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「桃の天然水」のCMに出ている兵藤和也(兵藤和尊の息子。作家らしい)を初めて見たときにはさすがに驚いた。いや、CMも「快」のみが有効という時代がとっくに過ぎたことは知っている。そんなことで万人は束ねられないし、束ねたところでどうにもならない。
兵藤和也を初めて見たときの正直な感想は、「ああ、厄介なモノに手を出してしまった」であった。主語は「我々は」もしくは「日本人は」である。我々日本人はこの「兵藤和也」を咀嚼することができるのであろうか、という途方に暮れる気持ちにも似た無力感。確かに兵藤和也は「快」ではない。見たこともない顔の輪郭、ほかに例を見ない鼻筋、手に負えないと直感させる服装、そして何よりもふてぶてしさである。
「ふてぶてしい人間」なんてテレビつければいくらでもいる。タレントのひとつの王道パターンでもある。しかし、和也のそれは見たことがない。ケンカ売られてるならまだしも、何かもっととんでもないものを売られている気がする。「快」ではないことは本能的にわかっても、「不快である」と判断を下す自信も勇気も私にはないのである。とりあえず、自分の中だけでも和也をどう受け止めたらいいのか、それを探したくてCMが流れるたびに仕事の手も止めて凝視するしかないのである。
しかし、これを「かっこ悪い」とするほど日本人文化は進んでないし、「かっこいい」と言い切るほど肝も据わっていないことを思い知らされるばかり。CMなんていわば嗜好品、鑑賞する娯楽であるはずなのにこれは苦行のような試練とも取れる。まさに「厄介なものに手を出した」という感じである。「かっこ悪い」「かっこいい」と思えないことよりも、「ブス」「へん」「キモい」と言えないことのほうに深い意味がある。何の制約も圧力もないのに、何故か否定することを気付けば自ら封じている。兵藤和也、言わずして勝利だ。帝愛グループは会長の息子を使って、今また世界の大きさを日本に啓蒙したと言える。こじつけだけど。
兵藤和也を初めて見たときの正直な感想は、「ああ、厄介なモノに手を出してしまった」であった。主語は「我々は」もしくは「日本人は」である。我々日本人はこの「兵藤和也」を咀嚼することができるのであろうか、という途方に暮れる気持ちにも似た無力感。確かに兵藤和也は「快」ではない。見たこともない顔の輪郭、ほかに例を見ない鼻筋、手に負えないと直感させる服装、そして何よりもふてぶてしさである。
「ふてぶてしい人間」なんてテレビつければいくらでもいる。タレントのひとつの王道パターンでもある。しかし、和也のそれは見たことがない。ケンカ売られてるならまだしも、何かもっととんでもないものを売られている気がする。「快」ではないことは本能的にわかっても、「不快である」と判断を下す自信も勇気も私にはないのである。とりあえず、自分の中だけでも和也をどう受け止めたらいいのか、それを探したくてCMが流れるたびに仕事の手も止めて凝視するしかないのである。
しかし、これを「かっこ悪い」とするほど日本人文化は進んでないし、「かっこいい」と言い切るほど肝も据わっていないことを思い知らされるばかり。CMなんていわば嗜好品、鑑賞する娯楽であるはずなのにこれは苦行のような試練とも取れる。まさに「厄介なものに手を出した」という感じである。「かっこ悪い」「かっこいい」と思えないことよりも、「ブス」「へん」「キモい」と言えないことのほうに深い意味がある。何の制約も圧力もないのに、何故か否定することを気付けば自ら封じている。兵藤和也、言わずして勝利だ。帝愛グループは会長の息子を使って、今また世界の大きさを日本に啓蒙したと言える。こじつけだけど。
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