午前8時過ぎに家を出た時は、気温19度だった。いつも通り半袖短パンで走る。
豊平川の河川敷に今日は人が多かった。
走る距離の長さを感じない様に、走りながらいつも色んなことをぼんやり考えている。
8月15日に娘が出張で札幌にやって来た。翌日から3日間は有給を取りフリー、後半の3日間は仕事というスケジュールだった。
16日の金曜日は娘と翌日の午前3時まで語り合った。その後私は4時間ほど眠った後、いつも通り土曜のジョギングをした。
寝不足だったけれど、娘の帰省効果で私の体は軽かった。
ミュンヘン大橋から南へ向かい藻岩橋へ到達したら折り返して、いつもならミュンヘン大橋がゴールなのだが、そのまま通り越して、北側の南22条大橋まで走った。娘のオーラをもらった私は、その日だけ何年分も若返った様だった。
そんなことを考えながら今日は、いつも通りミュンヘン大橋でゴール。南22条大橋まではクーリングダウンで歩く。
歩きながら、今度はつまらない事が頭を支配した。
夫婦の家事の負担の不公平さ。元々昭和の夫婦像というものは、妻が夫に尽くして当たり前。夫は働いている事で全て免除されるみたいなところがあった。
でも、私は働きながら子育てして、家事も全負担の生活を長らく送ってきた。
夫は出張で家を空けていることが多かったし、久しぶりに家に帰ってきた時は、出張先で残業も多かったことから、家事をしないのも当然といった状態だった。
さて、今は無職の二人であるが、家事のバランスは相変わらずだ。ゴミ出しや、ご飯を炊いてくれたりは自発的にやってくれる様にはなったものの、その程度止まり。この先も変わらないだろうなと思う。
ギブ・アンド・テイク。この考え方が当たり前だと思ってはいけないのだ。相手に何かをしてあげただけ、相手も返してくれなきゃ、とこの言葉に固執してしまうと、イライラしてしまう。
一人暮らしをしていると思えば良いのだ。自分の食事を作る。自分の洋服を洗濯する。そのついでに、夫の分も作り、洗う。
してあげている、という考え方をやめる。相手に何も望まない。望まないでいれば、期せずして何かやってくれたら、うれしいことになる。
前にもそう考えたのだが、いつしかまた不満となって頭に浮かんでしまう。
その考えを断ち切るように、左手の手のひらに右手の手刀を打ち付けて、「望まない!」とちょっと大きく声に出してみた。もう一度小さな声で繰り返す。
「望まない」
そして、スッキリしたのだった。
河川敷のコース上の足元には、時折青虫やらイモムシがのんびり歩いている。
名前も知らない野辺の花、
美しい。
今日は天気がいいけど、雲が多い日だ。
今日は天気がいいけど、雲が多い日だ。
こんもりと藻岩山。
ひつじ雲。かわいいな。
顔を上げて、周囲を見渡す。広々とした豊平川の河川敷にいると、だんだん気分も清々しくなってくる。
つまらない事を考えたけれど、「相手に何も望まない」そうするだけで、気持ちが軽くなる。
ここにこうして立っているだけで、幸福だ。