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<↑『村塾建設の記』(松田甚次郎著、実業之日本社)
残念ながら”農村文化の創造に努む”で述べたとおり、松田甚次郎が下根子の宮澤賢治宅を訪ねる切っ掛けとなった記事が大正15年の4月1日のものであるかどうか、ということの確認は現時点では出来ないでいる。
ただし、岩手日報の報道がその切っ掛けであった(宮澤賢治と私(『宮澤賢治研究』)で既述)ことの確認が新たに出来たので報告する。
というのは、松田甚次郎は昭和16年の1月に『村塾建設の記』を実業之日本社から出版しているが、その中に次のような章があったからである。
起ち上がる力
一、宮澤先生の墓に詣でて
穫入れも一段落を告げて忙しい春から夏、夏から秋と待ちに待つた私の恩師宮澤先生の墓参りの日は一昨年十一月十三日に、たうとう恵まれて秋雨に打たれて冬囲ひ冷たい手を暖めて時を惜しんで夜行列車に身を託したのであつた。山形より佐藤同信と同行し…十年振りの南部の郷に訪れたのは黎明の六時半で二十数名の同人に迎へられて花巻駅に不眠のままに安着したのであつた。…
羅須人協会たりし萱ぶきの先生の小屋はもう姿なく、一目北上川の清流が静かに旭光に輝いて流れ往く。何といふ淋しさ、十年振りで訪れた今日先生も居らない住居も見えない。只上余の石碑が小松林の間に、北上川に向いて、ここは陸中の国、松の林の野原であるというて建って居る。
…
一同宮澤先生の実弟清六氏の司会にて、私は一歩進んで、今は亡き先生の碑前にて拙著『土に叫ぶ』の報告をなし、静かにお祈りと参拝合掌をなし向後生涯末代迄先生の大教訓を遵守することを誓つて一同と共に焼香したのである。
…
午後は私を囲んでの座談会七十余名の一般であるが、学校の教員、農村青年、町の有力者宮澤先生の教師、花巻農学校の卒業生、花巻町の人々も見えられて中々盛会であつた。宮澤先生の話は沢山出たが私に訊ねられたことから述べるが、宮澤先生を知つた動機はといふから、岩手日報で知つたと答へたら二三の弟子達は我々は何年も弟子にして何も成さずで申訳ないと私を通じて先生に詫びて居つた。私は此の十余年一日だつて忘れたことはないそれに『真理』に童話が掲載され、童話研究や誌や『婦人の友』まで掲げられるとたまらない心に打たれてゐると語つたのである。…
十一月十四日…有名な六原青年道場を見学し更に盛岡の母校を訪ね、母校の学生四百と先生方に私の十二年と宮澤先生について三時間語り …
十一月十五日…石川啄木の碑に参った。…
厳かに岩手山を仰ぎ北上川を啄木は左岸より宮澤氏は右岸より眺め、日本の芸術界に大きな永遠の流れを示したとは、何といふ意味深いことであらうか。冷害や津波で稗を食うことに依つてのみ知られる岩手南部の国こそ、日本が新しく生んだ天才と行者、今その宗教と芸術と科学が新しい日本を導く大きな力となつて居ることを深く知らねばなるまいと思ふのである。
宮澤先生逝いて六年、弟子として何をしたか何をしてるかをいつも反省して行かねばなるまい、そして先生が幾億の天才の上に大きく咲き生えられる様に念ずるものである。
先生のいはれた
世界(ママ)全体幸福にならないうちに(ママ)は個人の幸福はあり得ない
――農民芸術論――
さうだ日本の聖戦はそこにあるのだ。今我が国民は絶対に信じ、絶対に実現せねばならない今事変の戦闘に必勝すること自身は右の言葉に綴られるのではあるまいか、我等同信の精進は又右の言葉に納まるのではないだらうか。…
<『村塾建設の記』(松田甚次郎著、実業之日本社)より>
というわけでこれは昭和13年の11月に来花した際の座談会で、かくの如く松田甚次郎自身が岩手日報で知つたと語っているのだから間違いないであろう。なお、佐藤同信と同行したと書いてあるだけだがこのときには櫻井(吉田)コトも同行しているはずである。
思い起こせば、松田甚次郎が昭和2年3月8日に下根子桜に賢治を訪ねた際に贈られた”訓へ”
小作人たれ
農村劇をやれ
に関して賢治から次の説諭
黙って十年間、誰が何と言はうと、実行し続けてくれ。そして十年後に、宮澤が言った事が真理かどうかを批判してくれ。今はこの宮澤を信じて、実行してくれ。
<『土に叫ぶ』(松田甚次郎著、羽田書店)より>
を受けたのだが、まさしく賢治の言うとおりに10年間甚次郎は忠実に実践し続け、その生活記録『土に叫ぶ』の出版報告のために墓(実際には詩碑)に詣でたのだ。
賢治でさえ、私塾(羅須地人協会)の活動は大正15年8月~翌年3月までの約7ヶ月、下根子桜の独居生活でさえも2年半に過ぎなかったのに、賢治の”訓へ”にしたがって小作人となり最上共働村塾などの活動を先ずは10年間実践し続けたのである。そして、その報告のために賢治の墓(賢治詩碑)に詣でる甚次郎のひたむきさには心打たれる。
なお、以前、松田甚次郎は「時流にのり、国策におもねた」とか「戦争協力者となった」などという誹りがあったということに触れたことがあるが、この文章の最後の部分
『世界全体幸福にならないうちには個人の幸福はあり得ない――農民芸術論――さうだ日本の聖戦はそこにあるのだ。今我が国民は絶対に信じ、絶対に実現せねばならない今事変の戦闘に必勝すること自身は右の言葉に綴られるのではあるまいか、我等同信の精進は又右の言葉に納まるのではないだらうか』
などがそれらの一つに中ったのだろうか。
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残念ながら”農村文化の創造に努む”で述べたとおり、松田甚次郎が下根子の宮澤賢治宅を訪ねる切っ掛けとなった記事が大正15年の4月1日のものであるかどうか、ということの確認は現時点では出来ないでいる。
ただし、岩手日報の報道がその切っ掛けであった(宮澤賢治と私(『宮澤賢治研究』)で既述)ことの確認が新たに出来たので報告する。
というのは、松田甚次郎は昭和16年の1月に『村塾建設の記』を実業之日本社から出版しているが、その中に次のような章があったからである。
起ち上がる力
一、宮澤先生の墓に詣でて
穫入れも一段落を告げて忙しい春から夏、夏から秋と待ちに待つた私の恩師宮澤先生の墓参りの日は一昨年十一月十三日に、たうとう恵まれて秋雨に打たれて冬囲ひ冷たい手を暖めて時を惜しんで夜行列車に身を託したのであつた。山形より佐藤同信と同行し…十年振りの南部の郷に訪れたのは黎明の六時半で二十数名の同人に迎へられて花巻駅に不眠のままに安着したのであつた。…
羅須人協会たりし萱ぶきの先生の小屋はもう姿なく、一目北上川の清流が静かに旭光に輝いて流れ往く。何といふ淋しさ、十年振りで訪れた今日先生も居らない住居も見えない。只上余の石碑が小松林の間に、北上川に向いて、ここは陸中の国、松の林の野原であるというて建って居る。
…
一同宮澤先生の実弟清六氏の司会にて、私は一歩進んで、今は亡き先生の碑前にて拙著『土に叫ぶ』の報告をなし、静かにお祈りと参拝合掌をなし向後生涯末代迄先生の大教訓を遵守することを誓つて一同と共に焼香したのである。
…
午後は私を囲んでの座談会七十余名の一般であるが、学校の教員、農村青年、町の有力者宮澤先生の教師、花巻農学校の卒業生、花巻町の人々も見えられて中々盛会であつた。宮澤先生の話は沢山出たが私に訊ねられたことから述べるが、宮澤先生を知つた動機はといふから、岩手日報で知つたと答へたら二三の弟子達は我々は何年も弟子にして何も成さずで申訳ないと私を通じて先生に詫びて居つた。私は此の十余年一日だつて忘れたことはないそれに『真理』に童話が掲載され、童話研究や誌や『婦人の友』まで掲げられるとたまらない心に打たれてゐると語つたのである。…
十一月十四日…有名な六原青年道場を見学し更に盛岡の母校を訪ね、母校の学生四百と先生方に私の十二年と宮澤先生について三時間語り …
十一月十五日…石川啄木の碑に参った。…
厳かに岩手山を仰ぎ北上川を啄木は左岸より宮澤氏は右岸より眺め、日本の芸術界に大きな永遠の流れを示したとは、何といふ意味深いことであらうか。冷害や津波で稗を食うことに依つてのみ知られる岩手南部の国こそ、日本が新しく生んだ天才と行者、今その宗教と芸術と科学が新しい日本を導く大きな力となつて居ることを深く知らねばなるまいと思ふのである。
宮澤先生逝いて六年、弟子として何をしたか何をしてるかをいつも反省して行かねばなるまい、そして先生が幾億の天才の上に大きく咲き生えられる様に念ずるものである。
先生のいはれた
世界(ママ)全体幸福にならないうちに(ママ)は個人の幸福はあり得ない
――農民芸術論――
さうだ日本の聖戦はそこにあるのだ。今我が国民は絶対に信じ、絶対に実現せねばならない今事変の戦闘に必勝すること自身は右の言葉に綴られるのではあるまいか、我等同信の精進は又右の言葉に納まるのではないだらうか。…
<『村塾建設の記』(松田甚次郎著、実業之日本社)より>
というわけでこれは昭和13年の11月に来花した際の座談会で、かくの如く松田甚次郎自身が岩手日報で知つたと語っているのだから間違いないであろう。なお、佐藤同信と同行したと書いてあるだけだがこのときには櫻井(吉田)コトも同行しているはずである。
思い起こせば、松田甚次郎が昭和2年3月8日に下根子桜に賢治を訪ねた際に贈られた”訓へ”
小作人たれ
農村劇をやれ
に関して賢治から次の説諭
黙って十年間、誰が何と言はうと、実行し続けてくれ。そして十年後に、宮澤が言った事が真理かどうかを批判してくれ。今はこの宮澤を信じて、実行してくれ。
<『土に叫ぶ』(松田甚次郎著、羽田書店)より>
を受けたのだが、まさしく賢治の言うとおりに10年間甚次郎は忠実に実践し続け、その生活記録『土に叫ぶ』の出版報告のために墓(実際には詩碑)に詣でたのだ。
賢治でさえ、私塾(羅須地人協会)の活動は大正15年8月~翌年3月までの約7ヶ月、下根子桜の独居生活でさえも2年半に過ぎなかったのに、賢治の”訓へ”にしたがって小作人となり最上共働村塾などの活動を先ずは10年間実践し続けたのである。そして、その報告のために賢治の墓(賢治詩碑)に詣でる甚次郎のひたむきさには心打たれる。
なお、以前、松田甚次郎は「時流にのり、国策におもねた」とか「戦争協力者となった」などという誹りがあったということに触れたことがあるが、この文章の最後の部分
『世界全体幸福にならないうちには個人の幸福はあり得ない――農民芸術論――さうだ日本の聖戦はそこにあるのだ。今我が国民は絶対に信じ、絶対に実現せねばならない今事変の戦闘に必勝すること自身は右の言葉に綴られるのではあるまいか、我等同信の精進は又右の言葉に納まるのではないだらうか』
などがそれらの一つに中ったのだろうか。
続き
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