私たちツアー客は、伊藤恵に見送られて大分空港発羽田行ANA2496便に乗った。
「雅子、今回の旅行は大変だったね。余計な仕事まで抱え込んでしまった」
「そうね、仕方がないわ。でもあなたも最後の観光予定の宇佐神宮に行けなくなて、残念だったんじゃないかしら」
「仕方がないよ、殺人事件があったんだから。雅子も帰ってから大変だ」
「ところで、宇佐神宮っていう所は、どういう所なの」
「宇佐神宮八幡は、全国約十一万の神社のうち、八幡さまが最も多く、四万六百社あまりのおがあるんだ。宇佐神宮は、四万社あまりある八幡さまの総本宮で、御祭神である八幡大神さまは応神天皇のご神霊で、欽明天皇の時代五百七十一年に初めて宇佐の地にご示顕になったといわれている。応神天皇は、大陸の文化と産業を輸入し、新しい国づくりをした方で、七百二十五年、現在の地に御殿を造立し、八幡神を祭ったのが宇佐神宮の創建だ。宇佐の地は、畿内や出雲と同様に早くから開けたところで、神代に比売大神が宇佐嶋に降臨したと日本書紀に記されている。比売大神様は、八幡さまが現われる以前の古い神、地主神として祀られ崇敬されてきた。八幡神が祀られた八年後の七百三十三年に神託により二之御殿が造立され、宇佐の国造は、比売大神を祀った。三之御殿は神託により、八百二十三年に建立された。応神天皇の御母、神功皇后を祀っている。神功皇后は、母神として神人交歓、安産、教育等の守護をされていると伝えられている。八幡大神の御神徳は、強く顕現し、三殿一徳の神威は、奈良東大寺大仏建立の協力や、勅使・和気清麻呂に国のあり方を正してゆく神教を賜ったことで特に有名だ。皇室も伊勢の神宮につぐ第二の宗廟としてご崇敬になり、勅祭社十六社に列されている。雅子、八幡信仰って知っているか?それは、応神天皇のご聖徳を八幡神としてたたえるとともに、仏教文化と、我が国固有の神道を習合したものとも考えられているんだよ。その長い信仰の歴史は、宇佐神宮の神事や祭会、うるわしい建造物、宝物などに今も見ることができ、千古斧を入れない深緑の杜に映える美しい本殿は国宝に指定されている。一度見たことがあるんだが、もう一度見たかった」
「わたしも見たかったわ」
「また来るか」
「近いうちにまたね」
私たちの飛行機は、予定通り羽田空港に十八時三十五分に到着した。
自宅に戻った私は、夕食のため簡単な料理を作った。
「お疲れ」
夫が、ビールを私のグラスに入れて言った。
夕食を終えると、夫は風呂に入り、すぐにベッドに滑り込んで行った。
私は、今回の調査をノートに書き留めようと、椅子に腰かけたが、昔のことが次々と思いだされてきた。。
私は、高校三年の時、M大学を受験したが、落ちて浪人生活を予備校で過ごした。その間、同じ予備校に通っていた髪の長い目のぱっちりした面長の顔の男子に恋をしてしまった。
受験勉強は、そっちのけで彼が読んでいる藤村、白秋、実篤そして、漱石に傾倒した。
翌年は、案の定M大学への受験をあきらめざるを得なく、T大学を受験してなんとか合格した。
大学時代は、合気道部に入り、毎日練習に明け暮れ、練習の後は、授業料を稼ぐために家庭教師を掛け持ちした。
四年生になって、周りの友人は有名一流会社に就職が決まったが、私は、社会に出て働くということに何か抵抗があり、大学院の修士課程に進んだ。
建築意匠についての研究を選んだが、二年間で挫折をして、就職の道を選んだ。
が、この年は、景気が悪く民間の求人募集は、非常に少なかった。
いろいろ受験した中で、東京都の警察官試験に合格した。
警視庁に入ってから、一階級を上がるためには都度試験に合格しなければならない。
私のような警察官は、国家公務員上級試験に合格して入ってきたキャリア人間とは違い、警部になるのが精一杯であることを知った。
特に、女性は、さらに厳しかった。
巡査、巡査部長、警部補そして、警部に数年前になることができたのは、運がいいほうだと思っている。
キャリアはキャリアで出世競争に敗れた者は、多くその末路は寂しいもので、民間では考えられないようである。
出世競争に勝ったものも、それで安泰というものではなく、政治家や世論からの風当たりも時には強く、心安らかではない日を送ることもあるようだ。
私が警部になれたのは、夫の南湘の支援があったからこそで、夫には感謝している。
旅の疲れによる睡魔に負けて、いつの間にか机の上に臥せってしまったところ、夫に起こされた。
すでに日をまたいでいた。
朝食を取ってから、紺のスーツをクローゼットから出して着替えた。
「警察とコワークすることになるなんて、想像もつかなかったわ」
「本当だ。雅子、殺人事件だ。くれぐれも気を付けてくれよ」
「はい、分かりました」
夫に見送られて、JR新宿駅から徒歩で十五分ほど離れた五階建てビルの誤解にある私の事務所に寄って郵便物と留守電を確認してから、世田谷署をたずねた。
「藤沢元警部、ご苦労様です」
すでに大分県警から連絡を受けていた捜査一課の麻生係長が、笑顔で迎えてくれた。
「麻生係長、元警部はよしてくれませんか。今は、私は一介の探偵です」
「分かりました、藤沢さんはこちらの机と席を使ってください」
「先ほど言いましたように、今は一般の国民ですし、今回の事件での容疑はまだ
晴れていません。署内に席を設けていただくことは不要です。ただお邪魔することがあるかもしれませんので、皆さんにご挨拶だけはさせていただきます」
私は、腰かけずに、周りにいる人たちへ挨拶をした。
現役の時に顔見知りになっている刑事が、数人いた。
挨拶を終えた私は事務所に戻って、昨日書き付けたノートをカバンから出して机の上に置き、最初のページから読み直し、さらに追記した。
翌日、十三時過ぎに大分県警の久米が、世田谷署に入ったとの知らせを事務所で受けた私は、すぐに世田谷署に向かった。
久米は、麻生係長に挨拶して、熊本の土産で有名な菓子の誉の陣太鼓を手渡した。
「これはご丁寧に、遠慮なくいただくよ。藤沢さんと組めるなんて、久米君も運がいいよ。がんばって、早く星を上げてください」
世田谷署についた私は、会議室に案内された。
しばらくして、麻生が久米を連れて部屋に入てえ来た。
久米が、大分県警の捜査状況について説明した。
久米の説明が終えるのを待って、私は大分県警がどのように考えているかを確認した。
「犯罪場所は、Uホテルの裏庭で間違いないですか」
「裏庭で殺害されたとの見解です」
「共犯の可能性をどうみていますか」
「二人を殺害していますので、単独犯ではないと考えています。犯人は、ツアー客にいるとはまだ断定していません。ホテル内の客だけでなく、近隣の住民らにも聞き取り調査を行っています」
「物盗り、痴情、怨恨等、動機はどのように推測していますか」
「山本一と末永喜美子の部屋の荷物からも盗まれた形跡はありませんので、怨恨の方面から捜査しています」
「犯行方法は、推定できましたか」
「死体の位置から考えますと、山本一の死因ですが、頭蓋骨骨折とロープのようなもので絞殺されたか痕跡がありましたが、直接の死因は、どちらだかまだ分かりません。司法解剖の結果待ちです。末永喜美子の場合は、後頭部を石か金属バットのような硬いもので殴打され頭蓋骨骨折と鑑識から報告がありました」
「大分県警の今後の捜査方針は?」
「犯罪場所に基づいて、犯人関係を洗い出す予定です。次に、被害者の性向、交友関係それに生活状況についての調査です、これは藤沢さんにお願いしたいのですが。もちろん、私が主担当になります」
「分かりまた、明日から山本一と末永喜美子の交友関係から調べることにしましよう」
「何か手伝うことがあれば何でも言ってください」
麻生が言った。
「ありがとうございます」
久米が答えた。
「ところで、久米さん、ホテルは決まっていますか」
麻生が続けた。
「はい、ちょっと離れているのですが、溝の口駅前のDホテルに予約入れてます」
「分かりました」
「溝の口ならJR南武線や田園都市線、大井町線もきているから便がいいですよ」
久米は、私の言っていることを理解できなかった。
私たちは、お互いの電話番号を登録した。
「久米さん、今日は、疲れているだろうから、帰って休んだらどうですか」
麻生が言った。
「明日から頑張りましょう」
「分かりました。また明日もよろしくお願いします。では、失礼します」
翌日、私と久米は、山本一の自宅を目指した。
山本一には奥さんがいるはずで、奥さんが山本一をどう思っているか非常に興味があった。
久米は、時々立ち止まって、電車や道順をスマホで確認しながら道を急いだ。
(若い人は、スマホの扱い方が上手だわ)
私は、感心しながら久米の後に続いて行った。
丸ノ内線の大塚一丁目で降りて、まずは文京区千石三丁目の山本一の家を探し歩いたところ、千石西保育園の近くのマンションにたどり着いた。
「藤沢さん、このマンションのようです」
エントランスに入って、山本一と書かれた郵便受けを久米が見つけた。
「藤沢さん、参りましょう」と言って、エレベーターに乗り込み4階のボタンを押した。
山本家の玄関前に立ち、久米が、インターフォンを押した。
「どちら様ですか」
女の声の応答があった。
「警察の者ですが、奥様に亡くなられたご主人山本一さんのことについて、お聞きしたいのですが」
「分かりました」
しばらくして、玄関の扉が開いた。
久米が、警察手帳を見せた。
「大分県警の久米です」
私は、ただ藤沢とだけ言った。
「どうぞ、お入りください」
私たちは、整理整頓された居間に案内され、ソファーに腰をおろした。
四十過ぎの清楚な奥さんだ。
私たちに茶を入れた。
「この度は、御主人がお亡くなりご愁傷様です。かような時で申し訳ありませんが」と久米が口火を切り、山本一についての性向、交友関係それに生活状況について次々と聞いた。
「結婚して十五年になります。学問一筋のまじめな夫が、まさか女の方と旅行に行っていたなんて今でも信じられません」と奥さんが、いまにも声を上げて泣きそうになっていた。
有名大学教授の奥さんにしては、素直な性格を持ち合わせているようだった。
「今度のように、ご自宅を空けることは、過去ありませんでしたか」
私が聞いた。
「帰ってこないときは、学会やセミナーの時でしたが、今回も大分での学会に行ってくるといってました」
「何か、今まで何かご主人に変わったようなことはありませんでしたか」
「そういえば、昨年の夏頃でしたか、一時期ふさぎ込んでいた時がありました。どうしたのか聞いてみたのですが、なんでもないの一点張りでした」
「失礼ですが、お子さんは」
久米が口をはさんだ。
「いいえ、いません」と言って、俯いた。
一時間ほどで、山本宅を後にした。
「大学教授ともなると夏休みや春休みやらであまり学校には行かないのかと思っていたら、山本一は土日以外はほとんど学校に行っていたそうだけど、本当かどうか。久米さん、これからM大学に行きましょう」
「はい、すぐに学校に連絡してみます」
三十分ほど歩いて、M大学の事務室に入った。
山村という男の事務長が、私たちを迎え、会議室に案内した。
「お忙しいところ恐縮です。先日亡くなられた山本一さんについて、お聞きしたいのですが、彼はどのような人でしたか」と私は、腰かけるや否や聞いてみた。
「まあ、頭のいい先生でした。それに、マスクがいいから、女子学生に人気がありましたよ。ただ、本人は熱情的な性格からか、すぐ本気になり一線を越えることがあったという噂が何度かありました」
「昨年の夏ごろですが、山本一さんに何かあったようなんですが、何かご存じありませんか」
久米が続いて聞いた。
「実は、昨年の夏休みも終わろうかというときに、山本先生の所に勤めていた助手の方が亡くなりました。それが自殺だったんですよ。山本先生は、しばらくの間、自分に落ち度はなかったか自分を責めていました」
「亡くなられた方の名前は」
「久保志保さんという方で、生きていれば、今年三十三歳になるはずです」
「自殺の原因は、わかったのですか」
「研究上でのノイローゼではないかといわれています」
私たちは、山村にまた来るかもしれないと言って大学を後にした。
「明日は、末永喜美子の交友関係について調べましょう」
私はすっかり捜査の主導権を握ってしまった。
私は久米を事務所に案内した。
「ここが有名な新宿ですか」
「いろいろな事件が多いところです」
私は、久米にコーヒーを入れてから、聞き取り調査のスケジュールについて打ち合わせた。
「まずは、末永喜美子のアパートに行きましょうか」
「そうですね、それからは、それ以外の客を順番に当たってみましょう」
「全部で、十四組になります」
「なんとか、この四日間で一巡したいですね。二十三区、東京の市、そして、神奈川県の横浜、川崎、藤沢としましょう。その順に相手方にアポイントを取ってくれませんか?」
「承知しました」
私は、久米が連絡している間、山本一の性格を分析していた。
「藤沢さん、全員にアポイントが取れました」
「ご苦労様、自殺した久保志保ですけど、何か引っかかるものがありますが、久米さんはどう思います?」
「はい、久保志保のことも詳しく調べる必要があると思います」
末永喜美子が、住んでいた町田のKアパートを訪ねた。
彼女の名前が書かれていた郵便受けを見つけた。
「彼女、独身ですね」
「部屋の中を調べさせてもらいましょうか」
アパートの管理人に鍵を開けてもらった。
ワンDKのバストイレ付きだった。
部屋は散らかっていた。
「あまり整理整頓が得意でないみたいですね」と久米が言った。
「仕事関係のものを探してくれませんか」
「はい」
「藤沢さん、会社の身分証明書がありました」
久米が私に見せに来た。
「大塚一丁目の駅前にあったS書店に勤めていたんですね」
「行ってみましょう」
「今からですか」
私は、久米の言葉を背で聞いて、末永喜美子のアパートを出た。
S書店の棚には、近くにM大学があるせいか各分野の専門書が多く収められていた。
久米が、店員を探した。
女子店員が、数メートル先にいた。
「すみません」
「なにか」
「警察の者ですが、ここで働いていた末永喜美子さんについてお聞きしたいのですが」
久米が警察手帳を提示した。
「ちょっとお待ちください、店長に聞いてきますから」
しばらくして、女子店員が頭髪の薄い五十代前半と思われる男を連れてきた。
「店長の川井です。末永さんのことですね。どうぞ、こちらへ」
私たちは、裏の一角の小部屋に案内された。
川井が、女子店員に顔を向けた。
「末永さんは二、三か月前から以前と違い明るくふるまうようになったので、私、何かいいことあったのと聞いたら、彼氏ができたと嬉しそうにいってました」
「その彼氏の名前か何かわかりますか」
「彼氏については、少しも話してくれませんでした。まさかM大学の教授だとは驚きました」
川井が、口をはさんだ。
「そういえば、二週間前に旅行に行くので二日ほど休みたいといってきました。それがこんなことになるなんて」
二人ともすでに新聞を読んでいたので、末永喜美子と山本一が、殺害されたことを知っていたのだ。。
二、三ほど質問をして、S書店を後にした。
「末永は、山本が既婚だったことを知っていたんでしょうか」
「知っていたと思う。それでも付き合うということは、いつか結婚したい、できると考えていたかもしれないわ」
「今の奥さんと別れてくれると思っていたんでしょうか」
「そう願っていたでしょうね」
「山本一は、どう対応していたんでしょうか」
「男っていうのは、一時の浮気心が、本気になるかもしれない。それが男と女かもしれないわ」
「藤沢さんは、そのようなことを経験したことがあるんですか」
「あるもんですか」
久米はしまったという顔をした。
ツアー客たちの聞き取りには、予定の四日より一日多くの五日かかってしまった。
事務所で、私と久米は今までの聞き取りの話をもとに議論した。
「M大学の関係者が、五人います。足立隆が経済学部、妻の誉は医学部で、佐川知美が文学部を卒業しています。また、反田次郎は事務職員を務めていましたし、田所正はM大学内の生協で働いていました。二十人ほどのうちこれだけM大学の関係者がいるとは、偶然でしょうか。何か腑に落ちませんが、この中に犯人らしき人間が見当たりません。あえていうなら、田所正ぐらいではありませんか」
久米の話を聞いて、私は戸惑いを隠すために久米に聞いた。
「田所正が犯人だったら共犯者は誰だと思う」
「そうですね」と言ってから、久米は黙り込んでしまった。
「久米さん、もう一度M大学に行って、自殺した久保志保さんについて、調べてみませんか?」
「そうですね。山本一教授の研究室に関係していた人たちにも会ってみましょう」
「そうですね、M大学の事務長に連絡してもらえますか」
久米が携帯を取り、連絡を取った。
「藤沢さん、研究室の都合を聞いてから連絡してくれるそうです」
しばらくして、久米に事務長から連絡が入った。
「藤沢さん、明日の十時なら准教授の方が都合がいいそうです」
翌日、私と久米は、再びM大学の門をくぐった。
直接、元山本教授の研究室の扉を叩き、約束の警察の者と名のった。
「どうぞ、中にお入りください」と部屋の中から男の声がした。
四十前後の男が席を立って、私たちを迎え入れた。
「こちらへどうぞ」
私たちは、打ち合わせスペースに案内された。
「お忙しいところ申し訳ございません」と久米は言ってから、名のった。
男は、准教授の木所と名のってから、私に向かって、
「女の刑事さんですか」といって、私をじろじろ見た。
困惑しそうになった私を久米がかばってくれた。
「嘱託としてお願いしている藤沢です」
納得した顔つきの木所が座ったのを見て、私たちも腰をおろした。
「久保志保さんについてお聞きしたいとのことですね。山本教授の事件と関係があるのですか?」
木所は久米に向かって言った。
「いいえ、まだ分かりませんが、久保さんの自殺について、詳細を教えていただきたいと思いまして、うかがった次第です。事務長の話では、自殺の原因は研究上の行き詰まりとのことですが、彼女はどのような研究をされていたのですか?」
「久保さんは、山本教授の直接の指導により国際法と憲法というテーマについて研究してました」
「何かそれで行き詰って、自殺に至るようなことがあったんですか」
「細かいことは私にはよくわかりませんが、何かに悩んでいた様子は見受けられました。助手の美山さんが知っているかもしれないので、呼びましょうか?」
「お願いします」
「美山さん、ちょっと来てくれませんか」
美山が、すぐにやってきて、挨拶をお互いに交わした後に、木所が、美山に久保志保のことで知っていることがあれば私たちにいうように促した。
「亡くなった山本先生の名誉にもかかわりますが、これからいいますのは、たんなる噂として聞いてください。久保さんと山本先生は下世話ないい方になりますが、できているんじゃないかとか、久保さんのアパート近くで山本先生を見かけたとかいう学生がいました」
「久保さんは、どちらに住んでいたんですか?」
「確か人形町のほうだったと思います。住所、必要ですか」
「あとで、教えていただければ結構です。久保さんの出身地はどちらかご存じですか?」
「大分県です」
「大分県のどちらかわかりますか」と久米は、メモの手を休めて言った。
調べてくると言って、美山は席を立ってからメモを手にもって戻ってきた。
「久保さんの東京の住所は、中央区日本橋人形町三丁目二のレジデンス日本橋で、大分の住所は、大分県大分市宮崎八百の五です」
「ありがとうございました」久米は、美山が差し出したメモを受け取り、さらに、美山に写真を頼んだ。
「もう一つお願いがあるのですが、山本先生と久保さんの写真がありましたら見せていただけませんか」
「ゼミで高尾山にハイキングに行った時の写真がありますわ。ちょっとお待ちください」
しばらくして、美山がアルバムを持ってきて、山本と久保を示した。
了解をもらって、久米がスマホを出して写真を撮った。
「今日はお忙しいところありがとうございました、またお伺いすることもあろうかと思いますが、よろしくお願いいたします」
久米と私は研究室を後にした。
「藤沢さん、久保志保さんの実家ですけど、誰かの住所に似ていませんか」
「観光バスの運転手の山田直人さんと同じですよ」
「えっ」
「久米さん、安田刑事に久保志保さんの写真と彼女の大分の住所を送って、山田直人さんとの関係を調べてもらうよう頼んでくれませんか」
「承知しました」と久米は言って、すぐに携帯を出して操作し始めた。
事務所に戻って、私のパソコンに久米から送ってもらった久保志保の写真を、しばらくの間見ていた。
誰かに似ているような気がした。
なかなか思いつかずに、私は自宅に帰って、夕食をすますと居間で、印刷機からアウトプットした久保志保の写真を再び眺めていた。
夫が、そばに来て写真をのぞき込んだ。
「この人、ガイドの伊藤恵さんに似ていない」
「そうか、あなたありがとう」
ちょっと待って、といってからパソコンを持ってきてテーブルの上において、先日のツアーで撮った写真を画面に映し出した。
「これ、伊藤恵さんとあなたのツーショットよ。見て、伊藤恵さんとこの方の目もとあたりがそっくりじゃない」
「本当によく似ている。姉妹かもしれないね」
私の脳が、活発に動いた。
翌日、私は、事務所に来た久米に久保志保が伊藤恵に目元辺りがよく似ていると話した。
久米は、夫の撮った伊藤恵の写真を見ながら、
「藤沢さん、本当に似ていますね。安田さんにさっそく連絡します」
私たちは、久保志保が住んでいた人形町三丁目二のレジデンス日本橋に向かった。
周辺の店やアパートの住民に手あたり次第、山本一と久保志保の写真を見せて、見かけたことはないか聞きまわった。
その結果、アパートの隣の住民と近くのスーパーマーケットのレジ係の女性から、一、二年ほど前に見かけたとの証言を得た。
「やはり、二人はいい仲だったんですね」
「そのようですね」
「藤沢さん、腹がすきました。近くでご飯でも食べませんか?」
私たちは、道路沿いにあった蕎麦屋に入った。
トイレに行ってから席についた私に、久米が安田から今連絡あったと言った。
「山田直人は、久保志保と伊藤恵の二人の養父だそうです。伊藤恵は旧姓久保恵で、藤沢さんの推測通り、恵と志保は姉妹です。恵が、姉です。今後の捜査方針を決めるので、藤沢さんと私は、大分に戻れとのことですが、藤沢さんご都合はいかがですか」
「大分に絞ったのかな。私なら大丈夫ですよ」
私は、ほっと一息ついた。
久米はホテルに精算と荷を取りに戻り、私は、自宅に出張の支度に帰った。
そして、羽田空港十五時五十五分発大分空港行きANA797便に乗り、大分空港には十八時に着いた。
機中では、久米は事件のことを考えているようで、私はこれからの身の振り方について、悩んでいたため、お互いに話をせずにいた。
ゲートを出ると、安田が待っていた。
「お疲れさまです」
駐車場まで歩きながら話をした。
「食事はまだでしょ」
「はい」
「途中で食べて行きましょう」
助手席に座った久米に、安田が聞いた。
「藤沢さんの宿は予約したか」
「はい、本部に近いUホテルを予約しておきました」
「久米さん、ありがとう」私は、久米の段取りの良さ感謝した。
数分で、品の良い和風の外観の小料理屋に着いた。
「いらっしゃい、安田さんいつもの奥座敷を用意してます」
女将が、迎え出た。
「女将、いつもありがとう」
小ぎれいな和室に案内された。
女が、注文を取りに部屋に入って来た。
安田が私にビールでよいか聞いてきたので、私は頷いて返事をした。
「ビール二本、焼き鳥盛り合わせ三人前、刺身盛り合わせ三人前、それからりゅうきゅうも三人前をお願いします」
女が、部屋を出たのを見届けてから、安田が私たちに捜査状況を説明し始めた。
「藤沢さんのおかげで、捜査に明かりが見えてきました。私は今回の事件、伊藤恵と山田直人の二人によるものではないかと、確信しています。彼らの動機は、久保志保さんの自殺に起因するのではないかと思うのです」と安田が、いった。
私は、久米に目を移した。
「私もそう思います。おそらく、山本一と久保志保は男女の関係になっていたんですが、山本一は、何らかの理由で、久保志保をそでにし、久保志保はそれに絶望して自害したのではないかと思います」
「久米さんは、若いのによく袖にするなんて言葉を知っているのね。安田さん、久米さん、まだ、犯人を伊藤恵と山田直人の二人に絞るのは早すぎかと思います。もっと裏付けを取った方がよいかと思いますが?」
戸襖の向こうから、
「料理を持ってきました」と女の声がした。
「どうぞ」安田が返事をした。
テーブルの上に酒と料理を並べ、女たちは部屋を出て行った。
「藤沢さん、いろいろありがとうございます」と安田がビールを向けたので、私は、グラスを傾けて差し出した。
「まだまだこれからです」と言って、私は、安田のグラスにノンアルコールビールを注いだ。
そして、ビール瓶に持ち替え、久米に向けた。
皆にいきわたると、安田が、乾杯と言って、グラスを上げた。
「これが、りゅうきゅうというんですか」と私は、安田に聞いた。
「はい、りゅうきゅうという料理は、大分の郷土料理です。旬の鯖の切り身を醤油ダレに漬け込み、薬味をかけて食べます。もともと、漁師たちが船の上でまかない飯として食べていたもので、名前の由来は、琉球の漁師から調理法が伝えられたという説や、ごま料理のえから名づけられたなどの説があるそうです。おいしですよ」
私は、鯖を口に入れた。
「本当に、おいしいです」
安田と久米が、満足げに笑みをこぼした。
しばらくの間、飲み食いにいそしみ、落ち着いてきたころを見計らって、安田が事件の話に戻した。
「伊藤恵と山田直人の容疑は、間違いないと思うのですが、残念ながら今の所、物的証拠が見当たりません」
「そうですか、先ほどいいましたが、ふたりに断定せずにもうしばらく、その周辺も洗ったらと思うのですが、いかがです」
「鑑識や科捜研は、なにも見つけられなかったのですか」と久米が、安田に確認した。
「残念だが、そうなんだ」
「安田さん、明日にでも伊藤恵さんに会って話をしたいのですが」と私は、安田に依頼した。
「承知しました。私と久米も同伴していいですか」
「もちろん、お願いします」
「藤沢さん、お酒のほうはいかがですか」
「もう十分いただきました」
「では、軽く食事にしませんか。やはり、こちらの名物にごまだしうどんと手延べだんご汁が、あるんですが、藤沢さんは、どちらがいいですか」
私は、ごまだしうどんを頼み、安田と久米はだんご汁を選んだ。
翌日、私たちは、約束の十時に伊藤恵の自宅を訪れた。
恵の夫は、仕事で不在であった。
広いリビングに案内された。
伊藤恵が、キッチンに向かおうとしたので、安田が制止した。
「お構いなく」
「はい」と言いながら、私たちに茶を出してくれた。
「藤沢さんも警察の方だったんですね」と伊藤恵が、何か裏切られたようないい方をした。
「昨年、警視庁を定年退職して、そのお祝いということで、夫が先日のツアーに申し込んでくれたんです。今回の事件にたまたま遭遇したものですから、大分県警から協力するよう頼まれて、捜査のお手伝いをしています」
「そうですか、それは大変ですね」
私は、伊藤恵の目を見つめながら、話し始めた。
「早速ですが、伊藤さん、あなたにはM大学に在学していた久保志保さんという妹さんがいましたね」
伊藤恵は俯いた。
私は黙って、彼女の返事を待った。
嘘はつけないと観念したのか、顔を上げて言った。
「はい、久保志保は、確かに私の妹です」
私は、その返事を得て、今まで東京でいろいろ調べた結果から、久保志保の自殺の原因は、山本一と関係があるのではないかと続けた。
「妹は、山本一先生と結婚を前提で付き合っていました。しかし、付き合って半年ほど過ぎて、山本一先生から現在の奥さんと別れるつもりはないといわれたそうです。それを承知なら付き合ってやってもいいと開き直られたといってました。妹は、それでは約束が違うと詰め寄ったところ、山本一先生が、そんなこと言うなら別れようといって、妹を相手にしなくなったそうです。妹は、山本一先生に何度も思い直してくれるように頼みこんだのですが、それとは反対に山本一先生は、露骨に妹を遠ざけるようにしたようです。妹は、とうとうノイローゼになって自害したのです。私は、妹に何もしてあげられなかった」伊藤恵の目から涙がこぼれ、うめき声に変わった。
「あなたは、山本一さんを憎んだでしょうね?」
私は、同情しているかのように言った。
「もちろんです」
「今回のツアー客に、山本一さんが、奥さん以外の女性同伴だったのには、驚いたでしょう」
伊藤恵は、俯き両手を握りしめていた。
私は、安田に向かって、帰ろうと目で合図を送った。
「伊藤さん、今日はこれで帰ります」といって、私は、席を立ち玄関に向かった。
最後に私が玄関を出ようとしたとき、私の背に向かって、
「藤沢さん~」と伊藤恵の悲痛な声が発せられた。
驚いて振り向いた。
「私が、山本一先生を殺しました」と言って、伊藤恵は、床にがっくりとしゃがみ込んだ。
「本当ですか」
私は、信じられなかった。
立ち止まって振り返っていた安田は、私に中に戻るよう合図した。
安田と久米が、伊藤恵の所に行った。
「伊藤恵さん、署で詳しく話していただけませんか」
安田は、恵に任意の同行を求めた。
久米に抱きかかえられるようにして、署に連行された。
久米による伊藤恵の取調が始まった。
安田は記録係として入った。
私は不安な気持ちを抑えながら、部屋の外から透視鏡越しにのぞいた。
「伊藤恵さん、これから取り調べに入りますが、言いたくないことは言わなくていいです。黙秘権が、行使できます」と久米が言った。
「分かりました」
伊藤恵は、だいぶ落ち着いてきたようだったが、声はか細かった。
「あなたは、山本一さんを殺したと言われましたが、いつどこでどのように殺害しましたか?」
「十二月三日夜十時ごろ、Uホテルの裏庭で山本一先生を繩で首を絞めて殺しました」
「あなたは、どのようにして山本さんを裏庭に呼び出したのですか?」
「ホテルの山本さんの部屋に電話しました。話したいことがあるので、十時にホテルの裏庭に一人で来てくださいと言いました」
「そして、どうされたのですか?」
伊藤恵と山本一とのやり取りは次のようだった。
「伊藤さん、こんな夜遅く話とは何ですか」
「山本先生は、久保志保さんという方をご存じですか」
「ええ、よく知ってますよ。私の助手でしたから」
「彼女、自殺したんですね」
「彼女には気の毒なことをしました。研究に行き詰ってノイローゼになっていたことを知らなかったんです。私に相談してくれれば死なずに済んだのに。私の責任です」
「先生、今更噓をつくのはやめてください」
「なにを言ってるんですか」
「久保志保は、私の妹です」
「なんだって」
「妹の自殺は、あなたが結婚前提で付き合おうと言って、妹をだまし続けていた。そして、身ごもった妹が、結婚を迫ると奥さんとは離婚できないから、別れようと言い出したんだ。妹は、人がいいからなかなか騙されたと思わずに、あなたに研究室でも付きまとっていた。しかし、あなたは無視したんです。妹は、おなかの赤ちゃんをおろすことも生むことも選ぶことができずに、自らの命を絶つことを選んだんです。ノイローゼなんかじゃない。どんなに妹が苦しんだことか、あなたはわかっていない」
「そんなの嘘だ」
「謝ってください、妹が浮かばれません」
「ばかばかしい、帰る」と山本先生が言って、背中を見せた時に、私は持ってきたロープを先生の首に巻き付け絞め殺したんですと、伊藤恵はよどみなく犯行の状況を話し終わり、ほっとした様子を見せた。
「そうですか、では末永喜美子さんは、どうしたんですか?」と久米はさらに質問を続けた。
「ホテルのほうへ向かって逃げようとする彼女の後ろから用意していた金属バットで殴打しました」
「末永さんは、その場所にいたんですか」
伊藤恵が、考え込んだ。
「私が、山本先生を殺した後に来ました」
「末永さんは、山本さんの死体を見て、何も言わずに逃げようとしたんですか」
「よく覚えていません」
「そうですか」
「私が、二人を殺したんです」
と言って、伊藤恵は泣き伏せてしまった。
「分かりました。今日はこちらに泊まって頂きます」
伊藤恵が、取調室を出て行ったのを見届けてから、私は、久米と安田がいる取調室に入って行った。
「藤沢さん、伊藤恵の証言どう思われますか。彼女が二人を凶器を代えて、次々と殺害することができるでしょうか。どう思いますか。末永喜美子さんの死因は、頭蓋骨骨折による脳挫傷です。石や金属バットなど硬いものによって、相当の力で殴打されたものではないかと鑑識の見立てです。また、山本さんの死因は、絞殺によるものか、末永さんと同様に殴打によるものかは、司法解剖の結果待ちになります。伊藤恵は、縄で絞殺したといってますが、まだ断定できません」と安田が言った。
「身長の低い伊藤恵が、百八十センチ近い山本さんの首を絞めたり、バットで末永さんを強打することができるでしょうか。もしかして、真犯人をかばっているのかもしれません」と私は、今まで不審に思っていることを言った。
「そうですね、まだ凶器は見つかっていませんし、犯人の遺留物や足跡なども鑑識たちが調べ続けています。あすも伊藤恵を取り調べましょう」と久米が、安田に向かっていった。
翌日も、久米が取り調べを行った。
「伊藤さん、昨日は眠れましたか」
「全く眠れませんでした」
「そうですか。昨日の続きですが、あなたが凶器に使った繩と金属バットはどうしましたか」
伊藤恵は、黙ってしまった。
「話を変えます。殺害時のあなたの服装と履物について教えてください」
「自宅にあります」
「後ほど、お宅に行きますので、その時、教えてください」
「もう一度、山本さんの殺害について、詳しく教えてください。あなたが、山本さんに謝ってくださいと言ったら、山本さんはばかばかしい、帰ると言ってホテルのほうに向きなおった時、あなたは、繩を拾いそれで山本さんの首を後ろから絞めたと言われましたが、間違いないですか」
「はい、その通りです」
「それが、不思議なんです。伊藤さん、百八十センチもある山本さんの首に百五十センチちょっとのあなたが、山本さんの首に縄を巻き付け、絞め殺すことができるのか理解できないんです。物理的に無理だと我々は、思っているんですよ」
伊藤恵は、黙ってしまった。
「伊藤さん、実は山本さんの直接の死因は、頭蓋骨陥没による脳挫傷なんです。繩による絞殺が、死因ではないんです。たとえ、あなたが、金属バットで山本さんの後頭部を殴打したとしても、あなたの力ではおそらく山本さんは、死に至ることはないと我々は考えています。伊藤さん、いい加減に正直に話してもらえませんか」
伊藤恵は、依然口を開こうとはしなかった。
「あなたは、どなたかをかばっていますね」
「だれもかばってなんかいません。私が二人をやりました」
久米は、安田の所に行って、伊藤恵の自宅に行くことへの了解を取りつけた。
「これから、あなたの自宅に行きます」
伊藤恵と私たち三人は彼女の家に行った。
鍵がかかっていたので、伊藤恵がバッグから鍵を出して扉を開けた。
奥から男の声がした。
「だれ」
「私よ、あなた」
「恵、大丈夫か」夫の保が、泣きそうな顔で出てきた。
「あなた、すみません」恵が泣き出した。
しばらくして、保は冷静さを取り戻し、私たちを中に入れた。
恵はクローゼットから服と靴を探して、手袋をしていた久米に渡した。
恵と私たちが、玄関を出るとき、保が深々と頭を下げた。
「よろしくお願いいたします」
保の目からこぼれた涙が、床のフローリングに落ちた。
本部に戻り看守に伊藤恵を預けて、私たちが課に入ると、安田の上司の原係長が待っていた。
「安田、山田直人さんが、君たちを第一応接で待ってるぞ」
「えっ、分かりました」驚いた安田は、久米と私を促して応接に向かった。
安田がノックして部屋に入ると、山田直人が立ち上がって、私たちに頭を下げた。
「刑事さん、実は、私が山本一さんと末永喜美子さんを殺害しました。伊藤恵さんは、殺害には全く関係ありません」
「ちょっと待ってください。山田さん、ゆっくり話を聞かせてください」
安田は、山田直人を取調室に連れて行った。
山田の取り調べは、安田が、書記は久米が担当し、私は、部屋の外から見守った。
「山田さん、事件の日の事をお話しください」
「私は、伊藤さんが、山本さんを電話で呼び出しているのを聞いてしまいました。彼女が山本さんに何をするか、逆に、山本さんが、伊藤さんに何をするかと心配になりました。彼女に万が一のことがあってはならないと、私は、バスに置いてある金属バットとロープを持って、十時ちょっと前、部屋から出て行く彼女の後をつけていきました。伊藤さんは、志保さんの件で山本さんに正直に話してもらい、謝るよう要求しましたが、山本さんはしらばくれて、彼女を無視して、ホテルに戻ろうとしたのです。私は、伊藤さんのいたたまれない気持ちを思うと、彼に対して怒りがこみあがってきました。平常心を失い、いつの間にか彼の後ろからロープで力いっぱい首を絞めていました。その時、後ろで、悲鳴が聞こえました。振り向くと末永さんが、ホテルのほうに向かって逃げようとしていたので、とっさに置いていた金属バットに持ち替えて、彼女を追いかけ、バットで殴打しました。呆然と立ちすくんでいた伊藤さんに、早く部屋に戻りなさいと何回も言い続けました。私一人の犯行です」と言って、山田は安田に向かって頭を下げた。
「犯行に使った凶器のロープと金属バットは、どうしましたか」
「海に捨てました」
「明日、どのあたりか教えてください。山田さん、今日はここに泊まってください」
山田直人は頷いた。
山田直人を部屋から出した後、安田が、私を手招きして部屋に誘った。
「藤沢さん、山田直人をどう思いますか」
「そうですね、まず、山本さんの体の向きなんですが、山田直人と伊藤恵の話は、違っています。また、末永さんを殺害するには、時間的にちょっと無理があるように思いますが」と私は答えた。
「大体、凶器をわざわざ当事者でないのに持ってくるのもおかしいし、ましてや、二種類の凶器を持ってくるなんてありえませんよ」と久米が、真顔で言った。
「私も久米さんのいう通りだと思います」
「凶器は金属バットとロープか。本当にそうだとしたら、バスの中に血痕が残っているかもしれない。久米、バス会社に行ってバスを調べて来い」
久米がはいと返事をして、部屋を出ようとしたときに、
「ちょっと待て。鑑識にも行ってもらえ」と、再び安田がいった。
「藤沢さん、この事件、どう考えたらいいんでしょうか」
「難しいですね。例えばですが、伊藤恵は、一人も殺害していないと仮定するとしましょう。そうすると山田直人が、二人を殺したことになります。山田に追いかけられた末永ですが、大声を出して助けを求めるのではないかと思うのですが、そのような声を聞いた人は一人もいないようですね」
「確かに、宿泊客や従業員、近所の人たちに聞いたのですが、十時前後に叫び声や悲鳴などを聞いた人は、誰もいませんでした」
「とすると、末永喜美子が、叫び声や悲鳴を上げる前に殺害されたと思うのが自然ではないでしょうか」
「藤沢さんは、もうひとり共犯者がいると考えているんですか」
「はい、共犯者かどうかわかりませんが、伊藤恵や山田直人の証言は、信憑性にかけています。真実を知っている人間が他にいるはずです」
「一体、誰が」
「再度、M大学の関係者をまずあたってみましょう」
「関係者というと」安田は、捜査ファイルの一つを取り出し、、ツアー客の名簿を確認した。
「M大学の関係者は、四人います。その中で、大学を卒業した者は二人、佐川知美三十三歳で十年前に卒業、それから足立隆二十九歳で六年前に卒業しています。二人とも法学部ですが、ゼミは、二人とも山本教授のゼミではありません。佐川知美は、久保志保と入学が同じのはずです。それから、卒業生ではありませんが、田所正六十三歳が、大学構内の生協に昨年まで勤務してました。他に、反田次郎六十六歳は、六年前まで大学の事務職員を勤めていました」
「安田さん、この四人からまず佐川知美と田所正を調べてみますか」
「そうですね」
安田は気のない返事をした。
夕方六時ごろに、久米が、戻ってきた。
「バスの中に、血痕などの痕跡は、見つかりませんでした」
「分かった。久米、明日また藤沢さんと一緒に東京に行ってくれないか、佐川知美と田所正を再度調べてくれ」と安田は言ってから、今まで私たちが推理したことについて丁寧に久米に説明した。
また、安田は、証拠不十分のため、伊藤恵と山田直人のふたりを釈放すると言った。
「雅子、今回の旅行は大変だったね。余計な仕事まで抱え込んでしまった」
「そうね、仕方がないわ。でもあなたも最後の観光予定の宇佐神宮に行けなくなて、残念だったんじゃないかしら」
「仕方がないよ、殺人事件があったんだから。雅子も帰ってから大変だ」
「ところで、宇佐神宮っていう所は、どういう所なの」
「宇佐神宮八幡は、全国約十一万の神社のうち、八幡さまが最も多く、四万六百社あまりのおがあるんだ。宇佐神宮は、四万社あまりある八幡さまの総本宮で、御祭神である八幡大神さまは応神天皇のご神霊で、欽明天皇の時代五百七十一年に初めて宇佐の地にご示顕になったといわれている。応神天皇は、大陸の文化と産業を輸入し、新しい国づくりをした方で、七百二十五年、現在の地に御殿を造立し、八幡神を祭ったのが宇佐神宮の創建だ。宇佐の地は、畿内や出雲と同様に早くから開けたところで、神代に比売大神が宇佐嶋に降臨したと日本書紀に記されている。比売大神様は、八幡さまが現われる以前の古い神、地主神として祀られ崇敬されてきた。八幡神が祀られた八年後の七百三十三年に神託により二之御殿が造立され、宇佐の国造は、比売大神を祀った。三之御殿は神託により、八百二十三年に建立された。応神天皇の御母、神功皇后を祀っている。神功皇后は、母神として神人交歓、安産、教育等の守護をされていると伝えられている。八幡大神の御神徳は、強く顕現し、三殿一徳の神威は、奈良東大寺大仏建立の協力や、勅使・和気清麻呂に国のあり方を正してゆく神教を賜ったことで特に有名だ。皇室も伊勢の神宮につぐ第二の宗廟としてご崇敬になり、勅祭社十六社に列されている。雅子、八幡信仰って知っているか?それは、応神天皇のご聖徳を八幡神としてたたえるとともに、仏教文化と、我が国固有の神道を習合したものとも考えられているんだよ。その長い信仰の歴史は、宇佐神宮の神事や祭会、うるわしい建造物、宝物などに今も見ることができ、千古斧を入れない深緑の杜に映える美しい本殿は国宝に指定されている。一度見たことがあるんだが、もう一度見たかった」
「わたしも見たかったわ」
「また来るか」
「近いうちにまたね」
私たちの飛行機は、予定通り羽田空港に十八時三十五分に到着した。
自宅に戻った私は、夕食のため簡単な料理を作った。
「お疲れ」
夫が、ビールを私のグラスに入れて言った。
夕食を終えると、夫は風呂に入り、すぐにベッドに滑り込んで行った。
私は、今回の調査をノートに書き留めようと、椅子に腰かけたが、昔のことが次々と思いだされてきた。。
私は、高校三年の時、M大学を受験したが、落ちて浪人生活を予備校で過ごした。その間、同じ予備校に通っていた髪の長い目のぱっちりした面長の顔の男子に恋をしてしまった。
受験勉強は、そっちのけで彼が読んでいる藤村、白秋、実篤そして、漱石に傾倒した。
翌年は、案の定M大学への受験をあきらめざるを得なく、T大学を受験してなんとか合格した。
大学時代は、合気道部に入り、毎日練習に明け暮れ、練習の後は、授業料を稼ぐために家庭教師を掛け持ちした。
四年生になって、周りの友人は有名一流会社に就職が決まったが、私は、社会に出て働くということに何か抵抗があり、大学院の修士課程に進んだ。
建築意匠についての研究を選んだが、二年間で挫折をして、就職の道を選んだ。
が、この年は、景気が悪く民間の求人募集は、非常に少なかった。
いろいろ受験した中で、東京都の警察官試験に合格した。
警視庁に入ってから、一階級を上がるためには都度試験に合格しなければならない。
私のような警察官は、国家公務員上級試験に合格して入ってきたキャリア人間とは違い、警部になるのが精一杯であることを知った。
特に、女性は、さらに厳しかった。
巡査、巡査部長、警部補そして、警部に数年前になることができたのは、運がいいほうだと思っている。
キャリアはキャリアで出世競争に敗れた者は、多くその末路は寂しいもので、民間では考えられないようである。
出世競争に勝ったものも、それで安泰というものではなく、政治家や世論からの風当たりも時には強く、心安らかではない日を送ることもあるようだ。
私が警部になれたのは、夫の南湘の支援があったからこそで、夫には感謝している。
旅の疲れによる睡魔に負けて、いつの間にか机の上に臥せってしまったところ、夫に起こされた。
すでに日をまたいでいた。
朝食を取ってから、紺のスーツをクローゼットから出して着替えた。
「警察とコワークすることになるなんて、想像もつかなかったわ」
「本当だ。雅子、殺人事件だ。くれぐれも気を付けてくれよ」
「はい、分かりました」
夫に見送られて、JR新宿駅から徒歩で十五分ほど離れた五階建てビルの誤解にある私の事務所に寄って郵便物と留守電を確認してから、世田谷署をたずねた。
「藤沢元警部、ご苦労様です」
すでに大分県警から連絡を受けていた捜査一課の麻生係長が、笑顔で迎えてくれた。
「麻生係長、元警部はよしてくれませんか。今は、私は一介の探偵です」
「分かりました、藤沢さんはこちらの机と席を使ってください」
「先ほど言いましたように、今は一般の国民ですし、今回の事件での容疑はまだ
晴れていません。署内に席を設けていただくことは不要です。ただお邪魔することがあるかもしれませんので、皆さんにご挨拶だけはさせていただきます」
私は、腰かけずに、周りにいる人たちへ挨拶をした。
現役の時に顔見知りになっている刑事が、数人いた。
挨拶を終えた私は事務所に戻って、昨日書き付けたノートをカバンから出して机の上に置き、最初のページから読み直し、さらに追記した。
翌日、十三時過ぎに大分県警の久米が、世田谷署に入ったとの知らせを事務所で受けた私は、すぐに世田谷署に向かった。
久米は、麻生係長に挨拶して、熊本の土産で有名な菓子の誉の陣太鼓を手渡した。
「これはご丁寧に、遠慮なくいただくよ。藤沢さんと組めるなんて、久米君も運がいいよ。がんばって、早く星を上げてください」
世田谷署についた私は、会議室に案内された。
しばらくして、麻生が久米を連れて部屋に入てえ来た。
久米が、大分県警の捜査状況について説明した。
久米の説明が終えるのを待って、私は大分県警がどのように考えているかを確認した。
「犯罪場所は、Uホテルの裏庭で間違いないですか」
「裏庭で殺害されたとの見解です」
「共犯の可能性をどうみていますか」
「二人を殺害していますので、単独犯ではないと考えています。犯人は、ツアー客にいるとはまだ断定していません。ホテル内の客だけでなく、近隣の住民らにも聞き取り調査を行っています」
「物盗り、痴情、怨恨等、動機はどのように推測していますか」
「山本一と末永喜美子の部屋の荷物からも盗まれた形跡はありませんので、怨恨の方面から捜査しています」
「犯行方法は、推定できましたか」
「死体の位置から考えますと、山本一の死因ですが、頭蓋骨骨折とロープのようなもので絞殺されたか痕跡がありましたが、直接の死因は、どちらだかまだ分かりません。司法解剖の結果待ちです。末永喜美子の場合は、後頭部を石か金属バットのような硬いもので殴打され頭蓋骨骨折と鑑識から報告がありました」
「大分県警の今後の捜査方針は?」
「犯罪場所に基づいて、犯人関係を洗い出す予定です。次に、被害者の性向、交友関係それに生活状況についての調査です、これは藤沢さんにお願いしたいのですが。もちろん、私が主担当になります」
「分かりまた、明日から山本一と末永喜美子の交友関係から調べることにしましよう」
「何か手伝うことがあれば何でも言ってください」
麻生が言った。
「ありがとうございます」
久米が答えた。
「ところで、久米さん、ホテルは決まっていますか」
麻生が続けた。
「はい、ちょっと離れているのですが、溝の口駅前のDホテルに予約入れてます」
「分かりました」
「溝の口ならJR南武線や田園都市線、大井町線もきているから便がいいですよ」
久米は、私の言っていることを理解できなかった。
私たちは、お互いの電話番号を登録した。
「久米さん、今日は、疲れているだろうから、帰って休んだらどうですか」
麻生が言った。
「明日から頑張りましょう」
「分かりました。また明日もよろしくお願いします。では、失礼します」
翌日、私と久米は、山本一の自宅を目指した。
山本一には奥さんがいるはずで、奥さんが山本一をどう思っているか非常に興味があった。
久米は、時々立ち止まって、電車や道順をスマホで確認しながら道を急いだ。
(若い人は、スマホの扱い方が上手だわ)
私は、感心しながら久米の後に続いて行った。
丸ノ内線の大塚一丁目で降りて、まずは文京区千石三丁目の山本一の家を探し歩いたところ、千石西保育園の近くのマンションにたどり着いた。
「藤沢さん、このマンションのようです」
エントランスに入って、山本一と書かれた郵便受けを久米が見つけた。
「藤沢さん、参りましょう」と言って、エレベーターに乗り込み4階のボタンを押した。
山本家の玄関前に立ち、久米が、インターフォンを押した。
「どちら様ですか」
女の声の応答があった。
「警察の者ですが、奥様に亡くなられたご主人山本一さんのことについて、お聞きしたいのですが」
「分かりました」
しばらくして、玄関の扉が開いた。
久米が、警察手帳を見せた。
「大分県警の久米です」
私は、ただ藤沢とだけ言った。
「どうぞ、お入りください」
私たちは、整理整頓された居間に案内され、ソファーに腰をおろした。
四十過ぎの清楚な奥さんだ。
私たちに茶を入れた。
「この度は、御主人がお亡くなりご愁傷様です。かような時で申し訳ありませんが」と久米が口火を切り、山本一についての性向、交友関係それに生活状況について次々と聞いた。
「結婚して十五年になります。学問一筋のまじめな夫が、まさか女の方と旅行に行っていたなんて今でも信じられません」と奥さんが、いまにも声を上げて泣きそうになっていた。
有名大学教授の奥さんにしては、素直な性格を持ち合わせているようだった。
「今度のように、ご自宅を空けることは、過去ありませんでしたか」
私が聞いた。
「帰ってこないときは、学会やセミナーの時でしたが、今回も大分での学会に行ってくるといってました」
「何か、今まで何かご主人に変わったようなことはありませんでしたか」
「そういえば、昨年の夏頃でしたか、一時期ふさぎ込んでいた時がありました。どうしたのか聞いてみたのですが、なんでもないの一点張りでした」
「失礼ですが、お子さんは」
久米が口をはさんだ。
「いいえ、いません」と言って、俯いた。
一時間ほどで、山本宅を後にした。
「大学教授ともなると夏休みや春休みやらであまり学校には行かないのかと思っていたら、山本一は土日以外はほとんど学校に行っていたそうだけど、本当かどうか。久米さん、これからM大学に行きましょう」
「はい、すぐに学校に連絡してみます」
三十分ほど歩いて、M大学の事務室に入った。
山村という男の事務長が、私たちを迎え、会議室に案内した。
「お忙しいところ恐縮です。先日亡くなられた山本一さんについて、お聞きしたいのですが、彼はどのような人でしたか」と私は、腰かけるや否や聞いてみた。
「まあ、頭のいい先生でした。それに、マスクがいいから、女子学生に人気がありましたよ。ただ、本人は熱情的な性格からか、すぐ本気になり一線を越えることがあったという噂が何度かありました」
「昨年の夏ごろですが、山本一さんに何かあったようなんですが、何かご存じありませんか」
久米が続いて聞いた。
「実は、昨年の夏休みも終わろうかというときに、山本先生の所に勤めていた助手の方が亡くなりました。それが自殺だったんですよ。山本先生は、しばらくの間、自分に落ち度はなかったか自分を責めていました」
「亡くなられた方の名前は」
「久保志保さんという方で、生きていれば、今年三十三歳になるはずです」
「自殺の原因は、わかったのですか」
「研究上でのノイローゼではないかといわれています」
私たちは、山村にまた来るかもしれないと言って大学を後にした。
「明日は、末永喜美子の交友関係について調べましょう」
私はすっかり捜査の主導権を握ってしまった。
私は久米を事務所に案内した。
「ここが有名な新宿ですか」
「いろいろな事件が多いところです」
私は、久米にコーヒーを入れてから、聞き取り調査のスケジュールについて打ち合わせた。
「まずは、末永喜美子のアパートに行きましょうか」
「そうですね、それからは、それ以外の客を順番に当たってみましょう」
「全部で、十四組になります」
「なんとか、この四日間で一巡したいですね。二十三区、東京の市、そして、神奈川県の横浜、川崎、藤沢としましょう。その順に相手方にアポイントを取ってくれませんか?」
「承知しました」
私は、久米が連絡している間、山本一の性格を分析していた。
「藤沢さん、全員にアポイントが取れました」
「ご苦労様、自殺した久保志保ですけど、何か引っかかるものがありますが、久米さんはどう思います?」
「はい、久保志保のことも詳しく調べる必要があると思います」
末永喜美子が、住んでいた町田のKアパートを訪ねた。
彼女の名前が書かれていた郵便受けを見つけた。
「彼女、独身ですね」
「部屋の中を調べさせてもらいましょうか」
アパートの管理人に鍵を開けてもらった。
ワンDKのバストイレ付きだった。
部屋は散らかっていた。
「あまり整理整頓が得意でないみたいですね」と久米が言った。
「仕事関係のものを探してくれませんか」
「はい」
「藤沢さん、会社の身分証明書がありました」
久米が私に見せに来た。
「大塚一丁目の駅前にあったS書店に勤めていたんですね」
「行ってみましょう」
「今からですか」
私は、久米の言葉を背で聞いて、末永喜美子のアパートを出た。
S書店の棚には、近くにM大学があるせいか各分野の専門書が多く収められていた。
久米が、店員を探した。
女子店員が、数メートル先にいた。
「すみません」
「なにか」
「警察の者ですが、ここで働いていた末永喜美子さんについてお聞きしたいのですが」
久米が警察手帳を提示した。
「ちょっとお待ちください、店長に聞いてきますから」
しばらくして、女子店員が頭髪の薄い五十代前半と思われる男を連れてきた。
「店長の川井です。末永さんのことですね。どうぞ、こちらへ」
私たちは、裏の一角の小部屋に案内された。
川井が、女子店員に顔を向けた。
「末永さんは二、三か月前から以前と違い明るくふるまうようになったので、私、何かいいことあったのと聞いたら、彼氏ができたと嬉しそうにいってました」
「その彼氏の名前か何かわかりますか」
「彼氏については、少しも話してくれませんでした。まさかM大学の教授だとは驚きました」
川井が、口をはさんだ。
「そういえば、二週間前に旅行に行くので二日ほど休みたいといってきました。それがこんなことになるなんて」
二人ともすでに新聞を読んでいたので、末永喜美子と山本一が、殺害されたことを知っていたのだ。。
二、三ほど質問をして、S書店を後にした。
「末永は、山本が既婚だったことを知っていたんでしょうか」
「知っていたと思う。それでも付き合うということは、いつか結婚したい、できると考えていたかもしれないわ」
「今の奥さんと別れてくれると思っていたんでしょうか」
「そう願っていたでしょうね」
「山本一は、どう対応していたんでしょうか」
「男っていうのは、一時の浮気心が、本気になるかもしれない。それが男と女かもしれないわ」
「藤沢さんは、そのようなことを経験したことがあるんですか」
「あるもんですか」
久米はしまったという顔をした。
ツアー客たちの聞き取りには、予定の四日より一日多くの五日かかってしまった。
事務所で、私と久米は今までの聞き取りの話をもとに議論した。
「M大学の関係者が、五人います。足立隆が経済学部、妻の誉は医学部で、佐川知美が文学部を卒業しています。また、反田次郎は事務職員を務めていましたし、田所正はM大学内の生協で働いていました。二十人ほどのうちこれだけM大学の関係者がいるとは、偶然でしょうか。何か腑に落ちませんが、この中に犯人らしき人間が見当たりません。あえていうなら、田所正ぐらいではありませんか」
久米の話を聞いて、私は戸惑いを隠すために久米に聞いた。
「田所正が犯人だったら共犯者は誰だと思う」
「そうですね」と言ってから、久米は黙り込んでしまった。
「久米さん、もう一度M大学に行って、自殺した久保志保さんについて、調べてみませんか?」
「そうですね。山本一教授の研究室に関係していた人たちにも会ってみましょう」
「そうですね、M大学の事務長に連絡してもらえますか」
久米が携帯を取り、連絡を取った。
「藤沢さん、研究室の都合を聞いてから連絡してくれるそうです」
しばらくして、久米に事務長から連絡が入った。
「藤沢さん、明日の十時なら准教授の方が都合がいいそうです」
翌日、私と久米は、再びM大学の門をくぐった。
直接、元山本教授の研究室の扉を叩き、約束の警察の者と名のった。
「どうぞ、中にお入りください」と部屋の中から男の声がした。
四十前後の男が席を立って、私たちを迎え入れた。
「こちらへどうぞ」
私たちは、打ち合わせスペースに案内された。
「お忙しいところ申し訳ございません」と久米は言ってから、名のった。
男は、准教授の木所と名のってから、私に向かって、
「女の刑事さんですか」といって、私をじろじろ見た。
困惑しそうになった私を久米がかばってくれた。
「嘱託としてお願いしている藤沢です」
納得した顔つきの木所が座ったのを見て、私たちも腰をおろした。
「久保志保さんについてお聞きしたいとのことですね。山本教授の事件と関係があるのですか?」
木所は久米に向かって言った。
「いいえ、まだ分かりませんが、久保さんの自殺について、詳細を教えていただきたいと思いまして、うかがった次第です。事務長の話では、自殺の原因は研究上の行き詰まりとのことですが、彼女はどのような研究をされていたのですか?」
「久保さんは、山本教授の直接の指導により国際法と憲法というテーマについて研究してました」
「何かそれで行き詰って、自殺に至るようなことがあったんですか」
「細かいことは私にはよくわかりませんが、何かに悩んでいた様子は見受けられました。助手の美山さんが知っているかもしれないので、呼びましょうか?」
「お願いします」
「美山さん、ちょっと来てくれませんか」
美山が、すぐにやってきて、挨拶をお互いに交わした後に、木所が、美山に久保志保のことで知っていることがあれば私たちにいうように促した。
「亡くなった山本先生の名誉にもかかわりますが、これからいいますのは、たんなる噂として聞いてください。久保さんと山本先生は下世話ないい方になりますが、できているんじゃないかとか、久保さんのアパート近くで山本先生を見かけたとかいう学生がいました」
「久保さんは、どちらに住んでいたんですか?」
「確か人形町のほうだったと思います。住所、必要ですか」
「あとで、教えていただければ結構です。久保さんの出身地はどちらかご存じですか?」
「大分県です」
「大分県のどちらかわかりますか」と久米は、メモの手を休めて言った。
調べてくると言って、美山は席を立ってからメモを手にもって戻ってきた。
「久保さんの東京の住所は、中央区日本橋人形町三丁目二のレジデンス日本橋で、大分の住所は、大分県大分市宮崎八百の五です」
「ありがとうございました」久米は、美山が差し出したメモを受け取り、さらに、美山に写真を頼んだ。
「もう一つお願いがあるのですが、山本先生と久保さんの写真がありましたら見せていただけませんか」
「ゼミで高尾山にハイキングに行った時の写真がありますわ。ちょっとお待ちください」
しばらくして、美山がアルバムを持ってきて、山本と久保を示した。
了解をもらって、久米がスマホを出して写真を撮った。
「今日はお忙しいところありがとうございました、またお伺いすることもあろうかと思いますが、よろしくお願いいたします」
久米と私は研究室を後にした。
「藤沢さん、久保志保さんの実家ですけど、誰かの住所に似ていませんか」
「観光バスの運転手の山田直人さんと同じですよ」
「えっ」
「久米さん、安田刑事に久保志保さんの写真と彼女の大分の住所を送って、山田直人さんとの関係を調べてもらうよう頼んでくれませんか」
「承知しました」と久米は言って、すぐに携帯を出して操作し始めた。
事務所に戻って、私のパソコンに久米から送ってもらった久保志保の写真を、しばらくの間見ていた。
誰かに似ているような気がした。
なかなか思いつかずに、私は自宅に帰って、夕食をすますと居間で、印刷機からアウトプットした久保志保の写真を再び眺めていた。
夫が、そばに来て写真をのぞき込んだ。
「この人、ガイドの伊藤恵さんに似ていない」
「そうか、あなたありがとう」
ちょっと待って、といってからパソコンを持ってきてテーブルの上において、先日のツアーで撮った写真を画面に映し出した。
「これ、伊藤恵さんとあなたのツーショットよ。見て、伊藤恵さんとこの方の目もとあたりがそっくりじゃない」
「本当によく似ている。姉妹かもしれないね」
私の脳が、活発に動いた。
翌日、私は、事務所に来た久米に久保志保が伊藤恵に目元辺りがよく似ていると話した。
久米は、夫の撮った伊藤恵の写真を見ながら、
「藤沢さん、本当に似ていますね。安田さんにさっそく連絡します」
私たちは、久保志保が住んでいた人形町三丁目二のレジデンス日本橋に向かった。
周辺の店やアパートの住民に手あたり次第、山本一と久保志保の写真を見せて、見かけたことはないか聞きまわった。
その結果、アパートの隣の住民と近くのスーパーマーケットのレジ係の女性から、一、二年ほど前に見かけたとの証言を得た。
「やはり、二人はいい仲だったんですね」
「そのようですね」
「藤沢さん、腹がすきました。近くでご飯でも食べませんか?」
私たちは、道路沿いにあった蕎麦屋に入った。
トイレに行ってから席についた私に、久米が安田から今連絡あったと言った。
「山田直人は、久保志保と伊藤恵の二人の養父だそうです。伊藤恵は旧姓久保恵で、藤沢さんの推測通り、恵と志保は姉妹です。恵が、姉です。今後の捜査方針を決めるので、藤沢さんと私は、大分に戻れとのことですが、藤沢さんご都合はいかがですか」
「大分に絞ったのかな。私なら大丈夫ですよ」
私は、ほっと一息ついた。
久米はホテルに精算と荷を取りに戻り、私は、自宅に出張の支度に帰った。
そして、羽田空港十五時五十五分発大分空港行きANA797便に乗り、大分空港には十八時に着いた。
機中では、久米は事件のことを考えているようで、私はこれからの身の振り方について、悩んでいたため、お互いに話をせずにいた。
ゲートを出ると、安田が待っていた。
「お疲れさまです」
駐車場まで歩きながら話をした。
「食事はまだでしょ」
「はい」
「途中で食べて行きましょう」
助手席に座った久米に、安田が聞いた。
「藤沢さんの宿は予約したか」
「はい、本部に近いUホテルを予約しておきました」
「久米さん、ありがとう」私は、久米の段取りの良さ感謝した。
数分で、品の良い和風の外観の小料理屋に着いた。
「いらっしゃい、安田さんいつもの奥座敷を用意してます」
女将が、迎え出た。
「女将、いつもありがとう」
小ぎれいな和室に案内された。
女が、注文を取りに部屋に入って来た。
安田が私にビールでよいか聞いてきたので、私は頷いて返事をした。
「ビール二本、焼き鳥盛り合わせ三人前、刺身盛り合わせ三人前、それからりゅうきゅうも三人前をお願いします」
女が、部屋を出たのを見届けてから、安田が私たちに捜査状況を説明し始めた。
「藤沢さんのおかげで、捜査に明かりが見えてきました。私は今回の事件、伊藤恵と山田直人の二人によるものではないかと、確信しています。彼らの動機は、久保志保さんの自殺に起因するのではないかと思うのです」と安田が、いった。
私は、久米に目を移した。
「私もそう思います。おそらく、山本一と久保志保は男女の関係になっていたんですが、山本一は、何らかの理由で、久保志保をそでにし、久保志保はそれに絶望して自害したのではないかと思います」
「久米さんは、若いのによく袖にするなんて言葉を知っているのね。安田さん、久米さん、まだ、犯人を伊藤恵と山田直人の二人に絞るのは早すぎかと思います。もっと裏付けを取った方がよいかと思いますが?」
戸襖の向こうから、
「料理を持ってきました」と女の声がした。
「どうぞ」安田が返事をした。
テーブルの上に酒と料理を並べ、女たちは部屋を出て行った。
「藤沢さん、いろいろありがとうございます」と安田がビールを向けたので、私は、グラスを傾けて差し出した。
「まだまだこれからです」と言って、私は、安田のグラスにノンアルコールビールを注いだ。
そして、ビール瓶に持ち替え、久米に向けた。
皆にいきわたると、安田が、乾杯と言って、グラスを上げた。
「これが、りゅうきゅうというんですか」と私は、安田に聞いた。
「はい、りゅうきゅうという料理は、大分の郷土料理です。旬の鯖の切り身を醤油ダレに漬け込み、薬味をかけて食べます。もともと、漁師たちが船の上でまかない飯として食べていたもので、名前の由来は、琉球の漁師から調理法が伝えられたという説や、ごま料理のえから名づけられたなどの説があるそうです。おいしですよ」
私は、鯖を口に入れた。
「本当に、おいしいです」
安田と久米が、満足げに笑みをこぼした。
しばらくの間、飲み食いにいそしみ、落ち着いてきたころを見計らって、安田が事件の話に戻した。
「伊藤恵と山田直人の容疑は、間違いないと思うのですが、残念ながら今の所、物的証拠が見当たりません」
「そうですか、先ほどいいましたが、ふたりに断定せずにもうしばらく、その周辺も洗ったらと思うのですが、いかがです」
「鑑識や科捜研は、なにも見つけられなかったのですか」と久米が、安田に確認した。
「残念だが、そうなんだ」
「安田さん、明日にでも伊藤恵さんに会って話をしたいのですが」と私は、安田に依頼した。
「承知しました。私と久米も同伴していいですか」
「もちろん、お願いします」
「藤沢さん、お酒のほうはいかがですか」
「もう十分いただきました」
「では、軽く食事にしませんか。やはり、こちらの名物にごまだしうどんと手延べだんご汁が、あるんですが、藤沢さんは、どちらがいいですか」
私は、ごまだしうどんを頼み、安田と久米はだんご汁を選んだ。
翌日、私たちは、約束の十時に伊藤恵の自宅を訪れた。
恵の夫は、仕事で不在であった。
広いリビングに案内された。
伊藤恵が、キッチンに向かおうとしたので、安田が制止した。
「お構いなく」
「はい」と言いながら、私たちに茶を出してくれた。
「藤沢さんも警察の方だったんですね」と伊藤恵が、何か裏切られたようないい方をした。
「昨年、警視庁を定年退職して、そのお祝いということで、夫が先日のツアーに申し込んでくれたんです。今回の事件にたまたま遭遇したものですから、大分県警から協力するよう頼まれて、捜査のお手伝いをしています」
「そうですか、それは大変ですね」
私は、伊藤恵の目を見つめながら、話し始めた。
「早速ですが、伊藤さん、あなたにはM大学に在学していた久保志保さんという妹さんがいましたね」
伊藤恵は俯いた。
私は黙って、彼女の返事を待った。
嘘はつけないと観念したのか、顔を上げて言った。
「はい、久保志保は、確かに私の妹です」
私は、その返事を得て、今まで東京でいろいろ調べた結果から、久保志保の自殺の原因は、山本一と関係があるのではないかと続けた。
「妹は、山本一先生と結婚を前提で付き合っていました。しかし、付き合って半年ほど過ぎて、山本一先生から現在の奥さんと別れるつもりはないといわれたそうです。それを承知なら付き合ってやってもいいと開き直られたといってました。妹は、それでは約束が違うと詰め寄ったところ、山本一先生が、そんなこと言うなら別れようといって、妹を相手にしなくなったそうです。妹は、山本一先生に何度も思い直してくれるように頼みこんだのですが、それとは反対に山本一先生は、露骨に妹を遠ざけるようにしたようです。妹は、とうとうノイローゼになって自害したのです。私は、妹に何もしてあげられなかった」伊藤恵の目から涙がこぼれ、うめき声に変わった。
「あなたは、山本一さんを憎んだでしょうね?」
私は、同情しているかのように言った。
「もちろんです」
「今回のツアー客に、山本一さんが、奥さん以外の女性同伴だったのには、驚いたでしょう」
伊藤恵は、俯き両手を握りしめていた。
私は、安田に向かって、帰ろうと目で合図を送った。
「伊藤さん、今日はこれで帰ります」といって、私は、席を立ち玄関に向かった。
最後に私が玄関を出ようとしたとき、私の背に向かって、
「藤沢さん~」と伊藤恵の悲痛な声が発せられた。
驚いて振り向いた。
「私が、山本一先生を殺しました」と言って、伊藤恵は、床にがっくりとしゃがみ込んだ。
「本当ですか」
私は、信じられなかった。
立ち止まって振り返っていた安田は、私に中に戻るよう合図した。
安田と久米が、伊藤恵の所に行った。
「伊藤恵さん、署で詳しく話していただけませんか」
安田は、恵に任意の同行を求めた。
久米に抱きかかえられるようにして、署に連行された。
久米による伊藤恵の取調が始まった。
安田は記録係として入った。
私は不安な気持ちを抑えながら、部屋の外から透視鏡越しにのぞいた。
「伊藤恵さん、これから取り調べに入りますが、言いたくないことは言わなくていいです。黙秘権が、行使できます」と久米が言った。
「分かりました」
伊藤恵は、だいぶ落ち着いてきたようだったが、声はか細かった。
「あなたは、山本一さんを殺したと言われましたが、いつどこでどのように殺害しましたか?」
「十二月三日夜十時ごろ、Uホテルの裏庭で山本一先生を繩で首を絞めて殺しました」
「あなたは、どのようにして山本さんを裏庭に呼び出したのですか?」
「ホテルの山本さんの部屋に電話しました。話したいことがあるので、十時にホテルの裏庭に一人で来てくださいと言いました」
「そして、どうされたのですか?」
伊藤恵と山本一とのやり取りは次のようだった。
「伊藤さん、こんな夜遅く話とは何ですか」
「山本先生は、久保志保さんという方をご存じですか」
「ええ、よく知ってますよ。私の助手でしたから」
「彼女、自殺したんですね」
「彼女には気の毒なことをしました。研究に行き詰ってノイローゼになっていたことを知らなかったんです。私に相談してくれれば死なずに済んだのに。私の責任です」
「先生、今更噓をつくのはやめてください」
「なにを言ってるんですか」
「久保志保は、私の妹です」
「なんだって」
「妹の自殺は、あなたが結婚前提で付き合おうと言って、妹をだまし続けていた。そして、身ごもった妹が、結婚を迫ると奥さんとは離婚できないから、別れようと言い出したんだ。妹は、人がいいからなかなか騙されたと思わずに、あなたに研究室でも付きまとっていた。しかし、あなたは無視したんです。妹は、おなかの赤ちゃんをおろすことも生むことも選ぶことができずに、自らの命を絶つことを選んだんです。ノイローゼなんかじゃない。どんなに妹が苦しんだことか、あなたはわかっていない」
「そんなの嘘だ」
「謝ってください、妹が浮かばれません」
「ばかばかしい、帰る」と山本先生が言って、背中を見せた時に、私は持ってきたロープを先生の首に巻き付け絞め殺したんですと、伊藤恵はよどみなく犯行の状況を話し終わり、ほっとした様子を見せた。
「そうですか、では末永喜美子さんは、どうしたんですか?」と久米はさらに質問を続けた。
「ホテルのほうへ向かって逃げようとする彼女の後ろから用意していた金属バットで殴打しました」
「末永さんは、その場所にいたんですか」
伊藤恵が、考え込んだ。
「私が、山本先生を殺した後に来ました」
「末永さんは、山本さんの死体を見て、何も言わずに逃げようとしたんですか」
「よく覚えていません」
「そうですか」
「私が、二人を殺したんです」
と言って、伊藤恵は泣き伏せてしまった。
「分かりました。今日はこちらに泊まって頂きます」
伊藤恵が、取調室を出て行ったのを見届けてから、私は、久米と安田がいる取調室に入って行った。
「藤沢さん、伊藤恵の証言どう思われますか。彼女が二人を凶器を代えて、次々と殺害することができるでしょうか。どう思いますか。末永喜美子さんの死因は、頭蓋骨骨折による脳挫傷です。石や金属バットなど硬いものによって、相当の力で殴打されたものではないかと鑑識の見立てです。また、山本さんの死因は、絞殺によるものか、末永さんと同様に殴打によるものかは、司法解剖の結果待ちになります。伊藤恵は、縄で絞殺したといってますが、まだ断定できません」と安田が言った。
「身長の低い伊藤恵が、百八十センチ近い山本さんの首を絞めたり、バットで末永さんを強打することができるでしょうか。もしかして、真犯人をかばっているのかもしれません」と私は、今まで不審に思っていることを言った。
「そうですね、まだ凶器は見つかっていませんし、犯人の遺留物や足跡なども鑑識たちが調べ続けています。あすも伊藤恵を取り調べましょう」と久米が、安田に向かっていった。
翌日も、久米が取り調べを行った。
「伊藤さん、昨日は眠れましたか」
「全く眠れませんでした」
「そうですか。昨日の続きですが、あなたが凶器に使った繩と金属バットはどうしましたか」
伊藤恵は、黙ってしまった。
「話を変えます。殺害時のあなたの服装と履物について教えてください」
「自宅にあります」
「後ほど、お宅に行きますので、その時、教えてください」
「もう一度、山本さんの殺害について、詳しく教えてください。あなたが、山本さんに謝ってくださいと言ったら、山本さんはばかばかしい、帰ると言ってホテルのほうに向きなおった時、あなたは、繩を拾いそれで山本さんの首を後ろから絞めたと言われましたが、間違いないですか」
「はい、その通りです」
「それが、不思議なんです。伊藤さん、百八十センチもある山本さんの首に百五十センチちょっとのあなたが、山本さんの首に縄を巻き付け、絞め殺すことができるのか理解できないんです。物理的に無理だと我々は、思っているんですよ」
伊藤恵は、黙ってしまった。
「伊藤さん、実は山本さんの直接の死因は、頭蓋骨陥没による脳挫傷なんです。繩による絞殺が、死因ではないんです。たとえ、あなたが、金属バットで山本さんの後頭部を殴打したとしても、あなたの力ではおそらく山本さんは、死に至ることはないと我々は考えています。伊藤さん、いい加減に正直に話してもらえませんか」
伊藤恵は、依然口を開こうとはしなかった。
「あなたは、どなたかをかばっていますね」
「だれもかばってなんかいません。私が二人をやりました」
久米は、安田の所に行って、伊藤恵の自宅に行くことへの了解を取りつけた。
「これから、あなたの自宅に行きます」
伊藤恵と私たち三人は彼女の家に行った。
鍵がかかっていたので、伊藤恵がバッグから鍵を出して扉を開けた。
奥から男の声がした。
「だれ」
「私よ、あなた」
「恵、大丈夫か」夫の保が、泣きそうな顔で出てきた。
「あなた、すみません」恵が泣き出した。
しばらくして、保は冷静さを取り戻し、私たちを中に入れた。
恵はクローゼットから服と靴を探して、手袋をしていた久米に渡した。
恵と私たちが、玄関を出るとき、保が深々と頭を下げた。
「よろしくお願いいたします」
保の目からこぼれた涙が、床のフローリングに落ちた。
本部に戻り看守に伊藤恵を預けて、私たちが課に入ると、安田の上司の原係長が待っていた。
「安田、山田直人さんが、君たちを第一応接で待ってるぞ」
「えっ、分かりました」驚いた安田は、久米と私を促して応接に向かった。
安田がノックして部屋に入ると、山田直人が立ち上がって、私たちに頭を下げた。
「刑事さん、実は、私が山本一さんと末永喜美子さんを殺害しました。伊藤恵さんは、殺害には全く関係ありません」
「ちょっと待ってください。山田さん、ゆっくり話を聞かせてください」
安田は、山田直人を取調室に連れて行った。
山田の取り調べは、安田が、書記は久米が担当し、私は、部屋の外から見守った。
「山田さん、事件の日の事をお話しください」
「私は、伊藤さんが、山本さんを電話で呼び出しているのを聞いてしまいました。彼女が山本さんに何をするか、逆に、山本さんが、伊藤さんに何をするかと心配になりました。彼女に万が一のことがあってはならないと、私は、バスに置いてある金属バットとロープを持って、十時ちょっと前、部屋から出て行く彼女の後をつけていきました。伊藤さんは、志保さんの件で山本さんに正直に話してもらい、謝るよう要求しましたが、山本さんはしらばくれて、彼女を無視して、ホテルに戻ろうとしたのです。私は、伊藤さんのいたたまれない気持ちを思うと、彼に対して怒りがこみあがってきました。平常心を失い、いつの間にか彼の後ろからロープで力いっぱい首を絞めていました。その時、後ろで、悲鳴が聞こえました。振り向くと末永さんが、ホテルのほうに向かって逃げようとしていたので、とっさに置いていた金属バットに持ち替えて、彼女を追いかけ、バットで殴打しました。呆然と立ちすくんでいた伊藤さんに、早く部屋に戻りなさいと何回も言い続けました。私一人の犯行です」と言って、山田は安田に向かって頭を下げた。
「犯行に使った凶器のロープと金属バットは、どうしましたか」
「海に捨てました」
「明日、どのあたりか教えてください。山田さん、今日はここに泊まってください」
山田直人は頷いた。
山田直人を部屋から出した後、安田が、私を手招きして部屋に誘った。
「藤沢さん、山田直人をどう思いますか」
「そうですね、まず、山本さんの体の向きなんですが、山田直人と伊藤恵の話は、違っています。また、末永さんを殺害するには、時間的にちょっと無理があるように思いますが」と私は答えた。
「大体、凶器をわざわざ当事者でないのに持ってくるのもおかしいし、ましてや、二種類の凶器を持ってくるなんてありえませんよ」と久米が、真顔で言った。
「私も久米さんのいう通りだと思います」
「凶器は金属バットとロープか。本当にそうだとしたら、バスの中に血痕が残っているかもしれない。久米、バス会社に行ってバスを調べて来い」
久米がはいと返事をして、部屋を出ようとしたときに、
「ちょっと待て。鑑識にも行ってもらえ」と、再び安田がいった。
「藤沢さん、この事件、どう考えたらいいんでしょうか」
「難しいですね。例えばですが、伊藤恵は、一人も殺害していないと仮定するとしましょう。そうすると山田直人が、二人を殺したことになります。山田に追いかけられた末永ですが、大声を出して助けを求めるのではないかと思うのですが、そのような声を聞いた人は一人もいないようですね」
「確かに、宿泊客や従業員、近所の人たちに聞いたのですが、十時前後に叫び声や悲鳴などを聞いた人は、誰もいませんでした」
「とすると、末永喜美子が、叫び声や悲鳴を上げる前に殺害されたと思うのが自然ではないでしょうか」
「藤沢さんは、もうひとり共犯者がいると考えているんですか」
「はい、共犯者かどうかわかりませんが、伊藤恵や山田直人の証言は、信憑性にかけています。真実を知っている人間が他にいるはずです」
「一体、誰が」
「再度、M大学の関係者をまずあたってみましょう」
「関係者というと」安田は、捜査ファイルの一つを取り出し、、ツアー客の名簿を確認した。
「M大学の関係者は、四人います。その中で、大学を卒業した者は二人、佐川知美三十三歳で十年前に卒業、それから足立隆二十九歳で六年前に卒業しています。二人とも法学部ですが、ゼミは、二人とも山本教授のゼミではありません。佐川知美は、久保志保と入学が同じのはずです。それから、卒業生ではありませんが、田所正六十三歳が、大学構内の生協に昨年まで勤務してました。他に、反田次郎六十六歳は、六年前まで大学の事務職員を勤めていました」
「安田さん、この四人からまず佐川知美と田所正を調べてみますか」
「そうですね」
安田は気のない返事をした。
夕方六時ごろに、久米が、戻ってきた。
「バスの中に、血痕などの痕跡は、見つかりませんでした」
「分かった。久米、明日また藤沢さんと一緒に東京に行ってくれないか、佐川知美と田所正を再度調べてくれ」と安田は言ってから、今まで私たちが推理したことについて丁寧に久米に説明した。
また、安田は、証拠不十分のため、伊藤恵と山田直人のふたりを釈放すると言った。