SYUUの勉強部屋:仏教思想概要

勉強中の仏教思想、整理した概要をご紹介しています。

仏教思想概要2:アビダルマ(第4回)

2022-11-21 09:57:55 | 日記

(深大寺(東京都調布市)にて     11月18日撮影)

 

  仏教思想概要2:アビダルマの4回目です。アビダルマ思想の概要の続きです。

 

2.アビダルマの体系Ⅱ

2.1.説一切有部ダルマ理論の基本

 前述のように、五位七十五法の体系は、アーガマの中の無常・無我を説く教説から出発して、それを整備し細分化していったところに成立したものです。したがって、それは縁起-無常-無我の教義と切り離しては考えられないものです。この点がまず、押さえておかなければならない重要な点です。

 さらに重要な点は、有部のダルマ理論は、アーガマが素朴そのものに種類を枚挙してその一つ一つの無常・無我を説いた立場から、はっきり前進している点が挙げられます。以下その点についてみていきたいと思います。

2.1.1.ダルマの語の二つの意味

 ダルマの語は、論書の中ではごく簡単に「“自体を保持する”もの」と定義されているだけですが、自体という語の用例を検討してみると、おおむね二つの意味に理解できます。(下表12参照)

 ここで、後者②が有部独特のダルマの観念を示すものです。

 すべての存在の基本的要素であるダルマは、種類からすれば75種とされ、それらが相互に、多種多様な因果関係を結んでいるのです。その因果関係の上に、流動的に構成されるのが現実の世界であり、それがゆえに、すべてが無常であり、無我なのです。

2.1.2.「一切有」

(1)他学派からの論難

  説一切有部学派では、「一切有(いっさいう)」と主張します。過去・現在・未来の三世(さんぜ、三つの時)のいずれにおいてもいわゆる「三世に実有」であると主張します。
 この主張が、無造作に理解されると、すべてのものが過去・現在・未来の時間を貫いて存在するという考えであるかのように受け取られやすいのです。それなら「諸行無常」の否定ではないかと。過って他学派からそのように論難され、今なおそのように受け取られている場合もあるのです。

(2)説一切有部の立場

 しかし、ここでの「すべてが」とは、素朴にものそのものをさしているのではなく、さきに述べたような存在の基本的要素としてのダルマに関しているので、前述のような論難はあたらないのです。
 三世に実有であるところの存在の要素としてのダルマを考えることは、「諸行無常」を否定するどころか、逆に、そのようなダルマの考えなければ、「諸行無常」の事実を明確にすることはできないと、有部は主張しているのです。
 もっとも、この時、対象となるのは72種の有為のダルマに限定されます。それは、無為のダルマは三世をという時間的あり方を越えているためとしています。

 そこで、まずは有為のダルマについてみていきたいと思います。

2.2.有為のダルマについて

2.2.1.有為のダルマの二つの性質

 有部によれば、有為のダルマのすべてに共通する二つの性質があります。一つは「瞬間性」であり、もう一つは「“三世実有”の性」です。これら二つの性を整理すると以下のようになります。(下表13)

 以上から、何故「諸行無常」かをみてみると、以下のように有部は説いています。

 「有為のダルマは、“三世実有”であるけれども、それが生起して現在にあるのはただ一瞬にすぎない。その現在の一瞬、一瞬が積み重なって、経験の世界における時間の経過を成す。だから、ダルマが“三世実有”であるという場合の三世という時間と、経験的世界の時間、すなわちわれわれが現にその中に生きている時間とは、はっきり区分して考えなければならない。
 ↓
 経験の世界の時間の中で、それぞれの瞬間に生起するダルマは多種多様であり、前後の瞬間でそれらが相異するから、経験の世界は時々刻々変化流動する。
⇒すなわち「諸行無常」なのである。」と。
(事例:映画のメカニズムとの類比 表14)

2.2.2.ダルマの生起とは

(1)ダルマを生起させるもの

 ダルマが未来の領域から現在に生起するのは何の力によるのか。それは、因果関係によるのです。どの瞬間にどのダルマが生起するかを決定するものは、ただ因果の関係以外にはないのです。
 それではダルマの生起の原因になるのは何かといえば、それは「他のダルマ」です。因果関係は、ダルマとダルマのあいだにのみ成り立つのです。
 広義においては、どのダルマにもみずから以外のすべてのダルマを因としているといい、そういう因を「能作因(のうさいん)」といい、その果を「増上果(ぞうじょうか)」と呼びます。

(2)ダルマを生起させる因果関係の大別

 広義の場合はさておき、ダルマを現在に生起せしめるためのもっとも積極的な因果関係をみると、大別して2種あります。それは①因果先にあって果が後に生ずる場合と、②因・果が同時に生ずる場合とです。以下、下表15のとおり整理できます。

(3)詳細分類-六因・四縁(しえん)・五果

 詳細の分類は、六因と四縁と五果の関係と呼びます。六因と四縁の関係は、ともに原因でありそれを、六または四に区分したものです。(下表16-1参照)さらに、六因-五果、四縁-五果の関係を整理し、下表16-2にて示します。

(3)《果を「取る」、果を「与える」》の区分

 有為のダルマどうしのあいだに成り立つ因・果の関係について、もう一つの関係があります。それは、因が果を「取る」ことと、それが果を「与える」こととの区分のことです。
 ここで、両者の区分を整理すると下表のとおりとなります。(下表17-1)

(4) 《果を「取る」、果を「与える」》の状況

 前述の区分において、果を「取る」、果を「与える」が生ずる状況を整理すると以下のとおりとなります。(下表17-2参照)

 A、Bのケースを、六因―五果、四縁-五果の関係に当てはめてみると、以下のように整理できます。(表16-2参照)

 Aの場合:(2)(3)(9)が該当

 Bの場合:(4)(5)(6)(8)が該当

 AまたはBの場合:(1)(7)

2.2.3.説一切有部のダルマ理論の特異性(以上のまとめ)

 以上のように、説一切有部のダルマの理論はずいぶん特異な考え方であるが、そのめざすところはアーガマ以来仏教が力をつくして明らかにしようとしてきたことに変わりはないと言えます。
 ただ、ここでその考え方をたいへん特徴あるものにしたのは、次の二つにあると言えます。

 ①きわめて厳格なダルマの瞬間性の主張

 ②対象のない心はありえないという主張

 ダルマの観念を立てる時に、一定の瞬間の経過を認める立場もあるが、説一切有部においては、きわめて厳格な瞬間性を規定しています。その結果、体験的世界のすべてはまったく一瞬一瞬の意識の内容の連鎖に帰してしまう方向にあるものとなっています。
 対象のない心はありえないということは、ダルマが“三世実有”であることの最大の論拠になっています。この主張は、やはりアーガマ以来の二つの考え方を論拠としています。

 ①「すべては心に導かれ心に統べられ心に造られる」という考え方

 ②六根六境六識の十八界によってすべての存在をつくそうとする考え方

 このことは、アーガマ以来古い考え方を説一切有部的に発展させて、存在の基本的要素としてのダルマの“実有”性の裏付けとしたものといってよいものです。

 

 本日はここまでです。次回は説一切有部の代表的な論書『俱舎論』の思想概要を取り上げ、「仏教思想概要2:アビダルマ」の最終回といたします。

 

 

 

 

 

 


仏教思想概要2:アビダルマ(第3回)

2022-11-14 08:33:46 | 02仏教思想2

 仏教思想概要2:アビダルマの3回目です。前回までの2回で、アビダルマの世界、アビダルマ思想の背景を見てきましたが、今日からいよいよ本論のアビダルマ思想の概要を3回に分けて見ていきます。

 

 

第2章アビダルマの体系-アビダルマ思想の概要-

 

1.アビダルマの体系Ⅰ

1.1. アーガマの論理性「無常」「苦」「無我」と「縁起」の関係

 「すべては無常である」「苦である」「無我である」という主張は、アーガマ経典の中で、このように三つ並列にされて述べられていますが、また、「すべては無常である、無常なものは苦である。苦であるものは無我である」と、無常が苦・無我と根拠づける関係に述べられていることも多くみられます。
 そして、これらの根拠づけには、因果関係、つまり「縁起」の理論により明確な説明が可能となります。つまり以下のように整理できます。(下図3参照)

1.2.ダルマの理論

1.2.1.アビダルマの役割

 以上のように、アーガマの中で、苦・無我は無常に、無常は縁起に根拠づけられていると言えます。そして、その縁起―無常―無我の論理こそ、アビダルマ仏教が忠実にそれを解明しようと努めたところのものであるのです。

 業・輪廻の世界の現実から無漏のさとりの領域に進む仏教の実践システムは、無常、・苦・無我の教説の中に包含される、それを厳密に解き明かすことがアビダルマの任務であると、アビダルマ論師達は考えたのです。
 その中で、説一切有部アビダルマの場合は、「すべてがある」という主張を、一つの理論によって、精密な学説として展開し、このことの論証を成し遂げようと独特の対場をとったのです。この理論を「ダルマの理論」(帝政ロシア末期の東洋学者ローゼンベルク命名)と呼ぶこととします。

 

1.2.2.「ダルマの論理」とは

 それでは、「ダルマ」とは何か、さらに「ダルマの理論」とは何か、以下ⅰ)~ⅳ)と段階をおって説明します。

ⅰ)ダルマの一般的な意味=「法」と訳される
 広くインド思想一般では、法則、習慣などの多様な意味に用いられている。
 仏教語としては、特にほとけの教えた真理、あるいは、ほとけの教えそのものをさして呼ぶのが最も多い用例となっている。
 だが、それとは別に仏教語として独自な、そして重要な用例がもう一つあり、それは、広くもの、事物、存在も意味する場合である。

ⅱ)さらに、単なるもの、存在ではなく、寄り集まった存在を構成する「存在の要素」とも考えられた。

ⅲ)ダルマ理論の基本的考え方
 以上から、経験的世界の中にあるすべてのもの、存在、事物、現象は、複雑な因果関係による無数のダルマの離合集散によって、流動的に構成されると考えた。

ⅳ)説一切有部の「ダルマの理論」でのダルマの種類=75種
 この75種のダルマによって、すべての現象的存在は構成され、75種のダルマにのみ“実在性”を認め、それ以外の現象的存在そのものは、実在性を認めない、というのが説一切有部の立場である。

 

1.2.3. アーガマによる「無常・苦・無我」の説き方

 それでは、ここで、振り返ってアーガマでは、無常・苦・無我についてどう説いているのかをみてみたいと思います。

 無常・苦・無我のアーガマによる説き方は、種々ありますが、「五蘊(ごうん)」「十二処(じゅうにしょ)」「十八界(じゅうはつかい)」による説き方がアビダルマに発展する説き方といえます。
 「五蘊」「十二処」「十八界」(下表10参照)の意味は、いずれも存在の種類で、単純には、「すべて」を表すのに5種、12種、18種に分けて分析してみたと考えればよく、ここで重要なポイントは、これらの、いずれの存在においても、無常・苦・無我であると説いている点です。
 つまり、5種、12種、18種、それぞれの語の意味はあまり重要ではなく、アーガマが述べている本旨は、あらゆるものは無常であり、苦であり、無我であるということ以外にはないのです。

 

1.3.分析的思考の発展

1.3.1.アーガマの世界の分析的思考

 前述のように、アーガマの中では、人間の存在のすべてのものの、「無常」「苦」「無我」が説かれています。そのすべてのものは、「有為(うい)」であると同時に「有漏(うろ)」であるとしています。
(「有為」:すべてはさまざまな因果関係の上に造り上げられているということ、「有漏」:凡夫により欲望され執着されているもの)
 ↑
 これに対して、無常を無常と知り、有為を有為と知る時、それに対する欲望・執着が消滅し、静かな安らかな境地、「涅槃」に転換する、つまり「有為・有漏」→「無為・無漏」への転換が起こるとしています。
 この転換は、本来、内面的な転換であり、涅槃や無為・無漏の存在は無いはずですが、 アーガマでは、有為なもの(有為のダルマ)とは別に無為なもの(無為のダルマ)があると考え、有漏のダルマとは別に無漏のダルマがあると考える、「分析的思考」がすでに存在したのです。(有為と無為を合わせてすべてのダルマ、有漏・無漏を合わせてすべてのダルマと考えた。)

<アーガマにおける分析的思考の例>

ⅰ)「すべてのサンスカーラ(有為のこと)は無常である(諸行無常)」と云うのに対して、「すべてのダルマは無我である(諸法無我)」という。→「無我」は有為、無為すべてのダルマに妥当するが、「無常」は、有為にしかあたらないと区別する考え方がみられる

ⅱ)五蘊と五取蘊の区分:五蘊は有漏・無漏の両方を含み、五取蘊は有漏の五蘊のみを含むことを意味する

 

1.3.2.説一切有部のアビダルマの場合(1)-四諦との関係

 アーガマの中に見える分析的傾向は、説一切有部のアビダルマではいっそうはっきり現れてきます。以下は四諦との関係を図式化したものです。(下図4参照)

 ここで、平常的人間(業と煩悩の世界)の生からさとりの領域に進む「道」は有為でありながら無漏であるとしています。なぜなら、道はなおさとりには入っていないから有為であり、同時にそれは煩悩を離れるから無漏であるとしています。

 

1.3.3. 説一切有部のアビダルマの場合(2)-五蘊・十二処・十八界による分析

 次に、五蘊・十二処・十八界についてみてみます。アビダルマは、五蘊によって表される「すべて」と十二処・十八界によって表される「すべて」とのあいだにもはっきりとした区分を立てます。

 五蘊・十二処・十八界の関係を図式化すると以下のとおりとなります。(下図5参照)

 この図について、少し詳しく説明します。

①五蘊のどれにも無為なものは含まれないが、十二処・十八界の「法」には、無為のダルマも含まれる。
 五蘊の「すべて」は、無為を除いた「すべての有為」。十二処・十八界では、広く、有為・無為を合わせた「すべてのダルマ」

②五蘊の色(色蘊)は、広く物資的存在を意味するが、十二処、十八界の色は五根、五境に限定される

③十二処、十八界では「法」を狭義(「意」の対象=認識、判断、思考、記憶などのあらゆる思いの内容に限定)で用いている

④十二処、十八界では、受、想は行に含めて、狭義の「法」とした

⑤図中にも追記があるが、説一切有部アビダルマでは、色蘊の一部であってしかも法処の中に含まれるものがあるとしている。(「無表業(むひょうぎょう)」と呼ばれる。詳細後述)

 

1.3.4. 五位七十五法(説一切有部のアビダルマ)

 前述の有為・無為・有漏・無漏・五蘊・十二処・十八界という部類分けは、いずれもアーガマ以来のものですが、それにさらに説一切有部では独特の「五位」の範疇をアビダルマに加えます。

 これは蘊・処・界の部類分けの中で、行蘊や法処・法界の部分をいっそうこまかに観察した結果です。五蘊、十八界、五位、それとそれぞれに含まれるダルマの関係を一覧にすると下表11のように整理できます。

 この図表について、少し詳しく説明します。

①非常に広い意味に理解されている行蘊を二つに「心相応(しんそうおう)」(心作用)と「心不相応(しんふそうおう)」に大別する。
 「受蘊」と「想蘊」も心作用であるが、すでに蘊として立てられているので、「心相応」は、それらを除いた他のすべての心作用を意味する。「心不相応」は、物でも心でもなくて、それらのあいだの関係とか力というような特殊なものを意味し、有部独特の考え方の所産である。

②「心相応行」と「受蘊」「想蘊」を加えた心作用を十八界では「心所(しんじょ)」と呼ぶ。

③有部独特の五位は、五蘊の色蘊と、上記の心所、心不相応行、そして、心(しん)、無為を含む。

④五位のうち、「色」には11種、「心」には1種、「心所」には46種、「心不相応行」には14種、「無為」には3種を数える。合計75種のダルマを認める。つまり、五位七十五法である。

 

 本日はここまでです。次回はアブダルマの体系Ⅱを見てみます。

 

 

 

 

 

 


仏教思想概要2:アビダルマ(第2回)

2022-11-07 08:49:09 | 02仏教思想2

 仏教思想概要2の2回目です。

 前回は、主にアビダルマの発展の歴史を見てみました。今回はアブダルマの世界観を中心にご紹介します。

 

 

3.アビダルマの宇宙観

3.1.宇宙の創造者

 ここでの自然観、宇宙観は、アビダルマ仏教独特のものというより、むしろ仏教に取り入れられ、仏教思想に裏付けられた古代インドの一つの自然観・宇宙観とみるべきものです。

 はじめに、天地開闢(かいびゃく)のことからみてみます。『旧約聖書』でも『古事記』『日本書紀』でも、神による天地創造からスタートします。しかし、仏教においては、自然界の神などの絶対者、超越者といった造物主はいないのです。
 『倶舎論』によれば「サットヴァ・カルマン」によって生まれたとされます。
 サットヴァとは、「有情」または「衆生」つまり、この世に生命をもって存在するもの。カルマンとは、「業」つまり、行為、動作を意味します。つまりサットヴァ・カルマンとは、生命あるものの行為、生命体の生活行動となります。
 それでは、自然界はどのように創造されたのか。仏教では、自然界の前に生命体が存在し、生命体により自然界が生み出されると考えます。
 それでは、生命体はどう創造されたのかというと、広大な宇宙空間で、すでに存在する別の自然界があり、そこのサットヴァがカルマンの力で自然界を成立させるという考え方をとるのです。

 

3.2.宇宙の創造手順と消滅

 宇宙の形成は『俱舎論』によれば、次の手順に整理できます。

①はじまり:なんの存在もない広く虚しい空間に、サットヴァ・カルマンの力がはたらきだし、“微風”が吹き起ることから始まる。
②「大気の層」の生成:風が空間の中で密度を増し、円盤状の堅い「大気の層」を造り上げる。
③「水の層」の形成:大気の層の上に積層される。サットヴァ・カルマンのはたらきで、大気の層の中心部の上空に、雲が凝縮され、激しい雨となり積層される。しかも、サットヴァ・カルマンの風の力が周囲を垣根のように取り囲んで、水の層は左右に流れない。
④「黄金の層」の形成:水の層の上層七分の二はサットヴァ・カルマンの風の力で、黄金の層となる
⑤自然界の完成:黄金の層の表面が大地で、山や河が形成される。
⑥生物(「有情」(サットヴァ))の発生。
ⅰ)天の神々(天人、天女など)ⅱ)地表世界の人間・動物 ⅲ)地下の世界=地獄のサットヴァ
・宇宙の形成期間:二十アンタラ・カルパ(約三億二千万年)
 自然界の形成=1アンタラ・カルパ、生物界の形成=十九アンタラ・カルパ
・形成された世界の持続期間:二十アンタラ・カルパ
・世界破滅の期間:二十アンタラ・カルパ、その順序は、形成の順序とは逆で、地獄の生物の破滅からスタートし、虚しい空間に戻る
・虚しい空間の期間:二十アンタラ・カルパ
 ↓
 つまり、大自然の生滅のサイクルは、4×20アンタラ・カルパ=約十二億八千万年。これを「1マハー・カルパ」という
(仏教の宇宙のイメージ図1)
 

 

3.3.大地の世界=スメール世界

 大地(黄金層の表面)の世界は、スメール山(音写で、「須弥(しゅみ)」、訳して「妙高山(みょうこうさん)」)を中心とした下図のような構成となっています。これが、一つの自然界の単位で、仮にスメール世界と呼びます。(下図2参照)

(上から見た平面図)
 

(縦に切った断面図)
 

・小千世界:千のスメール世界
・二千世界(中千世界):1000個の小千世界
・三千世界(三千大千世界):1000個の二千世界=十億個のスメール世界=宇宙の総体
 各スメール世界は十二億八千万年周期で、生滅を繰り返している。1年ごとで1個のスメール世界が生滅していることになる

 

4.アビダルマの人間観

 以上、アビダルマの宇宙観を見てみましたが、アビダルマ哲学の主要な関心は、宇宙や自然界それ自体にあるのではなく、その中に生まれ死ぬいのちある者、すなわち有情(うじょう、サットヴァ)の上にあるのです。
 ここでは、アビダルマの示す有情一般の外面的、「生物的」なあり方を、さらにはその内面的、「精神的」あり方を見ていくことにしたいと思います。

4.1. 有情の外面的あり方-三界・五趣・四生

 アビダルマに説かれている有情の外面的なあり方は、ほぼ「三界(さんがい)」「五趣(ごしゅ)」「四生(ししょう)」に集約されると言えます。

 三界とは、以下(表8)のように「欲望」「物質」の存在状態を区分した世界です。

 ここで、当然ながら、欲界よりも色界、色界よりも無色界のほうが、よりいっそうすぐれた存在のしかたであり、その場所(地下、地表、天界)も上下関係があります。
 それぞれの場所には、それぞれの生活があり、これを「五趣(ごしゅ)」(地獄、餓鬼、畜生、人間、天)と呼びます。五趣は、時に「阿修羅(あしゅら)」を加えて「六趣」または「六道」と数えられます。

 有情は、五趣(あるいは六趣)のいずれかに属して生きています。やがて死ねば、このいずれかに生まれます。地獄から天へ、天から地獄へということもあり、天の神々もその寿命は永遠ではなく、五(六)趣のどれからどれへと生死の輪は廻ってやまないのです。

 そこで、「四生」とは、このように有情が輪廻していろいろな境涯に生まれ出る、その生まれ方の種類を分けたものです。
 ①胎生(たいしょう)
 ②卵生(らんしょう)
 ③湿生(しっしょう):湿気から生まれる意味(ウジ虫、ボウフラのように)
 ④化生(けしょう):忽然と生まれること

 以上、「三界」「五趣(六趣、六道)」「四生」の関係を整理すると以下のとおりです。
(下表9参照)

 

4.2. 有情の内面的あり方-その1「業」の理論

 それでは、外面的あり方である有情の輪廻的存在の生ずるもとは、何であるのかと言えば、アビダルマ論師たちは、明言します。それは「有情の行為(カルマン=「業(ごう)」)のいかんによる」、いわゆる「因果応報」であると。

 ただし、アビダルマ的には、因果応報とは呼ばず、以下のように呼びます。
「善因楽果(ぜんいんらくか)」:善の行為が原因で、その者にとって、好ましい安楽な結果が生ずること
「悪因苦果(あくいんくか)」:悪の行為が原因で、その者にとって、好ましからぬ結果が生ずること

 また、注意が必要なのは、「業論」は「宿命論」とは違う、ということです。
 その論拠は、以下のように整理できます。

①過去の業が現在の境遇を決定しているのと同様に、現在の業は将来の境遇を決定する。
 →業論を宿命論とみるか、逆に、明るい未来の開拓に向かわせる論拠としての、道徳的勇気の源泉とみるかは、全くその人による。
②業が有情のあり方の全てを決定するものではない。業とその結果の関係は、無数の多様な因果関係の一部分にすぎないから。
→業の報いは一面において拒否できないが、それが人生の全面、全生涯を決定的に支配しない

 さらに、業に対するもう一つの批判的見解として、仏教の無我説と業論の矛盾に対するものがあります。
 当然、仏教では「我」という輪廻の主体を認めていません。したがって、輪廻を認めるはずもありません。この点では、アビダルマも全く同じ立場に立ちます。
 善行が行われたときは、好ましい報いが必然に得られなければならない。悪行が行われたときは、好ましからぬ報いが必然に得られなければならない。アーガマに言われるように、「何人も他人に向かってその善悪を判断しえない」し、全知の神というようなものがどこかにいて人の善悪を審判してくれるわけでもないからです。

 アビダルマでいう輪廻の世界は、人間の平常的生の世界=道徳的な善悪の世界であって、このことは、業・輪廻の世界を究極のあるべき様相とは考えないし、輪廻の主体を認めるものでもないのです。→道徳律への畏敬であるといえます。
 功徳を積んで天などの好ましい境遇に生まれても、それは依然として輪廻の世界の中の話で、輪廻を越えた解脱の世界に出ることでは無いのです。

4.3. 有情の内面的あり方-その2「煩悩」の世界

 業が輪廻的生存を結果するときは、必ず煩悩を伴うといいます。
 「煩悩」とは、「心を煩わすもの、心を悩ますもの」、「心のけがれ、よごれ」、「人間の心がもつ悪いはたらき」のことです。さらに、アビダルマ的には、「悪い」作用に限らず、善くも悪くもない「中性」の心作用(中性であるが、正しい知恵の起こるのを妨げる)もあるとし、ただ、「善い」心作用である場合はないとしています。

 ところが、業が輪廻的な結果を起こすのは、「善い業」の場合もあります。それは、善因楽果もあるからです。では何故、「必ず煩悩を伴うのか」ということになります。
 その答えは、「有漏」という考え方によるのです。
 「有漏」とは、原語(サ・アースラヴァ:煩悩の意味)、「六根から漏れ出る」=「煩悩をもつもの」を意味します。
 凡夫の世界では、すべての存在が「煩悩の対象(厳密にいえば煩悩である「*心作用」とあい伴う「*心」)となり、あるいは煩悩をあい伴う」のであり、つまり有漏であるわけです。(*「心作用」「心」については詳細後述)
 さらに、ほとけそれ自体をを対象とした場合も人は煩悩を伴います。(但し、ほとけ自体は、さとりの領域に属するものであって「有漏」では無い=「無漏」です。)
 したがって、厳密には、「有漏」とは、それらが煩悩の対象となり、あるいは煩悩をあい伴うと同時に、煩悩がそれらの上に力を持ち、それらをけがす様なものであると定義できます(煩悩がほとけの上に力をもちけがすことはないから)。
 つまり、業・輪廻の世界に属する限りにおいては、全ての存在は、「善い」ものも、「中性」のものも、「悪い」ものも、そのような意味で有漏であるわけです。
 したがって、アビダルマ的に表現した平常の人間の生の世界では、「有漏」、「凡夫の世界」、「三界の輪廻的存在」「苦」は同意義であり、善悪の世界であり、迷いの世界であるわけです。

 しかし、迷いの世界は人間のあるべきすがたではありません。アビダルマにおいても、この迷いの世界から超出し、究極の真実のさとりの領域に至るべきことを説いています。但し、説一切有部アビダルマの場合、それを説き明かす基礎に独特の理論をもっています。

 そこで、次章以降でその理論の綱格(主要な論点といった意味合い?)に触れてみたいと思います。

 

 今日はここまでです。次回からいよいよアビダルマの本論・思想概要に入ります。3回ほどに分けてご紹介します。