昭和20年8月7日、豊川海軍工廠が爆撃され、約2600人(約2800人とも)の命が犠牲となった。勤労動員された学徒約450人も含まれている。
昨日の中日新聞社朝刊に、九死に一生を得た方の証言があった。
そのなかに、いつもは「総員退避」の前に出される「女子、学徒退避」がなかったとあった。鉄帽を被り屋外に出たときには、すでにB29が上空にあった。
「総員退避」の発令が遅く、「女子、学徒退避」を発令する余裕はなかったということ。
ところが、石川県出身の女子挺身隊員を中心にした証言集、『ああ豊川女子挺身隊 8.7豊川海軍工廠の悲劇』(昭和38年)には、当時、防空発令室にあった海軍報道班員の方の証言として、「空襲警報」の後、「女子ならびに低学年学徒退避」が発令され、この報道班員の方が、マイクに向って工廠内に知らせたとある。
そして、その後で「総員退避」が発令されたということになっている。
「女子ならびに低学年学徒退避」あるいは、「女子、学徒退避」が発令されたのか、という問題について、近藤恒次氏が『学徒動員と豊川海軍工廠』(昭和52年)で言及された。近藤氏は、豊橋市立工業学校の動員学徒付添教官であり、担任の生徒と共に火工部第二弾莢工場にあり被爆している(同工場では愛知高等実習女学校生徒も働いていた)。
近藤氏によれば、「総員退避」の5分前に発令される「女子ならびに低学年学徒退避」命令はなく、「総員退避」の時には、B29は頭上にあったという。工廠外へ退避する余裕はなく、至近にある防空壕に逃げ込むのが精一杯だった。実習女学校生徒の方は、防空壕に爆弾の直撃を受けて亡くなっている。
道具を持って逃げたとしても、5分早ければ、5分遠くへ逃げられた事には間違いはないと思う。なぜ、「総員退避」が遅く、「女子ならびに低学年学徒退避」も発令されなかったのだろうという疑問は、当然多くの方が持っておられたはずだ。
近藤氏はこの件について、昭和49年、空襲時に防空発令室にあった工廠長の副官の方から直接、当時の事情を聞き取っている。これによれば、生産か退避かの板挟みで、「女子ならびに低学年学徒退避」発令の余裕がなかったということである。(『学徒動員と豊川海軍工廠』66頁の注7)
工廠長の判断を鈍らせたものは何だったのか?
「七月三十日午前十時頃、動員学徒付添教官の非常呼集があり、工廠長より直接の指示があった、今朝空襲警報が発令された際、一部の大学動員学徒が工廠の命令なく退避したことに対する厳重な訓戒であった。すなわち、今や兵器の生産は焦眉の急であり、瞬時たりともおろそかにすることはできぬ。動員学徒は当工廠長の全責任において、廠長の命令に従うべきことを厳守せよというのであった。如何なる事態が生じようとも、廠長の命なくして行動することは一切許されぬことを再確認したのである」(『学徒動員と豊川海軍工廠』51頁)
人の命よりも、兵器の生産が優先されたのである。
※経済を優先するか、人命か?
過去も現在も今後も、避けては通れない問題が現れる。自然破壊、産業公害、コロナも、何を最優先するのか?いざという時に、その人の性格の本質的な部分が如実にあらわれる。とくに、背負っているものが大きければ大きいほど(ポジション)、判断を誤れば、人的被害は大きくなる(人が多く死ぬ)。
大人は、○○よりも命が軽視された時代や出来事をしっかりと次の世代に伝えて、正面から向き合って、考えてもらうようにして行かなければならない。
命よりも重いものが当然のように現れたら、また悲劇は繰り返される。
昨日の中日新聞社朝刊に、九死に一生を得た方の証言があった。
そのなかに、いつもは「総員退避」の前に出される「女子、学徒退避」がなかったとあった。鉄帽を被り屋外に出たときには、すでにB29が上空にあった。
「総員退避」の発令が遅く、「女子、学徒退避」を発令する余裕はなかったということ。
ところが、石川県出身の女子挺身隊員を中心にした証言集、『ああ豊川女子挺身隊 8.7豊川海軍工廠の悲劇』(昭和38年)には、当時、防空発令室にあった海軍報道班員の方の証言として、「空襲警報」の後、「女子ならびに低学年学徒退避」が発令され、この報道班員の方が、マイクに向って工廠内に知らせたとある。
そして、その後で「総員退避」が発令されたということになっている。
「女子ならびに低学年学徒退避」あるいは、「女子、学徒退避」が発令されたのか、という問題について、近藤恒次氏が『学徒動員と豊川海軍工廠』(昭和52年)で言及された。近藤氏は、豊橋市立工業学校の動員学徒付添教官であり、担任の生徒と共に火工部第二弾莢工場にあり被爆している(同工場では愛知高等実習女学校生徒も働いていた)。
近藤氏によれば、「総員退避」の5分前に発令される「女子ならびに低学年学徒退避」命令はなく、「総員退避」の時には、B29は頭上にあったという。工廠外へ退避する余裕はなく、至近にある防空壕に逃げ込むのが精一杯だった。実習女学校生徒の方は、防空壕に爆弾の直撃を受けて亡くなっている。
道具を持って逃げたとしても、5分早ければ、5分遠くへ逃げられた事には間違いはないと思う。なぜ、「総員退避」が遅く、「女子ならびに低学年学徒退避」も発令されなかったのだろうという疑問は、当然多くの方が持っておられたはずだ。
近藤氏はこの件について、昭和49年、空襲時に防空発令室にあった工廠長の副官の方から直接、当時の事情を聞き取っている。これによれば、生産か退避かの板挟みで、「女子ならびに低学年学徒退避」発令の余裕がなかったということである。(『学徒動員と豊川海軍工廠』66頁の注7)
工廠長の判断を鈍らせたものは何だったのか?
「七月三十日午前十時頃、動員学徒付添教官の非常呼集があり、工廠長より直接の指示があった、今朝空襲警報が発令された際、一部の大学動員学徒が工廠の命令なく退避したことに対する厳重な訓戒であった。すなわち、今や兵器の生産は焦眉の急であり、瞬時たりともおろそかにすることはできぬ。動員学徒は当工廠長の全責任において、廠長の命令に従うべきことを厳守せよというのであった。如何なる事態が生じようとも、廠長の命なくして行動することは一切許されぬことを再確認したのである」(『学徒動員と豊川海軍工廠』51頁)
人の命よりも、兵器の生産が優先されたのである。
※経済を優先するか、人命か?
過去も現在も今後も、避けては通れない問題が現れる。自然破壊、産業公害、コロナも、何を最優先するのか?いざという時に、その人の性格の本質的な部分が如実にあらわれる。とくに、背負っているものが大きければ大きいほど(ポジション)、判断を誤れば、人的被害は大きくなる(人が多く死ぬ)。
大人は、○○よりも命が軽視された時代や出来事をしっかりと次の世代に伝えて、正面から向き合って、考えてもらうようにして行かなければならない。
命よりも重いものが当然のように現れたら、また悲劇は繰り返される。