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それにしてもどうしてなのだろうか。入沢康夫氏も「これまでほとんど無視されていた千葉恭」と仰っていたように、『新校本年譜』等も含め、どんな本を見ても、千葉恭が下根子桜の宮澤家別宅で賢治と一緒に暮らしていた時期や期間について今だもってはっきりとは記載されていない。
ただし振り返ってみれば、千葉恭自身は次のようなことは言っている。
(ア) そのうちに賢治は何を思つたか知りませんが、学校を辞めて櫻の家に入ることになり自炊生活を始めるようになりました。次第に一人では自炊生活が困難になって来たのでしょう。私のところに『君もこないか』という誘いが参り、それから一緒に自炊生活を始めるようになりました。このことに関しては後程お話しいたすつもりですが、二人での生活は実に惨めなものでありました。
その後先生から『君はほんとうに農民として生活せよ』と言われ、家に帰って九年間百姓をしましたが体の関係から勤まらず、再び役所勤めをするようになり、今日そのままに同じ仕事をいたしております。<『イーハトーヴォ復刊2号』(宮澤賢治の会)>
その後先生から『君はほんとうに農民として生活せよ』と言われ、家に帰って九年間百姓をしましたが体の関係から勤まらず、再び役所勤めをするようになり、今日そのままに同じ仕事をいたしております。<『イーハトーヴォ復刊2号』(宮澤賢治の会)>
(イ) (下根子桜では)賢治は当時菜食について研究しておられ、まことに粗食であつた。私が煮炊きをし約半年生活をともにした。一番困ったのは、毎日々々その日食うだけの米を町に買いにやらされたことだった。<『イーハトーヴォ復刊5号』(宮澤賢治の会)>
(ウ) 先生との親交も一ヶ年にして一応終止符をうたねばならないことになりました。昭和四年の夏上役との問題もあり、それに脚氣に罹つて精神的にクサクサしてとうとう役所を去ることになりました。私は役人はだめだ!自然と親しみ働く農業に限ると心に決めて家に歸つたのです。<『四次元5号』(宮澤賢治友の会)>
例えば前掲の(ア)で千葉恭が、
次第に一人では自炊生活が困難になって来たのでしょう。私のところに『君もこないか』という誘いが参り、それから一緒に自炊生活を始めるようになりました。
と語っていることとか、千葉恭の三男滿夫氏が、 父は上司とのトラブルが生じて穀物検査所を辞めたようだが、実家に戻るにしても田圃はそれほどあるわけでもないし、賢治のところへ転がり込んで居候したようだ。
と私に語ってくれたことなどから、千葉恭はある時穀物検査所勤めに見切りをつけ、下根子桜の別宅で賢治と一緒に暮らし始めたのであろうと私は推理していた。言い換えれば、彼が穀物検査所を辞めた時期と下根子桜の別宅で賢治と一緒に暮らし始めた時期とはほぼ同時期であろうと考えてきた。それゆえ当面の最大の懸案事項は千葉恭はいつ穀物検査所を辞めたのかということであった。さりとて前掲の(ウ)によれば、千葉恭は〝昭和四年に〟役所(穀物検査所)を辞めて帰農したことになるがそれを鵜呑みにすることは出来ない。
なぜなら、この(ア)によれば「家に帰って九年間百姓をしましたが体の関係から勤まらず、再び役所勤めをするようになり」ということだが、千葉恭が遅くとも昭和8年には復職していることは『岩手年鑑』の「県職員等の職員名簿」の記載で確認出来るから、もし昭和4年に辞めて昭和8年に復職したとなれば帰農期間は昭和4年~8年の5年間以内となり〝九年間百姓をしました〟とはかなり差が生じるからである。
一方、大正15年7月25日の朝起きがけに千葉恭は賢治に頼まれて白鳥省吾との面会を断りに行っているから、この時期には彼はもう穀物検査所を辞めていて賢治と一緒に暮らしていたと考えるのが妥当である。そしてこの時点から起算すれば昭和8年までの間が約8年間となり、それを「九年間百姓しました」と言っていることは許容範囲であろう(昭和元年も1年と数えれば「9年間」はあり得る)。
なお、一般に千葉恭は賢治と約半年一緒に暮らしたと言われているようだが、それはこの(イ)が拠り所になっているのだろう。
……と、長々綴ってはみたものの、肝心の千葉恭がいつ穀物検査所を辞めていつ復職したのかというそれらの日をはっきりと確定出来ないままにここに至ってしまった。
ところがある切っ掛けであるルートから、千葉恭が穀物検査所を一旦辞めた日、そして正式に復職した日等があっけなく判明した。それはそれぞれ、
・大正15年6月22日 穀物検査所花巻出張所辞職
・昭和7年3月31日 〃 宮守派出所に正式に復職
というものであった。・昭和7年3月31日 〃 宮守派出所に正式に復職
今まで躍起になって探し廻ってきた日、千葉恭が穀物検査所を辞めた日がやっとのことで確定した。これで当面の最大の懸案事項が解決した。私はこのあるルートとその担当者にひたすら感謝した。これで、より自信を持って千葉恭が賢治と一緒に暮らし始めた時期等を推定出来そうな気がして来た。
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《新刊案内》この度、拙著『このままでいいのですか 『校本宮澤賢治全集』の杜撰』
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を出版した。その最大の切っ掛けは、今から約半世紀以上も前に私の恩師でもあり、賢治の甥(妹シゲの長男)である岩田純蔵教授が目の前で、
賢治はあまりにも聖人・君子化され過ぎてしまって、実は私はいろいろなことを知っているのだが、そのようなことはおいそれとは喋れなくなってしまった。
と嘆いたことである。そして、私は定年後ここまでの16年間ほどそのことに関して追究してきた結果、それに対する私なりの答が出た。延いては、
小学校の国語教科書で、嘘かも知れない賢治終焉前日の面談をあたかも事実であるかの如くに教えている現実が今でもあるが、純真な子どもたちを騙している虞れのあるこのようなことをこのまま続けていていいのですか。もう止めていただきたい。
という課題があることを知ったので、 『校本宮澤賢治全集』には幾つかの杜撰な点があるから、とりわけ未来の子どもたちのために検証をし直し、どうかそれらの解消をしていただきたい。
と世に訴えたいという想いがふつふつと沸き起こってきたことが、今回の拙著出版の最大の理由である。しかしながら、数多おられる才気煥発・博覧強記の宮澤賢治研究者の方々の論考等を何度も目にしてきているので、非才な私にはなおさらにその追究は無謀なことだから諦めようかなという考えが何度か過った。……のだが、方法論としては次のようなことを心掛ければ非才な私でもなんとかなりそうだと直感した。
まず、周知のようにデカルトは『方法序説』の中で、
きわめてゆっくりと歩む人でも、つねにまっすぐな道をたどるなら、走りながらも道をそれてしまう人よりも、はるかに前進することができる。
と述べていることを私は思い出した。同時に、石井洋二郎氏が、 あらゆることを疑い、あらゆる情報の真偽を自分の目で確認してみること、必ず一次情報に立ち返って自分の頭と足で検証してみること
という、研究における方法論を教えてくれていることもである。すると、この基本を心掛けて取り組めばなんとかなるだろうという根拠のない自信が生まれ、歩き出すことにした。
そして歩いていると、ある著名な賢治研究者が私(鈴木守)の研究に関して、私の性格がおかしい(偏屈という意味?)から、その研究結果を受け容れがたいと言っているということを知った。まあ、人間的に至らない点が多々あるはずの私だからおかしいかも知れないが、研究内容やその結果と私の性格とは関係がないはずである。おかしいと仰るのであれば、そもそも、私の研究は基本的には「仮説検証型」研究ですから、たったこれだけで十分です。私の検証結果に対してこのような反例があると、たった一つの反例を突きつけていただけば、私は素直に引き下がります。間違っていましたと。
そうして粘り強く歩き続けていたならば、私にも自分なりの賢治研究が出来た。しかも、それらは従前の定説や通説に鑑みれば、荒唐無稽だと嗤われそうなものが多かったのだが、そのような私の研究結果について、入沢康夫氏や大内秀明氏そして森義真氏からの支持もあるので、私はその研究結果に対して自信を増している。ちなみに、私が検証出来た仮説に対して、現時点で反例を突きつけて下さった方はまだ誰一人いない。
そこで、私が今までに辿り着けた事柄を述べたのが、この拙著『このままでいいのですか 『校本宮澤賢治全集』の杜撰』(鈴木 守著、録繙堂出版、1,000円(税込み))であり、その目次は下掲のとおりである。
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