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仏教思想概要8:《中国浄土》(第4回)

2024-01-27 08:45:57 | 08仏教思想8

(神代植物公園・つばき園にて    2023年12月7日撮影)

 

 仏教思想概要8《中国浄土》の第4回目です。
 前回から「第3章 中国浄土教の成立と発展」に入り、前回は「1.中国浄土教の成立―他力本願の浄土教-」「2.曇鸞の浄土教」を見てみました。
 本日は「3.道綽の浄土教」を取り上げます。

 

3.道綽の浄土教

3.1.道綽の略歴
 道綽の略歴を時代背景とともにみてみると以下のように整理できます。(表13-1)


(*参照:表13-2 「平延大寺」提案とは)

3.2.道綽の思想

3.2.1.中国における末法思想流布
 末法思想は、ナレンドラヤシャス(那連堤耶舎)により中国に流布されることになりました。彼はエフタル族の仏教迫害の地から逃れたインドの高僧で五五六年北斉の都に迎えられ、新しい仏典を訳出し、北斉仏教界に大きな影響を与えたのです。
(主な訳出経典とポイント 表14)


 彼の訳出の結果「仏法滅尽の期近づく」との憂慮は、まじめな僧俗仏教者の間に反復玩味(がんみ)されてきたのです。その時に、北周の侵入、廃仏実施がつづき、「末法」が現実に到来したと悲嘆せずにはおれなかったと思われます。
(参照:正法・像法・末法時代とは 表15)

3.2.2.信行の三階教の影響

(1)信行の仏教の三時代
 廃仏皇帝下に潜在した信行や道綽は、宗教は現在の身に実践され、体験されたものでなければならぬことを身をもって味わったのです。インドの仏教を学ぶことは尊いが、しかしそれが「今」「ここで」「すべての人に」実践され、体験されうること、時と人に適応するか否かが、第一の問題であったのです。
 その考えの上で、信行は仏教を三時代に分けました。(表16)

(2)信行の「普教」とは
 信行は、現代の仏教界について博学を誇り賢者ぶり、他の諸経を批判するなどしているが、このような聖典批判は聖者のみに許さされることで、「正法を誹謗する堕地獄の大罪」であるとしています。その宗はすぐれた教義であるが、今の世、今の人、罪悪社会にまみれた生活をする凡人を救う効力はないとしたのです。
 一切の仏に、一切のボサツに普(あまね)く恭敬(くぎょう)礼拝をささげるのみが、生盲の凡人われらに許された行である。仏は「一切衆生に悉(ことごと)く仏性あり」と説いている。すべての個人の尊厳を認めて、たがいに将来仏、仏性仏よとおがみあうこと、「普敬」こそが現代仏教の実践行であるとしたのです。

(3)信行の仏行と教団の発展
 信行は今の人にとっては、批判を捨てて普く敬うことのみが仏行だと、徹底的に自己と現代の凡夫性・罪悪性を内省し、そこから謙虚敬虔な普敬行に進んだのです。このため進んで受けた僧戒を捨て、僧位を降りて沙彌(小僧)と称して、若い僧の末座にしかすわらなかったのです。
 この新しい今の救済と共鳴して同行同信として廃仏を経験した僧俗の男女の仏教徒が「三階院」を建てて別住して修道に励んだのです。
 隋の初期仏教復興の長安で彼の教団は急速に盛大になり「無尽蔵」という経済機構をもって社会に奉仕(低利、無利息の融資など)しました。
 三階教は、一時邪教と排斥されましたが、唐代には復興し、都長安に限らず、道綽の住む山西省にも熱狂的な信者を集め、信行の墓所は三階教墓域ができ、「百塔寺」となったのです。

(4)三階教に対する道綽の立場
 このような時代仏教の環境の中で、道綽は「今、ここ、われわれの仏教」「末法仏教」運動を起こしたのです。彼の仏教は、信行がみずからのはからいを捨てた「普」の仏教だと主張したのに対して、無知の凡夫、罪悪の凡人、罪悪にまみれて生きざるを得ぬ社会の人々が現在今の時点でたしかに救われる道は、みずからのはからいを捨てて、アミダ仏の本願力の「信」によるアミダ念仏の「専修行」であると、まったく対蹠的な実践信仰に余生をささげ、村民を導きまた善導浄土教完成の師となったのです。

3.2.3.『観無量寿経』による布教
 観経がとくに盛んになるのは北魏後期、曇鸞の時代以降で、それ以前は教祖シャカ仏、その後継者としての未来出現のミロク仏に、造像銘は集まっていました。
 北魏後期になると、現在仏として説かれた無量寿仏およびその脇侍のボサツとされ、現実の苦悩者の救済に活動するという、大慈悲の観世音菩薩に集中していったのです。観世音信仰は、その信仰者を死後のアミダ浄土への往生願求の信仰に誘引することとなったのです。
 道綽においても観経を中心として説法教化しました。それは、各宗の学者が競い研究し講和したことと、在家の教化にもっとも有効な説話的内容と在家人の実践行法を説いたからと認められるからです。
 彼の著『安楽集』においても、経論の引用証明でうずめられていますが、この書が、山西の僻地貧農地帯である彼のもっともなつかしさ、いとしさを感ぜずにおかぬ郷土の無知な人々を前において、観経の講義説法をしたものの集録であると認められるのです。
(参考:観経の序章をなす王舎城の悲劇とは(表17)

3.2.4.曇鸞の思想と道綽の立場

(1) 師、曇鸞の思想
 道綽は『涅槃経』諸説の教学の僧から、故郷の農民の社会まで降りて身をおき、無学な彼らのために法を説いたのです。
 これに対して、彼の回心の師である曇鸞は、龍樹→羅什→僧肇の「空観」の教養を基礎としていただけに、常に顕現しているすべてを一貫する「性空(しょうくう)」の理論の裏付けから説くことをつとめました。
 人々の有相から浄土へ往生するとの想いを「無相の相」「無生の生」と戒め、仏教の本義に立って、絶対否定の上に肯定する、いわば「法」=真理-実相に目を開いて説くことを忘れなかったのです。
 しかし、アミダ仏の本願力を強調し、無相の法身である智の如来は、同時に常に方便方身として慈悲に活動し、さらに「為物身」=衆生のために仏身をもて、常に人々に現われて説法指導する人格仏として具体的な救済活動に帰敬(*ききょう)したのです。
*帰敬とは:すぐれた人に帰依し、敬礼すること

 曇鸞はわれを空しくして衆生のための仏(為物身)として、われわれのために救済活動やまぬアミダ仏の「本願力の信」によって「無生にして生ずる」空教養を離れざる往生の願求者となったのです。

(2) 道綽の立場
 道綽も空と有、相と無相、生と無生、との相即の仏教教義を継承していますが、現実末法の悪世を生きる凡人のすべてには「空理に立つ無相、無生の教理の理解も体得出来ない。唯、浄土一門のみあって、通入すべき路である」と強く断を下すのでした。
 彼は末法時に入っている現代では、早く常楽永生のさとりを得よと、「相有の生」を勧めたのである。
 当時の一般の仏教教理学者は、仏とは化現幻想にすぎない、凡愚のために示された低次元の仏、土にすぎぬと論ずるが、道綽は「古来より相伝してアミダ仏はこれ化身、またこれ化土なりという、これは大失なり」と一喝して、「現にいますアミダ仏はこれ報仏、極楽宝荘厳国(ごくらくほうしょうごんこく)はこれ報土なり」と決断するのです。
 至心にアミダ仏の名を唱えよ。他力の信をもて。一生罪悪にまみれて生活してきた愚痴者も、最後の至心の称名に救いを求めれば、必ず浄土に生まれ常楽永生の道に進むのだと教えたのです。

3.2.5.道綽の思想まとめ(参考資料)

(1)道綽の思想背景(表18)

(2) 道綽の修行過程(表19)

 

 本日はここまでです。次回は「4.善導の浄土教」を取り上げます。そして、「仏教移送概要8《中国浄土》」の最終回です。

 

 

 

 

 

 

 

 


仏教思想概要8:《中国浄土》(第3回)

2024-01-20 08:09:04 | 08仏教思想8

(神代植物公園・つばき園にて    2023年12月7日撮影)

 

 

 仏教思想概要8《中国浄土》の第3回目です。
 前回は「第2章 中国浄土教成立の背景」を見てみましたが、今回から「第3章 中国浄土教の成立と発展」に入り、本日は「1.中国浄土教の成立―他力本願の浄土教-」「2.曇鸞の浄土教」を取り上げます。

 

第3章 中国浄土教の成立と発展

1.中国浄土教の成立―他力本願の浄土教-

1.1.他力本願の浄土教とは
 他力本願の浄土教とは、慧遠の『般舟三昧経』を経典とする自力浄土教に対して、浄土三部経(『無量寿経』『阿彌陀経』『観無量寿経』)を経典とする曇鸞(生没年は不明、6世紀中頃)・道綽(562-645)・善導(613-681)によって六世紀から七世紀(北魏末~唐初期)にわたって中国華北に大成された浄土教のことです。十三世紀には法然やその門下によって信仰され日本浄土宗が成立しました。

 この浄土教では、「自己の生きる世界が、自力のさとりへの到達の絶望感から、一度は全面的に否定され(=「厭離穢土(おんりえど)」)、つまり自力のさとりの絶望の淵に立つ(=「自力絶望」)。この「厭離穢土」・「自力絶望」から人間をよみがえらせるものは、強い生への欲望から湧きあがる「欣求浄土(ごんぐじょうど)」(仏の大慈悲=本願他力に投帰する信仰)である。「厭離穢土」を飛躍台として、真実心の浄土の永生を欣(よろこ)び求める信仰によって、破綻絶望の淵を飛びこえることができるのである。」とするものです。

1.2.浄土三部経とは
 浄土三部経をについて以下(下表9)に示します。

2.曇鸞の浄土教

2.1.曇鸞の略歴
 曇鸞の略歴を時代背景とともにみてみると以下のように整理できます。(表10)

 

2.2.曇鸞の思想

(1)主著『往生論註』にみる曇鸞の浄土教-羅什・僧肇思想の継承-
 曇鸞は、世親著の『無量寿経優婆堤舎願生偈(・・うばだいしゃがんしょうげ)』(いわゆる『浄土論』)の注釈本として『往生論註』(おうじょうろんちゅう)をはじめ3冊を表わしています。
 これらの著が、四論と僧肇の教学を基本として、アミダ仏とその浄土を論じ、往生を説いていることが知られます。同時に慧遠と違い「浄土三部経」を浄土往生の聖典とし、純一な往生浄土の教義、信仰にみずからの思索と実践体験を通して生まれ変らせたものであることが知られます。
 曇鸞はこの穢土から浄土に往生することを龍樹の空観教義によって「無生之生」だと断言しています。この思想は羅什門下の僧肇の思想をよく継承しているものです。

(2)在心・在縁・在決定
 曇鸞は「浄土三部経」はすべての悪人の往生を説いているといいます。つまり、ただ正法を誹謗しなければ、五逆(*)を犯したものでも「信仏の因縁をもって皆往生を得せめる」としています。ここで、重い五逆の因報を、十念(**)のような軽い行でどう往生を可能にするのかについて、「在心(ざいしん)・在縁(ざいえん)・在決定(ざいけつじょう)」ゆえに十念の力の方が五罪より重いのだ、と示しているのです。
(在心・在縁・在決定とは 表11)


*五逆とは:五種の重罪(五逆罪)。所説あるが、代表的なもの、①母を殺すこと、②父を殺すこと、③聖者(阿羅漢)を殺すこと、④仏の身体を傷つけて出血させること、⑤教団の和合一致を破壊して、分裂させること。
**十念とは:浄土教では、「南無阿彌陀仏」を十回称える修行のこと。(なお、仏教では10種のイメージを行う修行法のことで、念仏・念法・念僧・念戒・念施・念天・念休息・念安般・念身・念死の10種)

(3)仏の本願力と寿命無量・光明無量の慈尊としての仏
 曇鸞は、慧遠の「自力的念仏行」に対して「信」と「他力」を強く打ち出したことが推知されます。『往生論註』は終始、仏の本願力を浄土仏教の根本とするもので、アミダ仏のさとりもその本願から生じ、浄土の建立も本願により、衆生の往生もアミダ仏の本願によるとしているのです。

 また、曇鸞によれば、一切の衆生には仏性があるから、さとりは一切の人に開かれている。仏は智から本質を論ずれば、空なる法性を身とする法性法身であるが、同時にその智は大慈悲に活動するものであり、空寂の法性法身は、そのまま慈悲教化に活動する方便法身である。方便法身は衆生の救済のために、あらわれ活動する「為物身(衆生のための身)」である。だから、聖凡(しょうぼん)一切の衆生を仏は対象として教化し、さとりまで指導し救済を完成する仏は、「寿命無量・光明無量の慈尊」であると称したのです。

(4) 難行道と易行道
 曇鸞は世親の『無量寿経論』(『浄土論』)と取り組んで『往生論註』が完成するまで、多くの疑問や難関にぶつかったと思われます。
 世親は『無量寿経論』で、浄土とは「三界を勝過(超えすぐれていること)」としています。曇鸞は、世親のいう浄土とわれわれの世界(穢土)との間に突破せぬ絶望の壁がある。この壁に希望の通路を見い出せるかと苦悩するのです。
 それを解決する道を示したのは、龍樹撰『十住毘婆沙論(じゅうじゅうびばしゃろん)』でした。
 曇鸞は龍樹のこの著の教旨を『往生論註』の劈頭(へきとう)に表明しています。(下表12)


 この龍樹による無仏時代に生まれた人々の修道の警告こそ、一挙に夢をさます響きとなり、これを指針として世親の『浄土論』を味わい「但信仏」の浄土信仰に進むのでした。
 龍樹・世親のインド大乗の代表師匠を浄土信仰の模範と信じて、信仰を導かれ、教義を宣布したことこそ、龍樹教学が権威をもち、世親大乗が伝訳された時代に強く浄土教を宣布する力を与えるものであったのです。

 

 本日はここまでです。次回は「3.道綽の浄土教」を取り上げます。

 

 

 

 

 


仏教思想概要8:《中国浄土》(第2回)

2024-01-13 08:35:32 | 08仏教思想8

(神代植物公園・つばき園にて    2023年12月7日撮影)

 

 仏教思想概要8《中国浄土》の第2回目です。
 前回は「第1章 中国浄土教の系譜」を見てみましたが、今回は「第2章 中国浄土教成立の背景」を取り上げます。

 

第2章 中国浄土教成立の背景

1.インド浄土教の成立
 先にも述べたように中国浄土教の成立には、本家となるインドにおいて浄土教がどのように成立したのかを知る必要があります。ここでは、インド浄土教の成立の背景とその経緯をみていきたいと思います。
 浄土教がインド仏教中で誕生・成立したことは認められますが、シャカムニがみずから浄土教を説いたとは認めらません。
 また浄土教の成立年代を確定することは困難です。しかし、浄土教を成長させた要素をいくつか求めることはできます。

1.1.インド浄土教成立の背景-ウッタラ楽土-
 インド仏教における浄土を考えるとき、インド人の思考を考える必要があります。
 インド人はヒマラヤ連峰の北方に「ウッタラ楽土」があると想像したのです。
 (インド人の想像した「ウッタラ楽土」表1)


 これは、ヴェーダの讃美歌宗教を生み、ウパニッシャドの哲学を生んだインド・アーリア人が、望郷思慕の情から越しゆけぬヒマラヤ連峰のかなたに理想化した楽土を想像したもの、と思われます。
 しかしこれは仏教の楽土ではありません。仏教の楽土は、さとりを求める人々の修行の向上を促進する清浄の環境でなければ意味がないからです。

1.2.インド仏教における楽土=3つの浄土
 インド仏教では以下の3つの浄土が創出されました。(表2)


 古くからあったミロク浄土に対して、大乗仏教では東方ではアシュク浄土、西方ではアミダ浄土信仰が起こります。
 ミロクとなってさとりを得るには、遠い遠い数億年ののちとされるのに対して、今を生きて苦悩の解脱を求めている人々にとっては、これを充足する浄土信仰が、大乗仏教興起に随伴して急速に発展したわけです。
 ここで、大慈悲心に現在の一切衆生をつつみさとりに至らしめる現在仏の浄土と、その衆生のためにする仏の本願の思想こそ、浄土教信仰のもっとも重要な中心をなすものであったのです。
 大乗仏教は、在家、出家のボサツたちが、手をつないで立ち上がった「ブッダに復れ」の復古運動でしたが、本願思想とは、ここにおいて真の仏教徒はなによりも衆生救済をみずからの使命として、仏道に進む決意・誓願・本願を立てるべきであるとするものです。

 小乗教では同時に同一地上には一仏しか出現しないと考えたが、大乗教では、同時に多方に多仏が出現し、それぞれ衆生救済の大慈悲教化を、なによりまず現代に生きる衆生に対して行っていると信ずるにいたったのです。ボサツの仏教は自己の利益より利他を優先するものでした。それは、大慈悲の利他に、自利の行がつつまれて仏道が精進できると考えたからです。

1.3.インド浄土信仰の中国への移入
 ミロク浄土信仰は中国に伝わり、中国仏教教団の最初の樹立者の師主となった高僧道安(314-85)は『般若経』の血みどろの研究をつづけ、四世紀の晩年には門下八人と兜率天に生まれることを誓願したとされます。
 さらに、道安門下第一の偉僧といわれた慧遠(334-416)は晩年阿彌陀念仏実践を誓約する結社をつくり、浄土教始祖と仰がれ、中国のアミダ浄土教発展の源を開きました。ミロク信仰とアミダ信仰は相並んで行われることとなります。
 隋、唐以後の大勢はアミダ信仰が左右するようになりましたが、ミロク信仰も庶民の信仰の中心としてながく存続することとなりました。

 

2.大乗仏教の伝道者鳩摩羅什
 冒頭の系譜でも示したように、中国浄土教の成立には、中国大乗仏教の成立・発展に大きな影響を与えた鳩摩羅什(344-413)の存在を忘れるわけにいきません。
 鳩摩羅什は『般若経』『法華経』『維摩経』などの大乗経典とともに、『阿彌陀経』の翻訳者であり、中国浄土教成立に大きく関わっています。

2.1.鳩摩羅什の略歴
 鳩摩羅什の略歴は以下のとおりです。(表3)

2.2.鳩摩羅什の翻訳事業とその影響
 羅什の中国における実務的な貢献として翻訳事業をあげることができます。
 姚興王の下での翻訳事業は、羅什が原典を、国王が旧訳をもち、当時の名僧八百余人を集めて、羅什五十三歳の時の四○一年から四○九年の彼の突然の死まで行われました。
 当時中国には多くの仏教が入ってきていましたが、小乗・大乗の区分も、仏教の本質も十分に理解されていなかったのです。

(1)翻訳経典と著作(下表4)

(2)各訳文の影響(下表5)


 智顗の思想は最澄の日本天台を生み、同時に日蓮による法華宗の創立を生むことに繋がりました。   また、禅も般若思想の発展の方向に生じたものであり、その発展には羅什の多くの著作とともに、彼の弟子、僧肇の『肇論』が大きく影響しています。

(3)浄土教への影響
 羅什訳の『大智度論』(龍樹作)にては阿彌陀信仰をしばしば語り、羅什は『阿彌陀経』も訳しています。龍樹の『十住毘婆沙論』の中の「易行品(いぎょうほん)」は龍樹が念仏往生をすすめた証拠と、浄土教の建設者は主張しています。羅什は浄土教の根本経典をこしらえた人でもあったわけです。

2.3.鳩摩羅什の思想と浄土思想

(1)鳩摩羅什の思想
 羅什の思想を考える上で、略歴にみるとおり、彼が女犯(にょぼん)の僧であったという点に注目すべきです。
 例えば、『大智度論』『十住毘婆沙論』は、いずれも龍樹の著作を羅什が訳したことになっていますが、いずれも『法華経』や『維摩経』同様に、煩悩肯定の思想が多くみられます。
 煩悩をたち切っては、かえってさとりは開けない。泥中こそ蓮花は咲き、煩悩の中にこそ、さとりは開かれるという思想があり、両著作にはこれらの思想がみられます。しかも原典はみつかっていません。断定はもちろんできませんが、両著は羅什の作という可能性が多いと考えられます。
 確実に龍樹の著作であるとみられる『中論』などの思想と龍樹作と称される『大智度論』などの思想を比べると、前者では空の思想が否定的に、そして論理的に語られるが、後者では、より肯定的、より存在論的に語られています。
(龍樹の「空」の思想 表6)


 しかし、この論理をすすめると、僧侶の生活、禁欲の生活の否定ともなり、否定の否定を通じて、ふたたび、この現実生活が、弁証法的に肯定されることになるのです。
 老荘思想の研究家福永光司氏は『大智度論』には荘子哲学の影響があると指摘しています。老子の無は、そこから始まり、そこに帰る無、一つの目標であるが、荘子の無は、無とともに行く、人生はいつも無であるというものであるのです。この無は『大智度論』の空思想に似た、積極的な無といえます。

(2) 羅什の浄土教への傾斜
 羅什にとっての浄土教の意味を知る上にも、中国浄土の建設者の一人盧山の慧遠についてみる必要があります。慧遠は羅什と対照的、きびしい戒律生活に裏づけられた、まじめな求道精神それが彼の人生の特徴であったのです。彼は儒教を学んだ人であり、その道徳性を基盤に仏教を学んだのです。(慧遠については詳細を後述します。)
 しかし、このような道徳性への信頼は、羅什が本来もたなかったものであり、彼には一つの執にも見えたのです。その羅什が、『阿彌陀経』を訳し、『十住毘婆沙論』の「易行品」を訳し(又は創作?)したのは何故か?
 それは彼が、自己の内部にある煩悩の激しさを深く知る人であったからでしょう。般若の空観は空であるゆえに彼の深い業障も許されるかもしれない。しかし、あまりに深い彼の業障への絶望が、空の世界ではない世界への憧れ、彼を夢見る人に転化しなかったでしょうか?
 浄土教はまさに業の思想をもっとも深く追求した仏教宗派であったのです。業の自覚を通じて羅什は浄土教への傾斜をもったといえるのです。

3.慧遠の浄土教

3.1.慧遠の略歴(下表7参照)

3.2. 慧遠の浄土教=自力浄土教
 前述のように慧遠の浄土教は、『般舟三昧経』(はんじゅざんまいきょう)に基づいた禅観によるものです。わが国の源空・親鸞の他力信仰とも、魏末の曇鸞(日本浄土宗開創を導く)、唐初の道綽・善導師弟の浄土教とも性格を異にしています。
 『般舟三昧経』により修行を行った廬山の各員は持戒もかたく、教養も高い。般若智へ向って自力によって精神やまざる念仏三昧にはいり、その座で仏を見て疑網を断ち切ろうとするものです。
 これはわが国の浄土諸宗のような他力本願の宗教でなく、男女賢愚全人類の救いをめざす浄土往生教でもなかったのです。

3.3. 『般舟三昧経』とは

(1) 『般舟三昧経』の意義
 それでは、『般舟(はんじゅ)三昧経』とはどういったものか。それは、白蓮社念仏において主にもちいられた経典です。般若思想を踏まえた初期の大乗の浄土経典の一種で、浄土三部経よりやや早く成立したものです。
 十方仏国の現在諸仏を説いて、その諸仏を空智のさとりを求めて真剣に修道するボサツ(さとりを求める人々)が、その修行の場である座を立たずして見ることを得て、親しく法を聞き、疑網(ぎもう)を断ち切りうる禅定地に入る方法を説いています。
 般舟三昧とは、梵語の「プラチェトパンナ・サマーディ」の音訳で諸仏が現前する禅定三昧ということ。「現在仏悉在前立定(げんざいぶつしつざいぜんりゅうじょう、現在する仏がことごとく前にあって立たれる定)」といっています。

(2)『般舟三昧経』の実践方法
 「念仏三昧詩集序」に『般舟三昧経』の実践方法の例をみることが出来ます。(表8)


 「念仏三昧詩集序」は慧遠が念仏三昧を誓った僧俗同志が作った詩を集めたもので、この詩は、禅定三昧を得るもっとも有効な方法が、西方浄土に現存するアミダ仏に心を専注し、想念することであるとしています。慧遠はこの詩集の中で「いろいろな三昧があってその名称も極めて多いが、その中で一番すぐれた功徳をもち実行し易いのは念仏が第一である」と結論しています。

 

 本日はここまでです。
 次回から「第3章 中国浄土教の成立と発展」に入り、次回は「1.中国浄土教の成立―他力本願の浄土教-」「2.曇鸞の浄土教」を取り上げます。

 

 

 

 

 

 

 

 


仏教思想概要8:《中国浄土》(第1回)

2024-01-06 09:19:26 | 08仏教思想8

(神代植物公園・つばき園にて    2023年12月7日撮影)

 

 仏教思想概要8《中国浄土》の第1回目のご紹介です。
 仏教思想概要も中国編に入り、「天台」「華厳」「禅」とみてきましたが、本日より中国編としては最後の「浄土」です。
 先にもご紹介したように、中国仏教においては、「天台」「華厳」が理論仏教、「禅」と「浄土」が実践仏教に分類されます。
 禅とともに実践仏教を担った中国浄土教がどのようなものであったのかを、本日より5回程度に分けてご紹介していきます。

 第1回目の今回は「第1章 中国浄土教の系譜」を取り上げます。

 

 

 第1章 中国浄土教の系譜

 

1.はじめに

『仏教の思想』中国編の最後は、中国浄土を取り上げています。中国天台(法華)、中国華厳、中国禅、そして最後が中国浄土となっています。これまでの中でも述べてきたように、前2者が理論仏教、後の2者が実践仏教となっています。

 理論に基づいての実践という点では、中国禅は先に成立した中国華厳の影響を強く受けています。一方、中国浄土はどうかとみると、中国天台の実践法「常行三昧」の念仏行の影響がないとも言えませんが、思想的には大きな違いがあります。その成立には中国における般若経学中心の仏教の成立、さらには本家インドにおける大乗仏教・浄土教関連仏典の成立まで遡ってみてみる必要がありそうです。

 詳細は後述しますが、本論において対象としている「中国浄土教」の定義についてここで簡単にお話しておきます。

 日本浄土宗開祖の法然は中国浄土教には次の3つの流派があると彼の著書『選択本願念仏集』で述べています。慧遠の「廬山慧遠流」、慧日の「慈愍三蔵流」、曇鸞・道綽・善導の「道綽・善導流」の3流派です。また、広説仏教語大辞典によれば、「古来から中国の浄土教には慧遠流(廬山流)・善導流・慈愍流の三流があるといわれており」、としています。善導流は日本浄土教の基礎となった流派です。
 以上は、ウキペディアなどの記述をもととしたものですが、本文では、「慈愍流」関連の記述は全くありません。慧遠については、中国浄土教の基礎を作った人物としての記述がありますが、本流は、曇鸞から始まる善導流として展開されています。
 また、本文では、「浄土宗」ではなく、「浄土教」という言葉が使われています。法然の浄土宗と区分する意味合いもあるのかもしれませんが、宗派としてではなく、教え=思想として記述が進められていると思われます。思想の本流が必ずしも宗派の勢力図とは一致しないというのは、先の中国禅宗でもみられたことです。

 

2.中国浄土教の系譜

 さて、前置きが長くなりましたが、本論に入る前にまずは、中国浄土教の全体像をつかんでいただく意味で、その成立・発展に関与した主な人物と組織を系譜で示します。(下図1)

 

 今日は短めですがここまでとします。
 次回は「第2章 中国浄土教成立の背景」を取り上げます。