宮澤賢治の里より

下根子桜時代の真実の宮澤賢治を知りたくて、賢治の周辺を彷徨う。

167 松田甚次郎と吉田コト

2009年07月24日 | Weblog
   <『月夜の蓄音機』(吉田コト著、荒蝦夷発行)より>

1『月夜の蓄音機』
 松田甚次郎の『土に叫ぶ』出版に関わるエピソードは『月夜の蓄音機』(吉田コト著、荒蝦夷)に詳らかに書かれている。
 それによると、『土に叫ぶ』出版の切っ掛けは次のようであったようだ。
 昭和13年の春に羽田書店主から鵜飼村における10年間の生活実践記録を書いて欲しいと頼まれて引き受けた甚次郎ではあったが、その原稿を書いていた頃の彼は体調を崩しており、そのような状態の甚次郎を見かねて助けてくれたのが吉田コトと佐藤しまという二人の女性なのだそうだ。
 その吉田コトは、甚次郎との出会いについて次のように語っている。
 私は前にもまして「人はなぜ生きるか」なんてことを考えるようになっていた。人生とは何か。いかに生きるべきか。道を知りたかった。もし、教えてくれる人がいたなら青森でも九州でもどこにでも会いに行く。そう考えていたの。講演会なんかにもずいぶん足を運んだ。
       (中略)
 そんなとき、松田甚次郎さんが『家の光』って雑誌に篤農家として紹介されたのを見たのよ。「松田甚次郎は宮澤賢治の「小作人たれ、農村演劇をやれ」という教えを守り、地主の息子でありながら、父親から田畑を借りて小作人として生活していて、村の青年を率いて「最上共働村塾」を開いている」とか、書いてあった。私は、この人ならきっと力になってくれる、と思ったの。
 早速、私は甚次郎さんに手紙を書いたの。封筒の表書きには「お願い状」ってしたためて。それが甚次郎さんと出合うきっかけだ。さっそく、新庄市にあった最上共働村塾を訪ねて、私と兄と、私の親友の佐藤しまちゃんと三人で甚次郎さんと子弟の誓いを交わしたの。昭和一二(一九三七)年の秋のことだ。まだ雪が降る前だったな。

   <『月夜の蓄音機』(吉田コト著、荒蝦夷発行)より>
 昭和12年の秋といえば、甚次郎の実家の都合などにより最上共働村塾を閉鎖する前後のことだ。この辺りのいきさつについては少なくとも甚次郎の『土に叫ぶ』には詳しく書かれていなかったので、たまたま手にとって読んだ『月夜の蓄音機』でこのことを知って、コトも甚次郎も全く純粋で一途な人間同志だったのでさぞかし共鳴したのだろうと思えた。
 その当時吉田コトと佐藤しまは学生だったが、甚次郎との出会い後は勉強そっちのけでなにくれと最上共働村塾の手伝いをするようになったと吉田コト自身が言っている。
 例えば、『土に叫ぶ』の執筆に関しては次のようにコトは語っている。
 ちょうど衆議院で小作の権利を認める農地調整法案が議論されていて、山形でも関心を集めていたころだ。甚次郎さんは代議士の羽田武嗣郎さんと親しかったのね。新聞で農地調整法案の記事を読んでは「羽田さんのところに行ってくる」なんて東京に飛んでいった。
 ある日、東京から帰ってきた甚次郎さんが「羽田さんから宿題押しつけられたー」て言うのよ。羽田さんは羽田書店という出版社も経営していた。「最上共働村塾を始めてからの一〇年の歩みを書いて欲しい」って頼まれたんだって。ところが甚次郎さんってば「俺は百姓ばかりしてたから漢字も文法も忘れた、しまちゃんとコトちゃん、手伝ってけねがー」なんて言うのよ。本を書く手伝いなんて、うれしいじゃないの。二つ返事で引き受けたわよ。
 甚次郎さんはそのころ、小白川にある眼下にある眼科に通っていた。ひどい目の病気で、片方の視力が随分と弱くなっていたの。眼科のそばにしまちゃんの家の貸し家がいっぱいあったの。甚次郎さんの原稿を書くために、その一軒を借りたわけ。私としまちゃんは学校から帰ると、原稿を書くお手伝いに通ったのよ。なあに、手伝いたって私は鉛筆削り係だ。しまちゃんは一人娘でしょう。女中さんが夕飯だのなんだの届けてくれるんだ。それもちゃんと三人前。食事つきなわけよ。自分の家より、よっぽどおいしいものが食べられるし、原稿を書く手伝いはできるし、大よろこびで通ったっけの。こうして『土に叫ぶ』の執筆が始まったの。

  <『月夜の蓄音機』(吉田コト著、荒蝦夷)より>

2 タイトル『土に叫ぶ』
 このようにして書き始められた彼の10年間の実践を綴った『土に叫ぶ』の目次はつぎのようなものであった。
 一 恩師宮澤賢治先生
 二 郷土・鳥越
 三 村芝居
 四 隣保館
 五 婦人愛護運動
 六 精神鍛錬の実修
 七 我家と私
 八 私の農業経営主義実績
 九 最上共働村塾
一〇 日本協働奉仕団の結成
一一 農村啓蒙行脚
一二 来訪者を語る
一三 良き父と良き友を語る
一四 農村最近の動向と時局


 ところで、この甚次郎の本のタイトルはなぜ『土に叫ぶ』なのだろうか。私が一読した限りにおいてはその理由が掴めないでいた。この本の中に題名が『土に叫ぶ』となったであろうことを直接的に窺わせる部分はせいぜい、序の中の次のような部分
 私は十九歳の春から今日まで、土に親しみ、土に愛されながら、一つの目標に向かって強い声なき叫びを続けて、正直に一生懸命働いて来た。そして多くの理解ある援助者のお蔭で、一人でも多くの人に涙を流し、血を注ぐことが出来た。或は失敗したと笑われたり、一蹴されたりして来たが、私の土の中からの叫び、信念はいつも彌増して今日に至って居る。
における”私は土の中からの叫び”しか見つけられなかったからだ。
 ところが、実はこの本の題名決定の際のエピソードも『月夜の蓄音機』(吉田コト著、荒蝦夷)には書かれていて
 題名の『土に叫ぶ』も三人で考えたんですよ。『土に叫ぶ』と『土に生きる』と、なんだったかもう一つ候補が残ったんだ。んで、結局三人で「『土に叫ぶ』がいいんでねーが!」「いい、いい!」ってなったんです。
ということだったらしい。つまり、この本の題名は執筆に関わった甚次郎と佐藤しまと吉田コトの三人が話しをしていて決まったようで、私などが『土に叫ぶ』というタイトル決定の理由を深く考える必要はなかったようだ。

3 ベストセラー『土に叫ぶ』
 さてこのようないきさつを経てタイトルの決まった甚次郎の10年間の生活の実践記録、『土に叫ぶ』は昭和13年5月に発売されるやいなや全国の農業青年を中心に熱狂的に受け入れられてたちまちベストセラーになったという。
 そして、『「宮澤賢治精神」の実践』(安藤玉治著、農文協)によれば
 『土に叫ぶ』の評判は高く、出版から三ヶ月もたたないうちに新国劇でとりあげるところとなり、八月三日から東京有楽座で華々しく上演された。島田省吾、辰巳柳太郎を主役に一カ月のロングラン、連日満員御礼を続けた。時の農相有馬頼寧や他の閣僚の観劇も話題を呼んだ。
という。そして、この公演はさらに『土に叫ぶ』の評価を一層高める役目を果たしたこと等により、驚異的なベストセラーになったのだそうだ。

 ところが、驚異的なベストセラーになってはみたものの甚次郎はそんなに儲からなかったと、吉田コトは『月夜の蓄音機』で次のようなこと言っている。
 甚次郎は羽田書店に、初めて書くのだからそんなに売れないだろから羽田書店が損しなければいいというようなことを言ったらしく、印税は殆ど貰わなかったようだ。ところがその本が売れに売れたものだから羽田書店は気が引けたらしく何かプレゼントしたいと申し出た。そこで甚次郎、コト、しまの3人が思いついたのが蓄音機だったという。そして、その際に贈られてきた蓄音機とレコードを携えてある月夜の晩に山形市のとある川原に行って3人でじっくりレコードを聴いたのだそうだ。なお、その他には甚次郎は羽田書店からは何も貰っていないらしい、と。
 したがって吉田コトのこの本のタイトルの方は、この蓄音機によるレコード鑑賞のことがあって決まったことは明らかであろう。
 ところで、もし甚次郎は殆ど儲からなかったということだったのであれば(因みに、甚次郎は「ありゃー、もう少し金、もらえばいかった」なんて言ったとコトは語っているそうだから)、この際松田甚次郎を世間から再発見・再評価して貰うために、羽田孜元首相(羽田書店主の羽田武嗣郎は羽田孜の父なのだそうだ)が中心となってそのための資金を拠出しては如何だろうかなどと私は勝手に思ってしまう。
 
 それはさておき、甚次郎は賢治の”訓え”どおりに実践し、その生活記録『土に叫ぶ』を出版できたので、賢治の墓前にその報告をするためにコトとしまを帯同して、昭和13年11月に花巻の宮澤家を訪れているという。
 ただしそのときは実際には賢治の墓には行かずに下根子桜の賢治詩碑の方に行き、その前で3人で「雨ニモマケズ」を大声で詠んだという。また、賢治の生家である「宮沢商会」にも行き、そこで政次郎から『国譯妙法蓮華経』の「順六拾九号」を貰ったというし、その晩はそこに泊めてもらったという。
【Fig.1 当時の「宮沢商会」】

    <『月夜の蓄音機』(吉田コト著、荒蝦夷)より>

4『宮澤賢治名作選』出版の経緯
 その折り
 政次郎さんと話していると「賢治が書いたもの、いっぱいあるけど、誰も認めてくれなくてよ」ってさびしそうに言うのよ。「どのくらいあるのか」って甚次郎さんが尋ねたら「行李いっぱいあんだ」って。「そんなにあるなら、賢治先生の本、作るべ」って甚次郎さんが言ったら、政次郎さん「ありがてえ」ってほんとうに涙ぐんでよろこんだ。
    <『月夜の蓄音機』(吉田コト著、荒蝦夷)より>
ということで『賢治名作選』出版の運びになったのだそうだ。
 ただし、この当時の甚次郎は講演に出掛けたりしなければならないで多忙だったので甚次郎はなかなか花巻に行けなかったから、甚次郎から助けてくれないかと頼まれた吉田コトの方が代わって花巻に足繁く通うことになったという。
 その際に吉田コトが花巻で行ったことに関しては
 賢治の原稿が入った行李を初めて開いたときは、私しかいなかった。あと、清六さん。二人で見たの。政次郎さんもいたけれど、口を挟むだけで原稿は読まなかったな。正確にはもう思い出せないけど、行李に三つくらいあったんじゃないかな。行李のフタ、こう並べて、一つずつ原稿を見ていった。清六さんが先ず読んで「いいなー」とか「こりゃダメだな」って言って私に渡す。私もわからないながらも「あ、これはいい」とか「こっちはダメ」って(笑)。そして、行李のフタに「いい」原稿と「よくわからない」原稿と「ダメ」な原稿と、三つに分けました。
         (中略)
 いいものだけ「もう一回見てみんべー」って見直しました。またそこで抜くものは抜いて、ひとつの行李にいいものをまとめて「いいべがねー、これで」ってことになったんです。

    <『月夜の蓄音機』(吉田コト著、荒蝦夷)より>
と同著は書いている。
 こうして清六とコトが選び出した”いい”作品群から作られたのが、昭和14年3月7日発行の「松田甚次郎編集『宮澤賢治名作選』」である。

 それにしてもどうして『宮澤賢治名作選』の前に”松田甚次郎編集”が付いているのだろうか。
 吉田コト氏の証言を基にすれば
 さて、原稿は選んだものの「誰の名前で本を出すか」ってことになった。賢治はまだ無名だったわけよ。政次郎さんと清六さんは「賢治の名前で出しても一冊も売れないんでねか」なんて心配してた。そこで、甚次郎さんの名前で出すことになった。甚次郎さんは今でいえばベストセラー作家でしょう。だから、賢治の名前で売るのではなくて、ベストセラー作家の甚次郎さんが尊敬する人の本だってことで売ろうとしたのね。羽田書店から本が出たのは昭和一四(一九三九)年三月だった。この『宮澤賢治名作選』も売れに売れた。
   <『月夜の蓄音機』(吉田コト著、荒蝦夷)より>
ということなのだそうだ。
 賢治の作品を選ぶためにわざわざ花巻に訪れていた吉田コトと宮澤清六が選んだ賢治の作品集を、『土に叫ぶ』の出版社である羽田書店から出すことになったこと、及び清六、政次郎そしてコトの3人が思いついた松田甚次郎の名前を使おうというアイディアは自然の成り行きだったのだろう。そこでコトが新庄鳥越にいる甚次郎に、名前を使いたいと花巻から電話でお願いしたならば、甚次郎は「あー、いいよ」と快諾したということも『月夜の蓄音機』の中でコトは言っている。
 それは、前回”宮澤賢治と私(『宮澤賢治研究』)”で触れたように、甚次郎は
 今にして拙著による多くの読者が宮澤先生の全集の発行がどこであるとか、単行本がないかとか、何かしら研究がないか等といふて来るけれども、直に返答が出来なくて残念であつたが、・・・。
と、『土に叫ぶ』の読者から宮澤賢治のことについてこのようにしばしば尋ねられて残念に思っていたと『宮澤賢治研究』(昭和14年9月発行)で述懐しているわけだから、コトからのこの願いにはおそらく甚次郎は二つ返事で引き受けただろうことが想像できる。
 なお、『賢治名作選』の発行は昭和14年3月7日だから、『宮澤賢治研究』へ甚次郎が「宮澤先生と私」を寄稿した頃は少なくとも『賢治名作選』の出版計画はかなり進んでいたはずである。にもかかわらず、「宮澤賢治先生と私」の中に”直に返答が出来なくて残念であつたが”という断り書きはしていても、賢治の名作選の出版が進捗しているなどということは一切触れていない。このことは甚次郎の人となりを如実に表すもので、奥床しくて律儀な甚次郎に私はなおさら好感を持ってしまう。

 続きの
 ”『宮澤賢治名作選』出来”へ移る。
 前の
 ”小作人と農村劇”に戻る。
 ”宮澤賢治の里より”のトップへ戻る。
目次(続き)”へ移動する。


最新の画像もっと見る

4 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
ご訪問いただき有り難うございます (伸子様)
2014-05-30 07:40:40
伸子 様
 この度はご訪問いただき大変有り難うございます。それも、松田甚次郎さんに直接縁のあられるお方からのご訪問ということでなおさらにです。
 さて、賢治の名が全国的に知られ、その作品が多くの人に読まれるようになったことの最初で最大の功労者は松田甚次郎に他なりません。例えば吉本隆明、西田良子、大岡信は皆、松田甚次郎編『宮澤賢治名作選』を読んだことが切っ掛けで賢治研究者になったはずです。
 ところが、戦後になると多くの賢治関係者は松田甚次郎のことを意識的に語らなくなり、功績を無視するようになったと私は認識しております。
 もちろん、松田甚次郎は「賢治精神」を徹底して実践したの人物です。一方、最近私はますますそう思うようになってきているのですが、調べれば調べるほど肝心の本人はそれを殆ど実践しておりませんし、長続きもしておりません。
 たしかに、高邁な理想を掲げるのもそれは素晴らしいことだとは思いますが、それが画餅で終わるよりは、それを実践することの方が遙かに価値と意味があることなのだと私は常々思っております。そして、松田甚次郎の生き様はまさしくそうだったのではないでしょか。
 実は、松田甚次郎のことを知りたくて新庄には三度ほど訪ねたことがありますが、地元もそうですが、ここ花巻でも松田甚次郎のことを今再び評価し直してほしいものだと願っております。実際昭和10年代にはそうだったわけですし、松田甚次郎から受けた恩を人々は忘れてはならないからです。
                                               鈴木 守

 
返信する
おお (伸子)
2014-05-29 23:35:54
盛岡在住です。母方の伯母が松田甚次郎の従兄弟の家に嫁いでいます。
父方の大叔父の妻が松田甚次郎の妻の姪。血は繋がっていないのですが、ジンジロウサンの話は子供の頃から聞いています。盛岡で生まれ育ったので宮沢賢治についてもそれなりに知っているのですが、ジンジロウサンについて盛岡で知る人が少なく寂しく思っておりました。
松田甚次郎についてこのように紹介してくださるのは本当に嬉しいです。
返信する
初めまして (suzukikeimori)
2011-04-21 07:05:55
初めまして
 ご訪問いただき有り難うございます。松田甚次郎のご親戚の方から直接コメントをいただき感激しております。

 私は松田甚次郎は宮澤賢治の名を全国的に知らしめた最初の人だと思っております。また、〝賢治精神の実践〟を(賢治自身は2年半もせずにそれが挫折したのですが)34歳で亡くなるまでの16年間実践し続けた人物だと思っております。

 実はこの春も2年ぶりに新庄を訪ね、松田甚次郎の大正15年と昭和2年の日誌を見せてもらいました。お陰様で幾つかのことが確認できました。
 このことにつきましては拙ブログ
  〝みちのくの山野草〟
   
http://blog.goo.ne.jp/suzukishuhoku/c/31064688faa492bf4f2c46faaf6aa334/1
の中の
 2026 T15/12/25甚次郎は賢治を訪ねず

 2027 S2/3/8の賢治宅訪問
において投稿してみました。

 これからも、(賢治はそれが出来なかったと思うのですが)ひたむきに農民と共に生き、仲間と共に賢治精神を実践した松田甚次郎をもっと知りたいと思っていますので、よろしくお願いします。
返信する
思い出 (石垣恵二)
2011-04-20 14:06:14
松田甚次郎は私の叔父になります。
まだ小学生の頃のことなので、おぼろげながら点々と
思い出されます。
亡き後、睦子叔母と一人子牧子とも思い出が多くあります。兄(故人)も塾で教えを受けました。
古い思い出ですね。
返信する

コメントを投稿