平旅籠に入ったのは、九つ近かった。
「お侍さんたち、相部屋になるでいいかね」
銀之助は、橋本の頷くのを見て答えた。
「いいですよ」
二人は、部屋に案内された。
「お客さん、お二人と一緒になりますのでよろしくお願いします」
女中が、先客に声をかけた。
「よろしく願います」
銀之助は、一人煙草を吹かしている老人に挨拶をした。
橋本も軽く頭を下げた。
「奈良橋作衛門と申します。こちらこそよろしく願います」
銀之助と橋本も名のった。
「では、儂は風呂に入らせてもらうで」といって、老人は部屋を出て行った。
銀之助がそっと障子戸を開け外をうかがった。
「橋本様、つけられていないようですね」
「まだ分からんぞ、気をつけねば」
そして、二人は、風呂に入り、夕餉を取って、床に就いた。
天候に恵まれ、熊谷、倉賀野そして坂本と宿取って、江戸を発って、五日目に追分に着き、銀之助と橋本は、旅籠に入った。
一刻後、赤沢が銀之助たちの部屋に入ってきた。
「赤沢さん、どうですか」
「敵か味方かわからんが、どうも二組が、そちたちの後をつけているようだ」
「そうか、明日から北国街道に入るから、特に気をつけねば」
「新発田までは、どのくらいかかるんでしょうか」
「この天気では、あと五日ぐらいはかかりそうだな」
「では、儂は前の旅籠に泊まることにするので、これで失礼する」
「赤沢さん、明日もよろしくお願いします」
「赤沢殿、よろしく頼む」
雪の北国街道を、蓑をまとった銀之助と橋本は歩き続けていた。
一刻ほど経って、
「銀之助さん、茶屋があったら休もうか」
「こんな雪深いところに茶屋なんてありますかね」
「いや、民家でもいいから休ませてもらおう。寒くてたまらん」
と橋本がいった時、
「銀之助さん、後ろに敵だ!」
後ろから大声が響いた。
二人は、後ろに振り向き、腰を低めた。
黒装束三人が、雪道を銀之助たちを襲って来た。
銀之助の横の雪に、手裏剣が刺さった。
「橋本様、逃げて下さい。後は、私たちに任せて下さい」
「気をつけろ」
銀之助の五間前に、黒装束の一人が小刀を上段に構えて走ってきた。
一間ほど前で、倒れた。
赤沢が、長刀を抜いて後二人の後を追いかけてきた。
銀之助は、刺さっていた手裏剣を取り、顔をめがけて投げた。
「ぎゃあ」
赤沢の投げた黒い球が、バーンと爆発し煙が舞った。
吹雪が、煙をさらった。
「銀之助さん、大丈夫か」
「赤沢さん、助かりました」
「橋本殿を追っかけよう」
二人は、すぐに橋本に追いついた。
「申し訳ない、危ない目に合わせてしまって」
「橋本様、まだまだこれからです」
「そうだ、銀之助さんがいう通りこれからも気を付けないと」
赤沢が、袖で鼻を拭いた。
「もうしばらくすると、だ。今日は、そこで泊まろう」
橋本の言葉が、吹雪に流された。
三人は、海野宿の旅籠‘啄木鳥’に泊まった。
「橋本様、海野宿は結構栄えていますね」
銀之助が、火鉢に手をかざしながら言った。
「確か、この宿は、六町(約六五〇メートル)にわたり街並みが続いており、本陣一軒と脇本陣二軒が設けられている。佐渡の金の江戸までの輸送、善光寺までの参拝客や、北陸諸大名の参勤交代などで利用されているんだ」
「お客さん、良くご存じで」
女中が、飯をよそりながらいった。
「お女中、明日はどこに泊まったらよいであろう」
橋本が言った。
「そうだな、善光寺までがんばったらどうだね、天気はよさそうだし」
その朝、街道を覆う雪は、陽の光を受け眩しいほど光り輝いていた。
旅籠で善光寺詣用の衣装に変え、三人は旅立った。
昼近くに、善光寺宿に着いた。
「大きいお寺ですね」
銀之助は、門を見上げた。
「銀之助さん、この寺の門は古えより、‘四門四額’と称して、東門を‘定額山善光寺’、南門を‘南命山無量寿寺’、北門を‘北空山雲上寺’、西門を‘不捨山浄土寺’と称するんだ」
銀之助たちは、東門をくぐった。
「旅の方々、よう来なすった」
僧が、雪の上に立って、銀之助たちを迎えた。
僧は、銀之助たちがどこから来たのかも聞かず、説明し始めた。
「本堂の中の‘瑠璃壇’と呼ばれる部屋に、初めての朝鮮渡来の秘仏の本尊・一光三尊阿弥陀如来像が厨子に入れられて安置と伝えられています。その本尊は善光寺式阿弥陀三尊の元となった阿弥陀三尊像で、その姿は寺の住職ですら目にすることはできないのです。 瑠璃壇の前には金色の幕がかかっていて、朝事とよばれる朝の勤行や、正午に行なわれる法要などの限られた時間のみ幕が上がり、金色に彩られた瑠璃壇の中を部分的に拝むことができます。よろしければお詣りして行ってください」
「申し訳ない、先を急いでいるので、ここでお詣りして失礼する」
橋本は、本堂に向かって、頭を下げた。
「旅の御無事を祈っております」
僧が合掌した。
何事もなく、新町宿・牟礼宿・古間宿・柏原宿・野尻宿・関川宿・上原宿・田切宿・二俣宿・関山宿・松崎宿・二本木宿・荒井宿を経て、三人は高田宿に入った。
三人は、はずれの旅籠に入った。
「いらっしゃい」
女中たちが迎え、たらいに湯を入れ三人の足元に置いた。
足を洗った後、三人は、部屋に案内され、すぐに交代で風呂に入った。
最後の銀之助が戻って来たときには、夕食の準備が整えられていた。
「お待たせしました」
銀之助は、甘海老、越前蟹等、海の幸が盛られた箱膳の前に座った。
「美味しそうですね」
「悪いが、酒はもうしばらく控えてくれ。では、食べよう」
「橋本様、めずらしいことを」
銀之助が、笑いをこらえて言った。
「銀之助さん、いつ敵が来るかわからんからな」
橋本、赤沢は刀をいつでも持てるよう左脇に置いていた。
銀之助もいつもの丸棒をそばに置いている。
しばらくして、橋本が箸をおいていった。
「明日は、奥州街道を東へ行き、長岡藩を目指す」
「長岡藩ですか」
銀之助が、聞き返した。
「そうだ、長岡藩の知り合いを訪ねて、新発田の情報を得ようと思う」
「なるほど」
赤沢は頷いた。
「明日も早いぞ」
橋本はいった。
そして、三人は床に入り寝入ってから半刻ほど。
「宿改めである」
階下で声がした。
「銀之助さん、赤沢さん。起きろ」
橋本が、二人をゆすぶった。
二人も一階での声に目を覚ました。
すぐに銀之助は、階段のところまで行って、様子をうかがってきた。
「上がってきます」
「橋本殿、銀之助さん。某に任せろ。早く、屋根を伝わって逃げろ」
赤沢はいった。
「赤沢さん」
「某はどこで果てようとも、悲しんでくれる奴はいない。早く行くんだ」
廊下で声がした。
「お客様、宿改めでございます」
旅籠の番頭が、障子を開けた。
十手を振りかざした同心と岡引き一人が、入って来た。
「一人か?連れはどうした」
「拙者、一人だ。連れなどいない」
「本当に一人ですかい」
「番頭、本当か?」
「・・・・」
赤沢は、同心の目を睨んでいった。
「何があったんだ」
「おぬしには関係ない」
「こんな夜中に起こされて、何がかんけえねえだ」
「おぬしの名は」
「人の名を聞く前に、自分の名を名乗るもんだ」
赤沢は、時を稼いだ。
「生意気な」
赤沢が、刀を寄せた。
同心も身構えた。
同心は殺気を感じた。
岡引きは、ひるんだ。
「浪人さん、どこに行くんだ」
赤沢が立ちあがった。
「越後だ」
「偽りを申したら承知せんぞ」
同心は、身構えを解くことなく部屋を出て行った。
「あいつはただの同心ではないな。君子危うきに近寄らずだ」
行灯の火を消し、障子を開けた。
「逃げるか」
雪の積もった屋根に飛び降り、銀之助たちの足跡を追った。
雪はやみ、風もおさまっていた。
雪明りをたよった。
赤沢は、四半刻ほどで銀之助たちを見つけることができた。
「おい」
銀之助が、構え振り向いた。
「俺だ」
「赤沢さん」
「何とか・・」
ピー~ ピー
呼び笛が鳴った。
「裏に回ろう」
二人は頷いた。
そして、足を取られながら雪の積もった屋根を上った。
裏には、あの同心と岡引きがいた。
「あいつには気を付けた方がいい」
赤沢が、手短に話した。
そして、屋根から飛び降り、同心たちを取り囲んだ。
「貴様・・」同心は、赤沢の当て身にがっくりと膝をついた。
「がっ」銀之助は、岡引きの腹に丸棒を打ち込んだ。
「橋本様、これを着て」銀之助は同心の蓑と笠を取って渡した。
「赤沢さん、あれを」
「俺は笠だけでいい。銀之助さんは蓑を付けろ」
三人は、道を急いだ。
「大丈夫か」赤沢が、遅れはじめた銀之助にいった。
「銀之助さん、俺のカンジキを貸そうか」橋本が、振り返った。
「大丈夫です」
「俺は、雪には慣れている」橋本は、雪の上に座り込んでカンジキをはずし、銀之助に渡した。
銀之助は礼をいって、カンジキを履いた。
「どうだ、楽だろう」といって、橋本は、ゆっくりと歩き始めた。
流れてきた雲に星が隠れ始めた。
三人は、疲れが出てきた。
赤沢が、座り込んでしまった。
「赤沢さん、大丈夫ですか」銀之助が心配そうにいった。
「俺は、今までこんな雪の中を歩いたことがないんだ。疲れたぞ」
「あそこに家があるぞ」橋本が言った。
薄明かりが漏れている農家が、見えた。
「あの家で休ませてもらいましょう」銀之助が、いった。
戸を叩いた。
「ごめんください、旅の者ですが」
「だれだ」
「道に迷ったのです」
「ちょっとお待ってや」
戸が少し開いた。
三人の姿を見て、老爺は一瞬たじろいだが、三人の低頭に安心したのか、「何か用かね」と聞いた。
「朝早くからすみません。道に迷ってしまいました」
「どこへ行くんだ?」
「長岡へ行きたいのですが」
「長岡か」
「おやじさん、これでちょっと休ませてもらえませんか」銀之助が、路銀を手渡した。
「あそこの納屋を使え」
といって、戸を閉めてしまった。
「男三人、野盗と間違えられても仕方ないな」
橋本が、納屋に向かった。
三人は、納屋に積んであった藁の中に身を沈めて眠り込んだ。
「旅の人」
納戸の戸が開いた。
「・・・」銀之助は、丸棒を掴んだ。
「おう、じいさんか」
赤沢も、太刀を掴んでいた。
「寒い」橋本が、いった。
「助かりました」銀之助は立ち上がり、男に頭を下げた。
「大したものはないが、朝飯でも食べていかないか」
と老婆は母屋に三人を案内した。
自在鉤につるされた鍋からよいにおいが、囲炉裏端に座った三人に空腹をしらしめた。
老女が、椀に鍋の雑炊をよそって、銀之助たちに渡した。
「うまい」
赤沢が、すぐに空になった椀を老婆に渡した。
三人は、すっかり満足した。
橋本が、煙管に煙草をつめ、火をつけた。
鼻から煙を吐きながら、長岡までの道のりを聞いた。
「さてと行くか」
橋本が、立ち上がった。
「ここにある蓑、笠、カンジキ、使っていいぞ」
と、老爺が言った。
雪が、激しく降り始めていた。
つづく
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます