(神代植物公園の梅園にて 2月8日にて)
第1章 空海の思想の背景
弘法大師空海は、わが国における真言宗の開祖として知られています。真言宗は大きな仏教の流れのなかでは密教とよばれる流れをくむ宗派であることから、空海の密教を一般から区分して「真言密教(しんごんみっきょう)」とよびます。
以下、仏教思想概要9では、真言密教・空海の思想についてみていきます。
1.空海の経歴
本論に入る前に、まずは空海の経歴を簡単に整理してみたいと思います。(下表1参照)
(第三部より:空海の生活の四期の区分)(表1-2)
2.空海の経歴の要点
以下、経歴に見る思想的な要点を挙げてみたいと思います。
2.1.仏書の研究とその意義
空海の高弟真済(しんぜい)の著『空海僧都伝』にみる空海の受けた教育は、
岡田牛養(うしかい、同郷の讃岐出身):中国の史書『左氏伝(さしでん)』など
味酒浄成(うまざけのきよなり):詩経の『毛詩(もうし)』書経の『尚書(しょうしょ)』など、となっています。
さらに、経史すなわち四書・五経・十三経などの経書と史書・仏書を研究したということです。(これらを誰から学んだかは不明)
ここでの注意点は仏書を研究したことで、このことについて空海は『二十五箇条遺告』(通称『御遺告(ごゆいごう)』)で次のように述べています。(表2)
2.2. 求聞持法の習得
2.2.1. 『三教指帰』とその序文
『三教指帰(さんごうしいき)』は、二十四歳の延暦十六年(797)十月一日に書きあげた著で、空海の出家宣言書であり、わが国最初の戯曲風思想批判書です。その序文に仏教転向のいきさつが記されています。(表3)
ここで、『虚空蔵菩薩求聞持法経』とは、略称を『求聞持法』と呼び、奈良朝の一般に行われていた一種の記憶術増進法のことです。虚空蔵菩薩は偉大な慈悲の力によって、一切衆生の利益のために限りないはたらきをする密教の仏で、また、この修行の結果、その帰着としたところは世俗の名聞利養(みょうぶんりよう)を拒否する道をとったということです。
2.2.2. 『三教指帰』に語られた思想遍歴
『三教指帰』に語られた空海の少年期から青年期の思想遍歴をみてみると以下(表4)のように三期に分けることが出来ます。
ここで注意すべきは仏教にはいったからといって、儒教や道教を排撃したのではないことです。そこにはあらゆる思想や哲学や宗教をつつんで、それぞれの持ち味を生かしながら総合的に統一するという高度な思惟方法のめばえが認められます。
ただこの時期は仏教一般を学び、とくに密教にはまだ関心をもつにいたっていなかったのです。
なお、この時期、最澄は十九歳で叡山での十年の修行を終え、すでに一応の天台教学の基礎を完成していました。
2.3. 入唐と恵果との出会い、そして帰朝
2.3.1.恵果との出会い
延暦二十三年(804)十二月下旬、長安に到着した空海は、在唐中はインド僧般若三蔵より梵語(サンスクリット語)と南インドのバラモン哲学を学び、そのほか文学、書道など目にふれるかぎりのものを日夜研鑽しつづけたということです。そして、恵果との出会いを『請来目録』に以下(表5)のように記しています。
2.3.2. 長安での空海と帰朝
密教は、次のような流れで空海に伝授されました。「ヴァジラ・ボーディ(金剛智)→アモーガ・ヴァジラ(大広智三蔵、別名:不空金剛)→恵果→空海」、とこれは、インド以来の正統を伝える空海の密教ということができます。また、長安での空海の密教修行は以下(表6)のように整理できます。
経歴のとおり、延暦二十四年十二月十五日 恵果入滅。
延暦二十五年一月十五日には、恵果を葬る。墓碑銘の撰文の筆を弟子道俗を代表して空海がとった。大同元年(806)九月ごろ 帰朝する。
・帰朝時、空海は、遣唐判官の高階遠成(たかしなのとうなり)に託して、朝廷に『請来目録』を献上しました。(以下は経歴を参照ください。)
2.4. 高野山開創と最澄との関係
2.4.1. 高雄山灌頂
空海は、弘仁(こうにん)元年(810)十一月一日より、京都の高雄山寺で帰朝後はじめて国家を鎮護するための修法を行いました。
これは、現実世界において密教で説く密厳国土(みつごんこくど)を建設することを理念とするものでした。
密厳とは秘密荘厳(ひみつしょうごん)の意味で、大日如来の絶対のさとりの世界をさし、大日如来の国土は、現世の価値転換のかたちで実現されなければならないとするのが、空海の説く密教の大きな特徴であったのです。
2.4.2.空海と最澄
弘仁三年(812)十一月十五日、十二月十四日、空海は胎蔵と金剛界の灌頂壇を高雄山寺で開きました、この時最澄も空海にしたがって灌頂(かんじょう)を受けているのです。最澄も入唐中密教を学んだのですが、それが正統なものでないとさとり、帰朝後の空海にすすんで教えを請うたのです。時に空海三十九歳、最澄四十六歳でした。(参考:大同四年(809)、空海は最澄に刺を投ずる(挨拶をしている))
しかし、弘仁三年(812)の高雄山灌頂をさかいに空海と最澄、両者の関係は疎遠になりはじめます。それには以下の要因があげられます。
①弘仁三年頃、最澄の高弟泰範(たいはん)が空海のもとにはしる。
②弘仁四年、最澄よりの『理趣釈経(りしゅしゃっきょう)』その他の経巻の借用申し出を空海がことわったこと。
③南都仏教との関係
最澄は南都仏教界(法相宗や三論宗など)と仏教理論闘争を展開した。
一方空海は主な南都学匠たちと親交をかさね、思想的影響を与えるとともに、みずからも学ぶところがあった。また密教流布の上でも、例えば最澄のライバルであった法相宗の巨匠徳一に密教流布の依頼を行っているなど協力関係にあった。
2.4.3.高野山開創
(1)開創の経緯
開創の経緯はいかのとおりです。
・弘仁七年(816)六月:上秦文の申請(紀州高野山を真言密教の修行の根本道場とする旨)
・同七月:勅許
・弘仁九年(818)十一月ごろ:最初にまず弟子の実恵(じちえ)、泰範らを派遣し高野山の実地踏査をおこなわせ、みずからはこの時に登山した。
・弘仁十年(819)五月(推定):伽藍建立に本格着手
(2)高野山開創の意義
高野山開創の目的は一つには国家のため、一つにはもろもろの修行者のために修禅の一院を建立することにありました。
しかし修禅の一院を建立したい旨は、すでに大同元年(806)夏に唐より帰国の船中で発願したものです。それは『高野雑筆集』に収める空海の一書翰のなかにみることができます。
この書翰の中に、少年の日に高野山から紀州の山なかを跋渉(ばっしょう)したときのことがあったのを追想しているのは注意すべきことです。その若き日は虚空蔵求聞持法を修行していた二十歳前後と思われますが、開創発願の時期ではすでに密教のさとりの世界にある空海に、かっての山岳優婆塞として、一私度僧として仏道にはいった若年のすがたをふたたび見ることができるのです。
この開創事業は空海の生涯における第三の転機を迎えたことを意味するものです。
高野山の伽藍配置や仏体の曼荼羅的構成は、いずれも唐の密教寺院にはない空海の独創になるものです。ことに講堂は修禅の一院として密教の究極の理想目標とする即身成仏の実現を期するため観法道場として建てられたものであったのです。
2.5.東寺経営と済生利民・教育
2.5.1.東寺経営
弘仁十四年(823)一月嵯峨帝より東寺が給預されます。ここをもって鎮護国家の根本道場として京都にて超人的な活動をつづけることとなりました。(東寺は律令的、高野山は反律令的な性格を象徴している。)
空海は当時、平安官人たちと交際し、しばしば彼らの依頼を受けて故人の追善法会をいとなんでいます。この供養は密教の流布の大切な場であるが、曼荼羅構成など彼の独創性がみられます。
2.5.2.済生利民の事業例
空海は、密教によれば、みずからはどこまでも高い宗教的真理を追求するとともに、他の者を救済し、他に利益を与えることに努めなければならない、としています。その例は以下(表7)のとおりです。
2.5.3.空海の教育理念
空海は、天長五年(828)十二月十五日「綜藝種智院式序をあわせたり」(教育理想および方針を明らかにしたもの)を起草しました。
ここでは、この世におけるあらゆる学問芸術はすべて真言密教の教主・宇宙の霊格である法身大日如来の絶対智の現れであるという根本理念にもとづいて、この「綜藝種智院」の校名がつけられたことが知られます。
(空海の四つの教育方針)
①教育環境がよいこと
②学問の総合教育による人間形成
③多くのすぐれた教師
④教師と生徒の生活保障=完全給費制
天長五年ごろ空海は『篆隷万象名義(てんれいばんしょうみょうぎ)』(30巻)を著しています。これはわが国最初の辞典と刮目されるが、教授用として準備したものと思われます。
2.5.4.多彩な著作活動
(1)主な著作活動期間と主著
空海の著作活動期間は、弘仁七年(816)以後、天長七年(830)のほぼ10年間です。
また、主な著作として以下があげられます。
主著:『秘密曼荼羅十住心論(ひみつまんだらじゅうじゅうしんろん)』(略称『十住心論』)
『秘蔵宝鑰(ひぞうほうやく)』(『十住心論』の略論)
以上は天長年間(824-34)に朝廷が各宗に命じて宗派の教義をのべた著作を提出させた(「天長勅撰六本宗書」)ときに空海が撰進したものです。
(2)主著の概要
主著『十住心論』は、諸思想の総合的批判の精神にもつづいて、仏教各宗派に限らず、
平安初期に知られる仏教以外のあらゆる思想をとりあげ、それらを真言密教の立場において総合統一したものです。
空海の著作にみる真言密教の世界は以下(表8)のとおりです。
2.5.5.空海の生涯まとめ
承和二年(835年)空海は入定しました。以下は、著者のまとめです。
「現象面だけを追跡してみると、空海は多発的な天才であるように思われるけども、その思想的な全生涯をつらぬいて形成されたところは曼荼羅の精神であったと、筆者は考えたいのである。つまり、空海その人自身、曼荼羅の具現者であった。密教の価値体系はその教主である絶対の仏、大日如来を中心とする諸仏菩薩およびあらゆる神々や存在を総合した一大万神殿(パンティオン)である曼荼羅をもって形象的に表現されている。曼荼羅は宇宙生命の交響楽である。それは宇宙のはかり知れない秘密を語るとともに、われわれの心の秘密も語っているところの神秘の世界である。神秘の世界という全体的な調和のなかには、あらゆる矛盾がふくまれている。そして矛盾は調和のなかにあって生かされている。それは生命の世界の神秘といってよいであろう。空海は、まさにこの生命の世界の神秘をつかんだ人であったといわなければならない。」
本日はここまでです。
次回は、第1章の続きで「3.密教とは」を取り上げます。