沢藤南湘

残り少ない人生を小説とエトセトラ

おやじの戦争

2023-04-30 09:37:41 | 小説
私は、神奈川県の二宮という小さな町で生まれた。
 九人兄弟の次男として大正十二年夏だった。
 兄弟の構成は、上三人が男、中三人が女そして下三人が男という分かりやすい構成だった。
 父は、表具師で小さいながらも店を持っていて、職人を二人雇っていた。
 この地は、南は海で北は小さな山に挟まれており、温暖でめったに雪は降らない。
 山は、と呼ばれており、標高百六十八メートルの低山で、西暦六六八年、朝鮮半島北部にあった高句麗が滅亡して、 王族である高麗王若光一族がこの地に上陸して、そこに居住して周辺の開拓を行なったことから山の名がついたようだ。
 夏になると、私は兄弟を連れて、この山によく蝉を捕りに行った。
 浜に出ると西に富士山が見える。
 東の近くには、烏帽子岩が海に浮かんでいる。
 やはり夏だが、遠浅の海は、私たち子どもの恰好の遊び場だった。
 尋常小学校も中学校に通いながら、子守をしながら勉強した。
 成績は、悪いほうではなかったが、経済上の問題から進学はあきらめて、就職の道を選んだ。
 親戚の紹介で、布団の販売店に勤めることになった。
 小さな店だったが、家から歩いて通えるのが嬉しかった。
 昭和十六年。
 私は、十八歳になった。
 私の弟が通っていた小学校は、国民学校と改称され、国民科など五教科編成で儀式や学校行事を重視し、宮城遥拝や軍事教練が課された。
「いよいよ軍国主義へと向かっているようだな」
 父が、私たちに向かって寂しそうに言った。
 十二月八日、とうとう我が国は、ハワイ真珠湾を攻撃して大東亜戦争に突入してしまった。
 このころ、本屋に並べられていた下村湖人の『次郎物語』や山本有三『路傍の石』を私は立ち読みしていた。
 昭和十七年。
 ラジオや新聞では、日本の戦況を次のように伝えていた。
 一月二日、日本軍、マニラ占領。
 二月十五日、シンガポールのイギリス軍、日本軍に降伏。
 三月九日、ジャワのオランダ王立東インド軍、日本軍に降伏。
 五月一日、日本軍、ビルマ北部のマンダレー占領。南方進攻作戦一段落。
 五月七日、フィリピン・コレヒドール島要塞の米軍降伏。
 六月五日、ミッドウェー海戦始まる。
 六月七日、日本軍、キスカ島占領。
 六月八日、日本軍,アッツ島占領。
 後に知ったのだが、ミッドウェー海戦で、日本海軍の主力航空母艦4隻が撃沈され艦載機全機と熟練搭乗員の多くを失っていたのであるが、そのことは知らされずに、このような報道によって、人々は、戦勝ムードに湧いていた。
 この頃、ラジオから、’空の神兵’、小唄勝太郎の’明日はお立ちか’、灰田勝彦の’新雪’などの歌が良く流れていたが、私は’新雪’の歌詞が好きだった。
 人気のあった映画が来ると町にあった一軒映画館に見に行った。
 小津安二郎監督で笠智衆主演の『父ありき』や『マレー戦記』を見に行った覚えがある。
 両方とも戦争に関するものだった。
 『マレー戦記』を見て、日本軍の強さを誇りに思ったものだ。
 「欲しがりません勝つまでは」が流行語にそして、歌にまでなったのもこの年だった気がする。
 戦争が長くなるにつれ、人々の生活はだんだん苦しくなってきて、食料、衣服、燃料など生活に欠かせない物も自由に手に入れることができなくなった。国民は、政府から配られるキップを持って配給を受けるようになった。
それでも、人々は「ほしがりません勝つまでは」とか「ぜいたくは敵だ」といったスローガンで自分たちをはげましながら不自由な生活にたえていた。
 世の中、何もかもが戦争一色になっていた。
 
 そして、八月。
 私は十九歳になった。
 徴兵検査で甲種合格だった私に役場の兵事係吏員が、召集令状を持ってきた。
 令状は本記と受領証の二枚からなっていた。
 本記には応召者氏名、住所、召集部隊名、到着日時等が書かれていた。
「本記は、部隊までの交通切符代わりになります。また召集部隊に持参して提出してください」
 私は、受領証に受領日と時刻を記入して、捺印してから、官吏に渡した。 
 配属先は、軍都柏と呼ばれていた千葉県柏町にある東部第百二連隊と書かれていた。 
 両親に報告した。
「とうとう来たか」
 父鉄太郎が召集令状を見ながら言った。
 母の千代は涙を浮かべた。
「お国のために身を挺して働け」
「はい、お国のために命を捧げます」
 集まってきた兄弟たちは、皆悲しがった。
「泣くんじゃない、お国のために働くんだ」
 鉄太郎が、皆を叱った。
 
 十月の末日。
 とうとう出頭の日がやってきた。
 近くの神社に町内の人たちが集まった。
 本殿の空地が、黄色に染まった落ち葉によって、敷き詰められていた。
 町内会長が代表の挨拶を述べた。
「木村孝明君の武運長久を祈願して、万歳三唱で孝明君を見送りましょう」
「万歳、万歳、万歳」
「お国のため、国民のために頑張ってきます」
 私は、気分が高揚してうまく挨拶ができなかった。
 戦争への恐怖など微塵もなかった。
 日の丸の旗を振り続けている人々たちに送られて、颯爽と駅に向かって歩いた。
 私の家族十人が、駅のプラットホームで私を見送ってくれた。
 汽車に乗って、東京駅で乗り換えた。
 常磐線だったかと思うが、それに乗って、柏駅まで行った。
 地図を見ながら、東部第百二連隊の営門までかなりの距離を歩いた。
 初年兵教育としての基礎訓練三か月、各部門(機関・武装・通信・写真・自動車など)に分かれた特業教育三か月を終えてから、実施部隊に配属されるのが普通だったが、どういう訳か、私の基礎訓練は、たった一か月で終わり、十二月、三重県の鈴鹿にある第一気象連隊第六中隊に転属を命じられた。
 すぐに荷物をまとめて柏駅から夜汽車に乗り、翌朝東京駅に着き、有楽町のガード下付近をうろついた。
「これが東京の見納めになるかも」
 私は、一か月前に乗り換えで降りた東京駅を見て感慨にふけった。
 東京駅付近で朝食を取ってから、東海道線に乗って名古屋に向かった。
 汽車が停車した。
 車窓から一年前に両親と兄弟に見送られた駅のホームが、霞んで目に入った。
 名古屋駅周辺で宿を取った。
 翌日、関西線の汽車に乗って、加佐登駅で下車。
 徒歩で石薬師村にある中部一三一部隊に向かって田舎道を歩いた。。
「こんな田舎に部隊が本当にあるんだろうか」
 私は、いろいろな不安がこみあげてきた。
 正門(営門と呼んでいた)を通って連隊のある敷地に入った。
 正門のすぐ右手に面会場がある。
 その前に、起床演習や通信演習そして様々な訓練を行う広々とした練兵場(私たちは、営庭と呼んでいた)、その北側に各中隊の兵舎が四棟ずつ二列並んでいる。
 さらに北には、兵器庫、被服庫などがあり、北端に医務室がある。
 また、正門以外に西門があった。
 兵舎の二列目の西から二棟の六中隊の事務室に入った。
「木村孝明二等兵、ただいま入営いたしました」
「ご苦労」
 受付を済ませて、内務班別に集合して、班長の案内で兵舎に入った。
 兵舎は、柏よりお粗末だった。
 内務班は廊下をはさんで、舎前と舎後の二つの部屋に分かれていた。
 廊下の両側には、所狭しと靴箱その上段には銃架になっており、手入れの行き届いた九九式短小銃が整然と立て掛けられていた。
 部屋に入ると、中央には木製の机と長椅子が置かれ、その両側には藁ふとんが室一杯に所狭しと並べられていた。
 そのふとんの奥の壁側には毛布と枕が重ねて置かれ、その上に奥行き四十センチほどの整頓棚が打ち付けられていた。
 またそれぞれに木製の小物入れ箱が並んでいた。
 これらの物は、すべて定規で測ったように整然と並べられていたのに、驚き厳格さを改めて感じた。
 班付兵が、初年兵が全員揃ったのを見て、
「自分の名前が書かれた場所に立て」と言った。
 そして、各自に事前に準備された褌を除いた衣服類が貸与された。
 その後、班付兵の指導で上衣に名札、襟布、階級章などを慣れない手つきで針を動かして言われるままに何とか取り付けたが、班付兵から名札が曲がっていると指摘されやり直し。
 やっと合格すると軍服に着替えることを許された。
 多少サイズが大きいと思っていたところ、
「これでよし」と班付兵が勝手に判断した。
 班付兵にサイズの違うものに代えてほしいと懇願した者がいたが、
「おまえの身体を服に合わせろ」と無理難題を押し付けていた。
 軍隊では、何事も我慢する以外はないということを痛感した。

 夕食は、入隊祝いとして混ぜご飯、紅白の饅頭が特別に用意されていた。
 久しぶりの餡の甘さをかみしめた。
 起床ラッパに起こされ、支度を終えて営庭にでる。

 入隊式が始まる。
 鈴鹿おろしの寒風に耐えながら、二時間にも及ぶ部隊長の訓示を聞いた。
 班長達の厳しい教育が始まった。
 班長は、軍曹や伍長がなり、我々初年兵を厳格な規律を守らせる兵隊に作り上げる責務を持っていた。
 衣類の整理、整頓や床の作り方、九九式短小銃の保全及び手入れ、スピンドル油の使用方法などについて、班付上等兵、そして古参兵たちが次々と指導してきた。
 内務班内は、毎日怒鳴り声が飛び交っていた。
 時には、
「手を後ろに組み両足を踏ん張って、歯を食いしばれ」
 と言って、古参兵がぴんたを食らわせることもしばしばあった。
 寝床に南京虫や蚤が同居していたのには閉口した。
「初年兵は、一階の階段の下に集合しろ」
 下士官が、皆に命じた。
「この中に先ほどの訓示を聞いていなかった者がいる。その者は、前へ出ろ」
 前に出る者は、誰もいない。
 下士官は、自分のスリッパを投げつけた。
 緊張のあまり、私は、顔が引きつっているのを感じた。
 こんなことが許されてよいのだろうかと私は、下士官に敵愾心を抱いた。
「全体責任だ。営庭を十周駆け足!」
 このことがあってから、人に迷惑をかけないように慎重に行動した。
 後日になるが、T少尉が私的制裁を禁じたことにより、そのような行為は影をひそめるようになった。

 毎日の訓練が、始まった。
 起床ラッパで起こされて、五分ほどで着替えて、営庭に集合し、朝礼。
 そして、半身裸になり乾布摩擦を行うのが、毎朝の日課であった。
 寒い中の乾布摩擦は、健康を維持するには良い方法のようで、身体が弱いという同期の人間は、風邪をひかなくなったと喜んでいた。
 朝飯を終えると、軍人勅諭と戦陣訓等の教育そして、銃や剣術の訓練と休みなくしごかれた。
 まず軍人勅諭の暗唱だ。
「一、軍人は忠節を尽すを本分とすべし・・。
一、軍人はれいぎをただしくすべし・・。
一、軍人は、武勇をとうとぶべし・・。
一、軍人は信義を重んずべし・・。
一、軍人は質素を旨とすべし・・」

 次に戦陣訓、これは長かった。
「本訓 其の一
 第一 皇国、大日本は皇国なり。万世一系の天皇上に在しまし、肇国の皇謨を紹・・。
 第二 皇軍、軍は天皇統帥の下、神武の精神を体現し、以て皇国の威徳を顕揚し・・。
 第三 皇紀、皇軍軍紀の神髄は、畏くも大元帥陛下に対し奉る絶対随順の崇高・・。
 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
本訓 其の二
第一 敬神、神霊上に在りて照覧し給ふ。心を正し身を修め篤く敬神の誠を捧げ・・。
第二 孝道、忠孝一本は我が国道義の精粋にして、忠誠の士は又必ず純情の孝子・・。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
本訓 其の三
第一 戦陣の戒、・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
第二 戦陣の嗜、・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
結、以上述ぶる所は、悉く勅諭に発し、又之に帰するものなり。されば之を・・」

 私は記憶力がそれほどよくなかったので、軍人勅諭と戦陣訓を覚えるのは辛かったし、
「こんなこと苦労して覚えても戦場でなんの役にも立たないのに」と思っていたので、ますます覚えが遅くなった。
 このような考えを持っているのは、私だけだろうか。
 口に出したら非国民として、きっと、厳しい罰を受けることになる。
「木村二等兵、前でて戦陣訓をいってみろ!」
 私は、何回も躓いた。
「貴様は、柏手一体何をやっていたんだ。歯を食いしばって、足を踏ん張れ」
 またも、厳しい指導を受けた。

 不思議なもので、一か月も過ぎると、同期の人間たちの顔つきが以前よりたくましくなり、天皇や親兄弟そして祖国を護るという言動に気迫が込められてきた。
 私も次第に兵隊という役務に誇りを持つようなってきたのには、自分ながら驚いた。
 教育は、私たちの考え方をいかようにでも変えることができることが分かった。
 
 不寝番という役目の日を迎えた。
 夕食を終え、風呂に入った。
 するとすぐに、
「三班、早く出ろ!」と大声がした。
「入ったばかりなのに」
 私たちは、温まることもなく出た。
 烏の行水だ。
 そして、私は、真夜中の不寝番についた。
 吹雪の中、中隊入り口に数時間立った。
 まつげが凍り、手はかじかむ。
 時々、眠気が襲ってきた。
 下番になって、凍えた状態で毛布に潜り込んで眠りに落ちた。が、起床ラッパですぐに起こされた。
 以後、冬の真夜中の不寝番に当たらないよう祈った。
 それとは反対に、炊事当番は待ち遠しかった。
 暗いうちに起こされるのは楽ではなかったが、当番の特権で、余り物にありつき、皆より多く食べることができた。
 当番の時、卵を隠して後で食べようと思っていたら、軍曹にばれてこっぴどく怒られたこともあった。
 食糧事情が厳しいこの時代、軍曹たちは食料を集めるのに大変苦労していたようだ。
 そのおかげで、私たち兵隊は、庶民より恵まれた食事をとることができた。
 十分ではなかったけれど、時には混ぜご飯や代用食としてのコッペパンそして、汁粉が出る時があった。
 甘味に飢えた私たちは、この汁粉の出る日が何よりも楽しみだった。
 夕食後、班付上等兵から軍歌の演習を受けた。
「軍歌の練習なんかして一体何の役に立つんだ」と私たちは、無駄なことだと不満に思っていた。
 しかし、五・一五事件に関与した青年将校が作ったと言われる「青年日本の歌」の歌詞の説明を受けた時の感銘は、私だけではなかった。
♪の淵に波騒ぎ ・・・義憤に燃えて血潮湧く ・・・・・・人生意気に感じては成否を誰かあげつらう♪
 何度も歌っていると、そのうち私だけでなく同期の連中たちも涙を浮かべながら歌うようになっていた。
 意気に燃えてきたり、戦友という仲間意識そして絆が、醸成されていた。
 軍歌の演習を終えると、消灯ラッパでようやく一日が終わり、床につけた。
 遠くの列車のガタンゴトンという音と汽笛を聞きながら、故郷や家族そして友人などを思い出しているうちに寝入ってしまうことが度々あった。
 早くこんな生活を終えて、自由になりたいとぐずぐず考えている時は、いつまで経っても眠れなかった。
 また、人の鼾にも悩まされた。
 神経質な私には、そのような日が時々あった。
   
 外出の日を迎えた。
 私たちは、この日を楽しみにしていた。
 私は、朝からうきうきしていた。
 町に出れるのだ。
 営門を出てだらだらした坂を下り、鈴鹿川を渡ると神戸という町にでる。
 まずは腹ごしらえと小さな食堂に入った。
「いらっしゃいませ」と中年の女性が、威勢の良い声で迎えてくれた。
 椅子に座ってお品書きに載っているすいとん定食の内容を聞いた。
「すいとん、麦ごはん、ふかしたジャガイモそして、ほうれん草のおひたしになります」
「じゃそれお願いします」
「すいとん定食をひとつ」と女性は大声で、調理場に向かって言った。
「お客さんは、兵隊さんかな?」
「はい」
「言葉づかいから、関東の方の生まれかな」
「神奈川県です」
「遠くからご苦労様ですね」
「お子さんはいらっしゃるのですか」
「あなたぐらいの歳の息子が一人いますが、今は外地に行ってます」
「どこですか?」
「シンガポールです」
「おーい、できたぞ」
 調理場から声がしたのを機に、女性は私から離れた。
 お盆にのせた料理を運んできて、私の前に並べた。
「ごゆっくりどうぞ」
 いい香りだ。
 すいとんから手を付けた。
「うまい」
 ひたすらぱくついた。
 満腹感が幸福を運んできた。
 初年兵の私の楽しみは、食べることと寝ることだった。
「ごちそうさまでした」
「ありがとうございました。兵隊さん、武運長久を祈ってますよ」
 店を出て、あてもなく、町を歩き回るが、すぐに畑地が広がっているところに出くわしてしまう。
「田舎だな」
 自分の自由で時を過ごすことの有難さを感じながら、夕焼けの中を兵舎に帰って行った。
 同年兵が多くいる中、皆に負けないよう私は教育や訓練に打ち込み始めた。
 理由は、早く一等兵に昇進したくなったからだ。

 昭和十八年。
 正月元日。
 休むどころか、未明にラッパが鳴った。
 非常呼集だ。
「正月だというのにこんなに朝早く非常呼集なんて、いい加減にしてほしい」
 私たちは、不満を言いながら、着替えて営庭にでた。
「これから銃と剣術の訓練を行う!」
 まだ真っ暗な朝三時から練兵場で銃と剣術の訓練だ。
 寒さで眠気もすぐにとんでしまい、終わる頃には、汗をびっしょりかいていた。

 また、ある時の非常呼集。
 ラッパが鳴った。
「なんだ、またこんな時間に」
 眠気眼でしぶしぶで、命じられた完全軍装で、営庭に整列した。
「これから白子まで往復する!」
 私たちは、驚いた。
 白子まで片道は五キロ、往復十キロもある。
 私は、銃を持って走り切る自信はなかった。
 隊列をちゃんと組んでいたのは、片道までだった。
 復路になると挫折する者が、次々と出てきた。
 最後まで完走したものは百人中四、五名だった。
 私も復路の途中で歩き始めた。
 このような非常呼集が、度々あったのには閉口したが、よく考えてみると、今は戦時下という非常事態なのだ。
 いつ敵が来るか分からない、それに対処する訓練だと考えると納得の行くことだった。
 何しろ生死にかかることなのである。
 
 今日は、両親との面会の日だ。
 寒い雨の日、汽車の切符の入手が難しい時期なのに、わざわざ遠方から両親が、面会に来てくれた。
 夕方だった。
 営門から連絡を受けた私は心弾ませながら、営門の横にある面会場に入った。
 がらんとした部屋の片隅に、両親が緊張した面持ちで座っていた。
 父が、手を挙げた。
 私は、ふたりに近づき、敬礼をした。
「父さん、母さん、わざわざ来てくれて、ありがとう」
「元気でやっているか」
「はい、元気でやってます」
「そうか」
「孝明の好きなものを持ってきたよ」
 母が、風呂敷をほどいた。
 三段の重箱に食べ物が詰まっていた。
「大したものはないが、食べておくれ」
 私の好きな玉子焼きや煮物そして大好きなおはぎが入っていた。
「おいしそう。よく手に入ったね」
「母さんが、苦労して作ったんだ」
「早くおあがり」
「はい、いただきます」
 私は、あっという間に平らげてしまった。
「兄貴や弟、妹は元気にやっている?」
「英雄は、もう一人立ちできるほどになった。いつでも隠居できそうだ。光夫は、おまえの後に招集がかかったよ」
 英雄は兄で、光夫は私のすぐ下の弟だ。
「光夫はどこに召集されたの?」
「海軍だ。今、横須賀にいる」
「他のみんなは、どうしている」
「他のみんなは相変らず元気だ。おまえによろしく伝えてくれと頼まれてきた」
 久しぶりの再会、親はありがたいものだと思った。
 面会時間は、あっという間に過ぎた。
 暗闇の雨の中、私は営門でふたりを送った。
「身体に気を付けるんだよ」
「お国のために頑張るんだぞ」
「お父さんもお母さんもお元気で。兄弟に頑張っていると伝えてください」
 ふたりが視界から消えるまで、営門前で私は敬礼をし続けた。
  
 並業の期間を終えて、特業の無線の教育が始まった。
 私は技術に関しては全くの音痴で、ましてや無線など全くしたことがなかったので、前日は、不安でなかなか寝付かれなかった。
 教育は、無線通信手としての技能習得が目標だと教官が言った。。
 教育の内容は、モールス信号の習得、暗号電文の組立、解読、無線通信機の使用取り扱い、機材の点検等の内容だった。
 特に電気理論や送受信機の取り扱い方については、担当教官が、図解などを使って丁寧に説明されたので、私にもよく理解できた。
 実技は営庭で行われた。
 通信所の開設、電柱建設、三号甲無線機(広大な荒野を跋渉する騎兵隊用の無線機で、馬上の通信兵は司令部などからの呼び出しを常時受信できた。通信距離は、ほぼ八十キロ)、地二号無線機(通信距離六百キロの遠距離通信用)の取り扱いなどの実技が行われた。
 講義中、私は細大もらさず帳面に書きつけた。
 そして、暇さえあれば、復習をした。。
 実技演習の日を迎えた。
 その日は、小春日和だった。
 気象情報を無線で航空隊に知らせるという実践的な訓練だった。
 私は相手との交信中に、トンツートンツーの音が心地よく、ふと眠気が襲ってきた。
 いつの間にか、しばらくこっくりと。
 相手はそれに気づいたが、知らん顔をしてくれた。
 運よく上官には知られずに済んだものの、実戦の時だったらと思うとぞっとした。

 私は、二十歳の夏を迎えた。
 遊泳演習が行われると知って、私たちは喜んだが、初日の上官から演習の必要性の説明を聞いて、浮かれた気分は吹っ飛んだ。
「いいか、もし敵の潜水艦からの魚雷が、おまえたちが乗っていた船に命中して海に放り出されたらどうする。泳げなければすぐに溺れてしまうんだ。だから、おまえたちが遠泳できるようになるまで訓練する」
 私は海の近くに生まれたのだが、それほどの距離は泳げなかった。
 内陸の出身の兵隊の中には、演習が始まってから二日目ぐらいまで、溺れそうになった者も何人かいた。
 泣きそうな顔をしながら、歯を食いしばって水の中をバタバタしていたのが、、三日目が過ぎると、なんとか泳げるようになっていた。
 私たちがが帰っても、練習していた。
 彼らたちの根性に脱帽した。
 演習最後の日。
 遠泳競技が行われた。
「今日が最後の演習だ。富田浜から四日市までの遠泳を行う。約五キロあるが、今までの訓練でおまえたちは泳ぎきれる。いいか、生死がかかっていると思って泳ぐのだ」
 遠泳に自信のある者は白帽、自信のない者は赤帽をつけることになった。
 悩んだ私は、赤帽を被った。
 上官の檄に励まされて、私たちは海に入って行った。
 船に乗った上官たちは、一生懸命泳いでいる私たちを大声で励まし続けた。
 途中から、一人が元気をつけるために軍歌を歌いだすと皆がそれに続いた。
 とうとう一人も脱落せずに、私たちは完泳した。
 陸に上がった私たちは、感激しながら互いに握手を求めあった。
 
 数少ない楽しかったことのひとつは、開隊記念として部隊や中隊で行われた演芸会だ。
 希望者はだれでも出演できた。
 私は、何も芸がないので出なかったが、出演者の中には、落語家、浪曲師、歌手そして役者のプロがいた。
 巷で流行していた小畑実の「勘太郎月夜唄」、灰田勝彦の「加藤隼戦闘隊」、そして若鷲の歌」が歌われると多くの人たちが口ずさんだ。
 出演者の熱演に笑ったり、感心したりまたうっとりしたりと、ひと時ではあったが、私たちは戦時下であることを忘れて楽く過ごした。
 また、プロの演技を無料で見れるのは嬉しいことだった。
 昭和十九年。
 二月、米機動部隊のトラック島への日本海軍を空襲により、我が国の艦船及び航空機多数を失った。
 四月、初年兵教育を終えると、同期の連中との別れの日が来た。
 朝鮮、満州、南方等の外地へ行く者や幹部候補で転属になる者たちが任地へ向かった。
 私は、第二中隊に転属だった。
 六月、米軍,マリアナ諸島のサイパン島上陸し、日本軍守備隊三万人玉砕する。
    マリアナ沖海戦で、空母三隻及び航空機四百三十機を失っで惨敗。
 七月、中等学校以上の男女生徒は勤労動員として軍需工場や土木工事に動員された。
  後に私の妻となる女性も藤沢の軍需工場に砲弾を作りに行っていたようだ。
  私は、鈴鹿で二十一歳を迎えた。
 戦況は、悪化の一途をたどっていた。
 十月、レイテ沖海戦始まる。空母四及び戦艦三ほか二十六隻と航空機二百十五機を失う。
 十一月、B29により東京が初空襲を受ける。
 十二月七日午後一時三十分ごろ、私たちの班が食器の検査をしていた時だった。
 身体が揺れたので、私は疲れでめまい後したと思い、慌てて近くにあったの台の上に手を置いた。
 食器棚から食器が落ちて割れる音で、地震だと気づいた。
 激しく揺れている。
「地震だ。身を隠せ」
 上官が、大声で叫んだ。
 私たちは、台の下に潜り込んで揺れがおさまるのを待った。
 床には、食器の割れた破片が散乱していた。
 片付けに時間がかかった。
 私は、食器庫に行って、欠けていない食器を選別した。
 なんとか、夕食の準備までには、食器の数合わせに間に合うことができた。
 他の施設では、それほど大きな被害はなかったようだ。
 後に聞いた話では、町のあちらこちらで被害が出たようだが、軍部で情報が統制されていたので、被害の全容は隠ぺいされていた。
 昭和二十年。
 この年になると本土空襲警報が頻繁に発令され、地方都市も徐々に空襲の対象になってきた。
 三月九から十日にかけて、B29によって東京が大空襲を受けていた。
 本所、深川、浅草など下町一帯が、焼け野原に化した。
 六月、私は東京杉並区にあった桃井第二国民学校に行くように命じられた。
 私は浅草を訪ねた。
「こんなにやられて、我が日本軍は何をやっているんだ」
 またアメリカ軍の非情さにも怒りが込み上げてきた。
 わが身の無力さに涙があふれた。
 傷心した私は、国民学校で山梨県玉幡村(現在の甲斐市)の東部九五六隊への転属を命じられた。
「今更何しに行くんだ」と思いながら、玉幡に着いた。
 そこは、飛行場だった。
 私は、そこに併設されている陸軍無線電信所に詰めることになった。
 ここでは、空襲に備えて、機材庫の解体作業や近くの林野地に横穴式防空壕を掘る作業そして、通信機材を分散するための整理作業が行われていた。
 私は、防空壕を掘る作業を行うよう命じられた。
 この地も盆地のせいで高温多湿の日が続いた。
 毎日、汗びっしょりかいて穴を掘っていた。
 忘れもしない着任してから一か月もたたない七月六日。
 夜の気温は二十度を超えていた。
 盆地特有の蒸し暑く寝苦しい夜だった。
 十一時半ごろ、警戒警報のサイレンが鳴った。
 兵舎の照明がすべて消された。
 B29の爆音が真上に近づいた瞬間、上空から枝の垂れた柳のように広がって落ちる焼夷弾、真昼のごとく明るくなったと後に、身が縮むような音を立てて、落下する爆弾。 
 空襲警報のサイレンも焼夷弾が落下する音と地上に落ちて炸烈する爆発音でたちまちかき消された。
 はるか上空で、B29を攻撃する友軍機は劣勢のようだった。
 私たちは、自分たちの作った防空壕に逃げ込んだ。
「これじゃあ、我が国は勝てんな」
 誰かがぼそりと言った。
 皆、黙って俯いていた。
 私は、生まれて初めて死を意識した。
(こんなところで死ぬために兵隊になったわけじゃない。今までの訓練は一体何だった)
 空襲警報が、解かれた翌日の朝。
 隊の中は、混乱していた。
 上官たちは、途方に暮れていた。
 それでも、私たちは、あきらめずに規律を守っていた。
 私の班は、営門を出て市街を巡廻した。
 目に入ってきたのは、焼失した町のあちこちに倒れた焼死体や大やけどをして救いを求める多くの重傷者だった。
 焼跡のいたる所からは水道が噴出して、焼野原に電柱が傾いたまま燃え続けていた。             「なんとむごいこと。地獄の有様だ」
 私たちは、重傷者を爆撃から逃れた兵舎に運んだ。
 部隊長が、皆を集めた。
「敵が上陸したら最後まで抗戦したい。君たちもやってくれるか」と言って、賛否を求めた。
「承知しました」
 全員賛同したが、抗戦するには至らなかった。
 二十二歳になったばかりの八月十五日、正午、ラジオで放送された玉音放送により、私たちが夢想もしなかった晴天の霹靂の詔勅が下された。
 前日に決まったポツダム宣言受諾及び日本の降伏が、天皇から私たちに告げられたのだ。
 これで、すべての軍隊生活が終わった。
 私は、肩の荷が下りたような安堵感がこみあげてきた。
 他の連中は、むせび泣く者、ほっとしたような顔つきをしている者、不安気にしている者、人それぞれであったが、やはり下を向いて無念の涙を流しているものが多かった。
 私は、戦死、戦没した戦友たちへ黙とうを奉げた。
「みんな、機密文書を焼却してくれ。そのほか、証拠になるようなものはすべて焼却か廃棄するんだ」
 隊長が怒鳴った。 
 私たちは、気を取り戻して証拠隠滅の作業に入った。
 昭和二十年八月十五日以降
 東京行きの汽車は、満員だった。
 東京駅で東海道線に乗った。
 焼け野原が、窓から目に入ってきた。
 実家は大丈夫かと急に心配になってきた。
 駅を降りた。
 以前の景色と同じだった。
「空襲を免れたようだな」
 安堵して、坂を下って行った。
 空は、茜色に染まり始めていた。
 私は、実家の玄関を開けた。
「ただいま帰りました」
 両親、兄弟が走ってきた。
「兄さん、おかえりなさい」
「孝明、ご苦労だったな」
 無口の父が、労いの言葉をかけてきた。
 母が、手拭いで目を拭っていた。
 私は、目で兄弟を追った。
 一人も欠けることなく、八人が揃っていた。
「よく皆無事だったな」
 久しぶりの家族団らんの夕食。
「孝明、せっかく帰ってきたのにこんな料理で申し訳ない」
 母が、おじやの入った茶碗を前にした私に向かって言った。
「兵舎でもおじややすいとんでした。終戦近くなった時は、毎日のようにサツマイモばかりでしたよ」
「それは、大変だったな」
 父が言った。
「お店の方はどうなの?」
「義男が一人前になったんで助かってはいるが、こんな時代だ、仕事はめっきり減ったよ」
「兄さんも立派な表具師になったんだな」
 兄の英雄が、笑みをこぼした。
「孝明もすっかりたくましくなったな」
 英雄が言った。
「みんなも見ないうちにそれぞれ大きくなたな」
 私は、芋の入ったおじやを食べ終えて、母に聞いた。
「母さん、いつもどんなものを食べているの?」
「そうね。おじや以外にすいとんとかサツマイモだね。なかなかお米は、手に入らないよ」
「お母さんは時々着物を持って、農家に芋や野菜と交換してもらいに行ってるのよ」
 姉妹の一番上の文子が言った。
「こんなことみんなやっているから、気にしない、気にしない」
 母は、猛々しかった。
 そうは言っても、両親がこの八人の子供たちを毎日三食食べさせるには、さぞ大変だっただろう。さらに、私が一人増えるのだからと思うと、一日も早く勤めなければと気が急いだ。
 食事を終えてからしばらくの間、弟や妹とに兵隊の話をした。
「孝明、英雄がお風呂から出たから、すぐにお入り」
 久しぶりにゆっくりと風呂に入ることができた。
 空襲におびえることはなくなったのに、いろいろなことが気になって、なかなか寝付かれなかった。
「物資不足により私たちの暮らしは戦中より、一層苦しくなったようだ。みんな苦労していたんだろうな」
 両親や兄弟たちの瘦せた身体に次だらけの服装から、私は戦争に負けたという悲劇を痛感した。
「空襲によって工場が破壊され、数多くの死傷者がでて、今では、貧困な国となってしまった。かつては、アジア唯一の先進国と呼ばれていた日本の姿は影形もなくなってしまった。私たちの国はこれからどうなるんだろうか」
 そんな心配をしているうちに寝入った。

 私は翌日から職探しに出かけた。
 私の住んでいる町よりはるかに大きい隣町へ行った。
 空襲の傷跡があちらこちらに残っていた。 
 バラックが、数多く建っている。
 闇市が並んでいる。
 昨日兄から聞いた話によると、
「食糧や生活必需品などは引き続き配給制が取られていたが、遅配や欠配が続き、都市部では餓死者が出ている。人々は正規の配給量だけでは飢え、特に都市部の人々は、農村部への買い出しに行ったり、闇市で法外な値段で入手したりするほかになかった。
 また、衣類は物々交換の際に食糧と交換された、破れても丁寧に繕いながら着用するのが普通の事だ。うちの母親も衣類を持って時々農家に行っているとさっき言っていたね」
 私は、兄から聞いた闇市というのを初めて見た。
 国は、この食糧危機に対して、GHQに食糧輸入の承認を求め、昭和二十一年二月に米軍の余剰食糧である小麦粉が引き渡された。
 これを機に世界各国やユニセフ、国際NGOから様々な援助が行われ、私たちの国は、危機的状況を回避することができたことを、私はだいぶ後で知った。。

 仕事は見つからなかった。
「この辺りでは仕事はないよ」
 どこに行ってもこのように言われた。
 父に相談した。
「この辺じゃあやっぱりないのか。孝明、東京に行ってみるか。大崎に叔父さんがいるから、しばらくそこに世話になって探したらどうかな。手紙を書いてやるからそれを持っていけ」
 東京の大崎にいる親戚を頼った。
 綿屋を営んでいた。
「よくきたな。せっかくだからうちの店を手伝ってもらえないか。四畳半の部屋が空いているから住み込みでどうだ」
 叔父の親切に甘えることにした。
「孝明、これからは大学を出ていないといい職につけんぞ。働きながら夜学に通ったらどうか」
 私は何校か受験した結果、N大学の商学部に入学することにした。
 仕事を終えてからの受講は、夕食を取ってからだったので、眠気との戦いだった。
 兵隊の時に比べれば、楽なもんで、たやすく乗り越えることができた。
 やはり仕事をしながら大学を卒業するのは、そう簡単なものではなかった。
 ほっとしていた時、父から見合いの話があるから、早く帰って来いという手紙が届いた。
 
 早速、実家に帰った。
 隣の町内の家の娘で、三歳年下だった。
 お互いに正面から顔を一度も見ることなく、結婚が決まった。
 私の希望で、大学を卒業してから、式を挙げることになった。
 再び、大崎に戻った。
 そして、並みの成績でN大学を卒業して故郷に戻って、すぐに式を挙げた。
 新居は、隣の町内にあった借家に決めた。
 仕事は、以前勤めていた布団屋に再就職した。
 まだ、衣食住事情は悪かったが、なんとか暮らしていけた。
 翌年、長男が生まれた。
 初めての子は、可愛かった。
 暇な時はおっかなびっくり抱いて、子守をした。
 ある時、子に発疹が出た。
「あなた、この子熱があるわ」
 妻に言われて、おでこを触ってみると高熱だ。
 すぐに近くの病院に連れて行った。
 医者は、麻疹だと言った。
 今の日本には良い薬はないと言われた。
 私たちは、嘆き悲しんだ。
 一歳にもならずに、子はこの世を去ってしまった。
 葬式には、実家が世話になっている寺の和尚に来てもらい、読経を頼んだ。
 それがすむと、泣き止まぬ妻と私は、息子の亡骸をリヤカーに乗せて、火葬場まで運んだ。
 小雨の降る昼下がりだった。 
 小さなお骨を見て、妻は泣き崩れた。
 私も嗚咽した。
 未だ息子の苦しんで泣いている姿を忘れることができない昭和二十五年三月の辛い出来事だった。

 昭和二十六年七月、再び男の子を授かった。
 私が、二十八歳の時だった。
 やはり、食糧事情のせいか、身体の弱い子に育ち、度々熱を出した。
 たまに、夜間に熱を出した。
 その時は、かかり付けの医者を起こして、頼み込んで診察してもらうこともあった。
 私たちは、この子を絶対に死なせないよう大事に育てた。
 その後、子供は、大病を患って大病院に通うことになった。
 小学四年になった時、医者から完治したと言われたと妻から聞いた時には、本当にうれしかった。

 世の中は、落ちつきを取り戻すと、食料品の生産量も増加し、厳しい統制下に置かれた物品も市場に出まわるようになった。
 そのため統制する必要もなくなり、再び自由に物品を売買することができるようになった。
 昭和三十一年の経済白書には「もはや戦後ではない」と記され、日本は短期間に驚異的な復興をとげた。
 この時、私は三十三歳になっていた。
 やっと戦争は終わったと感慨深い年でもあった。

 終戦から三十八年の昭和五十八年の秋、第一回戦友会が開催された。
 六十人を超える人たちが集まった。
 私たちは、鈴鹿の青春時代の思い出話にいつまでも花を咲かせた。
 そして、この会は数回開催されたが、人数も十人を割ってしまい戦友会は幕を閉じた。

                                 了
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先生を殺したのは私です 四(最終回)

2023-04-02 08:41:26 | 小説
 私と久米は東京に戻って、早速、都庁に佐川知美を訪ねた。
「すみません、お仕事中にお伺いして」と久米が言って、私たちは頭を下げた。
「忙しいので、手短にお願いします」
「あなたは久保志保さんをご存じですか?」と久米が口火を切った。
「はい、同級生で同じ法学部でした。一年生の時は、同じクラスでしたが、そんなに親しくはありませんでした」
「彼女が自殺したのを知っていましたか」
「旅行中、田所さんから聞いて驚きました」
「久保志保さんと山本教授との関係については知っていましたか」
「それも田所さんから聞きました」
「あなたは、田所さんをよくご存じですか」
「生協でお会いするぐらいでした。ツアーでお会いした時には、お互いに驚きましたよ」
 佐川知美が時計を見て、そわそわし始めたので、私たちは二三の質問をしてから、都庁を後にした。
「藤沢さん、佐川知美は白ですね」
「白に間違いないでしょう」
「田所正は、明日十時に自宅で待っているとのことです」
 久米が、すでに田所にアポイントを取っていた。

 十時に、東京メトロの豊洲駅から十五分ほど歩いて、田所正のマンションに私と久米は入った。
「たびたび、ご苦労様です」田所正が、扉を開けていって、リビングに私たちを通した。
「あなたは、久保志保さんをご存じですか」と久米が単刀直入に聞いた。
「ええ、よく知ってますよ」
「亡くなられたことも」
「はい」
「久保志保さんとあなたの関係ですが、どのような関係でしたか」
「彼女が、M大学に合格して、大分から上京してきたんです。生協で、彼女が困ったようなそぶりをしたときに、声をかけてからの付き合いになりました。変な付き合いではありませんよ、刑事さん。当然ですが、彼女は、都会のことを全然知らなかったので、それからというもの、よく相談にのってあげました」
「ところで、あなたは久保さんが亡くなった原因をご存知ですか」
「彼女は、山本先生の子を宿したんです。それなのに・・・。そのことを知った先生は、それからというもの、彼女を冷たくあしらい、袖にしたんです。彼女は、生きる気力を失い、私が何をいっても聞く耳を持たずに、とうとう死を選んでしまいました」
「以前、お聞きしたと思いますが、あなたは、山本さんが、殺害された時、どこにいましたか」
 田所正は、しばらく考え込んでから、意を決した表情で話し始めた。
「伊藤恵さんから十時にホテルの裏庭で山本先生と話をすると連絡を受けていたので、その時間に裏庭の木立の陰で二人の会話を聞いていました」田所は、これ以上話したほうが良いか躊躇しているようだった。
「田所さん、あなたが真実を語ることで、きっと他の人の苦しみを開放することになると思いますよ」
 田所正が、ゆっくりと慎重にと答え始めた。
「山本先生が、ばかばかしい帰ると言って話を切り上げ、ホテルに戻ろうとした時、運転手の山田さんが、後ろから先生の首をしめたんです」
「あなたは、山田直人さんが、山本一さんの首を絞めているところを見ていたんですね」
「はい」
「それからどうされましたか」
「その時、いつの間にか、末永喜美子さんが、私の近くに来ていて、先生のほうを呆然と見て立ちすくんでいました。驚きました。彼女は、私に気づき振り返ったところ、山田さんが、金属バッタを持って末永さんの所に走り寄り、後ろから彼女の頭を・・」
 田所正は、俯いた。
「彼女の後ろから、後頭部を殴打したんですね」
「はい、その通りです」
 久米は、話を続けるよう促した。
「山田さんと伊藤さんが、私に気づいてそばまでやってきて、私に頭を下げました。そして、山田さんが、二人を殺したのは私だと言いました」
「死体を遺棄することは考えなかったんですか」
「私は、気が動転してそのようなことは思いつきませんでした」
「それから、どうしました」
「山田さんが、私と伊藤さんにホテルに戻るように執拗にいってきたので、山田さんのいう通りに部屋に戻りました。それ以降のことはわかりません」
「そうですか」
 私たちは、聞き取りを終わりにして田所正のマンションを後にした。
 エントランスを出た所で、久米は、安田への報告を終え、そして麻生係長へ電話した。
「久米さん、田所の話、どう思います?」
「何か、わざとらしいところがあるように感じたのですが」
「そうですか」
「藤沢さん、明日、大分に帰って来いと安田がいってますので、私は戻ります。藤沢さんも是非同伴お願いしたいのですが、いいですか」
「分かりました。いいですよ」

 午後の便で、私たちは、大分に戻った。
 空港の出口で、安田が、私と久米を待ち受けていた。
 安田が私の所に駆け付けてきた。
「藤沢さん、たびたびご苦労様です」
「安田さん、何か進展はありましたか」
 本部についてからという答えが戻ってきた。
 私たちは、県警本部でこれからの捜査方針について、打ち合わせをした。
 安田から、司法解剖の結果とその考察について、説明を受けた。 
「山本一の解剖結果から呼吸気道の閉塞が認められなかったことや、首周りに吉川線(被害者が紐を除こうとして、あるいは,締め付けをゆるめようとして,頸に爪を立てれば表皮剝脱が生じる)がなかったことで、直接の死因は金属バット等の殴打による脳挫傷と結論付けられました」
「とすると、山本一さんは、亡くなった後から首を絞められたことになるかもしれませんね」と私は言った。
「そう考えるのが、必然かと思います」
「なにがなんだかわからなくなりました」久米が、頭を抱える真似をした。
「待てよ。それが事実なら、田所正が、山田直人が山本さんの首を絞めているのを見たというのは、おかしくないか」
「田所のいうことが本当なら、絞殺してから金属バットで殴打しなければなりません。司法解剖の結果は、その逆になります。田所は、嘘をついているんです」
「なぜ、嘘をついているんでしょうか。なぜ、死んだ人間を後からロープで首を絞めたりするんでしょうか。伊藤恵も山田直人も絞殺したといってます。これも噓をついていることになります。一体、犯人は、誰なんでしょうか」安田が私に問いかけてきた。
「安田さん、当初、あなたは、山本さんの死因が、絞殺によるものと考えられるとツアー客に説明されました。それを聞いて信じた者とそれを利用したもの、どちらにしても伊藤恵、山田直人そして、田所正の三人は、嘘をついているんです。バットで殴打して、山本さんと末永さんを殺害した人間と、その後、山本さんの死体にロープをかけた人間は、別人のはずです」
「なるほど、分かりました。明日から伊藤恵と山田直人の取り調べを再度行います」
 明日からの伊藤恵と山田直人の取り調べの策を打ち合わせして、私は本部を後にして、久米が予約してくれた近くのビジネスホテルへ入った。
 
 久米は、アパートの近くの行きつけの中華料理屋に入って、チャーハンと餃子そして、生ビールを頼んだ。
(田所正が、噓をついているとすると、山本一を金属バットで殺害した事のカムフラージュになる。伊藤恵と山田直人は、ロープで絞殺したと自白しているが、伊藤恵が絞殺することは不可能。そうすると、ロープで山田直人が、すで山本一をに死んでいた山本一の首をロープで絞めつけたか。なんでそのようなことをしなければならなかった。その様子を田所正が見ていた。金属バットは、山田直人がロープと一緒にもってきていたのか。それとも、山田直人が来る前に、すでに、伊藤恵が、金属バットで二人を殺害していた。小柄でひ弱な伊藤恵が、続けて二人を金属バットで殴打できるだろうか。特に、百八十センチの背の高い山本一を百五十センチそこそこの伊藤恵が、一打で殺害するのは、いやソフトボールなどの経験があれば、いやあの体格ではありえないとすると、田所か、山田に容疑者は絞られるだろう)
 餃子とビールそして、チャーハンがテーブルに置かれたので、食べることに専念した。

 再び、伊藤恵の取り調べが、朝九時から十二時まで行われた。
 私は、取調室の外から、伊藤恵の一部始終を観察した。
 今回は、安田が、伊藤恵の前に座った。
 久米が、供述調書の作成を担当した。
 安田の取り調べが始まった。
「伊藤恵さん、この度の山本一さんおよび末永喜美子さんの殺害容疑について、取り調べを始めます。先日も言いましたがが、憲法三十八条一項及び刑事訴訟法第三十一条一項により、あなたには、黙秘する権利があります。よろしいですね」
「はい」
「あなたに久保志保さんという妹さんがいたことを、先日聞きしましたが、ご両親とかほかの身内の方は、今どうされていますか」
「志保以外には、姉妹や兄弟はいません。両親は、私が中学生の時に、交通事故で亡くなりました」
「そうですか。どのような事故だったんですか」
「ダンプの運転手が、居眠り運転で対向車線を乗り越えて、父の運転する車に正面衝突したんです。父も母も即死でした」
「それは、辛かったでしょう」安田が、声を落とした。
 しばらくの間、重い空気が、部屋をおおった。
「その後、あなた方は、どうされたんですか」
「刑事さんもご存じの観光バスの運転手の山田直人さんに、私と志保は、引き取られました」
「山田さんとはどのような関係だったんですか」
「母の弟です」
「山田さんは、あなたと志保さんの親代わりだったんですね」
「はい、志保を東京の大学まで行かせてくれましたし、私の就職の世話もしてくれました。山田さんは、私たちの恩人です」
「伊藤さん、今のお仕事はどうです」
「どうといいますと」
「仕事に不満などありませんか。うるさいお客さんやいやらしい客がいたり、仕事のわりに給料が安いとかで、辞めたいと思うことなどありませんか」
「辞めたいなんて、とんでもない。叔父の顔をつぶすようなことなんかできません」
「そうですか。ところで、山本一さんと末永喜美子さんの殺害の件ですが、先日話してくれたことを確認させてください」
「刑事さん、私が、ふたりを殺したんです。信用してください」
「まあそう言わずに、聞いてください。あなたは、山本一さんの部屋に電話して、話したいことがあるので、十時にホテルの裏庭に一人で来てくれといって、彼を裏庭に呼び出したんですね」
「そのとおりです」
「話したいことって、なんでしたか」
「妹の久保志保が、自殺した事に対して、素直に責任を認めて謝罪してもらうことでした」
「もし、山本一さんがそれを認めなかったらどうするつもりでしたか」
「殺すつもりでした」
「どうやってですか」
「金属バットで」
「山本一さんを呼び出したことを、他のだれかに話しましたか」
「いいえ」
「電話は、どこでしましたか」
「私の部屋の電話からしました」
「山本一さんの部屋に電話したら、末永喜美子さんに聞かれてしまうと思わなかったのですか」
「ええ」という返事だけであった。
「末永喜美子さんに知られて、彼女も来ると思わなかったのですか」
「来るかもしれないと思いました」
「そう思うでしょうね。彼女も一緒に来たらどうするつもりでしたか」
「別に彼女に聞かれても問題ないと思っていましたので、私は、山本一さんに先ほど言ったことを言うだけでした。ただ、彼に謝罪してほしかっただけなのです」
「それなのに、なぜ彼女を殺害したのですか」
 伊藤恵は、うつむいてしまった。
「話を変えます。あなたは、裏庭には何時から何時までいましたか」
「十時から・・」
「十時ジャストですか」
「たぶんそうです」
「山本一さんは、来てましたか」
 伊藤恵は、しばらく考えてから言った。
「はい」
「その時、末永喜美子さんは、いましたか」
「ええ、いました」
「それから、あなたはどうしましたか」
「お話ししたように、山本一さんが妹の自殺の原因であることを認めて、謝罪してもらうように言いました」
「その時、末永喜美子さんは、どうしていましたか」
 伊藤恵は、黙ってしまった。
 安田は、腕時計を見た。
「伊藤さん、今日はこれで終わりにしますが、明日また九時から始めます」
 久米が、伊藤恵の前に供述調書を差し出した。
「内容ご確認のうえ、署名捺印をお願いします」
「拇印で結構です」

 伊藤恵が、取調室を出て行ったのを見届けてから、私は部屋に入った。
「ご苦労様でした」
「藤沢さん、伊藤恵の供述、どう思われますか」と安田が、聞いてきた。
「話につじつまの合わないようなところがあります。まだ、本当のことは言っていないのではないでしょうか」
「私もそう思います。久米、明日は、二人を殺害した状況について、追及してくれ」
 続いて、昼をはさんで、山田直人の取り調べが、午後二時から始まった。
 取り調べは、久米が行い、安田が供述調書の作成にまわった。
「山田直人さん、この度の山本一さんおよび末永喜美子さんの殺害容疑について、取り調べを始めます。先日も言いましたがが、憲法三十八条一項及び刑事訴訟法第三十一条一項により、あなたには、都合の悪いことには、黙秘する権利があります。よろしいですね」
「はい、承知致しました」
「あなたは、今の自分の仕事について、どう思っていますか」
「私は、運転が大好きなので、合っていると思っています」
「不満はないのですか」
「刑事さんだって、多少はあるでしょう。私だって多少はありますよ」
「伊藤恵さんと久保志保さんが、ご両親を交通事故で亡くした後、あなたは二人を引き取り育てられたそうですね」
「はい。二人の母親が私の姉でした。姉には小さいころから面倒を見てもらっていましたので、恩返しのつもりで」
「そうですか。あなたの奥さんは、ふたりを引き取ることについては、どういわれましたか」
「私たちには、子供がいませんでしたので、いっぺんに二人もできるともろ手を挙げて賛成してくれました」
「でも、他人の子供二人を育てるには、いろいろご苦労されたんでしょう」
「今、思えば、たいしたことではありません。志保が、自殺などしなければ」
「伊藤恵さんと久保志保さんは、どのような性格でしたか」
「恵は、志保の勉強をよく見てました。面倒見のいいやさしい子でした。彼女は、中学も高校も成績が優秀で、全校生のなかでいつも十番以内でした。高校の先生もQ大学を受験するよう勧めてくれたのですが、本人は固辞しました。私と家内は、お金のことなら心配ないから受験しろと勧めたたのですが、受けませんでした。私たちに気を使ったのでしょう。ただ、恵は、志保には、自分ができなかったことをさせたいと思っていたようです。恵は、高校を卒業して、働きたいというので、私の勤めていたKHSに推薦入社しました。彼女は、無駄遣いを一切せずに、いや、それどころか、衣服やバッグなど擦り切れるまで使ってました。志保の学費のために、給料のほとんどを貯金にまわしていました。志保が、M大学に合格した時は、飛び上がって喜んでました」
「志保さんの性格はどうですか」と久米は、山田直人が一呼吸置いたのを見ていった。
「志保は、多少気の弱いところがありました。恵と同じで、いやそれ以上に優秀でしたので、受験相談では、M大学の合格ラインに入っているから受けてみろと言われました。私は、あの超難関のM大学を受けられることに、さすがに驚きました。受かった時は、将来検事になるんだと言ってました。彼女は、頭は良かったのですが、一途な性格が、あのようなことに」
 山田は、話すのをやめた。
「ところで、あなたは、伊藤さんが、山本一さんに電話をしているのを聞いたと言われてましたが、どこで聞いてましたか」
 山田直人は、答えなかった。
「山田さん、どうされました。答えたくないようですので、次に行きます。伊藤さんが、山田さんを呼び出して、彼女が何をすると思いましたか」
「志保の恨みを晴らすために、彼を殺すのではないかと」
「なぜ、バスに置いてあった金属バットとロープを持って行ったのですか」
「恵一人では、山田さんを殺すことはできないと、それどころか、彼に返り討ちにされてしまうのではないかと、心配になり金属バットとロープを持っていきました」
「現場の裏庭には、何時に着きましたか」
「十時十分ごろだと思います」
「なぜ、十時十分になったのですか」
「十時前には着こうと思っていたんですけど、出かける前にちょうど会社から電話がかかってきたものですから、遅くなってしまいました」
「おかしいですね。先日、あなたは、十時ちょっと前に伊藤さんが部屋を出ていくのを見て後をつけて行ったと言われました。山田さん、どちらが正しいのですか」
 山田直人は、俯いて黙ってしまった。
「今日は、これで終わりにします」久米が、時計を見ながら言った。
 安田が、山田の前に供述調書を置いた。
「内容を確認して、間違いがなければ署名捺印してください」

 山田直人が、部屋を出て行ったのを確認して、私は部屋に入った。
「藤沢さん、山田の言っていることに一貫性がありません」
「そうですね。まず、伊藤恵が、山本一に会う時間と場所をどうして、山田が知ったのか、十分遅れたのが事実としたら、まず、KHSに当日夜十時前に山田に電話を入れた社員がいるか確認する必要があります」
「久米、すぐKHSに電話して、確認してくれ」
「はい」といって、部屋の外に出て、久米は電話をして、十分もたたないうち部屋に戻ってきた。
「やはり、十時前に電話をした社員がいました。通信記録を確認してもらったら十時十分に終わったと言ってました」
「そうすると、山田は、伊藤恵の後をつけたのではなく、一人で裏庭に遅れて行ったのか」
 安田が言った。
「伊藤恵は、十時丁度に裏庭に着いたと言ってましたね。この十分間、ふたりに一体何があったんでしょうか」私はふたりに疑問を投げかけた。
「そういえば、伊藤恵は、山本一のほうが先に来ていたと言ってました」と久米。
「山本一と末永喜美子も一緒だったとも言っていました」と安田は、思い出したように言った。
「裏庭に着いた早い順は、まず山本一と末永喜美子が十時前に。次に、伊藤恵が十時ジャスト。そして、山田直人が、十時十分後ですか」と私は、言ってから
「山本一と末永喜美子は、何時ごろ来ていたんでしょうか」と付け加えた。
「それが、まだ分からないんです」
「しかし、伊藤恵と山田直人の二人からは、田所正がいたという話は一切出てこなかったのは、おかしくありませんか」と久米が、いった。
「田所もどうして、十時に裏庭の事を知ったんだろう」と安田が、頭を傾けた。
「伊藤恵が、山田と田所に事前に連絡していたんじゃないかしら」と私は、思いつきで言った。
「藤沢さん、その可能性はありますよ。山田と田所には、妹の志保が世話になっていましたし、当然、二人は、山本一を憎んでいたでしょう」と久米が、いった。
「そうすると、田所は、伊藤恵よりも早く来ていたと考えられます。伊藤恵が、来る前に、田所は、山本一に会っていたと考えられます」
「その時、何が、あったんでしょうか。今後は、十時前と、十時からの十分直後の間に何が起こったかを中心に、伊藤恵と山田直人を取り調べましょう」と安田が、吹っ切れた様子でいった。

 次の日も伊藤恵の取り調べが、昨日に引き続き、朝九時から十二時まで行われた。
 安田が、話し始めた。
「よく眠れました」
「なかなか眠れませんでした」
「そうですか。食事はどうですか」
「もっとまずいかと思っていましたが、まあまあでした」
「ご主人のお仕事は」
「Fスーパーマーケットに勤めています」
「やさしそうな旦那さんですね」
「まあ」
「伊藤さんもこのような状態をいつまでも続けるのは、耐えられないでしょうから、事件当日のことを正直にありのままを言ってください」
「伊藤さんは、十時に裏庭に着いてから、どのくらいそこにいましたか」
「二十分ぐらいです」
「その間に、山本一さんや末永喜美子さん以外にどなたか見かけませんでしたか」
「誰も見ませんでした。どうしてですか」
「実は、あの田所さんと山田直人もその時間にあなたに会っていると言っているんです」
「そんなはずありません」
「どうしてですか」
 伊藤恵は、覚悟を決めたようだった。
「実は、私が裏庭に着いたときに、山本一さんと末永喜美子さんが、数メートルほど離れて、倒れていました。近寄ってみるとすでに息が途絶えていました。死んでいると思い、怖くてホテルの中へ駆け込みました」
「二人は、死んでいるとあなたは、思ったんですね。殺されたとは思いませんでしたか」
「はい、誰かに殺されたと思いました。二人とも頭から血を流していました」
「犯人は、誰だと思いましたか」
「私が、裏庭に山本一さんを呼び出すことを知っていたのは、田所さんと山田さんの二人だけなので、どちらかだと思いました」
「本当は、どちらだと思いましたか」
「山田さんだと思いました」
「だから、山田さんをかばおうとあなたが殺害したと証言したんですね」
 伊藤恵が、頷いた。
「分かりました。今日はこれで終わります」と安田が、言ってから、久米のほうに合図をした。
 久米は、先日同様に供述調書を伊藤恵の前に置いた。
 伊藤恵は、今回に限って、丹念に目を通してから署名捺印した。

 伊藤恵が、部屋を出て行ったのを見届けた私は、安田と久米のいる取調室に入った。
「藤沢さん、今回の伊藤恵の供述は、どう思われますか」と安田が、聞いてきた。
「信憑性はかなりあると思います」
「私も本当のことを言っていると思いました」
「久米、午後の山田直人の取り調べ、頼むぞ」
「はい。伊藤恵が、言っていたことを山田に突き付けてみます」 
 昨日と同じように、昼をはさんで、山田直人の取り調べが、午後二時から十七時まで行われた。
 久米も、雑談から入った。
「良く寝れましたか」
「寝れるわけないでしょう」
「そうですよね、正直に話していただいて、早く取り調べを終えませんか。伊藤恵さんは、先ほど正直にすべてを話してくれました」
 山田は、驚いた。
「どんなことを言ったんですか」
「彼女は、呼び出した場所に十時きっかりに着いたそうです。着いた時には、山本一さんも末永喜美子さんも頭から血を流して倒れていたと、それを見て、怖くてすぐにホテルに駆け込んだそうです」
「えっ、そうすると恵は、ふたりとも殺してはいないのですね」
 山田の顔に安堵の色が見えた。
「そうです。だからあなたも正直に本当のことを言ってもらえませんか」
「分かりました」といって、話し始めた。
「私が着いた時は、おそらく十時十分ぐらいだと思います。山本一さんが、頭から血を流して倒れていました。それを見て、きっと恵が、彼を殺したととっさに思いました。恵が殺人犯で捕まらないように、私は、持ってきたロープで山本一さんの首を絞めました」
「あなたは、恵さんの身代わりになろうとしたんですね」
「はい」
「ところで、末永喜美子さんのことはどうされたんですか」
「末永喜美子さんが、殺されているのには気づきませんでしたので、何もしてません」
「恵さんから聞いたのですが、恵さんが山本一さんに会うということをあなたと田所さんに事前に連絡していたと」
「はい、私には、一時間前ぐらいに電話連絡してきました」
「そうですか」
「それを聞いて、どう思いましたか」
「恵一人では、かなう相手ではないと思い、バスに常備されている非常時用のロープを持っていきました」 
「恵さんに何かあったら、山本一さんを殺すつもりで」
「そうです。志保を自殺まで追い込んだ憎き男です」
「ロープは、どうしましたか」
「自宅の物置に隠しました」
「明日、立ち会ってください」
「はい」
 久米が、安田を見た。
 安田は、頷いた。
「今日は、これで終わります」
 しばらくして、安田は、席を立って、供述調書を山田直人の前に置いて、署名捺印を求めた。
 山田直人は、ほっとした面持ちで、取調室を出て行った。
「藤沢さん、これで田所正で間違いないですね」と安田が、取調室に入ってきたばかりの私にいった。
「はい」
 安田は笑みを浮かべて私の顔を窺った。
 二時間後、麻生係長から久米に電話が入った。
「世田谷署の麻生です。久米刑事、田所正が、自宅にいないんだ。逃走したかもしれないので、緊急配備して捜査中だ」
 私と安田もまさかと驚いた。
 私と久米は、大分空港発七時四十五分発JAL662便に乗った。
 羽田までの一時間三十分のフライトは、私にとって長かった。
 羽田でタクシーに乗った。
 世田谷署では、麻生係長が、私たちを待っていた。
「久米刑事、藤沢さん。申し訳ない」
「とんでもない、係長のせいではありません。田所は、一体どこに逃げたんだろうか」
「昨日、久米刑事から電話を受けてすぐに刑事二人を田所のマンションに行かせたんだが、田所はすでにいなかった。部屋の中に入って、昨日から何か手掛かりになるようなものがないか捜査している」
「私も、これから田所のマンションに行ってきます。藤沢さんもいきませんか?」
「はい」
 私と久米は、休むことなく麻生係長が手配してくれた車に乗って、田所の住んでいた豊洲のマンションに向かった。
「藤沢さん、田所は逃げたんでしょうか」
「そうとしか考えられません。他になにか」
「いえ、別になんでもありません」
 私と久米が会話を交わしている間に、車は、田所のマンションに着いた。
 部屋に入った。
 刑事と鑑識たち数人が、所狭しと、いろいろ調べまわっていた。
「ご苦労様です」と久米は彼らに挨拶して、刑事の一人に何か見つかったかと聞いたが、めぼしいものは見つかっていないとの返事だった。
 私が部屋の中を捜査し始めてから、三十分ぐらい過ぎたころ、田所の手帳数冊を見つけた。
 私は、手帳をめくった。
「久米さん、これを見てください」私は、久米に久保志保が自殺した年の手帳に書かれていたページを見せた。
「藤沢さん、M大学の山村事務長が危ないです」
 先ほど、車でここまで送ってくれた刑事に理由を話して、緊急でM大学へ走ってもらった。
 M大学の事務棟の前で降ろしてもらい、その刑事も伴って、事務室に入った。
 事務の女性が、カウンター前に出てきて、
「先日の刑事さん、何か御用ですか」と久米に訊ねた。
「山村さんは、いませんか」
「先ほど、以前、生協に勤めていた田所さんが来て、二人で事務室を出て行きました」
「どこに行ったか分かりませんか」
「さあ・・。そういえば、田所さんが、静かなところへ行きませんかと言ってましたので、校内では、学びの森ぐらいかしら」
「その学びの森って、どこですか」久米の声が、室内に響いた。
 女性は、すぐに校内地図を持ってきて、赤ペンで印をつけた。
 私たち三人は、彼女に礼を言って、学びの森へと走った。
「藤沢さん、山村さんが・・」久米が、山村が倒れているのを見つけた。
「遅かったですか」私は、腹部から出血して倒れている山村の脈を取った。
「まだ息もあります。荒井刑事、至急、救急車を呼んでくれませんか」
「はい」
「久米さん、理事長が危ない。荒井さん、後を頼みます」と言って、私と久米は走って、校内の道路に出た。
 久米が通りがかりの学生に理事長室の場所を聞いて、A棟の五階へと向かった。
 さすがに、私より久米のほうが早い。
「久米さん、私にかまわず急いでください」
 久米の後、理事長室の扉前にたどり着いた。
 室内からなんの音も聞こえない。
 私は、身構えながらゆっくりと扉を開けた。
「久米さん、大丈夫ですか」
 久米は、安心した様子で私を見た。
「藤沢さん、田所正を現行犯逮捕しました」
 久米は、すでに田所に手錠をかけていた。
 田所の背広には、血が飛び散っていた。
「藤沢さん、理事長を見てやってください」
 うずくまって右腕を抑えている郷原のそばで、女性の秘書が、立ちすくんだいた。
 私は、郷原のネクタイを外して、郷原の右腕に強く巻き付けた。
 そして、秘書に救急車を呼ぶようにと言った。
 久米は、麻生係長に田所正を現行犯逮捕したと連絡していた。

 翌日、羽田発八時五分JAL66一便にて、私と久米そして、荒井の応援を得て、田所正を大分へ連行した。
 空港ロビーには、安田たち大分県警本部から数人の刑事たちが、田所正の到着を待っていた。
「藤沢さん、荒井さん、久米。ご苦労様でした」と安田が私たちを労った。

 翌日の朝九時から、田所正の取り調べが始まった。
 久米は、供述調書を作成する席に腰をおろし、安田が、田所正の前に座った。
「田所さん、昨日は寝れましたか」
「いや」
「田所さん、これから取り調べする際に、あなたには憲法三十八条一項及び刑事訴訟法第三十一条一項により、都合の悪い時には黙秘する権利があります。承知ください」
「分かりました」
「あなたには、山村事務長および郷原理事長の殺人未遂と山本一さんと末永喜美子さんの殺人の容疑がかけられています。これからは、正直に真実を話してください。まず、山本一さんと末永喜美子さん殺害事件についてですが、あなたは十時にホテルの裏庭で伊藤恵さんが、山本一さんに会うことをどうして知りましたか」
「伊藤さんから直接聞きました」
「いつ、聞きましたか」
「一時間前ぐらい、伊藤さんから電話をもらいました」
「なぜ、伊藤さんは、あなたに連絡したんでしょうか」
「伊藤さんの妹の志保さんが自殺した時に、私が伊藤さんにそのことを連絡したという経緯があったからではないかと思います」
「あなたは、伊藤さんにその自殺について、詳細に話されましたか」
「ええ、私は、志保さんから聞いた話をすべて伝えました」
「具体的には、どのようなことですか」
「この間、一泊で水上温泉に山本さんと遊びに行ってきたと嬉しそうに言ってたり、山本一さんとは、奥さんと別れてから結婚すると約束したとか、そして、内緒だけれどと言って、山本さんの赤ちゃんができたと喜んでいたこと、しかし、赤ちゃんができたと彼に言ったら、急に冷たくなって、結婚の話はなかったことにしようと別れ話を持ち掛けてきたと私に泣いて、彼を許せないと訴えていました。そのようなことを伊藤恵さんに電話で伝えました」
「そうですか。ところで、先日、あなたは、山本さんが殺害された時、伊藤恵さんから山本先生と話を十時時にホテルの裏庭ですると連絡を受けていたので、裏庭の木立の陰で二人の会話を聞いていたと言われていましたが、あなたは、裏庭には何時にきていましたか」
「十時ちょっと前ぐらいでした」
「伊藤さんは、十時ジャストに来たらすでに山本一さんと末永喜美子さんは、頭から血を流して倒れていたのを見たと証言しています。ふたりを殺害したのはあなたですね」
 田所は、黙り込んでしまった。
「十時前、あなたと山本一さんと一体何があったんですか」
 安田が、久米の所に行った。
 そして、二言三言交わしてから安田は、席に戻った。
「田所さん、これで終わりにしますが、また午後二時から再開します」と久米が言った。
 久米が供述調書を田所の前において、確認の上、署名捺印をするよう求めた。

 私は田所が去った取調室に入って、久米と安田と三人で打ち合わせた。
「彼が口を割るのは、時間の問題ですね」と安田が、言った。
「そうですね。彼の動機は、何だたんでしょう」と私は、二人に疑問を投げかけた。
「もちろん、久保志保を自殺に追い込んだ山本一への恨みからですよ」とすぐに久米が答えた。
「それだけでしょうか」と私は再び問うた。
「藤沢さん、それ以外に何があると考えているんですか」と安田が言った。
「例えば、久保志保の自殺の件で、脅していたとかは考えられませんか」
「金を得る目的の恐喝ですか」と久米が唸った。
「午後からの取り調べは、怨恨と恐喝の両面から攻めてみます」と安田が、言った。
「そうしよう。藤沢さん、食事に行きませんか」
 私たち三人は、昼食を取りに取調室をでた。

 午後二時からの再び、安田による取り調べが始まった。
「田所さん、昼めしはどうでしたか」
「まあまあでした」
「田所さん、あなたの出身はどちらですか」
「生まれは、九州の熊本です」
「東京にはいつごろ来たんですか」
「大学に入ってからです」
「どちらの大学ですか」
「M大学です、ただ、卒業はしていません、中退しました」
「どうして中退したのですか」
「研究室の女性助教授に恋をしてしまったんです。私は、彼女の才能を認めていました。私との関係を続けることは、彼女の将来にとって良くないと思い学校をやめました。それからいろいろ会社を転々として、M大学の生協に勤めることになったんです」
「その助教授は、数年後、T大学の教授になりましたが、すぐに病で亡くなったそうです」
「そうでしたか。あなたは、今まで結婚の経験はありましたか」
「一度もありません」
「ところで、久保さんが、山本一のことで何もかもあなたに話をしたのはなぜでしょうか。他人に、普通はなかなかそこまで話すことは、考えられないのです」
「この間もお話ししたように、大分の田舎から大都会に来て、頼る人もいなかったので、いつの間にか私を頼るようになったのではないかと思います。私も独り身でしたので、気楽に彼女をマンションに呼んで、食事をごちそうしたりよくしました。刑事さん、変な関係はありませんよ。私も熊本からこの東京に一人で来た身ですので、寂しさという孤独を痛いほど経験していますので、彼女の気持ちが、痛いほどよくわかるんです。私にとって、彼女は、妹いや、娘みたいな人だったんです」 
「分かりました」
「事件の話に戻ります。少なくとも十時ちょうどと、十時十分以降は、裏庭にあなたを見かけなかったと伊藤さんと山田さんが言っています。そして、十時ちょうどには、山本一さんと末永喜美子さんは、殺害されていた。伊藤さんが山本一さんを、裏庭に十時に呼び出したことを知っていたのは、あなたと山田さんの二人だけです。山田さんが、十時十分過ぎに裏庭に着いたことは確認されています。それ以降の行動も本人から聞き取っています。彼のいうことは、まず間違いはないと考えています。十時前に一体何があったんですか、田所さん」
 また、田所は、黙ってしまった。
「田所さん、久保志保さんの恨みを晴らしたんですから、もう正直にすべてを話したらどうですか。お姉さんの伊藤恵さんも親代わりの山田さんも、本当のことを知りたがっていますよ。皆さん、久保志保さんが好きだったんですから」
 田所正が、話始めた。
「山本一さんに偶然このバスツアー出会ったのには、驚きました。それだけでなく、志保さんの姉の伊藤恵さんや親代わりの山田さんにも会うなんて本当に偶然というのは恐ろしいものです。その出会いによって、私の山本一さんへの憎しみが、再燃しました。いや、以前より増しました。山本一さんが、女性を連れていたので、不倫と志保さんの自殺を公にしてやると脅しました。それは、湯布院の土産物の売っている通りの脇道でした。その時、藤沢さん夫婦がやってきて、どうしたのかと訊ねられたのです。その時、私は、彼に真実を明らかにしろといい寄っていたんです。ところが、彼は知らぬ存ぜずで私を無視しようとしました。その態度に、今まで以上に憤りを覚えました。そのようなとき、二泊目のUホテルの部屋に入ると、すぐに恵さんから電話がありました。十時にホテルの裏庭に山本一さんを呼び出し、志保の件で謝罪させるということでした」
 田所は、息を継いだ。
 しばらくして、安田が、先を促した。
「そしてどうしましたか」
「身体のでかい山本一さんが、恵さんに手荒なことをしたらと思い、街に出て、短めの金属バットを購入しました」
「そして、あなたは、十時前にホテルの裏庭の木の陰で待っていたんですね」
「そうです。十時二十分前ごろですか。そうしたら、すぐに山本一さんが、きょろきょろ辺りを見回しながらやってきました。事前に、現地を調べるために早く来たんだと思いました。そして、彼を呼び止めました」
 田所が、その時のやり取りについて話した。
「山本一さん、久保志保さんの自殺の件で、彼女の姉さんの伊藤恵さんに会ったら謝罪してください。謝罪しなければ、あなたのことを週刊誌に暴露しますよ。といったら、山本さんは、ばかばかしい帰ると言って話を切り上げ、ホテルに戻ろうとしたので、怒り浸透した私は持ってきたバットで彼の頭を思い切り殴りつけました。しばらくして、末永喜美子さんがやってきました。これはまずいと思い、彼女の後ろに回り込み、バットで彼女を殺害しました。そして、私はすぐに部屋に戻って、浴場に出かけました」といって、田所正は、俯いた。
「彼女の後ろから、後頭部を殴打したんですね」
「はい」
「あなたは、山田直人が、ロープで山本一さんを殺害したと証言しましたが、それも嘘ですか」
「ええ。山田さんには、本当に申しわかなかったです。刑事さんたちの目を山田さんに向けさせて、その間に山村事務長と郷原理事長に志保さんの自殺の真実を公にするように直談判するつもりでした」
「あなたは、その事務長の山村さんを殺害しようとしましたが、なぜですか」
「殺害しようとは思っていませんでした。山村事務長は、理事長の郷原からお金をもらって、山本一さんを不問にしようと画策したのですが、今でも遅くないから、真実を明らかにして、公にするよう迫ったんです。しかし、それには答えず、お金で解決しようと言ってきたので、かっとなって彼を刺してしまいました」
「あなたは、理事長の郷原さんを殺害しようとしましたね」
「いや、殺すつもりはありませんでした。郷原さんには、久保志保さんの件で、謝罪してもらうようお願いしました。ところが、そのようなことは、知らぬ存ぜぬの一点張りで取り付く島もなかったので、脅しで、ナイフをつけ付けたら、彼が抵抗したので刺してしまいました」
 田所の体は、震えがさらに激しくなった。
 しばらく、沈黙の時間を取った。
 安田は、田所正が落ち着きを戻したのを見て言った。
「田所さん、まだ何か言い足りないことがあれば、話してください」
「実は、私には、良一という一人息子がいました。息子は、M大学に一浪して入りました。現役の志保さんとは、同じ入学です。一浪しているから、志保さんより、一歳年上でした。いつの間にか、良一が、志保さんを家に連れてきました」
「ちょっと待ってください。あなたは、独身で、志保さんの相談相手になっていたといいましたよ」
「すいません、結婚も一度しています。嘘をついていました」
「いいから、続けなさい」
「良一は、志保さんに恋をしているようでした。家に来ても、二人で勉強したりゲームをしたりして楽しそうでした。私も、良一に彼女ができて、明るくなったので嬉しかった。それが、四年になり、ゼミが別々になると志保さんが家に来なくなったのです。良一は、以前に戻って、私に話をしなくなりました。何度も私は、志保さんと喧嘩でもしたのかとか、別れたのかと聞いたのですが、彼は何も答えてくれませんでした」
 田所は、苦し気な顔をした。
「休憩にしますか」
「いや、続けさせてください」
「分かりました」
 田所は、息を吐いた。
「しばらくして、志保さんが、山本一さんと付き合っていることを息子から聞き出しました。山本一さんは、将来教授になり、きっと志保さんを幸せにするだろうから、志保さんをすっぱりとあきらめるように何度も息子に言い聞かせました。私たちは、山本一さんは独身だと思っていたのですが、ところが、彼は、すでに結婚していたのです。しかし、それを知ったところで、私はどうすることもできませんでした。どのくらい日が過ぎたのでしょうか、息子が、就職してから、彼女に街で偶然会ったそうです。彼女は、憔悴しきったようで、息子が声を掛けたら逃げるように去って行ったと言ってました。その後、友人から彼女が自殺したことを聞いて、息子は愕然としていました。息子は、いろいろ彼女の自殺の原因を調べていました。その結果、山本一さんが原因だと突き止めました。もちろん、良一は、山本一さんを許せないと私にも訴えていました。そして、良一は、学びの森で、彼を呼び出して真相を聞き出そうとしたようですが、相手にされなかった。このようになると思っていた良一は、用意していたナイフで彼を刺したんです。山本一さんは、逃げ回って、軽傷で済みましたが、良一は、殺人未遂で逮捕されました。そして数日後いや十日後、留置場で首をつって死にました」
 一呼吸して、さらに続けた。
「山本はこの事件を良一の学生時代の成績が、悪かったのを山本のせいにした逆恨みによるものだと、嘘をマスコミに広めたんです。山本一が、やりたい放題していられるのは、彼の奥さんの父親が、M大学の理事長をしているからなんです。志保さんの自殺についても、校内で調査委員会を作って調べることに教授会で決定したんですが、それを理事長の郷原宏は、あの手この手で、決定を覆して、志保さんの自殺の真相を明らかにする機会を潰してしまったんです」
 田所正は、無念そうに安田の顔を見た。

 後日、田所正の証言から、殺害に使った金属バットは、すぐに近くの空き地から発見され、付着していた血痕は、山本一と末永喜美子のものと一致した。
 また、近くのスポーツ用具店で、そのバットを買ったのが田所正だったことも確認された。

 一連の事件が、田所正によるものだと久米から聞いて知った伊藤恵は、
「私が、二人に山本一さんを呼び出すことを教えなければ、こんなことにならなかったのに」と申し訳なかったと泣き続けていた。

 一件落着したことに安堵した私は、久米が空港まで送ってくれた。
 車は、出発の四十分前に大分空港に着いた。
「久米さん、いろいろお世話になりました。安田さんにもよろしくお伝えください」
 久米と別れて、私は荷物検査で並んでいた時、
「藤沢さん、申し訳ありませんがちょっと本部に戻ってもらえませんか」
 安田が私を大声で呼んだ。
 私は、胸騒ぎで息が詰まりそうになった。
 安田の運転で、私は大分県警に向かった。
 安田も久米も何も言わなかった。
 私は、覚悟を決めていた。
 
 取調室に入ると、久米は調書を取る席に座り、安田は私の前に腰をおろした。
「実は、亡くなった山本一さんが握っていた毛糸くずが、あなたの着ていたセーターのものによく似ていることが分かりました」
 覚悟していたとはいえ、私の動悸が激しく打ち始めた。
「藤沢雅子さん、詳しい話をお伺いしたいのですが?」
「私が山本一さんを殺害しました。今まで隠しておいて申し訳ありませんでした」
「どうしてですか」
「私が探偵で山本さんの調査を行っていることを、山本一さんが気づいたのが事の発端です。よくよく考えてみますと、彼は、この旅行の前から私が探偵で彼の調査をすることを知っていたようでした。それだけでなく、私の過去まで詳しく知っていましたから間違いなく私を陥れようと考えていたに違いありません」
「彼とはどのようなことがあったのですか?」
「私が山本を撮影したことに対して、肖像権の侵害として法的措置に訴えると、それがいやだったら百万円よこせと言ってきました。返事はこのツアーが終わる羽田までにするよう求められました。どうすればよいかと悩んでいたら、たまたまあの日酔いを醒まそうと裏庭に出たら、血を流して倒れていた山本一さんが立ち上がろうとした時に、彼は私に気づいて、おまえかと言って私に掴みかかってきました。私は必死になって彼の手を振りほどいたら、彼は倒れてしまいました。すぐに確認したのですが、心臓も脈も止まっていました」
「どうして、そのことを私たちに話してくれなかったんですか?」
「私は疑われたくなかったんです。どうかしていたんですね。ご迷惑をおかけして申し訳ありませんでした」
「先ほど、あなたを陥れようとしたと言われましたが、だれがどのような理由でそのようなことをたくらんだのでしょうか?」
 私に思い当たることはあの手紙しかなかった。
(それを確かめることはもう私にはできない)
「思い当たるところがあるのですか?」
(今更言ってもどうにもならないことだわ)
「特にありません」
 それから数日間、私だけでなく、夫も取り調べられた。

 夫が、面会に来た。
「雅子」
「あなた、こんなことになってすみません。あなたの人生にまで傷つけてしまって、どんなに謝っても済むことじゃないわね。元警察官が探偵をやるなんて、本当にバカだったわ」
「雅子、そんなに自分を責めるじゃないよ。正当防衛で弁護士が君を無罪にすると断言している」
 
 私は正当防衛ということで、無罪放免された。
 久しぶりに、自宅の帰った。
「雅子、良かったな」
 夫は喜んで私を迎えてくれた。
 久しぶりのビールはたまらなく美味しかった。
「あなた、警察にも話したんですが、山本一はこの旅行の前から私が探偵で彼の調査をすることを知っていたようなの。それだけでなく、私の過去まで詳しく知っていたわ。これはだれかが、私のことを事前に山本一に教えていたに違いないと思うの。きっと誰かが私を陥れようと考えていたに違いありません」
「そんなことするなんて一体誰なんだろう?」
「山本一を調査してくれと言ってきた手紙の主かもしれない」
「手紙の主か」
「そうか」
「どうした雅子?」
「きっと伊藤恵だわ、間違いない」
 夫は何が何だか分からない様子だった。
「彼女は自分の手を汚さないで、誰かに山本一を殺害させようとしたのよ。彼女なら私の事も事前に調べられるし、その情報を山本にも流すことができるわ。また、田所正を誘導したのも彼女よ」
「なるほど。伊藤恵は、したたかな女なんだな。雅子に調査費を払うつもりは最初からなかったのかな」
「したたかで役者だったわ」
「頭もいいしね」
「そうね」
 私は依頼の手紙を読み直そうと、机の引き出しから封書を取り出した。
 封書の切手に押されていた消印に気づいた。
「なぜ気が付かなかったのかしら」
 私は夫に封書を手渡した。
 封書を受け取った夫も頷いた。

 それから二週間後、伊藤恵から手紙が届いた。
「前略 この度のツアーでは大変お世話になりました。
 山本一氏の不倫の調査を依頼しました矢田由美子は、私伊藤恵です。大変失礼いたしました。また、今回殺人事件にまで及ぶとは想像もつきませんで、藤沢様にも大変ご迷惑をおかけして申し訳ありませんでした。この度の調査相手の山本一氏が亡くなったため、調査報告書は不要ですが、調査費用はお支払いますので、請求書と振込先をご送付ください。最後になりましたが、藤沢様が洞察力の優れたお方だと感服しています。今後のご活躍を祈念しています。早々」
 彼女の作ったシナリオには、ツアーコンダクターの職を利用して、山本一教授及び彼の所属するM大学の関係者をツアー客として招待して、彼らのだれかに山本一の殺害させるように組み立てられていたのか、事実を確かめるすべもなく、私の初仕事は終わった。 
 
                                了
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