第一話 安永地震(秋)
「なんてひどい有様なんだ」と言いながら、目に涙を浮かべながら男が歩いていた。
秋が終わりかけていた江戸の朝、焦げ焼けた臭いがあたり一面に漂っていた。
数日前の地震によって引き起こされた火事場跡からによるものであった。
この地震によって、一夜にして多くの府民が命、家屋そして財産を失った。
急場しのぎで設置されたお救い小屋では、握り飯と汁をもらいに老若男女の人々たちが長い列を作っていた。
その男は廃材置き場に立ち止まった。
ただ汚れているが決して安物の衣服には見えない着物を着たその男は、
「神も仏も一体何しているんだ」とつぶやいた。
そして、腰をかがめながら選別しながら木材を集めた。
「こんなもんでいいだろう。作るとするか」と男は、自分で書いた図面を見ながら、集めた木材を切ったり、打ち付けたりして、一日かけて組み上げた。
「やっとできた」と言って、額の汗をぬぐいながら、きりっとしまった顔に安堵の色を浮かべた。
出来上がったのは、担ぎの屋台で、見たからに頑丈そうであった。
「寝る場所を確保するための腰かけを作らねば」と言って、再び木材を組み立て始めた。
組み合わせて練れるように、四つほど作り終えたのは暮六ツを過ぎていた。
昼に作った吊るし行灯に火を入れた。
そして、柳行李からを取り出して、筆に墨をつけすらすらと文字を書き始めた。
「一うどん代十六文 一そば代十六文 一しっぽく代二十四文 うまいもん屋、これでよし」といって、書きあげた紙を屋台に張り付けた。
屋台で一晩過ごして、朝を迎えた。
男はお救い小屋でもらった握り飯を食べ終わると、瀬戸物屋とうどん蕎麦類の卸問屋を探して、材料を都合するだけでなく、今後の取引の継続も頼んだ。
陽が落ち始めた頃、男は疲れていたが、万事が整った満足感から、明日から頑張るぞと意気込んだ。
は翌日から、男は、昼夜を問わず、屋台を担ぎ蕎麦とうどんを売り歩いたが、町には家を失った人たちがあふれており、蕎麦を食う金も持ち合わせていない者も多く、一向に売り上げははかばかしくはなかった。
それどころか、男は、腹をすかした者たちにただ同然にそばやうどんを食べさせてやった。
三年が過ぎ、将軍は綱吉から家宣に代わっていた。
男は、担ぎ屋台で稼いだ金を元手で、浅草金竜山門から多少離れた所に’うまいもん屋’という小さな飯屋を構えていた。
男は、銀之助と名のっていた。
この浅草界隈では、彼の素性を知る者はだれ一人としていなかったが、昨年の地震の後にそばやうどんを食べさせてもらったことを覚えている者は多かった。
その人たちが銀之助の店を贔屓にしてくれたので、店は繁盛した。
第二話 舞い込んできた娘(冬)
今年もあと三日。
八ツ半(午後三時)、浅草界隈は、新しい年を悔いないように迎えようと、人々があわただしく動き回っていた。
浅草寺に続く道に沿った店の多くに、門松やお飾りが取り付けられていた。
その中の一軒‘うまいもん屋’と書かれた高障子戸を、荒々しく娘が開けた。
鈴が、鳴った。
「すみません、まだなんですが」
銀之助は、勝手場から出てきた。
「何か食べ物を・・・・」
髪を乱し、うす汚れた木綿の着物をまとった娘が、入口に立っていた。
尋常でないと察した銀之助は、娘を店の中に入れた。
「さあ、座んな。今、食べ物を持ってくるから」
勝手場から田楽豆腐を取って来て、娘に渡した。
娘は、皿を抱え込んだ。
「これなら腹にたまるぞ」といって、菜飯を持ってきた。
娘は、すぐ椀をからにした。
「まだ、食べられるかね」
「いやもうお腹いっぱいだ」と娘はいって、黙りこんだ。
「娘さん、名は」
「おさと」
「歳はいくとかね」
「十六歳だ」
「おさとさんはどこの生まれだい」
「秩父」
娘は、ポツリポツリと話し始めた。
昨年、秩父では飢饉で餓死者がたくさん出て、字が読めない多くの親たちはだまされて、あたしたち若い娘を女衒に売り渡してしまった。おさとも秩父から出て途中、だまされたことを知り、手引きと女衒が休んでいるときに、逃げ出してやっとの思いでここにたどり着いたと。
(田舎は、大変なことになっているんだな。細かなことは落ち着いてから聞き出すか)
銀之助は、おさとを勝手場に連れて行き、百文を手渡した。
「おさとさん、これで着物を買って、湯屋に行ってきな」
おさとは、何度も頭を下げながら、礼をいって、裏口から出て行った。
いつの間にか、闇が店の周りを覆い始めていた。
銀之助は、行灯に灯を入れた。
最初の客が、障子戸を開けて入ってきた。
「いらっしゃい」
「酒二合、頼む」
「はい」
その客に続き、客が入れ代わり立ち代わりやって来て、応対に銀之助はてんてこ舞いであった。
半刻(一時間)ほどたって、湯屋から戻ったおさとが店を覗いた。
(お客さんが、いっぱい)
そして、勝手場に行った。
「御主人、手伝わせてくれ」
おさとがいった。
「えっ、あのおさとさんかい」
先ほどのみすぼらしいおさととは、見違えるような美しい娘に変っているのに銀之助は驚いた。
「ちょっと待ってくれ」と銀之助は二階から襷と前掛けを持ってきて、おさとへ渡した。
黄の小袖に紺の前掛け、
「おさとさん、似合うね」
おさとはてれた。
「おさとさん、この銚子、奥の席にいる二人組のところに運んでくれないか」
「うんだ」
おさとは、てきぱきと銀之助のいうことに従って、こまめに働き回った。
夜五ツ(八時)、客がいなくなったのを確かめ、銀之助は店を閉め、片付けはじめた。
おさとも銀之助にならって、客の使った銚子や皿を洗い片付けた。
それが終わると、行灯の灯も近くを残して落とし、二人は長椅子に腰を下ろした。
「おさとさん、これからどうする?」
「御主人、実は・・・・」
「なんだ」
「ええ、ここで働かせてもらえねえか、飯だけ食べさせてもらえばいいんだ」
「おさとさんが、よければいいけど」
「一生懸命やるだ」
「分かった、じゃあ、やってみるか」
「御主人、ありがとう」
「寝るところはどうするか?」
おさとは、黙った。
「今夜はここへ泊っていけ。明日、住む場所を探してやろう」
「何から何まで、すまねえ」
銀之助は、おさとに留守をに頼み、湯屋に行った。
翌朝。
銀之助は鍋の昆布のだし汁に、醤油、酒、塩を加え、そして卵を入れ泡がたつまで手際よくかき混ぜ、火の入ったかまどにのせた。
また、棒手振りから買った蜆を使って、味噌汁を作った。
「さあ、できあがりだ。飯にしよう」と銀之助はおさとに声をかけた。
「おいしい、これ、何というんだ」
「玉子ふわふわというんだ」
銀之助とおさと二人は、玉子ふあふあと豆腐の味噌汁を食してから浅草寺の裏手の自身番に向かった。
自身番の障子戸を「おはようございます」と挨拶しながら開けると、源治が二人を迎えた。
「銀之助さん、朝早くからどうしたんだね」
「へい、御相談したいことがあるんで」
銀之助は、おさとを紹介し、おさとの住む所がないかと源治に尋ねた。
「そうだな、徳さんの長屋が空いているかもしれん、おーい、徳さん」
奥から、徳衛門が出てきた。
「おはよう、銀之助さん。どうしたのかね」
銀之助は、おさとを徳衛門に紹介した。
源治は、徳衛門におさとのことを話した。
「おさとさん、ちょうど一軒空いているんだが、うちの長屋でよかったら、いいよ」
おさとは、銀之助の顔を見てから、徳衛門に向かって頭を下げた。
「おさとさん、俺もちょっと前までは、徳衛門さんの長屋に世話になっていたんだ。長屋の住人は、いい人ばかりだから安心しな」
銀之助は、ほっとしたように頷いた。
銀之助とおさとは、徳衛門に連れられて、長屋に入った。
家は、こぎれいにされていた。
「おさとさん、今日、明日で、道具をそろえたらいい。あさって、明け五ツ(八時)に店に来てくれ」といって、銀之助は、二百文をおさとに渡そうとした。
「こんなにもらっちゃ」
「昨日の手間賃だ、遠慮はいらねえよ。布団や鍋釜、買いな」
銀之助は一軒一軒まわって、長屋の住人におさとを紹介し、面倒を見てくれるよう頼んだ。
江戸は、大晦日を迎えた。
朝早くから、「おうぎ、おうぎ」と扇売りが、何度もうまいもん屋の前を通り過ぎて行った。
店の勝手場では、銀之助が、年越し蕎麦を打ち、おさとが切り、粉をつけて一人前ずつ分けていた。
二十人前ぐらい作り終えた。
銀之助は休むもなく、もち米をふかし始めた。
「おさとさん、餅つきはしたことがあるかね」
「ええ、田舎で毎年、名主さんの家でやっただ」
おさとの目から急に涙が、こぼれ始めた。
銀之助は、おさとの身の上に同情し、話しかけるのをやめた。
(泣きたいだけ泣かせてやろう)
「御主人、すみません」
銀之助は、昨日洗った臼と杵を店の外に運んだ。
「おさとさん、ふけたら持ってきてくれ」
「はーい」
銀之助は、杵でつき、おさとはこねた。
最初はぎこちなかったが、すぐに二人の呼吸は合った。
「おさとさんは、こねるのがうまいな」
「御主人はつくのが上手ですので」
「わいわい」と、近所の子供たちが嬉しそうに集まってきた。
「おじさん、やらせてよ」
「よし、やってみな」
子供たちは腰をふらつかせながら、何とか振り下ろすことができた。
皆、笑ってみていた。
つきあがった餅を二人で丸め始め、出来上がったものを子供に与えた。
「おさとさん、残った餅は、正月、我々が食べたり、お客に出したりしよう」
昼になり、店を開くやいなや、途切れることなく、年越しそばを食べに客がやってきた。
「すごい」と、おさとは驚いた。
「これほど来るとは」と、銀之助も蕎麦が足りるか心配になってきた。
銀之助は蕎麦を茹で皿に盛り、それをおさとは、客へ運んだ。
蕎麦だけでなく、酒やつまみの注文もあり、二人とも、ひと息も付かずに働いた。
夜五ツになって、とうとう蕎麦が無くなり、ようやく店を閉めることができた。
「おさとさん、ご苦労様。来年は四日からまたよろしく」
「はい、こちらこそ」
銀之助はおさとに客商売だからと言って、少しずつ話し方を教えていたので、最近では、姿格好だけでなく話し方も、秩父の田舎から出てきた娘とはだれもが思わず、銀之助の妹と思っていた。
おさとが帰ると、今までの喧騒とは裏腹に静けさが銀之助をおそった。
銀之助にとって、‘うまいもん屋’で正月を迎えるのは初めてのことであった。
浅草寺で打たれた除夜の鐘を聞きながら、眠りの底におちいった。
そして、銀之助は、一人だけの静かな元日を迎えた。
まだ町は闇の中に包まれていたが、空を見上げると星がいっぱい輝いていた。
「今日は、天下晴れだ。縁起がいいぞ」
さっそく、浅草寺へ明け六ツ(朝六時)に詣でた。
夜が明けていないのに、参道は初詣で身動きが取れないほどの人出であった。
やっとのことで、銀之助は、一すくいの煙を体に浴びせそして、本堂に上がると読経の声が響き渡っていた。
「まかはんにゃはらみったしんぎょうかんじざいぼさつ ぎょうじん ~」
(本年も良い年でありますように)と、手を合わせた。
「銀之助さん、本年もよろしく」
拝み終わって、帰ろうと振り向いた時、銀之助は檀家総代の与助から言葉をかけられた。
挨拶を返した銀之助は、ここで働けるのは、与助さんたちのおかげだと礼を言い、そして、店で働いているおさとのことを手短に話した。
「銀之助さん、それは良いことをしおったな。何か困ったことがあったら遠慮なく言ってきなさい」との与助の言葉に礼を言い、寺を辞去した。
あてもなく、銀之助は歩いた。
腹が空いてきたので、近場の蕎麦屋に入った。
「いらっしゃい」と女が声高らかにいった。
店は初詣の帰りの着飾った人々で繁盛していたgy。
席に案内された銀之助は女に注文した。
「酒と田楽豆腐と納豆汁をもらおうか」
酒が飲みながら、田楽豆腐を味わった。
(これは、うちよりちょっと甘みがあるな。うまい)
蕎麦が運ばれてきて、それを食した。
(なるほど、二八か)銀之助は唸った。
(このぐらいのこしの強さを店で試しに作ってみるか)
三が日の間、銀之助はあちらこちらの料理屋に行って、食べ比べをした。
四日、銀之助は、勝手場で昼の準備をそして、おさとは、店前の通りを掃除していた。
「あんた、秩父にいたおさとさんかい。やっと見つけた」
おさとが顔を上げると、顎から耳元までが張りついたような傷を持った男が立っていた。
「どちらの方?」
「あんたの親父に金貸した、丸金の助五郎というもんだ」
「何の用ですか」
「あんた、逃げたんだよな。おかげでこっちに銭が入ってこないんだ。早く女衒のところへ連れていく。それとも、返してくれるか」
「いやだ」
「十両なんだが、一年たったもんだから、三十両になっちまった」
「三十両、そんな!」
「払えなけりゃ、女衒に連れ戻す」
おさとの顔色は真っ蒼になっていた。
「おさとさん、どうした」
銀之助が近づいて来たのを機に、助五郎は着物を端折っておさとから離れて行った。
「おさとさん、あいつは誰だい?」
おさとは黙った。
「いいたくなけりゃ、言わなくていいよ」
銀之助は、店の中に入って、まずは田楽豆腐を作るために、豆腐をいくつも長方形に切って、それを串に通し始めていた。
(あいつはやくざ者だな。正月から、厄介なことが起こりそうだ)
おさとも勝手場に入って来て、銚子、徳利、茶碗を出し始めた。
(あの助五郎ってやつ、またきっと来るわ。どうしよう)
ガチャアーン
「すみません」
おさとは、泣きそうな顔をしていった。
「気にしなくていいよ」
おさとは慌てて、割れた茶碗を拾った。
「おさとさん、田楽のたれを作ってもらえないか」
「はい、どうしたらいいんですか」
「その棚にある、味噌、そして、少々水飴、酒、みりんを入れ、弱火でよく混ぜてくれ。
水や、みりんで適当な硬さを、いいやこれからは俺が見るから」
「どうですか、味は?」
「いい味だ。おさとさん、練馬から仕入れてきた大根を切ってくれないか」
昼九ツ、‘うまいもん屋’の今年最初の店開きの時間になった。
外は、待ちきれずに客たちが寒空の中で列を作って並んでいた。
銀之助とおさとはてんてこ舞いだった。
(だんだんお客が少なって来たわ)とおさとが思った時、 あの男が入ってきた。
おさとは、逃げるようにして、勝手場に入り、銀之助にあの男が来たことを知らせた。
「おーい、この店は注文を取りに来るのに時間がかかるのか」と、男が怒鳴った。
「へーい、今、行きます」と、銀之助は勝手場で返事をした。
「おさとさん、もう店には出なくていいから。二階に上がってな」
「御主人、すみません」
銀之助は、男の前に立って言った。
「お待たせしました」
「おせえな。酒二合と田楽豆腐を二本だ」
「へい、ありがとうございます」
銀之助は、勝手場に行き、手際よく田楽に味噌をつけ、温めた酒を徳利に二合入れた。
「お待たせしました」
「今度は、早えな」
銀之助が勝手場に戻ろうとした時、男が声をかけてきた。
「ちょっと待ちねえ」
「何か御用で」
「いつもの娘はいねえのか」
「ちょっと出かけてますが、何か」
「いや、なんでもねえ」
(しつこい野郎だ)
「他に何か」
「また呼ぶから、もういいぜ」
銀之助は、勝手場に戻り、客にふるまう雑煮を作り始めた。
先ほど切っておいた大根、小松菜と里芋を醤油味のすまし汁に入れて煮立たせ、焼いた切り餅六つを入れてた。
六つの椀に、手際よく温まった雑煮を入れ、客たち一人ひとりに運んだ。
「銀之助さん、これ頼んでないよ」
「祝いの雑煮ですから、銭はいりません」
「そうか、ありがたい。御馳走になるか」
そして、最後にあの男のところに行った。
「雑煮いかがですか、これは祝いの雑煮ですので、銭は戴きません」
「もらおう」
丸金の助五郎は、盃をおいていった。
銀之助は、椀を置いた。
「ほう、この雑煮は珍しいな」
「へい、これは家康様が江戸に来られて、譜代の家臣達に贅沢しないよう戒めるために考え出した雑煮でございます。江戸っ子はこの雑煮をよく食べていますが、江戸は、他国の者が多く皆自国の雑煮で正月を祝っているので、地元の江戸の雑煮を知っている方は少ないのです」
「もういい。おまえの名はなんていうんだ」
「銀之助と申します。お見知りおきください」
「ところで、娘はいつ帰ってくるんだ」
「ちょっと、出かけてくるといったんですが」といって、銀之助が立ち尽くしている間に、男は、一気に雑煮を食べ終えて言った。
「待て、いくらだ」
「へい、二十四文で」
「また来るからな」
三十文おいて、丸金の助五郎は帰って行った。
「おつりは」
「いらねえ」
助五郎が帰ってから、半刻ほどで客は一人もいなくなったので、銀之助は店を閉めた。
二階からおさとが下りてきて、銀之助の片づけの手伝いを終わった後に、おさとが青ざめた顔で言った。
「御主人、お話があるのですが」
「ここでいいかい」
銀之助は、樽に腰を掛けた。
おさとは、金貸しの助五郎から聞いた話を怯えながら話した。
「借りた十両が、三十両だと。高利もいいところだ。おさとさんは、おとっつあんが借金していたことを知ってたのかい」
「いいえ、何も聞いてません」
「身寄りはないのかね」
「上州にじいちゃんとばあちゃんがいます。まだ、生きていればですが」
「分かった」
「御主人、ご迷惑かけてすみません」
「今日は、ここへ泊って行った方がいい、明日早く、長屋においらが送って行こう」
翌朝七ツ。
銀之助は、裏口の戸をそっと開け外の様子をうかがった。
まだ暗く、あたりに人の気配はなかった。。
星が、寒空で震えている。
(よし、行くか)
銀之助は、階段の途中から、声を出した。
「おさとさん、起きな」
「ウ~、御主人」
「長屋に帰るぞ」
「はい」と言って、おさとが起き上がり着替えた。
銀之助は、階段を下りた。
おさとは、黄の小袖の上に紺の打掛をまとって、裏口に来た。
銀之助も外の闇に埋もれるように、紺下地の縞物小袖にこげ茶の羽織を着ていた。
二人は、前掛けを頭巾代わりに頭にかぶり、そして、銀之助が戸を開けながらいった。
「さあ、行くか」
二人は、店を後にし、浅草寺を抜けたところで、、銀之助は後ろを振り返りつけられていないことを確かめて、提灯に火を入れた。
身体が冷え切った二人は、棟割りの徳衛門長屋に着いた。
銀之助は、浪人の橋本順之助の住んでいる家の腰高障子に向かって、声を掛けた。
「銀之助です。橋本様、おはようございます」
「銀之助さん、こんなに早くどうした」と言いながら、橋本が戸を開けた。
「寒いから早く入んな」
「こんなに早くからすみません」
「一体どうした。まあ、きたない部屋だが、上がって温まってくれ」といって、すぐに敷き布団を三枚にたたみ、隅にどけて、火鉢を真ん中に置いた。
「ちょっと、火を起こしてくるから、待っててくれ」
橋本は、外に出て火をおこし、炭を燃やした。
「またせたな」といって、橋本が燃えた炭を、火鉢に入れた。
銀之助は、土瓶を火鉢の上に置いた。
「さあ、お二人さん、暖まってくれ」
三人は、火鉢に手をかざした。
橋本順之助、神田にある回転流で有名な畑中道場の師範格の一人であった。
背丈は、五尺三寸ぐらいで大きい方ではないが太っており、顔は丸くその中に愛嬌のある鼻が目立っていた。
そのような顔つきのため、強そうな侍には見えなかった。
「橋本様、お願いがあって来たんです。実は、このおさとさんが金貸しから狙われてんです」
銀之助は、おさとから聞いた話、金貸しの丸金の助五郎の人相などを立て続けに話した。
黙って聞いていた橋本は、銀之助の話が切れたときに訊ねた。
「銀之助さん、それで、それがしにどうしろと」
「はい、橋本様におさとさんの祖父母の住んでいる上州へ、おさとさんを送って行っていただけないかと」
「それはいいが、あの悪徳金貸しに悟られると厄介になりそうだな」
「隣のおすみさんに、身代わりになってもらおうかと思っているんですが」
銀之助は、簡単に自分の立てた策を二人に話した。
「分かった。やってみるか」と言って、橋本がおすみの家との仕切り壁を叩いた。
「おすみさん、橋本だ。銀之助さんと一緒だ。ちょっと、相談があるんだが、来てもらえんか」
しばらくすると、障子戸が開いて、うす桃色の小袖を着て、雀鬢に小満島田髷の質素な姿だが面長で切れ目の美人の部類に入るおすみが入って来た。
「おはようございます。三人そろわれてどうしたんですか」
おすみは、二十代後半で、いまだ独り身で、浅草山谷の料理屋‘八百善’に仲居として働いていた。
「おすみさん、上がって座ってくれ」と、橋本が言った。
「まあ、湯も出さないで、いま、湯を入れますから」と、おすみは土間に行って、土瓶に湯を入れて、茶碗とを盆で運んで来た。
「朝から一体どうしたんです」といいながら、土瓶をとって、茶碗に湯を注いだ。
「こんな早く、申し訳ない。実は銀之助さんからおさとさんのことで頼まれてな。詳しいことは銀之助さん、頼む」
橋本は、茶碗を手に取った。
「はい」と言って、頭を下げてから、銀之助は、橋本に話したことをおすみに話した。
「ようござんす、やらせてもらいましょう」
おすみの返事は潔かった。
「ありがとうございます。この企ては危険が伴っておりますので、お二人とも十分注意してください」
「なに、おさとさんや銀之助さんに比べりゃ、大したことはありませんよ」
おすみは微笑んだ。
「三人とも気を付けられよ」
橋本は、おすみの顔を見ていった。
「では、先ほどいいましたように、明日決行しますので、よろしくお願いします」
銀之助とおさとは二人に頭を下げた。
そして、おさとは、支度のために家に戻るといったので、おすみも手伝うと言い二人は橋本の家を出て行った。
銀之助は、橋本の家で待つことにした。
「銀之助さん、軽く一杯どうかな」
「いや、これから戻って、店の準備をしなくてはならないので。申し訳ありません」
「では遠慮せずに、それがしは一杯」
といって、土間に下り、徳利と茶碗そして、八つ頭、牛蒡、干し椎茸、人参の煮しめが入った鍋を持ってきて、鍋を火鉢の上に置いた。
「寒い時は、これに限る」
「橋本様、ちょっと厠に行ってきます」
銀之助は、障子戸を開け、まだ誰もいない井戸端を通り抜けて、厠に行った。
用を足し終わって出た時、鳶職人の源一の家から女房のおつたが出てきた。
「銀之助さん、こんな朝早くから一体どうしたのよ」
「おはよう、おつたさん」
銀之助は困った。
おさとが、世話になっただけでなく、銀之助もこの長屋に住んでいた時にはいろいろ面倒を見てくれた世話付きのおつただが、おしゃべりで、徳衛門長屋の瓦版ともいわれていた。
(正直にいってしまおう)
「実は、おさとさんのことで、橋本様とおすみさんにお願いに来たんだ」
そういって、銀之助は、かいつまんでおつたに話をした。
「そうだったの、あたしに何んかできることあったら、遠慮なくいってよ」といって、おつたは井戸の水を桶に入れて家に戻って行った。
間もなく、おつたが出てきて、おさとの家に入った。
「おさとちゃん」
「あら、おばさん」
「おさとちゃん、出て行くんだってね。元気でね。これ持ってて」と言って、おつたは、簪を渡した。
「おばさん、こんな大事なものをいいの」
「いいんだよ。もうあたしのような年増じゃ挿すことはないんだ。挿してみなよ」
おさとは目を潤ませて、髪に挿した。
「おさとちゃん、似合うよ」
「おばさん、ありがとう」
おつたは、家に戻って行った。
「そうか、おつたさんにいってしまったのか」
銀之助から話を聞いた橋本が、諦め顔でいった。
しばらくして、おつたがお櫃を持って入って来た。
「みんな、まだご飯食べていないんだろう」
「橋本様、酒ばかり飲んでいないで、早くみんなの茶碗お出し」
「橋本様は、この後大事なお仕事があります、私が取ってきます」と、ちょっと前におさとの家から戻っていたおすみが言って、腰を上げた。
おさとが行李を背負って入って来た。
「おさとちゃん、大荷物になったね」と、おつたが言った。
銀之助とおさとは、飯と香の物そして、煮しめの朝餉を食して、店に戻った。
五ツ、銀之助は暖簾をかけ、いつものように‘うまいもん屋’の朝が始まった。
「おさとさん、茶飯と玉子ふわふわそして、いつもの田楽豆腐を作るよ」
「はい」
「茶飯の作り方なんだが」
「あたし、知ってます。米にほうじ茶を加えて炊き上げればいいんでしょ」
「そうだ。頼む」
しばらくして、おさとは玉子ふわふわについて聞いてきた。
「これは、知らんだろうね。まずだし汁を煮立てて、そこにかき混ぜた卵を落としてから蓋をするんだ。そうするとすぐに卵がふわっと盛り上がってくるんだ。それで出来上がりだ、簡単だろう」
「はい」
「おさとさんのおじいさんとおばあさんに作ってやると、きっと喜ぶよ。だし汁の作り方は、あそこの引き出しの帳面に書いてある。字は読めるかい」
「多少」といって、引き出しの帳面をじっと眺めていた。
昼時になった。
「おさとさん、これが最後だ。九ツ半頃に橋本様たちが店に来る。あいつも来るだろうから、いつものように振る舞っておくれ」
「はい、御主人。大変お世話になりました」
「何か困ったことがあったら、いつでも来なよ」
銀之助は、壁に茶飯、玉子ふわふわそして、田楽豆腐の札をかけた。
昨日までと違って、家族連れは少なく、職人姿や前掛けをかけた商人たちが、昼餉を取りに、入れ替わり入ってきた。
入って来た客に対して、おさとは力を振り絞って、大きな声で迎えそして、注文を取った。
半刻ほどして客足が途絶えた時、銀之助は出入り口の障子戸を開けて外をうかがった。
道角に人影を見た。
(あいつだ。ここを見張っているな)
「おさとさん、二階に上がっていな」
銀之助は、勝手場に戻って来たおさとに声を掛けた。
おさとが、二階に上がった直後、助五郎が、手下を連れて店に入って来た。
「いらっしゃい」
「おい、娘が来るまでここで待たせてもらうぜ。酒二合と、田楽豆腐四本だ」
注文を受けた銀之助は、勝手場に戻った。
しばらくして、、紫の御高祖頭巾(方形の布に耳掛けのひも輪をつけたずきん)で顔を覆った女が入って来た。
「いらっしゃいませ」
(これは都合がいいや)
銀之助は、勝手場を出て女を迎えた
「何にしますか」
「茶飯と玉子ふわふわをお願いします」
「はい」
続いて、二人とも編笠をかぶった侍風の男と女が入ってきた。
女は、荷を背負っていた。
「いらっしゃいませ」
勝手場に戻ろうとした銀之助が声を掛けた。
席に座るや、編笠をかぶった女は、厠はどこかと銀之助を手招きして尋ねた。
銀之助から聞くや否や荷もおろさずに、奥の階段から二階に上がった。
編笠を外したのは、おすみだった。
「おさとちゃん、早く着替えるのよ」
二人は、着物を脱ぎ相手の着物に着替えた。
おさとは編笠をかぶる前に、おすみに両手を合わせた。
「いろいろありがとうございました」
「いいのよ、お互い様じゃない。困ったことがあったら、また来てね。早く、橋本様のところに行って」
おさとは、奥の助五郎を見ずに侍の所に行った。
助五郎は、田楽豆腐をつまみに酒を飲んでいた。
侍が、おさとに声をかけた。
「おたか、ここには鰻はないんだとよ。他の店に行こう」
「お客さん、すみません。またお越しください」
(橋本様、よろしく頼みます)銀之助は、二人に頭を下げた。
二人は、うまいもん屋を出て行った。
その後、料理を食べ終わった御高祖頭巾の女も、銀之助に声をかけてから厠へと向かった。
しばらくして戻ってくると、勘定を置いていくと言って、店を出て行った。
奥にいた助五郎は、ずっと二人を見ていた。
銀之助は、助五郎を一瞥して勝手場に戻った。
勝手場では、着替えをしたおすみが茶碗を洗っていた。
「すまねえな、おすみさん」
「いいんですよ。お互い様じゃないですか。奥にいるのが悪徳金貸しですか」
「ええ、丸金の助五郎って奴です」
「顔付が、いかにも悪党って感じですね。おさとさんも生きた心地しなかったでしょうね」
「そうなんだ。いつも怯えていましたよ」
「橋本様、いつごろ戻ってくるんでしょうね」
「そうですね、何もなければ、四日後くらいでしょうか」
「おーい、誰かいねえのか」
助五郎のどなり声が、勝手場まで響いた。
「あの人だわ、私が行ってきます」
おすみは、いやな顔していった。
「気を付けてください」
銀之助は、心配そうだった。
「はーい。いま行きます」
おすみが、大声で返事をした。
「何か御用ですか」
おすみは、笑顔を浮かべて助五郎にいった。
「あの娘はどうした?」
「あの娘って、どなたのことですか」
「ここで働いていたおさとだよ」
「すみません、来たばっかりで」
「役に立たねえ女だ。主を呼んで来い」
「はい、ちょっとお待ちください」
おすみは、勝手場で椀や皿を片付けていた銀之助に助五郎が呼んでいることを伝えた。
「そうか、気づかなかったようだな」といって、助五郎のところに赴いた。
「お客様、何か御用で」
「おい、娘はどうしたんだ」
「へい、この間もいいましたように、まだ帰ってこないんです」
「嘘も休み休みつけ、昨日、長屋からお前と娘が、この店に戻ってきたのをこいつが見たんだ」
手下が頷くと、首すじに入れ墨が、見えた。
(見られていたか)
「あれは、おさとさんじゃありません」
「とぼけやがって。もしかして、先ほど紫の御高祖頭巾の女か。えー、どうなんだ」
助五郎は、そばにいた手下に顎を杓った。
手下は、着物を端折って店を走り出て行った。
助五郎は立ち上がり、銀之助の襟元を掴んだ。
「お客さん、店の中でこんなことは困ります」
「じゃ、娘がどこへ行ったのか教えろ」
「知りませんよ」
「いわなきゃ、痛い目に合わせてやる。外へ出ろ」と襟元を掴んだまま、銀之助を店の外に引きずり出した。
銀之助は、出された時に障子戸を閉めた。
おすみは、勝手場から出てきて店にいる客になんでもないから気にしないでくれといって、障子戸を三寸ほど開けて外を覗いた。
銀之助は、障子戸閉めるやいなや、襟元を掴んでいた助五郎の両手首を握って、外側に捻った。
「いてえ~」
その隙を狙って、銀之助は助五郎の足を払った。
その瞬間、助五郎はドスーンという音を立てて、地べたに尻もちをついた。
「この野郎、やったな」
助五郎は、立ち上がろうとしたが、腰を打ったせいで起き上がれない。
「お客さん、おさとさんにいったい何の用なんですか」
「うるせえ、あいつの親父が借金を残して死んだんで、おさとに肩代わりしてもらうんだ。分かったか」
「そうだったんですか。その証文は、あるんですか」
「そりゃ、あるに決まってらあ」
「見せてもらえませんか」
「そんな大事なもん、見せるわけにはいかねえ。覚えてろ」
助五郎は、何とか立ち上がり、足を引きずりながら去って行った。
銀之助は何もなかったかのように、店に入り、覗いていたおすみと一緒に、客に笑みを絶やさずに頭を下げながら、勝手場に戻った。
客たちは、驚きを隠さずに銀之助を見ていた。
「銀之助さん、大丈夫。強いのね」
「ええ、あいつが弱いのです」
「でも、いつか、仕返しに来るかもしれないわ」
「すぐに来るでしょうね。おさとさんが、遠くに逃げてしまわないうちにと思って」
「おすみさん、大丈夫ですか」
「ええ、八百膳でもこんなことがたまにありましたので、慣れてはいませんが大丈夫です」
「そうですか、じゃ、今日はもういいですから、今、賄の飯を作りますんで、食べて帰って下さい」
銀之助は、残り物とありあわせの物で昼餉を作った。
今日から、うまいもん屋は夜も店を開く予定であったので、銀之助も急いで食べた。
「銀之助さん、いつもこんなに多くのお客が来たら、一人じゃ大変じゃありませんか。また、夜もやるなんて」
「客がおいしいといって食べているのを見るのが好きなもんで、大変なんて思ったことがありません。でも、もっと店を大きくしたいので、おさとさんが来てくれた時は助かったんですが。おすみさん、だれかいい娘さん御存じありませんかい」
しばらく考えていたおすみが、箸をおいた。
「娘じゃなければだめなんですか」
「いえ、そんなことはありませんが、だれかいい人いますか」
「あたしじゃだめですか」
「おすみさんが?とんでもねえ。あの有名な八百膳の仲居頭をやっているおすみさんが、こんなちんけな店を手伝ってくれるなんて。いいんですかい、あまり給金も出せませんよ」
「もう八百膳のように大尽相手の商売は嫌になっちゃたんです。銀之助さんのような気持ちを持った商売をしたいんです」
「そうですか、それは有り難い」
「ところで、銀之助さん。今日の夜の献立は?」
「味噌漬け豆腐と田楽豆腐、そして飯は茶飯で考えているんですが」
「そうね、味噌と豆腐ばかりね。味噌漬け豆腐をやめて、煮しめにしたらどうですか」
「椎茸、人参は有るんだが、八つ頭と牛蒡があまり無いな」
「あたし、買ってきます。ついでに、八百膳に寄ってきます」
おすみは、銀之助から銭を預かって、店を出た。
(助五郎たちはきっとくる)
銀之助は、二階の押入れから丸棒を取り出し、正眼の構えから素振りを数回繰り返した。
‘ビュー’‘ビューン’‘ビューン~’
(よし、まだまだ鈍っていねえな)
この丸棒、径は一寸程(三センチ)、長さが二尺半(約七十五センチ)で芯には、鉄材のようなものが埋め込まれており、刀に打ち込まれても切断されることがないように、銀之助が手作りしたものであった。
また、鍔は、使用する時、簡単にすぐに取りつけることができる。
暮れ七ツ頃(四時)、おすみが戻ってきたので、すぐに煮しめを二人で作り始めた。
「準備ができましたね」と、おすみはいってから、
「あたしは暖簾をかけて、掛行灯に火を入れてきます」
銀之助は、店の中の五つの置行灯に灯をともした。
行燈の灯りは、冬の暗さに暖かさを醸し出した。
早くも客が入ってきた。
「いらっしゃい」
「あれ、おすみさん。どうしたんだ」
おすみが最初に迎えた客は、おすみと同じ徳衛門長屋の住人で、魚の棒手振りを職としている勇治だった。
勇治は朝早くから日本橋の河岸で仕入れた魚を桶に入れそれを天秤棒で担いで、毎朝、町内を売り歩いている。
「ここで働かせてもらっているのよ。勇治さん、何にしますか」
勇治は、酒二合と田楽豆腐を三本頼んだ。
おすみは勝手場に戻って、銀之助に田楽豆腐を頼み、酒二合を手際良く、徳利に入れた。
「銀之助さん、勇治さんが来てくれたわ。ねえ、うまいもん屋でも魚料理を一つぐらい献立に入れたらどうかしら。勇治さんから買えばいいし」
「おいら、魚料理知らないんだ」
「あたし、多少は知ってるわ」
銀之助は考えておくといって、田楽豆腐を入れた皿をおすみに渡した。
(あれから、奴はとうとう来なかったな)
客がいなくなった時期を見計らって、銀之助はいつもより早く店を閉めた。
翌日の朝五ツ(八時)。
「おはようございます」
おすみが元気な声を出して、うまいもん屋に入ってきた。
「おはようございます」
銀之助は、勝手場にいた。
「銀之助さん、今日の昼の献立は何ですか?」
「、田楽豆腐、飯物は、ねぎ飯にしようかと思うんだが。おすみさん、ねぎ飯知ってますか」
「ええ、ねぎ飯はよく八百膳で賄い食で食べたわ。銀之助さん、あたし作っていいかしら」
「頼みます」
「それから、また豆腐だけになっているのが」と、おすみが申しわかなさそうに言った。
「本当だ、つい簡単なものになってしまうんだな」
「田楽豆腐は注文が一番多いから、定番にしたらどう」
「そうだな、それがいい。もう一品は何がいいかな」
「玉子ふわふわにしましょうよ」
銀之助が嬉しそうに頷いた。
おすみは、飯を炊く準備にかかるとともに、だし汁を作りだした。
銀之助は、焼き豆腐を短冊状に切り、串に通して、下準備は終わった。
おすみは深谷のねぎを半寸ほどに切り刻んで、先ほど作っただし汁を米の入った釜に入れて、炊き始めていた。
「さすが、おすみさんは手際がいい」
「八百膳で見よう見まねで、覚えたんですよ。本業は仲居ででしたけど。銀之助さんは、以前うどんとそばを売っていたそうですけど、どうして今はお品書きに入れないんですか」
「担ぎ屋台から仕事を奪うことになるので、年越蕎麦以外ははやめているんです」
「そうでしたか」
四ツ半になった。
おすみが暖簾を架けに外へ出たその時、助五郎が六尺もあろうかという背の高い侍を連れて、うまいもん屋から三間(五メートル強)ほど離れたところに立ってこちらを見ていた。
それに気づいたおすみを見て、助五郎が走り寄ってきて怒鳴った。
「どけ、奴はいるか」といって、助五郎はおすみを横に押しのけた。
「なにすんのよ」
二人はおすみを無視して、店に入り怒鳴った。
「銀之助、いるか」
勝手場にいた銀之助は、傍に置いておいた丸棒を背の帯に挿し込んで入口に行った。
(丸金の用心棒か、でかい男だ。注意してかからんと)
「助五郎さん、証文を持ってきてくれたんですか」
「何馬鹿なこといっているんだ。先生、こいつを痛い目に合わせておくんなさい」
六尺(一メートル八十センチぐらい)ほどの侍が、助五郎の前に出た。
「拙者、赤沢惣右衛門と申す。無外流を少々たしなんでおる。おさとやらの行方をいえば、痛い目に合わずに済むんだがどうだ。いわんか」
「昨日もそこにいる助五郎さんにいったんですが、あっしはなにも知らないんです」
「嘘つけ、どこにかくしたんだ。早くいわんと痛い目にあっても知らねえぜ」
助五郎が、横から口を出した。
「しつこいお方だ、知らないといったら知らないんだ」
「しゃらくせえ、先生やっちまってください」
赤沢惣右衛門は、銀之助をうながし、外に出た。
銀之助は赤沢から殺気を感じ、背中の丸棒を帯から抜き取った。
「それはなんだ、それで拙者に勝てると思っているのか!」
赤沢は、そういったまま、いつまでたっても抜かない。
(奴は、抜き打ちか、一発でおいらを仕留めるつもりだな。ちょっと仕掛けてみるか)
銀之助は上段に構えてから、赤沢の方へ、足を摺り寄せ一気に振り下ろした。
その瞬間、赤沢は左足を一歩下げ、銀之助の一撃を避けながら抜刀し、銀之助の頭上に振りかかった。
銀之助の丸棒が、赤沢の胴を先に打った。
‘ドスーン’
赤沢は、腹を押さえてつんのめった。
「この野郎!」
助五郎は、懐からを抜きだし、銀之助に飛びかかった。
銀之助は、とっさに地面に倒れ込み、一回転して体勢を立て直した。
さらに助五郎が、匕首を銀之助に突き刺そうとした時、銀之助の丸棒が匕首を持っている手首を撃った。
‘ボギ’
「ぎゃー」
助五郎の手首から匕首が落ち、手首から下がだらりと下がった。
銀之助は、近づいて助五郎に声をかけた。
「おい」
「おねげえだ、助けてくれ」
「証文、見せてくれねえか」
「俺は、持ってねえ」
「誰が、持ってるんだ」
「俺、俺の親父だ」
「親父さんのところへ連れて行け。二人とも、逃げるとどうなるか分かっているだろうな」
助五郎は、手をだらんと赤沢は、腹を抑えながら前のめりに、日本橋へ向かって歩き始めた。
銀之助は、傍に来ていたおすみに店を頼んで助五郎の後に続いた。
「お気をつけて」
おすみの心配そうな声が寒風に消された。
大川端近くに出ると、銀之助たちの歩みを阻むよう、風が強まり、雪が舞い始めた。
(早く始末をして帰らないと、帰りは難儀するかもしれんな)
「もっと早く歩け」
「旦那、赤沢さんが重くてこれが精いっぱいだ。手も痛えし」
一刻ほどかかって、神田川に架かっている浅草橋を渡った。
風は止み、ほんのりと川辺は、雪が積もっていた。
銀之助は、気が張り詰めていたせいか、いっこうに寒さは感じなかった。
数町ほどで丸金の店に三人は着いた。立派な門構えであった。
(ここか、悪徳金貸しの店は)
助五郎は、玄関の戸を開けた。
「おやじ、あいつが来たぞ」
土間を蹴って、逃げるように廊下を走って行った。
助五郎と入れ替わりに、三人の用心棒が出てきた。
「お前が銀之助か」
古株とみられる侍がいった時、傍に座り込んでいた赤沢惣右衛門に気づいた。
「赤沢、どうした」
腹を押さえながら、うめくようにいった。
「こいつにやられた。手ごわいから気をつけろ」
「みんな、こいつをやっちめえ」
「おいら、助五郎さんの親父さんに話があって来ただけなんだ。無駄な殺生は、無しにしないか」
一番若い侍が柄に手をかけ、抜刀した。
「うるせえ」
銀之助は、後ずさりで外に出、後ろの帯に挿した丸棒を取った。
「なんだ、俺たちと棒でやるつもりか、馬鹿にしやがって」
抜刀した侍は、上段に構え間合いを詰めてきた。
銀之助は、中段の構えを取った。侍は、止まった、次第に呼吸の乱れが銀之助にも聞こえてきた。
呼吸の音が止まったと思いきや、相手は、真向に銀之助の頭に打ちこんできた。
銀之助も合せて、真向に打ち込んで、相手の剣を打ちはじいた。
‘バチ~ン’
音が消えた瞬間、銀之助の丸棒が相手の肩を撃っていた。
「一刀流、切落しか、小癪な」
次の相手が、肩を撃たれた侍の脇から、正眼の構えで間を詰めてきた。
(こいつは、できる。隙がない)
銀之助も相手も、身動きせずにいたが、二人とも寒さにもかかわらずに汗をかき始めていた。
雪がやんだ。
声がした。
「青山、もうやめろ。俺は、もう悪党たちの片棒を担ぐのはやんなった。ここを出て行く」
青山と声をかけられた侍は、一瞬耳を疑ったようで銀之助と対峙していることを忘れ、古株の方へと視線を送った。
もうその時、古株の侍は、丸金の家の門に向かっていて、銀之助たちに背をむけていた。
「銀之助さんとやら、もうやめよう。助五郎の親父は、廊下の突き当たりの部屋にいるはずだ。気をつけてな」
青山は、うずくまっている赤沢に肩を貸して、古株を追って門から消えた。
銀之助は、突き当りの部屋の戸を開けた。
座っていた助五郎と親父が、驚きのあまり顔が凍ったようになった。
「あんたが、銀之助さんか。俺がこいつの親父だ」
落ち着きを取り戻すかのように、助五郎の親父がいった。
「へい、中へ入らせていただきます」
丸棒を左において二人の前に座った。
親父が、懐から何やら紙を取りだし、銀之助の前に投げた。
「お前さんの欲しがっていた証文だ。さっさと持って消え失せろ!」
銀之助は、手に取っておさとの父親に貸した金の証文かどうか確かめて、懐にしまった。
「これで始末をつけさせてもらいますぜ。二度とおさとさんには手を出さないでください」
と、銀之助は胴巻きから十二両を出し、親父の前に置いて、帰ろうとしたとき、
「まちねえ」
銀之助が振り返った。
「銀之助とやら、ありがとよ」
銀之助が店に戻った時には、昼八ツ(一時)を過ぎていた。
一人も客はおらず片隅に一人ぽつんと腰かけていたおすみが、銀之助に気づくや急に笑顔になって銀之助に抱き着いてきた。
「銀之助さん、無事でよかった」
銀之助はどうしていいかわからずおすみのなすがままにした。
しばらくして、顔を赤くしたおすみは我に返り、恥ずかしそうに銀之助から手をほどいた。
三日後、夕暮れ時。
浅草の空が、朱の色に染まるには、まだちょっと早い時間、茜色の雲が箒で掃いたように浮かんでいた。
銀之助とおすみは開店前の準備に忙しかった。
障子戸が開いた。
「お客さん、まだ・・・・。橋本様、お疲れ様」
「おすみさん、ここで働くようになったのかな」
おすみは、橋本順之助の手を取り勝手場に連れて行った。
「銀之助さん、橋本様が帰って来たよ」
銀之助は、前掛けで手を拭き橋本を笑顔で迎えた。
「橋本様、ご苦労様でした」
「おさとさん、無事、上州の前橋の家まで送って来たぞ」
「ありがとうございました」
「ここを出て、半刻(一時間)ぐらいかな、後をつけてきた丸金の手先をちょっと痛い目に合わせたぐらいで、あとは順調な旅だった。じいさんとばあさんは、おさとさんに会えて大喜びだったよ。お前さんたちにもよろしくって」
「橋本様、背の物は」
おすみが気付いた。
「おう、これはおさとさんのばあさんからの土産だ」
橋本は、野菜の入った篭を下ろした。
「銀之助さん、好きなものを取ってくれ」
「橋本様、よろしかったら、長屋のみんなに分けてやってもいいですか」
「そうか、分かった」
銀之助は、おさとの父親の証文を取り返したことを手短に橋本に話し終えると、おすみに声を掛けた。
「おすみさん、そろそろ店を開きましょうか」
「はい、暖簾をかけてきます」
「橋本様、ゆっくり一杯やって行ってください」
銀之助は、行灯に火を入れながらいった。
「それはありがたい」
そして、銀之助とおすみは勝手場に入って、橋本のために酒と田楽豆腐を急いで作った。
それが終わると、
「おすみさん、朝、練馬の大根が手に入ったから今日の昼は大根飯でいきましょうか」
「いいですね」
「橋本様にも食べてもらいます」
銀之助は大根のどろをおとしてから洗って、さいの目に切り、クチナシの汁で煮しめた。
そして、大根をすりおろした大根の汁を米に入れて炊く準備をした。
「銀之助さん、そろそろお品書きの種類を増やしませんか」
「そうですね、おすみさんという強い見方ができましたから、増やしましょう。どんな料理がいいですか」
「ご飯類は今までのも入れて、菜飯、茶飯、大根飯と若狭白がゆで、豆腐類は霰豆腐、みそ漬け豆腐、魚類は四季にあったものを入れたらどうでしょうか」
「そんなに増やして大丈夫かな」
「そうですね、少しずつ増やしたほうがいいかもしれませんね」
お品書き
田楽豆腐 四文
菜飯 十六文
玉子ふわふわ 八文
つづく
「なんてひどい有様なんだ」と言いながら、目に涙を浮かべながら男が歩いていた。
秋が終わりかけていた江戸の朝、焦げ焼けた臭いがあたり一面に漂っていた。
数日前の地震によって引き起こされた火事場跡からによるものであった。
この地震によって、一夜にして多くの府民が命、家屋そして財産を失った。
急場しのぎで設置されたお救い小屋では、握り飯と汁をもらいに老若男女の人々たちが長い列を作っていた。
その男は廃材置き場に立ち止まった。
ただ汚れているが決して安物の衣服には見えない着物を着たその男は、
「神も仏も一体何しているんだ」とつぶやいた。
そして、腰をかがめながら選別しながら木材を集めた。
「こんなもんでいいだろう。作るとするか」と男は、自分で書いた図面を見ながら、集めた木材を切ったり、打ち付けたりして、一日かけて組み上げた。
「やっとできた」と言って、額の汗をぬぐいながら、きりっとしまった顔に安堵の色を浮かべた。
出来上がったのは、担ぎの屋台で、見たからに頑丈そうであった。
「寝る場所を確保するための腰かけを作らねば」と言って、再び木材を組み立て始めた。
組み合わせて練れるように、四つほど作り終えたのは暮六ツを過ぎていた。
昼に作った吊るし行灯に火を入れた。
そして、柳行李からを取り出して、筆に墨をつけすらすらと文字を書き始めた。
「一うどん代十六文 一そば代十六文 一しっぽく代二十四文 うまいもん屋、これでよし」といって、書きあげた紙を屋台に張り付けた。
屋台で一晩過ごして、朝を迎えた。
男はお救い小屋でもらった握り飯を食べ終わると、瀬戸物屋とうどん蕎麦類の卸問屋を探して、材料を都合するだけでなく、今後の取引の継続も頼んだ。
陽が落ち始めた頃、男は疲れていたが、万事が整った満足感から、明日から頑張るぞと意気込んだ。
は翌日から、男は、昼夜を問わず、屋台を担ぎ蕎麦とうどんを売り歩いたが、町には家を失った人たちがあふれており、蕎麦を食う金も持ち合わせていない者も多く、一向に売り上げははかばかしくはなかった。
それどころか、男は、腹をすかした者たちにただ同然にそばやうどんを食べさせてやった。
三年が過ぎ、将軍は綱吉から家宣に代わっていた。
男は、担ぎ屋台で稼いだ金を元手で、浅草金竜山門から多少離れた所に’うまいもん屋’という小さな飯屋を構えていた。
男は、銀之助と名のっていた。
この浅草界隈では、彼の素性を知る者はだれ一人としていなかったが、昨年の地震の後にそばやうどんを食べさせてもらったことを覚えている者は多かった。
その人たちが銀之助の店を贔屓にしてくれたので、店は繁盛した。
第二話 舞い込んできた娘(冬)
今年もあと三日。
八ツ半(午後三時)、浅草界隈は、新しい年を悔いないように迎えようと、人々があわただしく動き回っていた。
浅草寺に続く道に沿った店の多くに、門松やお飾りが取り付けられていた。
その中の一軒‘うまいもん屋’と書かれた高障子戸を、荒々しく娘が開けた。
鈴が、鳴った。
「すみません、まだなんですが」
銀之助は、勝手場から出てきた。
「何か食べ物を・・・・」
髪を乱し、うす汚れた木綿の着物をまとった娘が、入口に立っていた。
尋常でないと察した銀之助は、娘を店の中に入れた。
「さあ、座んな。今、食べ物を持ってくるから」
勝手場から田楽豆腐を取って来て、娘に渡した。
娘は、皿を抱え込んだ。
「これなら腹にたまるぞ」といって、菜飯を持ってきた。
娘は、すぐ椀をからにした。
「まだ、食べられるかね」
「いやもうお腹いっぱいだ」と娘はいって、黙りこんだ。
「娘さん、名は」
「おさと」
「歳はいくとかね」
「十六歳だ」
「おさとさんはどこの生まれだい」
「秩父」
娘は、ポツリポツリと話し始めた。
昨年、秩父では飢饉で餓死者がたくさん出て、字が読めない多くの親たちはだまされて、あたしたち若い娘を女衒に売り渡してしまった。おさとも秩父から出て途中、だまされたことを知り、手引きと女衒が休んでいるときに、逃げ出してやっとの思いでここにたどり着いたと。
(田舎は、大変なことになっているんだな。細かなことは落ち着いてから聞き出すか)
銀之助は、おさとを勝手場に連れて行き、百文を手渡した。
「おさとさん、これで着物を買って、湯屋に行ってきな」
おさとは、何度も頭を下げながら、礼をいって、裏口から出て行った。
いつの間にか、闇が店の周りを覆い始めていた。
銀之助は、行灯に灯を入れた。
最初の客が、障子戸を開けて入ってきた。
「いらっしゃい」
「酒二合、頼む」
「はい」
その客に続き、客が入れ代わり立ち代わりやって来て、応対に銀之助はてんてこ舞いであった。
半刻(一時間)ほどたって、湯屋から戻ったおさとが店を覗いた。
(お客さんが、いっぱい)
そして、勝手場に行った。
「御主人、手伝わせてくれ」
おさとがいった。
「えっ、あのおさとさんかい」
先ほどのみすぼらしいおさととは、見違えるような美しい娘に変っているのに銀之助は驚いた。
「ちょっと待ってくれ」と銀之助は二階から襷と前掛けを持ってきて、おさとへ渡した。
黄の小袖に紺の前掛け、
「おさとさん、似合うね」
おさとはてれた。
「おさとさん、この銚子、奥の席にいる二人組のところに運んでくれないか」
「うんだ」
おさとは、てきぱきと銀之助のいうことに従って、こまめに働き回った。
夜五ツ(八時)、客がいなくなったのを確かめ、銀之助は店を閉め、片付けはじめた。
おさとも銀之助にならって、客の使った銚子や皿を洗い片付けた。
それが終わると、行灯の灯も近くを残して落とし、二人は長椅子に腰を下ろした。
「おさとさん、これからどうする?」
「御主人、実は・・・・」
「なんだ」
「ええ、ここで働かせてもらえねえか、飯だけ食べさせてもらえばいいんだ」
「おさとさんが、よければいいけど」
「一生懸命やるだ」
「分かった、じゃあ、やってみるか」
「御主人、ありがとう」
「寝るところはどうするか?」
おさとは、黙った。
「今夜はここへ泊っていけ。明日、住む場所を探してやろう」
「何から何まで、すまねえ」
銀之助は、おさとに留守をに頼み、湯屋に行った。
翌朝。
銀之助は鍋の昆布のだし汁に、醤油、酒、塩を加え、そして卵を入れ泡がたつまで手際よくかき混ぜ、火の入ったかまどにのせた。
また、棒手振りから買った蜆を使って、味噌汁を作った。
「さあ、できあがりだ。飯にしよう」と銀之助はおさとに声をかけた。
「おいしい、これ、何というんだ」
「玉子ふわふわというんだ」
銀之助とおさと二人は、玉子ふあふあと豆腐の味噌汁を食してから浅草寺の裏手の自身番に向かった。
自身番の障子戸を「おはようございます」と挨拶しながら開けると、源治が二人を迎えた。
「銀之助さん、朝早くからどうしたんだね」
「へい、御相談したいことがあるんで」
銀之助は、おさとを紹介し、おさとの住む所がないかと源治に尋ねた。
「そうだな、徳さんの長屋が空いているかもしれん、おーい、徳さん」
奥から、徳衛門が出てきた。
「おはよう、銀之助さん。どうしたのかね」
銀之助は、おさとを徳衛門に紹介した。
源治は、徳衛門におさとのことを話した。
「おさとさん、ちょうど一軒空いているんだが、うちの長屋でよかったら、いいよ」
おさとは、銀之助の顔を見てから、徳衛門に向かって頭を下げた。
「おさとさん、俺もちょっと前までは、徳衛門さんの長屋に世話になっていたんだ。長屋の住人は、いい人ばかりだから安心しな」
銀之助は、ほっとしたように頷いた。
銀之助とおさとは、徳衛門に連れられて、長屋に入った。
家は、こぎれいにされていた。
「おさとさん、今日、明日で、道具をそろえたらいい。あさって、明け五ツ(八時)に店に来てくれ」といって、銀之助は、二百文をおさとに渡そうとした。
「こんなにもらっちゃ」
「昨日の手間賃だ、遠慮はいらねえよ。布団や鍋釜、買いな」
銀之助は一軒一軒まわって、長屋の住人におさとを紹介し、面倒を見てくれるよう頼んだ。
江戸は、大晦日を迎えた。
朝早くから、「おうぎ、おうぎ」と扇売りが、何度もうまいもん屋の前を通り過ぎて行った。
店の勝手場では、銀之助が、年越し蕎麦を打ち、おさとが切り、粉をつけて一人前ずつ分けていた。
二十人前ぐらい作り終えた。
銀之助は休むもなく、もち米をふかし始めた。
「おさとさん、餅つきはしたことがあるかね」
「ええ、田舎で毎年、名主さんの家でやっただ」
おさとの目から急に涙が、こぼれ始めた。
銀之助は、おさとの身の上に同情し、話しかけるのをやめた。
(泣きたいだけ泣かせてやろう)
「御主人、すみません」
銀之助は、昨日洗った臼と杵を店の外に運んだ。
「おさとさん、ふけたら持ってきてくれ」
「はーい」
銀之助は、杵でつき、おさとはこねた。
最初はぎこちなかったが、すぐに二人の呼吸は合った。
「おさとさんは、こねるのがうまいな」
「御主人はつくのが上手ですので」
「わいわい」と、近所の子供たちが嬉しそうに集まってきた。
「おじさん、やらせてよ」
「よし、やってみな」
子供たちは腰をふらつかせながら、何とか振り下ろすことができた。
皆、笑ってみていた。
つきあがった餅を二人で丸め始め、出来上がったものを子供に与えた。
「おさとさん、残った餅は、正月、我々が食べたり、お客に出したりしよう」
昼になり、店を開くやいなや、途切れることなく、年越しそばを食べに客がやってきた。
「すごい」と、おさとは驚いた。
「これほど来るとは」と、銀之助も蕎麦が足りるか心配になってきた。
銀之助は蕎麦を茹で皿に盛り、それをおさとは、客へ運んだ。
蕎麦だけでなく、酒やつまみの注文もあり、二人とも、ひと息も付かずに働いた。
夜五ツになって、とうとう蕎麦が無くなり、ようやく店を閉めることができた。
「おさとさん、ご苦労様。来年は四日からまたよろしく」
「はい、こちらこそ」
銀之助はおさとに客商売だからと言って、少しずつ話し方を教えていたので、最近では、姿格好だけでなく話し方も、秩父の田舎から出てきた娘とはだれもが思わず、銀之助の妹と思っていた。
おさとが帰ると、今までの喧騒とは裏腹に静けさが銀之助をおそった。
銀之助にとって、‘うまいもん屋’で正月を迎えるのは初めてのことであった。
浅草寺で打たれた除夜の鐘を聞きながら、眠りの底におちいった。
そして、銀之助は、一人だけの静かな元日を迎えた。
まだ町は闇の中に包まれていたが、空を見上げると星がいっぱい輝いていた。
「今日は、天下晴れだ。縁起がいいぞ」
さっそく、浅草寺へ明け六ツ(朝六時)に詣でた。
夜が明けていないのに、参道は初詣で身動きが取れないほどの人出であった。
やっとのことで、銀之助は、一すくいの煙を体に浴びせそして、本堂に上がると読経の声が響き渡っていた。
「まかはんにゃはらみったしんぎょうかんじざいぼさつ ぎょうじん ~」
(本年も良い年でありますように)と、手を合わせた。
「銀之助さん、本年もよろしく」
拝み終わって、帰ろうと振り向いた時、銀之助は檀家総代の与助から言葉をかけられた。
挨拶を返した銀之助は、ここで働けるのは、与助さんたちのおかげだと礼を言い、そして、店で働いているおさとのことを手短に話した。
「銀之助さん、それは良いことをしおったな。何か困ったことがあったら遠慮なく言ってきなさい」との与助の言葉に礼を言い、寺を辞去した。
あてもなく、銀之助は歩いた。
腹が空いてきたので、近場の蕎麦屋に入った。
「いらっしゃい」と女が声高らかにいった。
店は初詣の帰りの着飾った人々で繁盛していたgy。
席に案内された銀之助は女に注文した。
「酒と田楽豆腐と納豆汁をもらおうか」
酒が飲みながら、田楽豆腐を味わった。
(これは、うちよりちょっと甘みがあるな。うまい)
蕎麦が運ばれてきて、それを食した。
(なるほど、二八か)銀之助は唸った。
(このぐらいのこしの強さを店で試しに作ってみるか)
三が日の間、銀之助はあちらこちらの料理屋に行って、食べ比べをした。
四日、銀之助は、勝手場で昼の準備をそして、おさとは、店前の通りを掃除していた。
「あんた、秩父にいたおさとさんかい。やっと見つけた」
おさとが顔を上げると、顎から耳元までが張りついたような傷を持った男が立っていた。
「どちらの方?」
「あんたの親父に金貸した、丸金の助五郎というもんだ」
「何の用ですか」
「あんた、逃げたんだよな。おかげでこっちに銭が入ってこないんだ。早く女衒のところへ連れていく。それとも、返してくれるか」
「いやだ」
「十両なんだが、一年たったもんだから、三十両になっちまった」
「三十両、そんな!」
「払えなけりゃ、女衒に連れ戻す」
おさとの顔色は真っ蒼になっていた。
「おさとさん、どうした」
銀之助が近づいて来たのを機に、助五郎は着物を端折っておさとから離れて行った。
「おさとさん、あいつは誰だい?」
おさとは黙った。
「いいたくなけりゃ、言わなくていいよ」
銀之助は、店の中に入って、まずは田楽豆腐を作るために、豆腐をいくつも長方形に切って、それを串に通し始めていた。
(あいつはやくざ者だな。正月から、厄介なことが起こりそうだ)
おさとも勝手場に入って来て、銚子、徳利、茶碗を出し始めた。
(あの助五郎ってやつ、またきっと来るわ。どうしよう)
ガチャアーン
「すみません」
おさとは、泣きそうな顔をしていった。
「気にしなくていいよ」
おさとは慌てて、割れた茶碗を拾った。
「おさとさん、田楽のたれを作ってもらえないか」
「はい、どうしたらいいんですか」
「その棚にある、味噌、そして、少々水飴、酒、みりんを入れ、弱火でよく混ぜてくれ。
水や、みりんで適当な硬さを、いいやこれからは俺が見るから」
「どうですか、味は?」
「いい味だ。おさとさん、練馬から仕入れてきた大根を切ってくれないか」
昼九ツ、‘うまいもん屋’の今年最初の店開きの時間になった。
外は、待ちきれずに客たちが寒空の中で列を作って並んでいた。
銀之助とおさとはてんてこ舞いだった。
(だんだんお客が少なって来たわ)とおさとが思った時、 あの男が入ってきた。
おさとは、逃げるようにして、勝手場に入り、銀之助にあの男が来たことを知らせた。
「おーい、この店は注文を取りに来るのに時間がかかるのか」と、男が怒鳴った。
「へーい、今、行きます」と、銀之助は勝手場で返事をした。
「おさとさん、もう店には出なくていいから。二階に上がってな」
「御主人、すみません」
銀之助は、男の前に立って言った。
「お待たせしました」
「おせえな。酒二合と田楽豆腐を二本だ」
「へい、ありがとうございます」
銀之助は、勝手場に行き、手際よく田楽に味噌をつけ、温めた酒を徳利に二合入れた。
「お待たせしました」
「今度は、早えな」
銀之助が勝手場に戻ろうとした時、男が声をかけてきた。
「ちょっと待ちねえ」
「何か御用で」
「いつもの娘はいねえのか」
「ちょっと出かけてますが、何か」
「いや、なんでもねえ」
(しつこい野郎だ)
「他に何か」
「また呼ぶから、もういいぜ」
銀之助は、勝手場に戻り、客にふるまう雑煮を作り始めた。
先ほど切っておいた大根、小松菜と里芋を醤油味のすまし汁に入れて煮立たせ、焼いた切り餅六つを入れてた。
六つの椀に、手際よく温まった雑煮を入れ、客たち一人ひとりに運んだ。
「銀之助さん、これ頼んでないよ」
「祝いの雑煮ですから、銭はいりません」
「そうか、ありがたい。御馳走になるか」
そして、最後にあの男のところに行った。
「雑煮いかがですか、これは祝いの雑煮ですので、銭は戴きません」
「もらおう」
丸金の助五郎は、盃をおいていった。
銀之助は、椀を置いた。
「ほう、この雑煮は珍しいな」
「へい、これは家康様が江戸に来られて、譜代の家臣達に贅沢しないよう戒めるために考え出した雑煮でございます。江戸っ子はこの雑煮をよく食べていますが、江戸は、他国の者が多く皆自国の雑煮で正月を祝っているので、地元の江戸の雑煮を知っている方は少ないのです」
「もういい。おまえの名はなんていうんだ」
「銀之助と申します。お見知りおきください」
「ところで、娘はいつ帰ってくるんだ」
「ちょっと、出かけてくるといったんですが」といって、銀之助が立ち尽くしている間に、男は、一気に雑煮を食べ終えて言った。
「待て、いくらだ」
「へい、二十四文で」
「また来るからな」
三十文おいて、丸金の助五郎は帰って行った。
「おつりは」
「いらねえ」
助五郎が帰ってから、半刻ほどで客は一人もいなくなったので、銀之助は店を閉めた。
二階からおさとが下りてきて、銀之助の片づけの手伝いを終わった後に、おさとが青ざめた顔で言った。
「御主人、お話があるのですが」
「ここでいいかい」
銀之助は、樽に腰を掛けた。
おさとは、金貸しの助五郎から聞いた話を怯えながら話した。
「借りた十両が、三十両だと。高利もいいところだ。おさとさんは、おとっつあんが借金していたことを知ってたのかい」
「いいえ、何も聞いてません」
「身寄りはないのかね」
「上州にじいちゃんとばあちゃんがいます。まだ、生きていればですが」
「分かった」
「御主人、ご迷惑かけてすみません」
「今日は、ここへ泊って行った方がいい、明日早く、長屋においらが送って行こう」
翌朝七ツ。
銀之助は、裏口の戸をそっと開け外の様子をうかがった。
まだ暗く、あたりに人の気配はなかった。。
星が、寒空で震えている。
(よし、行くか)
銀之助は、階段の途中から、声を出した。
「おさとさん、起きな」
「ウ~、御主人」
「長屋に帰るぞ」
「はい」と言って、おさとが起き上がり着替えた。
銀之助は、階段を下りた。
おさとは、黄の小袖の上に紺の打掛をまとって、裏口に来た。
銀之助も外の闇に埋もれるように、紺下地の縞物小袖にこげ茶の羽織を着ていた。
二人は、前掛けを頭巾代わりに頭にかぶり、そして、銀之助が戸を開けながらいった。
「さあ、行くか」
二人は、店を後にし、浅草寺を抜けたところで、、銀之助は後ろを振り返りつけられていないことを確かめて、提灯に火を入れた。
身体が冷え切った二人は、棟割りの徳衛門長屋に着いた。
銀之助は、浪人の橋本順之助の住んでいる家の腰高障子に向かって、声を掛けた。
「銀之助です。橋本様、おはようございます」
「銀之助さん、こんなに早くどうした」と言いながら、橋本が戸を開けた。
「寒いから早く入んな」
「こんなに早くからすみません」
「一体どうした。まあ、きたない部屋だが、上がって温まってくれ」といって、すぐに敷き布団を三枚にたたみ、隅にどけて、火鉢を真ん中に置いた。
「ちょっと、火を起こしてくるから、待っててくれ」
橋本は、外に出て火をおこし、炭を燃やした。
「またせたな」といって、橋本が燃えた炭を、火鉢に入れた。
銀之助は、土瓶を火鉢の上に置いた。
「さあ、お二人さん、暖まってくれ」
三人は、火鉢に手をかざした。
橋本順之助、神田にある回転流で有名な畑中道場の師範格の一人であった。
背丈は、五尺三寸ぐらいで大きい方ではないが太っており、顔は丸くその中に愛嬌のある鼻が目立っていた。
そのような顔つきのため、強そうな侍には見えなかった。
「橋本様、お願いがあって来たんです。実は、このおさとさんが金貸しから狙われてんです」
銀之助は、おさとから聞いた話、金貸しの丸金の助五郎の人相などを立て続けに話した。
黙って聞いていた橋本は、銀之助の話が切れたときに訊ねた。
「銀之助さん、それで、それがしにどうしろと」
「はい、橋本様におさとさんの祖父母の住んでいる上州へ、おさとさんを送って行っていただけないかと」
「それはいいが、あの悪徳金貸しに悟られると厄介になりそうだな」
「隣のおすみさんに、身代わりになってもらおうかと思っているんですが」
銀之助は、簡単に自分の立てた策を二人に話した。
「分かった。やってみるか」と言って、橋本がおすみの家との仕切り壁を叩いた。
「おすみさん、橋本だ。銀之助さんと一緒だ。ちょっと、相談があるんだが、来てもらえんか」
しばらくすると、障子戸が開いて、うす桃色の小袖を着て、雀鬢に小満島田髷の質素な姿だが面長で切れ目の美人の部類に入るおすみが入って来た。
「おはようございます。三人そろわれてどうしたんですか」
おすみは、二十代後半で、いまだ独り身で、浅草山谷の料理屋‘八百善’に仲居として働いていた。
「おすみさん、上がって座ってくれ」と、橋本が言った。
「まあ、湯も出さないで、いま、湯を入れますから」と、おすみは土間に行って、土瓶に湯を入れて、茶碗とを盆で運んで来た。
「朝から一体どうしたんです」といいながら、土瓶をとって、茶碗に湯を注いだ。
「こんな早く、申し訳ない。実は銀之助さんからおさとさんのことで頼まれてな。詳しいことは銀之助さん、頼む」
橋本は、茶碗を手に取った。
「はい」と言って、頭を下げてから、銀之助は、橋本に話したことをおすみに話した。
「ようござんす、やらせてもらいましょう」
おすみの返事は潔かった。
「ありがとうございます。この企ては危険が伴っておりますので、お二人とも十分注意してください」
「なに、おさとさんや銀之助さんに比べりゃ、大したことはありませんよ」
おすみは微笑んだ。
「三人とも気を付けられよ」
橋本は、おすみの顔を見ていった。
「では、先ほどいいましたように、明日決行しますので、よろしくお願いします」
銀之助とおさとは二人に頭を下げた。
そして、おさとは、支度のために家に戻るといったので、おすみも手伝うと言い二人は橋本の家を出て行った。
銀之助は、橋本の家で待つことにした。
「銀之助さん、軽く一杯どうかな」
「いや、これから戻って、店の準備をしなくてはならないので。申し訳ありません」
「では遠慮せずに、それがしは一杯」
といって、土間に下り、徳利と茶碗そして、八つ頭、牛蒡、干し椎茸、人参の煮しめが入った鍋を持ってきて、鍋を火鉢の上に置いた。
「寒い時は、これに限る」
「橋本様、ちょっと厠に行ってきます」
銀之助は、障子戸を開け、まだ誰もいない井戸端を通り抜けて、厠に行った。
用を足し終わって出た時、鳶職人の源一の家から女房のおつたが出てきた。
「銀之助さん、こんな朝早くから一体どうしたのよ」
「おはよう、おつたさん」
銀之助は困った。
おさとが、世話になっただけでなく、銀之助もこの長屋に住んでいた時にはいろいろ面倒を見てくれた世話付きのおつただが、おしゃべりで、徳衛門長屋の瓦版ともいわれていた。
(正直にいってしまおう)
「実は、おさとさんのことで、橋本様とおすみさんにお願いに来たんだ」
そういって、銀之助は、かいつまんでおつたに話をした。
「そうだったの、あたしに何んかできることあったら、遠慮なくいってよ」といって、おつたは井戸の水を桶に入れて家に戻って行った。
間もなく、おつたが出てきて、おさとの家に入った。
「おさとちゃん」
「あら、おばさん」
「おさとちゃん、出て行くんだってね。元気でね。これ持ってて」と言って、おつたは、簪を渡した。
「おばさん、こんな大事なものをいいの」
「いいんだよ。もうあたしのような年増じゃ挿すことはないんだ。挿してみなよ」
おさとは目を潤ませて、髪に挿した。
「おさとちゃん、似合うよ」
「おばさん、ありがとう」
おつたは、家に戻って行った。
「そうか、おつたさんにいってしまったのか」
銀之助から話を聞いた橋本が、諦め顔でいった。
しばらくして、おつたがお櫃を持って入って来た。
「みんな、まだご飯食べていないんだろう」
「橋本様、酒ばかり飲んでいないで、早くみんなの茶碗お出し」
「橋本様は、この後大事なお仕事があります、私が取ってきます」と、ちょっと前におさとの家から戻っていたおすみが言って、腰を上げた。
おさとが行李を背負って入って来た。
「おさとちゃん、大荷物になったね」と、おつたが言った。
銀之助とおさとは、飯と香の物そして、煮しめの朝餉を食して、店に戻った。
五ツ、銀之助は暖簾をかけ、いつものように‘うまいもん屋’の朝が始まった。
「おさとさん、茶飯と玉子ふわふわそして、いつもの田楽豆腐を作るよ」
「はい」
「茶飯の作り方なんだが」
「あたし、知ってます。米にほうじ茶を加えて炊き上げればいいんでしょ」
「そうだ。頼む」
しばらくして、おさとは玉子ふわふわについて聞いてきた。
「これは、知らんだろうね。まずだし汁を煮立てて、そこにかき混ぜた卵を落としてから蓋をするんだ。そうするとすぐに卵がふわっと盛り上がってくるんだ。それで出来上がりだ、簡単だろう」
「はい」
「おさとさんのおじいさんとおばあさんに作ってやると、きっと喜ぶよ。だし汁の作り方は、あそこの引き出しの帳面に書いてある。字は読めるかい」
「多少」といって、引き出しの帳面をじっと眺めていた。
昼時になった。
「おさとさん、これが最後だ。九ツ半頃に橋本様たちが店に来る。あいつも来るだろうから、いつものように振る舞っておくれ」
「はい、御主人。大変お世話になりました」
「何か困ったことがあったら、いつでも来なよ」
銀之助は、壁に茶飯、玉子ふわふわそして、田楽豆腐の札をかけた。
昨日までと違って、家族連れは少なく、職人姿や前掛けをかけた商人たちが、昼餉を取りに、入れ替わり入ってきた。
入って来た客に対して、おさとは力を振り絞って、大きな声で迎えそして、注文を取った。
半刻ほどして客足が途絶えた時、銀之助は出入り口の障子戸を開けて外をうかがった。
道角に人影を見た。
(あいつだ。ここを見張っているな)
「おさとさん、二階に上がっていな」
銀之助は、勝手場に戻って来たおさとに声を掛けた。
おさとが、二階に上がった直後、助五郎が、手下を連れて店に入って来た。
「いらっしゃい」
「おい、娘が来るまでここで待たせてもらうぜ。酒二合と、田楽豆腐四本だ」
注文を受けた銀之助は、勝手場に戻った。
しばらくして、、紫の御高祖頭巾(方形の布に耳掛けのひも輪をつけたずきん)で顔を覆った女が入って来た。
「いらっしゃいませ」
(これは都合がいいや)
銀之助は、勝手場を出て女を迎えた
「何にしますか」
「茶飯と玉子ふわふわをお願いします」
「はい」
続いて、二人とも編笠をかぶった侍風の男と女が入ってきた。
女は、荷を背負っていた。
「いらっしゃいませ」
勝手場に戻ろうとした銀之助が声を掛けた。
席に座るや、編笠をかぶった女は、厠はどこかと銀之助を手招きして尋ねた。
銀之助から聞くや否や荷もおろさずに、奥の階段から二階に上がった。
編笠を外したのは、おすみだった。
「おさとちゃん、早く着替えるのよ」
二人は、着物を脱ぎ相手の着物に着替えた。
おさとは編笠をかぶる前に、おすみに両手を合わせた。
「いろいろありがとうございました」
「いいのよ、お互い様じゃない。困ったことがあったら、また来てね。早く、橋本様のところに行って」
おさとは、奥の助五郎を見ずに侍の所に行った。
助五郎は、田楽豆腐をつまみに酒を飲んでいた。
侍が、おさとに声をかけた。
「おたか、ここには鰻はないんだとよ。他の店に行こう」
「お客さん、すみません。またお越しください」
(橋本様、よろしく頼みます)銀之助は、二人に頭を下げた。
二人は、うまいもん屋を出て行った。
その後、料理を食べ終わった御高祖頭巾の女も、銀之助に声をかけてから厠へと向かった。
しばらくして戻ってくると、勘定を置いていくと言って、店を出て行った。
奥にいた助五郎は、ずっと二人を見ていた。
銀之助は、助五郎を一瞥して勝手場に戻った。
勝手場では、着替えをしたおすみが茶碗を洗っていた。
「すまねえな、おすみさん」
「いいんですよ。お互い様じゃないですか。奥にいるのが悪徳金貸しですか」
「ええ、丸金の助五郎って奴です」
「顔付が、いかにも悪党って感じですね。おさとさんも生きた心地しなかったでしょうね」
「そうなんだ。いつも怯えていましたよ」
「橋本様、いつごろ戻ってくるんでしょうね」
「そうですね、何もなければ、四日後くらいでしょうか」
「おーい、誰かいねえのか」
助五郎のどなり声が、勝手場まで響いた。
「あの人だわ、私が行ってきます」
おすみは、いやな顔していった。
「気を付けてください」
銀之助は、心配そうだった。
「はーい。いま行きます」
おすみが、大声で返事をした。
「何か御用ですか」
おすみは、笑顔を浮かべて助五郎にいった。
「あの娘はどうした?」
「あの娘って、どなたのことですか」
「ここで働いていたおさとだよ」
「すみません、来たばっかりで」
「役に立たねえ女だ。主を呼んで来い」
「はい、ちょっとお待ちください」
おすみは、勝手場で椀や皿を片付けていた銀之助に助五郎が呼んでいることを伝えた。
「そうか、気づかなかったようだな」といって、助五郎のところに赴いた。
「お客様、何か御用で」
「おい、娘はどうしたんだ」
「へい、この間もいいましたように、まだ帰ってこないんです」
「嘘も休み休みつけ、昨日、長屋からお前と娘が、この店に戻ってきたのをこいつが見たんだ」
手下が頷くと、首すじに入れ墨が、見えた。
(見られていたか)
「あれは、おさとさんじゃありません」
「とぼけやがって。もしかして、先ほど紫の御高祖頭巾の女か。えー、どうなんだ」
助五郎は、そばにいた手下に顎を杓った。
手下は、着物を端折って店を走り出て行った。
助五郎は立ち上がり、銀之助の襟元を掴んだ。
「お客さん、店の中でこんなことは困ります」
「じゃ、娘がどこへ行ったのか教えろ」
「知りませんよ」
「いわなきゃ、痛い目に合わせてやる。外へ出ろ」と襟元を掴んだまま、銀之助を店の外に引きずり出した。
銀之助は、出された時に障子戸を閉めた。
おすみは、勝手場から出てきて店にいる客になんでもないから気にしないでくれといって、障子戸を三寸ほど開けて外を覗いた。
銀之助は、障子戸閉めるやいなや、襟元を掴んでいた助五郎の両手首を握って、外側に捻った。
「いてえ~」
その隙を狙って、銀之助は助五郎の足を払った。
その瞬間、助五郎はドスーンという音を立てて、地べたに尻もちをついた。
「この野郎、やったな」
助五郎は、立ち上がろうとしたが、腰を打ったせいで起き上がれない。
「お客さん、おさとさんにいったい何の用なんですか」
「うるせえ、あいつの親父が借金を残して死んだんで、おさとに肩代わりしてもらうんだ。分かったか」
「そうだったんですか。その証文は、あるんですか」
「そりゃ、あるに決まってらあ」
「見せてもらえませんか」
「そんな大事なもん、見せるわけにはいかねえ。覚えてろ」
助五郎は、何とか立ち上がり、足を引きずりながら去って行った。
銀之助は何もなかったかのように、店に入り、覗いていたおすみと一緒に、客に笑みを絶やさずに頭を下げながら、勝手場に戻った。
客たちは、驚きを隠さずに銀之助を見ていた。
「銀之助さん、大丈夫。強いのね」
「ええ、あいつが弱いのです」
「でも、いつか、仕返しに来るかもしれないわ」
「すぐに来るでしょうね。おさとさんが、遠くに逃げてしまわないうちにと思って」
「おすみさん、大丈夫ですか」
「ええ、八百膳でもこんなことがたまにありましたので、慣れてはいませんが大丈夫です」
「そうですか、じゃ、今日はもういいですから、今、賄の飯を作りますんで、食べて帰って下さい」
銀之助は、残り物とありあわせの物で昼餉を作った。
今日から、うまいもん屋は夜も店を開く予定であったので、銀之助も急いで食べた。
「銀之助さん、いつもこんなに多くのお客が来たら、一人じゃ大変じゃありませんか。また、夜もやるなんて」
「客がおいしいといって食べているのを見るのが好きなもんで、大変なんて思ったことがありません。でも、もっと店を大きくしたいので、おさとさんが来てくれた時は助かったんですが。おすみさん、だれかいい娘さん御存じありませんかい」
しばらく考えていたおすみが、箸をおいた。
「娘じゃなければだめなんですか」
「いえ、そんなことはありませんが、だれかいい人いますか」
「あたしじゃだめですか」
「おすみさんが?とんでもねえ。あの有名な八百膳の仲居頭をやっているおすみさんが、こんなちんけな店を手伝ってくれるなんて。いいんですかい、あまり給金も出せませんよ」
「もう八百膳のように大尽相手の商売は嫌になっちゃたんです。銀之助さんのような気持ちを持った商売をしたいんです」
「そうですか、それは有り難い」
「ところで、銀之助さん。今日の夜の献立は?」
「味噌漬け豆腐と田楽豆腐、そして飯は茶飯で考えているんですが」
「そうね、味噌と豆腐ばかりね。味噌漬け豆腐をやめて、煮しめにしたらどうですか」
「椎茸、人参は有るんだが、八つ頭と牛蒡があまり無いな」
「あたし、買ってきます。ついでに、八百膳に寄ってきます」
おすみは、銀之助から銭を預かって、店を出た。
(助五郎たちはきっとくる)
銀之助は、二階の押入れから丸棒を取り出し、正眼の構えから素振りを数回繰り返した。
‘ビュー’‘ビューン’‘ビューン~’
(よし、まだまだ鈍っていねえな)
この丸棒、径は一寸程(三センチ)、長さが二尺半(約七十五センチ)で芯には、鉄材のようなものが埋め込まれており、刀に打ち込まれても切断されることがないように、銀之助が手作りしたものであった。
また、鍔は、使用する時、簡単にすぐに取りつけることができる。
暮れ七ツ頃(四時)、おすみが戻ってきたので、すぐに煮しめを二人で作り始めた。
「準備ができましたね」と、おすみはいってから、
「あたしは暖簾をかけて、掛行灯に火を入れてきます」
銀之助は、店の中の五つの置行灯に灯をともした。
行燈の灯りは、冬の暗さに暖かさを醸し出した。
早くも客が入ってきた。
「いらっしゃい」
「あれ、おすみさん。どうしたんだ」
おすみが最初に迎えた客は、おすみと同じ徳衛門長屋の住人で、魚の棒手振りを職としている勇治だった。
勇治は朝早くから日本橋の河岸で仕入れた魚を桶に入れそれを天秤棒で担いで、毎朝、町内を売り歩いている。
「ここで働かせてもらっているのよ。勇治さん、何にしますか」
勇治は、酒二合と田楽豆腐を三本頼んだ。
おすみは勝手場に戻って、銀之助に田楽豆腐を頼み、酒二合を手際良く、徳利に入れた。
「銀之助さん、勇治さんが来てくれたわ。ねえ、うまいもん屋でも魚料理を一つぐらい献立に入れたらどうかしら。勇治さんから買えばいいし」
「おいら、魚料理知らないんだ」
「あたし、多少は知ってるわ」
銀之助は考えておくといって、田楽豆腐を入れた皿をおすみに渡した。
(あれから、奴はとうとう来なかったな)
客がいなくなった時期を見計らって、銀之助はいつもより早く店を閉めた。
翌日の朝五ツ(八時)。
「おはようございます」
おすみが元気な声を出して、うまいもん屋に入ってきた。
「おはようございます」
銀之助は、勝手場にいた。
「銀之助さん、今日の昼の献立は何ですか?」
「、田楽豆腐、飯物は、ねぎ飯にしようかと思うんだが。おすみさん、ねぎ飯知ってますか」
「ええ、ねぎ飯はよく八百膳で賄い食で食べたわ。銀之助さん、あたし作っていいかしら」
「頼みます」
「それから、また豆腐だけになっているのが」と、おすみが申しわかなさそうに言った。
「本当だ、つい簡単なものになってしまうんだな」
「田楽豆腐は注文が一番多いから、定番にしたらどう」
「そうだな、それがいい。もう一品は何がいいかな」
「玉子ふわふわにしましょうよ」
銀之助が嬉しそうに頷いた。
おすみは、飯を炊く準備にかかるとともに、だし汁を作りだした。
銀之助は、焼き豆腐を短冊状に切り、串に通して、下準備は終わった。
おすみは深谷のねぎを半寸ほどに切り刻んで、先ほど作っただし汁を米の入った釜に入れて、炊き始めていた。
「さすが、おすみさんは手際がいい」
「八百膳で見よう見まねで、覚えたんですよ。本業は仲居ででしたけど。銀之助さんは、以前うどんとそばを売っていたそうですけど、どうして今はお品書きに入れないんですか」
「担ぎ屋台から仕事を奪うことになるので、年越蕎麦以外ははやめているんです」
「そうでしたか」
四ツ半になった。
おすみが暖簾を架けに外へ出たその時、助五郎が六尺もあろうかという背の高い侍を連れて、うまいもん屋から三間(五メートル強)ほど離れたところに立ってこちらを見ていた。
それに気づいたおすみを見て、助五郎が走り寄ってきて怒鳴った。
「どけ、奴はいるか」といって、助五郎はおすみを横に押しのけた。
「なにすんのよ」
二人はおすみを無視して、店に入り怒鳴った。
「銀之助、いるか」
勝手場にいた銀之助は、傍に置いておいた丸棒を背の帯に挿し込んで入口に行った。
(丸金の用心棒か、でかい男だ。注意してかからんと)
「助五郎さん、証文を持ってきてくれたんですか」
「何馬鹿なこといっているんだ。先生、こいつを痛い目に合わせておくんなさい」
六尺(一メートル八十センチぐらい)ほどの侍が、助五郎の前に出た。
「拙者、赤沢惣右衛門と申す。無外流を少々たしなんでおる。おさとやらの行方をいえば、痛い目に合わずに済むんだがどうだ。いわんか」
「昨日もそこにいる助五郎さんにいったんですが、あっしはなにも知らないんです」
「嘘つけ、どこにかくしたんだ。早くいわんと痛い目にあっても知らねえぜ」
助五郎が、横から口を出した。
「しつこいお方だ、知らないといったら知らないんだ」
「しゃらくせえ、先生やっちまってください」
赤沢惣右衛門は、銀之助をうながし、外に出た。
銀之助は赤沢から殺気を感じ、背中の丸棒を帯から抜き取った。
「それはなんだ、それで拙者に勝てると思っているのか!」
赤沢は、そういったまま、いつまでたっても抜かない。
(奴は、抜き打ちか、一発でおいらを仕留めるつもりだな。ちょっと仕掛けてみるか)
銀之助は上段に構えてから、赤沢の方へ、足を摺り寄せ一気に振り下ろした。
その瞬間、赤沢は左足を一歩下げ、銀之助の一撃を避けながら抜刀し、銀之助の頭上に振りかかった。
銀之助の丸棒が、赤沢の胴を先に打った。
‘ドスーン’
赤沢は、腹を押さえてつんのめった。
「この野郎!」
助五郎は、懐からを抜きだし、銀之助に飛びかかった。
銀之助は、とっさに地面に倒れ込み、一回転して体勢を立て直した。
さらに助五郎が、匕首を銀之助に突き刺そうとした時、銀之助の丸棒が匕首を持っている手首を撃った。
‘ボギ’
「ぎゃー」
助五郎の手首から匕首が落ち、手首から下がだらりと下がった。
銀之助は、近づいて助五郎に声をかけた。
「おい」
「おねげえだ、助けてくれ」
「証文、見せてくれねえか」
「俺は、持ってねえ」
「誰が、持ってるんだ」
「俺、俺の親父だ」
「親父さんのところへ連れて行け。二人とも、逃げるとどうなるか分かっているだろうな」
助五郎は、手をだらんと赤沢は、腹を抑えながら前のめりに、日本橋へ向かって歩き始めた。
銀之助は、傍に来ていたおすみに店を頼んで助五郎の後に続いた。
「お気をつけて」
おすみの心配そうな声が寒風に消された。
大川端近くに出ると、銀之助たちの歩みを阻むよう、風が強まり、雪が舞い始めた。
(早く始末をして帰らないと、帰りは難儀するかもしれんな)
「もっと早く歩け」
「旦那、赤沢さんが重くてこれが精いっぱいだ。手も痛えし」
一刻ほどかかって、神田川に架かっている浅草橋を渡った。
風は止み、ほんのりと川辺は、雪が積もっていた。
銀之助は、気が張り詰めていたせいか、いっこうに寒さは感じなかった。
数町ほどで丸金の店に三人は着いた。立派な門構えであった。
(ここか、悪徳金貸しの店は)
助五郎は、玄関の戸を開けた。
「おやじ、あいつが来たぞ」
土間を蹴って、逃げるように廊下を走って行った。
助五郎と入れ替わりに、三人の用心棒が出てきた。
「お前が銀之助か」
古株とみられる侍がいった時、傍に座り込んでいた赤沢惣右衛門に気づいた。
「赤沢、どうした」
腹を押さえながら、うめくようにいった。
「こいつにやられた。手ごわいから気をつけろ」
「みんな、こいつをやっちめえ」
「おいら、助五郎さんの親父さんに話があって来ただけなんだ。無駄な殺生は、無しにしないか」
一番若い侍が柄に手をかけ、抜刀した。
「うるせえ」
銀之助は、後ずさりで外に出、後ろの帯に挿した丸棒を取った。
「なんだ、俺たちと棒でやるつもりか、馬鹿にしやがって」
抜刀した侍は、上段に構え間合いを詰めてきた。
銀之助は、中段の構えを取った。侍は、止まった、次第に呼吸の乱れが銀之助にも聞こえてきた。
呼吸の音が止まったと思いきや、相手は、真向に銀之助の頭に打ちこんできた。
銀之助も合せて、真向に打ち込んで、相手の剣を打ちはじいた。
‘バチ~ン’
音が消えた瞬間、銀之助の丸棒が相手の肩を撃っていた。
「一刀流、切落しか、小癪な」
次の相手が、肩を撃たれた侍の脇から、正眼の構えで間を詰めてきた。
(こいつは、できる。隙がない)
銀之助も相手も、身動きせずにいたが、二人とも寒さにもかかわらずに汗をかき始めていた。
雪がやんだ。
声がした。
「青山、もうやめろ。俺は、もう悪党たちの片棒を担ぐのはやんなった。ここを出て行く」
青山と声をかけられた侍は、一瞬耳を疑ったようで銀之助と対峙していることを忘れ、古株の方へと視線を送った。
もうその時、古株の侍は、丸金の家の門に向かっていて、銀之助たちに背をむけていた。
「銀之助さんとやら、もうやめよう。助五郎の親父は、廊下の突き当たりの部屋にいるはずだ。気をつけてな」
青山は、うずくまっている赤沢に肩を貸して、古株を追って門から消えた。
銀之助は、突き当りの部屋の戸を開けた。
座っていた助五郎と親父が、驚きのあまり顔が凍ったようになった。
「あんたが、銀之助さんか。俺がこいつの親父だ」
落ち着きを取り戻すかのように、助五郎の親父がいった。
「へい、中へ入らせていただきます」
丸棒を左において二人の前に座った。
親父が、懐から何やら紙を取りだし、銀之助の前に投げた。
「お前さんの欲しがっていた証文だ。さっさと持って消え失せろ!」
銀之助は、手に取っておさとの父親に貸した金の証文かどうか確かめて、懐にしまった。
「これで始末をつけさせてもらいますぜ。二度とおさとさんには手を出さないでください」
と、銀之助は胴巻きから十二両を出し、親父の前に置いて、帰ろうとしたとき、
「まちねえ」
銀之助が振り返った。
「銀之助とやら、ありがとよ」
銀之助が店に戻った時には、昼八ツ(一時)を過ぎていた。
一人も客はおらず片隅に一人ぽつんと腰かけていたおすみが、銀之助に気づくや急に笑顔になって銀之助に抱き着いてきた。
「銀之助さん、無事でよかった」
銀之助はどうしていいかわからずおすみのなすがままにした。
しばらくして、顔を赤くしたおすみは我に返り、恥ずかしそうに銀之助から手をほどいた。
三日後、夕暮れ時。
浅草の空が、朱の色に染まるには、まだちょっと早い時間、茜色の雲が箒で掃いたように浮かんでいた。
銀之助とおすみは開店前の準備に忙しかった。
障子戸が開いた。
「お客さん、まだ・・・・。橋本様、お疲れ様」
「おすみさん、ここで働くようになったのかな」
おすみは、橋本順之助の手を取り勝手場に連れて行った。
「銀之助さん、橋本様が帰って来たよ」
銀之助は、前掛けで手を拭き橋本を笑顔で迎えた。
「橋本様、ご苦労様でした」
「おさとさん、無事、上州の前橋の家まで送って来たぞ」
「ありがとうございました」
「ここを出て、半刻(一時間)ぐらいかな、後をつけてきた丸金の手先をちょっと痛い目に合わせたぐらいで、あとは順調な旅だった。じいさんとばあさんは、おさとさんに会えて大喜びだったよ。お前さんたちにもよろしくって」
「橋本様、背の物は」
おすみが気付いた。
「おう、これはおさとさんのばあさんからの土産だ」
橋本は、野菜の入った篭を下ろした。
「銀之助さん、好きなものを取ってくれ」
「橋本様、よろしかったら、長屋のみんなに分けてやってもいいですか」
「そうか、分かった」
銀之助は、おさとの父親の証文を取り返したことを手短に橋本に話し終えると、おすみに声を掛けた。
「おすみさん、そろそろ店を開きましょうか」
「はい、暖簾をかけてきます」
「橋本様、ゆっくり一杯やって行ってください」
銀之助は、行灯に火を入れながらいった。
「それはありがたい」
そして、銀之助とおすみは勝手場に入って、橋本のために酒と田楽豆腐を急いで作った。
それが終わると、
「おすみさん、朝、練馬の大根が手に入ったから今日の昼は大根飯でいきましょうか」
「いいですね」
「橋本様にも食べてもらいます」
銀之助は大根のどろをおとしてから洗って、さいの目に切り、クチナシの汁で煮しめた。
そして、大根をすりおろした大根の汁を米に入れて炊く準備をした。
「銀之助さん、そろそろお品書きの種類を増やしませんか」
「そうですね、おすみさんという強い見方ができましたから、増やしましょう。どんな料理がいいですか」
「ご飯類は今までのも入れて、菜飯、茶飯、大根飯と若狭白がゆで、豆腐類は霰豆腐、みそ漬け豆腐、魚類は四季にあったものを入れたらどうでしょうか」
「そんなに増やして大丈夫かな」
「そうですね、少しずつ増やしたほうがいいかもしれませんね」
お品書き
田楽豆腐 四文
菜飯 十六文
玉子ふわふわ 八文
つづく
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