きっと父も少年の頃に持っていたに違いない。
木の切れ端を肥後守で削って、ゼロ戦や戦艦大和を作っていたのじゃないだろうか。山道を歩くとき、邪魔な小枝や笹などを、肥後守で切り払って進んだんじゃないだろうか。時には誤って指を切って痛い思いをしたのじゃないだろうか。
昭和の少年たちの夢とロマンの肥後守を手に入れて妄想する私。
「肥後守」とは、和式の折りたたみナイフ。名前がかっこいい。形も。
気になる名前の由来。
肥後守を制作している「永尾かね駒製作所」のホームページによると、明治27年頃に金物問屋「重松太三郎氏」が鹿児島から持ち帰ったナイフを元に考案したのが始まりらしい。取引先の多くが九州南部(熊本)だったことから、「肥後守ナイフ」と名付けて販売したところ、好評で売上が伸びたそうで、そのままの名前が現在まで続いているようだ。
肥後と名前がついているので勘違いしそうになるが、作られているのは兵庫県三木市だ。
1960年(昭和35年)浅沼稲次郎氏が演説中壇上で17歳の少年に刺殺されるという事件が起こった。それがきっかけで青少年から刃物を遠ざけようと「刃物追放運動」が起こり、肥後守も徐々に世間から姿を消すことになったようだ。
時代が変わり、SNSなどでコレクターたちの間で肥後守が話題にのぼり、また子供達にナイフの使い方を伝えようという社会的気運も高まり、肥後守に再び注目が集まったらしい。
♪あんたがたどこさ ひごさ ひごどこさ くまもとさ…。
小さい頃、ゴムマリをつきながら意味もわからず歌っていた、あの肥後だったかと思った。関係ないけど。
色鉛筆で絵を描くようになってから、肌色…もとい、今は薄橙(うすだいだい)と呼ばなくてはいけなかった…や黒色はよく使用する色なので、直ぐに芯が減る。鉛筆削りに固定して、ハンドルをぐるぐる回して削ると、時折削っても削っても芯が柔らかいため折れて、用をなさない時がある。そんな事があってから、カッターのオルファで削っていたのだけれど、使い勝手が悪い。そこでふと肥後守が頭に思い浮かんだのだった。それを使って削れたらと。
早速ネットのフリマで見てみると、もの凄く古い肥後守が売っていた。値段は手頃だった。どうしようかなと数日迷っているうち、売れてしまった。
再度ネットフリマで探すも、気に入った物は1,000円前後の物しか無かった。そこでわかったのだが、現在も肥後守は店舗で売っているという事実だった。
それでネットの通販で新品を買うことにした。マニアではないので、こだわり無く最安値を探した。本体520円。送料を含めても770円。早速ポチリと購入した。
そういえぱ、小学生の時小さなナイフは筆箱の中に入っていた。鉛筆削り用の折りたたみの長方形のナイフ。刃はカミソリのような薄い刃だった。
それを使って鉛筆を削るのは、子供にとっては至難の業だった。
父はとても器用な人だったから、鉛筆をいつもきれいに削ってくれた。そんな父に使い方をレクチャーされたが、子供の私が削った鉛筆は、どれもひどく不格好になった。
鉛筆削り器を手に入れてからは、ナイフは紙を切るときにしか使わなくなった。
当時はそれをただの“ナイフ”と呼んでいたけれど、正しい呼び名を調べたら、「ボンナイフ」あるいは「ミッキーナイフ」と呼ばれているらしい。このナイフも現在でも販売しているらしい。
さて、届いた肥後守の刃を折りたたみの鞘から起こしてみた。
鋭く光る肥後守の刃(やいば)。ああ、恐ろしい。昭和の少年たちは、こんな鋭利な恐ろしいものを使っていたのか。すごい。
刃物は毎日のようにお台所で包丁を使っているけど、お初にお目にかかる肥後守様の神々しさに、畏れを感じる。ちゃんと使えるかなあ。怖い。これを自在に操り、様々なものをこしらえていた昭和の少年たちを尊敬する。
何か使うのがもったいない気分だ。でも、早速、薄橙の色鉛筆を削って見る。あー、いい感じだー。しっかり削れる。確かな手応え。少年の気分。楽しい。これからは、色鉛筆を肥後守で削るたびにうれしさを感じそうだ。
何だろう、このウキウキとしたうれしさは。前世で使っていたのだろうか。きっと愛用していたに違い無い。そんな気がしてきた。