「自分の隣の車のハッチバックが開いたままだが、荷物でもおろしている最中だろうか」と言う。
小雨が降っている夕方のことである。
「大きく跳ね上がったバックドアを、まさか閉め忘れることは無いよね」
ドアを閉めてあげるべきか、その事実を知らせに行くべきか迷っている様だった。
言うべきか、言わざるべきかそれが問題だ。ハムレット状態の夫。
私のこれまでの経験上、良かれと思ってしてあげた事は、クレームにつながることが多かった。
例えば今回のような場合、過去の私だったら「あっ、開いてる。閉めといてあげよう」と勝手に閉めたりすると、相手から、実は理由があって開けていた、と言われる事が往々にしてあったのだ。
夫の言う様に、荷物をおろしている最中かもしれないし、車の内部の空気の入れ替えか、まさか車上荒らしに合った後だとか…。考えられる事は色々あった。善意から閉めてしまって、もし車のキーが中に付いていたままだったら…それこそ一大事。それに、人様の車に勝手に触れるというのもはばかられる事だ。
夫はしばらくしてから、もう一度駐車場に確認しに行き、やはり開いたままなので、それを本人へ伝えに行くことにした。
持ち主の方は、マンション購入の説明会の時、私達のすぐ後に座っていたご夫婦で、私は理由もなくそのご夫婦に好感を持ったのだった。
しかし、特に親しいというわけでも無く、挨拶を交わす程度のマンション付き合いである。
ご主人は飄々とした風貌の方で、奥様は地味で真面目そうな感じがした。奥様の職業を予想するならその雰囲気から、公務員なのではないかと妄想している。真面目そうに見えるけれど、何か面白そうならところもあり、機会があったらお友達になってみたいなと密かに思いながら、機会を逸し30年近くも経ってしまった。
そんなご夫婦である。
夫が出かけたまま、なかなか戻らない。
思ったより時間が経過してから、夫が戻って来た。
夫の話を聞くと、インターホン越しに、ご主人に車のドアが開いたままであることを伝えた所、開口一番
「閉めてくれればいいのにー」と言ったというのである。
私は「えーっ?!」と思わず声が出た。親しくも無い、友人でもない人がそんな事を言うんだと思ってビックリしたのだ。
大人であるなら人に物事を頼むならせめて、「すみませんが、閉めておいていただけませんか」じゃ無いだろうか。
夫曰く、相手は晩酌でもしていたのか、少し酔っているようであったらしいが、それでもやはり不躾な態度ではある。
相手の言葉にカチンと来た夫は、少し気分を害し、人様の車に勝手に触るということも出来ないので、自分の目で車の状態を確認するように促したらしい。面倒くさそうに出てきた先方と共に、駐車場へ行って車のドアは閉められた。
一件落着はしたものの、思いがけない相手の反応に、私は心底ガッカリした。
夫によれば、雪掻きの際も彼の人は自分の車の雪を払い落とすと、雪も掻かずにそのままにして出かけてしまう人で、いつも夫がその雪を搔いていたというのだ。
そんな人だったのか。
私は彼に抱いていた好感が、いかに根拠の無いものであったか思い知った。砕かれた直感。
私は自分の直感の確かさを、これまで密かに誇ってきたのだが…。
今回の事で、人の感覚には大きな隔たりがあるものだという事を、つくづく再認識した。
ちょっと残念な出来事ではあったけれど、久しぶりに無口な夫と会話の弾んだ夜だった。