しばらくするとまた通り過ぎた。どうやら同じコースを周回している様だ。
私はこの迷惑行為が許せなかった。次にうちの前に来たら、「病人が寝ているので静かにして欲しい」とお願いという形でやめてもらおうと考えた。病人が寝ていると言うのは真っ赤な嘘だが、嘘も方便。
再びやって来た彼らに、窓を開けて「すいません、すいませーん」と声をかけた。爆音に負けまいと大きな声を出した。
二人はチラリと私の方に顔を向けたが、そのままスピードを緩めることなく爆音を響かせて行ってしまった。私とそんなに年の変わらない男性二人だった。
すると、それに気づいた母が、私の背後から「あんた、何やってるの!」と血相を変えて飛んできた。とんでもない事をしたと責めるような母の声に、私は意味がわからなかった。
母は、注意がきっかけで大変な事が起きる危険性を私に説いた。声をかけて逆恨みされたらどうする。嫌がらせをされたらどうする。そういう事だった。
20歳頃の私は怖い物知らずだった。母が言う事を、そんな事も起きうるのかと初めて頭の中にとどめたのだった。
そんな昔の事を思い出したのも、先の電車内で喫煙を注意した高校生が、相手から酷い暴行を受けたと言う事件を知ったからだった。
正しい事をして、ひどい暴力を受けた高校生が気の毒でならない。
そう言う類の事件はこれまでも数多く起きている。正しい事をした人に対して、振るわれる、いわれなき暴力。
事件を知るたびにいつも考えるのは、「もし私がその現場にいたら、私はどう行動しただろうか」と言う事だ。
大概の場合、恐ろしくて何も出来ず、傍観者になっただろうと思う。
ただ、今回は18歳という若い高校生だ。もしその場に居合わせたら、私は何らかの行動を起こさなければ、救ってあげなければいけないと強く思う。
でも、それが出来ただろうかと自問しても100%何か行動できたとは言え無い。そんな自分が情けなくも感じられる。
もしこれが、家族だったならどうだろう。身を賭しても助けようと行動すると断言できる。だが、他人事だとなると行動を躊躇してしまう。
例えばそこで行動を起こせたとしても、暴力を容易にかざす人間なら、事が治まった後も恨みを持たれる事も考えられるし、嫌がらせをされるかも知れない。人の恨みは買いたくないと常々思っている。恨まれると、何が起きるか分からない。形の無い恐怖からその後、ビクビクと人生を送らなければならないかも知れないと思うと、さらに行動を起こす事に躊躇してしまう。
こうして結局出来事の成り行きを見守る傍観者になってしまうのではないか。
正義が踏みにじられるたびに、いつも繰り返し「もし、そこに自分が居合わせたら」と答えの無い自問自答を繰り返してしまう。
冒頭で書いたあの若いバイクで暴走する二人は、あの後再びうちの前を走る事は無かった。
彼らは私の声かけで、自分たちのやっている迷惑行為に気づいた様だ。普通の感覚の若者だったようだ。もし、そうでなかったらと考えると、心底ゾットする。