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<↑ 『サライ7月号』(小学館)の表紙>
平成22年のサライ7月号の表紙はかくの如くであり、その大特集は
『環境の世紀を先取りした献身と志の人
宮沢賢治を旅する』
というものだった。
とりわけサブタイトルの『環境の世紀を先取りした』の部分に惹かれてつい購入してみた。ところが、このサブタイトルに対応する部分は特集の一体どこに書かれているだろうか、私が思い描いていた内容はついにどこにも見つけられずちょっと肩すかしだった。
ただし、この特集の巻頭言『宮沢賢治生き方を心に刻む』の出だしが興味深かった。というのは、この巻頭言は吉本隆明が書いており次のように始まっていた。
宮沢賢治の人と作品に、僕は断続的に関心を持ち続けています。きっかけは山形県の米沢高等工業高校に入った頃、松田甚次郎が編集した『宮澤賢治名作選』に出会ったことでした。読んですぐ、宮沢賢治は一流の詩人だとわかりました。童話作家としても格段に優れた人で、少年少女向けの散文作品として驚くほどモダン(現代的)で水準が高い。世界的に通用する作品です。
吉本は東京生まれのようだが、1942年17歳のときたまたま米沢高等工業学校(現山形大学工学部)に入学し、山形で学生生活を送ったことになる。1942年とは昭和17年のことだ。この当時の山形といえば新庄鳥越で賢治の精神を実践せんとしていた松田甚次郎が講演等のために東奔西走し、併せて、松田はベストセラー『土に叫ぶ』に引き続きその後も何冊かの本を出していた頃でもある。もちろんその内の一冊『宮沢賢治名作選』は既(昭和14年、19392年)に出版されていてその後重版を重ねていたから、それまでは全国的には知られていなかった宮澤賢治をこの本によって松田は世に広く知らしめていたといえる。したがって、当時たまたま山形米沢にいた吉本にすればこの『宮澤賢治名作選』に接するのは至極自然だったともいえるだろう。
ひるがえって、宮澤賢治は今回のサライに大特集が組まれるように相変わらず、あるいはますますもてはやされているが、当時は賢治よりも著名で賢治を世に知らしめたといってもよいと思われる松田甚次郎は、生誕100年だった昨年2009年でさえとりわけ大々的なイベントもなかったやに聞いているが、歴史から忘れ去られようとしている。
かようにかなり気の毒な気もする松田だが、多感な年頃17歳の吉本が賢治に関心を持ったきっかけは松田がいたからであり、吉本の八面六臂の活躍に松田が少なからず貢献していたのだということを知って、私は少しく安堵した。
続き
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平成22年のサライ7月号の表紙はかくの如くであり、その大特集は
『環境の世紀を先取りした献身と志の人
宮沢賢治を旅する』
というものだった。
とりわけサブタイトルの『環境の世紀を先取りした』の部分に惹かれてつい購入してみた。ところが、このサブタイトルに対応する部分は特集の一体どこに書かれているだろうか、私が思い描いていた内容はついにどこにも見つけられずちょっと肩すかしだった。
ただし、この特集の巻頭言『宮沢賢治生き方を心に刻む』の出だしが興味深かった。というのは、この巻頭言は吉本隆明が書いており次のように始まっていた。
宮沢賢治の人と作品に、僕は断続的に関心を持ち続けています。きっかけは山形県の米沢高等工業高校に入った頃、松田甚次郎が編集した『宮澤賢治名作選』に出会ったことでした。読んですぐ、宮沢賢治は一流の詩人だとわかりました。童話作家としても格段に優れた人で、少年少女向けの散文作品として驚くほどモダン(現代的)で水準が高い。世界的に通用する作品です。
吉本は東京生まれのようだが、1942年17歳のときたまたま米沢高等工業学校(現山形大学工学部)に入学し、山形で学生生活を送ったことになる。1942年とは昭和17年のことだ。この当時の山形といえば新庄鳥越で賢治の精神を実践せんとしていた松田甚次郎が講演等のために東奔西走し、併せて、松田はベストセラー『土に叫ぶ』に引き続きその後も何冊かの本を出していた頃でもある。もちろんその内の一冊『宮沢賢治名作選』は既(昭和14年、19392年)に出版されていてその後重版を重ねていたから、それまでは全国的には知られていなかった宮澤賢治をこの本によって松田は世に広く知らしめていたといえる。したがって、当時たまたま山形米沢にいた吉本にすればこの『宮澤賢治名作選』に接するのは至極自然だったともいえるだろう。
ひるがえって、宮澤賢治は今回のサライに大特集が組まれるように相変わらず、あるいはますますもてはやされているが、当時は賢治よりも著名で賢治を世に知らしめたといってもよいと思われる松田甚次郎は、生誕100年だった昨年2009年でさえとりわけ大々的なイベントもなかったやに聞いているが、歴史から忘れ去られようとしている。
かようにかなり気の毒な気もする松田だが、多感な年頃17歳の吉本が賢治に関心を持ったきっかけは松田がいたからであり、吉本の八面六臂の活躍に松田が少なからず貢献していたのだということを知って、私は少しく安堵した。
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