拈華微笑 ネンゲ・ミショウ

我が琴線に触れる 森羅万象を
写・文で日記す。

  如来システム

2025年03月03日 | 東洋自分なり研究所

ささやかな古寺巡礼ながら・・・実際に他の人々と神社仏閣を巡ぐることで、幾つか気付かされた事があった。

そしてそれは、私の今回の巡礼の旅での最も重大な収穫であったのではないか。

歴史的に残った仏閣の奥には、如来像や菩薩像、不動明王像などが時空を超越した趣で鎮座し、それを有象無象の人々が訪ねてくる・・・そういった風景を実際に自分の眼で観たとき、その風景というのは千年、二千年とずーっと続けられてきたのだ、と思った時、私は、女王蜂とそれを守るミツバチの社会形態を想定した。

前回のブログで『古寺巡礼』と『己事巡礼』で、『古寺と己事』とが『重ね合せ、もつれ』状態になっていることを指摘したが、現実問題として誰もが如来になれるわけではなく、菩薩であったり、たとえ覚醒せずとも何だかの形で仏を支援する大衆がいたからこそ今日まで神社仏閣が大切に守られ『道の文化の礎』として日本文化を支えてきた事に思いが到った。

その時に、これまで如来とか菩薩とか明王とかの仏の位みたいなものがどうしてあるのか長い間、不可解に思っていた疑問が解凍した気がした。

本当の答えというのは私は知らないが、馬骨なりの解答としては、如来というのは四弘誓願で言うところの『仏道無上誓願成』の事で、どこまで行っても到達不可能なレベルを表し、如来には絶対に誰もなれない位・・・なのだと解った。

如来への道は、自ずから誰にでも開かれているが、自らの意思が伴わなければ道は全うできない・・・そういった厳しい自由もまた人間にとって現実なのだ。

そういった一方で、ウクライナの大統領ゼレンスキーとトランプ大統領の話し合いが決裂したり、神戸は三宮に行った時、何故かあのNHK党の立花孝志を目撃した日々