宮澤賢治の里より

下根子桜時代の真実の宮澤賢治を知りたくて、賢治の周辺を彷徨う。

242 哈川神社

2011年01月07日 | Weblog
 以前、菅野正男について触れたことがあったが、菅野正男を顕彰せんとして水沢に哈川(はせん)神社を建立したということを『土と戦ふ(復刻版)』(菅野正男著、土と戦ふ・刊行委員会編)で知っていたのだが、いままで探してみたものの見つけられずにいた。
 具体的には、但木秀夫が同著に寄せた「菅野正男君の御霊前に捧ぐ」の中に次のように認められている。
 市内真城雷神の今野養市さんが昭和四十九年四月、亡き訓練生たち絶大なる偉業を永久に顕彰し、慰霊せんと志し、独力にて哈川神社を建立、祭祀する義挙を果たされた。更にこの度は盛岡市川目の吉田石材店托友会員の吉田一輔さんの特志協力に依って、菅野正男君の記念碑が哈川神社の右側に建立され、その除幕式が今春(昭和57年のこと)四月二十九日に行われることになった…
 なお、但木秀夫は菅野正男が就学していた当時(昭和12年)の口内農業補習学校の校長である。

 さてその哈川神社、やっとこの度(H22/6/8)その場所を探し当てたので報告する。

 その場所は水沢区真城の雷神にある。国道4号線を水沢の中心街から南下するとやがて道路左手に真城小学校が現れる。
 そのままやり過ごして更に南下すると国道左手に
《1 壽古美術店》(平成22年6月8日撮影)

の看板が見える。そのほんの少し先、今度は国道右手に
《2 門構えの豪邸》(平成22年6月8日撮影)

が現れる。この場所で右折してみるとやや登り気味の坂の先に
《3 赤い鳥居》(平成22年6月8日撮影)

が見える。もしかするとここが探していた哈川神社では…、そして実際哈川神社であった。
 なお、上の写真の左手の竹藪越しに
《4 一重の白牡丹(写真中央)》(平成22年6月8日撮影)

が咲いており、その向こうに曰くありげな建物がある。
 覗いてみると
《5 思案庵》(平成22年6月8日撮影)

という庵らしい。
 元の道に戻って
《6 赤い鳥居》(平成22年6月8日撮影)

をくぐって石の階段を上ると
《7 哈川神社境内》(平成22年6月8日撮影)

に出る。
《8 社殿》(平成22年6月8日撮影)


《9 額は”三宝荒神”》(平成22年6月8日撮影)

となっていた。
 また、社殿に向かって左手に
《10 菅野正男の記念碑と「土と戦ふの記」の石碑》(平成22年6月8日撮影)

があった。

 さて、この神社の宮司はどなただろうか。あわよくばお話をお聞きしたいと思った。おそらく先程の豪邸には今野という標札があったから今野養市さんのご自宅に違いないと推理してお邪魔したならば予想通りであり、今野養市さんの奥様とお話しできた。
 
 ・なぜ今野養市さんはこの神社を建てたのかというと、養市さんも満蒙開拓青少年義勇軍の一人であり、菅野正男とは哈川で一緒であったということがその大きな理由であったということ。
 ・今野養市さんは『六原青年道場』を経て渡満したとのこと。
 ・今野養市さんは中国で10年ほど過ごしたとのこと。
 ・この神社は江刺にあった三宝荒神の社を真城に遷座したものだということ。
 ・建立当時は多くの方がお参りに来たが、最近は多くの方が鬼籍に入られたようで殆どないとのこと。
 ・坂の途中にあった『思案庵』は今野養市さんの庵だったということ。

ということなどをお聞きできた。
 
 
 続き
 ””のTOPへ移る。
 前の
 ””のTOPに戻る
 ”宮澤賢治の里より”のトップへ戻る。
目次(続き)”へ移動する。
目次”へ移動する。



最新の画像もっと見る

コメントを投稿