沢藤南湘

残り少ない人生を小説とエトセトラ

藁細工の馬

2024-07-14 17:03:42 | 小説
 都立S高校三年の浅野浩之は、夏休みに入った日から、学校に通った。 五階の自分の教室に入り、窓側に席を移した。 数人が、鉛筆を走らせていた。
(早くから勉強しているとは負けてはいられないな)
 特に仲のいい片倉哲夫が、日本史の参考書にラインを引いていた。
「おはよう」浩之が、声を落として、言った。 片倉は、ちょっと遅いなというような目で応えた。
 浩之は、片倉の右隣に机と椅子を運んだ。
 八月に入った。 浩之が、いつもの席で、T大学の昨年の数学の問題を解き終わった時に、ちょうど十二時のチャイムが鳴った。 浩之は、母親が作ってくれた弁当を広げた。
 周りの連中も、席を立って食事に出かけたり、浩之と同じように弁当を食べ始めていた。
 浩之は、いつもと同じ十五分で、弁当をかばんにしまった。
「気分転換に図書室に行ってみるか」と独り言を言って、一階にある図書室に向かった。
 夏休みでも図書室は開いていた。 人気は、感じられなかった。
 浩之は、松本清張全集のひとつを手に取って、近くの椅子に腰かけて、ページをめくっていると奥から椅子を引く音が耳に入った。
 浩之は、本から目を離して、音のした方に目をやった。 そこには、いつの間に図書室に入ってきた女子生徒が、本を読み始めていた。
 浩之は、再び本に目を戻した。
 それからというもの、浩之は、松本清張の推理小説に熱中し、毎昼の時間に図書室に入った。
 女子生徒は、いつも浩之の後に来た。
 夏休みもあと数日を残すある日、いつもの通り、浩之が清張の本を元の場所に戻そうと席を立った時、偶然彼女と顔を合わせた。 浩之は、顔が赤くなったのを悟られないよう彼女に向かって軽く頭を下げ、図書室を出た。
 席に戻ると、
「浅野、最近楽しそうだな。何があったんだ」片倉哲夫が、羨ましそうに言った。
「別になんでもないよ」
「そういえば、昼めしを終えるとしばらくいなくなるが、どこに行っているんだ」
「図書室に行っている。最近、松本清張の推理小説にはまっているんだ」
 夏休みが終わる前に、彼女が、三年一組で名前は、中山牧子だと浩之は知った。
 夏休みが終わって、学校では普通の授業が始まった。 牧子に好意を抱いた浅野浩之は、毎日が充実していた。
 浩之は、図書室には、夏休み中は昼休み中だけであったが、始業式を過ぎると毎日、授業前の朝の時間にも行くようになった。
 松本清張の全集もだいぶ読んだが、中山牧子とは、一度も口を聞いてはいない。
 ある朝、浩之は、図書室で、波の塔を読み終わった。 牧子が、先に図書室を出て行ったの見て、彼女が先ほど読んでいた本を棚に戻したところに行った。
 棚の中の一冊が、つい先ほど戻されたかのように、きちんと納められていた。
「ヘミングウェイの老人と海か」 浩之は、ますます牧子に魅かれるようになった。

 夏休み明けの試験結果、百番以内の生徒名とその点数が書かれたものが、廊下の壁に貼りだされた。
「浅野、お前七十五番だ」と、先に来て見ていた中学の同級だった富樫順一が、浩之に言った。「富樫は、お前は、何番だ」「俺は、四十一番だ」
 浩之は、一番から百番までざっと見渡して、クラスに戻った。
 
 秋の文化祭を迎えた。 浅野浩之は、部活動は何もやっていなかったので、ただ文化祭当日いろいろ展示や発表を見るだけだったが、オーケストラ部に所属している彼女の演奏を聞くのが一番の目的だった。 彼女、中山牧子は、バイオリン演奏者であった。
 演奏会場の講堂は、すでに八分がた席が埋まっていた。 浩之は、前の席が空いているのを見つけ、そこに腰をおろして、開園を待った。
 緞帳が、開いた。 周りから拍手が起こった。
 浩之の目が、一列目の右側に座っている牧子に注がれた。(格好が、いいな)
 司会が、最後の曲、ドヴォルザークの交響曲第九番「新世界より」を紹介して、演奏が始まった。
 そして、無事演奏が終わり、満場からの拍手喝采が起こった。 浩之も手が痛くなるほど拍手を続けた。 講堂を出たところで、片倉哲夫に出くわした。
「浅野、お前も聞いていたのか。クラッシックには全く興味がないと思っていたよ」片倉が、驚いていた。
「最近、興味を持つようになったんだ」
「どういう風の吹き回しだ?」
「そういえば、浅野。お前、誰かを好きになったと富樫がいっていたけど、一体誰なんだ?」
「内緒だ」
「水臭いな」
 放送が、流れた。
「文化祭実行委員会から連絡します。四時から校庭で、文化祭の最後の催しであるフォークダンスの集いを開催しますので、皆さん、ふるって参加ください」
「浅野、どうする?」
「片倉、お前は?」
「俺は、帰るよ」
「俺、少し見ていく」
 校舎から出たすぐ道の下のグランドに生徒が集まり始めていた。
「浅野、帰らないのか」振り向くと富樫順一がいた。
「ちょっと見ていく」
「頑張れよ、じゃあな」と言って、富樫は、片手をあげて帰って行った。
 浩之は、中山牧子を探した。
「あそこだ」
 彼女は、まだ踊りの輪に入っていなかった。 意を決して階段を下りて、彼女のそばに行きフォークダンスを誘った。
 オクラホマミキサー、マイムマイムそして、ジェンカを何回か繰り返し、私たちは踊った。
 踊りが終わった時には、浅野浩之は、中山牧子と二人並んでいた。
 実行委員会の委員長が、マイクを持って登壇した。
「皆さん、楽しんでいただけましたか。いよいよ最後になりました。この三曲を歌って今年の文化祭を終わりにします。では、最初に♪今日の日はさようなら から歌いましょう」
 混声合唱クラブの連中が、壇の前に整列した。 その前にタクトを持った男子生徒が立った。
 二番まで皆で歌った。
「では、次に、今回の文化祭が最後になります三年生へ、♪高校三年生 を歌いましょう」
 浩之は、牧子の声を耳にしながら歌った。 そして、最後に効果を斉唱して、文化祭は終えた。 ふたりにとっての最後の文化祭も、終わった。
 皆、帰るのが名残惜しいようで、それぞれ話に花が咲いているようだった。
 文化祭が終わっての帰り道、デートを約束していた二人は、深大寺あたりを歩いていた。
「どうして、ここを選んだの?」
「松本清張の波の塔に深大寺界隈が出てくるんだ」
「そういえば、浅野君は、清張に凝っているといってたわね」
「そう。小説では、ここら辺りで、登場人物の女性が、万葉集の一句を綺麗な声で歌うんだ」
「どんな歌なの?」
「赤駒を 山野に放し捕りかにて 多摩の横山 歩ゆかやらむ って」
「なぜ、その女性がこの歌を歌ったの?」
「中山さん、それなんだ、ここに来る前にその女性が、茶店で小さな藁細工の馬を買い、その時にこの歌の由来をお店のおばさんが教えたようだが、その理由については、書かれていなかった気がする」
「そうなの、浅野君はこの歌の意味は分かるの?」
「調べたよ。防人に出発する夫に、せめて馬に乗って行ってもらいたいが、大事な馬は放し飼い中だし、あまりにも急な召集だから捕らえている間もない。もう、二度と会えないかも知れないのにあの多摩の横山を越えて、難波までの遠い苦労の路を歩いて行かせてしまう。もう二度と会えないかもしれないのに こんな内容だったかな」
 ふたりとも、しんみりしてしまった。

 中山牧子は、推薦でK大学文学部に入学した。 浅野浩之は、T大学工学部を受験したが、不合格で浪人となり、S予備校に通うことになった。 その間、物理の点数が上がらないため、文系に変更した。
 翌年、なんとかT大学法学部に合格した。 浩之は、牧子を大学祭に誘ったが、都合がつかないと断れてしまった。
 それからの浩之は、大学四年で司法試験に合格し、そして、卒業後に司法修習生を一年四か月を終え、検察官の道を歩んだ。
 検察官は,検事総長,次長検事,検事長,検事及び副検事に区分されるが、浩之は、副検事そして、××地方検察庁の検事正になった。
 その間、三十歳で、結婚したが、この組織、転勤が多く、また、捜査、公判および裁判の執行と忙しく帰宅も深夜に及び、まともな夫婦生活を送ることができずに、たった三年で破綻した。
 浩之は、それから、独身生活を続け、一昨年、六十歳で検察庁を定年退職した。
 
 友人の弁護士事務所に来てくれないかと懇願されたが、弁護士が嫌で検察官の道を選んだ浩之は、それを断った。
 時たま、寂しさを紛らわせるために、淡い高校三年の思い出に浸りながら酒を飲んだ。
 暇に任せて、ネットサーフィンをしていると、SNSで大人世代が趣味や仲間を探すためのコミュニティサイトとのうたい文句のD倶楽部を知り、その中の一つのSKコミュニティに参加した。
 一年ほど過ぎたころ、コミュニティの掲示板に、深大寺の散策参加者の募集があり、浩之は、すぐ参加申請した。
 浩之は、集合場所の京王線調布駅中央口の改札口に、集合時間の十時の三十分前に着いた。
 コミュの管理人の猫大好きさんが、改札口から数メートル離れたところにいた。
「おはようございます」
「おはようございます。そよ風さん、早いですね」
 D倶楽部は、ハンドルネームで呼び合うように定められており、浩之はそよ風と名のっていた。
 定刻の五分前になり、残すは、晴ちゃんという初参加の女性一人となった。
 常連の浩之は、すべて顔見知りで、皆といろいろ話しながら待った。
 改札口から出てきた女性が、恐るおそる我々に近づいた。
「SKコミュニティですか」
「はい、晴ちゃんですか」
「ええ、そうです。よろしくお願いいたします」
 その声を聞いた浩之は、話をやめて晴ちゃんのほうを見やった。
(まさか・・)
「皆さん、揃いましたので、バス乗り場に行きます。自己紹介は、深大寺で行います」
 猫大好きさんが、歩き始めた。
 浩之は、晴ちゃんに近づいて、
「そよ風です」と名のった。
「えっ、もしかして浅野君?」
「はい、中山さん、四十年ぶりです」浩之は、声を落として答え、またと言って中山牧子から離れた。
「赤駒を 山野に放し捕りかにて 多摩の横山 歩ゆかやらむ」と牧子が、口の中で歌い、仲間の後を追った。

                                               了
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