扉を開けて、足元のスリッパを見た時、綺麗に揃えられ履きやすくて気持ち良かった。
夫と私しか生活してない空間で、そんな風にスリッパを揃えるのは、私だ。
揃えてくれた自分に感謝した。馬鹿なと思われるかもしれないけど。
子供達にも「トイレのスリッパは、次の人のために履きやすくしておくように」と言ってきた。
息子は直ぐに従ってくれたが、娘は脱ぎっぱなしの癖がなかなか直らなかった。
トイレに入るたび、つま先がこちら側を向いたスリッパを見ては、ちょっと苛ついた。
娘にはその後2度程注意したが、大学生になってもそれは直らなかった。
小さな事かも知れない。
スリッパの脱ぎっぱなし、大した事じゃない。でも、将来誰かと生活する事になった時、相手の人がどう感じるだろうかと思う。
何も感じない人かも知れない。反対に、履きづらいなと、毎回思う人かも知れない。私みたいに。
ちっぽけなことだけど、私はこだわった。
どうしても脱ぎっぱなしを、直してほしかった。だからといって、口うるさく「直せ」と言うのも嫌だった。
私が高校生だった時に、父は新聞で自分が感心したり感動した文章に赤線を引いて「ここを後で読んでおけ」と言うことがよくあった。
その時は、面倒くさいなあと思っていた。
その中の一文だったと思うが、私の頼りない記憶では、ギリシャ時代の賢人ソクラテスの言葉として紹介されたコラムではなかったかと思う(間違っていたらごめんなさい)。
「もし、子供が窓ガラスを割ったら、子供を叱らずに、ガラスの割れた窓はそのままにして生活しなさい。窓から入ってくる冷たい風が、子供がしたことの罪をわからせるだろう」というような内容の文章があった。
古代ギリシャ時代に窓ガラスがあったかどうか疑わしいが、子供への教育としては実に説得力がある。
似たようなことを実践してみた。
彼女にも、脱ぎっぱなしのスリッパの履きづらさを感じてもらうのが一番手っ取り早いと思い、その日から私は、わざと私自身が“脱ぎっぱなす”というあらわざに出た。
一日、二日で効果が直ぐに表れた。
ほぼ娘と二人で過ごした日中だった。
娘はトイレに入るたびに、履きづらく脱ぎっぱなしのスリッパから、私の無言のメッセージを受け取ったことだろう。
効果はテキメンだった。
やがてトイレで、娘が揃えたスリッパを見て、ソクラテスの教えのお陰と、感動した。
口を酸っぱくして言うよりも、こちら側の行動から意味を読み取って考えてもらい是正してもらう事。こちら側の思惑を伝える手段として有効だった。
たかがトイレのスリッパから始まったことだが、私の中の少ない躾の成功例として、印象に残る思い出だ。