宮澤賢治の里より

下根子桜時代の真実の宮澤賢治を知りたくて、賢治の周辺を彷徨う。

133 賢治と東和町(鏑八幡など)

2009年04月04日 | Weblog
 これから『鏑八幡』に向かうのだが、途中に及川古志郎の生家が建っていると云うことを聞いたので寄ってみることにした。

《1 この写真の中央に屋根の一部が見える家が生家》(平成21年4月2日撮影)

ところが
《2 屋根は見えるが》(平成21年4月2日撮影)

屋敷への道が判らない。
《3 家の正面(東面)》(平成21年4月2日撮影)

が見えるところに廻っても
《4 家の南面》(平成21年4月2日撮影)

に廻ってみても庭に入ることが出来ない。
 なんとか藪を掻き分けて
《5 庭先?》(平成21年4月2日撮影)

らしきところまで辿り着いたならば
《6 玄関》(平成21年4月2日撮影)

があり、開いていたので声をかけたみたが声はなし、誰もいなかった。家屋の中を少し垣間見ることが出来たので失礼ながら覗いてみたならば家は荒れ放題であった(無常を感じたのでその写真は割愛する)。

 返す返すも、及川古志郎が軍人とならずに漢籍の素養を生かしていたならば、啄木や賢治等と同じように後生に名を残したかも知れぬのにと悔やまれる。古志郎の人生の毀誉褒貶はいかばかりだったであろうか。

 さて、それではいよいよ『鏑八幡』について報告する。土沢の商店街のある通りに
《7 鏑八幡一の鳥居》(平成21年3月26日撮影)

が見つかるはずである。ここから参道を辿って行くと
《8 二の鳥居》(平成21年3月26日撮影)

《9 三の鳥居》(平成21年3月26日撮影)

がある。階段状の参道を上がっていけば
《10 拝殿》(平成21年3月26日撮影)

がある。
《11 額》(平成21年3月26日撮影)

《12 神楽殿》(平成21年3月26日撮影)

《13 土俵》(平成21年3月26日撮影)


 この神社の由来については『鏑八幡神社由緒』によれば
 永承、天喜、康平一〇五二~一〇六三の昔、陸奥鎮守府将軍源頼義公義家公御父子が、安倍頼時(初め頼良)、子貞任宗任等御退治の勅命を受けて、奥州へ下り、しばし戦功をたてられた。その義家公、当地後在陣の折、朝敵退治御祈願の為、本宮地に清砂を敷き、上差の白羽の鏑矢を砂上に立て、八幡神の御璽とした。従臣もこれに従って各々鏑矢を捧げ奉った。その鏑矢の数が十二本。それに御太刀一腰、御願書一巻を奉納し、従臣共々祈願された。安倍氏平定後この地に社殿を建立された。これが鏑八幡宮である。(以下略)
と云うことである。以前、賢治と東和町(成島毘沙門天その1)で触れたように、成島の三熊野神社においても
 源義家が安倍貞任を追撃しここに立ち寄った時、熊野神社に鏑矢を収めて戦勝祈願をしたところ安倍氏を破り奥羽を平定する事ができたと。
と云うことであったが、同じような言い伝えがここの『鏑八幡』にもあった。ということは、義家はあちこちで鏑矢を納めて戦勝祈願をしたということなのだろうか。
 いずれ、ここの『鏑八幡』と成島の『三熊野神社』はその由緒も堂宇の構成もよく似ていると思った。なぜならば、花巻一帯の神社でその境内に土俵がある神社にはいままで全く出会ったことはなかったが、この二つの東和町内の神社にはどちらにも土俵があったからである。 

 なお、小倉豊文氏は『「雨ニモマケズ手帳」新考』(東京創元社)において
    ロマンツェロ
    あななつかしやなつかしや
    こは毘沙門のおん矢なれ
    わが身の乱をあはれみて
    おんかぶらやを賜ひしか

に関して
 この手帳の詩「毘沙門のおん矢」にも問題がある。毘沙門の持ち物については前述したのが普通で、弓矢を持ったものは私の管見にはない。
と述べているが、この「毘沙門のおん矢」とは、前述した三熊野神社の鏑矢やここの『鏑八幡』に捧げられたような鏑矢のことであって、毘沙門天の持ち物としての「おん矢」と云うことではないのではなかろうか。つまり、「毘沙門のおん矢」とは源義家が毘沙門山の三熊野神社に鏑矢を収めて戦勝祈願をしたと云うところの「毘沙門山に収めた鏑矢」のことではなかろうか。

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