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ポジティブな私 ポジ人

似て非なるもの

土曜日、開いたベランダの窓からシャーシャーと道路を通過する車の音が聞こえた。雨が降ったんだなと思った。布団に転がったまま、居間でテレビを見ている夫に「雨降ってるの?」と聞いたら「降ってるよ」と返ってきた。
ジョギングは今日はお休みだ。

この日はウォーキングにも出ずに、一日家で過ごした。
在庫のお菓子も食べ尽くしてしまって、カップケーキを作った。


漫画アオハライドの3巻目も楽しく読み終えた。
でも、でも…何だか外に出ない一日はものすごくつまらなかった。毎日の散歩を期待しているワンちゃと同じだと思った。たった一日外に出ないだけで、籠の鳥の気分。

翌日の日曜日、朝寝坊した。
NHKのガイロクを見終えてからジョギングへ出た。曇りだったけど、気温も低く走りやすかった。ああ、やっぱり外はいい。

走り終えて河川敷から上の歩道へ戻る時、ダンゴムシを見た。
見かけるたびに思う、ワラジムシとほぼ同じ形。でも、似て非なるもの。
ダンゴムシはかわいいなとさえ思うのに、私はワラジムシが大嫌いだ。
ダンゴムシは、黒っぽく光沢のある体表だが、ワラジムシはやや透き通るようなくすんだピンク色というか、あの色がもうダメ。色合いが微妙なやつをダンゴムシだと思って、草でツンとつついて丸くならなかったら、途端に「ひゃー」と悲鳴を上げてしまうほどだ。

歩道へあがり、しばらく行くとグレーのズボンに白いシャツ、背中にリュックを背負い何やらイヤホンをつけた華奢な男性が、千歳空港行きのバス停に立っていた。高校生かな?と思って近づいたら、手元にタブレットをもって、モバイルワーク中の社会人のようだった。
似て非なるもの。遠目には高校生にしか見えなかった。

ジョギング中、背後からきたジョガーに抜かれることが多い。
私もあんな風に力強く走りたいなあ。抜かれるたび、私の中にかすかに残るレース魂がピクリと反応する。

今の私は、私であって私でない。
似て非なるもの。
変わらない魂と、どんどん変化していく肉体。魂と肉体がちょうどよいバランスだったのは、せいぜい40代くらいまで。年々魂と肉体は乖離していく。

学生の時には保健体育の授業で、「成長する過程で肉体はこのように変化していく」と習った。人体が大人として完成したあとは、ほぼ変わらない数十年がすぎるけれど、40代、50代ではそれまでとは全く異なる体の変化が訪れだす。最初は驚き、受け入れがたく戸惑う。これまでと違う自分と付き合っていかなければならないことに、私はかなり抵抗を感じた。言ってしまえばしょうが無いことなのだけれど。

それまでは、老人は耳が遠く目が老眼となり、足腰が痛むものだと大まかに知識としては知っていたけど、自分が老境に入り、ジワジワと肉体の変化を感じ始めると、自分も老人になっていくことに大きな驚きを感じてしまう。当たり前の事なのに。

50代になって徐々に目が見えづらくなっていた頃、小さな文字を見るために目から遠ざけたりすると、周囲の若い人は少し笑った。それは「もうそんなお年でしたっけ?」とか「まさか老眼?」といった意外さに思わず笑ってしまった、という感じに私は受け取った。外見的には若く装うことはできても、刻々と老いは忍び寄ってくるのだ。

目と同時に汗の質も変わったことに驚きを覚えた。サラサラの汗だったのが、ベタベタに変化した。
そんな風に、ささやかではあるけれど、以前の自分から少しずつ変化していくことが悲しかった。

老いを実感し始めているみんなはどう感じているのだろう。
老いることを語ることは、何か自分の弱さを披露するようで、あまり語り合う機会が無いような気がする。

保健体育の教科書のように、個人差はあるがこんな老いの症状が出ますよと年代別に書いた簡単なパンフレットでもあれば心の準備も出来そうだが…。

時折私の魂は、この老いつつある肉体を、早く脱ぎ捨ててしまいたいと思ったりする。ダメダメ、まだ時期尚早。やることも、まだまだいっぱいあるのだった。

每日いっぱい時間はあるのに、片付けたいことが片付かない。
老いとか何とか考えてる暇は無いのに。そんなことばかりぼんやり考えていて、時間が無くなるのかもなあ。



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