我が家では歯磨き用のコップが家族の人数分ある。何故か気付いたら、そうなっていた。風邪や、最近ではコロナの感染の懸念もあるから、悪い事じゃないなと思っている。
だから、各自の歯ブラシは各々のコップの中に入っているのだ。
昨夜、歯を磨こうと、洗面台で自分用の歯磨きコップの中から歯ブラシを取ったのだが、さて歯磨き粉を付けようと歯ブラシを見ると、妙に違和感があった。
ブルーのビトゥイーン。
これは私の歯ブラシだったろうか?
一瞬、今朝までずっと毎日使っていた自分の歯ブラシが、どんな色だったか思い出せない自分に焦った。
夫のプラカップを見ると、グリーンのリーチ。恐らく私の歯ブラシの様に思える。
夫は大抵私より先に歯を磨き、私より先に寝床につく。その時に、夫が何か勘違いをしたのか、あるいは洗面台で落として、私の歯ブラシと入れ替わったのか、そんな事だろうと想像した。
夫のコップに私の歯ブラシがあるのを見ながら、取り戻すことはしなかった。自分以外の人が使った歯ブラシは、夫でもちょっと抵抗がある。
ふと、若い頃に観た映画「もう頬づえはつかない」(桃井かおり主演)のワンシーンを思い出した。
確か恋人役の奥田瑛二が、桃井かおりの家に泊まった翌朝、無神経に他人の歯ブラシを使用して、非難される場面があった。
そんな事を思い出しながら、夫が誤りに気づくだろうと思い、私の歯ブラシはそのままにした。何故入れ替わったのか、理由を知りたかった。
夫のビトゥイーンは、ブラシの先が反っていたこともあり、廃棄用の歯ブラシ入れに入れた。
私はホテルのアメニティの歯ブラシの封を切って、歯を磨いて寝た。
翌朝のこと、夫に歯ブラシがあべこべだと伝えると、予想もしない展開となった。
意外にも夫は、自分の歯ブラシはずっとグリーンのリーチで、私の歯ブラシはブルーのビトゥイーンだった、と言う。夫は自信満々に言い張った。
夫の強い主張に、私は再び自信が無くなってきた。自分の方が勘違いしているのだろうかという気にさえなって来た。
強く主張され、私は反論する気にもなれず、押し黙った。
でも、と思う。
先月だったか、歯ブラシの柄の汚れに気付いて洗った記憶がかすかにあった。
リーチには柄の中央あたりに縦長の穴が空いているが、ビトゥイーンには穴は無い。
リーチのその穴の汚れに気が付いて、洗った事が確かにあった。間違い無い、やっぱり私はリーチを使っていたと思う。
それに最初に感じた違和感、この感覚は、やはりいつもと違う事に対して感じるものだから、間違い無いと思う。
だとしたら、何故夫はあれほど強固に主張するのだろう…。
私はいわれのない怖さを覚えた。
私の違和感と微かな記憶。これだって確定的な事じゃない。自分の記憶も絶対と言えない。
絶対と言い張る夫も、あの自信がどこから来るのか逆に怖い。
どちらが真実なのか。それがハッキリしない事が、怖い。
ボケの症状は65歳以上で発症する率が高くなると言う。ボケてきたのじゃないか?自分も夫も。
職業を持たず、社会参加もしていない老人の毎日は単調だ。
最近洗面台に立つたびに、「あれ?さっき顔を洗ったんじゃなかったっけ?」なんて、毎度頭に浮かんでは、「いやいや、昨日の記憶だ」と否定する私だ。
今回の問題をより複雑にしたのは、多分歯ブラシの色にもあると思う。
最初から私が赤とかピンクの歯ブラシを使っていれば、ハッキリと分かる出来事だった。なまじ、「男が青、女が赤」といった区別が、時代にそぐわないという社会の風潮に乗って、何色でもいいやということから生じて、混乱を引き起こした。
私は、今後同じ問題が決して起きないように、早速自分用の赤い歯ブラシを買ってきた。
時代の風潮に老人は乗っちゃ駄目なのだと思った。老人はよりシンプルに生活した方が良いのだ。混乱しないように、男は青、女は赤というように。
しかし一体どこで歯ブラシが入れ替わったのか。謎は深まるばかり。夫はそのままグリーンのリーチを使っている。多分私が使ってたやつなのに…。
不安と恐怖を覚えた出来事だった。まだこれからもハラハラ、ドキドキは続くのだろう。老人の日常はまるでサスペンスだ。