春クマ駆除が無くなってから、日本全国どこの地域もクマが増えた。特に人的被害が多かったのは、東北地方だ。かつてはクマ猟を主とした生業のマタギの多い地域として有名だったが、やはりマタギも数が激減している。
最近「マタギ奇談」という本があることを知った。著者は、工藤隆雄。山のエキスパート、マタギたちが、どんな神秘的体験をしたのか興味をそそられ、購入した。
本書の冒頭から、非常に興味深い話が載っていた。
「マタギが八甲田山で見た人影はなんだったのか」
それは明治35年に起きた有名な「八甲田山雪中行軍遭難事故」についての話だった。
その遭難事故は、歩兵青森第五連隊が対ロシア戦に備え、厳冬期に軍事訓練を行い大吹雪に見舞われて、199人が凍死したという大遭難事故だ。
これについては、新田次郎の小説や、それを元にした映画「八甲田山」がよく知られている。
本書によると、時事新報の記者である小笠原孤酒が、この事実をコツコツと調べ、全5巻にする予定で、昭和45年に「八甲田連邦吹雪の惨劇」第一巻を自費出版したのだが、それを読んだ新田次郎が更に調べ、翌年の昭和46年に小説「八甲田山死の彷徨」を出版し、瞬く間にベストセラーとなったという経緯がある。
青森第五連隊が雪中行軍をしていた時、八甲田山の反対側のルートから、弘前第三十一連隊38名も雪中行軍をしていた。
青森連隊が199人の死者を出した一方で、弘前連帯は全員が生還した。その生死を分けたのが、案内人のマタギだったのだ。
青森連帯は集落の長が案内人を進めるのを断り、地図とコンパスに頼った結果、悲劇を招いたのだった。
最も興味深い話はここからなのだが、青森連隊が遭難した場所を知らずに、同じルートを弘前連帯が通りかけた夜中の2時頃に、眼の前に隊列を組んで迫りくる、不思議な人影を見たというのだ。
連隊長はじめ案内人として雇われた7人のマタギ達も目撃したのだが、その不可思議な現象を口外することを、連隊長に固く禁じられていたのだと言う。
事件から28年経った昭和5年、生き残ったマタギの一人が、たまたまその不思議な話をしたことで、明らかになったのだった。
当時の八甲田山の出来事が、資料などに基づき詳細に書かれており、読み応えがあった。
それにしても、当時の軍人のマタギに対する扱いがひどく、過去の日本の嫌な一面を見る思いだった。
案内をしたマタギ達は、生還したとは言え、凍傷により手や足の指を失ったそうだ。
マタギというと、男世界。縄文時代からこれまで続いて来てきたと言われる、白神山地のマタギ。古くから山にまつわる掟を守りつつ猟をしてきた。獲物を与えてくれるのも、山の神次第という事で、山の神への儀式や習わしがあり、山に女性が入ると獲物が取れないといった話もある。現在では色々と物議を醸しそうだ。
この本の赤石のマタギが猟場とする白神山地は、人の手が入っていない天然林だと最近知った。太古の昔からある森。神秘的な事がいかにも起きそうだ。
他にも言い伝えのような、不思議な話もあったが、特にマタギとクマの話が興味深かった。
マタギの猟はクマを追い立てる「勢子」と射手とのチームワークだ。殺るか殺られるか。常に猟場は真剣勝負。クマの習性や頭の良さなど、様々なエピソードが紹介され、面白かった。
特にスイカ畑を荒らしたクマが、人に見つかった時、両脇にスイカを抱えて、二足歩行で逃げたという話は、漫画みたいでおかしかった。
最後の「老マタギと犬」の話は、「羆撃ち」を書いた久保俊治氏と猟犬フチを彷彿とさせた。
それは一人のマタギが出稼ぎに行った東京で、捨てられた子犬を拾い、白神山地に連れてきたのだが、森を怖がり番犬にもならない犬だった。
そんな犬だから、猟犬にするでもなく、好きにさせておいたら、自然に学んで、最終的にはマタギ犬になったというのだ。
老マタギがポツリポツリと穏やかに語る、その犬の成長ぶりが、何とも読んでいて楽しい。短い文章なのだが、マタギと犬の絆の深さに感動した。
白神山地は1993年12月に世界遺産に登録された。その為、現在は鳥獣保護区に指定され、猟が出来なくなったそうだ。
人を森に入れないことが森を守ると思われているが、マタギが森に入ることで、獣の数が調整され、様々な森の恵みの採取をする事で、適度に森の手入れが行き届き、守られていた側面もあると老マタギが語っていた。
数は少なくなっているが、まだわずかにマタギを生業にしている人々は居るらしい。
マタギという文化が失われつつある事を、残念に思う。若い人が減り、後継者の確保もなかなか難しい。
先日YouTubeを見ていたら、マタギの祖父に憧れて、マタギとして活躍する若い男性の姿を見た。骨のある若者が未だいることを知って、頼もしく感じた。マタギ文化は、まだしばらくの間消えない事に安堵した。