七の二(最終)
新発田藩家老の山形玉衛門の屋敷では、山形玉衛門と側用人の相葉七右衛門に、助三郎が橋本を取り逃がしたことを報告していた。
「助三郎、何が何でも若を新発田領に入らせてはならんぞ。もし入らせたならば、お前の首が飛ぶと思え。分かったな」
「必ず、若を仕留めます」
助三郎は、頭を下げ部屋を出て行った。
「ご家老、大丈夫であろうか」
相葉七右衛門が、心配顔でいった。
山形と相葉は、側室お高様の子の一太郎君を跡継ぎに推挙していた。
「相葉様、他にも手を打っておりますので、ご心配無用でございます」
「ご家老様、轟様がお見えになっています」
「通せ」
「目付の轟か?」相葉がいった。
「はい、良い知らせかもしれませぬ」
轟が、入って来て高田宿での仔細を話し、取り逃がしたことを詫びた。
「お前もか。何をやっているんだ」
山形が、怒鳴り散らした。
「まあまあ、落ち着け。轟、若は今どこにいるのか」
「長岡藩に向かっているのではないかと」
「若だけか?」
「若入れて、三人です」
「たった三人相手で手こずってるのか。家老が怒鳴るのも当たり前だ」
「・・・・」
「追っ手を増やせ」
相葉が、家老に向かっていった。
「相葉様、承知しました」
山形は、轟に向かって、腕の立つ者を集めて、さっさと追えと命じた。
「承知いたしました」
「下がれ」
「ご家老、あの若が帰ってくると面倒なことになるが、彼らで大丈夫であろうか」
「相葉様、他にも手を打っておきましたので、ご心配ご無用でございます」
「そうか」
相葉は、盃を空けた。
すぐに、山形は、相葉の盃に酒をついだ。
雲間から陽が差してきた。
銀之助たちは、陽を方位に、北東に向かって深雪を歩き続けた。
夕闇が迫ると、かまくらを造り、体を休め、老婆からもらってきた干し芋を食べた。
「結構、美味いな」
橋本が、笑いながら言った。
「腹が減っているとなんでもうまいものだ」
赤沢が答えた。
「橋本様、長岡まであとどのくらいかかるのでしょうか」
銀之助が、手に息を吹き、こすりながら聞いた。
「そうだな、この調子なら遅くとも明後日の昼ごろには着くだろうよ」
「まだまだ、油断はできませんね」
「少し、寝るとしようか」
橋本がいった。
銀之助は、蝋燭の火を消した。
静けさの闇が、銀之助たち三人を覆った。
朝を迎えた。
「相変わらず寒いな」
赤沢の白い息と言葉が一緒に出た。
三人が一刻ほど歩いて、峠に差し掛かるときであった。
「わー」と声を上げて、右手の崖から転がるように、手に竹槍や刀を持った数人の山賊が、下ってきて、三人を取り囲んだ。
「金を出せば、命まで取らねえ」
首領らしき男が、刀を抜いていった。
「おぬし等、山賊か」
橋本が、鯉口を切った。
「うるせい。こいつらをやっちめえ」
銀之助は、背から丸棒を抜いた。
橋本と赤沢も大刀を抜いた。
あっという間に、山賊六人は雪の中に転げまわった。
「お前ら、二度と悪いことをするでないぞ。今度会った時はこんなもんでは済まないからな」
赤沢が、親分とみられる男の顔に刃を当てた。
「手間がかかったな」
橋本が、歩き始めた。
「硝煙のにおいが?伏せろ」
橋本が、怒鳴った。
‘ドーン’
木々に積もった雪が、ガサッと落ちてきた。
「鉄砲だ、気を付けろ」
橋本は、振り返っていった。
「あそこにいるぞ」
赤沢は、すぐに崖の上で鉄砲を構えている人間を指差すや否や、銀之助の手から棒手裏剣が放たれた。
「ギャー」
「左にもいるぞ、伏せろ!」
また橋本は、怒鳴った。
‘ドーン’
銀之助は、崖に近づきながら、手裏剣を放った。
敵が、転げ落ちてきた。
「橋本様、早く逃げてください」
「逃げろ!あとは銀之助さんとで、奴らを迎え討つ」
「分かった、頼む」
赤沢が、手裏剣が腿に刺さっていた敵から鉄砲を奪い取り、言った。
「どこの者だ、あと何人いる」
「・・・」
「これでもか」
手を取り、思いっきり捩じりあげた。
‘ボキ’
男は、気を失った。
「赤沢さん、橋本様を追いかけましょう」
橋本は、時々振り返った。
(銀之助さんたち、大丈夫だろうか)
しばらくすると、雪の中から雪でつぶされそうな家が目に入った。
(人は住んでいないだろ。一休みして彼らを待つか)
橋本が、戸を引いた。また、力を込め引いたが、開かない。
(誰か住んでるのか)
「誰かいるのか?」
戸を叩いた。
「怪しいものではない、しばし休ませて下さらんか」
‘ガタ、ガタ’
戸が五寸ほど開き、若い娘の顔が見えた。
「怪しいものではない」
橋本が、手に握った路銀を見せた。
戸が開けられた。「どうぞ」と黄に染まった麻の着物を着た娘が答えた。
「しばらくの間、後から二人の男が来るのでそれまで待たせてくれないか」
「どうぞ、ごゆっくりしていってください」
橋本は、蓑と笠を脱いで炉辺に腰を下ろし、火に手をかざした。
「温かい」
「体の中も温まって下さいな。どうぞ」
娘が、炉辺に腰を下ろした橋本に白湯を出した。
「かたじけない」
橋本は、茶碗を手に取り白湯を飲んだ。
「後の方は、どうされたのですか」
娘の声が、遠くから聞こえるようになった。
(眠り薬か・・)
奥から、男二人が出てきた。
「でかしたぞ、お菊」
「轟さま、この方、如何しましょうか?」
「後から二人がきっと来る。その時、三人を殺ってしまおう」
轟が言った。
「そうだ、三人が仲違いをしたように見せかけるんだ」
「それは名案です。我々の仕業だと分かりませんね」
男が、いった。
三人は、橋本の口に猿轡をそして、後ろ手にして縛り、最後に足を縛った。
「若を奥に運んでおこう」
「菊は、ここであの二人を待て」
雪がちらつき風も吹き始めた。
銀之助と赤沢は、背を丸め歩き続けた。
赤沢が、振り返っていった。
「銀之助さん、敵は追って来ないようだな」
「赤沢さん、しばらくは注意しましょう」
「しかし、寒い」
赤沢が、吐く息に手を当てた。
半刻(一時間)ほど歩いた。
あばら家へ足跡が続いているのを見つけた。
「銀之助さん、あの家にいるかもしれん」
銀之助が、戸を叩いた。
菊が、戸を三寸ほど開けて顔を出した。
「どなた様ですか?」
「こちらにお武家が、来ませんでしたか?」
「いえ。来てませんけど、何かご用ですか」
「足跡があったものですから」
「それ、あたしのものよ」
菊が戸を閉めようとした。
「ちょっと待ってください。怪しいものではありません、少し休まして下さい」
銀之助が叫んだ。
戸が開いた。
「有り難い」
銀之助はすかさず、娘に路銀を掴ませた。
「何もないけど」
「少し休ませてくれればいいんだ」
赤沢に続いて、銀之助も家の中に入った。
「どうぞ、囲炉裏で暖まって下さい」
菊は、燗した酒を入れた徳利と椀をを二人の間に置いた。
「有り難い、早速いただこうか」
赤沢は、一気に飲み干した。
銀之助も口に近づけた。
(うむ?)
「銀之助さん、眠たくなってきた・・・」
銀之助も「私も・・」といって、横になった。
赤沢は、鼾をかき始めた。
隣から戸を開け、轟が男を伴って入って来た。
「菊、よくやったな」
「おい」
轟が、男に合図をした。
男が、頷きいて、銀之助に向かった。
半間ほど近づいた時、銀之助の丸棒が男の腹に当たった。
「ぎゃっ」
叫び声とともにその男は、後ろにひっくり返った。
銀之助は、立ち上がった。
轟と菊が、赤沢を縛り始めていたところであった。
「なぜ・・」
二人は、一瞬茫然としたがすぐに立ち上がり構えようかとした瞬間、
銀之助の丸棒の先が、轟の喉元にぴたりと合わせられた。
「橋本様は、どこだ」
「こやつ」
轟は、抜刀した。
菊と呼ばれた女は、木綿の着物を脱ぎ棄てて黒装束を身にまとっていた。
「轟さま」
「菊、油断するでない」
女は、懐から小刀を抜くや否や、銀之助に躍り掛かった。
‘カチーン’
女の手から小刀が、飛んだ。
女は、とんぼ返りし、手に十字手裏剣を持ちかまえた。
(くのいちか)
銀之助は、懐から取り出した棒手裏剣を放った。
女の手首に刺さったと同時に、女の腹に丸棒が食い込んだ。
「げえっ」
男が、横から打ち込んできた。
銀之助は、太刀を避けながら男の股間に蹴りを入れた。
「ぎゃ~」
間髪をいれずに銀之助は、当身を加えた。
‘がたん’
轟は、中段の構えをして銀之助に向き合った。
銀之助も中段に構えた。
「おぬし達はいったい何者だ」
「お前らが邪魔なだけだ」
轟が、上段に上げるや否や銀之助の頭に振り落とした。
銀之助は右にかわすと同時に、轟の胴を打った。
‘ばったん’轟は板の間に俯せになって倒れた。
銀之助は、隣の部屋に入って、橋本を見つけた。
「橋本様、はしもとさま」
「うっむ」
「銀之助さん・・・。なぜここに」
「敵に捕まっていたんですよ」
「そうだ、飲んだら急に眠くなったんだ。薬か」
「赤沢さんも、やられました」
「赤沢さんはどこに?」
「あそこで、まだ寝入っています」
「銀之助さん、良く見破ったな」
「以前のあの美人局の事件のおかげで、白湯の匂いがおかしいのに気づいたんです」
「そうか、あれが役に立つとはな」
「赤沢さんを起こします」
銀之助は赤沢に活を入れた。
「おっ」
赤沢は、目を覚ました。
それを見計らって、銀之助は、二人に向かっていった。
「はやく、やつらを縛ってしまいましょう」
轟たち三人を縛って、隣の部屋に運び込んだ。
「銀之助さん、奴らを訊問してみよう」
「そうですね、奴らが一体誰の回し者か、調べておいた方がいいですね」
まず男を炉辺に連れ込んで、尋問した。
「お前たちは、どこの者だ」
赤沢が、いううや否や脇差を抜いて男の頬にあてた。
「おい、冗談じゃないぞ。早くいわないと俺にも考えがある」
赤沢が、男の髷を切り落とした。
男が、わなわな震えながら新発田藩家老の山形玉衛門から頼まれたのだといった。
「やはりそうだったのか」
橋本が、頷いた。
三人の素性がわかり、銀之助たちはこれからどうするかを半刻ほど話した。
「今日はここで休んで、明日の朝、発ちましょうか」
「そうしよう、明日の夕には、三国峠の麓の永井宿に着けばよい」
橋本が、頷いていった。
「それにしても腹が減ったな」
赤沢が出ている腹をさすっていった。
「ちょっと待ってください」
麦が鍋にあり、干し大根が梁から吊るされていた。
銀之助は、竈に火を入れ、鍋に麦を入れ、甕から水を汲んで鍋に足した。
そして、大根を取り、小口から切り、別の鍋で煮えた湯に入れて戻した。
絞って、吹き上がった麦飯に入れて炊き上げ、碗によそった。空いた鍋で、みそ味のかけ汁を作って、よそった麦飯の上からかけた。
「お待たせしました」
銀之助は、橋本と赤沢の前に椀を置き、残った大根飯の入った鍋を自在鉤に掛けた。
「うまいのう」橋本がふうふうしながらいった。
「さすが銀之助さん、うまい」
三人は、あっという間に鍋を空にした。
「明日は、未だ麦があるので、また炊きます。轟たちのため、多少は残しますが」
「そうだな、彼らも悪いがもっと悪い奴がいるからな」
赤沢が、頷いていった。
「銀之助さん、そろそろ寝たらいい」
橋本が言った。
「でも・・」
「某と赤沢さんは今までよく寝ていたから、轟たちを見張っている」
赤沢の顔が赤くなった。
銀之助は、深い眠りに入った。
朝を迎えた。
「橋本様、赤沢さん。おかげさまでよく眠ることができました」
銀之助は二人に礼をいってから、麦飯と大根汁を作った。。
一刻ほどで、朝餉を取り、三人は、支度を終えた。
鍋に麦飯を残し、囲炉裏に掛けた。
橋本が、縛られている轟に近づき、轟の耳元でささやき、背を叩いた。
「腹もいっぱいになったから、そろそろ出発しよう」
橋本が、先頭になって、歩いた。
三国街道を歩き続け、永井宿に入った。
旅籠に入った三人は、すぐに交代で湯につかった。
山菜の鍋で麦飯を食べた。
「体が温まりますね」
銀之助がいった。
「米を食べたいな」赤沢が、食べ終わってから言った。
「贅沢を申すでない」橋本が、白湯の入った湯呑を置いたい言った。
「そうですよ、お百姓は麦だけでなく、粟やひえも食べているんです」
銀之助が赤沢に向かっていった。
女中が布団をひきに部屋に入って来た。
「食事、お口にあったべか」
「美味しかったぞ」
橋本が答えた。
「それは良かった、江戸から来た人だから心配でよ」
「客は、某たちのほかにいるか」
赤沢が女にいった。
「もう一組いるだ、お武家さん二人だ」
「そうですか、どちらに」
銀之助が、聞いた。
「一階の部屋だ。寒いから、三枚かけておくよ」
女は、三人の布団をひき終えて、ごゆっくりといって、部屋を出て行った。
「気を付けんといかんな。それにしても寒いな」
赤沢が火鉢に手をかざした。
「ここは、雪国だ。寒いのは当たり前だ。一階に武士が二人か」
橋本が心配顔でいった。
「私が、起きてます。お二人とも早く寝てください」
「悪いな」
赤沢は、布団に入った。
橋本が煙管に煙草を詰めながら言った。
「明日は、三国峠を越えて、宿までだ。
それから、二居宿、三俣宿、湯沢宿、関宿、塩沢宿、六日町宿、五日町宿、浦佐宿、堀之内宿、川口宿、妙見宿、六日市宿とまだまだ長旅が続くぞ」
「銀之助さん、八ツ刻になったら交代しよう」
赤沢が、布団から顔を出していった。
「では頼む」
橋本が、掛け布団を引っ掛けて柱にもたれている銀之助に言った。
銀之助は、行灯の火を消した。
朝を迎えた。 女中たちが、朝餉を運んできた。
「お客さんたちは、三国峠を越えなさるのか」
「今日は、峠を越えて浅貝宿まで行きたいんだ」
「峠越えは大変だべ、マタギを頼んだらどうだ」
「橋本様、どうしますか?」銀之助がいった。
「頼もうか」
「はいよ、マタギの倉蔵さんに頼んでみるから半刻ほど待ってくれ」
三人は、横になった。
半刻ほど経って、女が部屋に入って来た。
「お客さん、倉蔵さんが行ってくれるって」
「それはよかった」
「倉蔵さん、外で待っているだ」
「分かった、では参ろうか」
橋本が、立ち上がった。
「お女中、二人のお武家さんはもう出かけたんですか」と、銀之助が聞いた。
「いや、まだだよ。何か」
「なんでもありませんよ」
三人は、蓑を着、笠をかぶって雪道に出た。
荷を背負い、肩に鉄砲を担いだ男が待っていた。
「倉蔵さんだ」
女が、銀之助たちに向かっていった。
「倉蔵だ」
「今日中に三国峠を越えて、浅貝宿まで行きたいんだが」
橋本がいった。
「それは無理だ。峠の途中の山小屋までが精いっぱいだ」
「分かった」
「宿から握り飯もらったか」
「はい、もらいました」
銀之助が答えた。
歩き始めてから、半刻ほどで休みを取った。
風に揺られて木々に積もった雪が落ち、静けさを破った。
「これから急になる。しっかりついてくるだ。熊が出るかもしれんから、気を付けてくれ」
倉蔵の後を橋本、赤沢そして銀之助がついて行った。
二刻ほど歩くと小屋に着いた。
「今日は、ここに泊まるだ」
三人は、ほっとした。
蓑を脱ぎ、笠を取って部屋に上がった。
囲炉裏の周りに四人は座った。
「早く火をつけるだ。早く」
倉蔵が、いった。
銀之助が、火打石を出して何回も打った。
「だめだ、濡れている」
「俺のを使って、竈に火を入れてくれ」
銀之助は、土間に降りた。
「倉蔵さん、ここには何か食べられるものはないんですか?」
「左の桶に漬物が入っている」
「米か麦はありますか」
「稗なら右の櫃に入っている」
銀之助は、釜に稗と水を入れて竈に掛けた。
「倉蔵さん、何とかならんか。囲炉裏に火をつけてくれんか」
赤沢がいった。
囲炉裏に火をつけ、火種を持って、行燈に火を入れた。
銀之助が、椀に稗を盛って三人の前に置いた。
「おめえ、稗の炊き方うめうぇな」
「倉蔵さん。銀之助さんは、浅草で飯屋をやっているんだ」
「うまいはずだ」
‘ガン、ガン’
外で音がした。
橋本が、刀を掴み、立ち上がった。
「何の音だ」赤沢が、小さい声でいって鯉口を切った。
銀之助も、丸棒を握り片膝の姿勢を取って構えた。
「熊だ。ほっとけ」
「熊か」
橋本は、また箸を持った。
「熊か。敵よりも怖いかもしれん」
赤沢が、刀を離さずに笑いながらいった。
「熊は、冬眠しているんでは?」
銀之助が、椀を取りながらいった。
「こんなところ、人が出てくるわけねえ。あんたがた、怯えているね。何か後ろめたいところがあんたがたあるんじゃねえか?」
「いや、そんなことはない」
橋本が答えた。
また音がした。倉蔵が首をかしげながらいった。
「ちょっと見てくるだ」
倉蔵が、土間に下りて板戸に開いた穴を覗いてから、振り向いて、言った。
「侍が二人、戸を壊そうとしてるだ」
「倉蔵さん、早くこっちへ来い」
橋本が言った。
銀之助が丸棒を持って、土間に飛び降りた。
赤沢も続き、戸の脇で構えた。
‘ダッターン’扉がぶち破られ一人の侍が抜刀して、小屋に入った。
「やあ」銀之助が肩を打った。
「あっ」侍が土間に倒れた。
もう一人の侍が、銀之助の方へ長刀をそして、赤沢に向かって、脇差を向けながら小屋の中へ入った。
(二刀流か。すきがない)銀之助は、中段に構えた。
赤沢は、上段に構えていた。
「やつはできるぞ。気を付けろ」
橋本が、怒鳴った。
‘ガチーン’
侍は、銀之助の丸棒を打って、脇差で、胴を払おうとした。
「危ない」赤沢は、侍に向かって打ち下ろした。
‘カチン’
侍は、長刀で受けた。
「こいつ」赤沢は、背を外に向き変え、外に二歩三歩と外に足を運んだ。
侍は、赤沢の正面に回った
銀之助が、土間にうずくまった。
「銀之助さん、大丈夫か」橋本が、、土間に降りようとするのを倉蔵がとめた。
「どけ」
倉蔵は、橋本にいい、侍の背に向かって火縄に火がついた鉄砲を構えた。
「撃つな!」
橋本が、倉蔵の鉄砲を掴んで上に挙げた。
‘ドーン’
侍が、向き直り倉蔵に向かおうとした。
「あっ」
侍が、倒れていた男につまずくと同時に、銀之助が、渾身の力を込めて侍の右膝を丸棒で打った。
侍が、つんのめりそうになった。
「うっ」
赤沢の峰に反された長刀が、侍の背に打ち込まれた。
「大丈夫か」
橋本が、銀之助の顔を覗き込んでいった。
「銀之助さん、しっかりしろ」赤沢が、肩を抱いた。
「大丈夫です」
橋本は、銀之助の脇腹に血が滲んでいるのに気付いた。
「腹を斬られたのか、痛くないか」
「大したことはありません。かすり傷です。早く二人を縛らないと」
「分かった。喋るな、体にさわるぞ」
倉蔵が、縄を持ってきた。
赤沢と倉蔵は、二人を縛り上げた。
ほっとして框に座ろうとした倉蔵を、橋本が声をかけた。
「酒はないか」
「ちょっと待ててくだせえ」
倉蔵がどぶろくを入れた椀を橋本の前に置いた。
「銀之助さん、沁みるがちょっとの我慢だ」
橋本は、どぶろくを口に含んで、寝かせた銀之助の腹に吹き付けた。
「少し寝たほうがいい」
銀之助は、目を閉じた。
「銀之助さん、明日歩けるかな?」
赤沢が、心配そうに橋本にいった。
「雪道を歩くのは無理だろう」
「お侍さん、そりに乗せるだ。もう下りだ」
倉蔵のい葉に、橋本が頷いた。
「そうか、それがいい」
頷いた赤沢は、、土間の柱に縛り付けた二人を見た。
「橋本さん、彼奴らはどうする?何者かちょっと痛めつけて吐かせようか」
赤沢がいうや、土間に降りようとした。
「ちょっと待ってくれ。どうせ新発田藩の者だろうから某が聞きだしてみよう」
橋本は、土間に下りて二人の前に立った。
「おぬしたち、某を溝口順之助と知って襲ったのか?」
二人は黙っていた。
「誰に頼まれた?家老の山形か、側用人の相葉か、それとも目付の轟か」
二人は下を向いた。
「いいたくなければいわんでいい。今、新発田藩はどういう状況になっているかお前たち知っているのか」
二人に橋本は、顔を近づけた。
「私腹を肥やしている奴らはいい、藩がつぶれても、自分の金はある。汚ねえ奴らだ。おぬしたちは、藩がつぶれてもいいのか。藩の騒動が、幕府に知れたら元もこうもないぞ。幕府の隠密がもう城下に入っているかもしれん」
二人は、俯いていたままであった。
「早く、騒動を片づけなければならん。お前たちを殺すことはせん。明日、逃がしてやるが、もう二度と俺を付け狙うな」
夜が明けた。青空からの光が雪坂道を照らし始めていた。
既に土間の柱に縛り付けられていた二人は、いなかった。
橋本が、隣に寝ている銀之助に声をかけた。
「傷はどうだ」
「おかげさまで、痛みは取れました。もう大丈夫です」
「無理はするな。まだ新発田まで長い」
「飯ができたぞ」 倉蔵の声がした。
「銀之助さん、肩を貸そうか」赤沢が心配そうにいった。
「大丈夫です」
銀之助は、丸棒を支えにして立ち上がり囲炉裏端まで歩いて行き、座った。
倉蔵が、囲炉裏に掛けた鍋から皆の椀に雑炊をよそった。
「温かくてうまい」
橋本が唸った。
あっという間に鍋は空になった。
「ご馳走さま」銀之助が倉蔵に向かって言った。
そして、橋本に聞いた。
「あの侍たちは、やはり新発田藩のご家来ですか」
「二刀流は、佐藤泰助と名のった。奴は、新発田藩でもかなりの使い手のようだ。銀之助さんだからこの程度の傷で済んだんだが、某だったら、もうこの世にはいないかもしれん。敵にすると手ごわい相手になるだろう。もう一人は、丹羽惣助といっていたな」
「橋本さん、どうして、逃がしたんだ」赤沢が口を挟んだ。
「奴はまだ若い。藩にとって役に立つ人材だ」
「そろそろ行くだ」倉蔵の声が外からした。
銀之助が、丸棒をたよりに立ち上がった。
板戸が開いた。
倉蔵が、そりを用意していた。
「今日ぐらいは大事を取った方がいい。そりに乗ってくれ」橋本と赤沢が銀之助の両腕を取った。
銀之助はあきらめ顔でそりに乗った。
「では行くだ」
倉蔵が、銀之助の乗ったそりに付けた縄を引いて歩き始めた。
二ツ刻ほど歩いて、峠を下り終えた。
そして三人は、峠に戻る倉蔵と別れた。
赤沢がそりを引いた。
四半刻で浅貝宿に着き、旅籠に入った。
「赤沢さん、疲れたろう。先に風呂に入ってくれ」
橋本が言った。
「銀之助さんは、どうする」
「橋本さん、次に入ってください」
銀之助が風呂から戻って来たときには、すでに膳が用意されていた。
「まだ油断はできんので、酒は断った。越後の酒はうまいんだがやむおえん」
橋本が、残念そうに言った。
膳には、焼いた塩鮭、香の物そして、けんちん汁がそれぞれの器に盛られていた。
女が、椀に飯をよそった。
「新潟の米は、さすがだ」赤沢が唸った。
銀之助が、飯を口にした。
「米の艶といい、ふっくら感そして香りがまたいいですね。おかずは何でもあいます」
「けんちん汁もうまい。この香の物は何んだ」赤沢が、聞いた。
「野沢菜だ。冬に備えて漬けていたものだ」橋本が答えた。
銀之助が野沢菜を口に入れた。
「さすが、雪国。漬物は天下一品です」
「そうだ、越後の冬は長いで、保存食が多いのだ」
橋本が、憂鬱そうにいった。
「この塩鮭もうまい」
「これらはなかなか江戸では食べられませんよ、赤沢さん」
銀之助がいった。
橋本が苦笑いをした。
「銀之助さん、越後はなんたって、米と酒だ」
「橋本様、飲みたいのでしょう」
橋本は、笑った。
三人とも飯のおかわりを三回も頼んだ。
「おかわりは、もういいのかい。遠慮はいらないよ」
皆もういいといったのを聞いて、女は、手際よく片付けをし、三人の布団を敷いて部屋を出て行った。
「越後の女は、よく働くな」赤沢が感心していった。
「行灯、消しますか」銀之助がいった。
「何が起こるかわからんから点けておいてくれ」
橋本が答えた。
銀之助は、寝付かれなかった。
(なぜ、斬られたんだ。油断からか?いや、未だ、二刀流相手では、勝てないということか)
銀之助は、実は中西派一刀流の免許皆伝の持ち主で、今まで誰にも負けたことがなかっただけに、自信を失いかけていた。
三人は、何事もなく二居宿、三俣宿を過ぎ、湯沢宿で宿を取った。
框に腰を掛けて、女たち三人に銀之助たちは足をゆすいでもらった。
「お客さんたち、江戸から来なさったか」
「分かるか」赤沢が答えた。
「喋りでわかるだ」
橋本が部屋に入って、言った。
「湯沢は、温泉がいい、湯治に来るものが多いんだ。ゆっくり湯に浸かって来てくれ。某は、荷物番をしている」
「橋本さん、お先に入らせてもらいます」
赤沢と銀之助は、手拭いを持って風呂に行った。
四半刻過ぎて、銀之助たちは戻った。
某も入って来ようといって、橋本は、部屋を出て行った。
長い廊下を過ぎると、温泉場があった。その前座っている女が、橋本に向かっていった。
「お背中流しましょうか」
「頼む」
着物を脱ぎ、裸になった。
柘榴口から行燈の光が湯気を照らしているほの暗い風呂場に入った。
「まずは湯に浸かって下さいな」
「誰もいないようだな」といって、湯の中に浸かった。
佐藤や丹羽はどうしただろうか?新発田に戻って行ったか)橋本は、あれやこれやと思いを巡らしていると・・。
「お客さん、もういい加減に出なよ」
女の声がした。
橋本はふと我にかえった。
洗い場で、女に背を流された。
「お客さん、これからどう?」
「疲れているからすぐ寝る」
橋本は、女にいくらか渡して、部屋に戻った。
その晩も交代で起きて、注意を怠らなかった。
何もなく、朝を迎えた。
昨晩の雪はやんでいたが、どんよりとした空が三人の心を重くしていた。
朝餉を終えると、橋本が、立ち上がった。
「銀之助さん、具合はどうだ」
「おかげさまで、すかっり良くなりました」
「では、出発しよう」
三人は身支度を終え、六ツ刻半に宿を発った。
関宿、、塩沢宿、六日町宿、五日町宿、浦佐宿、堀之内宿、川口宿、妙見宿、そして六日市宿を過ぎて、長岡藩十一万五千石の城下に入った。
長岡藩主は九代目ので、昨年七月より、江戸幕府の老中を勤めている大物であった。
橋本たちは、長岡藩家老の稲垣平助の屋敷を訪ねた。
「頼もう」
橋本は、出てきた門番に取次を頼んだ。
「おう、新発田の若様、どうされました?」
年老いているが貫禄のある侍が、迎えに出てきて、橋本順之助と銀之助たちを、屋敷の中に案内した。
年老いた侍は、永易次郎座衛門といった。
永易は、三人を客間に通した。
「常在戦場か」
橋本が、壁に掛けられた額の四文字を声に出した。
「貴藩に高野泰助殿という御方がいらっしゃるとか」
橋本がいった。
「様ですか。いらっしゃいますが、何か」
「江戸でも高名なお方と噂されているので、一度お会いしたいと思っていたのだが」
「そうですか。よろしければ、今お呼びしましょう」
「忝い」
永易は、部屋を出て行った。
「高野様とは、そんなに偉い方なのか」
赤沢が橋本の顔を見ていった。
「老中の松平定信公が、当藩主の忠精様に泰助は君子だ。彼を厚遇すべきだと、高野殿は、謹厳実直で、学問を好み、兵学に通じ古典に精通した儒学者だ。忠精さまに仕え、節約と勤勉の風を長岡藩に定着させた立役者だ」
「初代藩主牧野忠成は‘常在戦場’といって、常に気を引き締めさせて藩を統治してきたと聞いています」
「銀之助さん、良く知っているな」
「いや、橋本様。店のお客から聞いた話です」
銀之助は、頭をかいた。
永易が、高野を連れてきた。
「高野泰助でござる。某に何か」
「溝口順之助と申します。訳けあって橋本と名のっております」
橋本が、赤沢と銀之助を紹介し、高野に藩の統治についてご教授願いたいと高野に頭を下げた。
「拙者でよろしければ」と言ってから、、訥々と藩民の安定のために、藩主の修身治国の心得について熱弁をふるった。
「橋本殿、これを貴殿に差し上げよう」
高野が一冊の本を橋本の前に置いた。
‘粒々辛苦録’と書かれていた。
「忝い」
「お役にたてば何よりでござる」
高野は後があるのでと言って、部屋を出て行った。
翌日、長岡藩の侍が、橋本達を新発田藩との国境まで見送りに来た。
「世話になりました。では、ここで失礼いたす」
橋本は、見送りの侍に頭を下げた。
赤沢が先頭になり、橋本を挟んで銀之助が最後を歩いた。四半刻ほど歩くと、二人の侍が、赤沢の前に現れた。
二刀流の使い手の佐藤泰助と丹羽惣助であった。
「貴様たちは、この間の・・」赤沢が鯉口を切った。
佐藤が手を振って制止し、丹羽は、橋本の斜め横に膝まづいた。
「轟様の命で、若様をお迎えに参りました。我らは心を入れ変えております。もう既に側用人の相葉様は、幽閉いたしております。あとは筆頭家老の山形様と側室のお高様そして一太郎君の処分です。若様、次席家老 中之口様のお屋敷にご案内いたします。皆様、どうぞ駕籠にお乗りください」
駕籠が三丁、三人の前におろされた。
半刻後、橋本たち三人は、中之口の屋敷に入った。
白髪の初老の中之口が、涙を流して出迎えた。
「若様、よく御無事で」
「挨拶はよい。中之口、藩はどうなっているのだ。仔細を聞かせてくれ」
「はい、承知いたしました」
中之口は、銀之助と赤沢に、部屋でゆっくりするようにいって、佐藤泰助に
部屋に案内するよう命じた。
「お二人には申し訳ないが、わたくしも若様と談合がありますのでここで失礼いたす」
銀之助と赤沢は、部屋に入った。
「銀之助さん、あのような立派な駕籠に乗ったのは初めてだ」
「さすが、藩主の息子様への対応は違いますね。それにしても広い部屋ですね」
「新発田藩二番家老の屋敷のわりに、造作は大したことはないな」
「藩の財政事情を思い、清貧の生活を送っているのでしょう」
しばらくして、女中が白湯を運んで来て、その後すぐに、十代後半に見える侍が部屋に入ってきた。
「この度は、若様をお守りしていただいたそうで、ありがとう存じます」
三人は、簡単に挨拶をすませた。
若い侍は、小西一郎太と名乗り、新発田藩の歴史と内情を話しはじめた。
「溝口家は、美濃国が発生の地で、その後尾張の溝口郷に移った時に、今の溝口を名のったようです。そして、信長、丹羽長秀、秀吉に仕え、六万石を与えられ、この地に来たそうです。つい最近では、八代の直養(なおやす)様は、道学堂という藩校を創られ、身分、男女問わず入校しています。他の藩と比較しても、藩民の読み書きや計算能力は劣ることはないと思います」
一郎太は、ひと息ついてまた話しはじめた。
「道学堂では、朱子学を学ばせました。直養様は、朱子学以外は禁じ、徹底的な封建体制の維持を図ろうとしたのですが、多くの反発を買ってしまいました。当藩は大量の年貢米を堂島に出荷しています。直養様が窮しているときに、筆頭家老は、悪徳米商人と手を組んで、貴重な年貢米で私腹を肥やせて贅沢三昧をしています。私は、彼らを許せません。あなたがた様のおかげで、側用人の轟様たちは、我々に組するようになりましたが、まだ、山形様とお高さまは、一太郎君を藩主にすべく暗躍をしておりまする。早く、御世継問題を解決しなければ、藩の存亡にかかわります」
四半刻、一郎太の話は続いた。
「幕府はもう目を付けているのか」
赤沢が唸った。
「赤沢様、橋本様をお守りしなければ」
銀之助が、赤沢を見た。
「我々も若様の警護は怠りませんが、赤沢殿、銀之助殿。若様をよろしく頼みます」
一郎太は、深々太両手をついて頭を下げ、何か不自由なことが有ればだれにでも声をかけてくれといって、退出した。
「銀之助さん、幕府の隠密が秘かにこの藩の情勢を探っているとなると厄介だな」
「そうですね、隠密の正体を早く暴かないと大変なことになります」
何か用方法はないかと、銀之助と赤沢は、頭を絞った。
二人は、風呂に入り、女中が持ってきた着物に着替えていた。
旅の疲れが出たせいか、赤沢は、火鉢にあたりながらうとうとしていた。
銀之助は、煙草を吸いながら隠密対策を考えていた。
七ツ半刻、一郎太が夕餉の支度ができたので、部屋に案内するといって来た。
客間に入ると既に溝口葵の紋の付いた浅黄の小袖に袴のいでたちの橋本順之助いや、溝口順之助が、下座に座っていた。
部屋の四隅に置かれた行燈は、旅籠とは格段に違い部屋全体を明るくしていた。
「お二人、そこに座ってくれ。新発田藩の大事な客人じゃ」
二人を床の間を背に座らせると順之助が、手を叩いた。
「赤沢さん、銀之助さん、世話になった。今晩は遠慮なく飲んで食べてくれ」
女たちが、膳を運んできた。
鮭けんちん巻、しめじのしらあえ、(現在のがんもどき)、かきあえなますが美しい漆器に盛られていた。
銀之助は立派な器に目を見張った。
(器は料理を引き立てる、まさに最高ののもてなしだ)
赤沢の背筋が伸びた。
酒も運ばれた。
女たちは、、三人に酌をして、部屋を出て行った。
「何とか無事についてよかった。一時はどうなるかと心配だった」
順之助が、盃を飲み干していった。
赤沢は、鮭けんちん巻を口に入れた。
「うまい。いい味だ」
「ここでは、鮭けんちん巻と呼んでいる田舎料理だ。赤沢さんに気に入ってもらってよかった」
「かきあえなますも美味しいです。橋本様、いや溝口様、これからが大変ですね。我々も微力ながらお手伝いをさせていただきます。何なりとおいいつけ下さい」
「銀之助さん、今まで通りの橋本で結構だ。気を使わんでくれ。早速だが、酔う前に、二人に頼みがある」
順之助は、盃を置いて話し始めた。
その依頼とは、佐藤泰助と丹羽惣助の両名と一緒に幕府の隠密を探し出して捕縛してほしいと、疑わしい人物を数人小声で挙げた。
「溝口様、承知いたしました」
銀之助が、言った。
「幕府が相手か、それは面白い」
赤沢は声を落として笑いながら言った。
「佐藤と丹羽の両名が、その男たちに探りを入れ、その方たちに丹羽に逐次報告するように命じておいた。藩の存亡がかかっている、よろしく頼む」
順之助は、二人に頭を下げた。
そして、女中を呼んで、温かい酒を持ってくるよう命じた。
「さあ、旅の疲れを取るために飲もうではないか。遠慮せずに食べてくれ」
半刻ほど過ぎた。
「若様、失礼いたします」
佐藤と丹羽が襖戸を開けて、部屋に入って来た。
順之助は、佐藤に隠密の動向について、説明をさせた。
隠密は、現在本丸の普請にかこつけ、左官職人に成りすまして毎日城内に出入りしており、佐藤の手下に四六時中見張らせているとのことであった。また、轟の手下のくノ一菊にも場外で探りを入れさせており、その状況も説明した。
銀之助と赤沢は、さらに佐藤たちに隠密の動向について問うた。
「赤沢さんと銀之助さんとの連絡を密にして、一日も早く、対処してくれ。くれぐれも気を付けてな」
女が、酒を運んできた。
「お二人に酌をしてさしあげろ」順之助は、佐藤と丹羽にいった。
「この度は、手傷を負わせて申し訳ございませんでした」
佐藤は、銀之助に酌をしながら詫びた。
銀之助は、佐藤に二刀流について、いろいろ尋ねた。
障子戸の向こうから、若様と声がかかった。
「一郎太か、すぐ行く」
「某、しばし退席するが、赤沢さん、銀之助さん、ゆっくり飲んでいてくれ。佐藤と丹羽、お二人に失礼がないよう頼むぞ」
順之助は、家老の山形と側室お高の対応に追われた。
目付の轟の働きによって、家老の取り巻き連中は日が経つにつれて、山形やお高から離れて行った。
山形は、順之助に刺客を何度も放ったが、すでに多勢に無勢で相手にならなかった。
順之助の山形包囲網作戦により、一か月後、家老の山形玉衛門は切腹し、側室のお高が一太郎を伴って、自害した。賄賂を贈っていた米問屋の川崎屋は、新発田藩領地から追放となった。
銀之助たちも隠密を追いこんでいた。
夜、五ツ半刻(午後九時)、雪がやみ、順之助と居候している二番家老の屋敷は静まりかえっていた。
銀之助と赤沢は、深い眠りに入っていた。
「赤沢様、銀之助さま」廊下で女の声がした。
銀之助は、丸棒を掴んでいった。
「菊殿か」
「はい。今、城下の旅籠で、幕府の隠密たちが談合しています。至急佐藤様がお二人に来ていただきたいとのことです」
「承知した」
赤沢も目を覚まし、長刀を掴んで立ち上がった。
「相手は、何人だ」
「五人のようです」
「銀之助さん、一人も残さず召し捕えよう」
二人は、腹に縄を巻き、蓑を着、笠をかぶり、提灯を持った菊の後について屋敷を出た。
目的の旅籠の前に来ると脇道に佐藤、丹羽の二人が、銀之助たちを手招きした。
旅籠の前の外行燈の光が、静けさを醸し出している。
「どうしたものか」
赤沢が、佐藤にいった。
「奴らは、二階のあそこで談合しています」
佐藤が、明かりが漏れている雨戸を指差した。
「外に面しているところは、他には」
銀之助が、囁いた。
「あそこだけです。某と丹羽が中に入って敵を襲撃します。赤沢殿と銀之助さんは、あの雨戸の前で逃げ出る敵を待ち受けてもらえませんか。裏に梯子を用意してあります。菊は、中の階段の下にいてくれ。宿の主人には、いつでも立ち入ることを伝えてあるので、入り口は開いています。入ってその旨をいえば、騒がずに対応してくれるはずです」佐藤の声が震えていた。
皆、頷いた。
佐藤は、銀之助たちを裏に連れて行き、屋根に梯子を掛けた。
「では、佐藤殿、丹羽殿。気を付けてな」と言って、赤沢と銀之助は、梯子を上って行って行き、雨戸の際に座った。
佐藤たちが手を上げて、宿に入った。
‘ガタガタ、ドスーン’
「静かにしろ」
「何者だ」
雨戸から明かりが消えるや否や、雨戸が打ち破られて、商人姿の男が匕首を持って飛び出してきた。
銀之助の丸棒が、男の脛を打った。
「痛!」と叫んで前のめりになった時、、赤沢が男の背に峰打ちを入れた。
男は俯せに倒れ気を失った。
すぐに二人目が飛び出してきたが、倒れている男に足を取られ、よろけた。
銀之助が、それを見過ごさずに男の足を払った。
「ぎゃっ」赤沢は、肩を打った。
銀之助と赤沢は、二人を縛って、部屋を覗いたその時、
「動くな、動くと撃つぞ」
銀之助と赤沢に二人の男が短銃を向けた。
もう一人は、佐藤と丹羽に対峙していた。
佐藤たちの動きが止まっている。
「動いてみろ、お前らの命はねえぞ」
‘バーン’
男の手首に十字手裏剣が刺さった。
「早く」菊の声がした。
銀之助と赤沢は、二人の男をそして、佐藤も男の腹に峰を打ち込んでいた。
「菊、助かったぞ」丹羽が、刀を鞘に納めながらいった。
銀之助と赤沢も菊に向かって、頭を下げた。
享和二年(一八〇二)十一月、新発田藩十代藩主は、四歳のが相続した。
順之助は、父親の時と同じように、直諒の後見人を親族であった三河吉田藩主松平信明に依頼した。
銀之助と赤沢は、夕餉を取っていた。
「赤沢さん、揺れていませんか」
「地震だ、外へ出よう」赤沢は、障子を開けて庭に飛び出した。
しばらくして、揺れは収まった。
「ちょっと大きかったな」
「火の手は上がっていないようですね」
しばらくして、一郎太が二人の安否をうかがいにやって来た。
「大丈夫ですか?」
「おぬしたちも怪我はなかったか」
赤沢が、庭で答えた。
「寒いから上がって下さい」
銀之助と赤沢は、縁に腰かけ足袋を脱いで部屋に上がった。
数日後、この地震で、佐渡ではかなりの被害が出たことを銀之助たちは知った。
「赤沢さん、溝口様のお手伝いもこれまでで、あまり長居は迷惑になります。江戸へ帰りませんか」
「某も、江戸が恋しくなってきたところだ。おすみさんたちも心配しているだろう、銀之助さんの事を」
赤沢は、煙管を火鉢の角でたたいた。
「赤沢さん、何をいっているんですか。長屋の皆が、赤沢さんの事も心配しているでしょう」
降る雪が、行灯の明かりに障子に照らしだされていた。
「しかし、この雪では、帰るのも大変ですね」
銀之助は複雑な気持ちになった。
七ツ刻、順之助が屋敷に帰ってきた。
「若様、銀之助さんたちが、お話があるとのことですが」
一郎太が、順之助が着替えているところにやって来て、伝えた。
「そうか、すぐに行く」
「溝口様、お勤めご苦労様でした」
銀之助は頭を下げた。
「堅苦しいことは抜きにしようといっていたはずだが。二人とも改まってなんだ」
「江戸が恋しくなってきたものですから、そろそろお暇しようかと」
「それはまた、急なこと。二人にはだいぶ迷惑をかけた。いつ発つかな」
「明後日にでもと思っています」
「そうか、江戸の正月には間に合うな。おすみさんたちも待っているだろう。長屋の連中も、懐かしいな」
順之助は、一時思いにふけった。
「溝口殿。江戸に来た時は、銀之助さんの店に寄って下さい」
「江戸に行くのを楽しみにしている」
「是非」
銀之助が、笑顔でいった。
「二人とも、今日はゆっくり飲もう」
「はい」
順之助が、手を叩いて女を呼び、酒の支度をするように命じた。
女たちは、膳と酒を運んできた。
「大したものはないが、ゆっくりやってくれ」
銀之助は椀から里芋やこんにゃくを食べると、順之助に向かっていった。
「これは、‘のっぺ’ですか。美味しい」
「さすが銀之助さん、その通りだ」
赤沢も、のっぺに箸を付けた。
「これはうまい」
三人は、酒を飲みながら別れを惜しんで、明け方まで、江戸での話に花を咲かせた。
朝が来た。
雪はやみ、陽が万遍なくあらゆるものを照らしていた。
順之助たちに見送られて、銀之助と赤沢、佐藤泰助と丹羽惣助そして、四人の中間たちは、新発田街道を西へと歩き始めた。
銀之助たちが見えなくなるまで、順之助が見送っていた。
昼前ごろに、銀之助たちは小春日和の江戸に入り、うまいもん屋の暖簾をくぐった。
「ただいま」と、銀之助が大声を出した。
「おかえりなさい」おすみが銀之助の声を聞いて勝手場から飛び出てきた。
(おわり)
新発田藩家老の山形玉衛門の屋敷では、山形玉衛門と側用人の相葉七右衛門に、助三郎が橋本を取り逃がしたことを報告していた。
「助三郎、何が何でも若を新発田領に入らせてはならんぞ。もし入らせたならば、お前の首が飛ぶと思え。分かったな」
「必ず、若を仕留めます」
助三郎は、頭を下げ部屋を出て行った。
「ご家老、大丈夫であろうか」
相葉七右衛門が、心配顔でいった。
山形と相葉は、側室お高様の子の一太郎君を跡継ぎに推挙していた。
「相葉様、他にも手を打っておりますので、ご心配無用でございます」
「ご家老様、轟様がお見えになっています」
「通せ」
「目付の轟か?」相葉がいった。
「はい、良い知らせかもしれませぬ」
轟が、入って来て高田宿での仔細を話し、取り逃がしたことを詫びた。
「お前もか。何をやっているんだ」
山形が、怒鳴り散らした。
「まあまあ、落ち着け。轟、若は今どこにいるのか」
「長岡藩に向かっているのではないかと」
「若だけか?」
「若入れて、三人です」
「たった三人相手で手こずってるのか。家老が怒鳴るのも当たり前だ」
「・・・・」
「追っ手を増やせ」
相葉が、家老に向かっていった。
「相葉様、承知しました」
山形は、轟に向かって、腕の立つ者を集めて、さっさと追えと命じた。
「承知いたしました」
「下がれ」
「ご家老、あの若が帰ってくると面倒なことになるが、彼らで大丈夫であろうか」
「相葉様、他にも手を打っておきましたので、ご心配ご無用でございます」
「そうか」
相葉は、盃を空けた。
すぐに、山形は、相葉の盃に酒をついだ。
雲間から陽が差してきた。
銀之助たちは、陽を方位に、北東に向かって深雪を歩き続けた。
夕闇が迫ると、かまくらを造り、体を休め、老婆からもらってきた干し芋を食べた。
「結構、美味いな」
橋本が、笑いながら言った。
「腹が減っているとなんでもうまいものだ」
赤沢が答えた。
「橋本様、長岡まであとどのくらいかかるのでしょうか」
銀之助が、手に息を吹き、こすりながら聞いた。
「そうだな、この調子なら遅くとも明後日の昼ごろには着くだろうよ」
「まだまだ、油断はできませんね」
「少し、寝るとしようか」
橋本がいった。
銀之助は、蝋燭の火を消した。
静けさの闇が、銀之助たち三人を覆った。
朝を迎えた。
「相変わらず寒いな」
赤沢の白い息と言葉が一緒に出た。
三人が一刻ほど歩いて、峠に差し掛かるときであった。
「わー」と声を上げて、右手の崖から転がるように、手に竹槍や刀を持った数人の山賊が、下ってきて、三人を取り囲んだ。
「金を出せば、命まで取らねえ」
首領らしき男が、刀を抜いていった。
「おぬし等、山賊か」
橋本が、鯉口を切った。
「うるせい。こいつらをやっちめえ」
銀之助は、背から丸棒を抜いた。
橋本と赤沢も大刀を抜いた。
あっという間に、山賊六人は雪の中に転げまわった。
「お前ら、二度と悪いことをするでないぞ。今度会った時はこんなもんでは済まないからな」
赤沢が、親分とみられる男の顔に刃を当てた。
「手間がかかったな」
橋本が、歩き始めた。
「硝煙のにおいが?伏せろ」
橋本が、怒鳴った。
‘ドーン’
木々に積もった雪が、ガサッと落ちてきた。
「鉄砲だ、気を付けろ」
橋本は、振り返っていった。
「あそこにいるぞ」
赤沢は、すぐに崖の上で鉄砲を構えている人間を指差すや否や、銀之助の手から棒手裏剣が放たれた。
「ギャー」
「左にもいるぞ、伏せろ!」
また橋本は、怒鳴った。
‘ドーン’
銀之助は、崖に近づきながら、手裏剣を放った。
敵が、転げ落ちてきた。
「橋本様、早く逃げてください」
「逃げろ!あとは銀之助さんとで、奴らを迎え討つ」
「分かった、頼む」
赤沢が、手裏剣が腿に刺さっていた敵から鉄砲を奪い取り、言った。
「どこの者だ、あと何人いる」
「・・・」
「これでもか」
手を取り、思いっきり捩じりあげた。
‘ボキ’
男は、気を失った。
「赤沢さん、橋本様を追いかけましょう」
橋本は、時々振り返った。
(銀之助さんたち、大丈夫だろうか)
しばらくすると、雪の中から雪でつぶされそうな家が目に入った。
(人は住んでいないだろ。一休みして彼らを待つか)
橋本が、戸を引いた。また、力を込め引いたが、開かない。
(誰か住んでるのか)
「誰かいるのか?」
戸を叩いた。
「怪しいものではない、しばし休ませて下さらんか」
‘ガタ、ガタ’
戸が五寸ほど開き、若い娘の顔が見えた。
「怪しいものではない」
橋本が、手に握った路銀を見せた。
戸が開けられた。「どうぞ」と黄に染まった麻の着物を着た娘が答えた。
「しばらくの間、後から二人の男が来るのでそれまで待たせてくれないか」
「どうぞ、ごゆっくりしていってください」
橋本は、蓑と笠を脱いで炉辺に腰を下ろし、火に手をかざした。
「温かい」
「体の中も温まって下さいな。どうぞ」
娘が、炉辺に腰を下ろした橋本に白湯を出した。
「かたじけない」
橋本は、茶碗を手に取り白湯を飲んだ。
「後の方は、どうされたのですか」
娘の声が、遠くから聞こえるようになった。
(眠り薬か・・)
奥から、男二人が出てきた。
「でかしたぞ、お菊」
「轟さま、この方、如何しましょうか?」
「後から二人がきっと来る。その時、三人を殺ってしまおう」
轟が言った。
「そうだ、三人が仲違いをしたように見せかけるんだ」
「それは名案です。我々の仕業だと分かりませんね」
男が、いった。
三人は、橋本の口に猿轡をそして、後ろ手にして縛り、最後に足を縛った。
「若を奥に運んでおこう」
「菊は、ここであの二人を待て」
雪がちらつき風も吹き始めた。
銀之助と赤沢は、背を丸め歩き続けた。
赤沢が、振り返っていった。
「銀之助さん、敵は追って来ないようだな」
「赤沢さん、しばらくは注意しましょう」
「しかし、寒い」
赤沢が、吐く息に手を当てた。
半刻(一時間)ほど歩いた。
あばら家へ足跡が続いているのを見つけた。
「銀之助さん、あの家にいるかもしれん」
銀之助が、戸を叩いた。
菊が、戸を三寸ほど開けて顔を出した。
「どなた様ですか?」
「こちらにお武家が、来ませんでしたか?」
「いえ。来てませんけど、何かご用ですか」
「足跡があったものですから」
「それ、あたしのものよ」
菊が戸を閉めようとした。
「ちょっと待ってください。怪しいものではありません、少し休まして下さい」
銀之助が叫んだ。
戸が開いた。
「有り難い」
銀之助はすかさず、娘に路銀を掴ませた。
「何もないけど」
「少し休ませてくれればいいんだ」
赤沢に続いて、銀之助も家の中に入った。
「どうぞ、囲炉裏で暖まって下さい」
菊は、燗した酒を入れた徳利と椀をを二人の間に置いた。
「有り難い、早速いただこうか」
赤沢は、一気に飲み干した。
銀之助も口に近づけた。
(うむ?)
「銀之助さん、眠たくなってきた・・・」
銀之助も「私も・・」といって、横になった。
赤沢は、鼾をかき始めた。
隣から戸を開け、轟が男を伴って入って来た。
「菊、よくやったな」
「おい」
轟が、男に合図をした。
男が、頷きいて、銀之助に向かった。
半間ほど近づいた時、銀之助の丸棒が男の腹に当たった。
「ぎゃっ」
叫び声とともにその男は、後ろにひっくり返った。
銀之助は、立ち上がった。
轟と菊が、赤沢を縛り始めていたところであった。
「なぜ・・」
二人は、一瞬茫然としたがすぐに立ち上がり構えようかとした瞬間、
銀之助の丸棒の先が、轟の喉元にぴたりと合わせられた。
「橋本様は、どこだ」
「こやつ」
轟は、抜刀した。
菊と呼ばれた女は、木綿の着物を脱ぎ棄てて黒装束を身にまとっていた。
「轟さま」
「菊、油断するでない」
女は、懐から小刀を抜くや否や、銀之助に躍り掛かった。
‘カチーン’
女の手から小刀が、飛んだ。
女は、とんぼ返りし、手に十字手裏剣を持ちかまえた。
(くのいちか)
銀之助は、懐から取り出した棒手裏剣を放った。
女の手首に刺さったと同時に、女の腹に丸棒が食い込んだ。
「げえっ」
男が、横から打ち込んできた。
銀之助は、太刀を避けながら男の股間に蹴りを入れた。
「ぎゃ~」
間髪をいれずに銀之助は、当身を加えた。
‘がたん’
轟は、中段の構えをして銀之助に向き合った。
銀之助も中段に構えた。
「おぬし達はいったい何者だ」
「お前らが邪魔なだけだ」
轟が、上段に上げるや否や銀之助の頭に振り落とした。
銀之助は右にかわすと同時に、轟の胴を打った。
‘ばったん’轟は板の間に俯せになって倒れた。
銀之助は、隣の部屋に入って、橋本を見つけた。
「橋本様、はしもとさま」
「うっむ」
「銀之助さん・・・。なぜここに」
「敵に捕まっていたんですよ」
「そうだ、飲んだら急に眠くなったんだ。薬か」
「赤沢さんも、やられました」
「赤沢さんはどこに?」
「あそこで、まだ寝入っています」
「銀之助さん、良く見破ったな」
「以前のあの美人局の事件のおかげで、白湯の匂いがおかしいのに気づいたんです」
「そうか、あれが役に立つとはな」
「赤沢さんを起こします」
銀之助は赤沢に活を入れた。
「おっ」
赤沢は、目を覚ました。
それを見計らって、銀之助は、二人に向かっていった。
「はやく、やつらを縛ってしまいましょう」
轟たち三人を縛って、隣の部屋に運び込んだ。
「銀之助さん、奴らを訊問してみよう」
「そうですね、奴らが一体誰の回し者か、調べておいた方がいいですね」
まず男を炉辺に連れ込んで、尋問した。
「お前たちは、どこの者だ」
赤沢が、いううや否や脇差を抜いて男の頬にあてた。
「おい、冗談じゃないぞ。早くいわないと俺にも考えがある」
赤沢が、男の髷を切り落とした。
男が、わなわな震えながら新発田藩家老の山形玉衛門から頼まれたのだといった。
「やはりそうだったのか」
橋本が、頷いた。
三人の素性がわかり、銀之助たちはこれからどうするかを半刻ほど話した。
「今日はここで休んで、明日の朝、発ちましょうか」
「そうしよう、明日の夕には、三国峠の麓の永井宿に着けばよい」
橋本が、頷いていった。
「それにしても腹が減ったな」
赤沢が出ている腹をさすっていった。
「ちょっと待ってください」
麦が鍋にあり、干し大根が梁から吊るされていた。
銀之助は、竈に火を入れ、鍋に麦を入れ、甕から水を汲んで鍋に足した。
そして、大根を取り、小口から切り、別の鍋で煮えた湯に入れて戻した。
絞って、吹き上がった麦飯に入れて炊き上げ、碗によそった。空いた鍋で、みそ味のかけ汁を作って、よそった麦飯の上からかけた。
「お待たせしました」
銀之助は、橋本と赤沢の前に椀を置き、残った大根飯の入った鍋を自在鉤に掛けた。
「うまいのう」橋本がふうふうしながらいった。
「さすが銀之助さん、うまい」
三人は、あっという間に鍋を空にした。
「明日は、未だ麦があるので、また炊きます。轟たちのため、多少は残しますが」
「そうだな、彼らも悪いがもっと悪い奴がいるからな」
赤沢が、頷いていった。
「銀之助さん、そろそろ寝たらいい」
橋本が言った。
「でも・・」
「某と赤沢さんは今までよく寝ていたから、轟たちを見張っている」
赤沢の顔が赤くなった。
銀之助は、深い眠りに入った。
朝を迎えた。
「橋本様、赤沢さん。おかげさまでよく眠ることができました」
銀之助は二人に礼をいってから、麦飯と大根汁を作った。。
一刻ほどで、朝餉を取り、三人は、支度を終えた。
鍋に麦飯を残し、囲炉裏に掛けた。
橋本が、縛られている轟に近づき、轟の耳元でささやき、背を叩いた。
「腹もいっぱいになったから、そろそろ出発しよう」
橋本が、先頭になって、歩いた。
三国街道を歩き続け、永井宿に入った。
旅籠に入った三人は、すぐに交代で湯につかった。
山菜の鍋で麦飯を食べた。
「体が温まりますね」
銀之助がいった。
「米を食べたいな」赤沢が、食べ終わってから言った。
「贅沢を申すでない」橋本が、白湯の入った湯呑を置いたい言った。
「そうですよ、お百姓は麦だけでなく、粟やひえも食べているんです」
銀之助が赤沢に向かっていった。
女中が布団をひきに部屋に入って来た。
「食事、お口にあったべか」
「美味しかったぞ」
橋本が答えた。
「それは良かった、江戸から来た人だから心配でよ」
「客は、某たちのほかにいるか」
赤沢が女にいった。
「もう一組いるだ、お武家さん二人だ」
「そうですか、どちらに」
銀之助が、聞いた。
「一階の部屋だ。寒いから、三枚かけておくよ」
女は、三人の布団をひき終えて、ごゆっくりといって、部屋を出て行った。
「気を付けんといかんな。それにしても寒いな」
赤沢が火鉢に手をかざした。
「ここは、雪国だ。寒いのは当たり前だ。一階に武士が二人か」
橋本が心配顔でいった。
「私が、起きてます。お二人とも早く寝てください」
「悪いな」
赤沢は、布団に入った。
橋本が煙管に煙草を詰めながら言った。
「明日は、三国峠を越えて、宿までだ。
それから、二居宿、三俣宿、湯沢宿、関宿、塩沢宿、六日町宿、五日町宿、浦佐宿、堀之内宿、川口宿、妙見宿、六日市宿とまだまだ長旅が続くぞ」
「銀之助さん、八ツ刻になったら交代しよう」
赤沢が、布団から顔を出していった。
「では頼む」
橋本が、掛け布団を引っ掛けて柱にもたれている銀之助に言った。
銀之助は、行灯の火を消した。
朝を迎えた。 女中たちが、朝餉を運んできた。
「お客さんたちは、三国峠を越えなさるのか」
「今日は、峠を越えて浅貝宿まで行きたいんだ」
「峠越えは大変だべ、マタギを頼んだらどうだ」
「橋本様、どうしますか?」銀之助がいった。
「頼もうか」
「はいよ、マタギの倉蔵さんに頼んでみるから半刻ほど待ってくれ」
三人は、横になった。
半刻ほど経って、女が部屋に入って来た。
「お客さん、倉蔵さんが行ってくれるって」
「それはよかった」
「倉蔵さん、外で待っているだ」
「分かった、では参ろうか」
橋本が、立ち上がった。
「お女中、二人のお武家さんはもう出かけたんですか」と、銀之助が聞いた。
「いや、まだだよ。何か」
「なんでもありませんよ」
三人は、蓑を着、笠をかぶって雪道に出た。
荷を背負い、肩に鉄砲を担いだ男が待っていた。
「倉蔵さんだ」
女が、銀之助たちに向かっていった。
「倉蔵だ」
「今日中に三国峠を越えて、浅貝宿まで行きたいんだが」
橋本がいった。
「それは無理だ。峠の途中の山小屋までが精いっぱいだ」
「分かった」
「宿から握り飯もらったか」
「はい、もらいました」
銀之助が答えた。
歩き始めてから、半刻ほどで休みを取った。
風に揺られて木々に積もった雪が落ち、静けさを破った。
「これから急になる。しっかりついてくるだ。熊が出るかもしれんから、気を付けてくれ」
倉蔵の後を橋本、赤沢そして銀之助がついて行った。
二刻ほど歩くと小屋に着いた。
「今日は、ここに泊まるだ」
三人は、ほっとした。
蓑を脱ぎ、笠を取って部屋に上がった。
囲炉裏の周りに四人は座った。
「早く火をつけるだ。早く」
倉蔵が、いった。
銀之助が、火打石を出して何回も打った。
「だめだ、濡れている」
「俺のを使って、竈に火を入れてくれ」
銀之助は、土間に降りた。
「倉蔵さん、ここには何か食べられるものはないんですか?」
「左の桶に漬物が入っている」
「米か麦はありますか」
「稗なら右の櫃に入っている」
銀之助は、釜に稗と水を入れて竈に掛けた。
「倉蔵さん、何とかならんか。囲炉裏に火をつけてくれんか」
赤沢がいった。
囲炉裏に火をつけ、火種を持って、行燈に火を入れた。
銀之助が、椀に稗を盛って三人の前に置いた。
「おめえ、稗の炊き方うめうぇな」
「倉蔵さん。銀之助さんは、浅草で飯屋をやっているんだ」
「うまいはずだ」
‘ガン、ガン’
外で音がした。
橋本が、刀を掴み、立ち上がった。
「何の音だ」赤沢が、小さい声でいって鯉口を切った。
銀之助も、丸棒を握り片膝の姿勢を取って構えた。
「熊だ。ほっとけ」
「熊か」
橋本は、また箸を持った。
「熊か。敵よりも怖いかもしれん」
赤沢が、刀を離さずに笑いながらいった。
「熊は、冬眠しているんでは?」
銀之助が、椀を取りながらいった。
「こんなところ、人が出てくるわけねえ。あんたがた、怯えているね。何か後ろめたいところがあんたがたあるんじゃねえか?」
「いや、そんなことはない」
橋本が答えた。
また音がした。倉蔵が首をかしげながらいった。
「ちょっと見てくるだ」
倉蔵が、土間に下りて板戸に開いた穴を覗いてから、振り向いて、言った。
「侍が二人、戸を壊そうとしてるだ」
「倉蔵さん、早くこっちへ来い」
橋本が言った。
銀之助が丸棒を持って、土間に飛び降りた。
赤沢も続き、戸の脇で構えた。
‘ダッターン’扉がぶち破られ一人の侍が抜刀して、小屋に入った。
「やあ」銀之助が肩を打った。
「あっ」侍が土間に倒れた。
もう一人の侍が、銀之助の方へ長刀をそして、赤沢に向かって、脇差を向けながら小屋の中へ入った。
(二刀流か。すきがない)銀之助は、中段に構えた。
赤沢は、上段に構えていた。
「やつはできるぞ。気を付けろ」
橋本が、怒鳴った。
‘ガチーン’
侍は、銀之助の丸棒を打って、脇差で、胴を払おうとした。
「危ない」赤沢は、侍に向かって打ち下ろした。
‘カチン’
侍は、長刀で受けた。
「こいつ」赤沢は、背を外に向き変え、外に二歩三歩と外に足を運んだ。
侍は、赤沢の正面に回った
銀之助が、土間にうずくまった。
「銀之助さん、大丈夫か」橋本が、、土間に降りようとするのを倉蔵がとめた。
「どけ」
倉蔵は、橋本にいい、侍の背に向かって火縄に火がついた鉄砲を構えた。
「撃つな!」
橋本が、倉蔵の鉄砲を掴んで上に挙げた。
‘ドーン’
侍が、向き直り倉蔵に向かおうとした。
「あっ」
侍が、倒れていた男につまずくと同時に、銀之助が、渾身の力を込めて侍の右膝を丸棒で打った。
侍が、つんのめりそうになった。
「うっ」
赤沢の峰に反された長刀が、侍の背に打ち込まれた。
「大丈夫か」
橋本が、銀之助の顔を覗き込んでいった。
「銀之助さん、しっかりしろ」赤沢が、肩を抱いた。
「大丈夫です」
橋本は、銀之助の脇腹に血が滲んでいるのに気付いた。
「腹を斬られたのか、痛くないか」
「大したことはありません。かすり傷です。早く二人を縛らないと」
「分かった。喋るな、体にさわるぞ」
倉蔵が、縄を持ってきた。
赤沢と倉蔵は、二人を縛り上げた。
ほっとして框に座ろうとした倉蔵を、橋本が声をかけた。
「酒はないか」
「ちょっと待ててくだせえ」
倉蔵がどぶろくを入れた椀を橋本の前に置いた。
「銀之助さん、沁みるがちょっとの我慢だ」
橋本は、どぶろくを口に含んで、寝かせた銀之助の腹に吹き付けた。
「少し寝たほうがいい」
銀之助は、目を閉じた。
「銀之助さん、明日歩けるかな?」
赤沢が、心配そうに橋本にいった。
「雪道を歩くのは無理だろう」
「お侍さん、そりに乗せるだ。もう下りだ」
倉蔵のい葉に、橋本が頷いた。
「そうか、それがいい」
頷いた赤沢は、、土間の柱に縛り付けた二人を見た。
「橋本さん、彼奴らはどうする?何者かちょっと痛めつけて吐かせようか」
赤沢がいうや、土間に降りようとした。
「ちょっと待ってくれ。どうせ新発田藩の者だろうから某が聞きだしてみよう」
橋本は、土間に下りて二人の前に立った。
「おぬしたち、某を溝口順之助と知って襲ったのか?」
二人は黙っていた。
「誰に頼まれた?家老の山形か、側用人の相葉か、それとも目付の轟か」
二人は下を向いた。
「いいたくなければいわんでいい。今、新発田藩はどういう状況になっているかお前たち知っているのか」
二人に橋本は、顔を近づけた。
「私腹を肥やしている奴らはいい、藩がつぶれても、自分の金はある。汚ねえ奴らだ。おぬしたちは、藩がつぶれてもいいのか。藩の騒動が、幕府に知れたら元もこうもないぞ。幕府の隠密がもう城下に入っているかもしれん」
二人は、俯いていたままであった。
「早く、騒動を片づけなければならん。お前たちを殺すことはせん。明日、逃がしてやるが、もう二度と俺を付け狙うな」
夜が明けた。青空からの光が雪坂道を照らし始めていた。
既に土間の柱に縛り付けられていた二人は、いなかった。
橋本が、隣に寝ている銀之助に声をかけた。
「傷はどうだ」
「おかげさまで、痛みは取れました。もう大丈夫です」
「無理はするな。まだ新発田まで長い」
「飯ができたぞ」 倉蔵の声がした。
「銀之助さん、肩を貸そうか」赤沢が心配そうにいった。
「大丈夫です」
銀之助は、丸棒を支えにして立ち上がり囲炉裏端まで歩いて行き、座った。
倉蔵が、囲炉裏に掛けた鍋から皆の椀に雑炊をよそった。
「温かくてうまい」
橋本が唸った。
あっという間に鍋は空になった。
「ご馳走さま」銀之助が倉蔵に向かって言った。
そして、橋本に聞いた。
「あの侍たちは、やはり新発田藩のご家来ですか」
「二刀流は、佐藤泰助と名のった。奴は、新発田藩でもかなりの使い手のようだ。銀之助さんだからこの程度の傷で済んだんだが、某だったら、もうこの世にはいないかもしれん。敵にすると手ごわい相手になるだろう。もう一人は、丹羽惣助といっていたな」
「橋本さん、どうして、逃がしたんだ」赤沢が口を挟んだ。
「奴はまだ若い。藩にとって役に立つ人材だ」
「そろそろ行くだ」倉蔵の声が外からした。
銀之助が、丸棒をたよりに立ち上がった。
板戸が開いた。
倉蔵が、そりを用意していた。
「今日ぐらいは大事を取った方がいい。そりに乗ってくれ」橋本と赤沢が銀之助の両腕を取った。
銀之助はあきらめ顔でそりに乗った。
「では行くだ」
倉蔵が、銀之助の乗ったそりに付けた縄を引いて歩き始めた。
二ツ刻ほど歩いて、峠を下り終えた。
そして三人は、峠に戻る倉蔵と別れた。
赤沢がそりを引いた。
四半刻で浅貝宿に着き、旅籠に入った。
「赤沢さん、疲れたろう。先に風呂に入ってくれ」
橋本が言った。
「銀之助さんは、どうする」
「橋本さん、次に入ってください」
銀之助が風呂から戻って来たときには、すでに膳が用意されていた。
「まだ油断はできんので、酒は断った。越後の酒はうまいんだがやむおえん」
橋本が、残念そうに言った。
膳には、焼いた塩鮭、香の物そして、けんちん汁がそれぞれの器に盛られていた。
女が、椀に飯をよそった。
「新潟の米は、さすがだ」赤沢が唸った。
銀之助が、飯を口にした。
「米の艶といい、ふっくら感そして香りがまたいいですね。おかずは何でもあいます」
「けんちん汁もうまい。この香の物は何んだ」赤沢が、聞いた。
「野沢菜だ。冬に備えて漬けていたものだ」橋本が答えた。
銀之助が野沢菜を口に入れた。
「さすが、雪国。漬物は天下一品です」
「そうだ、越後の冬は長いで、保存食が多いのだ」
橋本が、憂鬱そうにいった。
「この塩鮭もうまい」
「これらはなかなか江戸では食べられませんよ、赤沢さん」
銀之助がいった。
橋本が苦笑いをした。
「銀之助さん、越後はなんたって、米と酒だ」
「橋本様、飲みたいのでしょう」
橋本は、笑った。
三人とも飯のおかわりを三回も頼んだ。
「おかわりは、もういいのかい。遠慮はいらないよ」
皆もういいといったのを聞いて、女は、手際よく片付けをし、三人の布団を敷いて部屋を出て行った。
「越後の女は、よく働くな」赤沢が感心していった。
「行灯、消しますか」銀之助がいった。
「何が起こるかわからんから点けておいてくれ」
橋本が答えた。
銀之助は、寝付かれなかった。
(なぜ、斬られたんだ。油断からか?いや、未だ、二刀流相手では、勝てないということか)
銀之助は、実は中西派一刀流の免許皆伝の持ち主で、今まで誰にも負けたことがなかっただけに、自信を失いかけていた。
三人は、何事もなく二居宿、三俣宿を過ぎ、湯沢宿で宿を取った。
框に腰を掛けて、女たち三人に銀之助たちは足をゆすいでもらった。
「お客さんたち、江戸から来なさったか」
「分かるか」赤沢が答えた。
「喋りでわかるだ」
橋本が部屋に入って、言った。
「湯沢は、温泉がいい、湯治に来るものが多いんだ。ゆっくり湯に浸かって来てくれ。某は、荷物番をしている」
「橋本さん、お先に入らせてもらいます」
赤沢と銀之助は、手拭いを持って風呂に行った。
四半刻過ぎて、銀之助たちは戻った。
某も入って来ようといって、橋本は、部屋を出て行った。
長い廊下を過ぎると、温泉場があった。その前座っている女が、橋本に向かっていった。
「お背中流しましょうか」
「頼む」
着物を脱ぎ、裸になった。
柘榴口から行燈の光が湯気を照らしているほの暗い風呂場に入った。
「まずは湯に浸かって下さいな」
「誰もいないようだな」といって、湯の中に浸かった。
佐藤や丹羽はどうしただろうか?新発田に戻って行ったか)橋本は、あれやこれやと思いを巡らしていると・・。
「お客さん、もういい加減に出なよ」
女の声がした。
橋本はふと我にかえった。
洗い場で、女に背を流された。
「お客さん、これからどう?」
「疲れているからすぐ寝る」
橋本は、女にいくらか渡して、部屋に戻った。
その晩も交代で起きて、注意を怠らなかった。
何もなく、朝を迎えた。
昨晩の雪はやんでいたが、どんよりとした空が三人の心を重くしていた。
朝餉を終えると、橋本が、立ち上がった。
「銀之助さん、具合はどうだ」
「おかげさまで、すかっり良くなりました」
「では、出発しよう」
三人は身支度を終え、六ツ刻半に宿を発った。
関宿、、塩沢宿、六日町宿、五日町宿、浦佐宿、堀之内宿、川口宿、妙見宿、そして六日市宿を過ぎて、長岡藩十一万五千石の城下に入った。
長岡藩主は九代目ので、昨年七月より、江戸幕府の老中を勤めている大物であった。
橋本たちは、長岡藩家老の稲垣平助の屋敷を訪ねた。
「頼もう」
橋本は、出てきた門番に取次を頼んだ。
「おう、新発田の若様、どうされました?」
年老いているが貫禄のある侍が、迎えに出てきて、橋本順之助と銀之助たちを、屋敷の中に案内した。
年老いた侍は、永易次郎座衛門といった。
永易は、三人を客間に通した。
「常在戦場か」
橋本が、壁に掛けられた額の四文字を声に出した。
「貴藩に高野泰助殿という御方がいらっしゃるとか」
橋本がいった。
「様ですか。いらっしゃいますが、何か」
「江戸でも高名なお方と噂されているので、一度お会いしたいと思っていたのだが」
「そうですか。よろしければ、今お呼びしましょう」
「忝い」
永易は、部屋を出て行った。
「高野様とは、そんなに偉い方なのか」
赤沢が橋本の顔を見ていった。
「老中の松平定信公が、当藩主の忠精様に泰助は君子だ。彼を厚遇すべきだと、高野殿は、謹厳実直で、学問を好み、兵学に通じ古典に精通した儒学者だ。忠精さまに仕え、節約と勤勉の風を長岡藩に定着させた立役者だ」
「初代藩主牧野忠成は‘常在戦場’といって、常に気を引き締めさせて藩を統治してきたと聞いています」
「銀之助さん、良く知っているな」
「いや、橋本様。店のお客から聞いた話です」
銀之助は、頭をかいた。
永易が、高野を連れてきた。
「高野泰助でござる。某に何か」
「溝口順之助と申します。訳けあって橋本と名のっております」
橋本が、赤沢と銀之助を紹介し、高野に藩の統治についてご教授願いたいと高野に頭を下げた。
「拙者でよろしければ」と言ってから、、訥々と藩民の安定のために、藩主の修身治国の心得について熱弁をふるった。
「橋本殿、これを貴殿に差し上げよう」
高野が一冊の本を橋本の前に置いた。
‘粒々辛苦録’と書かれていた。
「忝い」
「お役にたてば何よりでござる」
高野は後があるのでと言って、部屋を出て行った。
翌日、長岡藩の侍が、橋本達を新発田藩との国境まで見送りに来た。
「世話になりました。では、ここで失礼いたす」
橋本は、見送りの侍に頭を下げた。
赤沢が先頭になり、橋本を挟んで銀之助が最後を歩いた。四半刻ほど歩くと、二人の侍が、赤沢の前に現れた。
二刀流の使い手の佐藤泰助と丹羽惣助であった。
「貴様たちは、この間の・・」赤沢が鯉口を切った。
佐藤が手を振って制止し、丹羽は、橋本の斜め横に膝まづいた。
「轟様の命で、若様をお迎えに参りました。我らは心を入れ変えております。もう既に側用人の相葉様は、幽閉いたしております。あとは筆頭家老の山形様と側室のお高様そして一太郎君の処分です。若様、次席家老 中之口様のお屋敷にご案内いたします。皆様、どうぞ駕籠にお乗りください」
駕籠が三丁、三人の前におろされた。
半刻後、橋本たち三人は、中之口の屋敷に入った。
白髪の初老の中之口が、涙を流して出迎えた。
「若様、よく御無事で」
「挨拶はよい。中之口、藩はどうなっているのだ。仔細を聞かせてくれ」
「はい、承知いたしました」
中之口は、銀之助と赤沢に、部屋でゆっくりするようにいって、佐藤泰助に
部屋に案内するよう命じた。
「お二人には申し訳ないが、わたくしも若様と談合がありますのでここで失礼いたす」
銀之助と赤沢は、部屋に入った。
「銀之助さん、あのような立派な駕籠に乗ったのは初めてだ」
「さすが、藩主の息子様への対応は違いますね。それにしても広い部屋ですね」
「新発田藩二番家老の屋敷のわりに、造作は大したことはないな」
「藩の財政事情を思い、清貧の生活を送っているのでしょう」
しばらくして、女中が白湯を運んで来て、その後すぐに、十代後半に見える侍が部屋に入ってきた。
「この度は、若様をお守りしていただいたそうで、ありがとう存じます」
三人は、簡単に挨拶をすませた。
若い侍は、小西一郎太と名乗り、新発田藩の歴史と内情を話しはじめた。
「溝口家は、美濃国が発生の地で、その後尾張の溝口郷に移った時に、今の溝口を名のったようです。そして、信長、丹羽長秀、秀吉に仕え、六万石を与えられ、この地に来たそうです。つい最近では、八代の直養(なおやす)様は、道学堂という藩校を創られ、身分、男女問わず入校しています。他の藩と比較しても、藩民の読み書きや計算能力は劣ることはないと思います」
一郎太は、ひと息ついてまた話しはじめた。
「道学堂では、朱子学を学ばせました。直養様は、朱子学以外は禁じ、徹底的な封建体制の維持を図ろうとしたのですが、多くの反発を買ってしまいました。当藩は大量の年貢米を堂島に出荷しています。直養様が窮しているときに、筆頭家老は、悪徳米商人と手を組んで、貴重な年貢米で私腹を肥やせて贅沢三昧をしています。私は、彼らを許せません。あなたがた様のおかげで、側用人の轟様たちは、我々に組するようになりましたが、まだ、山形様とお高さまは、一太郎君を藩主にすべく暗躍をしておりまする。早く、御世継問題を解決しなければ、藩の存亡にかかわります」
四半刻、一郎太の話は続いた。
「幕府はもう目を付けているのか」
赤沢が唸った。
「赤沢様、橋本様をお守りしなければ」
銀之助が、赤沢を見た。
「我々も若様の警護は怠りませんが、赤沢殿、銀之助殿。若様をよろしく頼みます」
一郎太は、深々太両手をついて頭を下げ、何か不自由なことが有ればだれにでも声をかけてくれといって、退出した。
「銀之助さん、幕府の隠密が秘かにこの藩の情勢を探っているとなると厄介だな」
「そうですね、隠密の正体を早く暴かないと大変なことになります」
何か用方法はないかと、銀之助と赤沢は、頭を絞った。
二人は、風呂に入り、女中が持ってきた着物に着替えていた。
旅の疲れが出たせいか、赤沢は、火鉢にあたりながらうとうとしていた。
銀之助は、煙草を吸いながら隠密対策を考えていた。
七ツ半刻、一郎太が夕餉の支度ができたので、部屋に案内するといって来た。
客間に入ると既に溝口葵の紋の付いた浅黄の小袖に袴のいでたちの橋本順之助いや、溝口順之助が、下座に座っていた。
部屋の四隅に置かれた行燈は、旅籠とは格段に違い部屋全体を明るくしていた。
「お二人、そこに座ってくれ。新発田藩の大事な客人じゃ」
二人を床の間を背に座らせると順之助が、手を叩いた。
「赤沢さん、銀之助さん、世話になった。今晩は遠慮なく飲んで食べてくれ」
女たちが、膳を運んできた。
鮭けんちん巻、しめじのしらあえ、(現在のがんもどき)、かきあえなますが美しい漆器に盛られていた。
銀之助は立派な器に目を見張った。
(器は料理を引き立てる、まさに最高ののもてなしだ)
赤沢の背筋が伸びた。
酒も運ばれた。
女たちは、、三人に酌をして、部屋を出て行った。
「何とか無事についてよかった。一時はどうなるかと心配だった」
順之助が、盃を飲み干していった。
赤沢は、鮭けんちん巻を口に入れた。
「うまい。いい味だ」
「ここでは、鮭けんちん巻と呼んでいる田舎料理だ。赤沢さんに気に入ってもらってよかった」
「かきあえなますも美味しいです。橋本様、いや溝口様、これからが大変ですね。我々も微力ながらお手伝いをさせていただきます。何なりとおいいつけ下さい」
「銀之助さん、今まで通りの橋本で結構だ。気を使わんでくれ。早速だが、酔う前に、二人に頼みがある」
順之助は、盃を置いて話し始めた。
その依頼とは、佐藤泰助と丹羽惣助の両名と一緒に幕府の隠密を探し出して捕縛してほしいと、疑わしい人物を数人小声で挙げた。
「溝口様、承知いたしました」
銀之助が、言った。
「幕府が相手か、それは面白い」
赤沢は声を落として笑いながら言った。
「佐藤と丹羽の両名が、その男たちに探りを入れ、その方たちに丹羽に逐次報告するように命じておいた。藩の存亡がかかっている、よろしく頼む」
順之助は、二人に頭を下げた。
そして、女中を呼んで、温かい酒を持ってくるよう命じた。
「さあ、旅の疲れを取るために飲もうではないか。遠慮せずに食べてくれ」
半刻ほど過ぎた。
「若様、失礼いたします」
佐藤と丹羽が襖戸を開けて、部屋に入って来た。
順之助は、佐藤に隠密の動向について、説明をさせた。
隠密は、現在本丸の普請にかこつけ、左官職人に成りすまして毎日城内に出入りしており、佐藤の手下に四六時中見張らせているとのことであった。また、轟の手下のくノ一菊にも場外で探りを入れさせており、その状況も説明した。
銀之助と赤沢は、さらに佐藤たちに隠密の動向について問うた。
「赤沢さんと銀之助さんとの連絡を密にして、一日も早く、対処してくれ。くれぐれも気を付けてな」
女が、酒を運んできた。
「お二人に酌をしてさしあげろ」順之助は、佐藤と丹羽にいった。
「この度は、手傷を負わせて申し訳ございませんでした」
佐藤は、銀之助に酌をしながら詫びた。
銀之助は、佐藤に二刀流について、いろいろ尋ねた。
障子戸の向こうから、若様と声がかかった。
「一郎太か、すぐ行く」
「某、しばし退席するが、赤沢さん、銀之助さん、ゆっくり飲んでいてくれ。佐藤と丹羽、お二人に失礼がないよう頼むぞ」
順之助は、家老の山形と側室お高の対応に追われた。
目付の轟の働きによって、家老の取り巻き連中は日が経つにつれて、山形やお高から離れて行った。
山形は、順之助に刺客を何度も放ったが、すでに多勢に無勢で相手にならなかった。
順之助の山形包囲網作戦により、一か月後、家老の山形玉衛門は切腹し、側室のお高が一太郎を伴って、自害した。賄賂を贈っていた米問屋の川崎屋は、新発田藩領地から追放となった。
銀之助たちも隠密を追いこんでいた。
夜、五ツ半刻(午後九時)、雪がやみ、順之助と居候している二番家老の屋敷は静まりかえっていた。
銀之助と赤沢は、深い眠りに入っていた。
「赤沢様、銀之助さま」廊下で女の声がした。
銀之助は、丸棒を掴んでいった。
「菊殿か」
「はい。今、城下の旅籠で、幕府の隠密たちが談合しています。至急佐藤様がお二人に来ていただきたいとのことです」
「承知した」
赤沢も目を覚まし、長刀を掴んで立ち上がった。
「相手は、何人だ」
「五人のようです」
「銀之助さん、一人も残さず召し捕えよう」
二人は、腹に縄を巻き、蓑を着、笠をかぶり、提灯を持った菊の後について屋敷を出た。
目的の旅籠の前に来ると脇道に佐藤、丹羽の二人が、銀之助たちを手招きした。
旅籠の前の外行燈の光が、静けさを醸し出している。
「どうしたものか」
赤沢が、佐藤にいった。
「奴らは、二階のあそこで談合しています」
佐藤が、明かりが漏れている雨戸を指差した。
「外に面しているところは、他には」
銀之助が、囁いた。
「あそこだけです。某と丹羽が中に入って敵を襲撃します。赤沢殿と銀之助さんは、あの雨戸の前で逃げ出る敵を待ち受けてもらえませんか。裏に梯子を用意してあります。菊は、中の階段の下にいてくれ。宿の主人には、いつでも立ち入ることを伝えてあるので、入り口は開いています。入ってその旨をいえば、騒がずに対応してくれるはずです」佐藤の声が震えていた。
皆、頷いた。
佐藤は、銀之助たちを裏に連れて行き、屋根に梯子を掛けた。
「では、佐藤殿、丹羽殿。気を付けてな」と言って、赤沢と銀之助は、梯子を上って行って行き、雨戸の際に座った。
佐藤たちが手を上げて、宿に入った。
‘ガタガタ、ドスーン’
「静かにしろ」
「何者だ」
雨戸から明かりが消えるや否や、雨戸が打ち破られて、商人姿の男が匕首を持って飛び出してきた。
銀之助の丸棒が、男の脛を打った。
「痛!」と叫んで前のめりになった時、、赤沢が男の背に峰打ちを入れた。
男は俯せに倒れ気を失った。
すぐに二人目が飛び出してきたが、倒れている男に足を取られ、よろけた。
銀之助が、それを見過ごさずに男の足を払った。
「ぎゃっ」赤沢は、肩を打った。
銀之助と赤沢は、二人を縛って、部屋を覗いたその時、
「動くな、動くと撃つぞ」
銀之助と赤沢に二人の男が短銃を向けた。
もう一人は、佐藤と丹羽に対峙していた。
佐藤たちの動きが止まっている。
「動いてみろ、お前らの命はねえぞ」
‘バーン’
男の手首に十字手裏剣が刺さった。
「早く」菊の声がした。
銀之助と赤沢は、二人の男をそして、佐藤も男の腹に峰を打ち込んでいた。
「菊、助かったぞ」丹羽が、刀を鞘に納めながらいった。
銀之助と赤沢も菊に向かって、頭を下げた。
享和二年(一八〇二)十一月、新発田藩十代藩主は、四歳のが相続した。
順之助は、父親の時と同じように、直諒の後見人を親族であった三河吉田藩主松平信明に依頼した。
銀之助と赤沢は、夕餉を取っていた。
「赤沢さん、揺れていませんか」
「地震だ、外へ出よう」赤沢は、障子を開けて庭に飛び出した。
しばらくして、揺れは収まった。
「ちょっと大きかったな」
「火の手は上がっていないようですね」
しばらくして、一郎太が二人の安否をうかがいにやって来た。
「大丈夫ですか?」
「おぬしたちも怪我はなかったか」
赤沢が、庭で答えた。
「寒いから上がって下さい」
銀之助と赤沢は、縁に腰かけ足袋を脱いで部屋に上がった。
数日後、この地震で、佐渡ではかなりの被害が出たことを銀之助たちは知った。
「赤沢さん、溝口様のお手伝いもこれまでで、あまり長居は迷惑になります。江戸へ帰りませんか」
「某も、江戸が恋しくなってきたところだ。おすみさんたちも心配しているだろう、銀之助さんの事を」
赤沢は、煙管を火鉢の角でたたいた。
「赤沢さん、何をいっているんですか。長屋の皆が、赤沢さんの事も心配しているでしょう」
降る雪が、行灯の明かりに障子に照らしだされていた。
「しかし、この雪では、帰るのも大変ですね」
銀之助は複雑な気持ちになった。
七ツ刻、順之助が屋敷に帰ってきた。
「若様、銀之助さんたちが、お話があるとのことですが」
一郎太が、順之助が着替えているところにやって来て、伝えた。
「そうか、すぐに行く」
「溝口様、お勤めご苦労様でした」
銀之助は頭を下げた。
「堅苦しいことは抜きにしようといっていたはずだが。二人とも改まってなんだ」
「江戸が恋しくなってきたものですから、そろそろお暇しようかと」
「それはまた、急なこと。二人にはだいぶ迷惑をかけた。いつ発つかな」
「明後日にでもと思っています」
「そうか、江戸の正月には間に合うな。おすみさんたちも待っているだろう。長屋の連中も、懐かしいな」
順之助は、一時思いにふけった。
「溝口殿。江戸に来た時は、銀之助さんの店に寄って下さい」
「江戸に行くのを楽しみにしている」
「是非」
銀之助が、笑顔でいった。
「二人とも、今日はゆっくり飲もう」
「はい」
順之助が、手を叩いて女を呼び、酒の支度をするように命じた。
女たちは、膳と酒を運んできた。
「大したものはないが、ゆっくりやってくれ」
銀之助は椀から里芋やこんにゃくを食べると、順之助に向かっていった。
「これは、‘のっぺ’ですか。美味しい」
「さすが銀之助さん、その通りだ」
赤沢も、のっぺに箸を付けた。
「これはうまい」
三人は、酒を飲みながら別れを惜しんで、明け方まで、江戸での話に花を咲かせた。
朝が来た。
雪はやみ、陽が万遍なくあらゆるものを照らしていた。
順之助たちに見送られて、銀之助と赤沢、佐藤泰助と丹羽惣助そして、四人の中間たちは、新発田街道を西へと歩き始めた。
銀之助たちが見えなくなるまで、順之助が見送っていた。
昼前ごろに、銀之助たちは小春日和の江戸に入り、うまいもん屋の暖簾をくぐった。
「ただいま」と、銀之助が大声を出した。
「おかえりなさい」おすみが銀之助の声を聞いて勝手場から飛び出てきた。
(おわり)
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