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一般にお役所の人事の発令の期日は〝きり〟の良いところ、月初めとか月末が多いはずである。なのに千葉恭が一旦役所を辞めた日は中途半端な22日であることから、これは上司との折り合いが悪くなって突如辞表を出したと解釈出来る本人の話「夏上役との問題もあり、それに脚氣に罹つて精神的にクサクサしてとうとう役所を去ることになりました」と符合する。となれば、急に思い立っての辞職ということだろうから、千葉恭の三男滿夫氏の言うとおり、「父(千葉恭)は賢治のところへ転がり込んで居候したようだ」というのが実情だったとも十分考えられる(ただし千葉恭自身は「『君もこないか』という誘いが参り」とは言っているのだが)。よって、千葉恭は大正15年6月22日に穀物検査所花巻出張所を辞め、その直後から下根子桜の宮澤家の別宅で一緒に暮らし始めたと考えて良さそうだ。
一方、松田甚次郎が盛岡高等農林在学中に下根子桜に賢治をを訪ねたのは昭和2年3月8日の一回しかないことが確認出来ている。かつ、先に触れたように千葉恭は「松田甚次郎も大きな声でどやされたものであつた」と証言しているから、これが事実であるとするならば彼は下根子桜で〝どやされて〟いる松田甚次郎を直に見ていることになる。
よって、松田甚次郎が賢治の許を訪れた3月8日頃に千葉恭は下根子桜の別宅に寄寓していたという蓋然性が極めて高いことが導かれるから、彼はこの頃(昭和2年3月8日前後)もまだ賢治と一緒に暮らしていたということが十分に考えられる。
すると、前掲の(イ)の「約半年生活をともにした」の約半年間は、実は6月末から明けて翌年の3月までの8ヶ月間余はあると見ても良さそうである。なおこのことは7月25日に千葉恭が賢治の代わりに白鳥省吾に断りに行ったこととももちろん矛盾しない。
そこで今まで述べてきた事柄から、「下根子桜寄寓期間」について次のような、
〈仮説〉千葉恭が賢治と一緒に暮らし始めたのは大正15年6月22日頃からであり、その後少なくとも昭和2年3月8日までの8ヶ月間余を2人は下根子桜の宮澤家別宅で一緒に暮らしていた。……☆
が定立出来ることに気づく。しかし、ここに大きいな悩みが一つある。それは「下根子桜寄寓期間」の長さの違いである。
千葉恭自身は『イーハトーヴォ復刊5号』(宮澤賢治の会)において、「私が煮炊きをし約半年生活をともにした。一番困ったのは、毎日々々その日食うだけの米を町に買いにやらされたことだった」と言っているわけで、この証言に従えば、
千葉恭が賢治と一緒に暮らした期間は約半年………①
であることになる。一方、私としては今までの調査結果から前掲の仮説〝☆〟を立てていて、
千葉恭が賢治と一緒に暮らした期間はは少なくとも8ヶ月間余………②
と見積もっている。一方は〝約半年〟で他方は〝少なくとも8ヶ月間余〟という期間の長さの違いをどう考えればいいのかと当然私は悩む。
そこで思い出したのが以前紹介した「宮澤先生を追つて(三)」における証言、
先生が大櫻にをられた頃に私は二、三日泊まっては家に歸り、また家を手傅ってはまた出かけるという風に、頻りとこの羅須地人協會を訪ねたものです。<『四次元7号』(宮澤賢治友の会)>
である。つまり、千葉恭が下根子桜の別宅に寄寓していた期間の寄寓の仕方は、長期間連続して寝食を共にしていたわけではなく、下根子桜の別宅に二、三日泊まっては千葉恭の実家に戻って家の仕事を手伝い、また泊まりに来るという繰り返しであったということになる。とすれば、千葉恭が〝約半年〟と言っている意味は延べ寄寓日数が約180日ほど(=約半年)という意味でのそれであり、一方の〝少なくとも8ヶ月間余〟とは寄寓開始から寄寓解消までの時間的な隔たりが〝少なくとも8ヶ月間余〟あるという意味の寄寓期間だから、これらの二つの一見異なる寄寓期間は矛盾をせず、こう解釈すれば整合性がとれることになる。あわせて、これは一つの解釈の仕方であるがこの千葉恭の証言によればそれはそれほど真実から遠い訳でもなさそうだ。
このように下根子桜の寄寓期間は二通りの解釈が可能だから、このような解釈の仕方をすれば①と②の間には何ら矛盾も生じない。よって私は、この仮説〝☆〟はこの期間の長さの違いにも耐え得るものなので、棄却しなくとも良いと判断した。また、このことは千葉恭の長男の奥様の証言、
お義父さんは羅須地人協会に7~8ヶ月くらい居たんでしょう。
が傍証してくれる。
というわけで、千葉恭の「下根子桜寄寓期間」についての次の仮説、
〈仮説〉千葉恭が賢治と一緒に暮らし始めたのは大正15年6月22日頃からであり、その後少なくとも昭和2年3月8日までの8ヶ月間余を2人は下根子桜の宮澤家別宅で一緒に暮らしていた。……☆
は、現時点では反例がないので、検証出来たと私は判断している。つまり、千葉恭が賢治と一緒に暮らした期間がこれでほぼ確定出来た。
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《新刊案内》この度、拙著『このままでいいのですか 『校本宮澤賢治全集』の杜撰』
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を出版した。その最大の切っ掛けは、今から約半世紀以上も前に私の恩師でもあり、賢治の甥(妹シゲの長男)である岩田純蔵教授が目の前で、
賢治はあまりにも聖人・君子化され過ぎてしまって、実は私はいろいろなことを知っているのだが、そのようなことはおいそれとは喋れなくなってしまった。
と嘆いたことである。そして、私は定年後ここまでの16年間ほどそのことに関して追究してきた結果、それに対する私なりの答が出た。延いては、
小学校の国語教科書で、嘘かも知れない賢治終焉前日の面談をあたかも事実であるかの如くに教えている現実が今でもあるが、純真な子どもたちを騙している虞れのあるこのようなことをこのまま続けていていいのですか。もう止めていただきたい。
という課題があることを知ったので、 『校本宮澤賢治全集』には幾つかの杜撰な点があるから、とりわけ未来の子どもたちのために検証をし直し、どうかそれらの解消をしていただきたい。
と世に訴えたいという想いがふつふつと沸き起こってきたことが、今回の拙著出版の最大の理由である。しかしながら、数多おられる才気煥発・博覧強記の宮澤賢治研究者の方々の論考等を何度も目にしてきているので、非才な私にはなおさらにその追究は無謀なことだから諦めようかなという考えが何度か過った。……のだが、方法論としては次のようなことを心掛ければ非才な私でもなんとかなりそうだと直感した。
まず、周知のようにデカルトは『方法序説』の中で、
きわめてゆっくりと歩む人でも、つねにまっすぐな道をたどるなら、走りながらも道をそれてしまう人よりも、はるかに前進することができる。
と述べていることを私は思い出した。同時に、石井洋二郎氏が、 あらゆることを疑い、あらゆる情報の真偽を自分の目で確認してみること、必ず一次情報に立ち返って自分の頭と足で検証してみること
という、研究における方法論を教えてくれていることもである。すると、この基本を心掛けて取り組めばなんとかなるだろうという根拠のない自信が生まれ、歩き出すことにした。
そして歩いていると、ある著名な賢治研究者が私(鈴木守)の研究に関して、私の性格がおかしい(偏屈という意味?)から、その研究結果を受け容れがたいと言っているということを知った。まあ、人間的に至らない点が多々あるはずの私だからおかしいかも知れないが、研究内容やその結果と私の性格とは関係がないはずである。おかしいと仰るのであれば、そもそも、私の研究は基本的には「仮説検証型」研究ですから、たったこれだけで十分です。私の検証結果に対してこのような反例があると、たった一つの反例を突きつけていただけば、私は素直に引き下がります。間違っていましたと。
そうして粘り強く歩き続けていたならば、私にも自分なりの賢治研究が出来た。しかも、それらは従前の定説や通説に鑑みれば、荒唐無稽だと嗤われそうなものが多かったのだが、そのような私の研究結果について、入沢康夫氏や大内秀明氏そして森義真氏からの支持もあるので、私はその研究結果に対して自信を増している。ちなみに、私が検証出来た仮説に対して、現時点で反例を突きつけて下さった方はまだ誰一人いない。
そこで、私が今までに辿り着けた事柄を述べたのが、この拙著『このままでいいのですか 『校本宮澤賢治全集』の杜撰』(鈴木 守著、録繙堂出版、1,000円(税込み))であり、その目次は下掲のとおりである。
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